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継体天皇陵 / 今城塚古墳 / 藤原鎌足の墓
 謎の大王墓 (大 阪 北 部 の 古 墳 を 見 る)

謎の大王、継体大王  
 
 503年 斯盧国 国号を新羅と変更。(新羅) 半島は、高句麗、新羅、百済の3国時代。高句麗は扶余系(ツングース系)民族国家
 506年 暴虐の悪王??、武烈が後嗣定めず死去??。大連の大伴金村ら越前に赴いて男大迹王(継体)を大王に推戴??。
 507年 樟葉宮(くすばのみや)大阪府枚方市楠葉丘で即位。58歳。武烈の姉を皇后とする。
 511年 筒城宮(つつきのみや)京都府京田辺市多々羅都谷へ移動
 518年 弟国宮(おとくにのみや)京都府長岡京市今里へ移動。(大和へは未だ進駐できず?)
 526年 即位から19年。都を磐余玉穂宮(奈良県桜井市)におき その直後 継体は百済救援の軍を送った。
 527年 新羅が任那(伽耶)南部を占領。新羅と結んだ筑紫君磐井により、九州北部で磐井の乱(527年〜528年)が勃発。
 528年 新羅、仏教を国教とする。(新羅) / 磐井の乱鎮圧。?
 531年 後継を皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位、その同じ日に死去。古事記では没年527年
  天皇及び太子,皇子が同時に死んだとの説もある。日本書紀『百済本記』継体天皇
  継体の後、安閑天皇(即位4年で死去)、宣化天皇(在位3年)、欽明天皇が即位。となっているが
  安閑、宣化朝廷と欽明朝廷が並存、あるいは内乱という説がある。 なお天皇の呼称は天武以降である。
  562年、新羅が任那を滅ぼす。欽明は新羅に軍を送るが、奪還はならず。
  古墳時代後期の古墳   今城塚古墳(大阪府高槻市、真の継体陵) / 敏達陵古墳(大王陵最後の前方後円墳)
  古墳時代終末期の古墳  石舞台古墳 / 高松塚古墳 / キトラ古墳
  古代国家の形成     安閑、宣化、欽明とされる時代(531年 -571年)に、初期の古代国家が形成されていった。
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 本当の継体陵と思われる今城塚古墳、6世紀前半の築造(大阪府高槻市)
 
 今城塚古墳座標:34.850254,135.594158 GoogleMap
 5世紀の中頃築造だが継体陵に指定されている太田茶臼山古墳(大阪府茨木市)34.844603,135.578434
 樟葉宮伝承地 (大阪府枚方市楠葉丘)34.868363,135.690894
 磐余玉穂宮伝承地 (奈良県桜市池之内)34.497184,135.830197
 付近にある著名な古墳、藤原鎌足の墓(?)茨木市大字安威と高槻市奈佐原の市境にある阿武山古墳34.863574,135.569401
 筑紫君磐井の墓 (国 史跡) 福岡県八女市 九州地方最大級の前方後円墳33.2295699,130.5526829
 
 継体以前の王朝墓 南大阪、羽曳野の百舌鳥 、古市古墳群
 継体大王は、百舌鳥古墳群 古市古墳群 築造の終末期に登場した。前王朝の墳墓群を見る。
 大仙陵古墳   34.563933,135.487311  宮内庁により仁徳天皇の陵墓に治定されている。
 上石津ミサンザイ古墳   34.554636,135.478008   履中天皇陵とされるが大仙陵古墳より古い。
 誉田御廟山古墳   34.5626,135.609211   宮内庁により応神天皇の陵墓に治定されている。
 仲津山古墳   34.570067,135.612386   宮内庁によって、仲津媛(応神天皇の皇后)の陵墓に治定されている。
 市ノ山古墳   34.573864,135.616547   宮内庁によって允恭天皇の陵墓に治定されている。
 岡ミサンザイ古墳   34.565278,135.593889   宮内庁によって仲哀天皇の陵墓に治定されている。
 軽里大塚古墳   34.551389,135.603889   宮内庁によって、日本武尊(景行天皇皇子)白鳥陵に治定されている。

 継体大王から南北朝まで
王権をめぐる争いの歴史



 継体大王即位 507年 古墳時代後期 豪族割拠の時代
 越前からやって来た。それ以前とは別系統の王朝と思われる。その死(531年)も不可解(暗殺?)。死後、内乱(?)
 蘇我VS物部,中臣の崇仏廃仏抗争時代 古代国家の形成時期
 欽明天皇(崇仏派)仏教公伝第一次崇仏廃仏抗争 562年、任那滅亡 /  敏達天皇(廃仏派=反蘇我)大規模な廃仏毀釈、仏教禁止令 / 
 用明天皇(崇仏派)第二次崇仏抗争、在位2年で病没(?)。 / 
 蘇我馬子 崇峻天皇 を暗殺 物部氏 滅亡 592年 飛鳥時代 (592〜710)
 崇峻 在位5年。蘇我馬子によって擁立、暗殺された。 587年、丁未の役で聖徳太子らを味方につけた蘇我馬子が、穴穂部皇子を暗殺、
 物部守屋を滅亡させ。崇仏派勝利で決着。 推古女帝(敏達の妃)が即位(蘇我氏系) 。 推古は後継を指定せず死去。
 蘇我蝦夷 舒明天皇を立てる 628年
 敏達天皇の直系(田村皇子=舒明天皇)と用明天皇の直系(山背大兄皇子=蘇我氏系)による皇位継承争い。蝦夷勝利。舒明天皇在位12年 
 蘇我入鹿が山背大兄皇子を襲撃、上宮王家断絶。 643年
 皇極女帝 在位中は、蘇我蝦夷、入鹿が国政を掌握した。643年 蘇我入鹿は、(蘇我氏系)舒明の第一皇子 古人大兄皇子を皇極の
 次期天皇に擁立しようと、有力なライバル山背大兄王の斑鳩宮を襲撃し一族を全滅させた。
 乙巳の変  蘇我本家 滅亡  645年
 645年に中大兄皇子(=天智天皇)が蘇我入鹿を殺害、蘇我蝦夷も自殺、蘇我本家は滅亡(乙巳の変)、
 古人大兄皇子は出家して吉野へ隠退したが中大兄皇子(=天智天皇)が攻め滅ぼした。中大兄皇子=天智天皇(百済派)の時代となる。
 皇極女帝は同母弟、軽皇子(=孝徳天皇)に譲位。孝徳天皇の死、暗殺?(654年)後、655年に再び皇位に就いた(斉明女帝)
 660年,百済滅亡、斉明女帝 百済再興の軍が出発する前に死去(暗殺?)。 663年 百済再興戦争 白村江の戦い敗北
 壬申の乱 672年  / 587年から689年までのもう少し詳しい年表 / 白村江と大津京のGoogleMap
 645年  宮中で蘇我入鹿を殺し、653年皇極、間人皇女とともに、孝徳天皇を捨てて(クーデター)倭飛鳥河辺行宮に移った。中大兄皇子。
 その天智天皇=中大兄皇子(百済派)死去、殺害?、その後の内乱、天智の皇子、大友皇子 自決。 大海人皇子=天武天皇(新羅派)の勝利。
 天智と天武は兄弟ではない可能制が高い。日本書紀は天武天皇が編纂を命じた。当然、天武の正統性を主張するもの。
 また、大海人皇子(=天武天皇)は、白村江の戦い敗北のあと突然登場する。
 女帝の時代
 天武天皇が急逝し、天武と持統の皇子、草壁皇子も急死。持統女帝が即位。その後、草壁皇子の子、軽皇子(=文武天皇)も
 その子、首皇子(=聖武天皇)の成人前に死去。元明女帝と元正女帝が後継した。聖武天皇には、男子がなく、娘の孝謙女帝が即位。
 元明女帝 在位8年、元明女帝の娘 元正女帝在位9年、聖武天皇 749年,娘の孝謙女帝に譲位 独断で出家。
 長屋王の変 藤原四子政権の時代 729年 奈良時代 (710〜794)
 710年 元明女帝 平城京遷都後、右大臣藤原不比等が政界の中心であったが。聖武天皇 即位の頃は長屋王が急伸しており、
 藤原四兄弟と衝突。長屋王の変で対立する長屋王を死に追いやった。四兄弟は妹の光明子を聖武の皇后に立て、藤原四子政権を樹立。
 しかし不比等を含む四兄弟は737年の天然痘の流行により病死。藤原氏の勢力は後退。左大臣 橘諸兄が台頭した。
 恵美押勝(=藤原仲麻呂)の乱 764年
 光明 前皇后(藤原光明子)と孝謙女帝 母娘の信任を得て橘氏を抑え権力を掌握した藤原仲麻呂だが、道鏡が権力を急上昇して来た。
 孝謙 太上 女帝+道鏡と対立した藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)が淳仁天皇を擁立して武力で政権を奪取しようとして失敗した。
 淳仁は廃位(在位6年)され淡路国に流刑(淡路廃帝)。代わって孝謙が再び天皇(称徳女帝 在位6年)になる。
 769年 宇佐八幡神託事件(道鏡 皇位簒奪未遂)。770年 称徳女帝 病死(暗殺?)。天武系の皇統 断絶、天智系の皇統復活。
 井上内親王(廃后)の光仁天皇呪詛事件 772年
 皇后が光仁天皇を呪詛したとして廃后、他戸親王も皇太子を廃され、幽閉された。775年、幽閉先で他戸親王と共に同日に死去。
 暗殺説がある。死後怨霊による天変地異が続き御霊神社が創祀された。事件は藤原式家一派の陰謀説がある。
 井上内親王は、聖武の第一皇女。天武系嫡流。血統も断絶。 これにより桓武が立太子、781年光仁から譲位されて天皇即位。
 藤原種継暗殺事件 785年
 桓武(天智系復活2代目) 長岡京遷都 784年ー794年。反対勢力により遷都責任者 太政大臣、藤原種継 暗殺。 
 桓武天皇の皇太子、早良親王を廃嫡、流刑。早良は絶食死し、怨霊となって長岡、平安朝に祟った。794年平安京へ再遷都
 薬子の変(くすこのへん)=平城太上天皇の変 806年 華麗なる藤原一族 平安時代 (794〜1185)
 桓武の後、長子の平城天皇が即位、次にその弟の神野親王(=嵯峨天皇)が皇太弟になる。しかし平城は自分の直系に継承しようと、
 嵯峨へ譲位したうえ自身の子、高岳親王を皇太子とした。 これに嵯峨が反発、平城上皇と嵯峨天皇の武力衝突発生、嵯峨が勝利した。
 嵯峨は弟の大伴親王(=淳和天皇)を皇太弟とし,継承紛争を防ぐために、交互に皇位につく迭立(てつ りつ)を採用した。
 承和の変 842年
 この迭立のなかで皇太子 恒貞を廃太子する事件発生。大伴氏、橘氏を排除、藤原氏繁栄の基礎が築かれた。
 橘逸勢、伊豆へ配流 護送途中 病没(暗殺?)。(上御霊神社の祭神の一人)
 陽成天皇、宮中殴殺事件(?)で退位 883年
 陽成が内裏で天皇の乳母の子、源益を殴殺する事件発生。陽成天皇暴君説がある。退位に追い込まれ、皇統断絶の危機発生。
 光孝の子で一度、臣籍に下った源定省(元侍従)が立太子され宇多天皇となった。宇多天皇は菅原道真を用いて藤原氏を牽制。
 有力貴族の反発により道真901年失脚。大宰府に左遷。死後怨霊となって災いをなした。宇多上皇と醍醐天皇の対立説もある。
 平将門『新皇』宣言 939年 承平天慶の乱
 平将門(940年)戦死。藤原純友(941年)戦死。律令国家の崩壊と武士の台頭とを象徴する事件
 保元の乱 1156年
  後白河天皇(平清盛らが味方)と兄の崇徳上皇(源為朝らが味方)が対立し、双方が武力衝突 後白河天皇側が勝利。崇徳上皇は讃岐国に流刑。
 為朝は伊豆大島に流刑。この乱は、 平治の乱の遠因ともなり、日本最初の武士政権である平氏政権の成立に繋がる。
 壇ノ浦の戦い 1185年 (治承・寿永の乱1180年ー1185年の一部) 鎌倉時代(1185〜1333)
 清盛の孫、安徳天皇が退位しないまま壇ノ浦で死去。後白河法皇の院宣により後鳥羽天皇が即位。安徳の母 建礼門院は救助され
 八咫鏡と神璽(八尺瓊勾玉)は回収されたが、天叢雲剣は回収できなかった。平家物語 巻11-9(先帝身投) 巻11-12(劍)
 承久の乱 1221年 
 後鳥羽上皇が鎌倉幕府 打倒の兵を挙げて敗れた。後鳥羽は隠岐島へ流罪。この結果、幕府が皇位継承などに影響力を持つ。
 建武の新政 1333年 建武の新政(1333〜1335) 鎌倉幕府打倒後の内乱時期
 鎌倉幕府打倒、後醍醐天皇(大覚寺統)勝利。光厳天皇(持明院統)を廃位。建武の新政(天皇中心の中央集権)を始める。忽ち内乱。
 足利幕府 1336年 / 平家滅亡から南北朝合一までの年表 室町時代(1336〜1573) 南北朝時代(1336〜1392)
 鎌倉幕府打倒の功労者、足利尊氏、光明天皇(持明院統)を京都に擁立。後醍醐、吉野へ脱出。南北朝始まる。
 明徳の和約 1392年 南北朝の合一
 南朝の後亀山天皇が吉野から京都に帰還、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲って退位 / 1428年 後小松天皇の直系が断絶、
 伏見宮家から後花園天皇が迎えられた。 この後小松天皇は足利義満の子ではないかという説がある。
 義満は朝廷への影響を強め(義満の院政)と呼ばれる権勢を振るった。1402年 足利義満、明の永楽帝より「日本国王」の称号を獲得。
 禁闕の変(きんけつのへん) 後花園天皇 内裏 襲撃事件 1443年
 吉野朝廷復興を唱える勢力が御所に乱入し、三種の神器の剣と神爾を奪い比叡山へ逃れた。数日で鎮圧。
 室町時代中期以降は、皇室の権威が低下、皇位継承紛争も無くなった。
 1467年 応仁の乱 (戦国時代に突入するきっかけとなった) /  1493年 明応の政変 (足利将軍廃立事件) / 
 1573年 室町将軍足利義昭、織田信長によって京都から追放され室町幕府が消滅。
 
 
 
 ばかばかしい王権神授説 / 天武天皇の年齢研究−継体天皇の崩御  /  新説・日本の歴史第35弾 継体天皇の真相 / 
 定例勉強会「継体大王の時代 国家形成前夜」 / 
 







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