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近況メモ(平成一七[二〇〇五]年五月〜六月)

 

平成一七(二〇〇五)年〜「新緑の黄金週間」から「白鳥路の蛍」へ

 

五月七日(土)雨のち曇り

  黄金週間はいかがお過ごしでしたか? 新緑のまばゆい良い季節ですね。小生は、妻や娘と、実家のある愛知県やここ金沢を中心とした北陸地方を旅して巡る一週間を過しました。4月26日の小生の誕生日には、娘からこんなメールをもらいました。

「49回目の誕生日おめでとうございます。50歳の節目手前の一年、日々達成感の連続でありますように。ただ行楽に行くだけではない、学びの場としての家族旅行は、私に大きな影響を与えています。考えを形にして発信するお父さんの行動力にも、影響を受けていると感じます。くれぐれも体に気を付けて(あまりお菓子を食べ過ぎず)、味わいのある一年を過ごしてください。」

  さて、まず連休初日の4月29日は、小生は金沢から、妻と娘は東京から、それぞれ実家を目指し名古屋駅で集合し、豊田市の実家へ帰省しました。実家近くの畠に、山鳩や椋鳥に混じって雉(きじ)の番(つが)いが居るのを発見しました。今回家族が集まったのは、父母が今年結婚50年の金婚式なのと、父が77歳の喜寿を迎えたことをお祝いするためです。当初は北陸の山中温泉でやる予定だったのですが、しばらく前に母の体調が悪くなり、実家の近所の寿司屋でやりました。

  翌30日は、実家から30分ほどで行けるというので、「愛・地球博」へ出かけました。一番印象に残ったのは、やはり、今回の呼び物である冷凍マンモスでした。皮と毛の残るその頭部は想像していたより巨大で、まるで生きているかのように生々しく、今にも目を開きそうでした。ロシア館にはこれとは別にマンモスの骨が展示されていましたが、こちらはうんと小型のマンモスで、巨大な牙を別にすれば普通の象の骨とさほど変わらない印象でした。ほかにも漫画映画「となりのトトロ」の「さつきとメイの家」のセットを眺めたり無人走行バスに乗ったりと、とにかくよく歩きました。万博を後にして、我々三人は、夕方、名古屋市内にある、かつて東海銀行の頭取を務めた鈴木享一氏の邸宅だった「暮雨巷(ぼうこう)」を見て、その日のうちに特急「しらさぎ」で金沢に移動しました。実は、鈴木享一氏が小生の遠縁の方であるらしいことがわかったため、その事蹟を調べようとしたのですが、インターネットでは旧鈴木邸が今ではお茶会などが催される「暮雨巷」という建物群になっていることくらいしかわからず、とりあえず金沢に移動する道すがら立ち寄ってその旧宅を見学したというわけです。外からしか見ることができませんでしたが、立派な大邸宅でした。この東海銀行トップだった遠縁の方の事蹟を一度きちんと調べてみたいと思っています。

      
        新緑の季節                万博にて:さつきとメイの家           万博にて:ロシア館のマンモスの骨

  明けて5月1日は、昨秋開館した金沢二十一世紀美術館を見学しそこでブランチをとりましたが、娘はこの現代美術館の建物や中の企画がいたく気に入ったようで、今度は友達を連れてくると言っていました。午後は、二十一世紀美術館から徒歩10分ほどの石川県立能楽堂で金沢定例能があり、これも見に行きました。この日のプログラムの冒頭に、前座として、我が薮俊彦先生の社中メンバーによる素謡「雲林院」があり、小生もあつかましくも地謡で出演させていただいたのです。

  能が引けた後、加賀前田家御用達の古い酒屋「やちや酒造」へ行って酒蔵を見学しました。ここの建物は江戸時代からのもので、内部の黒々とした太い柱が印象的です。お店は、昔の街道の面影を色濃く残す旧・北国街道に面しており、道に向けて柱をわざわざ少し傾けてあります。ご当主のお話では、これは、お客様に頭を下げる姿勢を示すためとのことで、商人として立派な心構えだと感心しました。

 

五月八日(日)薄曇り

  連休中の旅行記の続きです。5月2日は休暇をいただき、小生の好きな「白峰越え・奥越前」のコースへ家族を案内しました。まずは金沢から南へ一時間半ほどの、白山麓の白峰村へたどり着き、さっそく「御前荘」の温泉に浸かります。ここの温泉はぬめぬめした感触のお肌に良い湯で、風呂場から未だ雪消えぬ白山を眺望できました。その後、村の中央にある林西寺というお寺で、白山信仰の基礎を築いた泰澄大師ゆかりの仏様たちを拝みました。昼に山里の名物、栃の実の入ったぜんざいをいただき、そのお店で教えてもらった水芭蕉の群生地へ向います。それは、白山への登山口である市ノ瀬に向う途中の「根倉谷湿地」というところで、一面の水芭蕉はちょうど花盛りでした。小生も家族も初めて見る水芭蕉の群れの清楚な美しさに感激です。

      
白峰村                      水芭蕉の群生                       同左

  白峰から石川・福井の県境の峠を越えて奥越前へ入り、平泉寺にたどり着きます。平泉寺については一昨年秋に一度記しましたのでご覧ください(平成15(2003)年11月3日付「近況メモ」)。巨大な杉並木と苔の緑が見事な、神仏習合した寺院の一種の「廃虚」ないし「遺跡」と見るべきでしょう。観光地化していないため、落ち着いて散策できるのも好きです。この日も小生たち以外にはあまり人はおらず、西洋人の留学生(?)の娘さんを案内していた地元の(?)若い男性が小川の石をひっくり返して沢蟹を探し当てていた姿が印象的でした。今回たまたま司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズに「越前の諸道」があるのを発見し読んでみると、この平泉寺のことも記されていました。今回の旅行は、この「街道をゆく」シリーズの「越前の諸道」におおいに啓発されました。その日宿泊したのも、そこで紹介されていた勝山の「板甚」という江戸時代から続く和風旅館にでした。立派な別棟の料亭や蔵座敷を改造した部屋で夕食や朝食をいただく贅沢を味わわせていただきました。また、久しぶりにホテル形式でない日本旅館に泊まり、懐かしい気分も十分味わいました。この日の宿泊は我々以外には若いカップルが一組だけでした。先の平泉寺でもこの板甚でも、こうした古いものに関心を持つ若者がけっこう居ることがわかり、司馬遼太郎のような、歴史を興味深く語る「語り部」の存在がいかに大切か、実感した次第です。

  翌5月3日は、朝、勝山から大野に行き、大野の街を散策しました。越前大野は、織田信長の部将、金森長近が築城した大野城の下に広がる城下町で、戦国時代に都市計画された碁盤目状の古い市街地が現代でも原形を留めてよく整備されており、美しい町です。ちょうど七間通りでは恒例の朝市も開かれており、山間の落ち着いた町の風情が心に染みました。さて、大野の市街から12キロほど山に分け入ったところに「宝慶寺(ほうぎょうじ)」があります。この寺のありように小生はいたく感動しました。長くなりますので、別途「宝慶寺参拝記」に記します。ご覧ください。

      
    平泉寺境内                      宝慶寺山門                     宝慶寺に咲く沙羅双樹

  その後、小生たちは永平寺に参詣し、再び山路を加賀の山中温泉へと貫けました。永平寺も宝慶寺と同じく曹洞宗の寺ですが、こちらは有名になりすぎて、修行の場であるとともに観光名所にもなっており、この日は門前も境内も大変な賑わいでした。でも、訪れる人の多くが単に大伽藍を見学するだけでなく、開祖・道元の御真影を拝むために黙々と列を待っていたり、観光客に寺の説明をしていた若い雲水が「ご案内も修行のうちと心得ています。」と言っていたりしたのには好感が持てました。山中温泉では総湯に浸かって疲れを癒しました。ここのお湯は先の白峰のお湯と違ってさらさらの感触でした。また、山中漆器の展示即売会をやっていたので、ちょうど古くなっていた家族の日常用のお箸やお椀を買い、夜遅く金沢に戻りました。

  そしていよいよ旅行最終日の5月4日は、能登へ向いました。まず和倉温泉で一服して温泉に浸かり、おいしい寿司をいただきました。この温泉も比較的あっさりした肌合いでした。全国的に有名な旅館「加賀屋」にも立ち寄りましたが、一階ラウンジからの内海の眺めが素晴らしく、内部の施設も上品な豪華さです。また、仲居さんたちが勢揃いして玄関でお客様を送り迎えする姿にも接客への「こだわり」が感じられました。和倉はもともと、海辺に温泉が湧いたことから「湧浦(わくら)」の名前がつけられた由、こちらの漢字の方が雰囲気は出ていますね。

  和倉温泉を後にして、古代に能登の国府が置かれ、また中世には畠山氏の城下町として栄えた七尾に向います。ここの石川県立七尾美術館で長谷川等伯展が開催されていて、特に国宝「松林図屏風(しょうりんずびょうぶ)」が呼び物になっています。長谷川等伯は狩野派とともに桃山時代を代表する画家で、七尾の出身です。展示会でいろいろな作品を眺めると、仏画から中国風の山水画まで、等伯のレパートリーはかなり広かったようですが、「松林図屏風」はその中でも特異な作品です。表現が非常にモダンで、現代絵画としても通用するような作品です。海辺に立っていると思われる数群の松林が、墨の濃淡の妙を尽くして一気呵成に描かれています。霞に霞んでいるようにも見え、雨に打たれているようにも見え、また、一瞬の風に吹きつけられて揺らいでいるようにも見えます。見方によっては、等伯自身の何らかの心象風景を表わしているようにも見えます。それは京で活躍した彼の寂寥感とも能登への郷愁とも思えます。この絵を描いていた時、職業画家としての長谷川等伯は意識から消え失せ、ひとりの人間としての孤独な魂がこの絵を描かせたようにも思えました。ただ、等伯はあくまで桃山時代の人であり、あまり近代人的な自意識で解釈するのは間違っているかもしれません。

 
長谷川等伯「松林図屏風」(石川県立七尾美術館HPより)

  美術館を出て街に入ると、その日は青柏祭で賑わっていました。青柏祭は七尾の大地主(おおとこぬし)神社の初夏の例祭で、「でかやま」と呼ばれる巨大な山車が三台、町の中心街をねり廻ります。「やま」の上には歌舞伎のワンシーンが人形で描かれており、子供たちが乗っています。「やま」の先頭には、古来からの謡を謡って調子をつける五人衆が乗っています。山車を近くで見るととにかくでかい! 動き出すとまさに山が動いたような迫力で、特に、辻で山車をを90度回転させる「辻回し」はど迫力の瞬間芸です。見ている観衆も、「やま」がうまく動くと大喜びで、次第次第に祭りに参加しているような気分になります。ああ、これが祭りの浄化作用なのだ、と感じます。七尾の町の人々の、いや、全ての人々の、日常生活で積もりに積もった心の塵芥(ちりあくた)を押し流し、浄化しながら「やま」は進みます。参加する皆が共同体を取り戻し、魂を浄化し、再び日常生活に回帰するエネルギーを得るのが祭りなのです。この青柏祭が今回の家族旅行のフィナーレになりましたが、旅行期間中、愛知県でも北陸地方でも、あちこちで田植えの光景が見られ、祭りとともに初夏という季節を強く感じた旅でした。

      
加賀屋のラウンジから見た日本海の内海       青柏祭の巨大な山車(前から)        青柏祭の巨大な山車(横から)    

 

五月二一日(土)快晴

  週末に東京に出張したついでに、先月に受診した人間ドックの結果を聞いたり、劇団四季の「自由劇場」で福田恒存作の喜劇「解ってたまるか!」を観たりしました。人間ドックの結果は特に大きな問題はありませんでしたが、総コレステロールが基準値より少し高く、動脈がやや硬くなっているとのことでした。医者からは「運動不足ではありませんか?」と言われました。小生は、日頃、風呂上りに軽くストレッチをしたり、天気のいい日は帰りの通勤で歩いたりしています。オフィスから我がマンションまで歩くと25分くらいかかりますが、東京の通勤事情を考えると天国のような環境です。ですから、まだまだ運動不足のようですね。

  喜劇「解ってたまるか!」は、昭和43年以来37年ぶりの上演だそうです。当時起こった金嬉老事件(金嬉老という男がライフルを武器に温泉旅館に16人の人質を取って立てこもった事件)をモデルに、左翼的進歩派知識人と左翼シンパのマスコミのあり方を痛烈に批判した作品です。警察に対しては傲慢な態度をとりながら、特ダネを取れるとなると、肩を揉んだり鯛焼きを差し入れたりしてライフル魔の犯人のご機嫌をとる新聞記者たちや、実は犯人を軽蔑しているのに、自分が正義漢で進歩的であることを証明したいがために犯人の境遇に同情を寄せるポーズをとる学者、弁護士、劇作家、作家のグループの姿が、皮肉たっぷりに面白おかしく描かれています。ライフル魔の犯人はこれらの進歩派たちを徹底的に叩き嘲笑しますが、彼の発言は、実は、進歩派たちの論理の矛盾を鋭く突き、その甘さや偽善性を完璧に暴いているのです。舞台は人質事件の現場、切迫した緊張感の中で爆笑を誘う喜劇が展開する、というわけです。浅利慶太氏による演出はなかなかよくできていたと思います。この作品は喜劇仕立てになってはいますが、進歩派の幼稚な世界観・人間観への福田恒存の怒りと癇癪が、小生にはとても生々しく感じられました。演劇や小説では、作者が、登場人物の誰かに自分自身を投影しているものですが、この喜劇の場合は、明らかに福田氏は犯人に自己投影しています。

  小生、劇場でナマの演劇を観るのはずいぶん久しぶりのことでした。この日の自由劇場はほぼ満席の盛況で、特に若い女性が多いのは驚きでした。小生は現代の俳優・歌手・芸能人の類については全く無知なのですが、この日の犯人役の主演男優はなかなかイケメンでしたから、彼を目当てに来ていた女性が多かったのでしょうか。ちなみに昭和43年の上演時の主演は若き日の日下武史さんだったそうです。いずれにせよ、こうした若い女性たちを含め、この日の観客がこれをきっかけに福田恒存の著作を読んでくれるといいな、と思いました。

  さて、明日は「篁宝会(こうほうかい)」の春の大会が能楽堂であり、小生も仕舞や謡で何番か出番をいただいています。稽古はそれなりにしてきたつもりではありますが、まだ少し集中力を欠くととんでもないミスをしかねません。平常心で望みたいと思います。

 

六月四日(土)曇り

  金沢はようやく蒸し暑い梅雨の季節に入りました。でもまだ朝夕は涼しくて、背広を着ていてちょうどいいくらいです。さて、今週日曜日に、石川県立美術館で開かれている「弘法大師空海 その信仰と名宝展」という催しに出かけました。これは、空海が唐に留学して千二百年になるのを記念して、空海の開基した高野山に伝わる文化財の数々が公開される展覧会で、加賀前田家が墓所を高野山奥の院に持っているなど北陸地方と高野山の深い縁から、金沢にもやって来たというわけです。展覧会では、国宝六点、重要文化財二十八点を含む八十点の文化財が公開されていました。これだけの高野山の寺宝を一度にまとめて拝見できる機会はそうなかろうと、楽しみに出かけました。その中から、小生の心に残った名品を紹介しましょう。

  はじめのカテゴリーとして、空海ゆかりの品々から。まず、会場入り口におわします木造彩色「弘法大師坐像」(室町時代)。大師の聡明そうな涼やかな眼差しと穏やかな表情がなんとも印象的です(添付した展覧会のパンフ左下の写真が「弘法大師坐像」です)。大師二十歳代の直筆の文章「聾瞽指帰(ろうこしいき)」(平安時代)は、「弘法も筆の誤り」という言葉があるくらい偉大な書家でもあった大師の若い頃の著作。解説書によれば「四六駢儷体を駆使して戯曲風に綴られた文章には、中国文学の参考挿入が多く見られるなど、若き空海の並外れた文才と修学ぶりが遺憾なく発揮されている」とのことですが、無学の小生には手におえない漢字の羅列でした。が、その筆跡は雄渾でしかも柔らかく、迷い無く一気呵成に書かれたものであることは感得できました。大師が唐から持ち帰ったという「諸尊仏龕(しょそんぶつがん)」(中国唐時代)は、白檀材で作られた高さ二十センチほどの開閉可能な仏龕で、内部に数多くの仏様が彫刻されています。仏様たちは非常に繊細優美に彫られており、唐時代の中国の仏教芸術の水準の高さを感じました。

  二番目のカテゴリーとして、空海によってもたらされた真言密教に関連する美術品の数々から。はじめに「金銀字一切経」(「中尊寺経」とも呼ばれます)(平安時代)。中尊寺建立の供養のため、奥州平泉の藤原清衡が発願して作られた一切経の一部が高野山に伝わったものです。紺紙に銀の枠線を引き、一行おきに金字と銀字で書写された美しい経です。今回展示されていたのは一切経のうち「大般涅槃経」という仏典の一部ですが、この経典は、ブッダ晩年から最期(涅槃と言います)に至るまでの事跡を描いたもので、非常に人間的なブッダの姿が生き生きと描かれており、小生の愛読する仏典です。この「大般涅槃経」は、中村元先生の現代語訳で岩波文庫から「ブッダ最後の旅」と題して出ています。平安時代の人たちもこの経典を読んでブッダの最後の旅に思いをはせたのかと思うと感慨深く、美しい楷書体の金銀の漢字の羅列を何とか読み解こうとしましたがダメでした(苦笑)。「白銅平錫杖」(鎌倉時代)は、長さ四十センチほどの白銅製の錫杖です。錫杖というのは、修行僧が山野の修行中に毒蛇などの害から身を護るために鈴のような音を立てながら歩くための杖のような形をした道具です。他にも密教法具が何点か展示されていましたが、いずれも力強さの中に繊細な均衡感を持った美しい形をしていました。このうち「金銅三鈷杵(こんどうさんこしょ)」について、修行者の模範である「阿闍梨(あじゃり)」の称号をお持ちになる、金沢在住の玉作貞雄さんが、次のようなエピソードを地元紙「北国新聞」で語っておられたのが印象的でした。曰く、

 「白山での山岳修行を始めてすぐの時期、風の音や虫の声、したたる水の音がするたびに、何か目に見えないものが襲って来るように感じ、恐ろしくなりました。おびえる私を勇気付けたのがこの三鈷(さんこ)という法具でした。三鈷を握っていると、外界の音が気にならなくなり、見えないものへの恐れも消えていきました。白山の自然が私を脅かすのではなく、守っているということを実感することができたのです。(中略)三鈷は行者の心の中に巣食う恐怖を切り払うための『武器』なのです。」

  木造漆箔「大日如来坐像」(平安時代)や絹本著色「大日如来像」(鎌倉時代)、絹本著色「両界曼荼羅図(りょうかいまんだらず)」(室町時代)といった彫像や絵画は、密教独特の神秘を感じさせる品々で、特に色彩の見事さに心惹かれました。木造彩色「八大童子立像」のうち「制多加童子立像」と「恵光童子立像」(いずれも鎌倉時代)は、有名な仏師、運慶の作です。これら童子は不動明王に随侍する少年姿の神々ですが、その肉付きの立体感、顔の向きや腰の構えの自然な力感、装束の流麗感など、見事な写実です。制多加童子も恵光童子も凛々しい顔立ちの少年ですが、小生は、恵光童子の、悪い輩をぐっと睨みつけているようにも、また歯を食いしばって自らを奮い立たせようとしているようにも見える、その丸顔に、震えるほど惹かれました。木造彩色「孔雀明王像」(鎌倉時代)、木造彩色「四天王立像」のうち「多聞天立像」と「広目天立像」(いずれも鎌倉時代)の三点は、もうひとりの仏師の巨匠、快慶の作です。「孔雀明王像」は非常に均衡の取れた美しい像です(添付した展覧会のパンフ中央の写真が「孔雀明王像」です)。一方、仏法を守護する神々である多聞天と広目天は、今にも動き出してこちらに押し寄せてきそうなリアリスティックな迫力に満ちた立像です。甲冑を結ぶ紐にいたるまで的確、繊細に描かれ、快慶の力量をいやがおうでも感じさせる無類の作品です。絹本著色「阿弥陀二十五菩薩来迎図」(室町時代)は、私たちの死に際して、阿弥陀様が極楽から迎えに来るところを描いた絵です。阿弥陀様は、二十五人の菩薩たちを率い、雲に乗って私たちを迎えに来ますが、菩薩たちは手に手に琵琶や笛や鞨鼓を持って音楽を奏でています。阿弥陀様が管弦の音楽とともに現れるという、うっとりするような絵です。

  三番目のカテゴリーとして、戦国時代や江戸時代に武将たちが高野山に寄贈した名品の数々があります。ここでは、日本史の教科書などでおなじみのさまざまな肖像画に出会えました。近江の浅井久政・長政父子、長政に嫁いだ織田信長の妹で悲劇的な生涯を送ったお市の方(切れ長の目で鼻筋の通った美人です。色白でほんのりと頬が紅く描かれていることが実物の肖像画を見てわかりました)、晩年の豊臣秀吉、信州の真田昌幸・幸村父子などなど。しかし絵画としての出来映えという点では、長谷川等伯の描いた武田信玄像が群を抜いていました。ゆったりと構えた信玄の姿からは風格と威厳がにじみ出、鋭い眼光や装束の文様は繊細かつ写実的に描かれていました(なお、以上ご紹介した名宝たちの何点かは、高野山霊宝館でご覧いただけます)。

 

六月一二日(日)曇り

  先週は体調を崩した一週間でした。日曜の朝から下痢がひどく元気が出ません。火曜日に医者に診てもらい、疲れと寝冷えから来る神経性の下痢ではないか、ということで、薬を飲みながら会社に通いました。夜会合がいくつかあったりなかなか忙しい週でしたので、乗り切るのが大変でした。確かに先月は酒量が増え夜更かししすぎるなど、体に無理をさせていたな、と反省しきりです(^_^;)。それでも週末には体調もだいぶ回復しましたので、東京に出張したついでに、6月10日のオーケストラ・リベラ・クラシカの演奏会に出かけました(会場は浜離宮コンサートホール)。そのときの感想を私の音楽鑑賞メモ(二〇〇五年)に記しましたので、どうぞご覧ください。

 

六月一八日(土)晴れ

  先週末、金沢では恒例の「百万石祭り」が催されましたが、雨のため、利家行列や踊り流しは中止になったようです。昨年は小生、高校時代の同窓会と踊り流しへの参加が重なって、岡崎の同窓会場から金沢の百万石祭り会場に駆けつけ、職場で参加した踊り流しに間に合ったのですが、あれからもう一年とは早いものです。今年はちょうど東京に出張しており、祭りの最終日の去る日曜日夜に催された薪能だけ拝見しました。薪能は広々した金沢城址公園で行われ、「加賀宝生子供塾」で能を習っている子供たちの仕舞などが披露され、そのあと地元の能楽師の皆さんによる仕舞、舞囃子、狂言、能が華やかに演じられました。

      
金 沢 城 址 公 園 で の 薪 能 の 風 景  ( 左:開始前   中:仕舞「半蔀」  右:能「葵上」  )

  薪能がひけた後、白鳥路を通って帰ろうとすると、大勢の人が白鳥路に集まっています。さて何かあるのかと立ち寄ってみると、「蛍観賞中」の看板が掛かっています。「こんな町の真ん中に蛍がいるのか?」と訝りながら白鳥路に沿った用水路を覗くと、緑色の明滅がゆらりゆらりと水から木々へと上がってゆきます。何と、ここには本当に蛍が棲息しているのです。明滅の間隔が長く空中をゆらりゆらりと飛ぶ源氏蛍と、明滅の間隔が短く水面近くに生息する平家蛍の両方がいます。ボランティアの案内役の方のお話では、昔は数え切れないくらいの蛍が居たそうで、その後減ったものの最近はまた少しずつ増えているとのこと。写真に撮ろうかとも思いましたが、はかない命を楽しんでいる蛍たちをシャッターで驚かしては申し訳ないような気がしてやめました。

  仕事のほうでは、昨日、法人部門で懸案となっていた案件が二件成約に至りました。当店としては画期的なディールとなったこの二件、ともに担当者が長期間粘り強く取り組んで得た結果です。地道な努力を継続してきた彼らやそれを支えてきた周囲の人たちに敬意を表したいと思います。

 

六月二五日(土)晴れ

  前回の「近況メモ」で、金沢の百万石祭りの利家行列が雨のため中止になったと書きましたが、「赤井英和さん扮する利家の行列は行われましたよ」と、さる方からメールで教えていただきました。失礼しました。さて、昨日、福井県最西部の武生、小浜に出張したついでに、今日、一足伸ばして京都北部の町、舞鶴に立ち寄ってきました。小浜から小浜線に乗って、右手に若狭湾の穏やかなコバルトブルーの海を眺めながら、勢浜、高浜といった町々を過ぎ、青葉山のトンネルを越えるともう京都府舞鶴市です。青葉山の中腹には馬頭観音を本尊とし、数多くの国宝・重要文化財を擁する松尾寺(まつのおでら)があり、小浜線をはさんで松尾寺の反対側には三重塔が美しい金剛院もあります。舞鶴は東側と西側とで全く異なる顔を持っています。東舞鶴は、明治三四(一九〇一)年の鎮守府設置以来、軍港として発展してきましたので、赤れんがの倉庫群や海軍記念館が残っています(写真左&中参照)。碁盤目状の町の東西の通りの名前に日露戦争で活躍した軍艦の名前が冠され、「三笠通り」「敷島通り」「朝日通り」などが並んでいました。今でもここには海上自衛隊の基地があり、この日も桟橋に停泊している艦船を何隻も間近に見かけました。北朝鮮や中国からの侵入が相次ぐ中、堂々としたその姿が頼もしく見えました(写真右参照)。

      
赤れんが倉庫(外観)             赤れんが倉庫(内部・ピアノが置かれたちょっとしたホール)         桟橋に停泊中の自衛隊の艦船

  一方、五老岳をはさんだ反対側の西舞鶴は、戦国時代の天正八(一五八〇)年に細川藤孝(=幽斎)・忠興父子が丹後の領主として築いた田辺城を中心とする城下町です。細川忠興が九州に移ってからは、京極氏、牧野氏の城下町として栄えます。田辺城は明治に廃城となり、その城址は現在、舞鶴公園として整備され、入り口には城門が復元されています(下の写真参照)。田辺城を築いた細川幽斎(一五三四年〜一六一〇年)は大変興味深い戦国時代の武将です。

  そもそも細川氏は、足利氏の一支族で、足利氏の祖、義康の四代目にあたる義季が、鎌倉時代に三河国額田郡細川(今の岡崎市細川町)を領地としたことから、その地名をとって細川氏を名乗るようになりました。足利尊氏の挙兵に際しては、足利一族ということでそれに従い各地に戦功を挙げ、室町時代には斯波氏・畠山氏と並んで三管領のひとつとして幕政に重きをなします。

  細川幽斎は、傍系の子でしたが養子となり細川本家を継ぎました。彼ははじめ将軍足利義晴に仕え、その没後は義輝、さらに最後の将軍義昭にと、二十七年間室町幕府を支え続けます。将軍になる前の義昭を謀反人松永氏から救い、越前朝倉氏を頼って一乗谷に流寓したりもしています。長年の友人であった明智光秀を通じて織田信長に接触し、義昭を上洛させ将軍職につかせることに成功しました。この間の中央政界での苦労と活躍が彼の的確な政治情勢判断力を養ったのでしょう。その後将軍義昭と信長が離反すると、義昭を見限って信長に属し、丹後を与えられて田辺城主となります。そして、信長の媒酌で長男忠興を明智光秀の娘、玉と結婚させます。玉は聡明で美貌の持ち主として知られていました。

  幽斎は、塚原卜伝に剣法を学び、波々伯部貞弘から弓術の印可を受け、武田信富から弓馬故実を相伝されるなど武将として秀でていただけでなく、若くして歌道や連歌の道を学び、「古今和歌集」の秘伝を三条西実条から、「源氏物語」の秘伝を近衛稙通から伝授されて、和歌の伝統を継いだ人物です。ほかにも、茶道、料理、音曲、刀剣鑑定、有職故実などあらゆる学問、芸能の奥義を極めた当代随一の文人としても名高く、文芸に関する数多くの著述も残しています。

  さて、幽斎の生涯で二度ほど大きな危機が訪れます。まずは本能寺の変です。明智光秀は、本能寺で信長を討った後、長年の友人であり縁戚にもなった幽斎・忠興父子が当然自分に協力するものと思っていました。しかし幽斎は光秀には天下人としての器量は無いと見て、光秀の協力依頼に一切応じませんでした。忠興には玉を離縁・幽閉させています(のち復縁)。情に流されないこの冷徹な判断力は尋常ではありません。これを機会に彼は豊臣秀吉から信頼を得、秀吉に仕えることになります。

  二度目は関が原の戦いです。秀吉の死後、機を見るに敏な幽斎は、今度は徳川家康の信頼を得て東軍に属していました。大坂で蜂起した西軍は、伏見城攻めと並行して、細川氏の居城・丹後田辺城にも兵を差し向けます。幽斎は、忠興率いる主力が関が原出陣中で兵力の乏しい中、田辺城に籠もり西軍を迎え撃ちます。西軍は一万五千の兵力で五百の兵しかいない田辺城を攻めますが、城方は奮戦し容易に落城しません。そうこうしているうちに、この戦を知った後陽成天皇が、古今和歌集秘伝の唯一の承継者である幽斎が亡くなることを憂い、天皇の仲介で西軍は包囲を解き、幽斎は九死に一生を得ます。小生は今回、田辺城を訪れ、このような街中の平城で軍勢の大差を跳ね除けてよく幽斎は五十七日も籠城戦を耐えたものだと感心しました。幽斎は文人であるよりもまず武勇の人だと感じた次第です。この籠城の時、死を覚悟した幽斎は、古今伝授継承者を絶やさないようにと、智仁親王に伝授証明書を書き、次の歌を添えて渡そうとしました。ここには歌詠みとしての文化への責任感が感じられます。

     古へも 今も変わらぬ 世の中に 心の種を 残す言の葉
     (変わらない悠久の時の流れの中に、和歌は言葉によって人の心の種を残してゆくものです)



  この奇跡の生還にも悲劇が伴います。キリスト教に帰依して細川ガラシャと称した玉の死です。関ヶ原合戦に際して、石田三成は家康に従って出陣した東軍諸将の妻子を大坂城へ監禁し、西軍方に対する戦意を削ごうとしました。大阪屋敷にいたガラシャの元へも入城要請が来ましたが、夫忠興から「どのようなことがあっても屋敷の外に出てはいけない。三成の人質として大坂城に入ることのないように」と言い渡されていたガラシャは敢然と拒否します。このため三成は兵を差し向けて力ずくで彼女を拉致しようとし、警固兵と激しい戦闘が起きます。覚悟を決したガラシャは屋敷に火を放たせ自らの命を絶つのです。その際にキリスト教が自殺を禁じていることから、彼女は最後の祈りをイエスに捧げた後、家臣に命じて長刀で胸を刺させたといいます。三十八歳で亡くなった薄倖の美女、玉の辞世の歌です。

     散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

  さて、幽斎はその後隠居し、京都吉田山の山麓で余生を過ごしました。その時に詠んだのが次の歌です。論語の「仁者は山を楽しむ」を踏まえ、自分は仁者ではないが、と謙遜しつつ閑居の楽しみを歌っています。

     山を我が 楽しむ身には あらねども ただ静けさを たよりにぞ住む

細川幽斎の肖像画や、幽斎の筆になる和歌扇面もご覧ください。和歌扇面は色合いが美しく見事です(絵をクリックすると大きな画面で見られます)。

 

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