継体大王即位 507年 古墳時代後期 豪族割拠の時代 |
越前からやって来た。それ以前とは別系統の王朝と思われる。その死(531年)も不可解(暗殺?)。死後、内乱(?) |
蘇我VS物部,中臣の崇仏廃仏抗争時代 古代国家の形成時期 |
欽明天皇(崇仏派)仏教公伝第一次崇仏廃仏抗争 562年、任那滅亡 /
敏達天皇(廃仏派=反蘇我)大規模な廃仏毀釈、仏教禁止令 /
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用明天皇(崇仏派)第二次崇仏抗争、在位2年で病没(?)。 / |
蘇我馬子 崇峻天皇 を暗殺 物部氏 滅亡 592年 飛鳥時代 (592〜710) |
崇峻 在位5年。蘇我馬子によって擁立、暗殺された。
587年、丁未の役で聖徳太子らを味方につけた蘇我馬子が、穴穂部皇子を暗殺、 |
物部守屋を滅亡させ。崇仏派勝利で決着。
推古女帝(敏達の妃)が即位(蘇我氏系) 。 推古は後継を指定せず死去。 |
蘇我蝦夷 舒明天皇を立てる 628年 |
敏達天皇の直系(田村皇子=舒明天皇)と用明天皇の直系(山背大兄皇子=蘇我氏系)による皇位継承争い。蝦夷勝利。舒明天皇在位12年 |
蘇我入鹿が山背大兄皇子を襲撃、上宮王家断絶。 643年 |
皇極女帝 在位中は、蘇我蝦夷、入鹿が国政を掌握した。643年 蘇我入鹿は、(蘇我氏系)舒明の第一皇子 古人大兄皇子を皇極の |
次期天皇に擁立しようと、有力なライバル山背大兄王の斑鳩宮を襲撃し一族を全滅させた。 |
乙巳の変 蘇我本家 滅亡 645年 |
645年に中大兄皇子(=天智天皇)が蘇我入鹿を殺害、蘇我蝦夷も自殺、蘇我本家は滅亡(乙巳の変)、 |
古人大兄皇子は出家して吉野へ隠退したが中大兄皇子(=天智天皇)が攻め滅ぼした。中大兄皇子=天智天皇(百済派)の時代となる。 |
皇極女帝は同母弟、軽皇子(=孝徳天皇)に譲位。孝徳天皇の死、暗殺?(654年)後、655年に再び皇位に就いた(斉明女帝) |
660年,百済滅亡、斉明女帝 百済再興の軍が出発する前に死去(暗殺?)。 663年 百済再興戦争 白村江の戦い敗北 |
壬申の乱 672年 / 587年から689年までのもう少し詳しい年表 / 白村江と大津京のGoogleMap
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645年 宮中で蘇我入鹿を殺し、653年皇極、間人皇女とともに、孝徳天皇を捨てて(クーデター)倭飛鳥河辺行宮に移った。中大兄皇子。 |
その天智天皇=中大兄皇子(百済派)死去、殺害?、その後の内乱、天智の皇子、大友皇子 自決。 大海人皇子=天武天皇(新羅派)の勝利。 |
天智と天武は兄弟ではない可能制が高い。日本書紀は天武天皇が編纂を命じた。当然、天武の正統性を主張するもの。 |
また、大海人皇子(=天武天皇)は、白村江の戦い敗北のあと突然登場する。 |
女帝の時代 |
天武天皇が急逝し、天武と持統の皇子、草壁皇子も急死。持統女帝が即位。その後、草壁皇子の子、軽皇子(=文武天皇)も |
その子、首皇子(=聖武天皇)の成人前に死去。元明女帝と元正女帝が後継した。聖武天皇には、男子がなく、娘の孝謙女帝が即位。 |
元明女帝 在位8年、元明女帝の娘 元正女帝在位9年、聖武天皇 749年,娘の孝謙女帝に譲位 独断で出家。 |
長屋王の変 藤原四子政権の時代 729年 奈良時代 (710〜794) |
710年 元明女帝 平城京遷都後、右大臣藤原不比等が政界の中心であったが。聖武天皇 即位の頃は長屋王が急伸しており、 |
藤原四兄弟と衝突。長屋王の変で対立する長屋王を死に追いやった。四兄弟は妹の光明子を聖武の皇后に立て、藤原四子政権を樹立。 |
しかし不比等を含む四兄弟は737年の天然痘の流行により病死。藤原氏の勢力は後退。左大臣 橘諸兄が台頭した。 |
恵美押勝(=藤原仲麻呂)の乱 764年 |
光明 前皇后(藤原光明子)と孝謙女帝 母娘の信任を得て橘氏を抑え権力を掌握した藤原仲麻呂だが、道鏡が権力を急上昇して来た。 |
孝謙 太上 女帝+道鏡と対立した藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)が淳仁天皇を擁立して武力で政権を奪取しようとして失敗した。 |
淳仁は廃位(在位6年)され淡路国に流刑(淡路廃帝)。代わって孝謙が再び天皇(称徳女帝 在位6年)になる。 |
769年 宇佐八幡神託事件(道鏡 皇位簒奪未遂)。770年 称徳女帝 病死(暗殺?)。天武系の皇統 断絶、天智系の皇統復活。 |
井上内親王(廃后)の光仁天皇呪詛事件 772年 |
皇后が光仁天皇を呪詛したとして廃后、他戸親王も皇太子を廃され、幽閉された。775年、幽閉先で他戸親王と共に同日に死去。 |
暗殺説がある。死後怨霊による天変地異が続き御霊神社が創祀された。事件は藤原式家一派の陰謀説がある。 |
井上内親王は、聖武の第一皇女。天武系嫡流。血統も断絶。 これにより桓武が立太子、781年光仁から譲位されて天皇即位。 |
藤原種継暗殺事件 785年 |
桓武(天智系復活2代目) 長岡京遷都 784年ー794年。反対勢力により遷都責任者 太政大臣、藤原種継 暗殺。 |
桓武天皇の皇太子、早良親王を廃嫡、流刑。早良は絶食死し、怨霊となって長岡、平安朝に祟った。794年平安京へ再遷都 |
薬子の変(くすこのへん)=平城太上天皇の変 806年 華麗なる藤原一族 平安時代 (794〜1185) |
桓武の後、長子の平城天皇が即位、次にその弟の神野親王(=嵯峨天皇)が皇太弟になる。しかし平城は自分の直系に継承しようと、 |
嵯峨へ譲位したうえ自身の子、高岳親王を皇太子とした。
これに嵯峨が反発、平城上皇と嵯峨天皇の武力衝突発生、嵯峨が勝利した。 |
嵯峨は弟の大伴親王(=淳和天皇)を皇太弟とし,継承紛争を防ぐために、交互に皇位につく迭立(てつ
りつ)を採用した。
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承和の変 842年 |
この迭立のなかで皇太子 恒貞を廃太子する事件発生。大伴氏、橘氏を排除、藤原氏繁栄の基礎が築かれた。 |
橘逸勢、伊豆へ配流 護送途中 病没(暗殺?)。(上御霊神社の祭神の一人) |
陽成天皇、宮中殴殺事件(?)で退位 883年 |
陽成が内裏で天皇の乳母の子、源益を殴殺する事件発生。陽成天皇暴君説がある。退位に追い込まれ、皇統断絶の危機発生。 |
光孝の子で一度、臣籍に下った源定省(元侍従)が立太子され宇多天皇となった。宇多天皇は菅原道真を用いて藤原氏を牽制。 |
有力貴族の反発により道真901年失脚。大宰府に左遷。死後怨霊となって災いをなした。宇多上皇と醍醐天皇の対立説もある。 |
平将門『新皇』宣言 939年 承平天慶の乱 |
平将門(940年)戦死。藤原純友(941年)戦死。律令国家の崩壊と武士の台頭とを象徴する事件 |
保元の乱 1156年 |
後白河天皇(平清盛らが味方)と兄の崇徳上皇(源為朝らが味方)が対立し、双方が武力衝突 後白河天皇側が勝利。崇徳上皇は讃岐国に流刑。 |
為朝は伊豆大島に流刑。この乱は、 平治の乱の遠因ともなり、日本最初の武士政権である平氏政権の成立に繋がる。 |
壇ノ浦の戦い 1185年 (治承・寿永の乱1180年ー1185年の一部) 鎌倉時代(1185〜1333) |
清盛の孫、安徳天皇が退位しないまま壇ノ浦で死去。後白河法皇の院宣により後鳥羽天皇が即位。安徳の母 建礼門院は救助され |
八咫鏡と神璽(八尺瓊勾玉)は回収されたが、天叢雲剣は回収できなかった。平家物語 巻11-9(先帝身投) 巻11-12(劍) |
承久の乱 1221年 |
後鳥羽上皇が鎌倉幕府 打倒の兵を挙げて敗れた。後鳥羽は隠岐島へ流罪。この結果、幕府が皇位継承などに影響力を持つ。 |
建武の新政 1333年 建武の新政(1333〜1335) 鎌倉幕府打倒後の内乱時期 |
鎌倉幕府打倒、後醍醐天皇(大覚寺統)勝利。光厳天皇(持明院統)を廃位。建武の新政(天皇中心の中央集権)を始める。忽ち内乱。 |
足利幕府 1336年 / 平家滅亡から南北朝合一までの年表 室町時代(1336〜1573) 南北朝時代(1336〜1392) |
鎌倉幕府打倒の功労者、足利尊氏、光明天皇(持明院統)を京都に擁立。後醍醐、吉野へ脱出。南北朝始まる。 |
明徳の和約 1392年 南北朝の合一 |
南朝の後亀山天皇が吉野から京都に帰還、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲って退位 / 1428年 後小松天皇の直系が断絶、 |
伏見宮家から後花園天皇が迎えられた。 この後小松天皇は足利義満の子ではないかという説がある。 |
義満は朝廷への影響を強め(義満の院政)と呼ばれる権勢を振るった。1402年 足利義満、明の永楽帝より「日本国王」の称号を獲得。 |
禁闕の変(きんけつのへん) 後花園天皇 内裏 襲撃事件 1443年 |
吉野朝廷復興を唱える勢力が御所に乱入し、三種の神器の剣と神爾を奪い比叡山へ逃れた。数日で鎮圧。 |
室町時代中期以降は、皇室の権威が低下、皇位継承紛争も無くなった。 |
1467年
応仁の乱
(戦国時代に突入するきっかけとなった) /
1493年
明応の政変
(足利将軍廃立事件) / |
1573年 室町将軍足利義昭、織田信長によって京都から追放され室町幕府が消滅。 |
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ばかばかしい王権神授説 / 天武天皇の年齢研究−継体天皇の崩御
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新説・日本の歴史第35弾 継体天皇の真相 / |
定例勉強会「継体大王の時代 国家形成前夜」 / |
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