道教と仙学 第4章

 

 

1、内丹仙学の源流

 

 

 原始宗教においては、巫覡[呪術師]は神を祭り、軽快な歌や優美な舞、石針による鍼灸、行気、吐納、導引などで病気を治療した。中国 の仙学はこうした古代の人々の活動が変化・発展したものである。原始宗教の中に仙学の種子がまかれていて、《路史》巻九には陰康氏のこと が「舞によって人を引き付け利益でこれを導いて教えた」と述べられ、《呂氏春秋・求人》には「巫山のふもと、露を飲み気を吸う民」という 記述が見える。また、《荘子・馬蹄》には赫胥氏(《列子》の中では華胥氏と称する)の国の人々のことが「食べ物をたらふく食べて楽しみ、 腹つづみをうって遊んだ」と書かれ、《准南子・泰族訓》には王喬や赤松子について「陰陽の和を吸い、天地の精を食べ、息をはいて古いもの を出し、息を吸って新しいものを求める」と記述している。やがて神仙家を形成する一派が現れ、神仙の境地に通じる方術を修習・研究した。 神仙家の行気派の王喬と赤松子は吐納行気で養生していただけではなく、楚越文化の中で発展した先天真気の功法を修め、乗雲游霧の仙人の境 地を追い求めた。内丹仙学では後天の気を「気」と書き、先天の気を「炁」と書く。先天の気は真気であり、元気である。社会一般に伝わって いる気功はほとんどが後天の気の修養であるが、内丹功法は先天の元精・元気(炁)・元神の修養である。だから、仙学の見解からいうと、内 丹は一般の気功より一層高度な「炁功」である。《楚辞・遠游》篇に記述されている功法は、先天真気の修養の流派であり、神仙家の王子喬が 伝えたものである。神仙家と道家はどちらも母系原始宗教文化から生まれたものであり、のちにはまた一つに融合した。

 秦以前の《老子》と《荘子》は、内丹仙学の理論の基礎を築いた著作である。老荘学派は「道」、「一」、「玄」、「虚」、「無」などの カテゴリーと清静自然の思想を提示し、「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生じる」という宇宙生成のモデルと精・ 気・神の概念を提示した。それはまた、「落ち着きをなくした魄を落ち着かせて統一を保つ」、「気を純粋にして柔らかにする」、「神秘的な ヴィジョンを拭い去る」などに見えるような凝神、守一、坐忘、心斎などの修持方法を発展させ、「游心於淡、合気於漠、順物自然」という行 為様式を提唱した。これらの著作は中国の内丹仙学の先駆けだった。

 後漢の早期道教が成立するまでの時期は、内丹仙学は理論と方術の上での準備期間だった。この時期の修行者は、人間と道の心理的距離を 縮め、自己の赤子の心で宇宙精神をすべて把握し、自己の心身の内的なものとして「道」を体験することに力を尽くした。しかし、天人合一を 目指す方法は内丹仙学ではなかった。騶衍の陰陽五行や天人感応理論、漢代象数易学、卦気説、納甲と十二消息卦などの術数の学も、内丹仙学 が形成される条件を整えた。修持の実践面では、当時の炁功の流派はすでに相当高いレベルに達していた。天津歴史博物館に所蔵されている戦 国時代の玉器が、このことを物語っている。《行気玉器銘》には、「行気─呑んで蓄え、蓄えて伸ばし、伸ばして下ろし、下ろして定め、定め て固め、固めて芽生え、芽生えて長じ、長じると退き、退くと天である。天は幾ら衝いても上にあり、地は幾ら衝いても下にある。順は生であ り、逆は死である」と書かれている。行気の法というのは、意識を集中して気を集め、丹田に降ろし、そこに入れて固定・凝結させ、真気を発 生させ、督脈を逆に転じ、泥丸に上昇させることである。天は鼎(上丹田)のことであり、地は炉(下丹田)のことであり、陰陽の機によって 修練する。この道に従う者は寿命を延ばすが、これに反すると寿命を損なう。当時の修行者が入静することに上達し、真気を活性化させるまで に達していたことがわかる。

 道ができてから隋・唐に至るまでが、内丹仙学の形成された時期である。当時の道教では、さまざまな気功の流派が競い合い、仙を修める 方術は雑ではあるが非常にきちんとしたものだった。修行者は当時流行していた金丹術と照らし合わせ、体内で先天の気を発生させる関竅を 「丹田」と考えるようになった。最も早くに「丹田」という言葉が用いられたのは、《素問・遺篇本病論》の中の「神游上丹田」という文と、 邊韶が著した《老子銘》の中の「存想丹田」という文である。また、蔡邕が王子喬を祭るために書いた碑文と医学家の張仲景の《金匱要略》に も「丹田」の一語が見え、後漢の時代の修行者が丹田の功法の概念を持っていたことがわかる。魏伯陽の《周易参同契》は、人体の真気の運行 の法則を、天地の間の日月の運行や陰陽の盛衰の法則と結び付け、炁功と金丹術を象数易学の理論の枠に組み込んではじめて内丹仙学の理論体 系を組み立て術語を整備した。ここに至って、内丹仙学は成立した。魏・晋の時代の《黄庭経》は、精・気・神を蓄え保つ功法を「玄丹」と称 し(「若得三宮存玄丹、太一流珠安昆侖」)、葛洪の《抱朴子内篇》は「中丹」と称している(「中丹煌煌独無匹、立之命門形不卒」)。これ らの著作ではすでに炁功を煉丹と見なして説明していた。伝統医学にも「心主神明」という説があったが、丹経でも修持の実践を重ねるうちに 「神は泥丸にあり」、脳は思惟の器官であると認識するようになった。《南岳思大禅師立誓愿文》の中では僧の慧思が「外丹の力を借り内丹を 修める」と説き、内丹と外丹を同時に行うことを説明している。隋代の道士の蘇元朗は羅浮山で道書を著し、人間の身体を鼎炉、精・気・神を 薬物として体内で金丹術の錬成過程を模倣することを述べ、外丹の術語を当てはめた。これによって内丹の名が広く知られるようになった。唐 代の道書《通幽訣》には、「気がよく生を存するのが内丹である。薬がよく形を固めるのが外丹である」と書かれている。唐代には多くの内丹 家が現れ、多くの著作が世に出た。

 唐末・五代は、内丹仙学が完成した時期である。この時期には、外丹黄白術は急速に衰え、内丹仙学が道教の修持方術の中でも正統な主導 的地位を占めるようになった。有名な鐘離権、呂洞賓、陳搏、劉玄英などの内丹家は、この唐末・五代に内丹仙学を伝えた人で、《周易参同 契》を丹経の祖として奉じ、道教の内丹派の基礎を築いた。その後、内丹仙学は、儒家、道家、仏教、医学などの精華を絶えず取り入れて発展 し、相互に影響を与えながら多くの宗派を生み出した。内丹仙学は、千年以上の時を重ね、ようやく完成した。主に鐘離権と呂洞賓の伝えた内 丹功法が成熟していった。

 五代以降、内丹の流派は、丹法を天元・地元・人元に区別し、南・北・中・東・西の門派が広まった。天元丹法は一般には清修派の内丹の やり方を指すが、服用すればたちどころに飛昇できる神丹の丹法を指す人もある。人元丹法は一般には男女双修派の内丹のやり方を指すが、南 北派の性命双修の内丹を人元大丹と総称する人もある。地元丹法は一般には外丹黄白術を指し、服餌派に属し、地元霊丹ともいう。内丹仙学で は、修行の進み具合によって、鬼仙・人仙・地仙・神仙・天仙という5つの仙に修行者を区別する。内丹仙学では炁を煉ることを命功と言い、 神[意識]を煉ることを性功と言う。性だけ修めて命を修めない者は、不思議な神通があり、陰神を出すことができても、寿命を延ばすことは できず、死ぬと鬼[幽霊]となる。命だけ修めて性を修めない者は、寿命が延び老い難いが、霊異はなく、愚人のままである。性命双修[性と 命の両方を修めること]だけが金丹大道である。小周天の無漏功を完成すると地仙であり、さらに一つ一つ順を追って修行し、陽神を出し、虚 空を粉砕すると、最上の天仙の境地に達する。李道純は内丹功法を旁門九品(採陰栽接の泥水丹法を邪道の下三品に属するとし、辟穀、服気、 持戒、歩斗などを外道の中三品に属するとし、定観、存神、導引、搬精運気などを旁門の上三品に属するとする)、漸法三乗(下乗安楽法門、 中乗養命法門、上乗延生法門)、最上一乗(無上至真の妙道)などの段階に分類している。

 内丹の門派は、すべて王喬、赤松から始まり、老子をよりどころとしている。関尹子(文始真人)から伝わったといわれる一派は文始派と 呼ばれ、麻衣道者から陳搏に伝わり、陳搏から火龍真人に伝わった。東華紫府少陽帝君玄甫から伝わったといわれる別の一派は、少陽派と呼ば れる。この派は王少陽から鐘離権に伝わり、鐘離権から呂洞賓に伝わり、後に南宗、北宗、中派、東派、西派、青城派、崆峒派、三丰派、伍柳 派などの門派が開かれた。文始派は虚無が主旨であり、真に至る無上の妙道である。単刀直入で、性を修めることが命を修めることを兼ねてい る。少陽派は主に性と命の両方を修練して陰陽を養う。有為法を無為法にするので、取り掛かりには便利で、修練の段階もはっきり分けられて いる。非常に広く伝わり、門派も多い。内丹仙学には、文始派が最高で、少陽派が最大であるという見解がある。実際の内丹仙学の門派は、す べて鐘離権と呂洞賓まで逆上ることができる。呂洞賓は劉操(海蟾真人)、麻衣道者、施肩吾、何昌、張中孚などに伝えた。麻衣道者は陳搏に 伝え、陳搏は火龍真人、張無夢、种放などに伝えた。劉操は張伯端、晁迥、馬自然、藍元道、王庭揚に伝えた。張伯端は内丹派の南宗を開き、 書を著して説を立てたので、非常に広く伝わり、最も早くに内丹学派を形成した。後世の内丹各派の修練法は、独自の体系を持ち、それぞれ特 徴を備えているが、実はすべて南宗から取り入れたものを持ち合わせている。

⇒  参考:呂洞賓
⇒ 参考:鐘離権

 南宗は紫陽真人張伯端が創始し、石泰、薜道光、陳楠、白玉蟾に継承された。この5人は南五祖と呼ばれている。南宗の丹法は命功を重ん じ、清修と男女双修の両方を備えている。白玉蟾の丹法は、実際には清修派で、禅の理論を加えていて、門徒は非常に多い。薜道光は僧から還 俗し、男女双修の法の丹功を煉った。張伯端は年老いてから丹法の修練をはじめたので、男女栽接の術を行った。しかし、「天譴[天罰]」を 受けることを恐れ、双修の秘訣を軽々しく伝えなかった。男女双修栽接の術で法門を拡大したのは、張伯端の弟子の劉永年である。劉永年は字 を広益、号を順理子といい、翁葆光に丹法を伝え、翁葆光は若一子に伝え、やがて陰陽双修の修練法が南宗の代表とされるようになった。

 王喆は呂祖の化身と会い金丹大道を得たと称して、北宗を創立した。彼の弟子には馬珏、邱処機、劉処玄、王処一、譚処端、郝大通、孫不 二の7人がいて、北七真と呼ばれた。北宗の丹法は性功を重んじ、まず性を修めてから命を修めるという清静派の内丹で、邱処機の龍門派が代 表的である。しかし、男女双修丹法も伝えていて、長生真人劉処玄は妓院[遊女屋]で性を煉り、丹陽真人馬珏は男女双修で道を得た。馬丹陽 は宋徳方に伝え、宋は李双玉に伝え、李は張紫陽に伝え、張は趙友飲(縁督子)に伝え、趙は陳致虚(上陽子)に伝え、北宗の双修の支派と なった。

 東派は陸西星が創始し、西派は李涵虚が開いたが、どちらも呂祖が伝えたものをよりどころとし、男女双修を主張している。中派は李道純 (《中和集》を著した)、黄元吉が代表で、儒で道を説き、中を守ることが要旨である。中派は中黄直透の丹法を後世の人が人為的に類別した ものである。

 そのほか、張三丰が開いた三丰派は、文始派と少陽派の丹功の長所を総合している。青城丈人が創始した青城派は、南宗と北宗の丹法の特 徴を融合している。伍冲虚および柳華陽は道教と仏教を融合して伍柳丹法を伝え、北宗の支派を形成した。この流派は修練する者が非常に多 い。伍柳派は修練の原理が浅く、丹法は細かくて煩わしく、上を挟み下を塞いで丹が動くのを防いだりする。これは上乗ではないが、丹功は純 粋で清静が主であり、極めて広く伝わり、修行の道筋も非常にはっきりしている。そのほかにも崆峒派、南宮剣仙派、雷法派などがあり、どれ も独自の体系を持ち、研究する価値がある。

 

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