風はるか
どなん紀行
石垣空港 10:30-(JTA961)-11:00 与那国空港
日本で一番西から撮れる風景写真 [写ルンです400EX] |
いよいよ西の果てに向かう。ふたたびバス経由で737-400に乗り込み、さっきと同じ座席番号に座ると目前の様子は見覚えがあるし、クルーも同じ顔ぶれ。それもそのはず、この機材は605便そのものだからだ。
那覇へ戻る便は? と思われるかもしれないが、2便の間に東京6:35発の071便が到着し、それが10:45発で那覇に向かう(変更される場合もある)。接続時間25分で乗り継ぎ可能。日本最西端の島は東京から最も遠い「日本最○端」でありながら、四隅の中でおそらく最も早く、それも午前中に到達できてしまうのである。驚くなかれ、観光して日帰りも不可能ではない(週4日)。
石垣空港を急発進で離陸滑走する737-400 残り少なくなった旧JTA塗装 (JA8934) [Nikon D200, AF Nikkor ED 80-200mm F2.8D] |
滑走路長1,500mが着陸にぎりぎりということは、燃料のぶん重くなる離陸も大変。国内の主要空港ではめったに見られない完全なスタンディング・テイクオフが、ここ石垣では普通に行われている。そればかりか燃料満載では離陸滑走距離が足りないので、石垣発の大阪・東京便は宮古または那覇への寄港を強いられている。
10:24に出発、RWY04端で向きを変えた機は10:31、エンジンを最大出力に上げるまでブレーキで精一杯踏ん張ってから、一気に加速する。後で路線バスの通りすがりに見たら、それはもう騒音というより爆音に近い。滑走路長の60%程度のところで空中に飛び出した。
この数日、先島諸島付近は気圧の谷にあり、気流が非常に不安定だった。風に揉まれながらいったん低層の雲上まで上昇した961便だが、出発前の予告どおりベルトサインは消えないまま降下へ移る。
与那国空港のオープンスポット 乗客は歩いてターミナルへ |
次第に近づく海面を眺めているうち、反対側の窓の先に島影が見えることに気づいた。与那国島だった。機は北側から島を眺めるように飛び、西端で180度左旋回してこんどは右手に灯台を望む。この飛行機が、旅客を日本国内で最も西まで連れて行く乗り物なのだった。10:55 1,500mのRWY08に着陸し、やはり急ブレーキをかけて停止する。10:58 与那国空港ターミナル前に停止。日本最西端の空港への飛来機は一日1または3便で、牽引車もスポットバスも必要ない。
与那国空港に到着したRAC DHC-8-100 (JA8972) |
車を借りて島内一周に出かける。戻りは15:10発の806便、石垣ゆき(週4日運航)。琉球エアーコミューター(RAC)機材での運航で、垂直尾翼にシーサーを描いたプロペラ機のDHC-8は39席と少ない。1ヶ月ほど前、連休ではないしと気を緩めていたら、いつの間にか全予約クラスで空席が「残り1」。ということは、これを取られたら観光ができなくなる、とあわてて予約を入れたのだった。もっとも、出発日近くになってもう一度検索してみたところ、こんどは「△」が並んでいる。実際に搭乗したのは30人弱だった。
帰りを那覇ゆきの880便にすればもっと余裕ができるし、機上から西の果てに沈む夕日を眺められると聞く。しかし私は石垣に2泊することにした。おおむね予想はつくと思うが、翌日は高速船で有人最南端の島・波照間島に行く予定だった。これで東西南北全先端の踏破も達成できるからだ。
ところが夜半に小雨の降り出した天候が翌朝になっても回復せず、8時過ぎに離島桟橋の波照間海運に行くと「きょうは(高速船も貨客船も)欠航なんです。時化(しけ)てて……」。もう1社の安栄(あんえい)観光にも「第1便は出しますが途中で引き返すかも……日帰りは避けたほうが無難ですね」と言われてはあきらめるしかなく、ふたたびのレンタカーで石垣島一周と相成った。外洋に面した場所に出るととたんに強風に襲われ、これでは行けないのも無理はない。ふだんでも海路の半分は揺れて当たり前というのである。かろうじてRACによる航空2便が運航されたようだが、いま波照間空港へ行ける旅客機はあのアイランダーだけで、9席ではすぐに満員になっただろう。翌日もそうであった。
結局、どなん(渡難)といわれる与那国島のほうが、それなりの大きさの飛行機で容易に行けるわけで、いま最もどなんな果ての島はそれこそ「果てのうるま」だったと認識させられた一日だった。それにしてもここまで来ておいて惜しい、また石垣まで来なければならないのかと……ほかの島も面白そうなので、時機を見てふたたび挑戦(?)することにしよう。
東崎灯台 | 与那国馬 |
さて話を戻して車を中心の祖内(そない)から島の東端、東崎(あがりざき)へ走らせた。ここは東牧場の中にあって、広々とした草地に与那国馬が放牧され、ひたすら草を食んでいる。馬と灯台、海、風車など、何とでも取り合わせができるのだが、彼らは草地だろうが道路だろうがお構いなくどこでもなさってくれるので、テキサスゲートの先は車で走るのも歩くのも気を使う。
島の南側へ。3つある集落のほかは人家はまったくなく、たぶん今の今まで人間が入ったことがないであろう原生林が両側に続いている。それにしても島内の道路はけっこう起伏が激しい。自転車で回る健脚の方も見えたが、少なくとも日帰りの場合は車を、とくに2人以上の場合は軽でなく普通車の選択をおすすめしたい。(軽では登れない坂もあるとか……)
TVドラマで使われた診療所セットのある南端の集落、比川(ひがわ)ではなにやら陽気な音楽が流れていた。寄ってみても良かったかなと思いつつ南牧場へ車を進めると、こんどは牛が主役。風は変わらず強いが、ときどきまぶしいくらいの日差しももらう。きょうは曇ときどき雨だったはずだ。あとで給油のときに話を聞けば、昨日は雨が降ったという。「毎日のように天気が変わるんですよ」。翌日の石垣島でも「毎日予報が外れてねえ……」先島の気象は予報官泣かせのようだ。
牛横断中 | 覗かれた |
南牧場のゲートを抜けると西の集落、久部良(くぶら)が近いが、その手前で日本最西端の岬、西崎(いりざき)に向かう道へと左折する。灯台の下に「日本最西端之地」の碑、沖縄海邦国体の採火記念碑が並ぶ。実質最東端の納沙布岬から約2,981km。
展望台は改築中だった。その工事関係者を除き、時折ひとりふたりずつ訪れる観光客しかいない。もうこれ以上西へは進めない、という場所から西の海を眺めると、ススキの先には黒々とした波濤だけで、台湾までは見えなかった。
日本国最西端之地 |
残照 |
翌々日の午後、JAL1918便 747-400D (JA8083)のクラスJシートにおさまって、15:44 RWY36から那覇を離れた。17時半に着く予定の東京はすっかり夜のはず。ピクリとも揺れない巡航中に、夕陽が飛行機の後ろへ一気に落ちた。
もはや日本中に乗るべき鉄路は無い。これからどうしよう……などと感傷や空虚感にひたる暇は、幸か不幸か実はなかったりする。はやくも12月24日には大阪市営地下鉄の今里筋(いまざとすじ)線が開業するし、来年春になれば大阪モノレール彩都線の延長、仙台空港鉄道、その先 東京メトロ13号線、日暮里舎人線……と続く。
なかには消え去るものもあるだろうし、新たに計画が浮上することもあろう。今回のごとくちょっとだけ経路変更したりもする。タイトルホルダーはそのたびに全国各地へ足を運ぶ――というより、運ばなければ済まないのだ。そうやって、たぶん一生の付き合いをしていくのだろう。