ボリシェヴィキ権力とロシア農民
第八章 ロシア農村の危機
梶川伸一
(注)、これは、梶川伸一名城大学助教授著『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』(ミネルヴァ書房、1998)における第八章全文の抜粋です。梶川氏は、現在、金沢大学文学部教授です。前著『飢餓の革命』では、「ロシア十月革命と農民」のテーマで、十月革命、1918年5月の食糧独裁令強行、農村における階級闘争を引き起こすための貧農委員会組織化とその失敗・18年秋の解散までを分析しました。
本書は、その続編となる631ページの大著です。食糧独裁令の第2過程「割当徴発制」を18年秋から1920・21年の大規模な農民反乱まで研究した内容です。このHPでの抜粋個所は、ネップ導入の直前での「第八章・ロシア農村の危機」全文を載せ、それとの関係で、「はしがき」「序章・戦時共産主義と農民」全文を載せました。3つの文が長いので、第八章を分割ファイルにしました。このHPに転載することについては、梶川氏の了解を頂いてあります。
〔目次〕
はしがき 全文(別ファイル)
序章・戦時共産主義と農民 全文(P.1〜20)(同)
第一章〜第七章までの「目次」のみ (P.29〜560)(同)
第八章・ロシア農村の危機 全文(P.561〜615)
一、割当徴発への不満
二、凶作に直面して
五、タムボフ反乱
(1)反乱がはじまる
(2)反乱を根絶せよ
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梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1918年
梶川伸一『幻想の革命』ネップ「神話」の解体
Amazon『梶川伸一』で著作4冊リストと注文
1918年5月、9000万農民への内戦開始・内戦第2原因形成
『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』
クロンシュタット水兵の平和的要請とレーニンの皆殺し対応
『ペトログラード労働者大ストライキとレーニンの大量逮捕・弾圧・殺害手口』
『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが「殺した」自国民の推計』
ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り
P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』クロンシュタット綱領と農民反乱との関係
割当徴発はさまざまな形で農民経営に否定的影響をおよぼした。一九年春の最初のカムパニアですでに消費基準も残さず一切合切取り上げているとの多数の事実が報告された。三月にヴォログダ県ニコリスク郡でエイジェントは穀物を残すことを拒否して、文字どおりすべての穀物を搬出し、畑は播種されないままに残された。ウファー県ビルスク郡の郷は、種子も飼料も何も残さずあらゆる穀物を汲み出している食糧部隊に憤慨していると、二月にレーニンに訴えた。食糧部隊は穀物を取り上げ、新しい収穫までライ麦藁以外何も残っていない者から家畜を奪った、播種面積は縮小し、民衆は動揺し、家畜なしになってしまうと中央に訴えた。ペルミ県オサ郡の村では割当徴発の際に、すべての穀物と飼料が徴収された替わりにほとんど何も提供しない配給券が交付された。種子と牽引力の不足は農業を崩壊させつつあった。
ヴィヤトカ県の二〇年二月の郡農業部代表者大会で、軍用馬の徴収により役馬が減少し、たとえばノリンスク郡で通常役馬一頭当たりの耕地は六〜七デシャチーナであるが、このためそれは一一デシャチーナにもなり、牽引力不足の下で大きな播種不足になることが予測された。栄養失調と度重なる荷馬車賦課で消耗した馬に、もう耕作する力は残されていなかった。一九年一二月の第七回全ロシア・ソヴェト大会で県代表は、割当徴発のために県に著しい播種不足が生じたことに触れ、「割当徴発は不適切に行われ、余りにも大きい。これは未来にとって損失をもたらすだけであろう」とその危険性をはっきりと指摘した。現地農民は飢餓に喘ぎ、強制的徴発の後に残る何もない畑を見て絶望感に陥った。ノリンスク郡の郷に力のおよばない穀物の任務命令が課せられた。割当徴発の完遂のために遠征部隊は武器の威嚇の下に貧農も斟酌せず、すべての種子材、いくつかの村落では食糧を取り上げた。郷の住民の状態は危機的で、二〇年の春蒔きが迫り、種子不足から住民はパニックに陥った。マルムィジ郡でも食糧活動家は住民と家畜にいかなる基準も残すことなく最後の穀物を奪い、住民は飢餓に恐れ動揺していた。
これは県の政治的気分にはっきりと反映され、三月の政治的情勢に関する内務人民委員部の報告書で次のように述べられた。ヴィヤトカ郡で、食糧問題は非常に尖鋭化している。穀物の強制的収用と低い消費基準のために住民に余剰が残されず、穀物専売に敵意を抱いている。コテリニチ郡で、追加割当徴発により多くの市民は種子材を取り上げられ、そのため住民大衆は直接行動はなかったが、ソヴェト権力への不満を表明した。マルムィジ郡で、住民の食糧政策への対応は以前どおりまずい。ノリンスク郡で、隣接の郡ではまったくわずかな量しか課税されず、そこでは穀物の投機も行われていることに住民は憤慨している。播種期が近づくと事態はより深刻になった。四月末にヤランスク郡の郷で、集荷所から一〇〇〇プードの種子用穀物が郷執行委員を巻き込む住民の直接行動により略奪され、その際国内保安軍の指揮官が殺害された。ノリンスク郡でも播種用の穀物がまったく確保されていないために、住民の不満が高まり、多数の郷の住民が群集となって、集荷所から穀物の搬出を妨害した。郡軍事コミサールは鎮圧に部隊を派遣した。サラブル郡の郷で無秩序状態безпорядкиが起こり、郷全権が殺害された。
マルムィジ郡の市民から県食糧委への申請書は次のように訴えた。
現在われわれのマルムィジ郡ノヴォマルマンスカヤ郷で、到来したショーロホフの指導の下に遠征部隊が穀物の徴収を行っている。ショーロホフは郷集会を召集し、課せられている穀物割当徴発の八〇パーセントを汲み出すことが必要であると宣言した。われわれの郷にライ麦だけで一三万プード、それにオート麦三万プードのほかにまったく播種されていない大麦、小麦、[搾油用]種子、麻、蕎麦が課せられた。ショーロホフはこれらの八〇パーセントを汲み出すことが是非とも必要であると言明した。彼は食糧部隊員のライフル銃を指して力ずくでこれを行うことができるといっている。集会は捕らわれの身同然で、扉には食糧部隊員が立ち誰も通さず、割当徴発が強要され署名が行われた。だがそれはもちろん恐怖から。なぜなら、集会は威嚇されていたので。それでも村落ソヴェトの半数は穀物割当徴発に署名せず、遂行すべき穀物がないことを明言すると、直ちに逮捕され護送されたが、現在われわれは彼らがどこに送られたのか知らない。いくつかの村落ソヴェトは、どれだけの穀物が収集され、播種はどのようで、収穫と播種と扶養にどれだけが必要かの情報を提供した。ブトーリン(地区指導官)は、農民の腹は、穀物を食べる権利を持たないかのように都合よく収まることができるといって馬鹿笑いをした。ショーロホフは、昨年マルムィジ郡で七五〇万プードの穀物割当徴発が課せられたが、われわれの地域で軍事作戦があったため現在[納付は]二〇〇万しかないと難詰した。ショーロホフは、ゴグルト村を指して、穀物が集荷所に運ばれていないと語り、再びライフル銃を示して、昨日軒並みの捜索を行い三人から摘発したと述べ(プード数は明らかにしなかった)、彼ら怠業者は白衛軍兵士を待ち望んでいるのだと語った。われわれは、以前のそして現在の条件ではひどく不安なので、何人かの農民は最後の穀物を隠匿している。しっかりとそう確信している。いくつかの村で隠匿穀物が見つかり、そのような村では一人に一カ月分の穀物しか残されず、怠業者と見なされるとすべてが取り上げられ馬にいたる家畜が運び出される。もし算定された穀物割当徴発を遂行するなら、多くの農民からほとんどすべてが[取り上げられ]、一粒の穀物もなくなり、餓死で破滅するに違いない。農民たちは餓死しないよう、なけなしのプードを隠匿している。まさに人生は生存のための闘争であり、それでもわれわれは怠業者として非難されている。最後のフントをも取り上げるというなら、本当に農民たちは餓死で破滅するに違いない。まさに農民はもっとも主要な有機体、生きた力、生きた労働であり、存在する生命が生きることのできるロシアの血液である。もし農民がいなければ、血液がなければ生命は停止するに違いない。われわれの所で中央からのそのようなプリカースが進行しているが、一般に誰も食糧部隊員の資格証もプリカースも、いかなるプリカースによって彼らが行動しているのかも照会することができない。虐げられおびえた民衆は、誰にも賛成も反対もいうことはできない。銃殺すると脅され逮捕されるのだ。彼らの仕事を注視しても差し支えないだろうか。彼らの仕事を監視しても差し支えないだろうか。彼らは労農ソヴェトの権力を掘り崩し、われわれの間にパニックを生み出し、飢えさせて、黙々と破滅を運命づけているのではないだろうか。
五月七日の党県委会議で、蜂起の参加者を根絶するため全県に戒厳令を布告することが決議されたが、それ以後の状況は急速に悪化した。ヤランスク郡で、種子と食糧の不足のために組織的激発вспышкиが起こり、一連の郷での直接行動は激しくなり、「食糧軍兵士が殺害された。事態は深刻であり、畑に完全に播種する期待はなく、種子の再分配は成果をもたらさず、クラークは種子余剰を売りさばき、貧農は種子を持っていない。農村の直接行動は一致団結している」と、郡執行委議長は報告した。遠征隊により種子が徴収されるだけで交付はされず、播種面積は四分の一に縮小されることが予想されたノリンスク郡の地区で、村落の要求によりその代表に集荷所の鍵が引き渡されたが、それに対して、食糧軍兵士部隊が送られた。六月の住民の気分はきわめてひどいと報告された。農民は反権力の立場を採り、生活の改善を要求し、現在の秩序は堪え難いと見ている。この状態は、種子と食糧の不足を招いた食糧政策によって引き起こされ、クラークは農民大衆の中にソヴェト活動家への共通の不満を利用して、彼らに騒擾を植えつけている。そのためこれら活動家は活動が困難になり、生命が危険に晒され、特にこれは食糧活動家と食糧軍兵士に顕著に現れている。八月二二日の第八回オルロフ郡ソヴェト大会で、「郡で食糧部隊は適正に活動せず、手に入る物すべてを厚かましくも徴収し、農民の最後の牛乳を飲み干し、軍服などを没収し、このようにして住民をおびえさせている」と部隊の活動が非難され、さまざまな地区の代表により、部隊は郷執行委の認可なしで活動しているだけでなく、郷執行委を逮捕するような不法行為が指摘され、農民はソヴェト権力からの離反傾向を強めた。ロシア共和国で唯一、一九/二〇年度の割当徴発を完遂することができたヴィヤトカ県は、その代償に反ソヴェト運動と播種不足を払わなければならなかった。
飢餓と凶作の下で割当徴発の危険性は早くから指摘され、リャザニ県ではすでに一九年秋のカムパニアで、次のような内容の記事が県執行委機関紙に掲載された。
今年の食糧カムパニアは非常に苦しい条件で行われている。もっとも穀物が豊かな南部郡は水腐れのために凶作である。県統計局(播種面積)と県食糧委(試験脱穀)の資料によれば、全県の収穫は平年より五七パーセント少ない。ライ麦の不足は九〇〇万プード。県は生産県でないことを示す一連の客観的資料にもかかわらず、食糧人民委員部により生産県と認定されライ麦二五〇万プードとオート麦四五〇万プードの食糧任務命令が与えられた。所与の条件で余剰の収用の活動はとても難しい。なぜなら、この量のほかに飢えている県北部郡と都市のためにほぼ同量を収用しなければならないので。このような条件で、中央と友好дружбаを保持し、農村でわれわれの政策を実施することはほとんどできない。全体的に食糧郡の各村での[土地の]均等分割のためにわずかしか余剰を持たない農民グループは非常に大きく、余剰の収用の活動をするのに現地で依拠する者がいない。
このため、大部分の村で農民は自分たちで収用の際に頭割りで割当配分を行い、これを禁止することはほとんどできない。それで農民はソヴェト権力に対して反乱を起こしている。われわれの食糧組織の劣悪な活動能力を考慮し、もし食糧活動が、官僚主義とお役所仕事に埋没している食糧委だけに課せられるなら、この巨大な任務に対応できず食糧カムパニアは挫折する。
このような食糧政策への地方権力からの非難は、二〇年に飢餓が深刻になるにつれ強まった。地方組織は中央へ食糧の搬出を拒否し、現地での食糧の確保をはかり、これは食糧人民委員部により厳しく弾圧された。命令書なしに穀物貨物の発送を禁じたヤロスラヴリ県食糧コミサールと、乾燥野菜と食用馬鈴薯の県内への出荷を行った県調達部部長は、七月に食糧人民委員部参与の命令により拘留され、このような県チェー・カーと県執行委に出された県食糧参与の逮捕命令は伝染病のように食糧組織に広がり、県食糧委は活動不能に陥った。
農民はさまざまな集会で割当徴発の拒否や反村を決議しはじめた。春にゴメリ県スラジ郡の村で臨時郷ソヴェト大会が開かれ、国家割当徴発の停止が決議された。郷全体がきわめて貧困で困窮しているにもかかわらず、「すでに一再ならず強制的徴収を超えてできるものはすべて差し出した。もう徴収部隊が到着した」。一一月はじめに同県の村で割当徴発の問題が審議され、「割当徴発が自発的に遂行されなければ、このために部隊による抑圧的措置が採られ、それは経営を考慮せず、恐らく最後の穀物と家畜まで没収するであろう」との指令にもかかわらず、割当徴発を遂行することはできないと中央に訴えるための全権が村全体集会で選抜された。リャザニ県ダンコフ郡の郷大会は、飢餓住民への食糧の支給の要請が充たされなければ、郷での無秩序との闘争の責任を回避すると決議した。
すでに二月にウファー県などの一連の郡で反割当徴発の大規模な農民反乱が猖獗していた。二月四日にウファー県メンゼリンスク郡の村に三五人の食糧部隊が到着し、農民集会で逮捕の威嚇の下に割当徴発の完遂を要求した。村人は郷執行委に武器で脅されて余剰の引渡しに合意したと訴え、郷執行委議長の臨席の下の農民全体集会で穀物がないので割当徴発を完遂できないと決議した。郷執行委議長が立ち去った後、部隊は村に戒厳令を布き、住民二〇人を捕らえ、寒い納屋に拘束した。七日に逮捕者の釈放を求めたが、拒否された農民は部隊に対して決起し、部隊は敗走した。隣接村に蜂起を促す急使が送られた。郡チェー・カー議長と民警署長が殺害され、一一日にメンゼリンスクに反乱鎮圧特別委が設置され、市と郡に戒厳令が布告されたが、反乱は瞬くうちに広がり、二月半ばまでにメンゼリンスク郡から、ベレベイ、ビルスク、ウファー郡、カザン県チストポリ郡、サマラ県ブグリマ郡におよんだ。これら反乱の基本的原因は食糧割当徴発への農民の不満であった。チストポリの村に叛徒が現れ、ナバートが鳴らされ、「人民農民軍」への動員を訴えた。その数は四〇〇〇人に達した。多くの村や郷で反乱鎮圧のための革命委が設置され、ブグリマ郡ではクラークが人質になった。現地の軍事部隊では鎮圧は不可能で、西部方面軍が動員され、四〇万の参加者ともいわれるこの反乱が鎮圧され、ウファー県で戒厳令が解除されたのは三月三〇日であった。
ヂェニーキン軍との南部戦線に位置するクルスク県で行政機関は解体され、資金は枯渇し、一九/二〇年度に一〇〇〇万プードの割当徴発が課せられたが、全県で尽力しても約一〇〇万プードだけしか執行できないと決議された。食糧人民委員部特別全権としてカガノーヴィッチが送られ、割当徴発の遂行の強化がはかられた。県では一九年冬から飢えと寒さに悩まされ、栄養失調によるチフスが猛威を奮っていた。収穫はきわめて悪く、秋蒔きの七〇パーセントが絶滅した。土地は播種されず、農民は穀物を保持しようとし、割当徴発はほとんど遂行されなかった。一月で割当量の残り九〇〇万プードのうち二パーセントが遂行されただけで、県食糧委により割当徴発の遂行まで商品の供給は停止された。農民の中で割当徴発への不満は高まり、四月一六日にグライヴォロン郡ヴィヤゾヴォエ村で武装蜂起が勃発した。近隣の郷から村に派遣された部隊の一部は武装解除され、一部は潰走した。党郡委により参謀本部が設置され、すべてのコムニストが動員され、戒厳令が布告された。クルスクに援軍が要請された。偵察隊によれば、叛徒は七丁の機関銃を持つ七〇〇人で、近隣の村に動員をかけたが成功しなかった。二一日払暁、糾合された部隊はヴィヤゾヴォエ村に攻撃をかけた。半鐘が乱打され、喇叭が鳴らされ、銃撃がはじまった。一時間半の戦闘で部隊は三〇人以上の死傷者を出し、村を占拠することができた。だがこの事件は決して特異な現象ではなく、五月一八日に県執行委は、割当徴発の不履行、すでに集荷された穀物の略奪、県内で広まりつつある匪賊行為などとの闘争は通常の条件では不可能であるとし、戒厳令の布告を要請した。こうした農民の抵抗の結果、六月はじめの県食糧コミサール代理の報告によれば、県の割当徴発量穀物九〇〇万プード、搾油用種子一八九万三六八〇プードのうち穀物一八六万九九一〇プード、搾油用種子三万六二〇七プードが調達されただけであった。このカムパニアで、県内でもっとも順調に調達が進捗したスジャ郡で、全権はまったく根拠なしに党員を逮捕し、農民を銃殺し、公文書で地方権力の代表を犯罪的怠け者と名指しし、独裁者としてあらゆる郡権力の業務に介入するような異常な現象も生まれ、党郡組織は彼の召喚を要求した。抑圧による遂行に限界があることは明白であった。県執行委総会は穀物汲み出しの最後の措置として、必需品の個人的プレミア制を採用することを決議した。県執行委は、唯一の解決策として中央の食糧政策に反する措置を余儀なくされたと、六月に県執行委議長と県食糧コミサールは報告した。地方権力は徐々に中央の政策からの離反傾向を示しはじめた。
六月の第二回全ロシア食糧会議でフルームキンは、割当徴発は人気がなく、技術的ならびに政治的疑念を引起こし、これはウクライナ、シベリア、北カフカース、消費諸県の若干の県食糧委で認められることを告白した。これは食糧人民委員部の指導者が公然と割当徴発を批判した最初であった。
このような現象を許さないためにも、あらゆる措置を採り割当徴発を完遂することが要求された。チェリャビンスク県で五月に県執行委と[党]県委により、食糧活動に二六人の責任ある活動家が動員され、県食糧会議のプリカースで郡と地区のあらゆるソヴェト、党組織のすべての力を割当徴発の遂行に動員し、軍事体制で直ちに遂行すよう命じられ、それぞれの地区で割当徴発の遂行率が引き上げられた。七月二九日のCHK会議の決議に準じて、県食糧コミサール、県執行委議長、県軍事委宛てに、割当徴発を有無をいわさず遂行することを義務づけ、断固としたいかなる措置をも躊躇するなとのレーニンの電報が送られた。カザン県で、二〇以上の穀物地区に優れた食糧、党とソヴェトのすべての活動家が投入され、食糧部隊が送られた。穀物の汲み出しは突撃的やり方でударными приемами行われた。つまり村・郷ソヴェト議長を逮捕し、人質を取り、財産を没収し、穀物の納付を強制したが、それでも結果はまったく惨めであった。住民自身はかような抑圧の下でも割当穀物を引き渡さなかった。世帯毎に探索し徴収するために穀物地区に食糧部隊が集中され、食糧全権が派遣された。そこでの打開策を県革命委議長と党県委議長は次のように表明した。「市のプロレタリアの需要のために地区から最後のプードを搬出すれば、郡部は穀物なしになる。集荷が増加しなければカザンの労働者のパン配給券の縮小を余儀なくされる。中央への穀物の配送について期待に沿うことはできない」。こうして中央の任務命令は拒絶された。
二〇年の収穫以前にすでに凶作は動かし難いものになっていた。ヴォルガ全流域の収穫は非常に悪く、サマラやサラトフの多くの地方で、熱風のために穀物は全滅したことが七月に判明した。全ロシア食糧会議で、ヴィヤトカ県は播種の七五パーセントまでが絶滅したと報告された。ロシアのいたるところで農業危機が顕在化し、それにともない割当徴発の遂行が困難になろうとするとき、割当徴発への批判がようやく公然と中央で叫ばれるようになった。タムボフ、ヴラヂーミル、モスクワ、オリョール、スモレンスク県など各地から、旱魃による凶作のために食糧割当徴発の遂行が不可能であるとの請願が届けられ、「発言者の多数が直接にも間接にも中央権力を弾劾した」一〇月一五日の郡・郷・村執行委モスクワ県大会でレーニンは、二、三週間前にCHK会議で割当徴発が法外に重いということが検討され、割当徴発の緩和が決定されたと報告した。この報告のように、中央権力の中でも農業生産と割当徴発の問題が取り上げられるようになり、九月二八日のCHK会議で穀物割当徴発と凶作の相関関係の問題と、割当徴発の未徴収の問題が議論された。だが、この時期採られた方針は、亜麻のような工芸作物の播種拡大と飢餓農民への援助措置であり、制度としての割当徴発の見直しにはいたらなかった。
飢餓農民への援助に関して、九月の食糧人民委員部参与会で、飢餓住民への食糧援助を組織することが原則的に必要と見て、その草案の作成を部内総務管理局に委ね、その際に援助の問題を割当徴発の一〇〇パーセント遂行の実現と結びつけることが強調された。一三日に、凶作による飢餓農民への方策の作成に早急に取りかかることが食糧人民委員部から県食糧委に通知され、そこでは全般的凶作の下で農民住民に現地の食糧資源を再配分して利用することが想定された。飢餓農民への食糧援助の資源として割当徴発は考慮されなかった。二九日にブリュハーノフにより援助の指令が承認されたが、これは特に凶作を蒙った五県(カルーガ、ブリャンスク、オリョール、トゥーラ、ツアリーツィン)を対象とし、通常は副次的意味しかない食糧生産物(馬鈴薯、野菜)の県内再配分制度による農村住民への供給と、食糧人民委員部の特別フォンドから放出される給食所の組織化からなっていた。このため、凶作を蒙った人数を正確に確定するため、現地に食糧人民委員部指導官が派遣され、さらに先の凶作五県の食糧会議と食糧委に一一月六日づけで、「食糧援助の基本として、まず郷内で、できるところでは県内で再配分を農村住民の間で実施するよう命ずる」電報が送られた。それに続き、二四日に上述の五県とリャザニ県の県執行委と党委に食糧供給所の組織化のために食糧組織を全面的に援助することが命じられた。
食糧人民委員部参与会会議で各地に派遣された参与から、凶作に関連する厳しい割当徴発の現状が報告された。八月二三日の会議で、ゴメリ、ヴィテフスク、ウクライナの資料に基づいてスヴィヂェールスキィは、割当徴発は地方からの情報によって作成されたが、これら情報は旱魃の後で覆されたために、すべての県で割当は重い負担になっている事実を指摘した。たとえば、ゴメリ県では畑はまったくの日照りで荒れ地となり、このためそこでは不穏な雰囲気が現れ、以前受け取った数字は現実的でなくなった。ゴメリ、ブリャンスク、ヴィテフスク県の食糧会議で、割当徴発を遂行できないことが確認されたと、彼は報告し、さらに穀物以外での割当徴発の遂行でのさまざまな障碍を列挙した。卵とバターの割当徴発については容器の障碍が存在している。卵は多くが徴収されたが、これらはゴメリでもスモレンスクでもいたるところ文字どおり腐っている。このためいやな風聞が流れている。容器の問題は野菜の調達にも係わっている。野菜は徴収されたが、それを梱包するための鉄も釘もない。このため野菜の任務命令は遂行されず、地方に派遣されたエイジェントは徒手で帰還した。ゴメリ県には充分な木材はあるが、箱と桶を作る釘がまったくない。バター割当徴発はさらにひどい。軍事活動と家畜の動員はこの割当徴発の遂行を妨げた。家畜は少なく、それでバターも少なく、それに旱魃のために家畜は非常に飢えている。肉の調達についても期待はない。今年はこれら諸県で食糧状態は昨年よりも著しく苦しくなっているとの現状を、彼は開陳した。
シムビルスク、サマラ、オレンブルグ、ウファー、チェリャビンスク、エカチェリンブルグ、ペルミ、ヴィヤトカ県食糧委に出張したオシーンスキィは、九月二九日の参与会で次のように報告した。サマラ県でまず…[ママ、凶作あるいは旱魃]との関連でひどいパニックがあり、そこでは播種面積は明らかにされず、ほとんど何の結論も出せない。サマラ県食糧コミサールは収穫を一六二〇万プードとし、九〇〇万プードだけは割当徴発を遂行することができると明言している。
さらに、タムボフ、サラトフ、ポクロフスク地区、ドイツ人パヴォルジエに赴いたスヴィヂェールスキィは一〇月一一日の参与会会議で報告したが、ここでは彼は凶作より地方権力の割当徴発への抵抗を強調した。これら地区では今年はひどい飢餓であろうとの印象を持って到着したが、実際にはそこには凶作がないことを知った。そこには無秩序があったが、[タムボフ県執行委議長]シリーフチェルも県[食糧]コミサールも飢餓災害について何も触れなかった。サラトフ県でも災害はなかった。ポクロフスク県とパヴォルジエ・ドイツ人州ではいたるところで割当徴発への否定的対応があり、その縮小の要求が聞かれたが飢餓災害はまったくなかった。それでも各県食糧委は[割当徴発の]縮小への明確な傾向を示している。たとえばタムボフ県食糧コミサールは食糧人民委員部の割当徴発一一〇〇万プードのうち六〇〇万プードは調達できるが、全部は遂行できないといっている。ポクロフスク・コミサールは条件が充分でも三分の一以下しか調達できないと語っている。このような現状を指摘した彼は、凶作にもかかわらずまだ割当徴発の一定程度を遂行できるのは、住民がまだ自分の手に穀物貯蔵を持っているためであると説明する。そこで彼は、「穀物の取り上げの意味でわれわれはまだいかなる英雄的措置も採っていない」と、すなわち、いっそうの強制的措置が必要であると結論づけた。九月二七日にレーニンはタムボフ県の割当徴発についてブリュハーノフに、「一一〇〇万プードの割当は確実か。減量しないのか」と照会した結果がこれであった。タムボフではすでに農民反乱が勃発していたにもかかわらずである。
要するに、食糧人民委員部の内部議論では旱魃による厳しい現状の認識はあったとしても、割当徴発の廃止は問題にならず、地方権力の抵抗を排除して、いっそう暴力的手段による徴収の強化がはかられた。
実際には彼の報告にもかかわらず、サラトフ県カムイシン郡で六月前半まで旱魃が続き、それと濃霧により一四郷でライ麦約三万デシャチーナが全滅し、雹により一一郷で五九五デシャチーナが被害を受けた。このほか、小麦、その他の作物も旱魃で一万五〇〇〇デシャチーナが全滅した。またハタリスの被害も生じ、すでに現地では凶作が正確に予言されていた。
九月にタムボフ県ボリソグレブスク郡で、国家割当徴発の遂行の際に郷の住民は基準以下の食糧しか残されず、赤軍兵士家族はこれも考慮されずにすべてが奪われ、二〇年の収穫の何倍もの穀物飼料の割当が課せられ、今度の秋蒔きの種子がない、住民の財産、家畜の完全な没収の恐れがある、割当を遂行しなかった郷・村ソヴェト員の穀類も郡食糧委は没収し、そのような破滅的状態が考慮されていない割当徴発の遂行を至急停止するよう、郷執行委議長は要請した。ヴィヤトカ県ウルジューム郡の村で、ライ麦一万二二二〇プードとオート麦八六四〇プードしか収穫がなく、年間で住民と家畜に一万八二二九万プード、播種にライ麦六八二〇プードとオート麦七二〇〇プードを消費し、約一万プード不足しているが、この村に穀物六〇七八プードの緊急任務命令が課せられた。「軍事部隊が導入され、事態は恐るべし」と、村ソヴェト議長は九月に打電した。この時期、さまざまな特恵措置が採られるはずの赤軍兵士家族の状態は、労働力が奪われた分だけ悲惨であったが、彼らにも割当徴発は容赦なく襲いかかった。スモレンスク県スィチョフカ郡から一月に、布告による徴収の免除が確認されたにもかかわらず、郷食糧トロイカは非勤労者三人を含む四人の赤軍兵士家族からライ麦二六プード、馬鈴薯一二プード、豚肉二フントを取り上げた。最後の生産物を奪われた貧しい赤軍兵士家族を待つのは、経営の崩壊であった。
ヴォロネジ県ニジェデヴィツク郡の郷に六万四〇〇〇プードの穀物と馬鈴薯の割当徴発が算定された。郷の収穫は旱魃のためにわずかで、秋蒔きは種子分さえ収穫されなかった。畑の播種不足は二五パーセントにも達し、春蒔きはほとんど全滅した。住民は代用食として、団栗、種子殻лузга、籾殻、アカザを食していた。住民のこのような事態を眼前にして、郷執行委議長と党委議長はなす術もなく、判断を上級権力に仰いだ。郡食糧会議のプリカースに従って割当を完遂するには、基準を考えずに最後の穀物を収用しなければならない。それは、クラークはいうにおよばず、貧農までも憤慨させ動揺させている。特に赤軍兵士家族を。不服従者に懲罰部隊を導入し、抑圧と逮捕と革命裁判所が適用されなければならないが、最後の穀物まで取り上げなければならないのか。共産党郷委でさえ、割当徴発の完遂にはとまどいがあった。すでに一〇月にパヴロフスク郡で郡都から南約三〇ヴェルスタ余りの村で、割当徴発への不満に端を発した騎兵五〇〇〇人以上からなる農民部隊の反乱がはじまっていた。
それでも権力は容赦しなかった。九月一四日づけでモスクワ・ソヴェト食糧委によりすべての郡と地区の食糧委に次のような秘密回状が出された。
[収穫の]実現の時が訪れた。算定された生産物量の収用に直ちに着手すること。増減へのいかなる割当量の変更も認められない。割当量は、住民への課税である割当徴発による収用で一〇〇パーセントが執行されなければならない。経営に生産物を残す基準を定めることは不可能。そのため、指導のため貴殿に次を通告する。残す基準は次のように行われる。全収穫の総量から割当徴発が控除され、残りがすべての住民に分けられ、この結果が食い手にとっての基準となる。例。収穫が一九五万プード、割当徴発が一〇〇万プード。収穫から控除して九五万プードがえられ、住民を九万五〇〇〇人とすれば、基準は一〇プードとなる。割当徴発の引渡し後はいかなる収用も行わない。
この秘密回状は内部指導用であり、公表も通達も無用と特記された。これが意味することは明らかである。食糧や播種の基準と係わりなく割当徴発を完遂するよう命じたのである。ルザ郡の農民は次のようにカリーニンに救済を訴えた。厄介事は、種子の不足である。今年の凶作は非常に大きく、収穫された穀物は種子にも食うにも足りない。われわれの畑はすでに秋蒔きに耕起されたが、何も播種できない。七月はじめに郡農業部に出向いたが、まだ返事はない。時は待たない。八月一六日にわれわれは県農業部に赴いたが、種子はまったくなく、現在まで到着していないといわれた。われわれには八月一五日以後にライ麦を播種するとライ麦は駄目になるとの言い伝えがあるが、八月一五日を過ぎてもわれわれはまだ種子を見ず、どのように窮状から抜け出すか分からない。
凶作県に認定されたカルーガ県で、九月は天候条件に恵まれたが、遅くに播種されたライ麦の発芽は著しく悪く、すでにこの時県食糧委は、食糧人民委員部に割当任務命令の廃止を請願した。地区食糧委から入る情報は、調達の遅延が慢性的性格を帯びはじめたことを示していた。一〇月に開かれたカルーガ郡活動者会議に食糧コミサールが招聘され、そこの議事日程は食糧カムパニアに終始した。任務命令の遂行は所によっては五パーセント以下で、肉の割当徴発は塩漬け用の塩がないため行われず、地区食糧委はそれを県食糧委に要求したが、返事さえ受け取らなかった。県食糧委から派遣される指導官や全権は何もせず、地区コミサールの表現によれば、食い尽くしてお喋りに時間を潰し、出張証明を受け取って戻って行く。所与の条件で期限内での割当の遂行は考えられなかった。一〇月になると県に燃料危機が忍び寄り、工場は停止し、「勤労者の施設と家屋は凍った」。県食糧委は二一年一月までに納付を完遂した農村住民だけに一人当たり石油二フントを交付することを承認したが、これは事実上ほとんどの農民が石油を受け取らなかったことを意味した。割当徴発の遂行は滞り、一一月はじめに党県委書記はすべての郡・地区委に、情報によれば若干のコムニスト、郷執行委、村ソヴェト、党細胞メンバーが割当徴発による農産物の集荷を妨げている、これはまったく異常な現象であり、彼らが率先して納付すべきことを喚起した。一二月三日づけの県食糧会議プリカースは次のように訴えた。「調達カムパニアの開始からすでに四カ月が過ぎ、そのような長い期間で任務命令は完遂されるはずと思われた。それでも、わが赤軍は飢え丸裸にされ窮乏し、工場住民も都市プロレタリアも飢え、県食糧委はすでに何度も、割当徴発による生産物の納付を執拗に住民と施設に訴えたにもかかわらず、残念ながら割当は六分の一から三九パーセントまでしか遂行されていないといわざるをえない。そのような状況で、住民は割当の遂行をあらゆるように回避している。話し合いの時期は過ぎ、行動の時が訪れたと断言する。[……]このため、県食糧委により一二月一日から『食糧月間』が指定され、その際に一二月二〇日までが自発的納付期限に予定される。この期限で納付されないなら、月の後半に生産物は強制的手続きで武力により徴収される」。すでに県の一部で二〇日から「食糧戒厳令военно-продоволъственное положение」が県食糧会議により布告された。ボリシェヴィキ権力は凶作県からさえ軍事体制での割当徴発を断行し、この結果は翌二一年の大飢饉であった。
ブリュハーノフの九〇三号電報に準じて、各地で軍事体制による割当徴発の遂行が実施された。モスクワ県ではすべての郡食糧委と地区食糧委に割当の収用に向けての広範な軍事的カムパニアの組織化についての回状訓令が送られた。シムビルスク県食糧委は、軍事非常体制ですべての全権と三九人の地区全権に、郡で党員を動員する権限を与え、軍事プリカースの遂行への断固とした措置を採った。リャザニやプスコフ県でも同様にしかるべき指令が作成され、全権や活動家が派遣され、情宣活動が開始され、あらゆる割当徴発に軍事力が導入された。
リャザニ県カシモフ郡の郷に家禽の徴収のために食糧部隊が現れた。食糧部隊はすべての世帯への「巡回обход」をはじめ、その際に部隊員は銃で家禽を打ちのめした。すでに任務命令を遂行した者や、赤軍兵士家族の家にも現れた。酒蔵と屋根裏で捜索がはじまった。農民たちはしっかりと扉を閉めたが、「勇士たち」は柵を越えて押し寄せ、雉と鶏を屠殺した。郷執行委は部隊長に虐殺を止めるよう指示したが、「指令により活動している。俺のじゃまをするな。俺はすぐに郷から全部を徴収したい」との回答を受けただけであった。この回答を受け取った郷執行委は、県食糧委、県執行委、郡執行委、党郡委に訴えたが、至急電が届かぬままに家禽の屠殺は続けられた。
ペンザ県で県食糧会議の決定により、各世帯が割当徴発の遂行に責任を負う五戸組制度が導入され、すべての郡で党活動家と指導官からなる軍事地区トロイカの下にカムパニアが実施された。八月三一日に出されたプリカースは、食糧戦線にあって県でもっとも穀物の豊かなサランスク、チェムバル、モクシャン郡に郡食糧会議管轄の大隊と労働者部隊、ペンザ郡に県軍事委と武装警備隊旅団により選抜された軍事部隊の支援の下で割当を実施するよう指示した。これら諸郡で、郡食糧会議は穀物が豊かなクラーク的郷を選定し、一〇月一日までにその割当徴発を遂行し、もし抵抗があれば、武装力を適用して戸主を逮捕し、抵抗した者から一〇〇パーセントを徴収する。このような作戦行動の後に、次の郷に移り、国家割当徴発に抵抗する者がどのような処罰を受けるかを明示するために、農民へのプリカースと檄をあらかじめ整える。このようにして郡で活動を終えた後、軍事部隊は別の郡に移動する。収穫の実現に関するすべての作戦任務は地区食糧委の支援の下に県食糧委軍事部により実行された。割当徴発の遂行のために現地住民の組織的反乱が起こり、行動が軍事的性格を帯びたときは、当該地域に戒厳令が布かれ、すべての部隊長により大隊司令部が編成され、軍事部隊と食糧エイジェントはそれに従属する。もし反乱が郡の大部分におよび、その郡での軍事力の不足のためにその根絶が長期におよぶ場合には、県執行委の命令により郡全土に戒厳令が布告される。こうしてペンザ県での遂行は農民反乱を想定して軍事部隊により行われた。ВЦИК全権はすべての郡食糧会議に、ソヴェト食糧政策の違反者を食糧カムパニアの破壊者、労農勤労戦線の裏切り者としてもっとも厳しい懲罰措置を与え、そのため県革命裁判所特別巡回法廷が設置されることを通告した。割当徴発の成果の乏しい地区は不良リストに掲示され、地区食糧コミサールはВЦИК全権により任務の強化が命じられた。
このような軍事的措置の広範な適用の事実は、割当徴発への激しい農民の不満の存在を中央権力が認めたことを意味した。一〇月の法務人民委員部の回状は、「食糧分野での犯罪と違反は特に大衆的性格を帯びた」ことを指摘した。エカチェリンブルグ県などで食糧活動家の殺害が頻発し、一〇月二二日づけプリカースで、「一、クラーク住民の中から人質を取り人質の一部を銃殺する、二、食糧活動家の殺害があった郷で割当徴発を一・五倍に増やすこと」が指示され、公表時からそれは直ちに執行された。
それでも、一一月末の〈プラヴダ〉論文で、「多くの農民は割当徴発の行き過ぎの問題、地方での濫用という事実に関心を抱いているが、原則自体の否定にはなっていない[……]、大衆は割当徴発に賛成だが、粗暴でなく、強制でなく行われるものに」と語られるときも、制度としての割当徴発は否定されず、割当徴発の違法行為への批判に留まった。
実際、徴収の際の違法行為は頻繁に認められる現象であった。スモレンスク県の村は郷執行委により割り当てられた任務命令を完全に遂行したが、この後食糧部隊が現れ、力のおよばない任務命令を出し、農民はこれを遂行することができなかった。そこで部隊長は何人かを逮捕し、一人の寡婦を殴り倒したが、彼女は三日目に殴打のためか恐怖のためか死んでしまった。オロネツ県プドジ郡で、責任ある活動家による割当徴発の際の収賄や強要、割当徴発により受け取った生産物の個々人による横領、さらには二〇フントの魚を運ぶために何百ヴェルスタも農民の馬を食糧コミサールが追い立てたような一連の醜悪な事実を告発し、さらに県執行委はこのような割当徴発の際の不正行為と職権濫用を認めた。また二〇年の食糧カムパニアには大量のコムニストが動員されたが、農民とコムニストとの関係も芳しくなかった。タムボフ県リペツク郡の郷では、コムニストに悪口が浴びせられ、ぬるま湯的なカムパニアが開始されたが、コムニストはサモゴンカに関心を抱いていた。集荷がはじまったが農民には一カペイクも支払われなかった。別の郷では、コムニストは割当徴発の資金を飲み食いに使いはたしていた。
二〇年六月はじめにタムボフ県執行委議長シリーフチェルが第六回県ソヴェト大会で述べた演説内容は、二つの点で興味を引く。第一は、「穀物割当徴発は住民にとって重い負担であり、住民にとって非常に辛い方法によって、抑圧と強制の方法によって実施されているとの非難」に同意しながらも、現状でのそれらの適用を公然と支持したことである。説得によって自発的に赤軍と都市労働者のための穀物を引き渡さない現実を考慮しなければならない。もっと重要なことを知れ。「革命に犠牲は必要である」。革命を防衛するために、割当量は実行されなければならない。そのため、この不履行への懲罰的措置として逮捕、没収などの「階級的国家的抑圧システム」は必要であるとされる。第二は、割当徴発の遂行の際のさまざまな逸脱について延々と触れたのは、彼の否定的言辞にもかかわらずそれが蔓延していたことを物語っている。そしてこれら逸脱が除去されるなら、割当徴発システムが正当化される点で、先の〈プラヴダ〉論文の主旨と一致する。
食糧部隊は鞭で住民から奪い、食糧組織全権は酔っぱらいで、個々の世帯に自分のための食糧を強要しているといわれている。これら方法は是認できない。個々の市民に適用される穀物の徴発、穀物の隠匿や割当徴発の不履行に対する家畜の没収、職務怠慢に村する郷・村執行委の逮捕は合法的である。なぜなら、これらなしではわれわれに穀物がなくなるので。だが、その際に住民への鞭打ちや人間性への愚弄を権力は許さない。ソヴェト権力の代表やエイジェントは大酒飲みであってはならない。県ソヴェト大会と中央権力の見解として、飲んだくれпъяницаに対して拘置所だけでなく銃弾も用意していることを宣告する。住民からの食糧の受け取りでは己に厳しくなければならず、食糧部隊の個人的利益を充たすためのいかなる賄賂、抑圧、強請があってはならず、そのような勝手な抑圧者を捕らえてソヴェトに突き出す必要がある。県食糧委がエイジェントの行動を統制することができるようになり、自分の権利を利用しつつ私利私欲で飲み食いするやくざ者やろくでなしがなくなり、住民にそのように対応するなら、憤怒や立腹なしで強制的割当徴発に従わすことができるであろう。
だが現実には「憤怒や立腹なしで」の割当徴発の遂行は不可能になっていた。ゴメリ県モギリョフ郡の郷では大きな無秩序が生まれていた。割当徴発は何の計画もなく実施され、階級的基準は存在しなかった。徴発された家畜をモギリョフ市に駆り立て、そこで成り行きに任せた。飼料の不足から家畜は全滅した。これは住民を激怒させた。このような無秩序が製粉所にもある。製粉税は窃盗されている。勤労賦課は多くが貧農にかかり、クラークや以前の店主は賄賂で免れている。
だがより重要なことは戦時共産主義体制そのものが割当徴発の存続を不可能にしたことであった。一〇月にブリュハーノフ宛てに送られたシムビルスク県食糧人民委員部全権からの報告は、体制の危機をはっきりと訴えている。
[……]穀物は九月中は予想よりもはるかに少なくしか集荷されなかった。アラトゥイリとクルムィシの二郡だけが要求されたうちの六〇パーセントを搬送した。これはまず第一に、収穫の実現が著しく遅れて、ようやく九月一〇〜一二日に着手したことにより説明される。次いで、地方党組織と地方ソヴェト組織は衰弱している。わたしの執拗な要求にもかかわらず、[党]県委は一二〇人の替わりに七〇人を動員できただけであった。実務的食糧活動家は非常に少ない。わたしはそれでも以前にこの仕事に従事していた者を食糧活動に引き戻すことができた。
だがこれもまったく少ない。だが特に大きな厄介を軍事官庁がもたらしている。わたしはすでにレーニンと貴殿に、カザン管区軍事司令ゴーリドベルクの活動について打電した;彼の活動についてもう一度触れよう。彼は国内保安軍の軍隊の補充について、それらへの武器と装備の供給について、食糧活動のためにシムビルスクで編成された軍の予備役から部隊への提供についてのわたしの要請を充たさないだけでなく、責任ある食糧活動家を軍に動員することによって体系的に食糧組織を解体し続けている。九月の集荷の失敗は、著しい程度にゴーリドベルクの召集による一五〇人の食糧活動家の突然の解任により理由づけられる。[……]
さらにお願いがある。シムビルスク県委書記長フレーイマンを誰かもっと精力的な者と替えるよう中央委に助言してほしい。ここでは党活動はきわめて不満足に設定されている。農村で活動はほとんど行われていない。県内にある少ない工場でも活動は劣悪である。スモレンスク近くの対岸にある弾薬工場でさえ、驚くような党の崩壊がある。最近そこでストが勃発しそうになり、その際にその組織化にコムニスト[強調原文]さえも参加した。これ以上になることはおそらくありえない。大変な努力でわたしは労働者を宥めることに成功した。シムビルスク県委の怠慢、不活発が、この痛ましい出来事の原因の一つである。
彼はここではっきりと、戦時共産主義の根幹をなす軍事組織とコムニストにより割当徴発制度が掘り崩されていると指摘したのである。
辺境地では軍事=徴発体制を震撼させるような現実がすでに存在していた。北カフカースのカザーク村で四五歳までの住民が白衛軍に動員されたために多くの穀物は刈り取られないままに畑に残され、そのような村では食糧割当徴発は遂行されなかった。今年の収穫は非常に悪く、投入された種子が戻る見込みがないと、一〇月はじめにВЦИКに報告された厳しい状況が、そこには存在していた。北カフカース軍管区の資料によれば、二〇年の夏から秋にかけ北カフカースではクバニ、スタヴロポリ、テーレクの地区だけで、機関銃八六丁、二七九七丁の銃剣、一門の大砲を持つ約五〇〇〇人の一二四個の匪賊部隊が活動していた。テーレク州ではほとんどいたるところで匪賊行為が認められるとВЦИКに通告された。さらにヴラーンゲリはクバニ州への侵入を試み、この上陸は現地の反革命運動を刺激した。
二〇年の収穫に対して七五〇万プードの割当徴発が課せられたテーレク州は、州食糧委の活動はわずかで、おもにカザークとイングーシ住民地区でとうもろこしと家畜が調達されていたが、正確な情報はなかった。割当徴発は強制措置の適用の下で実施され、割当徴発の遂行後に商品が交付された。九月末に食糧人民委員部フルームキンへこの地でのカムパニアの進捗が次のように報告された。
第一に、穀物割当徴発は、食糧活動家の欠如によってだけでなく、住民の間に与えられた割当徴発を村執行委が明らかに望んでいないために、必ずしもすべてで実施されているわけではない。割当徴発を徴収реквизацияと見て、力で取り上げるために武装力の派遣を想定している。クラーク層が頭をもたげ、白衛軍匪賊の残党とすべてのいかがわしい者が山から這い出した。州全体が組織的性格を持つ反乱に覆われた。わが集荷所と、家畜と貨物に随伴する部隊への襲撃が起こった。エイジェントは殺害を恐れて逃げ出している。
第二に、世帯毎の賦課は同様に、住民が馬を提供することを望まないだけでなく、荷馬車の隊列全部が爆弾によって強奪された事件が頻発したために、大きな武装力を要する。[……]ソフホーズからの穀物の最近の汲み出しも同様な図式で、はるかにひどい結果に終わった。これはすべてヴラジカフカース周辺のことで、今後はいっそうひどくなる。このような状況の下で、農民の輸送力の保全にさえ力が必要である。
第三に、家畜の調達は非常に順調に開始されたが、ヴラーンゲリ陸戦隊が現れるや否や、住民はすぐにその気分を変え、家畜の納付を直ちに停止した。[……]
第四に、軍事委により派遣された者は、わたしに何らかの軍事援助を与えることができなかっただけではない[……]。だが問題は、軍事委は反乱と多数の匪賊を根絶するための充分な力を持っていないことであり、そこで、わたしもこの力を失った。わたしの管轄にはまったく定員不足の劣悪な武装で、衣類も履物もろくにない三個大隊がある。そのような力は現地の住民にほとんど印象を与えていない。州のそのような状態と現実的力の相対関係の下で、わたしにはカムパニアの成功の期待はない。[……]貴殿の九月の任務命令に対して、わたしは一フントの穀物も受け取らなかった。穀物の集荷ははじまったばかりだが、事件のために直ちに停止した。ヴラジカフカースとその他の都市への供給は偶然的性格を帯び、何日後にはパンは交付されないであろう。
この深刻な実状はボリシェヴィキ幹部に大きな衝撃を与えた。フルームキンからこの文書はブリュハーノフを経、レーニンと革命軍事評議会議長トロツキーを含む何人かに転送された。このような処置は異例であった。レーニンはこれを「密かに」送付するようブリュハーノフに勧告し、トロツキーへは食糧人民委員部からこの写しが正式に通知された。恐ろしい状況が各地で生まれつつあった。
七月はじめにトムスク県北部ナルィムの地区を席巻したクラーク反乱は畑作業を妨げ、反乱が権力を掌握した地方では、この間多くの食糧活動家が銃殺されたためにソヴェト権力の復興後も完全な荒廃が認められた。現地の状況を知った軍事食糧局全権A・ボリーソフは八月二三日にモスクワに、ここでは武器なしで活動するのは不可能であると打電したように、割当徴発へのシベリア農民の抵抗は激しく、広く武装力が適用された。
シベリアでの割当徴発は過酷であり、三月末にエニセイスク県革命委の報告書は、「郷の貯蔵と力は枯渇した。穀物も飼料もない。家畜は絶滅した」と報じた。六月にアチンスク郡に関する報告書は、「権力への住民の対応は多様で、いくつかの郷では共産主義の伝道者への完全な共感があるが、別の村落ではソヴェト権力への完全な共感が見られても、革命委への特に割当徴発の実施と遂行の際に厳しい対応が認められる」と指摘した。このため多数の農民反乱が猖獗し、トムスク県コルィヴァニ地区での五月の反乱はコムニストと食糧機関の活動家を全滅させ、この後、ソヴェト懲罰部隊により五〇〇〇人以上の反乱農民が殺害された。七月はじめの同県の反コムニスト反乱は、ノヴォニコラエフスクの北西部ヴィユヌィ村からコチェネヴォ村までほぼ一六〇キロにおよぶ地域を占領し、八〇人のコムニストを殺害した。赤軍と特別部隊により七月末にようやく鎮圧され、反乱側の将校と農民の四二人が銃殺され終止符が打たれた。七月二〇日づけCHK条例によりシベリアでの本格的割当徴発が開始され、中央ロシアからの動員がはじまる夏に農民の気分はさらに悪化した。
ちょうどこの日の党エニセイスク県委幹部会会議で、県食糧コミサール・カガノーヴィッチは、割当徴発の遂行のために郷毎に三〜四人のクラークを逮捕し、彼らの財産を没収するよう提起した。このような措置は実践的意義と、何よりも教訓的моралъное意義を持つと彼はいう。党県委は、彼の提案を修正し、頑強な抵抗を行った郷毎にもっとも富裕なクラークを一人逮捕し、彼らの財産を没収することを決定した。七月はじめにチュメニ県イシム郡革命委は、県執行委に割当徴発の完遂にいたるまで行政的手続きで抑圧的措置を行使するよう要請した。この決定はすでに二月末に、トロツキーからレーニンに、チュメニ県は飢餓に入ったと伝えられた後の出来事であった。
これからほぼ半年後に、シベリアで最大の農民反乱が勃発するが、割当徴発の強圧的実施の宣告は、ソヴェト食糧政策へのシベリア農民の抵抗が規模においても、程度においても深刻になる時期に一致した。シベリア革命委議長И・Н・スミルノーフは七月にオムスクから、アルタイとトムスク県の半分はクラーク運動により席巻され、それを武装力で鎮圧している、その原因は商品飢餓である、決起したクラークから穀物を没収している、クラークは未脱穀の穀物を消尽しているので脱穀と積載のための活動家を至急派遣するようレーニンに要請した。この時シベリアでの割当徴発の遂行は深刻な局面にあった。軍事食糧局から七月に四二部隊が送られたが、当時の県食糧委には部隊受け入れの当該組織がなく、暫時シベリア食糧委軍事部の管轄に置かれた後県食糧委に引き渡された。その後も部隊は続々と到着し、二一年一月には全部で一八三部隊を数えた。
シベリアではこれら部隊により抑圧的措置が頻繁に適用された。アルタイ県カメニ郡、バルナウル地区でそれが顕著で、突撃部隊が編成された。全県で一四九四人の郷・村執行委議長とメンバーが、五四九四人の市民が逮捕され、馬四三八七頭と牛三四一六頭を含む一万四〇〇〇頭以上の家畜、馬具、肉、穀物などが没収された。巡回法廷は一一月末から機能しはじめ、その活動は二一年五月まで続いた。だが、多数の部隊の投入にもかかわらず、地方によっては軍事力が不足した。チェリャビンスク県の割当の大部分が課せられたクスタナイ郡は切実に不足し、そのため県食糧会議議長は二〇〇人の食糧部隊の緊急派遣を軍事食糧局に要請した。部隊の不足とともに部隊の武装と装備も劣悪で、シベリア軍事食糧局は、部隊は衣服もろくになく冬装備がない場合には部隊の活動の停止を余儀なくされると、モスクワの軍事食糧局に警告した。
シベリアで穀物カムパニアの開始後間もなく、割当徴発の遂行にとって不利な条件が報じられるようになった。運輸の解体は集荷所で穀物を腐らせ、それは割当徴発への農民の不満を高めた。無党派農民協議会が開かれるたびに、党活動家は農民から「穀物は腐っている。傷んでいる。実際の供給に回されていない」との声を聞かなければならなかった。このような「風聞」は各地で広まった。不満が高まり、「穀物余剰の保持者への抑圧の際に、地方でのソヴェト機関の脆弱と、一連のシベリア諸県ではっきりと感じられる「クラーク的気分」を考慮に入れなければならない。そのような県としてアルタイ、トムスク、エニセイスクを挙げることができる。それらですでにクラーク反乱が勃発した」。アルタイ県ビイスク郡で暫く鳴りを潜めていた匪賊が再び出現し、コムニストを襲撃し、ソヴェト施設を略奪するようになった。村スホードで富裕農は、都市はわれわれに何も寄越さないと、声を限りに反割当徴発の情宣を行っていたが、実際に当時のシベリア農民は悲惨な現実であった。オムスク県ポクロフスカヤ郷の農民は伝えている。「今年の穀物の収穫は劣悪で、穀物をわずかしか播種しないかまったく播種しなかった貧農は飢餓に直面した。一〇月中に無産農民は三〇フントを供給され、一一月の一週間は何も受け取らず、ひどく気落ちし、空の袋を下げて執行委から飢えた家族の元に戻った」。
飢餓だけでなく、栄養失調のためロシアと同様にシベリア各地で伝染病が猖獗した。特にチフスは猛威を奮った。二〇年一月中にオムスク市だけで三五七六人が発疹チフスに罹病した。ペトロパヴロフスクで一万一〇〇〇人の患者が病院に登録された。ノヴォニコラエフスクはシベリアでもっともチフスが流行しているといわれ、二月はじめで入院患者は三万五〇〇〇人を数え、伝染を予防するために対チフス特別委により市に戒厳状態が布告され、市の出入りが禁止され、大きな家屋は患者の収容のために接収された。その後もこの猛威は鎮静化されることなく、凶作の下でさらに強まった。
飢餓と疫病、それに絶望の下にシベリア各地で「ソヴェト権力とシベリア農民万歳」、「コムニスト打倒」などのスローガンで農民反乱が激発し、二〇年後半にはチュメニ、オムスク、アルタイ県とチェリャビンスク県クルガン郡、西シベリアのその他の地区に郷の「一〇人組」、村の「五人組」の下級組織が出現し、それらにより村スホードが開かれ、割当徴発や荷馬車賦課、工業商品の欠乏などの農民の不満を糾合し、次々にそれらの廃止が決議された。
こうして余剰持ち農民は割当徴発よって、貧農は飢餓によってソヴェト権力への憎悪を募らせ、その不満はコムニストに広がろうとしていた。トムスク県バラビンスク郡の地区で活動していたコムニスト活動家は次のように郡委に訴えた。
農民に基準を残すよう指示したが、農民のための基準はない、割当徴発を遂行しなければならないと説明され、せめて人間の基準だけでも与えよ要請したが、回答はなかった。デシャチーナ当たり四二プードの収穫の算定では農民には顔向けできない。なぜなら、デシャチーナの収穫は四二プードもなく、そこで割当徴発を実施すれば、旧い穀物貯蔵がなくなり、旱魃に襲われた勤労農民の状態がまったく分かっていない。所によっては穀物は「バッタкобылка」により完全に絶滅され、割当徴発の遂行の最後的要求は、いかなる基準も状況も考慮せず、農民の中にパニックを持ち込んでいる。中央が割当を遂行させようと命令すると、地方権力はあらゆることを発動し、農民から穀物を取り上げ、あらゆる話し合いなしに割当徴発を遂行する。そこで、われわれは生きていたいし新しい収穫まで生き延びれるようにどれだけでもよいから基準を与えてくれというのは止んでしまう。こんなことをいう人間はすぐに責任を問われ、反ソヴェト権力の廉であらゆる告発が行われるが、これら告発をわれわれは信じない。なぜなら、それらは「コムニスト」から発せられ、このコムニストは自分がもたらす結果に注意も払わず、正しい言葉でチクリと刺した廉で人間を処罰し、不幸にもわたしはそのような者に属し、自分の見解を表明し、あらゆる農民の困窮を進言したことが地方権力は気に入らず、彼らはわたしを告発し三〇日間の拘留を決定した。そのような人物にはソヴェト権力と共産党の原則は何もなく、ただ権力にあり、われわれは割当徴発を遂行すればすべてが順調だと、声高に叫ぶだけである。権力を求めるために共産主義の理念が曇っているなら、わたしをボリシェヴィキ党員と見ないようにして欲しい。なぜなら、共産主義の理念は歪めることができないので。
このような認識を多くのコムニストは、そして中央の指導者も共有していなかった。一一月にシベリアから帰還した食糧人民委員部参与А・П・スミルノーフは、中央からの任務命令は完全に遂行されるであろうと報告した。情宣活動は広範に展開され、無党派農民協議会が各地で催され、食糧機関は十全に構築されている。彼の言葉によれば、調達カムパニアの進展は、シベリアで年間任務命令の八〇パーセント以上が遂行されることを完全に確信させた。だが現地組織は無力であった。一二月末にアルタイ県スラヴゴロド郡党書記は、「割当徴発遂行の活動の重心と責任を自ら担っていることを[……]実際に会得し、割当徴発の遂行の措置に取りかかった郷執行委は非常に少ない。郷執行委の大部分は割当徴発を自分に無縁であると見なしている」と報告した。
この地方では兵役忌避も広く展開していた。チェリャビンスク県では一九年一一月に兵役忌避闘争委が設置され、ズラトウスト郡で二〇年四月に国内保安軍と合同で郡兵役忌避闘争特別委が行った市内の一斉手入れで二〇人、郡の一〇郷で五五人を捕獲した。全県で四二三〇人がこの期間に捕獲された。兵役忌避者への懲罰は、家族におよび、妻や父親が人質に取られ財産は没収された。さらに五月一三日共和国チェー・カーのプリカースにより、兵役忌避者に罰金から全財産の没収にいたる懲罰措置が適用されるだけでなく、労働義務忌避者を出した企業と施設の責任者も法廷に引き渡され、個人資産の没収または行政処分を受けることが規定されたが、これは兵役=労働義務忌避拡大への対抗措置であった。八月三日づけ党県委、県執行委、県軍事委のプリカースにより、兵役忌避者とその隠匿者への攻勢походが宣告され、悪質な忌避者にもっとも峻厳な処罰が行われ[すなわち銃殺が]、家族からは全財産が没収され、このプリカースの施行の責任は村団全体に課せられた。この時まで県内で財産没収は六〇件しかなかったが、以後の三カ月間で四〇四件の没収が行われた。捕獲された忌避者七三四〇人のうち、裁判の結果一〇六人が監獄、一九四人が矯正収容所、一三四人が強制労働、一一六五人が執行猶予、五〇六七人が罰金、そして一八人が銃殺され、残りはその他の判決を受けた。彼らは広範に展開する忌避者運動の大海の一滴にすぎなかった。県の情勢は不穏であった。
四月二〇日には匪賊の放火と見られるミアス市内とその近郊で連続の火災が発生し、その後も放火事件は続き、兵役忌避者の徒党が農村を襲撃し、ソヴェト、党活動家を殺害し、八月一五日に県執行委は全県に戒厳令を布告した。だが九月末には南部ヴェルフネウラリスク郡の多数の駅と村が「憲法制定議会」のスローガンの下に忌避者匪賊に占拠され、そこでスホードが開かれ、旧カザーク村長станичный атаманが選出された。このような郡の状態はあらゆる活動を妨げ、特に穀物割当徴発に有害に反映された。このような動きは東部に隣接するトロイツク郡にもおよんだ。一〇月はじめに西方のウファー県境のウイスコエ地区に約一〇〇〇人(うち八〇〇人が武装)の匪賊が集結し、この襲撃で執行委議長、民警隊長、地区食糧全権など多数が殺害された。ズラトウスト郡クサ地区には臨戦状態が布告され、電信、電話局にコムニストからなる歩哨が立ち、地区工場と近郊の住人の気分が明らかに敵対的なので、騎兵偵察隊と巡察隊が送られた。四日に森に潜んでいた約六〇人の忌避者とクラークの徒党は駅を襲撃した後、ズラトウスト市に向かった。別の一〇〇人の匪賊団は市内に突入し、守備隊と銃撃を交わした。九日の党郡委・革命委合同会議で、この時の軍事活動が次のように報告された。一五〇〇人の匪賊が村にいるとの通報で、部隊をともない村を占拠したが、少人数の部隊で持ち堪えることができずまもなく撤退した。匪賊団の一部はズラトウストに、一部は[ズラトウストから三ヴェルスタの]サトカに向かうとの情報をえて、そこに警告が送られたが、[途中の]ヴェセロフカが匪賊の手に落ちた。ヴェセロフカで部隊は匪賊と交戦し、匪賊により約八〇人が斬殺され、約一〇〇人が捕虜になった。現在彼らの所在は不明。「住民のソヴェト権力への気分は敵対的。クラークは貧農が何カ月間も配給を受け取っていないことを利用して、コムニストへの攻勢を彼らに唆している」。さらにこの会議で、オレンブルグ県バイマクとヴェルフネウラリスク郡の村に本拠を持つ、二万四〇〇〇人の匪賊の存在も確認された。彼らの多くはクラークと兵役忌避者からなり、「コムニスト打倒」、「憲法議会万歳」、「戦争反対」のスローガンを掲げ、小部隊で活動していた。
反ソヴェト反乱が広がりつつあった。一二月五日に党エニセイスク県委は匪賊活動に関する問題を審議し、「アチンスク郡では割当徴発の遂行を拒否する理由で五郷が決起した。彼らに対して二〇〇人のコムニスト部隊が出撃したが粉砕された。[……]叛徒たちは「割当徴発を遂行しない、穀物を運ばない、来るなら思い知らせてやる」とのスローガンを掲げた」と報告した。二〇年末から二一年はじめにかけて、はじめは女性による反割当徴発の威嚇行動からはじまった農民の直接行動は、チュメニ、オムスク、チェリャビンスク県の一連の郡を席巻し、反割当徴発の農民大衆を巻き込んだ大規模な武装農民反乱となった。その結果、二一年までにシベリア革命委管轄の六県で四〇・二パーセントの食糧割当徴発が遂行されただけであった。
この時の最大規模の反乱が二一年一月末にチュメニ県南部のイシム郡で発生した。ここでは、割当徴発は過酷な条件で実施され、シベリアではチュメニ県のみが二一年までに五〇万プードの割当徴発を一〇二パーセント完遂した。
この反乱の経緯は次のようであった。イシム郡革命委により収穫の調査に関する特別委が設置され、その結果は、平年以下であることが判明した。刈り入れ特別委が組織され、農具の合理的配分に向けての措置が採られたが、雨天により刈り入れ作業は妨げられた。郡全体で相当な凶作が認められ、秋蒔きの播種はわずかであった。二一年の播種用の種子不足が感じられ、郡革命委は県食糧委に種子の確保を要請した。郡での割当徴発は一〇月になっても長雨と輸送の障碍のために進まなかった。一〇月六日のブリュハーノフの回状に基づき、県食糧委により食糧割当徴発の遂行がわずかな郷に軍隊が投入され、割当徴発の不履行に対して現地権力への抑圧がはじまった。ベガノフスカヤ郷執行委議長から穀物一五〇プード、執行委員から役馬が没収された。別の執行委員は一四日間の強制労働の行政処罰を受けた。カメンスカヤ郷の村ソヴェト員は割当徴発への抵抗の廉で県食糧コミサールのプリカースにより逮捕され、軍事革命裁判所法廷に引き渡された。最初に指定された割当徴発の二倍の量の徴収のためにこの郷に特別部隊が送られた。一一月に郡執行委と郡食糧委によるプリカースは、期限内でのあらゆる割当徴発の遂行を要求した。地区食糧委にすべての家畜の登録と屠殺と疫病死の防止が義務づけられ、登録されない家畜は隠匿と見なされ没収された。この違反者は巡回法廷に引き渡され、財産が没収された。それでも、一二月一日の期限までに、穀物、肉、禽、野菜、煙草、バター、卵割当徴発の一〇〇パーセント、干草、羊毛割当徴発の七五パーセント、藁割当徴発の三〇パーセントを遂行することができず、郡の八郷で例外なしにすべてのクラークを人質として逮捕する県チェー・カーのプリカースが一二月九日に出された。人質は隣接するヤルトロフスク郡の六郷でも適用された。逮捕者は県チェー・カーまで護送され、食糧割当徴発の完遂まで拘留された。抑圧措置が頻繁に利用され、郡革命委により割当徴発の不履行の廉で多数の郷執行委、革命委議長が逮捕された。国家割当徴発実施に関する県特別委により、リハノフスカヤ郷で穀物の隠匿の廉で一一人のクラークが逮捕され財産が没収された。割当徴発遂行での頑強な抵抗のため、二人のクラークが逮捕され、割当徴発の遂行までイシムに人質として送られた。
このような郡での過酷な割当徴発に対し二一年一月三一日に決起したゴルィシマノヴォ村の叛徒は、二月七日に鉄道駅を占拠して武器を積載した貨車を奪った。直ちにこの反乱は北部に隣接するヤルトロフスク、チュメニ、トボリスク郡に広がり、北部のオブドルスク郡までの県をほとんど占領し、さらに西はエカチェリンブルグ県のカムイシロフ、シャドリンスク郡まで、南はオムスク県コクチェタフまでの広大な地域を占領した。叛徒は一八から五〇歳までの男性を動員し、ライフル銃は不足していたが、猟銃や村の鍛冶屋が製造した槍を持って闘った。反乱軍はベレゾヴォ、オブドルスク、バラビンスク、カインスクなどの都市を占領し、占領した都市で「市農民ソヴェト」を設置し、自由商業を宣言しただけでなく、さらに、イシム、カンスクなどのシベリア鉄道の主要な駅を占拠して鉄道網を寸断したため二六〇〇ヴァゴンのシベリア穀物の輸送が発送不能となった。ボリシェヴィキによれば、「二月はじめにオムスク=チェリャビンスクとオムスク=チュメニ鉄道沿線でクラーク反乱を組織した「シベリア州勤労農民組合」は[タムボフ県と]同様な役割をはたした。ほとんど三週間にわたってシベリアとヨーロッパ=ロシアの交通を途絶させたこの反乱は、食糧直通列車の運行の停滞のために、中央での厳しい食糧危機を引き起こした」。このため二月一二日づけシベリア革命委プリカースは、「オムスク=チュメニ、オムスク=チェリャビンスク鉄道を一定の区域に分け、鉄道の両側一〇ヴェルスタ地帯に付属する区域の保全に現地住民の責任を課し、彼らのうちからクラーク分子の人質を取る。この地帯にある農村住人に、鉄道への襲撃が繰り返される場合には、人質は裁判なしで銃殺され、財産は没収されることを宣告する」よう命じた。
二月二一日にペトロパヴロフスク市に戒厳令が布告され、コムニストと守備隊により鎮圧部隊が編成されたが、翌日叛徒は市内に乱入し、部隊は撤退を余儀なくされた。「食糧割当徴発打倒」、「自由商業万歳」のスローガンを掲げた反乱はアルハンゲリスク県境近くのオブドルスクからモンゴル国境までの広大な地域を占め、橋梁、鉄道を破壊し、モスクワとの交通が暫時遮断された。一八日に中央ロシアとの鉄道が復興し、シベリア革命委は次のようにイシム反乱の鎮圧を報告した。「イシム=ペトロバヴロフスク地区のクラーク=カザーク反乱は順調に鎮圧されつつある。オムスクとペトロバヴロフスク、八〇ヴェルスタ西方のイシムからマムリュトカ駅までの列車の運行と電報網は復興された。[…反乱]の動きは「憲法制定議会」、「自由商業」、「コムニストの根絶」のスローガンの下で起こった。将軍ペローフとコルチャーク軍将校の何人かの裏切り者が白衛叛徒側の作戦行動を指揮している。[……]オムスクの守備隊の気分は平静。市でのパニックの場合にはあらゆる措置が採られる」。だがそれ以後も、二一日にトボリスクが陥落し、「臨時市ソヴェト」が設置され、反乱は衰えを見せなかった。
食糧割当徴発の不満に端を発した西シベリアでの農民反乱は二一年二月に、チュメニ県の七郡、オムスク県の四部、チェリャビンスク県の一部、エカチェリンブルグ県の二郡に拡大し、そこでのボリシェヴィキ権力は麻痺状態になった。
第二回シベリア食糧会議でカガノーヴィッチは播種カムパニアに関する報告で、はじめて農業生産の観点から従来の食糧政策に批判的に言及した。ソヴェト活動のはじめから、農業と衝突した。穀物割当徴発の困難な量を遂行したとき、われわれは農業の悲惨な図式を見なければならなかったと、今後展開される播種カムパニアの重要性に触れた。もちろんここでは従前の方法からの大きな転換を認めることはできない。だが、この記事と同じ紙面に掲載されたシベリア革命委員B・ソコローフの播種カムパニアについての論文は、次のように現在の食糧政策に明確な批判を浴びせた。農民の身の回りで認められる割当徴発の実例は、ソヴェト権力の「経済性」について不利な結論をもたらす。集荷された穀物は雪の中の露天で埋もり、屠殺所に追い立てられた何十万の家畜が真冬に広い囲いで飼育され、毎日二、三〇〇頭しか屠殺されず、「旦那でない者не хозяйн」がこれをしているときに、そのような「非経済性」は農民の戦慄と憤怒を招く。ソヴェト権力以外がこれを行えば、彼は武器を携えたであろう。だが彼はすでに政治的洗礼を受けていたので、これをせず、食糧コミサールや食糧部隊との余計な悶着を避けるために、種子を食べ、需要を超える家畜を殺しはじめる。だがこのような農民はクラーク的白衛軍的スローガン、「ソヴェト権力万歳、コムニスト打倒」を徐々に受け入れはじめる。ソコローフは、割当徴発の遂行の下で農民の中に芽生えた農業経営への無力感を指摘し、農民の信頼を獲得して農業を復興させなければならないと主張した。割当徴発がロシア農業におよぼした否定的影響が的確にそこでは指摘されたが、直ちにカガノーヴィッチは、「食糧割当徴発的と食糧部隊的」政策を否定するソコローフを「エスエルのチェルノーフが考えたのと同じである」として厳しい弾劾を加えた。中央のボリシェヴィキ指導部がロシア農業の危機を認識しはじめたとき、このソコローフの基本理念は、その後のレーニンの現物税構想に重要な役割を演ずるのであるが、それにはまだロシア農民の膨大な犠牲が必要とされた。
旱魃と内戦で大きな被害を蒙ったタムボフ県にも割当徴発は容赦なく適用され、一九年に割当徴発の不履行の廉で一万人が逮捕された。二〇年には割当徴発の遂行に対する郷執行委と村ソヴェトの個人的責任が強調され、穀物の引渡しの拒否に対して多数の人質が取られ、郷・村執行委議長の大量逮捕と拘留が行われた。彼らを釈放するために、しばしば農民は穀物を購入して「余剰」を納付しなければならなかった。この割当を完遂するなら、平年作で一人当たり穀物一〇プードと馬鈴薯九プード余が残ると想定されたが、実際には穀物と馬鈴薯を合わせて一〜二プードしか残らず、二〇年の凶作の下での割当徴発の完遂は餓死を意味した。
県食糧委が割り当てた一九/二〇年度の穀物量二六〇〇万プードに対し、食糧人民委員部が三一一〇万に増量してはじまった穀物カムパニアは、「当時の県食糧コミサール、Я・Г・ゴーリジンが放埓に実行した激しい抑圧」にもかかわらず、まったく不調で、一九年一二月未までにわずか五六九万八〇〇〇プードの穀物と穀物飼料が調達できただけであった。二〇年六月に県食糧コミサールは、党県委と県執行委の地方主義的志向のために集荷が低下し、県食糧委は食糧人民委員部の任務命令を遂行することができないと打電した。県の割当徴発の遂行は、すでにこの時で限界に近づきつつあった。
二〇年春の播種は壊滅的と報告されたが、収穫が明らかになるにつれ県内の異常な凶作が認められ、ボリソグレブスク郡では播種分の収穫さえ不可能であった。同郡の郷執行委議長は九月に、「今年の秋蒔き畑の種子がない。[……]住民の財産や家畜が完全に没収される恐れがある」と割当徴発の停止を訴えた。各地から割当徴発の遂行が不可能であるとの請願が入るようになった。ウスマニ郡レムスンスカヤ郷の村落から、凶作のためにライ麦の、家畜不足のために肉の割当徴発が遂行できない、と。デムシンスカヤ郷で春蒔きは全部旱魃のために干上がり、刈り入れができなかった。ここでの収穫はデシャチーナ当たり五〜六プードにも満たなかった。「そのような収穫は割当徴発を遂行する可能性がない。播種分を残さずに畑から取り上げれば、人々は餓死を運命づけられる」と、郷執行委議長は割当徴発の解除と郷の窮状の調査を要求した。「時は待ってくれない」。キルサノフ郡食糧委は文字どおりすべての家畜と穀物を徴発し、土地は空になり、郷の市民は播種のための馬の返却を請願した。リペツク郡のいくつかの村落では、雹害や旱魃による凶作のためにライ麦の割当徴発が遂行できない。八月末に開かれた同郡セメノフカ村ソヴェトは、郡食糧委の割当徴発の命令を聞き、公文書により村は自分を養うことができないだけでなく、畑に完全に播種できないことが確認されていることを根拠として、レーニンとカリーニンに対し「翌年の農業の完全な崩壊をもたらす国家割当徴発の解除」を要請した。県内のほとんどすべての郡から同様な訴えがあった。
それでも割当徴発は容赦なく執行された。武器の威嚇の下で配分された穀物割当の不履行に対し、家畜が没収され、勝手な探索が実施され、逮捕が行われ、畑仕事は止まり、播種の時期なのに播種のためには何も残されていない、民衆はパニックにあると、村は貧農と赤軍兵士家族の擁護を訴えた。すでに二月にキルサノフ郡の郷執行委は、「勤労人民の領袖にして真理の擁護者」レーニンに次のように訴えた。「現在郷内にいる食糧部隊は割当徴発により穀物一〇〇パーセントを汲み出している。貧農階級に属する住民の大部分は凶作のためにそれを遂行することができない。どれだけかの播種面積は[……]通過する軍事部隊により絶滅させられた。それら穀物の汲み出しは住民に[消費]基準と種子を残していない。割当徴発の不履行者から、繁殖を考えずにすべての家畜が徴発されている」。
二〇年に県の政治情勢が急激に悪化したのはこれだけが原因ではなかった。内戦の激化により、この年の夏までに戦死者の数は急増した。ボリソグレブスク郡では、戦時共産主義期の戦死者のほぼ半数が二〇年一〜七月に集中した。これらすべてが農民の中に反コムニストの感情を醸し出した。郡の農民の気分について六月末から七月はじめに次のように報告された。ボリソグレブスク郡、「住民、労働者と農民と職員の気分は、困難な時機、崩壊、長引く戦争、それに差し迫った穀物の凶作に関連して不満気」。モルシャンスク郡、「穀物割当徴発による郡食糧委の余りの抑圧的措置のために、農民の気分は打ちのめされている。近い将来に深刻な紛糾が起こるかも知れない」。タムボフ郡、「共産党に村する農民の対応はひどい」。ウスマニ郡、「共産党の意義を無知な大衆が無理解なために、共産党への対応は否定的」。それでも昨年度より困難が予想される来るべきカムパニアを直前にして八月初旬に開かれた県食糧会議で議長シリーフチェルは、穀物負担は住民にとって重いとしても、国家と中央の利益を優先するため県で支配的なクラーク分子を締め上げることを宣言した。彼によれば、凶作であるが故に、穀物を汲み出すために特に武装力が必要であった。
旱魃に襲われた農民にとって決起するか餓死するか、ほかに選択の余地はなかった。四月にキルサノフ郡の郷執行委は、「実り豊かな土地が播種なしになり、それで餓死の恐れを生んだ」「食糧人民委員部の失政を」指摘した。県内には内戦が拡大するにつれ兵役忌避者が増加し、彼らは徒党を組んでコムニストの殺害やソフホーズを略奪し、騒然とした状況が生まれていた。これらは集荷所や製粉所とならんで農民の憎悪の的であった。八月に兵役忌避者の捕獲にタムボフ郡カメンカ村を訪れた部隊は匪賊に急襲され、その後県チェー・カーにより派遣された食糧部隊とそれを支援する兵役忌避との闘争部隊も、村付近で粉砕された。八月一九日に決起した農民は付近のソフホーズを襲い、家畜を略奪しコムニストを殺害した。三日間でこの反乱は鎮圧され、村が赤軍部隊により制圧された二四日の晩に部隊を引き連れたA・C・アントーノフが反乱地区に到着した。この直前にタムボフで開かれたエスエル臨時協議会はこの決起を時期尚早と見たが、彼はカメンカに進撃した。これがこの後一年以上におよび、タムボフ県のほとんどと、サラトフ、ヴォロネジ、ペンザ県にまで拡大し、約五万の犠牲者を出したアントーノフ反乱のはじまりであった。
1918年のタンボフ県 カメンカ村付近
カメンカの東約二〇キロに置かれたルジャクサのチェー・カー作戦本部から八月二九日に、匪賊によるソフホーズの破壊とソヴェト活動家の殺害の第一報を受け取った県チェー・カーは、直ちに二丁の機関鏡を携行したタムボフ陸軍学校中隊、二丁の機関銃をともなう第二一西部連隊の連隊学校中隊、一丁の機関銃を携行するキルサノフからの懲罰中隊、一丁の機関銃を携行するボリソグレブスク懲罰大隊の中隊、そしてわずかな食糧部隊を派遣した。現地作戦本部は、匪賊反乱に参加するか匪賊を隠匿する村落に、そのような家族を人質にし、反乱が継続するなら彼らを銃殺にするとのプリカースを八月三一日に出した。タムボフに県軍事委、県チェー・カー、国内軍部隊ВНУСから構成される軍事評議会が設置され、匪賊の掃討作戦がはじまった。
八月に内務人民委員部にこの事件は次のように報告された。農民住民のソヴェト権力への関係は改善されたが、「今年は大旱魃と穀物の凶作に関連して、農民大衆のソヴェト権力への気分は食糧カムパニアに着手したため再び悪化した。[……]そのようにして創り出された劣悪な食糧と全般的経済状態は、ソヴェト権力の内部の敵の犯罪的活動により深刻になり、いくつかの郡の農民はそれに対して武装し、タムボフ、ボリソグレブスク、キルサノフ郡の境で彼らの間に個々の爆発を引き起こす機会を与え、それらは組織的武装反乱に転化した。八月二一日にタムボフ郡南部で爆発がはじまり、そこに武装匪賊が現れ、隣接の三郷執行委を破壊し、囚人のためのスホチンスカヤ入植地とソフホーズを略奪し、村のコムニストとソヴェト活動家、特に食糧活動家の大量虐殺を行った。動員から逃れた元将校により指導され、武器を手にした兵役忌避者、クラーク分子、農民の強制動員により補充された匪賊は、数日間で匪賊行為のテロルを広げいくつかの鉄道駅を占拠した。
同時に、悪名高いアントーノフが主導する匪賊の襲撃がキルサノフ郡で猖獗した。匪賊は「ソヴェト打倒」、「コムニストを殺れ、勤労農民とヴラーンゲリ万歳」のスローガンの下にあった。事態の深刻さは適時に了解され、これら三郡に戒厳令が布告された。根絶活動の指導のために県チェー・カーの下に作戦参謀本部が組織された」。
ここまでは通常の農民反乱への対応であった。現地司令部は一週間で反乱を終息させ、キルサノフ−タムボフ−バラショフの三角地帯の匪賊を最終的に一掃すると語った。
だがすでに反乱は燎原の火のごとく、瞬く間に県を覆った。この反乱の舞台の一つ、キルサノフ郡南部のヴォロナ河沿いに点在する湖と広がる森林は、一八年以来犯罪者や兵役忌避者に、さらに大量の武器に絶好の隠れ家を提供し、ラムザ、パレフカ、カルギノなどの村を拠点として、兵役忌避者を巻き込んで「コムニストを殺せ」、「食糧割当徴発打倒」のスローガンの下に、農民一揆やソヴェト活動家の殺害のような反ソヴェト活動が展開されていた。このような徒党の指導者の一人がアントーノフであった。九月四日までにこれら一連の郷が匪賊に占領され、間もなくキルサノフ郡南部、南西部、ボリソグレブスク郡北西部、タムボフ郡南部、南東部が「ソヴェト権力の転覆を目指した自然発生的運動により覆われた」。反乱開始時には五〇〇人の勢力であったが、八月末にはその数は二五〇〇人に膨れ上がった。
この時カメンカ村から北東約五〇キロのキルサノフ郡のインジャヴィノやクニャジェ=ボゴロディツコエで兵役忌避者による新たな部隊が編成され、郷執行委と村ソヴェトを粉砕し、ほとんどの農民を糾合しタムボフへと向かった。ある者は棒切れや三叉を持ち、または徒手で。総勢三〇〇〇人にもおよぶこの群集は、二〇〜三〇人だけがライフル銃か小銃で武装されていた。この群集はタムボフを直前にしその南方のクジミノ=ガチ村でそれ以上の進撃を止め四散しはじめた。付近の村で赤軍に遭遇し、タムボフへの進撃は最終的に頓挫した。この自然発生的攻勢の失敗により、これ以後叛徒の軍事活動は組織的形態を採りはじめ、第一カメンカ連隊のパルチザン部隊が組織され、これ以後反乱はアントーノフ軍と政府軍とのパルチザン戦争として推移した。
県チェー・カーは九月二七日に総員一三一二人の歩兵を食糧活動のために県の八箇所に配置し、県軍司令官の表現によれば、軍事的観点からは反乱は鎮圧されたが、一〇〇〇人の歩兵と騎兵を持つ強固に団結した匪賊が柔軟性と機動性を発揮してさまざまな場所に出没していた。九月末のカルギノ付近の戦闘で反乱軍は六〇〇人の犠牲者を出して、小部隊に分散して森に隠れたが、一〇月はじめにはいっそう大規模にタムボフ郡で襲撃を繰り返し、赤軍部隊が反乱軍に寝返ることもあった。キルサノフ[郡]政治局代表は、「全体として徒党は最終的に根絶されず、それを根絶するのはまったく困難である」と報告した。
秋になっても反乱は鎮圧の気配を見せず、一〇月五日の県執行委会議で次のような報告があった。「参謀本部からの資料によれば、匪賊は充分良好に組織され、アントーノフは理想的指導者であったこと[……]が確認できる。チェー・カーにより収集できたあらゆる資料から、反乱の次のような図式を確認することができる。それはタムボフ・エスエルに、公式には勤労農民組合タムボフ県支部により唆された。エスエル党中央委はソヴェト政策と食糧活動への全般的不満に基づき地方で現れた個々の爆発が成功を収めなかったのを見て、小さな蜂起的行動のシステムからソヴェト権力の転覆のための全ロシア領内での大規模な大衆的反乱の準備のシステムへ移行することを決定した。それは「世論」を形成し、このために自分の方に農民を引き入れようと決意した。[……]タムボフ県エスエル支部が農民反乱を組織した。それはカメンカの組織活動家自身にとっても、たまたまカメンカと一般にタムボフ・エスエルのいくらの非組織性により突然にはじまった。このテーマでタムボフで七月にエスエル党県会議が開かれ、そこでソヴェト権力との武装、政治闘争のテーマでテーゼが作成された。[……]この反乱はエスエル中央委の指導者にとっても突然であった。というのは、最近アントーノフは中央委の見解に合意せず、恐らく、組織になじまず中央委の指令に従うのを望まず、右翼エスエル党から除名された。カメンカとアントーノフの二グループがこの反乱を開始した。八月はじめに勤労農民組合郡大会が開かれ、それは反乱を掌中に収めることができた。[……]そのように反乱はエスエルと勤労農民組合により導かれたものであることが判明した。左翼エスエルが反乱に参加し、反乱の統一左右エスエル作戦参謀本部が組織されたことを、その後確認することに成功した」。このように反乱が拡大するにともない、それはエスエルによる政治的反乱であることが強調され、県執行委議長シリーフチェルは、反乱の情報の不足を述べ、匪賊の活動に積極的に抵抗する村に、穀物割当徴発の五〇パーセント、馬鈴薯潮当徴発の六〇パーセントを遂行する条件で近日中に商品を供給することを約束したに留まった。
この報告から窺うことができるように、このタムボフ反乱、公式には「アントーノフ運動Антоновщина」は、この反乱に関する最初の公式論文集で指摘されて以来、エスエル=クラーク反乱として旧ソ連史学界で考察されてきた。このような観点からは、アントーノフ反乱は反ソヴェト的政治運動に還元され、ボリシェヴィキの政策に反対する大衆的農民反乱である側面が看過されるのは当然であった。もしくは、ボリシェヴィキにとってこれだけ長期的で大規模な反乱を農民の大衆運動と解釈することは、これまでの「労農同盟」の全否定を意味した。反乱の指導者の間にエスエルまたはそれへの同調者が少なからず存在し、それが反乱の拡大につながったのは事実であるとしても、エスエル党タムボフ県委は、アントーノフにエスエルを自称するのを止めるか、党の戦術に従いテロ闘争の停止を要求した。九月八日に開催された同党全ロシア協議会でも、アントーノフ反乱は支持されなかった。二一年はじめにエスエル党員Ю・ポドベーリスキィはタムボフ反乱を、「スローガンも理念も綱領もない粗雑なパルチザン運動」と見なした。これについて詳細なアルヒーフ資料に基づいて、現代の研究者は、エスエルの中央組織も地方組織もアントーノフ反乱を準備せず、いかなる直接的指導も行わなかったと結論づけている。
この事実は反乱軍の人的構成にも現れた。その組織活動家の一人は次のように述べている。「匪賊活動の参加者заговорщикと首謀者は、大部分が半文盲で、きわめて粗野で、無教養な人々である。党務や綱領問題を彼らは理解していなかった。叛徒の指導者の大部分は反乱の綱領を理解せず、「すべてを勤労人民のために」、「すべてを憲法議会に」を宣言している」。そこで描かれている人物像は、党綱領に従う一定の目的意識を持つ個人ではなく、農民そのものの姿である。したがって、二〇年代後半の県史で、「割当徴発打倒」や「自由商業万歳」のようなスローガンに農民は共鳴したが、政治的な「憲法議会に向けての闘争」や「ソヴェト打倒」は人気がなかったと指摘された。九月にタムボフ郡の郷を訪れた郡執行委全権は次のように報告した。「コムニストへの農民の気分は敵対的。原因は、荷馬車、勤労、穀物賦課のために農村に派遣された現地のコムニストとエイジェントによる大量の職権濫用である。説明や説得もせずに、抑圧と狼籍だけに頼り、女や子供の前でもっとも無作法に振る舞っている。殴り、鞭打ち、それで自分をコムニストであると名乗った場合もあった。[……]薪の搬送のために郷から三〇台の荷馬車を動員するプリカースが出された。畑から穀物を搬送し播種しなければならないときに、まず任務を遂行しなければならない。[……]そのために現在まで穀物は畑に残され、土地には播種されていない」。このような農民の不満に訴えた素朴な反ボリシェヴィキ感情が、この時期のほとんどすべての農民反乱と同じく、アントーノフ反乱の基盤であった。軍関係者は一〇月までの活動について、「匪賊の主要な情宣は、国家生産物割当徴発と賦課を遂行するなということであり、あらゆるソヴェト施設の破壊とコムニストとソヴェト活動家の殺害を訴えた。匪賊に明確なスローガンはないが、ほぼ「コムニストに死を!」、「勤労農民万歳」であろう」と報告した。農民は失われた権利の回復を要求しはじめた。
反乱は一〇月二三日にカメンカの西方約三〇キロのトカレフカとジェルデフカに拡大した。反乱地区では、郷執行委員の襲撃や殺害が頻発し、郷執行委は解散され、それに替わって全権が委譲された革命委が組織された。すでにこれら地区で農民はソヴェト権力に従属しなくなっていた。この時でアントーノフ軍は赤軍部隊から奪い取った大砲を持つ三〇〇〇人の勢力になっていた。このような反乱軍の活動を支えていたのは農民自身であった。秋にコズロフ郡で略奪や殺害を繰り返していた現地の匪賊活動について、党モスクワ委代表はその調査結果に基づき、「はじめこの匪賊は、農民の間にまったく権威を持っていなかったが、[……]それでも徐々に、匪賊は日毎に結集しその数を増やし、わが食糧組織が国家割当徴発の遂行に取りかかり、ある場合にはこの割当徴発は大きな凶作のために非常な負担となったとき、これは匪賊行為の強化にとっての基盤を創り出した」と報告し、匪賊に共鳴して農民が徐々に結集した事実を認めた。
パルチザンが村に現れると、ナバートが鳴らされ、郷や村で市民全体集会[スホード]が召集され、村人の多くが勇んでやって来る。発言者はコムニスト権力による悲惨な国内の状態と農民が決起した目的を語る。発言に共鳴した市民により、「吸血鬼コムニスト打倒、ソヴェト打倒」などの決議が読み上げられ、スホードは散会する。集会の終了後、多くの村で、義勇兵の登録が行われ、勤労農民組合の組織化と軍隊の編成が行われる。そこで武器を手にした(もっぱら三叉を)農民の群れは、反乱に参加するために隣接の村に向かった。
権力側はこのような反乱軍の人員の増加を農民の強制動員の結果であると見なしたが、一一月の県チェー・カーの「極秘」報告はまったく別の図式を示している。ボリソグレブスク郡では次の村がアントーノフ軍により占領され、農民が反乱軍に加わった。「トゥゴルコヴォで五〇、プストヴァロヴォで六〇、レプナヤで二五、モイセエフスカヤ=アラブシカで一、ポドゴルナヤで一、チカロフカで三〇、アトホジャヤで三、セメノフカで三、ベレゾフカで一パーセントが志願」。タムボフ、キルサノフ郡では占領された村の数が多いだけで、ほぼ同様な傾向である。これはまさにアントーノフ軍が勤労農民の志願者大衆から編成されたことを物語っている。キルサノフ[郡]政治局は一〇月末の報告で、「住民自身により自発的に匪賊へ食糧が提供された」ことを確認した。反乱軍兵士の輸送には農民の馬と荷馬車が利用された。後に二一年八月に党県委は、「ほとんどすべての農村住民大衆の共感に依拠した」アントーノフ軍と闘争するのは非常に困難であったと、回顧した。
九月二四日にレーニン宛てに、県執行委議長代理から次の文書が送られた。「わが状態は悪化している(わが二個中隊が武装解除され、そのようにして四〇〇丁のライフル銃と四丁の機関銃が奪われ、全体として敵対者は強固)。[……]貴殿に[穀物を]何も出せなかった。集荷は一日必要な二〇〜二二万プードでなく二万〜二万二〇〇〇〜二万五〇〇〇しかない」。この恐ろしい現実を知悉したレーニンは、直ちにチェー・カー議長ジェルジーンスキィに「超精力的措置」を至急採るよう命じたが、事態はいっこうに改善されなかった。レーニンの関心事は、まず労働者への穀物の確保であった。タムボフの事件もこのことに集約された。二七日にブリュハーノフ宛てに次のように書き送った。「タムボフ県について。注意を払うように。一一〇〇万プードの割当徴発は確実だろうか」。これとの関連でさらに一〇月一九日に、国内保安部隊司令とジェルジーンスキィに、反乱は強まり、わが軍は弱いとの県執行委議長シリーフチェルの報告を伝え、反乱撲滅のための必要な措置を採るよう指示した。これとほぼ同時にレーニンはジェルジーンスキィには、叛徒の猖獗を「醜悪の極み」として、タムボフ県のぼんくらなチェー・カー員と執行委員を裁判にかけ、国内保安部隊司令を厳しく叱責し、厳格な反乱の鎮圧を命じたのは、依然として根絶されない反革命的行為への彼の焦燥感の表現であったろう。二月になると抑圧的措置が強化され、「匪賊的村」が焼き討ちされた。
レーニンの激怒にもかかわらず、全体とすればこの反乱に対する中央の軍事的対応は不充分であった。後に軍司令官が指摘したように、県当局も中央権力もこの反乱を過小評価していた。現地司令部は共和国国内軍に曖昧な情報を、断片的に送り続けていた。一〇月二六日に新しく軍司令官が着任したが、彼は中央が約束した充分な兵力を受け取らないままに活動を開始した。現有の軍事力の不足に加えて、チフスや負傷により毎週三〇〇人の兵士が失われた。その補充も困難であった。そのため、匪賊の攻撃を防戦することもできず、しばしば機関銃を含む武器が奪われ、軍隊の士気は阻喪した。反乱軍が占領する一万八〇〇〇平方ヴェルスタにわずか一二〇〇人の兵士を展開していただけであった。二月に開かれた第九回党県協議会の雰囲気は非常に重苦しく、意気消沈し、パルチザン部隊との闘争でソヴェト権力はまったく無力であり、地方での活動は完全に停滞し、組織が解体されたことが確認された。一二月末まで反乱鎮圧軍は国内軍部隊組織の手にあったが、この時からタムボフ県司令官参謀本部が組織され、県は四軍事区域участок(後に五区域)に分けられた。だが、前線から召集された野戦部隊による軍事力の強化がはかられるには、さらに時間を要した。このような中央の緩慢な対応を、二一年一月半ばに党県委は、「つい最近まで中央はほとんどいかなる注意も払わず、ほとんどいかなる援助もせず、そこでは党県委や県執行委の申請は真面目に取り上げられなかった」と非難した。中央の軍事力は払底していた。
実際に人的にも物理的にもすでに軍事的動員体制は崩壊していた。当時はポーランド、ヴラーンゲリ、ペトューラとの戦闘のほかに、クルスク、サラトフ県、ドンとウクライナ、シベリアなどでの大規模な農民反乱に多数の赤軍が割かれ、全土に広がる兵役忌避者に象徴される徴募の限界、工業の解体のために武器と装備の供給停止が、軍内部での士気の低下とともに赤軍の戦闘能力を麻痺させていた。それに加えて、県内の割当徴発の遂行は、大規模な匪賊活動にもかかわらずほとんど大きな落ち込みはないと、現地は割当徴発の順調な成果を打電し続けていた。それが、反乱を過小評価した根拠の一つである。ボリソグレブスク郡の郷では赤軍兵士家族も考慮せず、すべてを奪い尽くし、一一月下旬の一週間で穀物三三万プード弱と馬鈴薯一二二万プードが集荷され、「集荷は匪賊にもかかわらず通常に行われている」と報告された。だが一二月に入ると集荷に陰りが見えはじめ、毎日の集荷は三万プードに縮小し、それもおもにオート麦しかなく、碾割りとライ麦は三〇万プードが納付されただけで、集荷不足は二一年はじめで四〇万プードに達するようになった。すでに四五〇万プードを納付した割当徴発の遂行は、凶作を蒙った地域で非常に苦しく、今後の搬出は県の崩壊を招くのは必至であるとしながらも、シリーフチェルは割当徴発の任務命令を他県に転化するのが不可能ならば、その絶対的遂行を再確認するようレーニンに要請した。
県への割当徴発が「前年度より半減されたが、まったく力のおよばぬものであった」ことを、県執行委議長となったアントーノフ=オフセーエンコは二一年七月にレーニンに次のように詳細に報告した。巨大な播種不足と凶作の下に県の大部分で穀物に不足した。県食糧委の資料によれば、一人当たりの穀物消費量は一九〇九〜一三年の年平均で一七・九プードであったが、二〇年には四・二プードにしか相当しなかった。県の需要の四分の一も現地の収穫で充たすことができなかった。割当徴発が完遂されれば、農民一人当たり穀物一プードと馬鈴薯一・六プードしか残らなかった。二一年一月までに農民の半分が飢えていた。ウスマニ、リペツク、コズロフ郡では飢餓は限界に達し、樹皮を食し、餓死者が出た。
それでも割当徴発の遂行は強行された。二〇年一二月末に食糧人民委員部は割当徴発の遂行と食糧組織の強化のため県食糧会議に、割当徴発の回避と匪賊行為、兵役忌避、投機との闘争の目的で、軍事作戦参謀本部военно−оперативный штабを組織するよう命じた。これら措置にもかかわらず、二一年二月一日までに県全体で割当徴発量一一〇〇万プードのうち五一〇万プードが遂行され、反乱郡のタムボフ、キルサノフ、ボリソグレブスクに課せられた五三〇万プードのうち一四〇万プード(すなわち約二五パーセント)が遂行されたにすぎず、二月以後は中央からの決定的介入を必然化させた。
二〇年末までに政府軍は歩兵九〇〇〇、騎兵一七〇〇人の対マフノー鎮圧部隊より多くの軍勢を投入しても、軍事的成果を挙げず、一月一日の党中央委組織局は、第二軍から再編される三〇〇人の部隊を派遣することを決定した。だがこの時すでに、反乱は県の中、南部のタムボフ、キルサノフ、ボリソグレブスク、モルシャンスク、コズロフの五郡を席巻していた。これら郡では軍隊に防備された行政的中心部にだけソヴェト権力は存在していた。叛徒は二月までに五万に膨れ上がり、彼らは赤軍に倣った軍隊組織(コミサール、政治部、裁判所を含めて)を持っていた。指導部の核に一一月半ばに設置されたパルチザン部隊軍幹部会議があり、アントーノフが指揮する作戦参謀本部が部隊を統轄した。これら会議にアントーノフ「勤労農民組合」タムボフ県委代表が出席した。同県委に直接従属するタムボフ、キルサノフ、ボリソグレブスクの郡委、その下部に地区委が設けられた。反乱の展開とともに郷・村委も生まれ、それらの数は三〇〇以上に達し、義勇兵の供給源となった。地区と郷毎に配置された二一個の連隊と旅団から構成される二軍の正規軍のほかに、「国内保安部隊」と称する民警部隊があった。反乱軍は作戦上はアントーノフを長とする作戦参謀本部に、政治的には左翼エスエル・П・トクマコーフ(軍司令官)を長とする「勤労農民組合」県委に従属した。反乱軍は県チェー・カー、党郡委、鉄道、軍隊、経済組織の指導部にいたるまで広範な情報網を持ち、部隊の派遣、軍事・食糧貨物の発送を把握していた。直接の作戦行動で出撃した赤軍部隊が、叛徒の露営地でその作戦の命令書を発見した場合もあった。
第一パルチザン軍の作戦行動は次のように報告された。「一月一一日第一カメンカ連隊は第五ボリソグレブスク連隊とモ[イセエヴォ‥]アラブヒ地区[カメンカから南東約三〇キロ]でウヴァロヴォ[その付近]からの機関銃四丁、自動ライフル三丁の騎兵隊三五〇人と歩兵一五〇人の敵を攻撃し、敵を敗北させたが、わが機関銃が破損したため、第一カメンカ連隊指揮官[名前]、現地組織活動家[名前]、パルチザンの一二人の死者と三人の負傷者を遺棄して退却しなければならなかった。[……]本日再度組織されたスクマノフカ[カメンカから約三〇キロの村]連隊は列車を拘留し、六二人を捕虜にし、ライフル一〇〇丁、多くの実弾、さまざまな食糧を徴収した。同日ビチュゴフカ連隊によりヴォロンコヴォ・ソフホーズへの襲撃が行われ、馬、牛、豚、穀物その他多数の必需品を徴発し、三人のコムニストを斬殺し、一〇丁のライフル銃を奪い、同日晩に第一〇スクマノフカ組織の下にエシポヴォ駅でジェルデフカとテルノフカ駅間[約三〇キロ]の鉄道と電信網を破壊した。同時に、第二タムボフ連隊はタンコフスコエ鉄橋で激しい銃撃を浴びせて緊急列車летучкаを停止させ、鉄橋防衛隊から実弾の箱を強奪した」。このような戦術はパルチザン戦の典型であり、実弾の大きな不足とわずかな機関銃はこのようにして補充された。連隊はそれぞれが一二丁の機関銃を持ち、一〇〇から一五〇人の六個の騎兵中隊эскадронからなり、パルチザンは連隊参謀本部から受け取ったもっぱらライフル銃で武装され、各人は四五発の実弾を携行していた。
アントーノフ反乱は二月はじめに党中央委機関紙で次のように報道された。「タムボフ県のいくつかの郡でエスエル=クラーク匪賊が出現している。これら匪賊の首謀者はごろつきпроходимецのアントーノフである。必要ならば彼は「憲法議会の擁護者」を自称している。農民ははじめクラーク的徒党に対し一部は無関心に、一部は略奪的襲撃におびえていた。現在彼らは徐々にアントーノフが勤労生活を妨げ、強奪と破壊以外何物ももたらさず、実際彼は地主の擁護者であることを理解しはじめている。農民からのアントーノフ匪賊への反撃が日増しに大きくなっている」。兵役忌避者や犯罪的分子を含む反乱軍が勝利するには農民の支持が不可欠であり、そのためにアントーノフ軍では厳しい規律が要求された。パルチザンの一人が酩酊状態で村の市民を理由なしに拳銃で負傷させた廉で、このパルチザンは、「人民の期待に敵対する」として、司法的審理のために参謀本部に連行された。すでに二〇年一二月半ばのキルサノフ守備隊赤軍兵士第二回無党派協議会は、勤労大衆の窮状を考慮して、「労農政府が地方で割当徴発と穀物の汲み出しにより実施している政策は、望ましい成果を挙げないだけでなく、[……]政治的に啓発されていない大衆に政府自身への不信をもたらすかもしれない」との決議を採択していた。エラチマ郡の赤軍兵士は一月の手紙で、割当徴発の徴収の際の職権濫用を訴えて、「農民の気分は、もしこのような現象が速やかに根本から阻止されないなら、そこでは必ず反乱が猖獗し、反乱はクラーク的でなく、正義の勝利のあらゆる期待を失った勤労住民の反乱となろう」と、予見した。軍隊内部にさえ、割当徴発への批判が公然となっていた。
中央のアントーノフ反乱に関する図式的評価に比べて、現地でのそれは的確であった。二〇年一二月末の国内軍参謀本部の秘密報告によれば、鎮圧の際の県チェー・カーの厳しい弾圧措置は動揺している農民を決起させ、否定的結果をもたらすだけであった。「全面的にソヴェト権力に不満を持つ南部諸郡の住民のクラーク的構成、播種不足、凶作、旱魃の不利な状況が運動の展開にとって非常に有利な条件を創り出した。一九年と今年二〇年に実施されたタムボフ県の食糧カムパニアは異常な性格を帯びた。[……]食糧組織のエイジェントは、時にはクラークと貧農を区別せず、付与された広範な全権と措置を濫用して、割当徴発を完全に遂行することだけに全力を注いだ。これも一定程度広範な不満の拡大を促し、匪賊行為と蜂起に有利な基盤を創り出した」。さらにこの報告で次のような興味深い言葉が続く。この運動は、県チェー・カーのような権威によって、「匪賊行為бандитизм」と解釈されたが、それはソヴェト権力組織との計画的組織的闘争の形態を採った「運動」であり、「アントーノフ運動」であるという。明言は慎重に避けられたが、タムボフ反乱は割当徴発の不満に基づく農民の大衆的運動であると、そこでは認識されていた。
中央にとっても割当徴発の再検討が必要になった。一月一二日に党中央委で農民の気分に関する問題が審議され、「農民の状態を速やかに緩和する可能な措置を審議する」特別委と「匪賊行為の軍事的根絶の措置を至急考察する」特別委が設置された。二月二日の中央委政治局会議は、ツュルーパに農民の政治的状態と農民反乱に深刻に配慮し、農民の状態を緩和する措置を作成するよう委ねた。この時開催されていたモスクワ拡大金属工協議会で四日に登壇したレーニンは、この時大々的に展開されていた春の播種カムパニアの意義を強調し、「労働者と農民との関係を再検討しよう。[……]現在われわれは一三県で割当徴発を完全に停止しようとしている」ことを公言した。ツュルーパは翌五日づけで、播種カムパニアの継続を指示するとともに、「本状の受け取りにより、穀物食糧割当徴発の遂行の活動を直ちに停止せよ」と、タムボフ県食糧会議議長と県食糧コミサールに命じた。この電報を受け取った[党]県委、県執行委、県食糧コミサールは、「この訓令の遂行に直ちに着手することを命ずる。本状の受け取り後、穀物割当徴発のこれ以上の遂行を直ちに停止し、食糧部隊を解除すること」を電報で命じた。さらに政治局会議決定に基づき、食糧割当徴発の停止についての県執行委と党県委の農民への檄が、この間の事情説明をつけて九日づけで公示された。「南部とシベリアからわずかずつ穀物を受け取る可能性が確定したことに関連し、コムニスト県委の報告により、現在タムボフ農民が置かれているあらゆる苦しい状態を考慮し、割当徴発の大部分は遂行され、何人かのクラークにある余剰は非常にわずかであることを考慮し、食糧人民委員部はタムボフ県で今後穀物割当徴発の徴収を停止することを決議した。[……]現在、全県で通知の受け取り後直ちに穀物割当徴発の収集を停止し、すべての食糧部隊を解除するとの命令が郡食糧コミサールに出された」。
だがこれにより、タムボフ反乱を鎮静化するためにボリシェヴィキ権力が方針転換を採ったと見なすのは早計である。この檄で述べられている割当徴発廃止の論拠が虚偽である以上、この檄の内容自体も欺瞞であった。二二日にブリュハーノフは、県で二月までに割当徴発の半分程度しか遂行されなかった事実を指摘し、匪賊の活動地区では「まだ著しい量の穀物余剰の存在を認めなければならない。当面、共和国の全般的食糧状態は(特にシベリア穀物の経路の[反乱による]切断に関連して)信じ難いほどに苦しい」との現実を報告した。こうして、三月一九日の政治局会議は、県の調達の完全停止に関する命令を破棄して、現地の匪賊と闘っている軍事部隊の飼料の調達を承認した。この時モスクワで開かれていた第一〇回党大会で、割当徴発の廃止とそれに替わる現物税実施の決議が採択され、戦時共産主義からネップ(新経済政策)への移行がはじまったと、通説では述べられているが、それは皮相的見解でしかない。多くの農民は割当徴発の廃止の通知を、その正しい直感で不信を持って迎えた。タムボフ農民は次のようにいっている。「ソヴェト権力は現物税の布告によってもっと沢山取り上げるだろう」(コズロフ郡)。「穀物が実をつけるや、以前と同じに取り上げるだろう」(タムボフ郡)。ウスマニとモルシャンスク郡の農民は、現物税が秋まで保たないだろうと確信していた。このような気分は端的に、「現物税は名前が替わっただけで、割当徴発と同じだ」との表現に示された。割当徴発廃止の宣告の効果は、ボリシェヴィキ指導部が期待していたほどには認められなかった。
唯一の現実的方針は軍事的抑圧措置の強化であった。アントーノフ=オフセーエンコが報告したように、二月までは中央によりタムボフ県に深刻な配慮が払われていなかった。月末に予想される泥濘期の到来までに撲滅作戦を展開する必要があったが、クロンシュタット蜂起に兵力が割かれ、タムボフ県への本格的な軍事的介入は著しく遅れることになる。二日の政治局会議は、農民反乱との闘争で政治的指導と援助のためにタムボフにВЦИК特別委の即座の派遣を組織するよう組織局とВЦИКに委ね、アントーノフ=オフセーエンコをタムボフに招致することを決定し、翌三日の組織局会議は、ペルミ県播種委議長の彼を特別委の議長としてタムボフに召喚することを決めた。県内に非常体制が採られ、二一年までに辺境を含む多くの地区で革命委の機能はソヴェトに移行していたが、タムボフ県では革命委の機能が強化された。キルサノフ、ボリソグレブスク、タムボフ、モルシャンスク郡だけで約四五〇の郡と村の革命委が設置された。管区革命軍事裁判所は一月二二日づけで、アントーノフ匪賊のうち、指導者、首謀者、指揮官、コムニスト・ソヴェト活動家の殺害の直接の下手人、共和国に重要な資産の破損のすべての下手人、悪質な兵役忌避者、以前の赤軍幹部士官でアントーノフに寝返ったコムニストとソヴェト活動家、武器と軍事物資の携行者、スパイを[すなわち、ほとんどすべての叛徒を]四八時間以内に銃殺するよう命じた。二月二七日の党県委、県執行委、県軍司令部、県チェー・カー、革命裁判所の合同会議で反乱の根絶のために、アントーノフ=オフセーエンコを議長とする五人の県の匪賊活動根絶に関するВЦИК全権特別委の承認をВЦИКに求め、現在非常に脆弱な県チェー・カーを強化することを必要と認め、さまざまな軍事的、政治的手段が討議された。全権特別委の構成は三月三日の党中央委組織局会議で承認された。
二月一六日にタムボフに到着したアントーノフ=オフセーエンコが見たのは現地の権力組織の完全な荒廃であった。党組織のあらゆる部門が二一年はじめから活動を停止し、大量の脱党とコムニストの殺害により、二〇年一〇月に一万一五二一人を数えていた党員と候補は三月には六一五八人にまで半減していた。組織内ではもめ事が絶えず、規律は極端に低下し、泥酔は公然であった。ソヴェト組織も同様であった。住民への供給は滞りがちで、価格は高騰していた。組織的活動がまったく欠けていた。
この間の農民の気分を県チェー・カーは三月はじめに次のように報告した。「住民の気分は総じて食糧と燃料の危機のために非常に敵対的である。食糧割当徴発の廃止は望ましい結果をもたらさなかった。[……]大部分の農民の反乱の原因は[無党派農民]協議会の参加者により食糧部隊の責任にされている。彼らの行動は所によっては住民へのテロ行為、系統的に適用される非合法な没収、徴発などに行き着き、これら全部がある程度まで、ソヴェト政府に対する農民の[見方を]悪化させた」。
アントーノフ反乱は隣接するヴォロネジ、サラトフ県へと波及し、県食糧委は二月に匪賊の出現で食糧活動は完全に麻痺したと打電した。ヴォロネジ県食糧会議に食糧人民委員部は、割当徴発の回避、匪賊行為、兵役忌避、投機との闘争の統合と指導の目的で軍事作戦参謀本部を組織し割当徴発の完遂を要求した。だが、匪賊の襲撃により、部隊は食糧活動から解除され、掃討作戦行動に移された。カムイシン、バラショフ、セルドブスク郡での食糧活動は完全に停止した。住民は割当徴発や荷馬車賦課の遂行に非常に強く抵抗しはじめた。集荷所と納屋では穀物の略奪が起こり、穀物の搬送は止んだ。食糧活動で党員や活動家の間にパニックが生まれ、群れをなして党や村細胞から逃げだした。このようにしてここでの食糧活動は崩壊した。反乱はサラトフ県でさらに拡大した。三月の第一〇回党大会の真っ直中に次のような秘密暗号電報がレーニンに送られた。「二カ月半の匪賊との闘争は、あらゆる手だてでも望ましい成果をもたらさなかった。この数日間で匪賊は全県を席巻しはじめている。セルドブスク、バラショフ、カムイシン、ヴォリスク、デルガチ、ノヴォウジェンスク、フヴァルィンスク郡に反乱がある。騎兵だけでなく歩兵も不充分なために、匪賊は縦横に動き回っている。カムイシンは彼らの手に落ち、フヴァルィンスクは彼らの手にあり、ヴォリスクは脅威に晒され、セルドブスクは包囲され、サラトフから八〇ヴェルスタのゾロトエは占領された。小部隊による匪賊との闘争は彼らに武装する機会を与えただけであった。[……]中央の穀物任務命令を遂行するのは不可能で、県の都市は飢餓一揆の脅威に晒され、そのような状態は労働者大衆を堕落させ、意気を阻喪させ、彼らの間で動揺とストがはじまっている」と危機的状況が伝えられ、武装部隊の即座の派遣を現地チェー・カーは無条件に要請した。この文書は、「サラトフを超緊急にモスクワから援助しなければならない。共和国革命軍事評議会は全力でこれに当たらなければならない。そうでなければひどいことになる」との、レーニンの書き込みをつけてトロツキーに渡された。農民は徒党を組んでさまざまな地方で集荷所の穀物納屋から穀物を奪い取り、通信は寸断され、タムボフからも増援部隊が必要となった。同様なことが隣接するサマラ県スタヴロポリ、ブズルク、ブグルスラン、サマラなどの郡で起こった。飢えた農民は数千の群集となって食糧組織に穀物を求めていた。
しかし、二〇年末までにボリシェヴィキ権力が直面していたのは反コムニストを掲げる武力反乱だけではなかった。農業の荒廃がそこにあった。割当徴発はロシア農業をほとんど完全に崩壊させていた。
表8−1 主要穀物の播種面積と減少率 (単位:万デシャチーナ,%)
1916年 |
1921年 |
減少率 |
|
秋蒔ライ麦 |
1,671.2 |
1,393.3 |
16.6 |
春蒔ライ麦 |
48.8 |
26.4 |
45.9 |
秋蒔小麦 |
237.4 |
159.6 |
32.8 |
春蒔小麦 |
1,488.2 |
829.1 |
44.3 |
大麦 |
439.2 |
227.6 |
48.2 |
オート麦 |
1,272.6 |
732.7 |
42.4 |
馬鈴薯 |
177.3 |
158.5 |
10.6 |
亜麻 |
123.2 |
65.1 |
47.2 |
向日葵 |
88.3 |
58.3 |
34.0 |
黍 |
230.5 |
309.5 |
+34.3 |
総播種面積 |
6,041.7 |
4,156.3 |
31.2 |
表8−2 家畜頭数と減少率 (単位:万頭,%)
ロシア共和国 |
1916年 |
1921年 |
減少率 |
馬 牛 羊 山羊 豚 |
2,553.5 4,162.9 7,150.5 300.7 1,447.5 |
1,791.5 2,872.5 3,663.5 125.6 786.1 |
29.8 31.0 48.8 58.2 45.7 |
総頭数 |
15,614.6 |
9,439.2 |
39.5 |
下流ヴォルガ |
|||
馬 牛 豚 |
316.4 504.3 124.8 |
158.1 257.7 29.4 |
50.0 48.9 76.4 |
ロシア共和国全土で主要穀物の播種面積は自家消費用のライ麦を除いて激減したのは、表8・1からも明らかである。
工芸用作物は、食糧用に転換され、種子当たりの収穫率が高い馬鈴薯と向日葵を除き、それは穀物以上の減少を見せた。これは工業復興の大きな障碍となるはずである。
それに村し、自家用作物のとうもろこしと同じく黍は一六年の二六五万デシャチーナから二一年には三五五万に増加した。これら作物だけが唯一増加した。
家畜の減少はいっそう悲劇的であった(表8・2参照)。あらゆる家畜が総じて激減し、特に割当徴発が徹底的であった下流ヴォルガ地域にそれは集約的に現れた。これは農業経営の破滅以外の何物でもなく、二一年の飢饉はそれをさらに深刻にした。
一八年にすでに認められた播種面積の減少は、その多くは大戦による労働者不足や種子不足などの客観的条件により余儀なくされた結果であった。しかし、二〇、二一年に認められる播種不足は、割当徴発による種子不足や旱魃のような条件のほかに、明らかに自家消費まで経営を縮小しようとする農民の心性が大きな影響をおよぼしていた。
アントーノフ=オフセーエンコは、三月半ば開催のタムボフ県農民協議会の代議員の気分を次のように描いている。「われわれには労農権力があるが、実際には農民に対する労働者の権力である」、そのようなものが一連の代議員の議論の共通した認識であった。「権力は国家の主要な力である農民に属さなければならない」。労働者の独裁への不満は、まず食糧政策(食糧エイジェントと食糧部隊の活動)と農村への非経済的対応(「穀物を腐らせている」、「家畜を絶滅している」、「土地を保持しているが、利用することを知らない」、「荷馬車賦課は馬を駄目にし、いたずらに準備もされていない作業に引きずり回している」など)に現れた。彼が七月の報告書の中でタムボフ反乱の総括として最初に挙げた次のような指摘は、無条件に正しいように思われる。「農民の経済的特殊性をほとんど考慮せず、経済的にも啓蒙的側面からも農村は何も自分に役立つと実感できない厳しい強制の刃先を彼らに向けた、プロレタリア独裁への農村の小所有者の広範に横溢する不満のために、農民反乱が広まっている」。
要するに、農民の不満は自分たちの経営を破壊するボリシェヴィキ権力への憎悪であった。タムボフ郡の農民の気分は次のように報告された。中農は荷馬車賦課から逃れるために馬を売り払った。「家畜は徴発されるのだから、余分に家畜を増やさず、自分の分だけしか持たない。中農は収穫を増やすために、土地を耕作し、除草するなどの仕事を必要と見なしていない。「余分な穀物は取り上げられるが、雑草は飼料に役立つ」といっている。[……]中農は自分のためだけでなく、プロレタリアと自称する怠け者のために、すべての荷馬車賦課と穀物割当徴発を遂行している。そのため余分の土地を耕作し、家畜を増やし、人々のために働く意欲が失せ、そうして播種面積の半分以上が播種されず、家畜をわずかしか繁殖させない」。トヴェリ県の農民はより簡潔に述べている。「割当徴発は農民から経営を復興しようとするあらゆる期待を奪い取った」。農民経営の縮小は、農民の消極的なボリシェヴィキ権力への抵抗であると同時に、暴力的収奪による勤労経営の崩壊の兆候であった。それはこの時までに革命ロシアが直面した最大の敵であり危機であった。
(宮地注)、『第八章』には、161の(注)がありますが、ほとんどがロシア語なので省略しました。
(関連ファイル)
梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1918年
梶川伸一『幻想の革命』ネップ「神話」の解体
Amazon『梶川伸一』で著作4冊リストと注文
1918年5月、9000万農民への内戦開始・内戦第2原因形成
『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』
クロンシュタット水兵の平和的要請とレーニンの皆殺し対応
『ペトログラード労働者大ストライキとレーニンの大量逮捕・弾圧・殺害手口』
『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが「殺した」自国民の推計』
ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り
P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』クロンシュタット綱領と農民反乱との関係