1919年 朝鮮で三・一運動朝鮮(大韓帝国)は1910年に日本に併合され、日本(朝鮮総督府)はさまざまな近代化政策を行っていたが、朝鮮の民衆はそもそも日本による併合に不満で、改革のなかで不利益を被る人もあり、統治に対する支持は得られていなかった。 そうしたなか、死去した前国王(高宗)の葬儀が行われる2日前の1919年3月1日、京城(現在のソウル)で「独立万歳」と叫ぶ大規模なデモが行われた。この運動はまたたく間に朝鮮半島全体に広がり、二ヶ月あまりに渡って激しい示威運動が続けられた。 運動は初めは平和的に行われていたが、朝鮮総督府はこれを武力によって弾圧し、運動は次第に暴動化していった。当時は、集会・結社の自由が認められておらず、許可のない集会を行った者は逮捕された時代で、群衆が解散に応じない場合には軍・警察が民衆に向けて発砲することがあり、多くの死傷者を出した。また、取り調べにおいても拷問が行われることがあり、欧米諸国を含めた世界に対して日本の残虐性を印象づけたものと思われる。 この事件は、「三・一独立運動」「独立万歳運動」「三・一事件」「万歳事件」などとも呼ばれる。 この運動を主導したのは、天道教(注)・キリスト教・仏教の指導者たちと学生組織である。宗教団体が中心となった理由は、政治的な集会や結社が厳しく規制されていたためであるとの指摘がある。 |
(注:「天道教」は、「東学」から名称を変更したものである。「東学」は1860年に崔済愚がはじめた朝鮮の思想で、従来の朱子学とも新しい西学(天主教(キリスト教のカトリック))とも異なる朝鮮独自の思想を旨とした。「東学」は、1905年、第三代の孫秉熙のときに、「天道教」と「侍天教」に分裂した。ちなみに、「侍天教」を率いた李容九は、政治結社「一進会」の活動にも参加した親日家である。2005年の調査では、韓国の天道教教会280ヶ所・信者113万人、北朝鮮の信者280万人とされている。![]() |
運動が始まった京城(現在のソウル)の様子を、参考文献に揚げている「20世紀全記録」講談社から引用します。(引用文中の(注)は、当サイト管理人によるものです。) 『 この日(注:3月1日)、京城は李太王(注:高宗)の葬儀をひかえて、各地から上京してきた数十万の人々であふれ、パゴダ公園(注: 午後2時、群衆であふれた公園の壇上に1人の学生が立ち、突然「我らはここに我が朝鮮国の独立と朝鮮人民の自由民たることを宣言する」で始まる独立宣言書を朗読し始めた。 公園は一瞬静まり、朗読がおわると、たちまち「独立万歳」の大合唱の渦が公園の内外に巻き起こった。やがて学生たちが市内のデモに移ると、いたるところから市民の群れがあふれ出し、「万歳」を叫びながらこれに加わった。用意された宣言書が手から手に配られた。 ふくれ上がったデモ隊は、李太王の遺体が安置された徳寿宮、朝鮮総督府、各国大使館など各方面に分かれて行進した。この日の参加者は20万とも50万ともいわれる。 この運動は事前の周到な準備のもとに行われたもので、同時に平壌、義州、元山など主要6都市でも起こった。以後、この三・一運動は燎原の火のように朝鮮全土を覆う。 』 パゴダ公園には、各学校代表者の引率のもと約5000人の学生が集合し、一般民衆も加わって数万人規模になっていた。宣言書を読み上げたのは、鄭在鎔(儆新学校卒業生)である。 【宣言書】 この宣言書は、理想主義的で非暴力的な内容で、崔南善(チェナムソン)によって起草された。「独立宣言書」「三・一独立宣言書」などとも呼ばれている。 この宣言書に署名したのは、天道教の前教主である孫秉熙をはじめとする天道教・キリスト教・仏教の指導者など33人で、韓国等では「民族代表33人」などと呼ばれている。 印刷された宣言書は、天道教・キリスト教の組織網を通じて朝鮮半島の13都市に配布されたとされる。 宣言書に名を連ねた指導者たちは、3月1日午後2時に、京城(現在のソウル)の仁寺洞地区にある中華料理店明月館の支店「泰和館(テファグァン)」に集まる予定としていた。午後2時ころまでに29人が集合、3時ころ演説と万歳三唱を行い祝杯をあげた。万歳三唱を耳にして泰和館の主人があわててやってきたが、一同は彼に累が及ばないよう朝鮮総督府に電話をかけさせ、29人は泰和館で逮捕された。 これは、「パゴタ公園には多くの学生や民衆が集まるため、群集心理で予想外の動揺がおきるかもしれず、日本の軍警が奸計をもって現場を攪乱し暴動の口実をつくって凶悪な弾圧的手段にでるかもしれない」と考えたためである。 1930年代になると、崔麟・崔南善・朴熙道などは、親日に転向していった。 【その後の運動の広がり】 3月〜5月の集計で、デモ回数は1542回、延べ参加人数は205万人に上る。この運動は当初は平和的に行われていたが、当時「武断統治」を行っていた朝鮮総督府はこれを武力によって弾圧し、運動は次第に暴徒化した。武力弾圧によって多くの市民が死傷し、また、暴徒となった民衆が警察署・村役場・小学校等を襲い、放火・投石・破壊・暴行・惨殺も多数行われた。 朝鮮総督府は警察に加え軍隊も投入して鎮圧にあたったが、4月には日本本土から軍隊6個大隊と憲兵400人の増派が決定され、武力弾圧によって運動は次第に終息していった。 襲撃による政府側の被害は、官憲の死者8人・負傷者158人、被害を受けた駐在所159、郡・面事務所77、郵便局15、その他27であったといわれる。 運動側の死傷者数に関しては今なお論争がある。(注1: ![]() 朝鮮総督府警務局の報告(1919年6月20日付)では、3月1日から4月30日までの集計で、「暴民死者」553人、「暴民負傷者」1409人という数字がある。 伝聞の情報として朴殷植著『韓国独立運動之血史』に、死者7509人、負傷者1万5849人、逮捕4万6303人、焼かれた家屋715戸、焼かれた教会47、焼かれた学校2に上るという記載がある。(注2:この数字は、当時、中国の上海にいた人たち(後に大韓民国臨時政府に関係する人たち)によって取りまとめられた数字であると思われる。) 2013年11月に、東京にある在日本韓国大使館で、630人分の名簿が見つかった。(注3) |
(注3: 2013年11月に韓国の報道機関が伝えたところによると、東京にある在日本韓国大使館の新築・移転作業で、「3・1独立運動の犠牲者名簿」(1冊)、「関東大震災の犠牲者名簿」(1冊)、「日本統治時代の被徴用(徴兵)者名簿」(65冊)が見つかった。1953年に、当時の李承晩政権が、第2次日韓会談のために準備し作成したものとみられる。この「3・1独立運動の犠牲者名簿」には、「殺害された630人の名前、年齢、住所、死亡した日時や場所、状況などが地域ごとに記録されている。」という。![]() |
堤岩里事件 1919年4月15日、京畿道水原郡(現在の華城市)で、30人程の住民が軍によって殺害された。 この事件は、欧米人の知るところとなり、海外でも報道された。 ![]() ![]() ![]() ![]() その他の事件 江西事件、砂川事件、密陽事件、孟山事件、陝川事件、定州事件、南原事件、京畿道狩川及び花樹里の焼き討ち、ソウルの十字架虐殺事件などがある。(注: ![]() 柳寛順(ユグァンスン 1902-1920年) 京城の梨花学堂(現在の梨花女子大学校)の女子学生であった柳寛順は、朝鮮総督府が各学校に休校命令を出すと故郷に戻り、天安(注1:ネット上に、忠清南道天安郡竝川のアウネ市場とする情報がある。)で運動に参加し逮捕された。懲役3年の有罪判決を受けて服役中、獄中で死去した(注2)。 柳寛順は、韓国で「朝鮮のジャンヌ・ダルク」と呼ばれて尊敬を集めているが、実際の記録は少なく、誇張されて広まっているようである。 |
(注2:ネット上の情報によると、死因は病死のようです。ネット上には「刑務所での拷問が原因」「デモの時に受けた傷が悪化」「膀胱が破裂」などといった記述もみられますが、当サイト管理人にはどれが本当かよくわかりません。手足をバラバラに切断されたという話はデマのようです。) |
この記事でシンシアリーさんが紹介しているソース『朝鮮総督府 法務局, 「妄動事件處分表」(1920年1月)』(リンク切れ)によると、 「無期刑5人。有期刑は10年以上21人、5年以上43人、2年以上670人、1年以上1629人、6ヶ月以上3205人、6ヶ月未満451人で計6024人。残りは執行猶予、罰金、などなど。31運動の指導者とされる、所謂「民族指導者」33人も量刑は軽く、もっとも重い量刑が3年刑(6人)で、無期懲役とか死亡者とかには入っていません。あとで海外に逃走しまくり。」 となっているらしい。 |
【運動のきっかけ】 ・高宗は高齢であったのだが、その死について様々なうわさが流れた。「息子が日本の皇族と結婚することに憤慨して自ら服毒した」とか、「併合を自ら願ったという文書をパリ講和会議に提出するよう強いられ、それを拒んだため毒殺された」などといったものである。公式に発表された死因は脳溢血で、そう見る資料もあるが、実際のところは不明である。 ・第一次世界大戦末期の1918年1月に、アメリカのウィルソン大統領が「十四か条の平和原則」を発表した。これに盛り込まれた「民族自決」は、敵対するドイツ・オーストリアなどの支配する地域を意識したものであったが、アジアなど植民地・半植民地地域では民族自決の意識が高まり、自治や独立を要求する運動が盛んになった。 ![]() ![]() ・1919年2月8日に、東京神田の朝鮮基督教青年会館(現在の在日本韓国YMCA)で開かれた「朝鮮留学生学友会総会」において、宣言書(二・八独立宣言とも呼ばれる)を採択した。この事件が、三・一運動の導火線になったとみられる。 ![]() ![]() ・日韓併合後の朝鮮総督府では、朝鮮王朝末期から続いていた一部の抗日運動を抑えるため、憲兵警察制度(注)や言論・結社の自由の厳しい制限などに代表される武断統治が行われていた。この三・一運動以後、文治的なものへと方針転換された。 |
(注:「憲兵警察制度」は陸軍の憲兵が一般の警察をも兼ねる制度で、一般警察が鉄道沿線・港・都市部を担当し、憲兵警察が軍事上枢要の地・国境・一般警察が整備されていない地域を担当した。日韓併合年の憲兵警察と一般警察を合わせた人数は7,712名(うち朝鮮人4,440名)で、このうち憲兵警察は2,019名(うち憲兵補助員としての朝鮮人1,012名)であった。 ) |
![]() ・日本統治時代には、朝鮮にいる日本人の間で、本土の日本人以上に朝鮮人への侮蔑意識が広まったとされ、そのことも反感を招いたかもしれない。 【日本の対応】 日本側の弾圧 朴殷植著「朝鮮独立運動の血史 1・2」の付録に添付されている資料「朝鮮の状況に関する報告」に信頼できそうな多くの証言がある。この「朝鮮の状況に関する報告」は、アメリカのキリスト教会連合協議会が作成して、アメリカ上院議会に提出し、議事録に記録されたものである。 これによると、日本側の官憲は、外国のキリスト教宣教師が運動を主導したのではないかと疑ったようであるが、ほとんどの外国人宣教師はかかわりがなく、信徒の朝鮮人たちが独自に自己の判断で運動に参加していったとみられる。 この資料によると、ただ万歳を叫んで行進をしていただけで銃で撃たれたり、刀で切りつけられたとの証言が多くある。また尋問の際に拷問を受けたとの証言も多い。なかには違法な文書を隠し持っていないか調べるためとして女性の下着をはがして殴打した例がいくつもあるが、強姦されたという証言は当サイト管理人の見た範囲では記録されていなかった。また、日本人の消防団や日本人の民間人が運動していた朝鮮人を取り押さえて警察へつきだしたという目撃証言が複数あり、この際に“鳶口”(木の棒の先にトビの嘴状の金具が付いた道具で、消防作業に使われた。)を使って体や顔を傷つけたという記録がある。 パリ講和会議への配慮 当時、パリ講和会議(第一次世界大戦の講和会議。1919年1月18日に開会。)が行われており、日本政府はこの三・一事件が会議に影響を与えないよう、急いで収束を図ろうとした。 海外での報道に敏感であったし、反日感情が高まらないよう配意したが、欧米諸国に日本の残虐性を印象づけたものと思われる。 武断統治から文化政治へ この三・一事件を受けて、日本政府は朝鮮半島の統治の方針を武断統治から文化政治へ方向転換した。 まず、朝鮮総督を長谷川好道から斎藤実へ交代させた。斎藤実が着任のため朝鮮の京城に到着した際に爆弾による暗殺未遂事件が起きている。 斎藤実の着任後に行われた主な改革は次のとおり。文末の(p)は、出典である長田彰文著「日本の朝鮮統治と国際関係」における記載ページです。 ・憲兵警察から普通警察への転換。ただし、それまでの憲兵から警官になる者も多かった。制度改正以前の憲兵と警察官の合計が14,518人であったのに対し、1920年6月の時点での普通警察官の数は20,134人に増加しており、警察署の数も100から251に増加している。(p286) ・笞刑(ちけい・鞭打ちの刑)を廃止。(p285) (注:笞刑は李氏朝鮮の時代からありました。) ・政治的集会の禁止を解除。秩序・公安を妨害しないかぎり集会・結社を容認した。(p285) ・朝鮮人による朝鮮語新聞の発行を許可。(p284) ・文官・教師・裁判官の制服・帯剣の義務化を廃止。ただし、税関吏・監獄吏は制服着用、判事・検事・書記などの司法官は日本国内の制度に準ずる。(p281) ・朝鮮人官吏の給与に関する規定を廃止し、日本人官吏と同じにする。(p282) ・公立普通学校校長への朝鮮人登用。(p283) ・普通学校の増設。(p283) ・高等普通学校および女子高等普通学校規則を改正。高等普通学校は日本の中学校の制度に準拠し、女子高等普通学校は日本の高等女学校の制度に準拠する。(p283) ・地方官庁の権限拡大。(p283) ・朝鮮人判事・検事の制限廃止。従来は、刑事の場合は被告が朝鮮人の事案に限られ、民事の場合は原告・被告とも朝鮮人の事案に限られていた。(p284) 斎藤実へのインタビューからの引用 当サイト管理人が注目に値すると思う記載があったので、ここに引用しておきます。出典は参考文献に掲げている朴殷植著『朝鮮独立運動の血史 2』(290ページ)で、この本の付録資料「朝鮮の真相」のなかで「チャイナプレス」北京特派員ナサニエル・ペファーが新しく着任した斎藤実朝鮮総督にインタビューした際に斎藤が語った言葉の一部です。 『 これまで朝鮮人学校では、勤勉を奨励し、労働に対する旧来の朝鮮人の蔑視を根絶するために、多くの時間が工作の課目にむけられていました。いまや、悪習を駆除するための工作の必要性が大いに消滅したのですから、これまで工作に配された時間を英語あるいは他の外国語とか数学の勉強にさかれるべきです。 』 この斎藤実の認識が正しいとすれば、日本の統治が朝鮮社会の根本的な部分の改革に成功していることを意味しています。 【日米関係】 1882年にアメリカと李氏朝鮮の間で結ばれた「米朝修好通商条約」の第1条に「周旋条項」(「第三国が締約国の一方を抑圧的に扱う時、締約国の他方は、事態の通知をうけて、円満な解決のため周旋を行なう」という文言)があり、朝鮮の独立運動においてもアメリカに援助を求める動きがあった。 アメリカと日本との間では、1905年の桂・タフト協定(アメリカは日本の朝鮮(当時は大韓帝国)支配を認め、日本はアメリカのフィリピン支配を認めた。)があり、アメリカ政府が朝鮮の独立運動を支持することはなかった。 日本による武力弾圧の状況がアメリカに伝えられると、日本を非難し朝鮮に同情する論調が多かった。ただし、少数派ではあるが朝鮮には独立の能力がないため日本による統治が有効であるとする主張もあった。 1905年当時の日米は、ロシアの極東進出を警戒して協調関係にあったが、この事件を契機にアメリカの対日感情が悪化していったとみることができる。 【朝鮮独立運動】 三・一運動をうけて、4月に中国の上海で、李承晩(アメリカに留学)・呂運亨・金九らによって「大韓民国臨時政府」が結成されたが、政府としての実態はほとんどない。 また、朝鮮の国境を北に越えた中国の間島には以前から朝鮮人が移り住んでいたが、この間島や満州・ロシア沿海州などを拠点として共産主義の影響を受けた抗日武装団体が活動し、朝鮮の国境地帯に侵入してゲリラ活動を繰り返した。 ![]() |
水間政憲著「ひと目でわかる日韓・日中歴史の真実」(PHP研究所、2012年)の112ページに、『朝日新聞』南鮮版(1940年3月15日)の記事が写真で掲載されています。金日成の率いる匪賊による拉致事件に関する記事で、これを文字起ししました。 『 二十五名は歸る 匪賊に拉致された一團 十二日未明咸北對岸大馬鹿溝で匪首金日成の率ゐる匪團に拉致された百四十名のうち二十五名(内地人一名、朝鮮人十三名、満人九名、白系露人二名)は大馬鹿溝本部より西北方五里の一三三高地で露営し十三日午前六時釋放され、同十一時ごろ歸還した 釋放された人々の話によれば匪團は百五十名から成り、うち武装した婦女子七、八名も交つてゐるとのことであるがこの國境治安緊迫のために部落民は避難して警戒中である 』 |
【パゴダ公園】 ![]() ![]() ・豊田有恒著「いい加減にしろ韓国」NON・BOOK(祥伝社)、1994年 |
この本のp105 から引用します。なお、引用文中の太字は、当サイト管理人によるものです。 『 韓国で、有名な暴君の燕山君は、名刹円覚寺を破壊して、その跡地に妓生(キーセン)の養成所を建てた。この場所が、今のパゴタ公園なのだが、韓国人は、このエピソードについては、あまり語りたがらない。パゴダ公園は、日本に対する三・一運動(一九一九年三月一日、日本の支配に対し、天道教、キリスト教、仏教徒が中心に蜂起した民族独立戦争。朝鮮全土に広がり、一年以上にわたって断続的に展開された。)の発生地として有名だから、そっちの由来を紹介しておいたほうが、ジャパン・バッシングの役に立つわけだろう。』 |
【LINK】 三・一運動 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() (機械翻訳)中央SUNDAY ≫ 文「イム・ジョンウン根であり、法統」...「建国節」論議にくさびを確認 ![]() (機械翻訳)中央SUNDAY ≫ ムン大統領“臨時政府の樹立が大韓民国の建国" |
![]() ![]() 【参考ページ】 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 参考文献 「日本の朝鮮統治と国際関係」長田彰文著、平凡社、2005年 「20世紀全記録」講談社、1987年 「地域からの世界史1 朝鮮」武田幸男・宮嶋博史・馬渕貞利著、朝日新聞社、1993年 「朝鮮史 新書東洋史10」梶村秀樹著、講談社現代新書、1977年 「いい加減にしろ韓国」豊田有恒著、NON・BOOK(祥伝社)、1994年 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 「朝鮮独立運動の血史 1・2」朴殷植著、姜徳相訳、東洋文庫(平凡社)、1972年 |
(注:中国語で出版された「韓国独立運動之血史」の訳本。強い反日感情をもって書かれており、伝聞も含んでいるようでどこまで事実に基づいているのかよくわかりません。ただし、付録の添付資料で、アメリカのキリスト教会連合協議会が作成し、アメリカ上院議会に提出して議事録に記録された「朝鮮の状況に関する報告」は、参考になります。) |
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聯合ニュース(韓国の報道機関)が報じたこの記事の全文を引用します。なお、 見出し以外の太字および(注)は、当サイト管理人が施したものです。 『東京で発見 3・1運動と関東大震災の韓国人犠牲者名簿 2013/11/19 15:45 【ソウル聯合ニュース】今夏(注:2013年夏)に完了した東京の韓国大使館の新築・移転作業で、3・1独立運動(1919年)と関東大震災(1923年)の際に殺害された韓国人犠牲者の名簿が初めて見つかった。 日本による植民地時代に強制動員された人の名簿も併せて発見され、戦後補償問題が新たな転機を迎えるかどうかが注目される。 韓国国家記録院は19日に会見し、1953年に当時の李承晩(イ・スンマン)政権が作成した3・1独立運動の犠牲者名簿(1冊)、関東大震災の犠牲者名簿(1冊)、日本統治時代の被徴用(徴兵)者名簿(65冊)に関する分析結果を発表した。 これらの名簿は52年12月に李承晩大統領から指示を受け、内務部(現・安全行政部)が全国的な調査を行い作成したもの。翌年4月の第2次韓日会談を前に準備されたとみられる。 3・1独立運動の犠牲者名簿には、殺害された630人の名前、年齢、住所、死亡した日時や場所、状況などが地域ごとに記録されている。 現在、3・1独立運動に加わり死亡した人々のうち、「独立有功者」として認められている人は391人にすぎないが、名簿の発見によりその数が3倍近くに増える可能性もある。 また、関東大震災の犠牲者名簿には、震災時に殺害された韓国人290人の名前や本籍、死亡した日時や場所、状況が記されている。 震災時に殺害された韓国人数は6661人から2万人と推定されているが、今回初めて具体的な犠牲者名簿が見つかった。 日本統治時代の被徴用(徴兵)者名簿は、これまでに作成された被徴用者名簿のうち最も古い原本記録で、65冊に22万9781人の名前や生年月日、住所などが記されており、被害補償に向けた事実確認に大いに役立つと見込まれる。 国家記録院は来年初めから一般人も名簿を閲覧できるようにする計画だ。 』 |
![]() 更新 2020/10/25 |
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