御裳濯川シリーズ「真鍋先祖発掘」
御裳濯川シリーズの本が大塚秀男・真鍋頼行両著・発行により出版されている。
御裳濯川 六揖 「悲涙崇徳院」
御裳濯川 七揖「いろは歌と藤原頼長公」
御裳濯川 八揖「字謎の歌山家集西行法師」
御裳濯川 九揖「頼長の御子義経の考証」
御裳濯川 十揖「真鍋先祖発掘(上巻)」
御裳濯川十一揖「真鍋先祖発掘(下巻)」
御裳濯川十ニ揖「草薙の宝剣と左府頼長」
御裳濯川十三揖「いろは歌解読三十六歌仙絵と宝剣」
御裳濯川十四揖「いろは字考証」
こんな本を世に出されると混乱する。これは歴史小説(フィクション)なのか史実探求本(ノンフィクション)のつもりなのか?
全冊を確認したわけではないが、おそらく全部、次のような荒唐無稽な内容になっていると思われる。そもそもシリーズ名の「揖」だって「輯」の間違いであろう。(フィクションとわかるようにわざと違う字を使っているのかもしれないが。)
・ほとんど全文が「身茂廉直這遠」の六文字と称する法則不明の漢字羅列と気まぐれな読み方の暗号文の紹介となっている。
・保元の乱で、藤原頼長は頬を射抜かれて死亡した筈だが、実は生きていた。
・崇徳上皇は配流地の直島行在所で保元3年5月15日に双子の皇子重九君をもうけた。
・頼長は双子の重九皇子を守護して真鍋島に身を隠した。西行法師が真鍋島の岩坪に住居を準備した。
・義経は早世し頼長の子が義経として入れ替わり、保元の乱の敵である平清盛一族を滅ぼした。
・新院の北の方京は直島で双子の皇子を産んだ後、七条院修理大夫信隆の妻となり七条院殖子を産んだ。殖子は後鳥羽天皇の母后。
(七条院修理大夫信隆の妻は藤原休子であり、「殖子を産み、殖子は後鳥羽天皇の母后」というのは事実だが、休子が崇徳院の室でもないし、京という室がいたという事実もない。)
参考:Wikipediaによれば、崇徳院の讃岐配流に同行したのは寵妃の兵衛佐局と僅かな女房だけだった。兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)は法印藤原信縁の女で源行宗の養女。
かたや藤原休子は大蔵卿藤原通基の女、その子の殖子は兵衛督君(ひょうえのかみのきみ)と呼ばれた。話がごっちゃになっていないか。
・いろは歌の作者は頼長である。
小説としてならば面白いが、これが事実であると証明するものは何も無い。著者も頻りに否定してはいるが老人の妄言以外の何物でもなかろう。
もし西行が崇徳院の皇子の隠匿に加担しているのなら、西行自記という「山家集」に次のように、わざわざその隠れ先を書くだろうか。
眞鍋と申す島に、京より商(あき)人どもの下りて、様々の積載(つみ)の物ども商ひて、又しわくの島に渡り、商はんずる由申けるをきヽて
眞鍋よりしわくへ通ふ商人はつみをかいにて渡る成けり
また「山家集」をみても、崇徳院が配流されてから、仁安2年に西行が崇徳院の陵墓に参拝するまでの間、直島はもちろん、崇徳院に会いに行ったこともない。
「身茂廉直這遠」6文字の暗号にしても、「身茂廉直遠這」を「みもすそかは」と読ませており、早くも「這」は読みの法則を逸脱している。一杯出てくる「暗号文」に至ってはもう法則なしの好き勝手な振り仮名が打たれている。
いろは歌の6文字による暗号化
身 | 茂 | 廉 | 直 | 這 | 遠 |
い | ろ | は | に | ほ | へ |
ぬ | る | り | ち | を | と |
た | わ | れ | そ | よ | か |
む | ね | ら | な | う | つ |
や | ゐ | お | ま | の | く |
て | こ | ふ | え | あ | け |
み | し | ゆ | さ | め | き |
| も | す | せ | ひ | え |
とはいえ、著者の両名は真鍋島出身者である。真鍋島の記事ぐらいは正確であってほしい。以下に検証してみたい。
まず、「真鍋先祖継図」については、「御裳濯川十揖 真鍋先祖発掘(上巻)」(大塚秀男:著,S57.8.20真鍋頼行:発行)では、
「真鍋貞友奥書の真鍋先祖継図は最古の型式無線式系図で、始祖藤原頼長の起筆した真鍋三家二十三代約四百年間の系図である。」
として、次の図が掲載されている。
| 先祖匿名 | 覚書 | 本名 | 幼名 | |
嫡子 | 日方間大夫馬資 | 真鍋五郎右衛門 | 真鍋五郎祐光 | 重九君 |
二男 | 福原新大夫 | 真鍋四郎左衛門 | 真鍋四郎祐久 | 仝 | 真鍋総家四文殿家 |
三男 | サウツノ七郎 | 真鍋藤兵衛 | 藤原頼長 | 綾 若 |

一方、「備中眞鍋島の史料 第一巻」(宇野脩平著, 1955年発行)の真鍋増太郎家文書 第5号には次のように書かれている。
この両者を比較してみると、(マヽ)としている判読難の箇所までそっくり同じである。宇野脩平著の方は全くの第3者が解読したので客観的なものであろう。「真鍋先祖発掘(上巻)」の著者はこの「真鍋先祖継図」の原本を見ていないと思われる。
もっとも同書には、
「寛永十五年五月八日、北木島沖で、笠岡代官は二郎右衛門を謀殺し、事故死に擬装した。二郎右衛門嫡子が二年後十八才で庄屋を嗣いだ初代伝右衛門である。<中略> 元禄の末、代官は真鍋家の系図を取りあげ伝右衛門の返還要求に応じなかった。<中略> 笠岡代官が無法に四文殿家より取り上げた真鍋先祖継図が奇しくも三百八十年を経て、古文書と共に世に現れた。」
と書かれているので、著者が真鍋島に居住していた頃には「真鍋先祖継図」は真鍋家にはなかったのであろう。但し、「380年を経て世に現れた」とは、いつ取り上げられていつ出てきた、というのか。380年は理屈に合わない。
ところで、「真鍋先祖発掘」には他にも真鍋島の古文書がいくつか引用されている。これらの古文書の原本をこの著者は見ているのだろうか。「備中眞鍋島の史料 第一巻」と対比してみたい。
備中眞鍋島の史料 第1巻 | 真鍋先祖発掘(上巻) |
文番号 | 筆者 | 作成年 | 同西暦 | 表題 | 条項 | ページ | 表題 | サブタイトル | 備考 |
1号文書 | | | | 覚 | 1項 | P22 | 真鍋家古文書覚書 | (頼長遺書) | 一覚(補足文含まず) |
P41 | | 一覚の添え書き | 一覚(補足文が主) |
2号文書 | 庄屋傳右衛門 | 貞享2年 | 1685 | 口上覚 | 1項 | P23 | 口上覚第一項 | (皇子頼長真鍋島行く) | |
2項 | P24 | 口上覚第二項 | (美福門院頼長を弓で射つ) | |
3項前半 | P25 | 口上覚第三項一 | (平清盛頼長家を訪れる事) | |
3項後半 | P29 | 口上覚第三項の二 | (頼長美福門院に招かれ矢を射たれる事) | |
3項後半 ダブり | P30 | 口上覚第三項の三 | (密偵光員と女中の事) | |
4項 | | | | |
5項 | | | | |
3号文書 | | 承応3年 以降 | 1654 | 覚 | 15項の内 6,9項 | P38 | 真鍋伝右衛門覚書三 | (遺書) | |
4号文書 | | | | 乍恐御理り申上候一札之事 | 1項 | | | | |
2項 | | | | |
3項 | | | | |
4項前半 | P48 | 覚書 乍恐御理り申上候一札之事 第四項 | (四文殿家系図を盗る事) | |
5号文書 | 真鍋貞友 | 享徳2年 | 1453 | 真鍋先祖継圖 | | P16 | 真鍋先祖継図 | | |
6号文書 | | | | 真鍋殿ゆらい覚書 | 1項の後半 | P45 | 真鍋殿ゆらい覚書一項の三 | 真鍋家覚書(伝右衛門遺書) | 福山より真鍋島に殺しに来る事 |
2項 | P28 | 真鍋殿ゆらい覚書 第二項 | (美福門院頼長を弓で射つ) | |
3項 | P.6 | 真鍋家古文書ゆらい覚三項 | (平清盛頼長家を訪れる事) | |
3項再出 | P35 | 真鍋家古文書 | | |
4項 | P26 | ゆらい覚第四項 | | |
5項 | | | | |
6項 | P52 | 真鍋殿ゆらい覚書 第六項 | (真鍋庄屋四文殿家の嫁に福山の女郎を差し向ける陰謀) | |
7号文書 | 為右衛門 | 宝暦11年 | 1761 | 一札之事 | | | (引用なし) | | |
9号文書 | | 弘化3年 | 1846 | 真鍋本家暦代靈簿 | | P55 | | 寛保元酉十一月廿一日 | 伝右衛門室原善兵衛娘 |
101号文書 | | | | (侍名簿) | | P43 | 101号文書 | | |
「備中眞鍋島の史料」はその編者が並べたものなので、暦年順になっているとは限らない。
一方、「真鍋先祖発掘」の方は真鍋島出身の人が書いているので、事象発生順に並べたのではなかろうかと期待したいが、「6号文書」にいたっては同一文書内の項目でも取り上げているページが順不同であり、とても出来事順に並べているとは思えない。
暗号文だから、わからないようにあちこちに分散して書いているのだ、といえばそれまでかもしれないが、あまりにも好き勝手に取り上げすぎではなかろうか。
個々の古文書がどのように翻刻(活字化)されているかをみれば、原本を見ているかどうかがわかるのではないか、と思われるので、幾つか次に比較してみたい。
P.6(6号文書3項).真鍋殿古文書ゆらい覚三項
一.真鍋殿御ちきやう所ハまなべ嶋大千嶋小千嶋むしま大北木北木備中内五かも平さんしうニてかもよし原と申所先年ヨリ申つたへニ承候
これに対し、「備中眞鍋島の史料 第一巻」では真鍋増太郎家文書第6号の中の一部として、
一 真鍋殿御ちきやう所ハまなべ嶋大干嶋小干嶋むしま大北木北木備中内五かも平さんしうニてかもよし原と申所先年
申つたへニ承候
真鍋島出身者にしては、干(ヒ)島を千(チ)島と読んでいるのは意外な気がするが、まぁ原本を見ていると考えてもよい。
P.16(5号文書).(既に述べた「真鍋先祖継図」なので上記参照)
P.22(1号文書).真鍋家古文書覚書(頼長遺書)
一覚 真鍋嶋之儀往古者備中之國寄嶋と申候得中興真鍋氏當嶋ニ御住居被遊候ニ付其時代より真鍋嶋と申傳則御代々之御墓数多御座候則御墓之近所ニ阿弥陀堂御座候真鍋殿御本尊三尊之阿弥陀行基之御作と申傳候
これに対し、「備中眞鍋島の史料 第一巻」では真鍋増太郎家文書第1号として、
覚
一 真鍋嶋之儀往古者備中之國寄嶋と申候得共中興真鍋氏當嶋ニ御住居被遊候ニ付其時代より真鍋嶋と申傳則御代々之御墓数多御座候則御墓之近所ニ阿弥陀堂御座候真鍋殿御本尊三尊之阿弥陀行基之御作と申傳候
脱字はあるもののこれも原本を見ているとして差し支えなかろう。
P.23(2号文書1項).口上覚第一項 (皇子頼長真鍋島行く)
一 藤大納言信成之末孫真鍋右衛門之大夫様申、御侍八拾年程以前迄真鍋嶋に御住宅被遊候、御子七人内六人ハ息女壱人ハ御子息ニ而藤兵衛様と申候七拾年程以前迄真鍋嶋之内岩坪と申所ニ御親父様之御屋敷跡ニ居住被成候右衛門之大夫様より以前之儀ハしかと不存候。
これに対し、「備中眞鍋島の史料 第一巻」では真鍋増太郎家文書第2号の第1項として、
口上覚
一 藤大納言信成之末孫真鍋右衛門之大夫様申御侍八拾年程以前迄真鍋嶋に御住宅被遊候御子七人内六人ハ息女壱人ハ御子息ニ而藤兵衛様と申候七拾年程以前迄真鍋嶋之内岩坪と申所ニ御親父様之御屋敷跡ニ居住被成候右衛門之大夫様
以前之儀ハしかと不存候。
これも読点が打たれているものの、原本を見ているとして差し支えなかろう。
(以降、途中省略するが、微小な読み取りの差があるので、「備中眞鍋島の史料」の丸写しではなく、古文書原本から翻刻しているのかもしれない。)
P.29(2号文書3項後半).口上覚第三項のニ (頼長美福門院に招かれ矢を射たれる事)
さてそれより後藤兵衛殿六拾年程以前に村上八郎左衛門様を尋ねて肥後江御下り被成、彼の八郎左衛門様に養被御座候由承申候
五拾年程以前ニ村上八郎左衛門様の御子息三男備中之大島内中村ノ与左衛門と申者の所へ肥後より御上り被成候与左衛門女房は、真鍋殿の御娘にて御座候故斯如御座候其時真鍋島へも御渡り被成五七日程御逗留被成、真鍋殿御墓所共御覧被成候由承申候。
これに対し、「備中眞鍋島の史料 第一巻」では真鍋増太郎家文書第2号の第3項の後半から、
扨其已後藤兵衛殿六拾年程ニ以前ニ村上八郎左衛門様尋テ肥後江御下り被成彼之八郎左衛門様ニ被養テ御座候由承申候
五拾年程以前ニ村上八郎左衛門様之御子息三男備中之大嶋之内中村ノ与左衛門と申者之所へ肥後
御登り被成候与左衛門女房ハ真鍋殿之御娘ニ而御座候故如斯ニ御座候其時真鍋嶋へも御渡り被成五七日程御逗留被成真鍋殿御墓所共御覧被成候由承申候。
ここまでくると読み取り差がそこそこあって、何を原本として読み取ったのかよくわからない。
P.52(6号文書6項).六 真鍋殿ゆらい覚書 第六項 (真鍋庄屋四文殿家の嫁に福山の女郎を差し向ける陰謀)
一、まなべの者備中のくろ崎へあきない参候へば其刻さし合の咄しに真鍋殿御一門と申てひ五ノ六丸様御家中に御奉公被成候まなべ殿御一るいと申人の御子事之外生きよく両目にほとけ□たい此由殿様きこしめし被出候以来は如何様高ちきょうにも可被成やと何方にも風聞え由くろ崎としより共はなし申候を村者承参村にてはなし申候これ風聞にて御座候。
これに対し、「備中眞鍋島の史料 第一巻」では真鍋増太郎家文書第6号の6項として、
一 まなべノ者、備中ノくろ崎へあきない参候へば、其刻さし合ノ咄しニ真鍋殿御一門と申てひ五ノ六丸様御家中ニ御奉公被成候まなべ殿御一るいと申人ノ御子事之外生きよく両目ニほとけ■たい此由殿樣きこしめしめし被出候以來ハ如何様高ちきょうニも可被成やと何方ニも風聞之由くろ崎としより共はなし申候ヲ村者承参村ニてはなし申候これ風聞ニて御座候
これもなんとも言えないが、原文から翻刻したのかもしれない。
以下、「真鍋先祖発掘(上巻)」の内容も合わせてみていきたい。
真鍋家発祥は、崇徳院の女御が直島で産んだ双子の重九君を藤原頼長が、西行法師の支援を得て、真鍋島で養育したのが基だとしている。
もしそうならそれ相応の根拠・証拠を示さなければ、たんなる妄想にしかならない。

次の文章では、「真鍋殿御知行所は、讃州にてかもよし原」というのは、「遠茂直身廉這(かもよしはら)=真鍋6ヶ島=遠島・茂床島・真鍋島・六島・廉ノ島・這島」のことだとしている。
「遠茂直身廉這(かもよしはら)」の読ませ方も上掲のいろは歌の読み方とは異なる。

ところが、次の文章では、讃州にてかもよし原には別の意味があって、吉原に頼長の家臣がいて、吉原を拠点にして真鍋一族が全国に広がっていったとしている。
筆者の父が六十年程前次のことを語った。「昔の真鍋家は讃岐吉原に親籍(ママ)があり、そこから食糧の米を送ってきた。」という伝承である。
一族の子弟は、岩坪より吉原の基点に渡り、吉原より各地に移り、独立していった。十三世紀より十六世紀までつづいた。としている。

ここで重要な問題が3つある。
1.真鍋一族の子弟は、岩坪より吉原の基点に渡った。
2.13〜16世紀の長きに渡って真鍋一族が吉原へ渡ってきた。
3.真鍋島の真鍋家に吉原の親戚から食糧の米が送られてきた。
1については、歴代の庄屋に述べるように、「真鍋増太郎家は注目すべき二郎右衛門夫妻を初代とし、古く三宅姓を名のり、久しく真鍋本浦にあって、真鍋島の庄屋をつとめて来たが、天保年間真鍋氏に改め」と「備中眞鍋島の史料 第一巻」に書かれていて、岩坪に住んでいた中世真鍋氏と本浦に住んでいた真鍋島庄屋三宅氏とはまったく別系統だということである。
それなのに、次に掲げる文章では庄屋の真鍋家が笠岡代官の陰謀で乗っ取られた、としきりに嘆いている。庄屋三宅姓はその当時まだ改姓していないから真鍋家ではない。
2について、400年間にも亘って真鍋姓が吉原から広がっていったのなら、その証拠が少なからず残っていなければならない。例えば、全国の真鍋姓で「我が家の先祖は吉原から移住した」などであるが、そんなのは聞いた事が無い。また吉原にもその痕跡が残っていてもよさそうなものだが(例えば吉原から次へ移住する前に吉原で亡くなった人の墓など)、吉原には18世紀半ば以降しか真鍋が住んだ痕跡がない。
3について、この本の発行日の昭和57年から60年前は大正10年ごろである。この父親の代に吉原から米が送られたのか、それともこの父親がそう聞かされていたのか。聞かされていただけとしてそれから百年遡っても江戸時代後期である。当然真鍋島の豪族が讃岐に領地など持てるはずがない。多度郡吉原村はすべて京極丸亀藩の領地である。親戚があってその縁で食糧を送っていたのなら、吉原に真鍋島とつながりのある家がなければならないが、そんな話は聞いた事がない。現時点で吉原に真鍋島と縁つながりがある家は2軒あるが、これは昭和になってからのつながりであり、もちろん真鍋島の真鍋氏や庄屋とは関係がない別の家とのつながりである。。
次の文章では、笠岡代官の陰謀で、真鍋庄屋二郎右衛門が北木島沖で事故死に見せて殺され、その後へ原善兵衛の娘として福山の女郎が嫁いできて、真鍋本家は乗っ取られた、というようなことが書かれているが、これは本当であろうか?
既に述べたようにこの時点では真鍋島庄屋は真鍋家ではない。弾圧を恐れて真鍋姓を隠して三宅姓を名乗ったとするのも、真鍋島古文書をつなぎあわせて読んでみれば、無理がある。
庄屋系図をみれば、確かに原善兵衛の娘が庄屋三宅伝右衛門に嫁いでいるが、それを問題にするなら、その子為右衛門のさらに息子の庄右衛門を差し置いて仁尾の辻新四郎が後を継いでいるが、これは乗っ取られたのではないのだろうか。なぜこれは説明がないのか?


ここへきて101文書というのが出てくる。真鍋島古文書に101文書と書いてあるはずがない。これは「備中眞鍋島の史料 第一巻」が文書整理上つけた通し番号のはずである。101号文書の原本を「真鍋先祖発掘(上巻)」の筆者は見ていないと思われる。
「真鍋先祖発掘(上巻)」より

「備中眞鍋島の史料 第一巻」より

以上、いろいろ検証してみると、「真鍋先祖発掘(上巻)」は当時の歴史や伝承をよく調べ上げて組合わせた、非常によくできた歴史小説であろう。奇想天外で非常に面白いが、最初から「小説」という形を取ってほしかった。