1894年 朝鮮で甲午農民戦争(東学党の乱)甲午(こうご)農民戦争は、東学党の乱とも呼ばれる。東学教団の組織員は一部にすぎず、基本的には農民反乱である。 東学教団の組織員の連携が、農民の参加を大規模なものに広げることになった。開国により日本をはじめとする外国資本主義経済の進出や不正を行う地方官の影響で生活の苦しくなった民衆があり、また、保守的で外国に弱腰な閔氏の朝鮮政府に対する不満などが原因で、小さな農民反乱は大規模な農民戦争へ拡大していった。 1894年春、それは、全羅道古阜郡の民乱として始まった。指導者は全琫準(ぜんほうじゅん)で、乱の原因は、農民が自力で建設した灌漑施設が生み出す成果を横取りしようとする地方官の厳しい税の取り立てを拒否したことに始まる。 東学教団の末端構成員にすぎなかった全琫準が教団組織を通じてよびかけ文を他の地域へ発すると、全羅道内一円から集まった農民軍は数万人に達した。古阜郡を席巻し、近隣の諸郡も次々と占領して地方官を放逐し、全羅道内全域を解放した。中央から派遣された直轄軍をも撃退して、さらに北上する気配を示した。 全羅道以外でもこれに呼応して独自の蜂起が起こった。 これに対して、閔氏の朝鮮政府は清国に援軍を求めた。6月に清国が要請に応じて軍を派遣すると、要請を受けていない日本も派兵を開始した。この状況にあわてた朝鮮政府は、農民軍と妥協的な和約を結んだ。和約の内容は、形式的には地方官を復活するものであったが、農民軍側の監視機関である「執網所」を各郡に置くことを認めた。執網所は実質的には自治機関に近い役割を果たした。 和約が成立した朝鮮政府が日清両国に撤兵を求めたにもかかわらず、日本はこれに応じなかった。日本は清国と共同で「朝鮮の内政改革」にあたることを提議したが、清国は内政干渉にあたるとしてこれを拒否した。清国が拒否すると、7月、日本軍は、朝鮮の首都漢城(現在のソウル)の王宮を襲撃して閔氏政権を転覆させ、親日的で「改革派」の流れをくむ金弘集らの政権を発足させて、大院君を執政にすえるとともに、清国軍への攻撃を開始した。 金弘集らの政権は、この非常事態を逆用して次々と独自の改革政策を打ち出した。完全な傀儡政権ではなかったが、日本の利権拡大に手を貸す結果となり、民衆の強い反発を受けた。 日本と清国は、8月1日に相互に宣戦布告し日清戦争となった。(詳細は「 ![]() 開戦直後に、日本は金弘集政権に強要して「日韓暫定合同条款」を結んで京釜・京仁の2鉄道の敷設権などを認めさせ、「大日本大朝鮮盟約」により日本軍の朝鮮国内での通行や食料徴発の権利を認めさせた。 全琫準の農民軍は、第二次の蜂起を計画するが、東学教団の上層部が宗教的平和主義のために反対し、その説得に時間を費やしてやっと10月に行動を開始する。 しかし、日清間の戦闘はこの間に大勢が決し、余裕のできた日本軍は主力を農民軍攻撃に向けた。農民軍は、近代的な装備と訓練の行きとどいた日本軍と朝鮮政府軍に対して、11月末の忠清道公州での会戦で敗れた。農民軍は壊滅して敗走し、ちりぢりに農民の姿にもどって迫害を避けたが、徹底的な弾圧を受けた。全琫準らの指導部は、翌1895年初頭に捕らえられて首都漢城(現在のソウル)で処刑された。 【東学党】 東学党とは、東学という当時の新宗教を奉じる党派を意味する。 東学は、1860年に、崔済愚(さいさいぐ)によって開かれた。崔済愚は没落した両班(注)で、当時は行商人になっていた。そのため、両班の素養と民衆の不満を兼ね備えていた。 (注:両班とは、もともと文班と武班の2つの班に分かれていた李氏朝鮮の中央支配官僚とその子孫を意味する。) 東学には、西学(西洋の天主教)による西欧の侵略に対決する東洋の主体的な思想を創るという意味が込められている。教義の核心は「人すなわち天」「侍天主」といった語に代表されるように「絶対的な価値の基準は、超越的な神にあるのではなく、万人の内面にある」とする。「後天開闢」(現世における世直し)という社会革命も辞さずとし、人々が東学に結集すれば万人が楽しく暮らせるユートピアを地上に現出させることができるとする。 朝鮮政府は弾圧を行い、教祖の崔済愚も1864年に処刑されたが、その後も農民の間に広まっていった。 【全琫準(ぜんほうじゅん)】 1853〜1895 地方官吏出身の貧しい書堂(初学者のための私塾)の教師であった。 小柄であったため、「緑豆(ノクト)」とあだ名され、蜂起後は農民から「緑豆将軍」と呼ばれた。 彼が処刑された後、全羅道地方で次のような民謡が歌われたという。 鳥よ鳥よ、青鳥よ 緑豆の畠に下り立つな 緑豆の花がホロホロ散れば 青餔売り婆さん泣いて行く 青餔(チョンボ)は緑豆で作った菓子で、青餔売りは貧しい民衆の象徴でもあった。 ![]() 大阪産業大学 藤永壯 助教授 のサイトから 【参考ページ】 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 【LINK】 ![]() 大阪産業大学 藤永壯 助教授 のサイト 参考文献 「朝鮮史 新書東洋史10」梶村秀樹著、講談社現代新書、1977年 「教養人の日本史(4) 江戸末期から明治時代まで」池田敬正、佐々木隆爾著、社会思想社 教養文庫、1967年 「クロニック世界全史」講談社、1994年 「ジャパン・クロニック 日本全史」講談社、1991年 「朝鮮 地域からの世界史1」武田幸男・宮嶋博史・馬渕貞利著、朝日新聞社、1993年 更新 2013/3/18 |