1882年 朝鮮で壬午軍乱1873年に大院君を退けて政権を掌握した閔妃らによる朝鮮政府は、 1876年に日朝修好条規を締結し、その後日本へ視察団を派遣、1881年には日本の指導のもとに新式の部隊「別技軍」を組織した。これは、「衛生斥邪」を唱える攘夷派の儒生たちや、別技軍との待遇の差に不満を持つ兵士などの反発を招いた。 また、閔妃派と大院君派とが派閥抗争を繰り返していたが、1881年8月に起きた大院君派のクーデター(安驥永の獄)が失敗し、大院君の住む雲峴宮には厳重な監視がつき、大院君は幽閉に近い状況に置かれていた。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p107-108) 閔妃は自身の産んだ男子(第二子)坧(チョク。のちの純宗。)を世子(王の世継ぎ)とすることに成功し(1875年)、1882年1月に彼の冠礼式(元服の式)が行われ、彼の妻となる王世子嬪が選ばれて2月に冊嬪の礼式が挙げられた。閔妃は、第一子が鎖肛(肛門が閉じている病気)のために生後数日間で死亡したのを機に、大規模な祈祷や天神地祇の神事にのめり込んでいったようである。第二子(坧)の安産祈願や誕生祝い、彼が世子に認められた際や、今回の元服・結婚に際しても重臣らのほかに巫女や芸人も動員して盛大な祝賀が行われた。こうした閔妃の行いは、国家財政を大きく圧迫するとともに、これを知る人々から反発を招いていた。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p108-109) 一方朝鮮の民衆は、この年1882年の干魃(かんばつ)によって大凶作となり農村は疲弊、コレラが流行して多くの死者を出し、飢えに苦しむ人々が巷(ちまた)にあふれ、各地に盗賊が横行した。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p108-109)また、日朝修好条規の締結以降、米が輸出されて米価がはね上がるなど、貿易によって経済に変化が生じて不満を持つ人々もいた。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p114) |
(当サイト管理人の意見:勉強するにつれて、この表現には違和感を覚えるようになってきました。そのため、全面的な書き直しを行いました。 「このサイトで当初掲げていた文章」は、池田敬正・佐々木隆爾著「教養人の日本史(4)」p160-161を基にして作成し記載しましたが、この表現だと下にあげた点が不適切です。なお、引用元の著作の「壬午軍乱」についての記述は、このページのもう少し下に引用してありますので参照のこと。 @大院君が全く登場しない。 A閔妃が神事にのめり込んで国家財政を圧迫するほどの散財をして人々の怒りを買っていたことに触れていない。 B干ばつによる大凶作に触れていない。 こうしたことも踏まえて全体的に見た場合、この軍乱の主な原因は閔氏政権に対する不満であって、これに大院君派の巻き返し工作が加わった。閔氏政権が日本に接近して行った政策も攻撃の対象となったため日本公使館なども襲われた、と見るべきだと今は思います。 ) |
こうしたなかで、1882年7月23日、漢城(現在のソウル)で、兵士へ支給される給料米をめぐって兵営で騒動となった。13か月も滞っていた給料米が1か月分支給されることになったものの、給料米のなかに腐敗米・糠・石・砂などを混ぜて量をごまかしていること(当サイト管理人による注:こうしたごまかしは、しばしばあったようです。)に兵士たちの怒りが爆発して給米係を殴りつけて騒動となった。数人の兵が逮捕され、見せしめのため死刑に処すと発表されると、怒った兵士らは、担当官僚である閔謙鎬の邸宅を襲った(注:閔謙鎬はこの時、家にいなかったようです。)。その後大院君邸へ向かい、大院君に助言を求めると、大院君は「閔氏一派の重臣捕殺」と「日本公使館襲撃」を教唆し、大院君の腹心が兵士たちに加わったほか、都市の貧民たちも加わって大きな反乱となっていった。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p110-114) 都市の貧民が暴動に加わったのは、生活が苦しかったこともあるかもしれないが、第一の要因は、「兵士の多くはソウル周辺の貧民出身だった」(出典:池田敬正・佐々木隆爾著「教養人の日本史(4)」p160)ことにあると当サイト管理人は考えます。 日本公使館も標的にされた理由は、閔氏政権の日本への接近に対する攘夷派(その中心は大院君)の不満、兵士たちの別技軍に対する不満、日朝修好条規の締結以降の経済状況に対する不満などによるものである。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p114) 閔氏政権の重臣たちの邸宅が次々に襲われて、取り壊わされ放火され、十人以上の重臣が殺害された。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p115) 昌徳宮(当時の王宮)(注)が襲われ、閔妃の探索も行われた。しかし、王宮守衛武将の洪啓薫が宮女である彼の妹を閔妃の身代わりとし、洪啓薫は閔妃とともに王宮を脱出し難を逃れた。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p119-121) |
(注:壬午軍乱の時の王宮は昌徳宮である。 李氏朝鮮の開祖李成桂は1392年に開城で即位し、1394年に漢陽(漢城、現在のソウル)へ遷都し1395年から景福宮が正宮として使用された。1553年に大火によって焼失。1592年の文禄の役においても、国王が脱出したあと日本軍の入城を前に朝鮮の民衆によって略奪・放火され再び焼失。その後、離宮の昌徳宮が使用され、景福宮は約270年の間再建されなかった。 興宣大院君が景福宮の再建を行い、1868年に王宮を移した。閔妃が大院君から政権を奪った年(1873年)の12月(注:呉善花著「韓国併合への道」p124では、1876年末としている。)に「閔妃の寝殿に仕かけられた爆弾」によって出火、火災が発生して景福宮の多くの建物を焼失したため、高宗王夫婦は昌徳宮に移った(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p91)。1885年3月(出典:呉善花著「韓国併合への道」p124)に景福宮に戻り、 1895年の乙未事変も景福宮で起きている。1896年の露館播遷で高宗がロシア公使館へ逃げ込んだ後、1897年から慶運宮(徳寿宮の当時の名称)が使われた。1907年に純宗が即位して昌徳宮を王宮とする。1910年の日韓併合により朝鮮の王制が廃止され、純宗は日本の皇室となった。その後、景福宮の敷地に朝鮮総督府の庁舎が建てられた(1925年完成)。 ![]() ![]() ・角田房子著「閔妃暗殺」p91 ・呉善花著「韓国併合への道」p124 ) |
漢城市内で日本人の語学生3人と派遣された巡査3人が殺害されたほか、日本公使館も襲撃された。乱民が日本公使館を包囲し、公使館前後の民家に放火、公使館にも火を投げ込み随所に炎が上がった。最後に立てこもっていた公使館の公堂にも火の手が及ぼうとしており、守りきれないと判断した花房義質公使ら一行(28人)は公堂に火を放ち隊を作って決死の脱出を行った。その後、雨の中を逃れて仁川府に着き一時保護されるが、まもなく漢城からの連絡が届いて実情がわかると府兵たちは花房一行を襲い、日本側の死者は4人、不明2人(後に死亡を確認)、負傷5人をだした。仁川を脱出した一行は、済物浦から小舟で月尾島に渡り、イギリスの測量船に助けられて長崎へ渡った。これとは別に、別技軍の指導にあたっていた堀本礼造少尉も殺害されている。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p115-116, p124 および ![]() 長崎から日本政府へ事変の状況が電報で知らされ、日本の新聞でもいっせいに号外が出て、日本の世論は激昂した。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p124) また、この軍乱によって、失脚していた大院君が一時、政権の座に復帰した。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p121) この事件を、壬午軍乱(じんごぐんらん)あるいは壬午事変と呼ぶ。当時の日本では、朝鮮事変と呼んでいたようです。 清国政府は、日本に駐在する清国公使からの電報により朝鮮の軍乱を知った。清国にいた朝鮮の領選使金允植と問議官魚允中が8月2日に清国へ派兵を要請したことを受け、清国は日本に対し派兵することを通知するが、日本は当事国間で処理すると回答した。清国は即時出兵を決め、清国の軍艦3隻が派遣されて、8月10日に仁川に到着した。これには、清の候選道馬建忠・北洋水師提督丁汝昌、朝鮮人の金允植・魚允中らが乗っていた。金允植・魚允中らの調査で状況を把握した清国側は、本国に援軍を要請した。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p126-127, p130) 日本は、まず外務事務官の近藤真鋤らの一行を軍艦金剛で仁川に送り、朝鮮側との予備会談を始めた(8月8日?8月10日?)。8月12日に日本の軍艦4隻・輸送船3隻・陸兵1個大隊(大隊長はのちに初代朝鮮総督となる寺内正毅)とともに花房義質が日本全権として到着した。8月16日に花房らは2個中隊の兵とともに漢城(現在のソウル)へ向かい、8月20日午前10時に花房は昌徳宮で高宗に謁見。要求7か条(注:後に追加し8か条となる。)を提出して3日以内の回答を求めた。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p130-131) 8月21日(注:呉善花著「韓国併合への道」p65では、8月20日としている。)、清国の増援部隊が到着。軍艦4隻・汽船13隻、南洋水師提督の呉長慶・陸兵4000人が乗っていた。この船は仁川に入らず南陽湾馬山浦に入り、陸兵を漢城に進めた。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p131) 8月23日朝、朝鮮側が日本の要求をのまないことがわかった花房は、断固たる対応をとるとして仁川への引き上げを開始。朝鮮政府の急使が和議妥協の用意があるとしたが具体的な内容はなく、花房はそのまま仁川へ向かった。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p132) 大院君は日本との一戦も辞さずとの構えだったが、閣僚は意のままに動かず、清国も対日戦に踏み切る様子をみせないことから、大院君は仁川にいる清国の馬建忠(清国の候選道。国際公法学者で外交畑。)に書簡を送って調停を依頼した。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p132) 仁川に退いた花房は、最後通牒を仁川府使を通して朝鮮政府に送った。一方、馬建忠は花房に会談を求めて、翌日(24日)会談した。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p132-133) ![]() 『 馬建忠は間に立って何とか調停をしたい様子であった。しかし花房はそれを謝して訓条の通りにそのことは断り、且つここに至った経緯を説明した。 馬は、朝鮮政府内を整理して大院君を斥けるつもりであるからしばらく帰国を待ってもらいたい、朝鮮の内政に干渉するといえども友誼を以ってするのであって、属国としてするのではない、と言い(ものは言いようだが干渉であることに変わりはない。)、今日は花島の別将営に泊まることを告げた。』 清国は、8月26日に大院君をとらえて南陽湾に停泊中の清国軍艦に乗せて天津に連れ去ったのち、北京の南西にある保定(注)で拘留した。3年後に許されて帰国している。大院君派は政権から除かれて、拘留、流罪、死刑などに処された。また、約3000人の清国軍が乱を起こした兵士たちの討伐を展開し、8月29日頃までに暴動を鎮圧した。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p112-114およびp118-136、呉善花著「韓国併合への道」p66、および、 ![]() |
(注:大院君の幽閉先について、天津とする文献と保定とする文献がありますが、角田房子著「閔妃暗殺」では、天津に連れ去りそこで李鴻章が審問を行った後に保定へ移して拘留したとしており、ここではこの説を採用しました。) |
日本と朝鮮は、8月30日に済物浦(さいもっぽ)条約を締結。その主な内容は、次のとおり。 @20日以内に、加害者の逮捕と処罰を行う。期日内に出来ない時は日本が行う。 A死亡した日本官吏は、礼を尽くして埋葬し、厚く弔う。 B5万円を、日本人犠牲者の遺族と負傷者に支払う。 C50万円を朝鮮国が補填する。毎年10万円の5年払い。 D日本公使館は、日本兵若干名を置いて警護する。 E国書を以て日本に謝罪する。 (出典: ![]() なお、次の2か条は済物浦条約に含めず、日朝修好條規附録の「続約」と規定して別条約として締結した。 @元山・釜山・仁川での遊歩規定を50里(朝鮮里)とし、2年後に100里とする。1年後に 楊花鎮に市場を開く。 A日本国公使・領事・その随員眷属などが内地各所に遊行できるを任聴す。遊歴地方を指定し礼曹より証書を給し、地方管証書を験しめ護送す。 (出典: ![]() ・朝鮮の謝罪 ・50万円の賠償 ・遺族補償 ・清国と同様に日本の常時駐兵権を認める |
(注:「巨済島または鬱陵島の割譲を要求」という記述については、池田敬正・佐々木隆爾著「教養人の日本史(4) -江戸末期から明治時代まで-」(社会思想社 教養文庫、1967年)p160-161を基に当サイト管理人が記述したものですが、調べていくと、引用元の記述も不適切で誤解を生む表現になっているのですが、それを受けて当サイトで誤った記述をしてしまったことが判明しました。当サイトでの調査が不十分であったことを反省するとともに、深くお詫びいたします。この引用元の著作の「壬午軍乱」についての記述は、もう少し下部に引用してありますので参照のこと。 この下に記載した「巨済島または鬱陵島の割譲についてのまとめ」と、壬午軍乱について勉強し直してこのページに記載した内容を踏まえると、当サイトで当初掲げていた文章の誤っている点は次のとおり。 @「日本政府が巨済島または鬱陵島の割譲を要求した」という表現は誤りでした。この要求を行うのは、「朝鮮政府に過失重大の事情あるとき」(朝鮮政府が乱を起こしている場合など)であり、実際にこの条件に当てはまらないと判断されたため、朝鮮側に提出した要求文書にはこの内容は含まれていません。 A「清国軍とアメリカの軍艦派遣による牽制のため、領土の割譲はあきらめて」という表現も誤りで、清国やアメリカの牽制があったためではなく、日本側が自ら要求しなかったものです。 Bアメリカによる牽制はなかったと思います。 C済物浦条約の内容で「50万円の賠償」と書きましたが、朝鮮側の要請により「賠償金」という語は条約のなかで使わなかった。 D済物浦条約の内容で、「清国と同様に日本の常時駐兵権を認める」と記したのも不適切でした。清国は「清国朝鮮商民水陸貿易章程」を結んで朝鮮を属国として支配し清国兵約3000人を駐留させて漢城を制圧下に置いたのに対し、日本の兵は単に日本公使館の守備兵です。「清国と同様に」では全くありません。 (注:CとDの記述の引用元がどこだったのか確認中です。) また、引用元の池田敬正・佐々木隆爾著「教養人の日本史(4) -江戸末期から明治時代まで-」の記述で不適切な点は、次のとおり。 @『日本政府は緊急閣議を開き、朝鮮政府の謝罪や被害者遺族への扶助料支給、巨済島または鬱陵島の割譲などの強硬方針を決め、』と記述しているが、日本政府の方針は、できれば平和的に解決する方針であって、もし朝鮮政府に誠意がない場合には武力を使った断固たる処置も考慮のなかにある、というものです。これを単に強硬方針と言ってしまうのは誤りです。 A「巨済島または鬱陵島の割譲」は、「朝鮮政府に過失重大の事情あるとき」(朝鮮政府が乱を起こしている場合など)という条件付きであって、この条件に全く触れずに引用している。 B『しかし、閔妃一派は清国に派兵を要請したので、清国軍は三〇〇〇名の大軍を送って暴動を鎮圧し、日本の侵略計画に対抗、アメリカも軍艦を派遣して日本を牽制した。』と記述しているが、日本政府に侵略計画はなく、あったのは場合によっては発動されるかもしれない「強償の処分」の計画である。清国は日本の侵略計画に対抗したのではなく、日本を退けて朝鮮を属国にしてしまったのである。アメリカも別に日本を牽制していない。 C『結局日本政府は領土分割をあきらめ、』と記述しているが、あきらめたのではなく、日本側が自ら要求しなかったものです。 こういった歪曲が、反日的思想や左翼的思想を持った日本人・朝鮮人の学者・著作家・マスコミ・知識人たちによって、頻繁に行われていることが解ってきました。事実をゆがめており、日本が悪いとする自虐史観によって歴史を描写しています。特に、日本は一貫して朝鮮を侵略するために行動していたとする誤った前提を置いていて、この方針に合うように歴史を記述していると思います。 朝鮮関係を詳しく書いた資料が他に見当らなかったため、当サイト管理人もだまされてしまいました。 ) 「巨済島または鬱陵島の割譲」についてのまとめ ![]() 難を逃れて日本に戻った花房公使を朝鮮政府と交渉させるために再び朝鮮へ向かわせる際に、日本政府が花房公使にどのように対応すべきかを指示した訓条がある。この訓条では、『この非常の変に際し両国の為に紛難を解き更に和平の大局を全くし又我が国旗の辱めを回復し相当の処分を得て以って我が臣民の心を満足せしむるは実に使臣の大任とす。』としており、できれば平和的に解決する方針を示しているが、もし朝鮮政府に重大な過失がある場合には武力を使った断固たる処置も考慮のなかにある。そして、この訓条が作られた時点では、朝鮮政府がこの乱にどのように係わったかが日本政府には解っていないため、次の5つのパターンを示してどのように交渉・対応するか訓示している。 その5つのパターンは、次のとおり。 ○乱が朝鮮政府に対する暴動である場合 ・第一 政府はすでに兇徒を誅鋤したるとき。 ・第二 政府と兇徒と未だ勝敗の局を分かたざるとき。 ○乱が朝鮮政府に対する暴動ではなくて、単に日本官民に対する暴動である場合 ・第一 朝鮮政府は日本に対し不良の心なしと雖もその防禦の力及ばざるに出たるとき。 ・第二 政府は兇徒の暴動を知覚しながら防遏を怠り又は事後の処分を怠り交際の親誼を忘却したる事蹟あるとき。 ・第三 政府は兇徒と一致したる時、例えば政府又は当局者より兇徒を教唆したるの証あるとき。 この5つのパターンを基にそれぞれの対応方法が訓示されているのであるが、最後のパターン(朝鮮政府が乱を起こしている場合)について、『第三の場合に於ては、我が弁理は極めて激迫なるを要し、強償の処分に出、平和処分の範囲の外に在るは避くべからざるの事機なりとす。』としている。「強償の処分」とは、武力をもって強制的に償いをさせるということだと当サイト管理人は考えますが、この対応を取る場合にも国際法に違反しないかどうかを日本政府は慎重に検討しているようです。「強償の処分」のなかに「巨済島又は鬱陵島の譲与」が含まれると思いますが、朝鮮政府の状況はこのパターン(朝鮮政府が乱を起こしている場合)とはみなされなかったので、「強償の処分」は実施されませんでしたし、朝鮮政府に要求もしていません。 それぞれの対応方法が訓示された後に、朝鮮政府に対する要求文書が示されている。その内容は、次のとおり。 『 朝鮮政府に対する要求の件 第一 朝鮮政府は其の怠慢の責に任じ我が国に向かいて文書を以って謝罪の意を表し並びに左の件々を履行すべし。 第二 我が要求を受けしより十五日内を期し兇徒の党類を拿捕し我が政府の満足する厳重の処分を行うべし。 第三 遭難者の為に相当の贍恤を為さしむべし。 第四 条約違犯及び出兵用意の費に対し賠償をなすべし。賠償の高は我が準備の実費に準ずべし。 第五 将来の保証として朝鮮政府は今より五年の間、我が京城駐在公使館を守衛する為に充分なる兵員を備うべし。 第六 我が商民の為に安辺の地を以って開市場となすべし。 第七 以下三条口授に付す。 [もし朝鮮政府の過失重大の事情あるときは]巨済島又は松島を以って我が国に譲与し謝罪の意を表せしむべし。 第八 [もし朝鮮政府中兇徒を庇護するの事跡ある主謀者を見出すときは]政府は直ちに其の主謀者を免黜して相当の処分をなすべし。 第九 彼の情状至重の場合に於ては強償の処分に出るは臨機の≠ノ従う。 』 (出典: ![]() 問題なのは第7条で、「巨済島又は松島の譲与」という記述があります。この時の「松島」は現在の「欝陵島」を指します。ただし、第7条から第9条の3つは、どのような場合に要求するか条件つきであって、それゆえ「以下三条口授に付す」と記されている。第7条の条件は、[もし朝鮮政府の過失重大の事情あるときは]、である。この条件に当てはまらないと判断されたため、花房公使が実際に朝鮮側に提出した要求文書に、この第7条は入っていない。 また、この訓条に添えられた参議山縣有朋の意見書は次のとおで、「強償の処分」を行う際に国際問題とならないよう検討されている。太字は当サイト管理人による。 『 談判激迫の際に至れば、我が軍隊をして開港所を占拠し或いは時機により要衝の諸島を占領して以って要償の抵当となすこと、公法上の許すところなるべし。右は外務卿臨機委任の範囲にして花房公使への訓条中にすでに具載するところなれども、果たして右強償の処分を実行するに至るときは、我が軍艦の将官より清米英三国の軍艦、朝鮮港に駐屯せるの将官に強償処分の公告を送ること必要なりとす。 依りて別紙ボアソナド氏に命じ試草せしむるところの文案を以って外務卿より花房公使に内授し、臨機の用に充つべし。 但し右は海軍卿よりあらかじめ軍艦将官へ下付すること当然なりと雖も、事専ら談判の時機に関わるに由り公使に内授せられ、臨機に将官に交付し施行することしかるべきかと。 明治十五年八月七日 参議山縣有朋 』 (出典: ![]() 池田敬正・佐々木隆爾著「教養人の日本史(4) -江戸末期から明治時代まで-」(社会思想社 教養文庫、1967年)p160-161に、次の記述がある。 『壬午軍乱 日本銀行条例が公布されてほぼ一カ月後の一八八二(明治一五)年七月二三日、朝鮮の日本公使館は五〇〇〇名にものぼる軍人と貧民にとり囲まれた。日本資本主義が本格的に発展する体制を整えた矢先に、朝鮮で反日運動が突発したことは、両者の関係の深さを示している。 事件は軍人暴動にはじまった。兵士に対して、給料の米が一〇カ月あまりも支給されず、やっと一カ月分与えられると量が不足し、砂や糠が混ぜられていた。倉庫番が米を横流ししていたためである。兵士が倉庫番をなぐると、上官の閔謙鎬が兵士に死刑をいい渡した。それに憤慨した兵士が暴動を起こしたのである。暴動が反日運動に発展した原因は、江華島条約以来の日本の侵略政策にある。当時、朝鮮から日本に輸入されていたものの八割までが安く買い付けた米であった。日本は高級米を輸出し、安価な米を輸入していたのである。それは資本家や地主の利益になった。そのため各地で米価が暴騰したが、とくにソウルでは二、三倍にはね上がった。倉庫番が米をぬすんだのは、この機会に一もうけしようとしたからである。米価の値上がりは、貧農や市民の生活を脅かしたが、とりわけソウルの貧民に対する影響は大きかった。彼らは日本の公使館員や商人に石を投げつけるほど、恨みをつのらせていた。兵士の多くはソウル周辺の貧民出身だったので、強い反日気分をいだいていた。また、国王と閔妃一派が国内改革の一つとして別技軍という新式軍隊を組織し、日本の陸軍少尉堀本礼造を軍事顧問として訓練に当たらせていたが、他方で旧式軍隊をはなはだしく差別した。これに対しても兵士は強い不満をいだいていた。だから暴動がいったん始まると、矛先が閔妃一派の重臣に向けられるだけでなく、日本公使館へも向けられたのである。またソウルの貧民が呼応したのも当然である。暴動に手の施しようのなくなった花房義質公使ら一行は、自ら公使館に火を放って仁川に逃れ、イギリスの測量船に救助されて長崎に逃げ帰った。堀本少尉ほか数名の日本人は殺害された。 日本政府は緊急閣議を開き、朝鮮政府の謝罪や被害者遺族への扶助料支給、巨済島または鬱陵島の割譲などの強硬方針を決め、八月中旬軍隊一五〇〇名と軍艦四隻をひきいた花房公使に交渉させた。しかし、閔妃一派は清国に派兵を要請したので、清国軍は三〇〇〇名の大軍を送って暴動を鎮圧し、日本の侵略計画に対抗、アメリカも軍艦を派遣して日本を牽制した。結局日本政府は領土分割をあきらめ、朝鮮の「謝罪」や五〇万円の賠償、遺族補償などを定めた済物浦条約を結んで事を終わらせた。』 ![]() ![]() ![]() |
王宮を脱出していた閔妃は、乱の時にかくまわれていた閔応植の屋敷から、一人の巫女を伴って王宮へ戻った。王宮に祭壇と祈祷所を設け、彼女を祭主として祭祀を行なわせた。この巫女は大霊君と号されるようになり、各地から祈祷師や巫女などが集まり、国費は惜しみなく費やされた。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p74-77 ) この壬午軍乱のあと、清国は3000名の軍兵をそのまま漢城(現在のソウル)に駐留させて軍事制圧下においたが、漢城各所で乱暴狼藉が行われ、ついには清国軍が特別風紀隊を編成して自国軍兵士たちの取り締まりを行なったほどであった。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p67-69) また、1882年(明治15)10月に、清国は李朝との間に「清国朝鮮商民水陸貿易章程」を調印し、そこでは朝鮮が清国の属国であることが明記され、清国が朝鮮との貿易上の特権を独占することを規定している。この章程によって、中国人は漢城と楊花津で倉庫業・運送業・問屋業を兼営する店舗(桟)の営業権をもつことになり、また清国が事実上の領事裁判権をもつことにもなった。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p67-68) さらに、清国の推薦により外交顧問として馬建常(馬建忠の兄)とメレンドルフ(ドイツ人)(注:呉善花著「韓国併合への道」では、「メルレンドルフ」となっている。)が派遣され、中国式の近代化としての軍制・官制の改革が行われて、中国式の朝鮮陸軍も養成した。こうして清国は朝鮮に対して、古代的な宗属関係から近代的な帝国主義支配への一歩を踏み出した。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p67-68) 『 日本にとって決定的だったことは、清国の朝鮮干渉の強化によって実質的に日朝修好条約(注:原文のママ)の意義がほとんど吹き飛んでしまったことである。』(引用:呉善花著「韓国併合への道」p70) また、清国と日本の間で緊張が高まっていった。日本では12月に「軍拡八カ年計画」を決定し、清国では翰林院の張佩綸が「東征論」(日本討伐論)を上奏した。(出典: ![]() 【日朝修好条規締結(1876年)以降の朝鮮】 (時系列) ・1876年2月、日朝修好条規の締結。 ・1876年5月、日朝修好条規締結の際の日本全権団の来訪に対する答礼という名目で(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p106)、第一次修信使を日本へ派遣した。正使は金綺秀。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p56) ・1880年、日朝修好条規に基づき、元山港を開港。(仁川港の開港は1883年。) ・1880年7月、金弘集(=金宏集)を正使とする第二次修信使を日本へ派遣。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p56) この時、東京にあった清国の大使館を訪れ、黄遵憲の書いた『朝鮮策略』を贈られ,た。その主旨は清国・朝鮮・日本は団結してロシアの侵略を防ぐべきだというものである。この書籍は高宗王に献じられ、朝鮮で一般にも公開された。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p106-107) 「日本の外務卿井上馨も金弘集に対して、朝鮮にとっての脅威がロシアであり、李朝は欧米諸国に門戸を開くべきであると説き、日本はそうした情勢を踏まえて李朝との関係を考えていると述べている。」(引用:呉善花著「韓国併合への道」p57) ・「高宗と閔妃は視察団の報告によって日本の近代化を具体的に知り、また『朝鮮策略』に影響を受けて、いっそう門戸開放に傾いた。」(引用:角田房子著「閔妃暗殺」p107) ・一般に公開された『朝鮮策略』は、朝鮮の儒生たちの反発を招いた。その発端は「嶺南万人疏」である。「嶺南」は現在の慶尚南北道を指し、「万人疏」は多数の儒生たちの上疏を意味する。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p107)ある儒生は、斧をかついで王宮の門前に座り込み、「上疏が入れられないのならば、この斧でわが首をはねよ」と主張したという。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p58) ・1881年5月、魚允中ら62名の紳士遊覧団を日本へ派遣した。うち3人が初の日本留学生となる。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p56)朝鮮国内では開化派に対する反発も強く、紳士遊覧団は国内巡察の名目で釜山に集結してひそかに船に乗り込んだという。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p58) ・『閔氏政権は1881年に、開化派官僚の主導で官制の一部を近代的に改革した。統理機務衙門を設けて12司をおき、翌1882年には12司をさらに7司としている。中国式の改革だが、いわば内閣と各省庁に相当する役割を定めた、と言ってよいだろう。』(引用:呉善花著「韓国併合への道」p59) 統理機務衙門のポストはことごとく閔氏一族とその影響下にある者たちによって占められていた。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p59-60) ・1881年5月、朝鮮政府は大幅な軍政改革に着手した。軍事顧問(日本の堀本禮造少尉)を招き、その指導の下に旧軍とは別に新式の編成で新式の装備を有する「別技軍」を組織。隊員も両班の子弟が中心だった。日本の指導のもとに西洋式の訓練を行い、日本にも留学させた。(出典: ![]() 別技軍は、日本が献納した新式小銃で武装する小銃部隊で、王直属の親衛隊である武衙営に所属させた。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p61) なお、教練所長は閔妃の実家の甥に当たる閔泳翊、助教に禹範善(彼はのちに乙未事変に関与することになる。)、名門両班の優秀な子弟100人(注:呉善花著「韓国併合への道」では、80人となっている。)を選んで、洗剣亭の外平倉で教練を行った。給与も格段によく、整った服装で日本式教練を受ける姿は、旧軍の兵士たちに憤懣をつのらせた。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p110-111) ・別技軍について、呉善花著「韓国併合への道」(p61) から引用。 『 従来からの軍卒二千数百名は旧式の火縄銃で装備した旧軍兵士たちで、大半は小部隊に分けられ各州に配備されていた。彼らはなんら新しい装備も訓練も与えられることなく、待遇も新式の別技軍の軍卒たちとは大きな差をつけられていた。また、五営あった軍営が統廃合されて二営となり、多くの軍人たちが退役を余儀なくされてもいた。 当時の朝鮮の人口1300万人に対して、軍隊がわずか二千数百名しかいなかったことには驚かされる。人口が半分にも満たなかった高麗朝期ですら、中央軍は4万5000名を数えていたのである。自力で自国を防衛することなど、夢のまた夢の状態にあったことがわかる。 軍営の統廃合と別技軍の新設は、旧軍兵士たちには、突然訪れた災厄以外の何ものでもなかった。それは近い将来、近代的な訓練を受けた軍人たちが彼らにとって代わることを意味したからである。実際、彼ら旧軍兵士たちは新編成の別技軍よりも劣悪な待遇下におかれ、しかも俸給米の給料が一年近くも滞っていた。そのため彼らの間では、閔氏政権への不満がいつ爆発してもおかしくないほどに高まっていた。』 ・1881年8月、安驥永の獄が起きた。大院君の妾腹の息子李載先(高宗の異母兄にあたる)の腹心であった安驥永は、部下たちと共にクーデターを計画したが、密告によって発覚し逮捕された。クーデターの内容は、閔妃を含む数人を殺害し、大院君を復活させ、高宗を退位させて李載先を王位につけるという計画であった。密告者が誰なのかについては3つの説がある。@広州将校の李豊来、A大院君の長子で閔妃派の李載冕、B大院君がクーデターの失敗を予測した時点で計画を暴露し李載先に自主を命じたとする説。 李載先は逮捕(一説には自主)され、一時は流配と決まったが、強行に反対する大臣たちによって「賜薬の刑」に処せられた。大院君の住む雲峴宮には厳重な監視がつけられた。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p107-108) 『閔妃はこの事件を利用して、衛生斥邪を唱える儒生たちを弾圧し、有利な立場を築いた。王夫婦はますます開化派に傾いていった。』(引用:角田房子著「閔妃暗殺」p108) 閔氏政権はこの事件の関係者30余人を死刑に処したため、開国に反対する儒学徒や大院君派の反発はいっそう強まった。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p59) ・1881年10月、趙秉鎬を正使とする第三次修信使を日本へ派遣した。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p56) ・1881年11月、金允植が領選使となり軍機習学生を引率して、清国・天津へ派遣された。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p56) ・王宮での饗宴について、角田房子著「閔妃暗殺」(p108-109) に、次の記述がある。なお、王世子の坧(チョク)は、のちの純宗である。 『 謀反事件(注:安驥永の獄のこと)の余派もいちおう収まった1882年(明治15年)1月、数え年で9歳になった王世子坧の冠礼式(元服の式)が行われた。それに続いて、有力な高官である閔台鎬の11歳の娘が、のちの王妃として王世子嬪に選ばれ、2月に冊嬪の礼式が挙げられた。閔氏勢道政治の永続を図る閔妃の布石である。 冊嬪の礼式に続いて、王宮では文武百官の饗宴が数日にわたって行われ、その間に宮中祝儀の多寡によって大小官吏の就任が決まり、賄賂で大罪が減免された。全国から集まる祝いの品々は王宮の奥に山と積まれ、日本政府からも慶祝の国書と共に山砲二門と小蒸気船一隻が贈られた。 その後も王夫婦は毎夜のように宴を催し、夜を徹して歓楽を尽くした。謀反事件で大院君を幽閉同様の境地に追いやり、儒生たちの弾圧にも成功した閔妃は得意の絶頂にあった。胸一つに包みきれない勝利の喜びは、王をうながして夜ごとの宴となり、自己の力と運の強さに酔って、彼女の驕慢はつのる一方であった。 宮門は閉ざされず、王宮は不夜城と化した。多くの巫女や芸人が集められ、歌舞に長じた家臣が優遇されて王夫婦の身近に仕え、一回の占い、一曲の歌に莫大な金や高価な品が与えられた。高宗と閔妃は夜が明けるころ寝所にはいり、昼すぎまで姿を現わさない。政務や謁見は夕刻近くになるのが常で、貴族や高官たちの生活もこの時間帯に合わせて営まれた。 この年は干魃(かんばつ)による大凶作で農村は疲弊し、またコレラの流行で多くの死者が出た。飢えに苦しむ人々が巷(ちまた)にあふれ、各地に盗賊が横行した。しかし国庫は蕩尽し、貢米倉庫はカラで、政府の救済事業など思いもよらなかった。こうした社会を背景に閔氏一族の栄華はいっそう人々の目をひき、怨嗟の声を集めたが、その的は勢道政治の中心に座し、不夜城と化した王宮で歓楽を尽す閔妃に絞られていた。』 ・1882年3月、国王高宗の内命で青年官僚金玉均を日本視察に派遣した。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p57) ・斥邪派と開化派(開化派はのちに事大党と独立党に分かれる)について、 ![]() 『 朝鮮政府内で開国・近代化を推進する「開化派」と、鎖国・攘夷を訴える「斥邪派」との対立がつづく中、日本による第二次琉球処分(注:琉球藩での廃藩置県)が朝鮮外交に大きな影響を与えた。日本の朝鮮進出と属国消滅を警戒する清が、朝鮮と西洋諸国との条約締結を促したのである。その結果、朝鮮は、開国が規定路線になり(清によってもたらされた開化派の勝利)、1882年5月22日(光緒8年4月6日)、米朝修好通商条約調印など米英独と条約を締結した。しかし、政府内で近代化につとめてきた開化派は、清に対する態度の違いから分裂してしまう。後記のとおり壬午事変後、清が朝鮮に軍隊を駐留させて干渉するようになると、この清の方針に沿おうとする穏健的開化派(事大党)と、これを不当とする急進的開化派(独立党)との色分けが鮮明になった。党派の観点からは前者が優勢、後者が劣勢であり、また国際社会では清が前者、日本が後者を支援した。』 ・1882年5月22日、アメリカと修好通商条約を締結。(注:日朝修好条規の6年後) その後、イギリス・ドイツ・ロシア・フランスなどとも条約を結んでいった。 1883年11月26日、イギリス。 1884?年11月18日?(1883?年11月26日?)、ドイツ。(注:確認中) 1884年6月25日、ロシア。 1886年6月4日、フランス。 1888年8月20日、露朝陸路通商条約の締結。(朝露陸路通商章程ともいう。) 1899年9月11日、清国。 (出典: ![]() ![]() ・1882年7月23日、壬午軍乱。 【壬午軍乱の概要】 乱の発生 閔氏政権に対する不満が高まっていくなかで、1882年7月23日、漢城(現在のソウル)で兵士らによる反乱が発生した。朝鮮兵士への給料米が13か月も滞っていたが、1か月分が渡されることになったものの、給料米のなかに腐敗米・糠・石・砂などを混ぜて量をごまかしていること(当サイト管理人による注:こうしたごまかしは、しばしばあったようです。)に兵士たちの怒りが爆発して給米係を殴りつけて、兵営で騒動となった。この知らせを聞いた担当官僚の閔謙鎬が捕盗庁に命じて主だった数人の兵を逮捕し、見せしめのため死刑に処すと発表した。彼らを救うために、兵士らは閔謙鎬の邸宅へ押しかけてそこでも乱闘となり、邸内へなだれ込んで家具・調度を打ち壊して引き上げた(当サイト管理人による注:この時、閔謙鎬は邸宅にいなかったようです。)。彼らはその後大院君邸へ向かい助言を求めたが、大院君は閔氏一派の重臣捕殺と日本公使館襲撃を教唆し、兵士たちのほかに都市の貧民層(注)も加わって大きな反乱となっていった。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p110-114)。 |
(注:呉善花著「韓国併合への道」p62では「下層市民」と呼んでいる。) |
都市の貧民が暴動に加わったのは、生活が苦しかったこともあるかもしれないが、第一の要因は、「兵士の多くはソウル周辺の貧民出身だった」(出典:池田敬正・佐々木隆爾著「教養人の日本史(4)」p160)ことにあると当サイト管理人は考えます。 日本公使館が標的にされた理由は、大院君らの主導する「衛生斥邪」をスローガンとする攘夷運動と連動させるためと、日朝修好条規を締結してから米が輸出されるようになり米価が三・四倍にはね上がり庶民の生活が苦しくなっていたこと、日本からの主な輸入品が綿布・雑貨であるため朝鮮の綿作・手織業が衰退したこと、朝鮮に石けんがなかったため日本製の洗濯石けんが大人気となったが日本人商人が「次の収穫期に米で払えばいいから」と気前よく石けんを売って暴利をむさぼったことなどに対して、市民の不満があったことにある。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p114)。 乱の状況 ・呉善花著「韓国併合への道」(p62) から引用。 『 途中から別技軍までが暴動に加わり、軍兵たちは官庁、閔氏一族の屋敷、日本公使館などを襲撃して王宮に乱入した。このとき閔妃は王宮から脱出したが、領議政(総理大臣)の李最応や閔謙鎬をはじめ数名の閔氏系高級官僚が殺されている。また、王宮内にいた日本人教官の堀本礼造少尉も殺害された。その他、語学留学生、巡査など数名の日本人が暴徒に殺害されている。』 ・別技軍を襲って軍事顧問であった日本の堀本禮造少尉を殺害。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p115) ・領議政となっていた李最応(大院君の兄。閔妃派についていた。)の邸宅を襲い彼を斬殺した。これに続いて、閔氏の諸家を次々に襲い、取り壊し・放火・殺害を行った。閔謙鎬はいち早く王宮に逃げ込んで難を逃れた。殺害された重臣の数は十を越える。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p115) ・西大門外の京畿監営の武器庫を破って武器を奪い、日本公使館へ向かった。公使館へ銃弾や石が投げ込まれた。日本側は公使館に火を放って、銃を乱射し刀をふりかざして門外へ出ると、軍兵と貧民の反乱隊が襲いかかったが、そこには大荷物を背負った避難民の群れもひしめき大混乱となった。花房公使とた公使館員たちは、血路を開いて脱出した。一行は降り出した雨のなか、仁川を目指した。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p115-116) ・夜になっても、政府要人の邸宅の襲撃は続いていた。各方面で火の手が上がった。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p116) ・高宗王の急召を受けて、大院君が昌徳宮(この時の王宮)へ参内した。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p118) ・翌24日未明(大院君参内の直後)(注)、乱軍の一隊(指揮官は大院君の腹心である金泰煕)約3000人が敦化門を破って昌徳宮(この時の王宮)へ突入した。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p119) |
(注:![]() 『続いて、公使館雇いの朝鮮人が外から帰って来て告げるのに、「今、乱民数百が王宮に入り、閔台鎬、閔謙鎬の邸宅を襲い、家屋を破壊している。」と。』 ) |
・昌徳宮へ逃げ込んでいた閔謙鎬を内庭に連れ出して斬殺した。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p119) ・昌徳宮へ突入した一隊は、閔妃の居場所を捜索していたが発見できなかった。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p119) ・王宮の守衛武将洪啓薫が、宮女である彼の妹を身代わりにして、閔妃と服を交換させ、閔妃を輿に乗せて王宮からの脱出を図った。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p120) ・閔妃の脱出の状況について、角田房子著「閔妃暗殺」(p120-121) から引用。 『 輿は洪啓薫に守られてかつぎ出されたが、先をあらそって逃げ出ようとする王宮の雑役夫や宮女たちにはばまれて、なかなか進めなかった。突然、乱軍の兵二、三人が輿に近づき、手荒く戸をあけた。閔妃は袖で顔をかくしていたが、兵の太い手が伸びて遠慮会釈なくそれをひきはいだ。だが王妃の顔を知っている者はない。駆けよった洪啓薫が「妹の洪小宮だ。逃がしてくれ」と頼み、閔妃を輿から出して、背に負った。 目指す宮門のあたりから、絶えまなく殺気だった喊声が聞こえてくる。軍兵だけでなく、多くの貧民が群がっているらしい。厚い人垣をとても輿でっは突破できないと判断した洪啓薫は、後ろへまわした両腕でしっかりと閔妃の体を支え、小走りに走り出した。おそろしさに気を失っているような姿勢で、閔妃は彼の幅広い肩に顔を埋めていたが、常に自分の運の強さを信じる彼女は恐怖など感じてはいなかったであろう。 閔妃は王宮からの脱出に成功した。』 大院君の復権 ・角田房子著「閔妃暗殺」(p121) から引用。 『 高宗は大院君に全権を委任した。執政としての大院君の復活であり、衛正斥邪派の勝利であった。 国王の詔勅が発布された。その中で王は、「かくの如き未曾有の変を招来した」不徳、不明を国民に詫び、「今後の政令はすべて国太公の指揮に従うべきこと」と述べている。大院君の文案を、王宮の第一秘書官が書いたものである。 大院君が再び執政となったという知らせは、この時もなお王宮を占領していた軍兵たちを狂喜させた。』 ・しかし、大院君が軍兵らの解散を命じても、閔妃を捕らえるまでは王宮を去るわけにはいかないと主張して応じない。ついに大院君は、閔妃は死んだとして閔妃の国葬を行うと発表した。これにより、軍兵たちは昌徳宮(王宮)を去ったものの、閔妃の遺骸が見つかっていないことを知る廷臣たちの反発を招くことになってしまった。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p121-122) ・国葬の準備が進められるなか、大院君は政府内の親日色・閔妃色を一掃しようと努めるほか、牢獄や配流先からかつての有力な部下たちを連れ戻して政府の重要な地位を与えた。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p122-123) 日本公使館の状況 ・日本公使館へ暴動の情報が入りだしたのは、23日午後3時ころ。 日本人の語学生3人が南大門のあたりで暴徒から殴打されたとの情報もあり、巡査3人を派遣したが帰ってこなかった。この語学生は、陸軍語学生岡内格(於京城戦死23才)、同池田平之進(於京城戦死21才)、私費語学生黒沢盛信(於京城戦死28才)の3人。派遣された巡査は、二等巡査川上堅輔(於京城戦死27才)、同池田為善(於京城戦死28才)、三等巡査本田親友(於京城戦死22才)の3人。 公使館雇いの朝鮮人は皆逃げ去って一人もいなかった。 日本公使館を守るための朝鮮政府の兵は来ない。 公使館は乱民に取り囲まれて防戦していた。剣や銃を使える者は、総勢28名のうち10余名。 乱民は公使館前後の民家に放火、公使館にも火を投げ込み随所に炎が上がった。 最後に立てこもっていた公使館の公堂にも火の手が及ぼうとしており、守りきれないと判断した一行(28人)は、夜12時ころ、公堂に火を放ち隊を作って公使館を脱出、血路を開いて大路に出る。このとき20人余の乱民を斬りつけたとみられる。乱民は萎縮して敢えて近づかず、遠くから瓦礫を投げるのみであった。一行のうち1人が軽症を負ったが、28人は全員無事であった。 公使館を脱出した一行は、まず京畿観察使の営に行ったが館員は誰もおらず、再び大路に出て南大門に行く。門将を呼ぶが答えず、鉄の扉は厳重で外から開けることは出来ない。しかたなく、楊花津に向かう。雨が降り始めて、衣服が濡れた。 24日未明、楊花津に到着。約1時間後、仁川府に向けて出発。漢江を渡る。雨が激しくなり雷も鳴った。午後3時ころ、仁川府に到着した。 (出典: ![]() ・日本公使館を脱出した花房公使一行は、豪雨に打たれながら仁川に到着、仁川府使の手厚い保護を受けたが、まもなく漢城(現在のソウル)からの連絡が届いて実情がわかると府兵たちは花房一行を襲い、日本側の死傷者は十人を越えた。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p124) ・仁川での死者は4人、不明2人(後に死亡を確認)、負傷5人。この死亡した6人は、水島義(会津藩出身)、飯塚玉吉、鈴木金太郎、一等巡査の廣戸昌克(33才)、二等巡査の宮鋼太郎(18才)、私費語学生近藤道堅(19才・愛媛県士族)。(出典: ![]() ・仁川を脱出した一行は済物浦へ向かう。途中で済物浦から駆けつけた数人と合流。済物浦から小舟で月尾島(済物浦から距離800m余り)に渡り、そこか済物浦から来た船で沖に出て外国船を待つ。26日の午後3時ころ、ようやく英国測量船フライングフィッシュ号(Flying Fish 砲艦 940t 砲4門)に助けられた。(出典: ![]() ・一行が長崎に着いたのは7月29日の夜であった。長崎から日本政府へ事変の状況が電報で知らされた。日本政府は強硬な態度で朝鮮との交渉に臨むことを決定。日本の新聞でもいっせいに号外が出て、世論は激昂した。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p124) ・「膝下に重症を負って長崎の病院で治療を受けていた二等巡査遠矢荘八郎も傷が化膿して悪化し、ついに8月21日に死去した。」(引用: ![]() 朝鮮政府要人の被害(朴永圭の証言) ・ ![]() 『 朝鮮政府大臣と要人たちの生死 また、国王は無事であったが王妃や大臣、政府要人も殺されているという情報も入ってきた。(在朝鮮国領事副田節東莱府使公書ヲ奉シ来館ノ始末ヲ報ス) 以下は閔泳翊腹心の朴永圭の談による死傷者、また家屋を破壊された者たちである。 死傷者 中宮殿(閔妃)、世子妃、前領議政李最應、宣恵堂上閔謙鎬とその子、京畿観察使金輔鉉、参判閔昌植、輔國大臣閔台鎬、前恵堂尹滋悳、前大将李鍾承、別技軍左副領官兼南陽府使尹雄烈、参判韓聖根、参判李鎬翼、その他多数。 毀された家 李最應、金輔鉉、尹滋悳、李鍾承、尹雄烈、韓聖根、李鎬翼、金玉均。 放火されて灰燼となった家。 閔泳翊、閔謙鎬、閔台鎬、天然亭(日本公使館のこと) 悉く閔一族と開化派の者たちである。もちろん誤情報もある。閔妃、世子妃、尹雄烈も無事であったし、閔台鎬も大院君側に立っている。また玄昔運の家なども破壊されている。(玄君はすっかり開化派と認められていたらしい。) しかしこれを見ても単に軍民の叛乱というものではなく、閔一族と開化派の者を最も憎む大院君勢力の策動によるクーデターであることは明らかであった。 』 開港場(釜山・元山・仁川)の状況 ・ ![]() 『 その後の釜山、元山、仁川 事変後も釜山はいたって平穏であった。ただ朝鮮人商人たちが日本との開戦を恐れて居留地に寄り付かず、為に貿易は殆ど絶えた。 京城に近い元山津ではさすがに日本人たちの動揺は著しかった。また、朝鮮人民も事変の事を聞いて居住の婦女子を諸所に避難させるなどしていたが、その途中で府の弁察官の官憲らがその婦女子を取り押さえて金を奪い指輪などを略奪するなど粗暴の振る舞いをした。それで弁察官に訴え出たがその処分が不適当だったためか民衆が怒って弁察官の家宅を破壊するなどの騒動になった。その勢いの激しさから日本の居留地にも襲来するとの噂が立ち、為に日本人居留民は荷物や婦女子を船に乗せるなどの防禦策を図り、夜中になって篝火が動くのを見て朝鮮人の襲来かと笛を吹き半鐘を鳴らし手に手に銃や刀を携え、一時騒然とした状態となった。その後、下関に行っていた軍艦磐城が戻ってからは人心も落ち着き、朝鮮人商人が遠のいていたことから粮米にも困っていたが日本から米の供給があり皆大いに安堵し、怪我人も出ることなく平穏に至った。 (磐城天城両艦長朝鮮釜山浦近況報告) 仁川のその後は、花房公使ら日本人一行が済物浦を船で離れて暫くして朝鮮兵4、50人が追って来て火を点じて各所を調べ、日本人を匿っている者があれば同罪に処すると脅して食料などを奪い、やがて去っていったが、翌日にはまた数人が来て日本人を隠してはいないかと問い、その後2、3度はそのような状態が続いた。以来現地の人民は恐れて昼は家に戻るも夜には山間に身を潜めて過ごし、久水三郎らが同乗したフライングフイッシュ号が同湾に来た時には、皆が開戦が迫ったと奔走して逃げ去り、家々には1人もいない状態となったという。 やがて仁川府の官吏と交渉する時期に至ってようやく平穏に戻った。 (「朝鮮事変弁理始末/3 馬関彙報 2 〔明治〕15年8月16日から〔明治〕15年8月25日」p4) 公使ら一行が済物浦で休まずにすぐに月尾島に向かったのは正解であった。 』 金玉均の発言 ・軍乱が起きたとき日本にいた金玉均は、『「摂政国父(大院君)は頑固なれどもその政治は正大なり、国王殿下は聡明なれども果断に乏し、死を以て国父を説くべし」と言って帰国を急いだ。』(引用:角田房子著「閔妃暗殺」p125) 日本と清国の対応(1) ・清国政府は、駐日清国公使からの電報で、朝鮮の軍乱を知った。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p126) ・このとき清国にいた朝鮮の領選使金允植と問議官魚允中は、8月2日、清国政府に反乱鎮圧のための派兵を要請した。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p126) ・清国は、1876年の日朝修好条規の締結の際は他国との紛争で多忙であったが、今回はそうではなかった。李鴻章が北洋大臣になってからは朝鮮の門戸開放に積極的な態度をとり、欧米諸国に対しては「朝鮮はわが属邦」と標榜(ひょうぼう)してきた。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p126) ・清国は日本政府に対し、朝鮮の要請で少数の軍隊を派遣すること、軍乱の鎮圧が目的で、日本公使館や居留民の保護も行うこと、軍乱の損害賠償についても調停の労をとることなどを通知。これに対して日本政府は、朝鮮は日朝修好条規にも明示しているとおり「自主の邦」であり清国の介入は必要なく、賠償問題も当事国間で処理すると回答。清国は即時に出兵し日本の機先を制する方針を決定した。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p126-127)この清国から日本への通知は、8月5日と8月8日とみられる。(出典: ![]() 閔妃の手紙 ・閔妃からの直筆の手紙が高宗に届き、閔妃が生きていることがわかった。この手紙には、王宮を脱出した後に数か所を経て忠清北道の長湖院にある閔応植の家に隠れ住んでいることが書かれていたほか、大院君の罪を明らかにして日本の一方的介入を阻止するよう上国である清国に温情ある処置を懇願するようようにとの内容も記されていた。これを受けて高宗は、閔台鎬と趙寧夏を清国に密行させ、天津に滞在中の金允植・魚允中と連絡をとって清国政府へ働きかけるよう指示した。大院君は、この動きに気付いていなかった。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p127-128)(当サイト管理人による注:日付がよくわからない。) 日本と清国の対応(2) ・日本は、まず外務事務官の近藤真鋤らの一行を軍艦金剛で仁川に送り、8月8日から朝鮮側との予備会談を始めた。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p130) しかし、8月9日夕に仁川済物浦に到着し翌10日から冨平府使(仁川府使が欠員のためこれを兼務)と交渉をはじめた、とする記述もある。(出典: ![]() ・8月10日に、清国の軍艦3隻(威遠・揚威・超勇)が仁川に到着。これには、候選道の馬建忠・北洋水師提督の丁汝昌、天津にいた朝鮮人の金允植・魚允中らが乗っていた。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p130、および、 ![]() ・8月12日には、日本の軍艦4隻・輸送船3隻・陸兵1個大隊(大隊長はのちに初代朝鮮総督となる寺内正毅)とともに花房義質が日本全権として到着した。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p130)ただし、(出典: ![]() ![]() ・金允植・魚允中らの調査で状況を把握した清朝側は、本国に援軍を要請した。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p130)これは、8月12日に仁川を離れた軍艦威遠とみられる。水師提督丁汝昌と共に天津に帰った。(出典: ![]() ・8月16日、花房らは |
(注1:![]() (注2:朝鮮側(大院君派とみられる)は、いろいろな理由をつけて何度も日本の行動を阻止しようとしている。) |
・8月20日午前10時、花房公使は昌徳宮で高宗に謁見。要求7か条(注:後に追加し8か条となる。)を提出して3日以内の回答を求めた。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p131) |
(注:高宗王に呈した文書は7か条であったが、その後、花房公使が交渉相手となっていた朝鮮側の領議政に一通の書を送って、国書を以て日本に謝罪する旨の1か条を追加した。この条は、花房公使が日本を発つ際に日本政府から指示された訓条の第一条に示されている。これを高宗王に呈した文書には入れずに、別に提示したことになる。何か意図するものがあったのか、単に漏らしていたものか、当サイト管理人にはよくわからない。 また、この高宗王に呈した文書は、大院君が一旦花房公使に返して領議政に提出した形にさせていることから、大院君側の立場としては国王は受け取っていないと主張するつもりだったと推測される。しかし、その後大院君は清国側に拉致されてしまったのでそうはならず、最終的には済物浦条約(要求した内容とは多少異なる)が締結された。) |
・高宗王に呈した文書の要求7か条と、その後追加した1か条の、主な内容は次のとおり。 @15日以内に、加害者の逮捕と処罰を行う。 A遭害者を手厚く埋葬して葬儀する。 B5万円を、日本人犠牲者の遺族と負傷者に支払う。 C日本国公使館が受けた損害及び出兵の費用を賠償する。 D元山・釜山・仁川での遊歩規定を100里(朝鮮里)とし、楊花鎮に市場を開き咸興・大丘などの所に往来行商を許す。 E日本国公使・領事・その随員眷属などが内地各所に遊行できるを許す。 F今より5年間は日本陸軍兵1大隊を置いて公使館を護衛するを許す。ただし兵営の設置修繕は朝鮮政府の任とする。(注) G国書を以て日本に謝罪する。(注:追加した。) (出典: ![]() |
(注:Fについて、花房公使が日本を発つ際に日本政府から示された訓条では、朝鮮政府の兵員で日本公使館を守衛するというものであったが、ここでは日本兵を置くことを要求している。) |
・8月20日、花房公使が高宗王に要求書を提出して退出した後、李祖淵が出迎えて延賢門を入ったところの一堂(大院君の居)に案内され、花房公使と大院君との対談が行われた。大院君は、花房公使が高宗王に呈した要求書をもってきて、次のように言った。「引見の時に直に国王に呈書されるは対面において甚だ善ならず。今はこれを返付する。当然の順序を踏んで上奏せられるべし。領議政はすでに談判の命を奉じて他室で待っている。請う、これと会して改めて手続きをなされよ。又、決答3日を期された趣きなれども、およそ事を行うべきなら即座に弁ずべし。出来ないことは到底行うべきでない。これらの返答に何で日を限るを要しようか。」これに対し花房公使は次のように対応した。「これにより花房は要求書を国王に直呈する理があることを一通り弁じ、且つ領議政がすでに他室に待っていることを聞き、まげて要求書を収めて暇を告げた。大院君は起って送った。」
(出典:![]() ・大院君との対談に続いて、花房公使は粛章門外内兵曹において領議政に会い、要求書を交付して決答の期は23日午後と定めると述べ、さらに、「この期を過ぎて返答がなければ朝鮮政府にはこれを拒絶して挙行する意がないものと見るべし。」と述べた。これにて花房一行は帰館した。更に花房は一通の書を領議政に送った。 「23日事変の事に付き、貴国は信使を派遣して過失を謝罪するのは当然のことであるが、尋常の信使では事体を軽視することになり、また我が朝廷も甘受しないであろうことは至極当然の理である。我が国の要求ではないが、ここに思うにそのことが疎かになってはならないので念のために昨日提出した要求案件の箇条に次のものを加えることとする。『特派大官修国書以謝日本国事』(日本国に国書を以って謝罪する大官を特に派遣すること)」 これにより、要求書は八か条となった。(注) (出典: ![]() |
(注:この「国書を以て日本に謝罪する」という条は、花房公使が日本を発つ際に日本政府から指示された訓条の第一条に示されている。これを高宗王に呈した文書には入れずに、ここで提示したことになる。何か意図するものがあったのか、単に漏らしていたものか、当サイト管理人にはわからない。) |
・8月21日(注:呉善花著「韓国併合への道」p65では、8月20日としている。)、清国の増援部隊が到着。軍艦4隻・汽船13隻、南洋水師提督の呉長慶・陸兵4000人が乗っていた。この船は仁川に入らず南陽湾馬山浦に入り、陸兵を漢城に進めた。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p131) ・朝鮮側(大院君派)は要求書への回答期日の延期を何度か求めたが、日本側(花房公使ら)は応じなかった。(出典: ![]() ・8月23日朝、朝鮮側が日本の要求をのまないことがわかった花房は、断固たる対応をとるとして仁川への引き上げを開始。朝鮮政府の急使が和議妥協の用意があるとしたが具体的な内容はなく、花房はそのまま仁川へ向かった。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p132) ・大院君は日本との一戦も辞さずとの構えだったが、閣僚は意のままに動かず、清国も対日戦に踏み切る様子をみせないことから、大院君は仁川にいる清国の馬建忠(清国の候選道。国際公法学者で外交畑。)に書簡を送って調停を依頼した。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p132) ・仁川に退いた花房は、「今や軍事行動に訴えるほかない」旨の最後通牒を仁川府使に通告し、朝鮮政府に急送せよと告げた。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p132) ・一方、馬建忠は漢城を発つ前の花房に書を送って「馬建忠が本日に兵を伴って漢城へ入京するので会談したい」旨を伝えたが、花房は京城を去ることとその理由について返事を出して仁川に下ってしまったため、漢城に着いた馬建忠は仁川に戻ることにした。(出典: ![]() ・8月24日、花房公使と馬建忠が、仁川で会談した。(注) ![]() 『 馬建忠は間に立って何とか調停をしたい様子であった。しかし花房はそれを謝して訓条の通りにそのことは断り、且つここに至った経緯を説明した。 馬は、朝鮮政府内を整理して大院君を斥けるつもりであるからしばらく帰国を待ってもらいたい、朝鮮の内政に干渉するといえども友誼を以ってするのであって、属国としてするのではない、と言い(ものは言いようだが干渉であることに変わりはない。)、今日は花島の別将営に泊まることを告げた。』 |
(注:この会談の内容について、角田房子著「閔妃暗殺」(p132-133) および 呉善花著「韓国併合への道」(p65) では、下のように記述しており、日本側が結果として清国の調停を受け入れたように書いている。しかしながら、当サイト管理人としては、日本の外交文書を基に記述している ![]() 角田房子著「閔妃暗殺」(p132-133) 『 この緊迫した情勢下に、馬建忠は花房に会談を求め、日本と朝鮮の平和維持を講じ、日本政府の賠償要求を受諾するよう朝鮮政府を説得する用意がある、と語った。翌日、花房は馬建忠を訪問し、含みのある会談ながら、結果としては清国側の調停を受け入れることになった。 花房は外務卿井上馨から清国の仲介は断るよう訓令されていたが、賠償交渉の局面展開のためには受け入れざるを得なかった。花房は朝鮮政府に対し何度か「軍事行動をとる」とおどしをかけてきたが、それは清国との全面的な戦争を覚悟しなければ、実行できることではなかった。形式上は朝鮮の要請によって出兵した清国は、大兵力をソウルに駐屯させ、のちに朝鮮と深くかかわることになる袁世凱が王宮の護衛に当たっていた。このときの日本は、大清国を相手に戦争をするつもりはなかった。』 呉善花著「韓国併合への道」(p65) 『 馬建忠は二四日と二五日、いまにも李朝との決戦へ動きだそうとしている花房公使と仁川で会見し、花房公使から李氏朝鮮との再協議に応ずる、という確約を引き出した。日本が清国の調停を受けたのは、それを蹴れば次には清国軍との衝突を覚悟しなくてはならなかったからである。』 ) |
清国による大院君の拉致と乱の鎮圧 ・呉善花著「韓国併合への道」(p65) から引用。 『 翌26日、漢城へ戻った馬建忠は丁汝昌・呉長慶と協議し、日朝の再協議を実現するには大院君を取り除くしかないとの結論に達した。彼らはその旨を、魚允中を通して国王に伝えた。そして魚允中も国王も、それ以外にこの難局を切り抜ける方法はないと判断したのである。』 ・角田房子著「閔妃暗殺」(p133-134) から引用。 『 8月26日、馬建忠、丁汝昌、呉長慶の三人が雲峴宮に大院君を訪問した。馬建忠は筆談で大院君に、「軍事上の要談あり、夕刻ご来駕を請う」と告げた。 大院君は指定された時刻に、南大門外の軍営を訪れた。清国側は丁重に彼を迎え入れ、懇談ののち饗宴が始まった。その間に、呉長慶は大院君の従者たちをあざむいて外に出したが、大院君はそれに気づきもしなかった。武将の一人が清国側を代表して大院君の万寿を祝福し、右手の杯を高くあげた。それが合図であったのか――。陶然とした大院君が自分も杯をあげようと手を伸ばしかけたとき、突然屈強の男たち数人が彼に駆けより、営庭にかつぎ出して、用意の輿に押し込んだ。 抜刀の清国兵多数に囲まれた輿は、手荒く揺られながら運ばれてゆく。何事が起ったのかを考える余裕もなく、無我夢中の大院君は内側から輿の戸をたたき続けたが、応答はない。 やがて、混乱した大院君の頭に、馬建忠と交わした筆談の一つが浮かび上がった。馬建忠は、「大公は近代的外交は不得意のようだから、天津にわたって、わが皇帝の指南を受けられてはいかがか」と書いた。大院君は酒席のたわむれと笑って受け流したのだが。天津へ連れて行かれ、皇帝の前に引き出されるのであろうか――それを問いただす術もなく、大院君は輿のかたい板戸に肩や腰をうちつけながら、右に左に激しく揺られているほかなかった。』 ・大院君は、南陽で清国の軍艦に乗せられ、9月2日に天津に着いた。9月12日から李鴻章の査問会にかけられたあと、保定府へ移された。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」出典:同p134)大院君は、3年後に帰国が許された。(出典: ![]() |
(注:大院君の幽閉先について、天津とする文献と保定とする文献がありますが、角田房子著「閔妃暗殺」では、天津に連れ去りそこで李鴻章が審問を行った後に保定へ移して拘留したとしており、ここではこの説を採用しました。) |
![]() ・大院君の拉致事件が発表されても、国王・政府要人の間から抗議の声は上がらなかった。しかし、日本から帰国した金玉均は、同志だった朴泳孝に、「国の面目を踏みにじった行為」として清国への怒りを表明したという。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p135-136) ・朝鮮政府は軍乱を起こした将兵の居住地へ攻め込む力はなく、清国軍に討伐を依頼した。清国軍2000人が徹底的な討伐を行い、軍兵・その家族・一般市民まで多くの人々が殺された。堀本禮造中尉(死後に進級)を殺害した犯人や、討伐を逃れた軍乱の責任者も、やがて捕らえられ処刑された。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p136) ・呉善花著「韓国併合への道」(p66) から引用。 『 清国軍はその日(注:8月26日)のうちに大院君を捕らえ、南陽湾に停泊中の清国軍艦に乗せて天津へ連行してしまう。同時に大院君派を政権から除いて、拘留、流罪、死刑などに処す一方、清国軍が軍乱を起こした兵士たちの討伐を展開し、29日頃に軍乱は完全に鎮圧された。』 |
(注:![]() |
・![]() 『 大院君は清に連行され、李鴻章による査問会の後、天津に幽閉された(1882年8月)。 「大逆不道罪」で、官吏である鄭顕徳・趙妥夏・許焜・張順吉、儒学者の白楽寛、金長孫・鄭義吉・姜命俊・洪千石・柳朴葛・許民同・尹尚龍・鄭双吉は凌遅刑により処刑され、遺体は3日間曝された。なお、その家族一族郎党も斬首刑となった(1882年10月)。』 ![]() 済物浦条約の締結 ・朝鮮の高宗王は、李裕元と金宏集(=金弘集)を全権正副大臣に命じ、仁川において協議が行われた。(出典: ![]() ・この交渉の状況については、 ![]() 8月28日の夜の11時ころから午前3時ころまで軍艦比叡において、29日には軍艦金剛および花山政堂において交渉が行われた。賠償金の金額を50万円と明示したのも29日の交渉の時としている。 ・8月30日に、済物浦条約を締結。その主な内容は、次のとおり。 @20日以内に、加害者の逮捕と処罰を行う。期日内に出来ない時は日本が行う。 A死亡した日本官吏は、礼を尽くして埋葬し、厚く弔う。 B5万円を、日本人犠牲者の遺族と負傷者に支払う。 C50万円を朝鮮国が補填する。毎年10万円の5年払い。 D日本公使館は、日本兵若干名を置いて警護する。 E国書を以て日本に謝罪する。 (出典: ![]() ・なお、次の2か条は済物浦条約に含めず、日朝修好條規附録の「続約」と規定して別条約として締結した。 @元山・釜山・仁川での遊歩規定を50里(朝鮮里)とし、2年後に100里とする。1年後に 楊花鎮に市場を開く。 A日本国公使・領事・その随員眷属などが内地各所に遊行できるを任聴す。遊歴地方を指定し礼曹より証書を給し、地方管証書を験しめ護送す。 (出典: ![]() ・要求書の内容と比較すると、次のとおり。 @犯人逮捕処罰の期限を15日から20日に変更し、期日内に出来ない時は日本が行うとした。 C「賠償金」の語は使わないが、金額は50万円とし毎年10万円の5年払い。 DEは、日朝修好條規附録の「続約」と規定して別条約として締結した。 D元山・釜山・仁川での遊歩規定は50里・100里と2段階で広げる。「咸興・大丘などの所に往来行商を許す」の記述は削除。 E日本国公使・領事・その随員眷属などの内地各所の遊行は、「許す」を「任聴す」とし、朝鮮側へ届け出て地方官へも通知されるようにした。 F公使館に置く兵員1個大隊は、数を明示しない。 ・朝鮮が支払うこととされた50万円は、実際の日本の出兵費用の決算額81万2620円43銭よりも少なく、更に、後に5年返済が10年返済に変更され、その上に7万5千円を領収した時点で40万円を寄贈という形で帳消しにしている。また、兵員1個大隊も、後に2個中隊に減じ、更に明治16年7月には1個中隊に減らしている。(出典: ![]() 日本人の遺骸の検死 ・まず、日本から先発した近藤真鋤らの一行が8月初旬に仁川へ到着した際に、朝鮮側によって仁川に埋葬されていた6人の日本人の遺体を、日本の外務御用掛大庭永成が検死した。「遺骸は衣袴全き者一人もなく、或いは首を斬り或いは手を断ち或いは首に縄を縛るなど頗る残酷を極めたり。」「その為すところ、刑人を処するが如く、実に拙者等をして憤怒に堪える能わざらしめたり。」という。(出典: ![]() ・漢城(現在のソウル)での日本人の生死不明者7人の内、遺骸に付着する衣類の一部が日本特有のものであったこと、及び、衣類の一部などが無い者も遺体損壊の状況がひどいことから、6人を日本人と特定した。「死体六個の内、其の二は遂に証拠ものと為すべきものなしと雖も、頭部及び其の他の骨惨酷に砕けたるを以って見れば決して他の死骨と疑いを起こすに及ばず。」なお、残る1人の遺骸は見つからなかった。所持品から個人を特定できたのは、1人である。(出典: ![]() 閔妃の帰還 ・9月8日、閔妃の生存が公表された。閔妃は、9月11日に忠清北道長湖院の閔応植の家を出発、清国の提督呉長慶の指揮する100人の清国兵に守られ、領議政洪淳穆以下の諸大臣が従った。翌12日に漢城(現在のソウル)に到着、文武百官・内外の軍兵多数が出迎え、沿道の群衆が歓呼の声をあげた。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p137) ・昌徳宮(王宮)へ戻った閔妃は、世情が騒然としていることから閔妃の帰還は時期尚早として反対していた閔台鎬に死刑を宣告したが、閔氏一族の泣訴によって処刑は免れた。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p140-141) ・閔妃の逃走を助けた洪慶薫・閔応植・李容翊は、そろってめざましく出世した。しかしながら、のちに3人とも悲運に見舞われている。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p141) 朝鮮修信大使 ・済物浦条約にある「国書を以て日本に謝罪」するため、朝鮮修信大使(一行11人(注))が日本へ派遣されることになった。済物浦条約の締結を終えた日本は、近藤書記官を代理公使として公使館を護衛する陸軍1個中隊とともに残し、他の一行は帰国することになったが、朝鮮修信大使の一行は帰国する花房公使らとともに明治丸で日本へ向かった。(出典: ![]() |
(注:角田房子著「閔妃暗殺」p142では一行を15人としており、呉善花著「韓国併合への道」p96では20人としている。) |
・正使は朴泳孝(先王哲宗の娘婿)、副使は金晩植、従事官の徐光範、閔泳翊(閔台鎬の息子)、徐載弼、柳赫魯などと、顧問として金玉均が参加した。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p142、および、呉善花著「韓国併合への道」p96) ・朝鮮政府は国費欠乏のため往復の旅費の工面さえつかず、日本滞在1か月間の経費も日本政府が5千円の補助をした。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p142) ・『現在の韓国国旗“太極旗”は、このとき日本へ向かう明治丸船上で、金玉均らが創定したものといわれる。』(引用:角田房子著「閔妃暗殺」p142) しかし、異説もあるようです。(出典: ![]() ・角田房子著「閔妃暗殺」(p142-143) から引用。 『 条約批准の交換も円滑に進み、賠償金五十万円の支払方法については、年賦は五ヵ年から十ヵ年に期限延長と決定した。そして横浜正金銀行から十七万円を借款して、うち十二万円を朝鮮政府の国庫に納め、五万円を第一回分の賠償金として控除することになった。 賠償の条件は緩和されたが、しかし十七万円の借款には年八分の利息がつき、二年後から起算して十ヵ年の年賦であった。また釜山税関の収入権と端川沙金鉱の担保を要求するという、抜け目のない条件もついていた。』(以上) ただし、ここでは5万円を第一回分の賠償金としているが、 ![]() ・国庫に納めた12万円は、「6万円ほどを、政府軍用の武器や活字・活版印刷機の購入費、留学生費用、旅費、雑費などにあて、数万円を持ち帰って国庫に入れている。」(出典:呉善花著「韓国併合への道」p98) ・『日本の新聞は、「朝鮮政府より謝罪の国書を捧呈するため来日した使節団」と好意的な論調で、一般大衆の間にも壬午軍乱を知った時の朝鮮に対する激しい非難は消え失せ、使節団一行はどこからも温かく遇された。』(引用:角田房子著「閔妃暗殺」p143) ・『使節団一行は十一月下旬、新任の駐韓公使竹添進一郎と共に帰国した。だが金玉均は王の内命により、なおしばらく日本に残った。』(引用:角田房子著「閔妃暗殺」p144) ただし、呉善花著「韓国併合への道」では下のように これとは異なる記述をしている。 ・呉善花著「韓国併合への道」(p98-99) から引用。 『 修信使一行は、金玉均・徐光範ほか二名を残して翌年の一八八三年(明治一六)一月、朴泳孝、金晩植以下一〇名が復命のために帰途についた。前後して閔泳翊も、アメリカへの初使節として渡米する準備のために帰国した。このときに、慶応義塾の留学生兪吉濬や壬午軍乱を逃れて日本に亡命していた尹致昊の父尹雄烈(別技軍隊長)も一緒に帰国している。その後の金玉均らの通訳には尹致昊があたっている。尹致昊はようやく一七歳、なんとも若い。 福沢は帰国する朴泳孝ら一行に、門弟の牛場卓蔵、高橋正信、井上角五郎に加えて、印刷技術者二名、元軍人二名を同行させている。目的は新聞の発行、洋書の翻訳、洋学の普及などをはじめとする文化活動の援助である。 ところが当時の李朝には、彼らが腕をふるえるような場はまったくなかったし、閔氏政権がその意義を理解することもおよそ無理なことだった。 「初め朴泳孝は福沢諭吉の勧告にしたがい、帰国後文化工作を行う計画であったけれども、朝鮮の国情は明治維新当時の日本と根本的の相異があり、洋学振興の余地が存しなかった。更に竹添公使はこの文化工作になんらの援助を与えなかった」(田保橋潔『近代日鮮関係の研究』上) 竹添進一郎公使は新任の朝鮮駐在日本公使だが、後に述べるように、独立党の志をまったく理解していなかった。牛場卓蔵と高橋正信はなすすべもなく三カ月ほどで帰国してしまい、井上角五郎だけが、なんとか八月に新設の統理衙門博文局主事という職を与えられ、朝鮮初の新聞の編集発行にあたることになった。これが『漢城旬報』で、一八八三年一〇月三一日の創刊であった。』(以上) 朝鮮政府の国内への通達など 朝鮮政府は日本と親交を深め外国人を排斥しないよう全国に通達したほか、日本の求めに応じて従来のままとなっていた「洋夷侵犯」の石碑を壊した。(出典: ![]() 【壬午軍乱の後】 清国による朝鮮支配 ・呉善花著「韓国併合への道」(p67-70) から重要な部分を引用。なお、太字は、当サイト管理人によるものです。 『 清国は軍乱をきっかけに対朝鮮干渉を強化する方針をあらわにした。 その第一が、首都漢城を軍事制圧下においたこと。第二が、不平等条約(清国朝鮮商民水陸貿易章程)の締結。第三が外交顧問の派遣であり、その顧問らが指導する中国式の近代化としての軍制・官制の改革であった。 清国は、呉長慶麾下の3000名の軍兵を駐留させたまま袁世凱に指揮をとらせ、漢城を完全な軍事制圧下においた。また袁世凱は、中国式の朝鮮陸軍を養成するために清国の武官を訓練にあたらせ、武器・弾薬を清国から供給した。その結果、朝鮮は、一年半後に2000名の陸軍兵力をもつことになった。 1882年(明治15)10月、清国は李朝との間に「清国朝鮮商民水陸貿易章程」を調印した。そこでは李朝が清国の属国であることが明記されその宗属関係に基づいて、清国が朝鮮との貿易上の特権を独占することを規定している。この章程によって、中国人は漢城と楊花津で倉庫業・運送業・問屋業を兼営する店舗(桟)の営業権をもつことになり、また清国が事実上の領事裁判権をもつことにもなった。 李朝政府は清国政府の推薦に従い、外交顧問として馬建常(馬建忠の兄・元神戸大阪領事)とメルレンドルフ(元天津・上海駐在のドイツ副領事)を外交顧問として迎え入れた。そして、清国の制度にならって政治制度の改革を行ない、外交・通商を担当する統理交渉通商事務衙門と、軍務・内務を担当する統理軍国事務衙門を設置した。 こうして清国は朝鮮に対して、古代的な宗属関係から近代的な帝国主義支配への一歩を踏み出したのである。』(引用:呉善花著「韓国併合への道」p67-68) 『 復活した閔氏政権は、壬午軍乱の結末によって、もはや新勢力としての日本は恃むに足りない、やはり巨大な中華帝国との宗属関係を維持し続けてきた過去の伝統に従うべきだと、考え方を後退させることになった。 しかしながら、李朝は中国軍の首都駐留という、これまでになかった新たな事態を受け入れなくてはならなかった。駐留清国軍は、漢城各所で略奪、暴行を働き、多くの漢城市民がその被害にあうことになってしまったのである。清国の軍兵たちが集団で富豪の家を襲い、女性を凌辱し、酒肴の相手をさせ、あげくのはては金銭財産を奪うなどの乱暴狼藉が日常のごとく行われたのである。』(引用:呉善花著「韓国併合への道」p68-69) 『 中国では伝統的に、軍隊は略奪を一種の戦利行為として許されるという習慣があったから、将官たちはそうした兵士の乱暴狼藉は見て見ないふりをするのが常だった。』(引用:呉善花著「韓国併合への道」p69) 『 清国兵士たちの暴状は際限なくエスカレートしていくばかりだった。さすがの清国軍総司令官の呉長慶もそれを放っておくことができなくなり、ついに特別風紀隊を編成して自国軍兵士たちの取り締まりを行なったほどである。』(引用:呉善花著「韓国併合への道」p70) 『 日本にとって決定的だったことは、清国の朝鮮干渉の強化によって実質的に日朝修好条約(注:正確には「日朝修好条規」)の意義がほとんど吹き飛んでしまったことである。』(引用:呉善花著「韓国併合への道」p70) 乱後の朝鮮 ・呉善花著「韓国併合への道」(p74-77) から引用。なお、表題以外の太字は、当サイト管理人によるものです。 『 後宮を支配する大霊君と閔妃のシャーマニズム 閔妃は壬午軍乱時に、忠州の閔氏一族の屋敷にかくまわれていた。閔妃は閔氏政権の復活とともに王宮へ戻ったが、その際に一人の巫女を伴っていた。彼女は閔妃がかくまわれていた家の召使い身分の女だったが、「閔妃は無事王宮に戻る」と預言し、それが「適中」したことで、閔妃は彼女を大いに気に入り、王宮まで連れて帰ると宮中に祭壇を設け、自らの安泰のために祈禱をさせるようになった。 閔妃はこの王妃安泰を祈禱する巫女を宮廷の賓客として優遇したため、宮中では彼女をあたかも王妃の守護神であるかのように崇敬するようになっていった。やがて閔妃は、北廟(宮殿の北方にある)に王家直属の祭壇と祈禱所を設け、彼女を祭主として王家の福運を祈禱する祭祀を行なわせるようになった。 北廟の祭祀は朝方と夕方に行なわれ、王族、閔氏一族、高級官僚たちが列をなして礼拝に訪れた。 祭祀のために、北廟には毎日、山海の珍味や各地の名産品が山のように運び込まれ、祈禱所は常にそれらの品々であふれかえっていた。国家財政は窮乏の一途をたどっていたにもかかわらず、この祭祀のために、国費は惜しみなく費やされたのである。 また、彼女のもとには、各地から祈禱師、巫女、占い師、易者、僧尼らが続々と集まるようになり、北廟はほとんどシャーマニズム宗教センターと化してしまった。彼らは祭主の下で祭祀を執り行なう、いわば祈禱所の押しかけ祈禱者だったが、彼らを賄う費用も、祈禱所の費用から、つまり国庫から歳出された。 こうして北廟の祭主は大霊君と号され、宦官や侍女をおさえて、宮廷内で最も重きをなすようになった。取り巻きの祈禱者たちもその威勢にあずかったので、上級の品階や大職を求める官僚たちは、宦官や侍女だけではなく、彼らにも金品を贈って機嫌をとらなくてはならなくなってしまった。 税関収入は王妃の祭祀料 ただでさえ乏しい宮廷の財政は、いきなりはじまったこの祭祀のために、ほとんどやり繰りがつかない状態に陥ってしまった。そのための穴埋めとして利用されたのが、税関収入であった。 当時、李朝の税関は釜山、元山、仁川の三港に設けられていたが、この税関を統括・監督していたのが、清国から派遣された外交顧問のドイツ人メルレンドルフだった。閔氏政権の重鎮である閔台鎬の長男閔泳翊が、メルレンドルフと謀って税関収入の一部を王妃のために支出するようにしたのである。あきらかな不正である。 閔泳翊は閔氏一族のなかでは開化派に理解を示し、政治改革に心を傾けていたほとんど唯一の存在だった。しかし彼は、壬午軍乱を経てアメリカ・ヨーロッパ視察から帰ると、一転して守旧派擁護へと変身してしまった。そして、伝統的な清国依存の政治姿勢をとるようになっていたのである。閔泳翊もまた、自らの権勢拡大のために閔妃に取り入ったのであり、メルレンドルフもこの国の政治体質を熟知して、閔氏一族のために便宜をはかったのである。 際限のない悪貨私鋳 メルレンドルフは顧問に就任して国庫の窮状を知り、閔氏政権に財政難打開の方策として「悪貨の鋳造」という知恵をさずけた。それは「当五銭」と呼ばれ、従来の貨幣価値の五分の一の価値しかないものだった。 この悪貨を漢城、江華、平壌で大量に鋳造しはじめたために、それまでの品質のよい貨幣はまたたくまに消え去って、市場は悪貨であふれ、物価はたちまちのうちに暴騰した。独立党はこの政策に猛反対したが受け入れられず、さらに無制限な鋳造へと拍車がかけられた。 (以下略) 』 清国と日本の緊張が高まる ![]() 『 日本は、12月に「軍拡八カ年計画」を決定するなど、壬午事変が軍備拡張の転機となった。清も、旧来と異なり、派兵した3,000人をそのまま駐留させるとともに内政に干渉するなど、同事変が対朝鮮外交の転機となり、朝鮮への影響力を強めようとした。たとえば、「中国朝鮮商民水陸貿易章程」(1882年10月)では、朝鮮が清の属国、朝鮮国王と清の北洋通商大臣とが同格、外国人の中で清国人だけが領事裁判権と貿易特権を得る等とされた。その後、朝鮮に清国人の居留地が設けられたり、清が朝鮮の電信を管理したりした。なお同事変後、日本の「兵制は西洋にならいて……といえども、……清国の淮湘各軍に比し、はるかに劣れり」(片仮名を平仮名に、漢字の一部を平仮名に書き換えた)等の認識をもつ翰林院の張佩綸が「東征論」(日本討伐論)を上奏した。』 【参考ページ】 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 参考文献 「韓国併合への道」呉善花著、文春新書、2000年 「閔妃暗殺」角田房子著、新潮社、1988年 |
〜著者は小説家なので、小説っぽい表現が時々出てきますが、大院君の政権掌握から閔妃が殺害された乙未事変まで詳しく記述されており、朝鮮側の状況もよくわかります。大変参考になりました。一読をお勧めします。なお、1993年に文庫版(新潮文庫)が出ています。 |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 「朝鮮史 新書東洋史10」梶村秀樹著、講談社現代新書、1977年 「日本の歴史20 明治維新」井上清著、中公文庫、1974年 「教養人の日本史(4) 江戸末期から明治時代まで」池田敬正、佐々木隆爾著、社会思想社 教養文庫、1967年 「新訂版チャート式シリーズ 新世界史」堀米庸三・前川貞次郎共著、数研出版、1973年 「クロニック世界全史」講談社、1994年 「朝鮮 地域からの世界史1」武田幸男・宮嶋博史・馬渕貞利著、朝日新聞社、1993年 更新 2013/7/13 |
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