「革命」作家ゴーリキーと「囚人」作家勝野金政

 

スターリン記念運河建設における接点

 

(宮地作成)

 

 ()これは、『象43号』(2002年夏)に掲載されたものです。『象(しょう)』は、東海地方の総合文芸同人誌で、水田洋氏が編集責任をしています。HPでは、そこに、地図1枚・写真6枚を加えました。末尾のカラー写真1枚以外は、ソルジェニーツィン『収容所群島』第3部(新潮社、絶版)、および、ロバート・コンクエスト序文『赤い帝国―写真270枚、目で見るソ連の隠された歴史』(時事通信社、絶版)にある地図・写真です。

 

 〔目次〕

   1スターリン記念「白海・バルト海運河」

   2ゴーリキーの「ソロフキ強制収容所」訪問

   3、文学青年・ソ連共産党員作家勝野金政

   4、運河建設における「革命」作家と「囚人」作家との接点

     3)ゴーリキー「二枚舌」説と、「スターリン命令によるゴーリキー殺害」説

   5勝野金政「収容所文学」3部作の位置づけ

 

 (関連ファイル)                    健一MENUに戻る

    藤井一行 藤井HP CD『勝野金政著作集−藤井一行・稲田明子編集』紹介・注文

          『勝野金政のゴーリキー批判』  『野坂竜の逮捕をめぐって』

          『粛清のメカニズム』  (『粛清されていた日本語教師たち』の一部)

    加藤哲郎『旧ソ連日本人粛清犠牲者一覧』  加藤HP

          『勝野金政コーナー』「勝野金政生誕100年シンポ」他

          『ソ連は「奴隷包摂社会」でなかったか』

    勝野金政検索 google

 

    『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが「殺した」自国民の推計』

    塩川伸明『「スターリニズムの犠牲」の規模』粛清データ

    ニコラ・ヴェルト『ソ連における弾圧体制の犠牲者』

    ブレジンスキー『大いなる失敗』犠牲者の数

    『ドストエフスキーと革命思想殺人事件の探求』3DCG6枚

    『ドストエフスキーと革命思想殺人事件の探求』電子書籍版

    『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』3DCG12枚

    『オーウェルにおける革命権力と共産党』3DCG7枚

    『オーウェルにおける革命権力と共産党』電子書籍版

    『ソルジェニーツィンのたたかい、西側追放事件』3DCG9枚

    『ソルジェニーツィン「収容所群島」』第2章「わが下水道の歴史」

    『ソルジェニーツィン「収容所群島」』第3章「審理」32種類の拷問

 

 

 1スターリン記念「白海・バルト海運河」

 

 運河といえば、誰もが、スエズ運河とパナマ運河を思い浮かべるでしょう。一方、「白海・バルト海運河」の存在や規模、完成経過を知る人はほとんどいません。ところが、この運河は、総延長の長さ・完成期間の短さとも「世界一」なのです。もっとも、水深5mで、大きな艦船は通れず、その浅さも「世界一」です。「囚人」使用という特殊性、投入囚人数・死亡囚人数の多さや、予算使用の節約度などもユニークでした。

 

3運河の比較

運河名

延長

期間

工事担当

費用(ルーブリ)

スエズ運河

168

10

スエズ運河会社。フランス・イギリス・エジプト

パナマ運河

64

11年

アメリカ・パナマ

白海・バルト海運河

227

q

20カ月

ソ連国家、秘密政治警察ゲペウ。ラーゲリ囚人20〜28万人、死亡10万人

9500万/4

予算使用率24%

 

 スターリンは、1928年、「第一次社会主義建設五カ年計画」を開始しました。彼は、その目玉の一つとして、運河建設を発案し、それを秘密政治警察ゲペウ(GPUまたはOGPU)管轄下の囚人強制労働による国家的事業のひな型としました。そして、完成期間を20カ月と指令しました。

 

 まず、1931年5月、ラーゲリ囚人から土木工事の学者・専門家を選別して、モスクワの建物にかん詰めにし、計画の立案をさせました。彼らは、ほとんどが「サボタージュ」による受刑者でした。1931年11月に建設を開始し、1933年5月に完成を宣言しました。8月2日の開通祝賀式にはスターリンも臨席し、その開通第1号の船名は「チェキスト号」でした。「チェキスト」とは、レーニンが単独武装蜂起・権力奪取をした1カ月後に創設した秘密政治警察「チェーカー」メンバーのことです。チェーカーは、ゲペウ(GPU)となり、その後NKVDになりましたが、当局やスターリンは、「チェキスト」という“尊称”をまだ使っていたのです。

 

 運河のルートは、バルト海に面したレニングラード(現サンクトペテルブルグ)から、ラドガ湖、オネガ湖を通り、北極海の白海に抜ける全長227qに及ぶもので、それは世界最長の運河です。

 

説明: C:\Users\My Documents\My Pictures\katunochizu.gif

 

(黒塗り地域) 運河建設地帯227qにおよぶ強制労働収容所および収容所

ムルマンスク・レニングラード間鉄道 ほぼ全面的に強制労働によって建設

白海・レニングラード(バルト海)間運河 もっぱら囚人の強制労働で作られた

 

 工事のやり方は、ソ連全土の強制収容所から囚人を動員し、そのラーゲリ囚人をふんだんに使った人海戦術でした。投入囚人数については、いろいろな説があります。ただ、20カ月間における囚人死亡数10万人というデータは、当局発表を除いて、ほとんどの文献が一致しています。

 

投入囚人数・死亡囚人数

名前

投入囚人

死亡数

生き残った囚人

出典

ソルジェニーツィン

ジャック・ロッシ

内田義雄

ニコラ・ヴェルト

20万人

28万人

延べ50

12万人

10万人

10万人

10万人

10

10万人

『収容所群島』第3

『ラーゲリ注解事典』

『聖地ソロフキの悲劇』

『共産主義黒書』

ソ連中央執行委員会、特典授与決定

1933.8.4

(1)残り刑期免除12484

(2)残り刑期短縮59516

(3)市民権回復500

差引残囚人の計72500

藤井一行『勝野金政CD

スターリン。ゴーリキー監修

『一人もいなかった』

『スターリン記念白海・バルト海運河』1934年発行

 

 20カ月間中、ソ連全土の新聞だけでなく、ラジオは『この運河は、同志スターリンの率先と命令で建設されている!』と叫び続けました。ソルジェニーツィンは、『収容所群島』第3部で、次のように書いています。『ラジオは、囚人バラックの中でも、建設現場でも、小川のほとりでも、トラックの上でも叫び続ける。昼も夜も一睡だにしないラジオを想像して下さい!』。その放送内容は、『この運河の建設について全国のチェキストたちは何を考え、党はなんと言ったか』『自然を手なづければ、自由が得られる』『作業群(250人から300人の囚人)同志の競争だ!』『社会主義競争と突撃作業運動万歳!』などです。その“社会主義競争”の結果、囚人10万人が運河建設強制労働で“殺され”ました。

 

 しかし、完成した運河は、ほとんど役に立ちませんでした。なぜなら、ゲペウは、『20カ月間で完成』というスターリン命令を守るために、運河の水深を、計画より浅く、5mにしたからです。「白海・バルト海運河」は、その後の「バム鉄道=バイカル・アムール鉄道幹線(囚人26万人投入)」や「モスクワ・ヴォルガ運河(囚人50万人投入)」などと同じく、スターリンが遂行した“ラーゲリ囚人の強制労働による多くの社会主義建設国家事業”のうちの最初の工事でした。ただ、これは、狂気のように宣伝された唯一の囚人工事でした。

 「革命」作家ゴーリキーは、1933年8月17日、この運河を120人の作家たちと訪問し、運河建設賛美・宣伝者の中心メンバーの一人になりました。

 

 

 2ゴーリキーの「ソロフキ強制収容所」訪問

 

 ゴーリキーは、「白海・バルト海運河」完成時における訪問の4年前、1929年6月20日から22日までの3日間、「ソロフキ強制収容所」を訪問しました。正確には、スターリンとゲペウによって“強制招待”されました。

 

 ソロヴェツキー群島は、地図にある白海の中央部西方にあります。ソルジェニーツィンは、『収容所群島』第3部「第2章」の冒頭で、そのスケッチをしています。『半年も白夜の続く白海でボリショイ・ソロヴェツキー島は水の中からいくつかの白亜(はくあ)の教会を持ち上げている。それらの教会のまわりには岩の城壁がめぐらされており、その城壁には地衣がついて錆()びた赤色をしている。そして灰白色のソロフキのかもめたちが常に城砦(クレムリン)の上空を飛びかい、鳴き声をあげている』(P.25)

 

説明: C:\Users\My Documents\My Pictures\katunosoro.jpg

ソロヴェッキー・クレムリンの全景、ゲペウ接収の500年前に創設

 

 1923年5月、ソ連政府は、『ソロヴェツキー群島及びその修道院の全施設をゲペウ(国家政治保安部)の直接管理下に置き、反革命的分子のための特別な収容所を設置せよ』との極秘命令を下しました(内田義雄『聖地ソロフキの悲劇』P.40)。レーニンは、『宗教は人民の阿片である』というマルクスの教義をさらに強化し、『戦闘的無神論』に基づいて、1922年2月以降、ロシア正教の教会破壊・教会財産没収だけでなく、聖職者数万人を銃殺し、信徒数万人も殺害していました。レーニン指令による銃殺・殺害の詳細なデータは、『聖職者』ファイルに載せてあります。レーニンは、生存中にソ連全土に84カ所の収容所を創設し、強制労働をさせ始めていました。城壁のついた修道院は、その格好の収容所施設に転用できたのです。

 

 「ソロフキ強制収容所」の正式名称は、「ソロフキ特命ラーゲリ」(略称スロンSLON)でした。「スロン」は、1929年までは、ソ連で唯一の「ラーゲリ(強制収容所)」でした。当局は、その群島に、囚人たちを、2年後に1万人、30年代初めには大陸における支所を含めて65万人以上を収容しました。そこでは、ゲペウが、強制労働死させるだけでなく、囚人にたいする意図的な拷問殺人、銃殺を行っていました。内田著書がそれらの内容を多数暴露しています。その一つだけを載せます。『一九二一年春の「クロンシュタットの反乱」の鎮圧後、処刑を免れた水兵およそ二〇〇〇人が送られてきた。その他コルチャーク将軍指揮下の白軍の残党、農民、知識人、聖職者、ドンコサックなどいろいろの人たちがいた。連日のように処刑が行われ、ある時は人々の目の前で囚人たちを川に浮かぶはしけに乗せて流し、そのまま沈めて溺死させた。そのなかには女性や子どもたちも大勢混じっていた。何とか泳いで岸に向かってくる者は、機関銃で容赦なく撃たれた。それが何回も繰り返された』。

 

 ソ連政府は、「ソロフキ特命ラーゲリ」の悪評が内外に知られるようになり、何らかの対策を講じる必要に迫られました。そこで、ゴーリキーの“出馬要請”になりました。

 マクシム・ゴーリキーは、『海燕の歌』(1901年)、『どん底』(1902年初演)、『母』(1906年)などで、世界的に有名な「革命」作家でした。彼は、ロシアの革命運動を支援して、ツアーリ政府に何回も逮捕・投獄されました。1907年には、ロンドンでのロシア社会民主党第5回大会に出席し、レーニンとも知り合いました。『レーニンとゴーリキーとの手紙』(青木文庫、1965年)には、1905年から1921年5月までの「103通」の相互交流の手紙が収められています。彼は、持病の結核療養のため、イタリアのカプリ島と行き来しますが、1928年、スターリンの要請で帰国します。

 

 スターリンは、ゴーリキーの世界的名声を利用し、「ソロフキ収容所」の悪評を隠蔽するために、彼の訪問を周到に準備し、巧妙に仕組みました。そのデータを3つの著書から引用します。

 

 (1)、内田義雄『聖地ソロフキの悲劇−ラーゲリの知られざる歴史をたどる』(NHK出版、2001年)

『ゴーリキー訪問の一カ月前から、収容所の建物は徹底的に磨かれ、きれいに掃除された。囚人に課せられた罰則や刑の宣告文は壁からすべて剥がされた。囚人の部屋には本や新聞を置く「くつろぎのコーナー」が設けられた。午後の休憩時間も導入された。病人や危険分子は遠く離れた収容所に追いやられた。囚人たちはゴーリキーにどう対応し、聞かれたら何を話すか、すべて監視員によって決められた。それを守らねば、あとでどうなるかは囚人たちが一番よくわかっていた。ゴーリキーには勿論、ずっとゲペウの役人や監視員がつきそっている。

 ゴーリキーがやって来ると、囚人たちは彼を迎え歓迎の唄を歌った。

 「われらは自分の行いのせいでここにやって来ました。

 今でもたくさんの権利を認めてもらっています。

 新聞も発行してみんなで読んでおりますよ。

 舞台で催しものもやっています。

 とっても素晴らしい眺めです。

 ものも書き、唄もこうやってつくっていますよ。

 外国の人はここがこんなに素晴らしいところとは

 夢にも思わないでしょうね」

 しかしゴーリキーが去ると、すべてはもとに戻った(D・ダーリン「ソ連の強制労働」)』(P.96)

 

 『ゴーリキーはモスクワに戻ると、ソロフキ訪問記「われわれが達成したもの」というエッセーを発表した。それはソロフキの収容所が立派に運営されており、劣悪の状態であるというのは外国の宣伝に過ぎない、というものであった。それはまさにソ連政府が望んでいた内容であった。ゴーリキーは書いている。

 「私の印象は、ひとことでは言い表せません。階級社会が犯罪をつくります。その社会を改革すれば、犯罪は教育によってなくすることができます。結論は出しにくいかも知れません。しかし教育によって人間を改革できるとすれば、ソロフキのようなところは必要でしょう」

 ゴーリキーが訪れた一九二九年にはソロフキはすでに矯正・教育の場であることを放棄して効率的な強制労働の実験場に転換していたが、この文章から推察する限りゴーリキーがそのことを見抜いていたとは到底思えない』(P.99)

 

 ()、ジャック・ロッシ『ラーゲリ注解事典』(恵雅堂出版、1996年)

 『ソロヴェツキー・ラーゲリは、現地の上に立つ者の獣じみた専横で名高い。次のようなことは当たり前に見られた。1、時には死に至らしめる殴打,これはしばしば何の理由もない。2、飢餓と寒さで苦しめて時には死に至らしめる。3、個人的およびグループによる囚人である女性と娘の強姦。4、夏季は蚊攻め,冬季は屋外で水を浴びせかける等。5、つかまえた逃亡者を死ぬまで殴打し,傷んだ屍体をラーゲリ営門の傍らに数日間さらす(これは全ソ的に行われるようになった)。ソロヴェツキーの残虐行為が娑婆(しゃば)に流布され始めると,オゲペウはM.ゴーリキーの招待を決めた。1929年ソロヴェツキー・ラーゲリを訪問したゴーリキーは,《チェキストの英知とヒューマニズム》に感嘆した。ソロヴェツキーの現地で上に立つ者に度を過ごした専横を助長したのは,モスクワの指令による囚人の定期的銃殺であった』(P.169)

 

 ()、ソルジェニーツィン『収容所群島』第3部。

 『六月二十二日に少年とすでに話し合っていたゴーリキーは、彼の来訪にそなえて特別に作ってあった《感想帳》に次の文章を書いた――。「私の受けた印象はとても短い言葉では書き尽せない。不断の革命の擁護者にして、きわめて大胆な文化の創造者たちの驚くべきエネルギーに対して、私は紋切り型の称賛をしたくない。いや、そんなことは恥(!)でもあるだろう」。

 二十三日にゴーリキーは島を離れた。彼の船が出航するやいなや、(彼に収容所内拷問の真相を話した)少年は銃殺された (ああ、人心の探求者よ!人間をよく知っている者よ! ――どうしてあなたはこの少年を島に残したまま帰れたのか?!)。

 文学界の首領は帰着後、上層部においてソロヴェツキー諸島特別収容所管理局への称賛を拒み、その発表をしぶった、と言われている。でも、どうしてまたそんなことを、アレクセイ・マクシモヴィチ(ゴーリキーのこと)……ブルジョア的ヨーロッパの目の前でそんなことを! どうしてそんなことを、こんなに危険で複雑な状況の中にある今、この時点で…という声に対してゴーリキーは待遇のことを持ちだした。が、待遇のことなら、変えます、必ず変えます、と説得されてしまった。

 そしてついに鷹と海燕の詩人の名において、「ソロフキは不当におどしの材料に使われているが、そこの囚人たちは豊かな生活を送りながら見事に矯正されている」という文章が、ソビエトと西欧の自由な大新聞に一度ならず掲載されたのであった』(P.58)

 

 

 3、文学青年・ソ連共産党員作家勝野金政

 

 コミンテルンやスターリンの粛清、強制収容所に関心を持つ人でも、勝野金政(かつのきんまさ)を知る人は、まったくといっていいほどいません。2001年12月15日、「勝野金政生誕百年記念シンポジウム」が、彼の母校であった早稲田大学で開かれ、満員の大盛況でした。かくいう私(宮地)も、それに参加するまで、彼の経歴の一部以外、その著作内容をまるで知りませんでした。

 

 勝野金政は、1901年(明治34年)、長野県で生まれました。現在の南木曾町で、妻籠本陣の島崎家と親しみ、藤村に私淑し、文学青年になります。藤村の小説『新生』のモデルとなった「島崎こま子」さんとも生涯親交を持ちました。

 1919年、彼は、早稲田大学露文科に入学し、トルストイ、ツルゲーネフなどを愛読します。その時は、1917年ロシア革命の2年後でした。ロシア革命に関心を持ち、勉強するうちに、その源泉がフランス革命、パリ・コミューンにあると分かって、渡仏し、パリ大学に入学しました。そこでは、ロマン・ロランやトルストイとともに、フランス共産党機関紙『リュマニテ』も読みました。バルビュスらの推薦でフランス共産党に入党しますが、党大会に参加して逮捕され、国外追放処分を受け、ベルリン経由でモスクワに行きました。

 

 1928年3月モスクワ到着後、1930年10月ゲペウによる逮捕までの2年8カ月間が、彼のモスクワでの活動期間です。その間、クートヴェ講師、片山潜の私設秘書、東方学院の講師を勤め、文学作品もいくつかの雑誌に発表しました。1929年8月、ソ連共産党員候補となり、後に正党員になり、ソ連市民権も取得しました。片山潜私設秘書として、国際共産主義運動の巨星たちとも知り合います。片山潜の生活・人柄についても、興味深いエピソードをいろいろ語っています。

 

 それらの活動と平行して、小説や評論を書いて発表し、作家同盟グループの一員にもなりました。そこで、ゴーリキーとも知り合いました。その会見の様子を、戦後に、伊藤隆東大助教授(当時)が行った『勝野インタビュー記事』(『歴史と人物』中央公論社、1973年11月号)から引用します。

 『伊藤隆――勝野さんもそういう作家グループに入られて、ゴルキーと知り合いになったわけですね。

勝野――ゴルキーとは片山さんの紹介で知りあいました。その頃片山さんの話ではゴルキーはソヴィエトよりも外国の信用があるから会ってみろということだった。ゴルキーがイタリアにいた頃、メンシェビキだってボルシェヴィキだって、あれだけ人を殺せば同じことじゃないか、と口を滑らせたことが災いしてソヴィエトへ帰って党員候補者になってから批判されましたが、片山さんはゴルキーがソヴィエトに帰ってきたことはソヴィエトにとってプラスだった、ゴルキーの対外的信用はソヴィエト政府よりも上だ、だからゴルキーに会えと勧めてくれたんです。ゴルキーに初めて会ったとき、彼に自分の小説を読んだことがあるかと聞かれ、『どん底』は読んだことがあると答えましたが、その時ゴルキーは、いい人間からしかいい文学は生れないんだ、などといっていた。実際あの人の『レーニンの思い出』なんかを読んでも人のよさがわかるんですが、入党してからいい作品生めなかったのは彼が権力に迎合したからじゃないかと私は思いますね』。

 

 彼は、小説・随筆・評論を発表し、共産党出版部の原稿料支払日に毎週行きました。1930年に自殺する前のマヤコフスキーとも一緒でした。ショーロホフとも会って、話し合った様子も語っています。『ソ連に入ってみると、例えばトルストイ、ドストエフスキー、ツルゲーネフを初めとして、今まで知っていたロシアの過去の著名な人間、著作は排斥されて相手にされないでしょう。『静かなるドン』のショーロホフだって馬鹿にされていたんです。ショーロホフは国内戦争に参加した経験がない、なんて批評されていた。『静かなるドン』を、序文に党文学者の酷評をそのままつけられてでも『ローマン・ガゼータ』という雑誌に発表して頑張っていましたが、気の毒でした』。

 

 この文学者評価の状況は、レーニンのロシア文学評価観と政策を継承したものです。レーニンの「ブルジョア」知識人・作家にたいする『党派的』見方のいくつかを、明らかにしておきます。

 1908年、レーニンは、レフ・トルストイを分析して、創造的芸術家への自分の見解を詳しく論じています。「ロシア革命の鏡としてのレフ・トルストイ」という題のこの論文は、レーニンがこの作家を革命という観点からのみ見ていたことがわかります。レーニンにとってトルストイは必要でした。なぜなら、トルストイはロシアの知識人の無力さ、無意味さを彼に示してくれた“鏡”だからです。

 『(トルストイは)、一方では、ロシアの生活の比類のない画像を提供したばかりでなく、世界文学の第一級の作品を提供した天才的な芸術家。他方では、キリストをばかみたいに信じている地主。一方では、社会的な虚偽と偽りにたいするすばらしく力強い、直接的で心からの抗議、他方では、「トルストイ主義者」、すなわち、公衆の面前で自分の胸をたたきながら、「私は醜悪だ、私はけがらわしい、しかし私は道徳的自己完成を求めている。私はもはや肉を食わず、今は揚餅を食べている」という、ロシアの知識人と呼ばれる生活に疲れた、ヒステリックな意気地なし』。

 

 レーニンは、ナロードニキ革命家・作家チェルヌイシェフスキーの小説『何をなすべきか』を愛読し、自分の著作に同じ題名『なにをなすべきか』を付けました。それだけでなく、チェルヌイシェフスキーの小説における「革命ユートピア・水晶宮」を、『地下室の手記』で強烈に批判したドストエフスキーの作品に関して、次のように発言しました(1943年、雑誌「三十日間」に掲載)。「(ドストエフスキーの)『悪霊』のような反動的な小説を読む時間は私にはない。この小説によってネチャーエフのような人の存在がおとしめられている。ネチャーエフのような人はわれわれにとって必要だったんだ」。ネチャーエフとは、ナロードニキ革命家で、革命組織内部で動揺した仲間を「裏切り者」として殺害した人物です。ドストエフスキーは、彼とその事件をモデルにして、『悪霊』を書きました。

 

 レーニンは、このような思想にもとづいて、1922年後半、ボリシェヴィキ党員でない当時の知識人・作家・哲学者・学者など数万人に「反ソヴィエト」のレッテルを貼りつけました。哲学者ベルジャーエフを初めとする知識人大量追放を『作戦』と名づけ、チェーカーに実行指令を出しました。(1)国外追放、()国内流刑、(3)強制収容所送りの3手法で、1922年前半の聖職者全員銃殺・教会財産没収政策と合わせて、旧ロシア文化の“人的”絶滅作戦を展開しました。ソ連崩壊後の「レーニン秘密資料」に基づくこの内容詳細も、『知識人』ファイルに載せてあります。ゴーリキーは、このレーニン『作戦』を批判し、それらの知識人救済を訴え、行動しました。

 

 勝野金政は、1930年10月、突然、ゲペウに逮捕され、ブトウィルスカヤ監獄に収監されます。31年6月、ロシア刑法58条6項(外国のスパイ罪)で、「5年の自由剥奪刑」の宣告を受けます。その根拠は、2、3のささいな嫌疑でした。(1)ゲペウへの協力要請を以前に断ったこと、(2)モスクワに来た他の日本人からの疑惑、(3)その問題で山本懸蔵がゲペウに勝野を密告したこと、(4)モスクワ駅でゲペウを避けた態度などで、いずれも無実の嫌疑でした。彼が「無実」だったとして、ソ連最高会議幹部会が名誉回復したのは、1989年で、逮捕の59年後、勝野82歳他界の6年後でした。コミンテルンの外国人党員の逮捕は、たいていこの刑法58条6項(外国のスパイ罪)でした。トロツキーやブハーリンも、58条6項適用でした。

 

 収監中、無実を訴えて、片山潜に手紙を書いたり、13日間もハンストをしますが、すべて握りつぶされました。自白も調書サインも拒否したままで、判決を宣告されました。シベリアのマリンスキー・ラーゲリへ送られ、ついで、「白海・バルト海運河」建設ラーゲリに駆り出されました。これらの経過は、『凍土地帯−スターリン粛清下での強制収容所体験記』(吾妻書房、1977年)に書かれています。

 

 当時、モスクワには、ソ連に理想社会を求めた日本人共産党員やシンパがかなりいました。『旧ソ連秘密文書など記録による粛清確認者』は、34人です。その内訳は、()銃殺18人、()強制収容所送り7人、()国外追放4人、()逮捕後行先不明4人で、()釈放は野坂竜1人だけでした。コミンテルン執行委員・野坂参三は、妻の逮捕後、山本懸蔵をディミトロフに2回にわたって密告し、彼を銃殺させることと引き換えに、妻の釈放と「密告者」としての自己の安全を得ました。山本懸蔵は、国崎定洞を初め、勝野金政その他日本人をゲペウに密告したことがソ連崩壊後のデータで明らかになっています。「“人民の敵”“外国のスパイ”容疑者を密告すること」こそが、スターリンとゲペウへの忠誠度を証明し、自己と家族の逮捕を免れる唯一の行為となる社会主義国家システムでした。さらには、その「密告者」が密告されるというのが、理想の社会主義国家の実態でした。加藤哲郎一橋大学教授が、著書やHPにおいて、34人の経歴・粛清経過を載せています。

 

 

 4、運河建設における「革命」作家と「囚人」作家との接点

 

 〔小目次〕

   1、スターリンの宣伝

   2、「革命」作家ゴーリキーの再登場と犯罪加担

   3、ゴーリキー「二枚舌」説と、それに基づく「スターリン命令によるゴーリキー殺害」説 (追加)

   4、「囚人」作家勝野金政と「白海・バルト海運河」建設“10万人死亡”強制労働

 

 1、スターリンの宣伝

 

 1933年5月の運河完成宣言日には、すでに「第二次社会主義建設五カ年計画」が始まっていました。スターリンとゲペウは、20カ月間での成果を大宣伝しました。国内国外に向けて“狂気乱舞”のような大キャンペーンを展開しました。その内容は次です。

 ()、囚人労働と囚人改造の讃美です。『根っからの刑事常習犯と「人民の敵」を、運河建設により鍛え直すという世界で初めての試みが成功した!』『囚人たちの運河建設における英雄的な労働』『犯罪者改造の奇跡!』。

 ()、投入囚人数20万人から延べ50万人のうち、ゲペウが選んだ囚人に、「白海運河勲章」を授与しました。上記()のように、500人には市民権を回復しました。

 ()、運河建設指導の最高機関ゲペウにたいする絶賛です。『ゲペウこそが、人間の魂の鍛え直しを組織した!』。『ゲペウが、「第一次社会主義建設五カ年計画」の最初の偉大な国家的事業を成功させた』。それは、開通式の船名を『チェキスト号』とすることで、さらに盛り上がりました。レーニンが創設した秘密政治警察チェーカーは、1921年にゲペウ(GPU)に名称変更していました。しかし、レーニンが『チェーカーの「赤色テロル」なしには権力を維持できない』『よきコミュニストは、よきチェキストである』と発言した精神を受けて、『秘密政治警察員チェキスト』という“尊称”が、継承されていたからです。

 

 もちろん、ソ連政府は、20カ月間で227qの運河を建設した「人海戦術国家事業」において、10万人のラーゲリ囚人を“殺した”ことについては、一言も触れません。運河建設ラーゲリでの強制労働による途方もない犠牲のデータは、闇に葬られました。これは、20カ月間で自国民10万人を強制労働死させる“一大国家犯罪事業”でした。

 

 

 2、「革命」作家ゴーリキーの再登場と犯罪加担

 

 この『奇跡!』を内外に宣伝する上で、スターリンとゲペウは、『ソロフキ訪問記』に続いて、ゴーリキーの“世界的名声を再利用する”手を打ちました。ソ連共産党中央委員会は、「緊急命令」を出して、マクシム・ゴーリキーを初め120人の著名な作家を動員し、現地に派遣しました。そして、1934年、作家34人による『スターリン記念白海・バルト海運河』という本を出版しました。

 

 この運河建設とゴーリキー再登場については、ソルジェニーツィンが、その38年後の1972年に、『収容所群島』第3部「第3章」で初めて暴露しました。そのいきさつを抜粋引用します。『一九三三年八月十七日に落成したばかりの運河で百二十人の作家たちの船による散歩があった。船が閘門(こうもん)を通過する際に白い背広に身を包んだこれらの連中は甲板に群がって、閘門にいた囚人たちを招いて、運河当局の立合いのもとで囚人たちに質問を浴びせた――君は自分の運河、自分の仕事を愛しているか、ここで矯正されたと思うか、当局は君たち囚人の生活に十分気を配っているか、等々。質問の数は多かった』(P.76)

 

 ゴーリキーを筆頭とする34人が共有した観点は以下でした。第一、全判決の正しさと、運河に駆り出されたすべての囚人が有罪だったことへの確信です。第二、運河建設の指導者チェキストへの称賛です。チェキストらの知性・意志・組織力だけでなく、彼らを『囚人教育・「人民の敵」改造の奇跡』を起こした最高の人間、驚嘆すべき存在だとしています。第三、『建設現場では、誰一人として死ぬ者はいなかった』と明記しました。

 

 藤井一行富山大学名誉教授は、CD『勝野金政著作集−藤井一行・稲田明子編集』を完成させました。それとともに、『勝野金政のゴーリキー批判』ファイルをHPに載せました。以下は、そこにある『ゴーリキー発言、演説』内容の引用です。< >内はゴーリキー発言、< >外は、藤井教授の見解です。

 ゴーリキー『真実による教育について』(『著作集』27巻60〜62ページ)。これはゴーリキーが現地を視察する前の発言です。

 『<バルト海沿岸から太平洋、北氷洋沿岸からザカフカージエやパミール前の山地にいたるまで「集団労働の真実による人々の教育という、偉大なすばらしい、世界的に不可欠な事業」がすすめられている。白海・バルト運河建設はわれわれの教育方式の成功をはっきりと示している。ソ連の敵は、「社会的に処罰された人々の労働を強制労働と称している」が、それは「階級的敵意で眼がくらんだ者」の嘘、中傷である>。ゴーリキーは強制労働という事実を否定している。』

 『<白海・バルト運河建設には数万の人々、社会主義建設に敵対するさまざまな危険分子が投入されている。泥棒や富農など・・・><白海・バルト運河建設場では「社会的に危険な人間を社会的に有益な人間に再教育する過程」がすすんでいる>。ゴーリキーは、犯罪者とされる人々の中に無実の者が大勢いることに思いもいたらない』。

 

 ゴーリキー『白海・バルト運河建設突撃隊員の集会での演説』内容

 『<諸君、犯罪者たちは・・・>という挨拶からはじまる。ゴーリキーは突撃隊員をはじめから犯罪者あつかいにする! <その諸君は、ソヴェト共和国に白海・バルト運河を建設してくれたことで偉業を成し遂げた。><GPUは人々を改造するすべを心得ている。諸君がその生き証人だ。><敵たちは諸君の働きを侮辱している。運河での1年10カ月の労働の間に12万人が死んだとデマをとばしている。> デマだったか?

 <空想が、現実の、肌で感じとれるような真実となりつつあるような日々にまで自分が生き延びられたことは大きな幸せである。><驚嘆すべき働きをしたGPUの同志たちと党とスターリンを祝賀する!>(『著作集』27巻73〜76ページ)。

 

 ゴーリキー『スターリン記念白海・バルト運河』の「あとがき」(「初の試み」)

 『ゴーリキーはそこで、運河がソ連の自然地図を変革して、その国防力を強化し、経済発展に大きく貢献することに重要な意義を見いだすばかりでなく、運河建設が何万という「社会に有害な分子」にたいする共産主義思想に武装された人々の勝利を見いだし、そこには、「社会的に病んでいる人々がいかに癒されたか、プロレタリアートの敵がその協力者にいかに改造されたか」が語られているとのべている。一貫して、虐げられた人々の立場に立って、リアルに旧ロシア社会の現実を見つめていた作家のゴーリキーは、ソヴェト社会における<矯正労働>なるものの実態を見ぬきえなかった。運河建設に投入された人々は<犯罪者>=<社会に有害な分子>にほかならず、その<犯罪者>はGPUのおかげで運河建設という偉大な事業に献身することで、有為な人間に改造されつつある。それがゴーリキーの判断だった』。

 

 本の監修者は、ゴーリキー、作家アヴェルバッハ、収容所管理本部(グラーグ)次長SG・フィーリンの3人でした。監修者ゴーリキーは、1933年8月15日の白海運河建設者たちの最終大会で次のように演説しました。『「私は一九二八年から合同国家保安部がいかに人びとを再教育しているかを注目してきた」。そして涙をやっとこらえながら、出席していたチェキストたちにむかって言った。「ラシャ外套を着こんだ大胆不敵な人びとよ、あなたがたは自分たちがどんなことをしたかあなたがた自身でも知らないだろう……」』(『収容所群島』第3部、P.81)

 「革命」作家ゴーリキーの犯罪加担は、明白になりました。このとき、彼は、65歳で、その1年前の1932年には、「ソヴィエト作家同盟第1回大会の議長」を勤めました。1936年、彼は「急死」しました。

 

 1928年、スターリンの要請でソ連帰国後、彼の思想や精神に何が起きたのでしょうか。それについては、2つの見方があります。また、スターリンによる「ゴーリキー暗殺」説とのからみあいも検証します。

 

 第一、ゴーリキーは「体制擁護作家になったことで、絶対的に腐敗した」とする説です。

 「革命」作家といえども、一党独裁という「絶対的権力の擁護」作家に転じたことによって、「絶対的腐敗」に陥ったとする見方です。彼の晩年は、運河建設発言を見るかぎり、スターリンとゲペウが支配する「秘密政治警察国家」の犯罪への積極的加担そのものとなりました。勝野金政は、上記のように、『権力への迎合』と見ています。ソルジェニーツィンは、『ゴーリキーは、金のため、名声回復のため、自発的にヤーゴダ(ゲペウ長官)の捕われの身となった』(P.68)と、もっときびしい評価をしています。

 

 藤井一行教授は、『勝野金政のゴーリキー批判』で次の「勝野金政遺稿メモ」を載せています。

 『勝野金政の遺稿の執筆メモにはつぎのような過激なゴーリキー批判の語句が書きつらねられている。「マキシム・ゴルキー、晩節を汚すな」。「ソ連文学の課題・社会主義レアリズムに名作なし」。「晩節を汚したマキシム・ゴルキー;社会主義レアリズムとゴルキー文学」。「ゴルキーくたばれ!」。

 また『白海の岸に立ちて』というタイトルで構想された作品の一節には、「視察に来たゴルキーに対する抗議」が予定され、そこにはつぎのような文言が記されている。「視察に来たゴルキーに与う。ルナチャルスキー、ジノーヴィエフ、その他ロシア人のスイス、フランス亡命者の中にいた頃のゴルキーと、スターリンの使徒になった晩年の堕落した彼を笑う。」』。

 そして、ソ連崩壊後のロシアにおける「ゴーリキー評価」も載せました。『ソヴェト体制崩壊後のロシアでは、その点でのゴーリキーにたいする評価は手きびしい。ある百科事典のゴーリキーの項目には、つぎのように記されている。<スターリンの道義的援護者をつとめた。かれはスターリンを賛美し、かれが国内で思想と芸術を抑圧したことについて、知らないはずがないのに黙っていた。とくに、囚人によるスターリン記念白海・バルト運河建設を賛美した作家集団の書物の執筆をおしすすめた。>(『キリール&メフォーヂー大百科事典』1998年版)』

 

 ただ、『母』(1906年)における労働者パーヴェル・ヴラーソフや母ペラゲーヤ・ニーロヴナを造形したような彼の革命精神が、『ラシャ外套を着こんだ大胆不敵な人びと』とゲペウを絶賛するような「反革命」精神に、心底から変質したのかどうかということと、その原因については、さらに検証する必要があるでしょう。

 

 第二、ゴーリキー弁護の見方です。

 内田義雄著書は、『あのゴーリキーでさえも真実をわかっていてもどうすることもできなかったのだ、というのが大方のロシア人の見方なのである』(P.98)と紹介しています。私(宮地)は、『どん底』『母』『私の大学』などを愛読しましたので、“彼の変質・腐敗”と安易に断定できない気持ちもあります。

 「十月革命」後、彼は、レーニンの知識人弾圧に抗議し、意見が対立しました。1922年後半のレーニンの「反ソヴィエト」レッテル知識人の大量逮捕・数万人追放『作戦』に反対して、抗議だけでなく、その救済に動いたことも知られています。1920年、ボリシェヴィキ作家ザミャーチンは、SF小説『われら』によって、革命現場からの「世界初のレーニン批判文学」作品を発表しました。レーニンの知識人数万人追放指令により、ザミャーチンが逮捕されたとき、ゴーリキーや友人たちが、彼の釈放に動きました。1930年、ザミャーチンが「反ソヴィエト」作家としてあらゆる出版活動を禁じられていたとき、帰国後のゴーリキーが仲介して、スターリンの許可をとり、彼の出国に尽力しました。

 そのような「革命」作家が、ゲペウの強要・脅迫がなくても、自ら積極的に思想・精神をこれほどまでに“絶対的腐敗”をさせたのでしょうか。

 

 第三、スターリンによる「ゴーリキー毒殺説」との関係からも検証します。

 スターリンの暗殺指令疑惑は3件あります。()1934年12月1日、キーロフ暗殺疑惑。()1936年6月18日、ゴーリキー毒殺疑惑、(3)1940年8月21日、「真実」としてのメキシコにおけるトロツキー暗殺遂行です。まず、(1)キーロフは、レニングラード党組織第1書記で、人気があり、スターリンに代わりうるナンバー2でした。彼の暗殺は、フルシチョフ「秘密報告」、その他報告でも、『最上層部の関与』が指摘されており、“限りなく黒に近い灰色”事件です。()トロツキー暗殺は、スターリン指令の存在が証明されています。

 

 () 「ゴーリキー毒殺説」は、「69歳での急死」というだけで、“灰色”です。毒殺を推測させるものは、当時の状況証拠しかありません。彼は肺結核の持病を持っていました。それによる「急死」も当然考えられます。しかし、ソルジェニーツィンは、スターリンによる「ゴーリキー毒殺説」の立場に立っています。『収容所群島』第3部(P.68)で、『スターリンは、取越し苦労のために、殺さなくてもいいような人を殺してしまったのだ――ゴーリキーは、1937年(大粛清の年)をも称賛したにちがいないのに』としました。ただ、『取越し苦労』の内容を書いていません。他の文献のいくつかも「急死(毒殺説もある)」と付記しています。

 

 もう一つ、スターリン側が公表した「ゴーリキー謀殺説」があります。『ロシア史』(山川出版社、P.565)が書いています。『ゴーリキーの死後、まもなく“トロツキー・ブハーリン一味による謀殺”という怖るべきレッテルがはられ、それを契機とするかのごとく痛ましい文学界の粛清がはじまった。このゴーリキー謀殺の真相(?)なるものは、一九三八年三月二八日付「プラウダ」紙に公表されている。スターリン批判後、それが真実ではなかったとして、今日ではソヴィエトでも病死説がとられている。しかし、今日にいたるまでゴーリキーの死因についての公式的な取り消しはおこなわれていない』。このような発表があるということは、やはり「急死」状態になんらかの異常があったのでしょう。

 

 当時のソ連文学界の状況、スターリンの「大量殺人」テロル状況の中でも「毒殺説」「謀殺説」を位置づける必要があります。ただ、全体状況が複雑なので、その分析が以下やや長くなります。

 

 レーニンが1922年に強行した「反ソヴィエト」知識人数万人追放『作戦』とは、旧ロシア文学者・文化人たちの“人的”絶滅政策であるとともに、ボリシェヴィキ党員作家養成による新ソ連文学の興隆政策でした。社会主義国家権力による文学界への直接介入と支配政策でした。レーニンにとって、「反ソヴィエト」知識人とは、「共産党に入ろうとせず、共産党一党独裁政権に協力もしない」知識人のことです。これは、「絶対的真理としてのマルクス主義世界観を体現しているレーニンとボリシェヴィキに同調しない」者を排斥するための恣意的レッテルでした。それは、レーニンの直接命令に基づく「社会主義文化大革命」でした。ソ連崩壊後の「レーニン秘密資料」6000点などの諸データ発掘によって、その“裏側”の特徴が初めて明らかになりました。毛沢東は、「文化大革命」10年間を通じて、数百万人殺害、中国政府公式統計34800人殺害・729511人迫害犠牲者を出しました。それと同じく、レーニンは、()聖職者数万人銃殺、(2)信徒数万人殺害、(3)知識人数万人追放という、約10万人の大量殺害・追放型「旧ロシア文化破壊」政策と表裏一体のものとして、「新ソ連文化の興隆」政策を積極的に遂行したのです。

 

 最高権力者レーニンが、「新文化」を創設しようとしたことは当然です。しかし、それを「旧文化」の担い手たちの大量殺人・追放という物理的排除と引き換えにやろうとしたことは、根本的な誤りです。彼の文化・文学観は、トルストイ・ドストエフスキー評価内容のように、マルクス主義階級闘争史観で歪められたもので、「文学を社会主義権力の単なるプロパガンダ道具」に引き下げる見解でした。約10万人の「旧ロシア文化人」たちが“殺され、追放されること”を横目で眺めながら、その“殺人”権力によって“飼育された”「共産党員文化人」たちは、どのような文化・文学を産み出しえたのでしょうか。一党独裁国家権力が、そのような直接介入手法で育成しようとした「新ソ連文学界」が“不毛地帯”に陥ったのは必然でした。

 

 スターリンは、レーニンの粛清思想・方針を忠実に受け継ぎ、実行しました。レーニンとスターリンとの連続性と非連続性問題は、「ロシア革命史」の重要な研究テーマです。私(宮地)は、ソ連崩壊後に公表された「レーニン秘密資料」や膨大なアルヒーフ(公文書)を研究中です。そこから、一党独裁システムに抵抗・批判・反対する農民・労働者・兵士・他党派・知識人を大量殺害・追放する「赤色テロル」政策に関して、レーニンとスターリンとの連続性が基本である、との認識に至っています。ソルジェニーツィンは、『収容所群島』第1部の「第2章、わが下水道の歴史」において、「赤色テロル」大量殺人政策は、レーニン自らが積極的に展開したとする「粛清史」を具体的データをあげ詳述しています。私(宮地)のHPに、その全文が転載してあります。

 

 その頃から、文学におけるプロレタリア派の「革命的リアリズム」主張が強化され、ザミャーチンだけでなく、ゴーリキー、ショーロホフ、エレンブルグ、マヤコフスキー、エセーニン、パステルナーク等が激しい攻撃にさらされました。非共産党員作家への論難は厳しくなり、ついには「同盟者か敵か」「われらか敵か」という形で反対派に圧力が加えられるようになり、悪名高きラップ時代が始まりました。ラップとは、1925年設立のロシアプロレタリア作家協会のことですが、非プロレタリア系作家に“卑俗社会学的”“世界観偏重”の非難を浴びせ、その批評は<ラップの棍棒>と恐れられました。

 

 その中で、1925年エセーニンが自殺、1930年マヤコフスキーが自殺しました。1929年には、「非共産党員」作家たちへの粛清が始まります。ザミャーチンはそれらに敢然と抗議し、作家同盟を脱退しました。この年、トロツキーが国外追放され、ブハーリン、ルイコフは党政治局から追放されます。スターリンは、作家同盟にいる作家、詩人、劇作家、評論家などの1/3にあたる600人を逮捕しました。作家たちのほとんどが拘禁中にゲペウの拷問で死亡するか、銃殺され、あるいは強制収容所で餓死させられました。

 スターリンは、多数の有名俳優、芸術家、映画人、音楽家、建築家、画家も逮捕します。その中で、舞台監督メイエルホリド狩りを行い、彼を「形式主義」と批判し、メイエルホリド劇場を閉鎖させました。メイエルホリドは、1939年6月に逮捕され、ゲペウの拷問でも自己批判を拒否したために、「とくに苦しく手のこんだ責苦をうけたのち、肉体的にほろぼされました」(メドヴェージェフ『共産主義とは何か・上』P.381)

 

 この時期は、経済面での「ネップ(新経済政策)」の一方、レーニンからスターリンへと継承された文化面での聖職者・信徒の大量殺人、知識人の大量追放型「社会主義文化大革命」期でした。この時期の印象について、何人かの作家が表現しています。イリヤ・エレンブルグは、「息苦しい、野獣的な生活」「ネップマンの跳梁(ちょうりょう)に不吉な渋面を強いられる時期」としました。詩人のミハイル・ゲラシーモフは、「間違ってはいないが、むかむかする時代」と受け止めています。パステルナークは、「ソヴェト政権下でもっともあいまいなまやかしの時期」と形容しました。これらの作家たちは、ネップ期=「社会主義文化大革命」期を暗い、絶望に満ちた、混乱の時期としました。彼らの印象のように、経済・文化生活の実状はそうだったのでしょう。(野々村一雄『ロシア・ソヴェト体制』P.19)

 

 スターリンは、1929年から32年、集団農場化に抵抗・反対する農民に「富農」レッテルを貼りつけ、「富農撲滅」キャンペーンを展開し、農民1000万人を粛清しました。1935年、彼は、“自分が殺した()”キーロフの暗殺者逮捕を口実として、元他政党党員・被除名共産党員などの「旧分子」摘発で、100万人を逮捕・銃殺・強制収容所送りにしました。それだけでなく、現共産党員全員にも疑いをかけ、「偽」党員証を摘発するというキャンペーンを展開しました。その結果、現役党員の9%・25万人を『疑わしい』として除名しました。さらに、1935年12月までに、党員15218人を『敵』として除名し、逮捕しました。

 一方、彼は、自分に対抗しうる幹部、または過去にレーニン・スターリンと一度でも意見が異なった経歴を持つ幹部を次々と銃殺します。1936年8月25日、ジノヴィエフ、カーメネフら16人処刑。1937年6月12日、トゥハチェフスキー元帥ら8将軍を銃殺し、「赤軍大粛清」で将校35020人を銃殺・追放。1938年3月12日、ブハーリン、ルイコフら18人を銃殺しています。

 

 スターリンは、レーニンの「反ソヴィエト=共産党に協力しない」知識人大量粛清思想を“忠実に”受け継いで、1929年から作家・文学者たちの粛清を一段と再強化しました。そして、トロツキー、ブハーリンら政敵を追放しつつ、「第一次五カ年計画」を発動しました。彼は、コルホーズ化に抵抗・反対する農民1000万人の大粛清を開始していました。その最中に、ゴーリキーのイタリアからの帰国を、“ある目的を持って”強く要請したのです。

 

 スターリンとゲペウは、1928年にゴーリキーを帰国させた後、3回にわたって、彼の“価値ある利用”をしました。1929年の『ソロフキ訪問記』発表、1932年「ソヴィエト作家同盟第1回大会の議長」、1934年『スターリン記念白海・バルト海運河』出版と監修者です。いずれもが、西側に強まっていたスターリン批判・疑惑の緩和とソ連の強制労働実態をカムフラージュするのに、大いに役立ちました。社会主義国家権力が文学者を“西側向けに最適利用”したケースでした。それでも、スターリンの側に、ゴーリキーを「毒殺」「謀殺」すべき理由が存在したのかどうかです。

 スターリンの粛清指令の口実は、現在の彼の政策にたいする抵抗・批判だけではありません。それは、過去にレーニン・スターリンと意見が対立した者すべてに向けられました。ジノヴィエフ、カーメネフ銃殺の判決理由の一つは、彼らが、19年前に、レーニンの武装蜂起・単独権力奪取方針に反対したことでした。

 

 ゴーリキーは、レーニンが権力奪取直後から行った保守派自由主義政党カデット系知識人追放・粛清や、1922年後半の知識人追放『作戦』を批判し、レーニンと意見が対立しました。カプリ島にいた頃、『メンシェビキだってボルシェヴィキだって、あれだけ人を殺せば同じことじゃないか』と発言したことも事実です。上記のように、「追放知識人」の救援に積極的に動きました。『ソロフキ訪問記』での“讃美記事”発表において、その交換条件として、「囚人の待遇改善」を要求したのも事実でしょう。これらの過去の言動だけでも、他の大量銃殺者と2件の暗殺指令と同じく、スターリン、ヤーゴダが、彼を「暗殺・毒殺指令枠」の一人に入れる理由が成り立つとも言えます。

 

 その理由だけでなく、彼の過去における言動からの類推として、『スターリン記念白海・バルト海運河』出版と監修者を引き受けるに当たって、『ソロフキ訪問記』での“讃美記事”発表時と同じく、なんらかの“交換条件または通告”をしたことも考えられます。その唯一の根拠は、ソルジェニーツィン評価『スターリンは、取越し苦労のために、殺さなくてもいいような人を殺してしまったのだ』です。その『取越し苦労』とは、何を意味するのでしょうか。以下は、「ゴーリキー毒殺事件」推理小説のレベルになります。

 

 私の“やや偏った”推理を、『スターリンの取越し苦労』の一言、および、プラウダ『謀殺説』に依拠して、少しのべます。ゴーリキーは、世界的な名声を持つ「革命」作家でした。「十月革命」後、1918年、「文学活動家同盟」や「世界文学」出版所活動にザミャーチンとともに参加します。1917年から20年代の半ばまでゴーリキーとザミャーチンはロシア文壇の中心でした。ゴーリキーの庇護のもとに結成された作家グループ〔セラピオン兄弟〕がザミャーチンの強い感化を受けたのもこの頃です。彼の経歴から、その社会主義体制讃美発言は、西側への説得力がある“高い使用価値”を持ちました。しかし、もし彼が、その当時、1920年のザミャーチン『われら』や1972年のソルジェニーツィン『収容所群島』のように、「秘密政治警察国家」「囚人による奴隷労働の国家的事業」の実態を暴露したら、それは国内外へのはかりしれない破壊的影響力も持ったでしょう。彼は、『ソロフキ訪問記』での“讃美記事”発表にたいして“囚人の待遇改善をするという交換条件”が何一つ守られなかったことを、当然ながら知ったはずです。『スターリン記念白海・バルト海運河』出版と監修者、およびゲペウ絶賛演説を引き受けるに当たっては、さらに強烈な“交換条件、あるいは、それが無視されれば真相の西側発表も辞さないという通告”を匂わせた可能性も考えられます。その場合は、スターリンの『取越し苦労』の意味を理解できます。

 

 3、ゴーリキー「二枚舌(スターリンへの面従腹背)」説と、「スターリン命令によるゴーリキー殺害」説

 

 ところが、ソ連崩壊後のゴーリキー研究データに基づいて、ゴーリキーは、「スターリンにたいする体制内批判者」であり、白海・バルト海運河建設における晩年の彼の発言は、「二枚舌(スターリンへの面従腹背)」だったとする論文が出版されました。亀山郁夫東京外語教授の『磔のロシア』(岩波書店、2002年5月)です。亀山教授は、副題『スターリンと芸術家たち』として、「革命の夢と大テロルを潜り、恐怖の詩神スターリンと対話した芸術家と表現の運命!」について、ブルガーコフ、マンデリシターム、マヤコフスキー、ゴーリキー、ショスタコーヴィチ、エイゼンシテインら6人を分析しました。彼らは、6人とも、スターリンとの関係において、「二枚舌(スターリンへの面従腹背)」を使わざるをえなかったという研究論文です。

 ソルジェニーツィンは、「スターリンによるゴーリキー殺害」と断定していても、ゴーリキーの言動を「二枚舌」とは見ていません。

 

 6論文の内、ゴーリキー分析の題名は、『熱狂をみつめて−ゴーリキーはなぜ殺されたか−』(P.139〜182)です。そこでは、ゴーリキーとゲペウ長官ヤゴーダとの関係、スターリンとの「蜜月」の闘い、ブハーリン・ラデック・カーメネフらスターリン反対派との近い関係が発掘されました。彼とロマン・ロラン、アンドレ・ジッド、アラゴンとの交流、手紙のやり取りなどのデータがまず描かれます。これらの詳細なデータは、そのほとんどが、ソ連崩壊後に初めて判明したものです。以下、私(宮地)の方で、日付だけを太字にします。

 

 スターリンは、NKVD報告により、ゴーリキーの「二枚舌」の抵抗に気付きました。スターリンは、1933年8月、ゴーリキーのイタリア行きのヴィザ発給を停止し、彼をゲペウの監視下に置きました。1934年4月、何者かが、彼の息子、37歳のマックスを殺害しました。その直後から、スターリンは、ゴーリキーを、手紙の開封、24時間盗聴の軟禁状態にしました。息子殺害の背景には、ゴーリキーと息子とキーロフという3人の関係が推測されています。1935年5月、スターリンは、ゴーリキーが、パリにおける反ファシズムの「国際文化擁護作家会議」への出席を希望したのにたいして、出国を拒否しました。1935年11月以降、NKVDは、ロランのゴーリキー宛手紙を、中途で没収しました。ソ連の現状をリアルに批判する内容のロラン宛に出したゴーリキーの手紙もNKVDに渡りました。こうして、スターリンとの「蜜月」裏側における「二枚舌」の抵抗も、決定的な「離反」を迎えたのでした。

 

 著書にある「ゴーリキー死去」データ(P.170)を抜粋します。『1936年6月2日、インフルエンザで重態に陥る。8日、スターリン第1回目訪問、ヴォロシーロフ、モロトフ同行。10日、スターリン第2回目訪問、会見せず。12日、スターリン第3回目訪問、8分で帰る。14日、ゴーリキー元気を取り戻し、手紙を書く。16日、モスクワのゴーリキー邸執事コシュンコフ証言「クレムリン回線の電話でした。受話器を取りました。ゴーリキーの電話か? そうです。さあ、望まれていることを達成するんだ、この下司野郎!」。ゴーリキー、著しい回復を見せ、パンを食べ、ミルクを飲む。17日、容態急変。吐血。18日午前二時一〇分(午前二時半という説もある)、死去。

 ゴーリキーの死の謎を解く最大の鍵は、先に触れたルイ・アラゴンの『回想』(一九三六〜三七年にかけて執筆、一九七七年刊)である。それによるとゴーリキーは、三六年の三月から四月にかけて、ルイ・アラゴン、エルザ・トリオレ夫妻に対し、再三にわたって訪ソを要請している。仲介役に立ったのは『アガニョーク』編集長ミハイル・コリツォーフだった。アラゴンは書いている。「コリツォーフを介して私たちが受けとっていたゴーリキーの呼び出しのトーンが変わった。そこにはすでに死の恐怖が感じられた。そして彼がフランスのために私たちに仕事を依頼したいといった内容が漠然とほのめかされてあった。しかしよりにもよってなぜ私たちなのか? そしてだれのためなのか?」』。

 

 さらに、亀山教授が分析する「スターリンによるゴーリキー殺害の背景、原因」(P.174〜176)について、やや長くなりますが、そのまま抜粋・引用します。

 『NKVDがロランの身辺に配していたエージェントとは、じつはロランの妻マリヤ・クダーシェワ(ロシア人)である。一九八〇年代に入ってから、クダーシェワみずから、NKVDによる工作を受けていたと告白し、おおよその事態が明らかになった。しかしここで留意すべき点は、ゴーリキーがすでに一九三六年の時点でスターリン体制の告発に踏み切っていた事実である。

 

 では、ゴーリキー殺害はどのような手順を踏んで実行されたのか。前述のスピリドーノワは、ゴーリキーの殺害がすでに一六日の時点で決定されていた、と推定する。一六日に、ゴーリキーのモスクワの自宅にかかったクレムリンからの電話と、同じ日、ゴールキの別荘周辺での不審な動きがそれを証明するという。この日、酸素吸入の運搬を行っていた庭番が当直から外され、建築局の代表者と名のる男が、邸の立ち退きを指示する証明書をもって現われていることがその証拠として挙げられている。一方、『素顔のゴーリキー』を書いたバラーノフは、ゴーリキー抹殺の鍵を握る人物としてマリヤ・ブードベルグに注目する。英国とドイツとロシアの三重スパイであった彼女が、なぜ、ゴーリキーの病状を知って、モスクワに駆けつけ、その病床に付き添うことができたのか、という問いに出発し、アルヒーフの引渡しを終えたスターリンとブードベルグの間にすでにシナリオができていた、完全に立ち直りかけたゴーリキーは、他ならぬ彼女自身の手によって殺されたという。さらにバラーノフは、ゴーリキーが自らの告発を伝える相手として、スターリンはアラゴンよりむしろアンドレ・ジッドを(彼の旺盛な独立心と率直さを)はるかに危険視していたと結論づけている。

 

 すでに述べたように、病身のゴーリキーがどのような捨身の行動に出るか、スターリンにはまったく予測がつかなかった。それゆえ、彼が健康を取りもどすという事態だけはどうしても避けたかったはずである。それまでの約一年、ゴーリキーとほとんど顔を合わせることのなかったスターリンが八日、一〇日、一二日の三度にわたって立てつづけにその病床を見舞った理由とは何であったろうか。とくに二度目の、深夜二時という一見不可解な時間帯の訪問は、医師団ないしその周辺に配した工作員に無言の圧力をかけるねらい、もしくは、ゴーリキーの真意を最終的に見きわめる目的のどちらかがあったと見られる。では、一六日、クレムリンからかかった謎の電話は何を指令していたのか。ヤゴーダの指示でゴールキに送られた一七名の医師団は、事態をカムフラージュするための「工作員」ではなかったろうか。また、病床の作家に届けられた中央紙が、彼自身のために一部だけ印刷され、病状報告はすべてカットされていた事実も深い謎を含んでいる。ニキョーによると、その病状報告ですら、実際のゴーリキーの病状とは関わりなく、あらかじめ作成された死のシナリオであった可能性が高いという。

 

 ゴーリキーの死後、別荘では朝まで家宅捜査が続けられた。雑誌『われらが達成』の編集長ボブルイシェフのもとに組織された数人の文学者が、その任務にあたった。夜明け近く、書棚の奥から、「コーティングクロスのカバーにつつまれた分厚いノート」が発見された。ゴーリキーの日記である。家宅捜査の指揮にあたり、日記の内容に一渡り目を通したボブルイシェフは次のように回想する。

 「すぐに明らかになった。日記全体はクレムリンの支配者たちに対する仮借ない、まったく客観的な批判からなっていた。最初の数頁にはこう書かれていた。ある閑人の機関士が勘定する。並の低劣なノミを何千倍にも拡大すれば、地上で一番恐ろしい獣になり、その獣はもはや何びとも手なづけることはできない。現代の巨大な技術があれば、巨大なノミは映画で見ることができる。だが、化物じみたしかめ面の歴史が時として現実の世界にもそれに似た引き延ばしを生む……。日記にそう記した本人〔ゴーリキー〕の意見だと、スターリンがまさにその、ボリシェヴィキのプロパガンダと金縛りの恐怖が信じられないほどのスケールにまで拡大したノミなのだというのである。」

 

 ボブルイシェフの回想によると、ゴーリキーの日記には、「無抵抗」という蜘蛛の糸にからめとられた人々に向かって、もっとも強い人間の精神的、肉体的破滅すら運命づける現代の状況と決別せよ、とのアピールが記されてあったという。ゴーリキーの日記を手にし、全文に注意深く目をとおしたヤゴーダはこうつぶやいた。「狼はどんなに餌をやっても、森を見たまま」と。日記はやがてNKVDに渡り、それから政治局、最後にスターリンの手に渡ったとされるが、残念ながら、その後の消息は今なお知られていない。しかし、忘却の穴に投げ込まれたのは、たんに日記だけではない。ゴーリキーの死後二週間と経たないうちに、ゴーリキー関係者の逮捕がはじまり、彼が立ちあげたさまざまな事業は閉鎖され、ゴーリキーの死に関する回想者の記録はすべて、A・チーホノフという人物の手で清書され、書き換えられた。こうしてゴーリキーは、筋金入りのスターリン主義者へと仕立てられていった。たとえば、スターリン憲法の草案を手にした病床のゴーリキーが次のように語ったというのも、もはや伝説にすぎない。「いまやこの国では、石たちも歌っているかもしれない」。

 

 『同年八月、ゴーリキーの死から二カ月後、ジノヴィエフ、カーメネフを被告とする公開裁判がモスクワで開かれ、被告全員はただちに処刑された。ニキョーの主張にしたがうと、この公開裁判が裁くべき真の相手は、ほかならぬゴーリキー本人だったということになる。また、ロランは日記に次のように書いている。「ソ連文学者たちに対する大テロルが始まったのは、キーロフの死からではなく、ゴーリキーの死からである」と。ビリニャーク、ヴェショールイ、バーベリ、ヤセンスキー、マンデリシターム、コリツォーフ、ミルスキー、トレチャコフ、メイエルホリド。もはやテロルの波を押しとどめることはだれにもできなかった。ここに挙げた作家たちの個々に留まって考える余裕はいまはないが、このうちの何人かは、ゴーリキーないし彼が残した謎のアルヒーフとの関わりによって粛清された可能性がある。地球化学の創始者ヴェルナツキーは、ゴーリキーの死からちょうど五年後の一九四一年六月一八日の日記にこう書いている。「一九三六年六月一八日のゴーリキーの死。当時、彼が殺害されたということについて、だれ一人、疑いをはさむものはなかった」。』(P.179)

 

 

 いずれにしても、運河建設におけるゴーリキーの外面的な犯罪加担行為・演説は、明白な事実です。他方、「毒殺説」が消えないような裏面における「二枚舌(スターリンへの面従腹背)」の抵抗・批判行動があったとすると、人間はそのような「二枚舌」的人格を、どれだけの期間、維持できるのでしょうか。ゴーリキー殺害疑惑は、キーロフ暗殺疑惑と同じく、なお「ロシア革命史」の暗闇に埋蔵されたままです。

 

 

 4、「囚人」作家勝野金政と「白海・バルト海運河」建設“10万人死亡”強制労働

 

 勝野「収容所文学3部作」の第1部にあたるのが、『凍土地帯−スターリン粛清下の強制収容所体験記』(吾妻書房、1977年)です。

 彼は、1930年10月に突如逮捕され、31年6月「外国のスパイ罪」で5年の自由剥奪刑を受けました。その前後2回、ハンストで抗議しますが、無視されます。32年6月、シベリアのラーゲリに送られました。そこは、地下1mが凍りついている凍土地帯でした。第1部は、パリ大学、モスクワでの生活・活動、シベリア・ラーゲリの体験を綴っています。ハンストによる病みあがりの体調で、「白海・バルト海運河」における「白夜の15時間労働」に駆り出されます。その一節を引用します。

 

 『それは世紀の大事業と喧伝されているベル・バルト運河だ。スターリンが彼の鉄の意志によって完成させると世界に宣言したもので、その名を冠してスターリン運河という。ラーゲリをあげてスターリン運河の開発にぶちこめ! スターリンの言葉はロシアでは法律である。

 全国の監獄とラーゲリに受刑中の囚人たちは北へ! 北へ! 白海へ! 白海へ! と送りこまれ、この一大集団をカナール・アルメ(運河軍)と呼んだ。その数は数十万とも又百万ともいわれ、正確なことは誰も知らない。ムルマンスク鉄道、ペトロザボーツクの附近「熊の山」に本部を設置、支部を数十ケ所に設け、軍隊式に、部隊、分隊、班にわけ大軍団の形態をとった。

 原始の山の中だ。恐ろしい程静かである。白夜の地平線の彼方、雲の中に光のない日が浮び、鳥の群が飛んでいる。人間の姿の見えない自然の中、そこには文化の影もない。そこへ今、大勢の人間が送りこまれてきたのだ。だが、それは自由のない人間ばかりなのだ。自由のない人間に文化はない。文化とは人間の精神生活の造形である』(P.223)

 

 「収容所文学3部作」の第2部にあたるのが、『白海に怒号する』(遺稿、CD全文収録)です。

 これは、彼が、1975年9月、木曾で書いた遺稿で、出版には至りませんでした。「第1章、誘惑する国境」は、フィンランド国境近くのラーゲリで、脱走の誘いの話から始まります。「第2章」は、「運河軍カナール・アルメ」で、そこでの囚人たちの強制労働が生々しく語られます。10万人を“殺した”囚人労働の中心が、全長227qにわたって強行された「土砂の採取と運搬」作業です。その一部を抜粋・引用します。

 

 『バラック内は三つの組があり、われわれの組長の話によれば、「明日からは河原に下りて土砂の掘取と、その運搬をやるのである。作業の方法は今流行している集団ノルマを採る。最高は百二十パーセントである。このノルマを完成すれば、黒パン一日一キロ二百、砂糖、バターもそれに準じて支給され、倍も待遇が良いことになる。まことにめでたい話である、感謝しようではないか?」

 あらゆる民族をかきあつめたここのラーゲリの広場からは二、三十人づつの隊伍を整えた労働者が昨日横切って歩いて来た岩石と砂漠の川底へ向って一斉に歩き出した。

 われわれには一人ずつ土砂を掘るためのシャベルとそれを運搬するための木製に鉄の車輪の付いた一輪車一台が渡され、「川底から一日に三立方メートルの土砂を岸の上まで三十メートル運搬せよ! それが課せられたノルマだ」と命令された。

 

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女性突撃班の一輪車強制労働。二人でやればノルマ

は六立方メートルの土砂を岸の上まで三十メートル運搬

 

 このノルマが終り、世話係が受取り証明を出さない限り、誰もがバラックへ帰れない。またパンも貰えない。強制労働とはこの事だろう。計られた三立方メートルの土砂を掘り取り、三十メートルの急斜面を木製の一輪車で押し上げて運ぶ。筋肉労働であり、重労働である。土と小石混じりの砂を掘り採って、一輪車に入れる。それを坂の一枚板の上を押し上げて運ぶ。

 私の手も腕も足も折れそうで、全身が打撲傷を受けたように痛みだした。口が乾きだして、それでもがまんしてシャベルで土を掘る。身体をぶつけて一輪車を押し上げる。汗は頭から顔、胸にまで水のように流れる。眼は火が出て、火花が飛び散る。車も身体も共に転倒する。私は午前中二回、一輪車に積んだ土砂と身体と一体になって横に倒れた。生涯に初めて経験する肉体の苦痛である。

 

 腕も砕け、ちぎれてしまいそう。足も折れたのか、痛くて動かなくなる。呼吸もできない苦しさ。両眼は汗で見ることはできない。私は一輪車を坂の途中で自分の身体の上に乗せ、最後の力も尽きて座り込んでしまった。

 「かわいそうに日本人。お前にこの仕事は死刑と同じだよ。どれ、このおれが助けてやる」。中年の色の白い、髪の毛の黄色いロシア人がそう叫んで、私の一輪車を自分で坂の上へ押し上げて行った。私は彼の後姿を神ではないかと心で拝んだ。

 

説明: C:\Users\My Documents\My Pictures\katunoarasi.jpg

『これが突撃作業の正体だ! もう雷雨が襲ってきているというのに、働き続

けているのだ! 一日の計画を超過遂行するのだ! その技術に注目あれ。

上がり坂で手押し一輪車を上から鉤使い人が引っ張るのだ。でなければ

とても上がり坂に上りようがないからだ』(『収容所群島』第3部、P.103)

 

 こんな酷烈な重労働は自分の命と引きかえの重みである。「この死を限界にして苦闘する人間の重労働を、この無慈悲の工事を計画し実施した、いわゆる指導者に自ら参加させ、お前らも、このノルマを実行してみよ!」と、私は怒号したくなった』(P.6、CD印刷)

 

 10万人殺人強制労働の第2が、「岩石の爆破」作業でした。これも抜粋・引用します。

 『世話係が、作業に関する訓示を与えた。「作業に必要なノミとハンマーは上から与えられる。お前等はそれを使用して、一日深さ八センチの竪穴を掘ればノルマになる。二人ならその二倍で良い」。この世話係を先頭にして凡そ三〇人ほどの石割部隊は歩調をそろえて河原の中へ重い鉄の道具を担いだり持ったりして各々部署についた。私は自分の近くに並んでいた農夫らしいウズベクの中年男と二人組となって仕事をやることにした。

 はじめ適当な岩を見付け、それにノミを当て、一人はそれを両手で振り、一人はハンマーを振り上げ、ノミの頭を力一杯打ち下すのである。この場合ハンマーの狙いを誤れば、それを両手で握っている相棒は、両手を鉄槌で叩かれ怪我をしてしまうことは必至で、この組の呼吸の一致しなくてならないことは絶対である。

 はじめ私は選んだ石の上に腰を下ろし、三〇センチ以上の長さのあるノミを両手で握り、ウズベクにハンマーを振り下ろさせた。黒色をした丸い安山岩は固くて、簡単に穴を掘れなかったが、五分、十分の懸命の作業で、ようやく、この仕事を継続出来る自信がついた。ノミを握る者、ハンマーで打つ者、われ等は相互に交代して仕事を進めていった。この仕事も世話係の言うように、面白いどころか、一打一撃に油断の出来ないきびしい仕事である。二人は昼休みもしないで、夕方まで石を掘って十六センチのノミ穴を開けただけ、必死で頭から顔、胸から背中、手も足も汗だらけになった』。

 

説明: C:\Users\My Documents\My Pictures\katunoisi.gif

各著書にもある有名な『人海戦術作業』の写真

ダイナマイトを挿し込む大きさで、十六センチのノミ穴

 

 『われわれが昼間ノルマで竪穴を掘った沢山の石や岩は、夜になると、赤い腕章を巻いた火薬係が、その穴で導火線をつけたダイナマイトを爆発させた。河原の谷底や堀割の斜面からは、地を揺する響きとドン、ドカンと耳を裂くような音とがしばらく夕方のラーゲリの中を制圧した。そしてその後には、バン、バタンと爆破された石の破片の落下する音が、バラックの屋根や広場の置物にあたったりして大騒ぎを引き起こした。そのうちの幾つかの破片は驚いて逃げまどう人間にも命中した。夕方の発破の時刻は、この一帯の山野はダイナマイトの爆発で、野戦場の大砲や地雷の炸裂するに似た凄しさであった』。

 『背後の方で、ブスンと鈍重な響きがした。「大変だ、ウズベクがやられた、皆、早く来てくれ!」。世話係や、周囲にいた人々のあわてた叫びである。この騒ぎの後で聞いた話によれば、負傷した別のウズベク人は、ノルマが欲しさに、誰かが放棄してあった古穴を探し出し、それにノミを突っ込んで、上からハンマーで叩いたのであった。穴の中に不発のままで沈黙していたダイナマイトがその衝撃で一気に爆発してしまったのである。工事の現場では石も転がってくる。土砂も崩れてくる』(P.8〜10、CD印刷)

 

 内容が多面的なので、一部しか紹介できません。「第6章、白海に怒号する」(1933年夏)という長編詩18節の内、いくつかを載せます。

 『一、ロシア大地の北のはて/ 北洋の水と雲の接するところ/ 年老いた地はい松が一面の/ 岩盤に生い茂り/ 小さな波が音をたてて飛び散っている。/ 今日も天気晴朗だ。

 

 九、憲法はある。国家はある、/ 学校はある、病院もある、/ そして保養所もある。/ 社会文化施設もある。/ しかし、それは外観だけで/ その内容は空疎である。/ 一番大切な真実がない、喜びがない。/ 疲れているわれ等に休息を!/ 飢えているわれ等にパンを!/ 奴隷労働にあえいでいるわれ等に/ 解放を! そして自由を! / 神に祈るわれ等の声をきいて/ 呉れ!

 

 一〇、酷烈、悲惨な地獄の中から/ ただ一つの光明を認め/ この世に「在」りと信ずる/ 萬能の神よ! あなたの「力」をもって/ 無数にうごめくこのラーゲリの/ 人々を放免して下さい。/ 今即時、と言いたいが/ 半年先でも、一年後でも/ 二年三年待っても良い。/ 「自由」に喜ぶ彼等の姿を眺めたい。

 

 一八、北洋につづく白海はなぎ/ 白夜につづく大空は広く青い、/ この夏もう半月以上は快晴だ、/ やせた一人の日本人若者は/ 今日もまた静寂な砂浜に立ち/ 毎日同じ口調の言葉を絶唱し/ 眼を怒らし、頬を紅潮させ/ なげき訴えている。/ その声は恐ろしくあたりに響いて、/ 海鳴の如くである! / 海神の叫ぶ如くである。』(第6章、CD印刷)

 

 「収容所文学3部作」の第3部は、『赤露脱出記』(日本評論社、1934年)です。

 「3部作」といっても、その執筆・出版時期は入れ違います。この第3部が最初に出版されました。しかも、これは、1934年出版という世界でもっとも早い「スターリン・ラーゲリ告発の収容所文学」となりました。『赤露』という著書名は、当時の出版事情によるものです。この編集・出版を、特高による検挙を逃れて満鉄に行く前、日本評論社にいた石堂清倫が担当しました。

 

 勝野金政は、上記2つの“10万人殺人の強制労働”作業から、他の囚人の助けにより、囚人電気技師に応募しました。そこで、ベルトに手を巻き込まれ、重傷を負います。入院中の囚人医師の援助で、運河ラーゲリの囚人医師になりました。2つの殺人作業をそのまま続けていれば、彼も10万人の死亡者の一人になっていたでしょう。

 

 この『赤露脱出記』は、ラーゲリ病院での医師の生活を経て、運河建設完了により、「5年の刑期」が「3年半に減刑」、釈放され、1934年6月モスクワの日本大使館に保護を求めて、自首するまでを描きます。釈放後直ちに、ゲペウに行って、「無実・再審査」の要求を何度しても拒絶されます。やむなく、食べるために農村に入って、1000万人の「富農撲滅」後における農業集団化の農民の悲惨な様子も体験します。「富農撲滅」とは、ゲペウ記録において、1930年だけでも14000件の「反コルホーズ農民反乱」が発生したことにたいする、スターリンの一般農民大虐殺・粛清だったのです。

 

説明: C:\Users\My Documents\My Pictures\katunodemo.gif

スターリンは農村への攻撃を正当化する理論を思いついた。『社会主義

建設が勝利に近づけば近づくほど、階級闘争はますます激化する』

『コルホーズ反対の反乱農民は富農であり、すべての富農を撲滅せよ』

 

農村における集団テロル写真。スローガンには『我々コルホーズ員は

全面的集団化に基づき、クラークを階級として絶滅する』と書かれている

コンクエスト序文『赤い帝国』(時事通信社、1992年、絶版、P.87)

 

 勝野金政が農村に入った時点は、1933年の大飢饉により、600万人以上が餓死した直後でした。その飢饉は、農民層を「軍事的・封建的に搾取」して、「穀物大量輸出売上金を重工業開発資金に廻す」というコルホーズ・システムの直接の結果でした。スターリンの4000万人粛清数字には、この“人為的餓死殺人”600万人が含まれています。そこには、自国民600万人を餓死させようとも、重工業開発資金獲得を最優先するというスターリンの発想があります。

 

 釈放になっても、元「外国のスパイ」レッテルでは生きていくこともできません。片山潜も1933年に死んでおり、モスクワの日本人党員たちもほとんどが逮捕・粛清されていました。ラーゲリの外側における絶望のありさまは、白海ラーゲリの内側にいるのと同じだったのです。モスクワの実態は、ザミャーチン『われら』の世界やオーウェル『1984年』的世界そのものでした。2人の作品は、SF小説世界です。しかし、勝野金政が描写した世界は、『白海に怒号する』序文にあるように、『社会主義独裁による国民の酷使と労働の強制』という“現存した革命逆ユートピア世界”でした。

 

 ソ連共産党員勝野金政が“自由”になったはずの社会主義社会は、ゴーリキーが『ラシャ外套を着こんだ大胆不敵な人びと』と、ゲペウの絶賛演説をした「赤色テロル」型社会主義だったのです。スターリン時代の「赤色テロル」は、自国民4000万人の粛清だけではありません。それは、共産党員ゲペウが、現役共産党員100万人と除名された元共産党員100万人を「深夜のドアノック」で逮捕し、ソルジェニーツィンが分類した32種類の「科学的社会主義」式拷問にかけ、「分派活動・サボタージュ」を自白させてから、銃殺するシステムでした。共産党とは、共産党員チェキストが、「無実」の同党員200万人を殺す“共食い政党”という、近代政党史上空前絶後の犯罪的な「組織内部殺人」政党になっていたのです。ただし、その内実は、ドストエフスキーが50数年も前に、『悪霊』において、革命組織内部の動揺しただけの仲間イヴァーノフを「裏切り者」として殺害したネチャーエフ事件をモデルとして、洞察した政党世界でした。E・H・カー、その他の事件関係資料を見ても、「革命家ネチャーエフによるイヴァーノフ殺害」は、“革命の名を掲げた明白な殺人”でした。レーニンは、殺人犯ネチャーエフを全面的に擁護し、『悪霊』を『反動的小説』ときめつけました。

 

 「釈放=自由」とは、実のところ、彼を、「白海ラーゲリ」から、「国家全体がラーゲリ」という世界へと“ワープ(時空間移動)”させただけでした。この文を読まれる方は、彼のように、絶望の無限連続シーンを現実で体験したことがあるでしょうか。この『脱出記』は、ソ連共産党員である彼の「自由状態における底無しの絶望感」が、胸に迫るようなタッチで綴られています。

 

 彼が、『オーウェル的世界からの命がけの脱出』という決断を、1934年にしていなければ、「囚人経歴」により、銃殺・逮捕後行先不明の日本人共産党員22人と同じく、1936年から38年におけるスターリンの「500万人粛清、うち68万人から100万人を処刑した大テロル」期に殺されていたでしょう。当初、日本大使館は、勝野金政がソ連共産党員ということで、保護を拒否します。しかし、1934年8月、日本大使館とソ連政府との交渉で、シベリア経由での帰国を許されました。元ソ連共産党員として特高に逮捕されますが、証拠不充分で釈放されました。

 

 

 5、勝野金政「収容所文学」3部作の位置づけ

 

 帰国後の経歴、仕事、著作はいろいろありますが、簡略にのべます。1934年帰国後、当時の治安維持法下にあって、特高から釈放されたとはいえ、ここでも完全な“自由”の身にはなれませんでした。1937年に参謀本部嘱託となり、ソ連情報の分析に従事しました。1945年3月、敗戦前に、参謀本部の退廃に怒って、仮病を装い、郷里の木曾に戻りました。戦後は、「民主同盟」を結成し、木材製材会社の経営にあたりました。

 

 1983年1月13日、他界(82歳)しました。「無実」だったとする名誉回復はその6年後、逮捕から59年後の東欧革命の年でした。1989年3月、ソ連最高会議幹部会令により名誉回復。1996年7月、ロシアの公文書館で「勝野金政ファイル」発見。1996年12月、遺族による勝野金政の名誉回復申請にもとづき、ロシア連邦最高検察庁は名誉回復証明書交付をしました。

 勝野名誉回復の同じ年、ブハーリンも名誉回復と党籍復活をしました。それは、1938年銃殺の51年後でした。半世紀も経ってから、「無実」だったとして共産党員籍が復活されるとは、しかも、2年後の1991年には、そのソ連共産党と「ソヴィエト社会主義共和国連邦」そのものが崩壊してしまうとは、これほどの「科学的社会主義ブラックユーモア」は他にないでしょう。

 

 彼は、戦前、著書6冊を発行し、雑誌論文・随筆・小説を18回発表しました。戦後も、著書2冊、雑誌論文・随筆を7回出しました。上記小説『白海に怒号する』だけが、未出版の遺稿となりました。それらの内容は、「収容所文学」3部作だけでなく、1928年から1930年代前半の片山潜やモスクワの日本人たち、コミンテルン、ソ連情勢分析の論文・随筆など多面的です。この文では、「作家勝野金政」の側面だけに光を当てましたが、当時のソ連国内状況、ラーゲリ状況に関する画期的な資料を多く含んでいます。日本人のソ連共産党員から、ラーゲリ囚人となり、釈放後のモスクワや農村体験という、6年間について、これだけの貴重な研究データを遺した人は、他にいないでしょう。世界で見ても、1930年前後の現場体験を論文・随筆・文学として、これほど密度濃く表現した人は、ほとんど見かけません。ソルジェニーツィンは、もっと後です。

 

 この膨大な資料を発掘したのは、「モスクワで粛清された日本人たち」を調査・追跡していた加藤哲郎一橋大学教授、藤井一行富教授と勝野長女稲田明子たちでした。もちろんこれを整理・保存していたのは、勝野夫妻です。粛清された日本人遺族であるソ連人研究者を含め、多くの人が協力し、これらすべてを、パソコン入力、またはマイクロフィルム化し、一枚のCD『勝野金政著作集−藤井一行・稲田明子編集』として完成させました。その記念集会が、冒頭の早稲田大学における「シンポジウム」です。CDは、すべて電子書籍化されており、プリントアウトすると、A4版で1000ページ以上になります。私(宮地)は、田口富久治名古屋大学名誉教授が、立命館大学でプリントした全文書とCDを拝借し、その集会の諸報告内容とあわせて、この文を書きました。

 

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白海側運河入口=閘門(こうもん)を訪れた稲田明子と勝野真言

(写真は、CD『勝野金政著作集』に掲載)

 

ゴーリキーが訪問し、スターリンが開通式に臨席し、レーニンが創設した「赤色

テロル」機関チェーカー要員名の『チェキスト号』が開通第1号の栄誉を受けた所

 

 

 勝野金政「収容所文学」3部作の第3部にあたる『赤露脱出記』は、1934年に、日本評論社から、社員の石堂清倫編集担当で出版されました。それは、ソルジェニーツィンの『イワン・デニーソヴィチの一日』(1962年出版)の28年前、『収容所群島』(1972年、パリ出版)の38年前でした。3部作の位置づけについて、3人の研究者が高い評価をしています。

 

 ()、資料発掘、CD製作者の一人である藤井一行教授は、次のように言っています。『こうした文字どおり数奇な運命を生きた人物、勝野金政に私が注目するのは、かれがスターリン体制の初期時代の粛清犠牲者として得がたい記録を残しているということもあるが、それ以上にかれの一連の著作がスターリン体制の告発として世界的にも先駆的意味をもっていたと思うからである』。

 

 (2)、資料発掘、シンポジウム主催者の一人である加藤哲郎教授は、『勝野金政の未発表大作「白海に怒号する」は、これこそソルジェニーツィン級のラーゲリ文学です』と評価しています。

 

 ()、文化人類学者山口昌男は、月刊「新潮」(2001年10、12月号)の「20世紀における『政治と文学』の神話学」連載の中で、『赤露脱出記』にスポットを当てています。その論旨のいくつかを加藤教授が紹介しています。『元片山潜秘書で、旧ソ連のラーゲリ体験者ですが、ソルジェニーツィンに40年も先駆けたラーゲリ文学として重要だというのです。勝野は、1934年に奇跡的に帰国し、多くのドキュメンタリーと小説を残します。芥川賞候補にもなったということで、この時受賞していれば『赤露脱出記』もソルジェニーツィンの『収容者群島』の先駆的作品として或いは記憶にとどめられたかも知れない』。『スターリン主義を含むボルシェヴィズムの劣性を勝野のごとく冷静に描き得た人物は当時他にいただろうか』。『勝野がこのような文章を書けただけで、帰国後、東京外語大学のロシア語、或いは大阪のそれの教授職に任じられる力の持主であったことを示している。当時の日本は、このように有為な人物を適当な位置につけて生かすというシステムをもっていなかった』。

 また、『雑本のなかにひそむもの』というインタビュー記事では、『昭和十二年に出ている本なんだけど、内容も驚くほどいい。ソルジェニーツィンの『収容所列島』より三十年ほど昔に既にそうした世界、つまり日本人のラーゲリ体験を書いていたわけだからね。しかも文章がとてもいいんだよね。ルポルタージュ文学としてみても出色のものなんだよね。それを日本の近代文学の研究者は誰も書き留めていない』と高い位置づけをしています。

 

 「囚人」作家勝野金政の1930年から34年に及ぶ刑期3年半体験とその前後を描いた「収容所文学」3部作は、ソルジェニーツィンに先駆けたものです。それだけでなく、それは、1936年から38年におけるスターリンの「500万人粛清・大テロル」前の「第一次五カ年計画」の裏側を形作る“囚人奴隷労働国家”の実相を研究する上で、他の大量の論文・評論と合わせて、きわめて貴重なデータになるものです。

 

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 (関連ファイル)

    藤井一行 藤井HP CD『勝野金政著作集−藤井一行・稲田明子編集』紹介・注文

          『勝野金政のゴーリキー批判』  『野坂竜の逮捕をめぐって』

          『粛清のメカニズム』  (『粛清されていた日本語教師たち』の一部)

    加藤哲郎『旧ソ連日本人粛清犠牲者一覧』  加藤HP

          『勝野金政コーナー』「勝野金政生誕100年シンポ」他

          『ソ連は「奴隷包摂社会」でなかったか』

    勝野金政検索 google

 

    『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが「殺した」自国民の推計』

    塩川伸明『「スターリニズムの犠牲」の規模』粛清データ

    ニコラ・ヴェルト『ソ連における弾圧体制の犠牲者』

    ブレジンスキー『大いなる失敗』犠牲者の数

    『ドストエフスキーと革命思想殺人事件の探求』3DCG6枚

    『ドストエフスキーと革命思想殺人事件の探求』電子書籍版

    『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』3DCG12枚

    『オーウェルにおける革命権力と共産党』3DCG7枚

    『オーウェルにおける革命権力と共産党』電子書籍版

    『ソルジェニーツィンのたたかい、西側追放事件』3DCG9枚

    『ソルジェニーツィン「収容所群島」』第2章「わが下水道の歴史」

    『ソルジェニーツィン「収容所群島」』第3章「審理」32種類の拷問