1873年 朝鮮で閔氏が政権を掌握このページは、大幅な改訂作業を行っており、現時更新作業中です。 1864年に第26代国王の高宗王が年少(11歳(注:12歳としている文献もある。))で王位に付き、後見人として実父の興宣大院君(略して大院君)が政治の実権を握り、それまでの外戚(安東金氏)による勢道政治で乱れた政治を立て直すため政治改革に努めながら、農民闘争への対応・キリスト教の弾圧・開国を要求する西洋船の撃退・景福宮の再建・書院の整理・両班階級への課税などを行った。 ![]() しかし、大院君の政治は、朝鮮の貴族層である両班(注)たちに改革を求めるもので、反感をいだく両班たちがおり、また、大規模な土木工事は民衆の不満をまきおこした。高宗王の妃(閔妃)の一族である驪興閔氏は、反発する勢力を糾合して大院君を追い落とし、政権を手に入れた。 (注:両班とは、もともと文班と武班の2つの班に分かれていた中央支配官僚とその子孫を意味する。) ![]() ![]() ![]() 以下の文章は、呉善花著「韓国併合への道」からの引用です。 『 閔氏一派が大院君への対抗勢力として台頭することになったきっかけは、閔妃の産んだ子が亡くなり、高宗が宮廷の女官に産ませた子を、大院君が世子(後嗣ぎの王子)に指名したことにあった。これによって閔氏一派は大院君の排斥へと積極的に動き出したのである。 閔氏一派は、大院君の専制的な強圧政治に批判的な見解を持つある有名な儒学者に、その治政を激しく非難させ、それに反大院君派の勢力を同調させていった。やがて大院君の弾圧をこうむっていた両班たちもそれに唱和するようになり、轟々たる大院君非難の声が沸騰していったのである。そこには、高宗もすでに22歳になっているのだから、父王(注:正確には“王の父”)は政権を退き、国王親政とすべきだ、という理由も付け加えられていた。 』 1873年11月、大院君は病気と称して漢城(現在のソウル)郊外の三渓洞山荘に退いた。 大院君が引退すると、閔氏一族は国王を動かして大院君派をことごとく退けて、新たに閔氏派の人脈によって政府機関の要職を固めた。大院君の改革は否定され、旧来の貴族層である両班官僚の支配体制による政治が再び行われることとなった。 【閔氏の政権獲得工作】 角田房子著「閔妃暗殺」によると、おおむね次のとおり。なお、この著書の日付は、西暦の後に月日を書いているのですが、旧暦かもしれません。純宗の生年月日は旧暦でした。 ・閔氏一族は、1873年までに、30数人の同族を官界に送り込んだ。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p87) ・大院君に愚鈍であるとして蔑まれていた大院君の兄である李最応と大院君の長男である李載冕を取り込んだ。(出典:同p87-88) ・1873年10月25日、崔益鉉が大院君弾劾上疏を高宗王に提出。(出典:同p88) 「崔益鉉は、衛生斥邪運動の指導者である李恒老の一番弟子で、儒学者の間に影響力を持つ人物であった。彼は以前にも大院君を弾劾したことがあり、その経歴を閔妃一派に買われて、10月初めに副承旨(王の次席秘書官)という官職についたばかりであった。」(引用:同p88) ・これに対して、大院君派の左議政・右議政など高官が、崔益鉉を非難する上疏を呈出。これに続いて官人多数も崔益鉉を非難。(出典:同p89) ・高宗王は崔益鉉を擁護し、非難を続ける官人の一部を流配。漢城(ソウル)の儒生たちも崔益鉉を批判したが、王はこれを押さえた。(出典:同p89) ・1873年11月3日、崔益鉉は再び上疏を呈出。上疏文中に過激な言辞があるとして、崔益鉉は済州島へ流配と決定されたが、大院君派のテロから彼を守るための策であった。(出典:同p89) ・1873年11月5日、王は親政を布告。それと同時に、大院君専用出入口は閉鎖。(出典:同p89) ・大院君は、自邸である雲峴宮にひきこもった。(出典:同p90) ・1873年12月10日、閔妃の寝殿に仕かけられた爆弾によって景福宮で火災が発生、多くの建物が焼失して、王夫妻は侍従らと共に昌徳宮に移った。犯人として大院君が住む雲峴宮の身分の低い使用人が逮捕されたが、証拠がなく、迷宮入りの事件として終わった。(出典:同p91) ・やがて大院君は王宮に近い雲峴宮を去り、北門の外の三溪洞にある山荘に隠居した。さらに大院君は父南延君の墓参のため徳山郡に行き、そこから楊州郡へ従者も少ない旅を続けて、直谷山荘にひきこもった。(出典:同p91) 【大院君還宮促進運動】 大院君還宮促進運動が起こり、孝道を尽くさないとして高宗王を非難した。厳しい処罰にもかかわらず、地方の儒生たちも漢城(ソウル)に集まって種々の建白書を配布した。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p94) 【新政権の人事】 角田房子著「閔妃暗殺」によると、おおむね次のとおり。 ・大院君側に立って崔益鉉を非難した右議政・左議政は真っ先に罷免された。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p93) ・1873年11月に大院君が失脚すると、大院君系列の人々は追放・流刑・処刑等により排除され、閔氏一族の官吏30数名が高官になった。(出典: ![]() ・閔氏一族による勢道政治の幕開け。その中心は、閔升鎬と閔奎鎬である。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p94) ・閔妃は高宗王の後ろで垂簾政治を行った。(出典:同p94) ・1873年に大院君が退けられた後の体制は次のとおり。(出典:同p93) 領議政:李裕元(咸鏡道観察使(知事)から登用)→1875年に李最応へ 左議政:興寅君李最応(王族・大院君の兄) 右議政:朴珪寿(開化思想を抱いていた)→のちに金炳国へ。 ・趙大王大妃(神貞王后)の一門を厚遇。趙斗淳を元勲に、趙成夏を抜擢、趙寧夏を都総使に。(出典:同p93) ・安東金氏の一門も再浮上。金炳国はのちに右議政に。(出典:同p93) ・『南人派を含む大院君系列の人々は根こそぎ没落したばかりか、主な人々は何かの罪名を着せられて追放、流配、死刑に処された。大院君色を一掃し、彼の再起運動を可能とする土壌を一挙に切り崩す処置であった。』(引用:同p93) ![]() ![]() ・1874年、閔升鎬のもとへ爆弾が仕掛けられた小包が送られて、この爆発により家族と共に爆死した。 ・1875年、領議政になってまもない興寅君李最応(大院君の兄)の邸に放火事件が起きたが、李最応は無事だった。 ・やがて、大院君の腹心(元兵使)であった申哲均が犯人として逮捕され、拷問の末に両事件とも自分がやらせたと自白し処刑された。しかし、「梅泉野録」と「大東紀年」の二書は、申哲均は無実で、従弟(いとこ)の閔奎鎬が犯人としている。閔奎鎬は、閔升鎬の死後、一族を代表する権力者となった。(出典:同p96) 【世継ぎ問題】 ・1868年、李尚宮(李氏の女の尚宮(女官の称号)という意味)が、高宗の長男となる男子(完和君)を生む。 ![]() ・1871年、閔妃に男子が産まれるが、鎖肛(肛門が閉じている病気)のため数日後に死亡した。 角田房子著「閔妃暗殺」(p84-85) に、次のような記述がある。 『 閔妃は、はかなく世を去った我が子の霊を慰めようと、内宮で盛大な祈祷を行わせた。祈祷師を中心に数百人の巫女が集められ、銅鑼(どら)や鉦(しょう)など各種の打楽器を打ち鳴らして舞い、歌う喧噪な祈祷が夜を徹して行われ、それが十日も続いた。 さらに、“嫗尼車三座(クニチャサムザ)”という大がかりな天神地祇の神事を行わせ、また金剛山や智異山など各地の僧侶数千人に命じて大規模な祈祷を行わせた。金剛山はいま朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)領であり、智異山は韓国の南西部で、二つとも昔から霊山として名高い。これら慰霊の行事に要した莫大な費用は、ただでさえ苦しい王室の財政をさらに圧迫した。 また閔妃はいつまでも我が子の死の原因にこだわり、巫女に占わせた。その結果、「李、張など尚宮たちの呪詛、執念の祟りでございます」と告げられた。閔妃は腹心の家来を集めてそれら尚宮たちの追い出し策を練り、「外部の男との姦通」という罪名で数人に杖刑を加えさせた。 完和君の母である李尚宮はいち早く逃亡して難をのがれたが、張尚宮は残酷な杖刑に全身から血を流して、もだえ苦しんだ。そしてついに彼女は「王妃こそ、伶人の金夢龍を女装させて内殿にひき入れ、悦楽にふけっている」と叫んだ、と伝えられている。伶人とは、旅芸人一座の中で女形をつとめる看板役者のことである。』 ・「第一子の死後、閔妃は一日も早く第二子を得たいと切望し、王妃は王宮外へ出ないというしきたりを破って、自ら忠清南道の新元寺へ祈願にいった、と伝えられている。」(引用:角田房子著「閔妃暗殺」p91) 新元寺は鶏竜山の南麓にあり、新元寺大雄殿から50メートルほど離れたところに中嶽檀がある。「中嶽檀は全国で最も位の高い山神閣で、今も各地から巫女が鶏竜山に集まり、山神の霊を受けるという。」(引用:同p92) 「山神信仰は古来から今に伝わる民族信仰で、私が訪れた日も都会風の立派な服装の数人が車で乗りつけてきて、長い時間を神前にひれ伏していた。一連のシャーマニズムは山にも獣にもすべてのものに霊魂があるとして、それによって人間が守られてるというもので、昔から仏教も儒教もこの自然崇拝を排斥しなかったので、平和に共存してきたという。」(引用:同p92) 閔妃は純宗が生まれた2年後に中嶽檀を修復している。(出典:同p92) ・1874年3月25日(旧暦2月8日)、閔妃が再び男子を出産した。名は坧(チョク)、後の純宗である。 ![]() ・坧は世子と定められ、領議政の李裕元を世子冊封都監に、左議政の李最応を世子傳に任命し、盛大な祝宴が挙げられた。(出典:同p94) ・「だがまもなく、李裕元を困惑させる情報がはいった。それは−−宗主国である清国は、生母が王妃か側室かを重視せず、長幼の序列にしたがって、李尚宮が生んだ完和君を世子として認許する意向らしい、というものであった。」(引用:同p94) ・閔妃は日本に清国への働きかけを頼もうと考え、李裕元も賛成。李裕元は極秘裏に釜山にいた花房義質を訪れ、駐清日本公使の副島種臣から北京政府への口添を依頼し承諾を得たという。このとき、李裕元は「国交再開」を条件に花房に頼んだ、との説もある。(出典:同p95) ・「彼の秘密工作を探知した釜山訓導安東■[目へんに氈n(アンドンジュン)は、その真相を中央に告発した。安東■[目へんに氈nは大院君の腹心であり、東萊府使鄭顕徳と共に鎖国斥倭政策の支持者であった。この二人はやがて不正蓄財の罪名により、一人は死刑、他は流配となった。大院君系の彼らはいずれ罷免されたであろうが、日本との交渉の窓口である釜山は、こうしていち早く閔妃派の役人によって占められた。」(引用:同p95) |
(当サイト管理人による注:![]() 『(前略)そういう中で高宗は、日本との交渉経緯を初めて知ることとなったが、大院君の腹心である東莱府使と、その部下である訓導や通事らが、詐偽を以って日本と接していたことに激怒したという。 『明治7年4月17日 陪通事金福珠談 「国王、即ち其書契の謄本を看て始て積年阻隔之上を知り、諸臣を譴めて云く。我国、数百年来、礼を日本に失せず。今猶、然く思いしに、豈図らんや、其信義に反する、已に数年に及べりと。是、何等の事ぞや。諸臣、詳に陳するに依り、国王、盛怒。忽ち旧府使訓導等を法に抵し・・・」(「公文別録・朝鮮始末(三)」p93)』 これにより東莱府使鄭顕徳と訓導安俊卿は斬首刑に処され、さらし首となっている。日本との外交を誤った、ということがその理由であった。(「公文別録・朝鮮始末(三)」p93、p97)』 また通事崔在守は逃亡して捕らわれた時に服毒自殺をしている。罰は財産や家族にまで及んだ。『挙家、老初と無く、数を尽して東莱府に縛送。家財、悉く没収せられ、殊に其妻、懐胎なりしに、猶、笞鞭を加えられ、肉破れ血迸るに至ると(「朝鮮始末(一)」p125)』 朝鮮は量刑の程度が非常に重い。(例えば、女が倭館の日本人と性的交渉を持った場合は斬首されてさらし首と決められていた。(朝鮮国交通手続2 対韓政策関係雑纂/再撰朝鮮尋交摘要))それは酷いほどであり、しかも親族にまで及ぶ。 そしてそのことこそが人をして責任逃れや事なかれ主義に向かわせる要因でもあった。 』 ) |
・「李裕元は翌1875年、世子冊封使として北京へ行き、それまでの裏工作を土台に運動を続けた。その結果、閔妃の産んだ坧は清国からも世子と認められ、次代の王の座を約束された。」(引用:同p95) ・1880年、側室の李尚宮が急死。その子(高宗の長男)完和君も変死。(閔妃による暗殺説が濃厚)。(出典: ![]() 【驪興閔氏による政治】 大院君の行った政策をことごとく否定 ・書院の一部を復興。 ・両班へ課した戸布を免除。 (注:従来常民からだけ徴収してきた軍布法(兵役の代用として布を納めさせる法)を廃止して、両班からも徴収する戸布法を実施していた。) ・清銭の輸入を禁止。 (注:実質価値が二十分の一という悪貨(当百銭)を発行し、物価が急上昇して庶民の不満がつのったため、清国から銭貨を輸入して通用させていた。) ・京城(ソウル)の都城門を出入りする人にかけていた通門税を廃止。 開国政策 閔氏の政権に変わって、高宗が日本との交渉経緯を初めて知り、詐偽を以って日本と接していたとして激怒したという。これにより東?府使の鄭顕徳と訓導の安東ラ?■は斬首・さらし首、崔在守は逃亡したが捕らわれ服毒自殺した。さらに、財産没収、妊娠した妻がむち打たれたという記録まである。■いつ?明治7年(1874年)4月(by明治開化期の日本と朝鮮(6) )■ 大院君の行った強硬な鎖国攘夷政策を改め、。 【日本との外交】 日本との外交 ・大院君の引退により東?府使が交代■上か?■。 征韓論■が清国の新聞に載り、台湾の事件もあり、朝鮮は日本の出方を警戒している。 ・1874年3月、報告。 訓導は玄昔運(いつから?)、 ・1874年9月に日朝両国が交渉再開に合意(森山)し、翌1875年2月に日本の使節(外務少丞・理事官森山茂)を釜山に派遣した。朝鮮側は、大院君政権のときには文面上の文字使いや従来の形式と異なることを理由に文書の受け取りを拒否したが、閔氏政権は両国担当官が接見した際にこれを不適当であることを質す方針だった。朝鮮側はまず従来のしきたりに従い宴饗(使節を歓迎する儀式)から始めようとし、日本側に江戸時代以来の礼服着用を求めたが、森山理事官は洋式大礼服が明治政府の正式な儀礼服であると主張して拒否した。また、日本側は、中国使節だけが通行を許されていた宴饗大庁門(正式の外交使節を迎え入れるための門)の通行を要求したが、朝鮮側は認めず、交渉は進まなかった。 ・交渉が進まないため、日本は2隻の軍艦を釜山へ派遣した。同1875年5月に「雲揚」が、6月に「第二丁卯」が釜山草梁へと入港して威圧したものの交渉に大きな進展はなかった。 ・軍艦「雲揚」は釜山港を出て朝鮮半島の東海岸を測量して釜山に戻ったが、このときは交戦に至るようなことはなかった。その後「雲揚」は長崎に帰港するが、朝鮮半島の沿岸を測量しながら清の牛荘(遼東半島西北部の港)までの航路調査を行って帰路に琉球諸島の測量を行うことになった。この航海の途中、1875年9月に江華島(漢城(現在のソウル)を流れる漢江の河口にある島)へ立ち寄り、給水を求めようとしていたところ朝鮮側の砲撃を受け交戦するに至った(江華島事件)。「雲揚」は、事件のあと木の茂る無人島(勿?島■)を見つけ、そこの小川■から実際に給水している。江華島事件の詳細については、次のサイトを参照してください。 ![]() ![]() ・日本側は、釜山での交渉が進まないなかで、江華島で攻撃を受けたことから、朝鮮側の意図がわからず、対応しなかったが、日本国内では西郷隆盛の下野によって一旦収束していた征韓論が再びもちあがってきた。朝鮮側は、日本の艦船だとわからなかったため砲撃してしまったと弁明している。「雲揚」は日の丸を掲げていたが、明治政府は釜山での交渉の際に「日の丸」と日本艦船の模型を朝鮮側に渡して朝鮮内に周知と薪水補給の弁を依頼しているが、朝鮮側はまだ交渉が締結していないことから国内への周知は行っていなかったと弁明しており、また現地の者は黄色の旗を見たとしてをり日本の船だとわからなかったと釈明している。朝鮮側の資料■が見当たらない■ので真相はよくわからない。また、朝鮮側は、欧米の船については大院君政権のときから頑強に攘夷を行っていてそれをまだ改めていないが、日本については徳川幕府との交流があり明治政府とは交渉中であったから欧米の船とは取り扱いが違ったようである。しかし、朝鮮側は日本と断交するわけでもなく謝罪するわけでもなく、■か月がたった。 ・日本は、1875年12月に、黒田清隆を特命全権弁理大臣として朝鮮に差遣すること決定した。朝鮮政府は明治政府と国交を結ぶつもりがあるのか、江華島の攻撃は朝鮮政府の意志なのか、江華島事件の賠償を求める。国交を結ぶ場合には江戸幕府の例によらず近代的な方法で交易する■。 日本と日朝修好条規(江華島条約)を締結 日本から顧問を呼び寄せ、軍隊の近代化に着手した (壬午事変 【人】 閔妃(びんひ・ミンピ) 1851-1895年。第26代高宗王の妃。のちの明成皇后(ミョンソンこうごう)。 閔妃というのは、「閔氏の女である王妃」という意味であって個人名ではない。角田房子氏はその著書「閔妃暗殺」(p49)のなかで彼女の名前を「紫英」とする説を紹介しているが、定かではない。 ![]() 現在一般にいわれている閔妃の写真について、その特徴的な髪型は宮女のものであって王妃はこのような髪型はしなかったとして、この写真の人物は閔妃ではないとの主張があります。 閔妃は驪興閔氏の一族で、大院君の妃(高宗の母)が驪興閔氏一族であったことなどから、高宗の妃に選ばれた。強い後ろ盾がなかったことも選ばれた理由のひとつと思われるが、大院君を追い落とすに至り、大院君の改革的な政治を全面的に否定し、驪興閔氏を中心とする両班による勢道政治を復活させた。以後、大院君との政治的な確執が続く。 当初は、■ 『この当時の閔妃は巫堂ノリという呪術儀式に熱中し、国庫の6倍以上にあたる金額を布施により国費を浪費している。これは法外な額であり、宮廷の役人は民衆から搾取して、競って閔妃に賄賂を贈っていた。また庶民が苦しい生活をしている中、毎晩遅くまで、俳優や歌手を宮中に招いて遊興しており、起床はいつも午後で、そのため宮中の空気は「混濁腐敗」していたとも言われる。』(引用: ![]() ![]() ![]() ![]() 閔升鎬(びんしょうこう、ミンスンホ) 1830-1874年。 閔妃の父(閔致禄)の養子となり家系を継いだ。閔妃の義兄にあたる。大院君の妃の実の弟でもある。 閔氏一族による勢道政治の中心となったが、郵送された爆弾によって家族とともに死亡した。爆弾は大院君派から送られたのではないかと噂される。 ![]() ![]() 閔奎鎬 ![]() このサイトに、「閔氏政権内で鎖国を止揚し開港することを唱える開国論を主張し朝鮮王朝開港の影の影響力を行使した。 1878年10月右議政に叙任されたが、たった7日で死亡した。」との記述がある。 【LINK】 ![]() ![]() 【参考ページ】 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 参考文献 「韓国併合への道」呉善花著、文春新書、2000年 「閔妃暗殺」角田房子著、新潮社、1988年 「朝鮮史 新書東洋史10」梶村秀樹著、講談社現代新書、1977年 「クロニック世界全史」講談社、1994年 「年表式世界史小辞典」文英堂、1988年 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 更新 2012/9/23 |
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