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第33回 コラム:来たるべき世紀 partW
1999年、非政府組織(Non Governmental Organizations:NGO)の主催するハーグ平和市民会議での提言「21世紀の平和と正義への課題(Hague
Agenda)」では20世紀を「最も戦争に苦しめられた世紀」とし、この時代を踏まえて「戦争のない21世紀」へ引き継ぐために以下のように訴えている。
- 市民(団体)の重要性
- 軍備に頼らない人間の安全保障と人権の尊重
- 力の支配から法の支配への転換
これに伴ない、「国家主権や国境の観点からでなく、人間性や生態系の観点から安全保障を再定義」するべきと提唱している。また、このようにも表現している。「経済力の過度な集中と新自由主義的マクロ経済政策の強要が、環境を破壊し、貧困と絶望をもたらし、戦争を助長している」と。
これは「戦争」と「平和」、「環境」という観点から主張しているものであって、私としては100%賛同、とまではいかないにしてもある程度このような考え方には賛成である。確かに過度なマクロ経済政策の強要により、「隣の芝生は青く見える」意識を増長させ、ますます経済格差を拡大しているのではないかと思う。「物質的な豊かさ→開発→環境破壊」という図式はマクロ経済政策そのものであるが、あくまでも人間を中心とした「環境」という概念、つまり人間のエゴを強要していることに他ならないと思う(この「環境」というエゴについては既に第26回"来たるべき世紀 partU"で述べた)。
ハーグ平和市民会議での提言の1点めで述べられている「市民(団体)の重要性」とはなんだろうか。私が推察するに、国家とかそういう枠組みでなく、市民という別な枠組みで考えよう、というものではないだろうか。そもそも国境線というのは地理的に川とか海とかで定められているのは非常に幸運な部類で、領土争いという戦争の果てに血で引かれたものや、大国の植民地支配による都合やイデオロギー対立(冷戦の時代)によって無理やり民族の意思を無視して引かれたものがほとんどである。また不明瞭な国境線をめぐって紛争が発生しているのも現実である(でも生きている人間個人個人にはあまり国境という枠は重要な概念ではないのではないだろうか)。
国境線と領土というものが切っても切れない線で結ばれているため、「隣の芝生が青く見える」場合とか自己顕示欲の対象として侵略、略奪が繰り返されてきた。侵略、略奪の恐怖に対処するために防御として軍備をし始めたのか、侵略、略奪のために軍備を始めたのか、どちらが鶏でどちらが卵だかわからないが、それが人間の歴史であった。そこで、ハーグ平和市民会議での提言の2点めに挙げられている「軍備に頼らない人間の安全保障」ということには賛成である。
このことは日本国憲法第九条にも通じていることでもあると考える。実際このハーグ平和市民会議では「日本国憲法の理念や日本の平和運動の現状を世界に伝え、連帯を求めよう」という趣旨が設けられている。ここでいう日本国憲法とは当然第九条のことを指す。その日本国憲法第九条は「全人類の普遍理念である」ともしてある。
ただしかし、日本は世界的軍縮を進める上で充分な力を発揮できないでいるとしている。このハーグ平和市民会議に出席しているNGOのメンバーは日本の現状を充分把握していると思う。超経済大国、超軍事大国であるアメリカ合衆国の腰巾着(51番めの州とも言われる)と成り下がっている日本の政治。その政治をシビリアンコントロールできないでいる日本国民。何をやっても無駄だ、何も変わらないと諦めている日本国民。自分の居住する「村」さえよければいいと思っている極端に視野が狭すぎる日本国民。しかし、誰が変えるのか、どうしたら変えるのかの答えはまったく見えない。
人間は基本的に衣食住が保証されている状態では争いを起こすことはない(これは極端な「村」社会、日本を見れば明らかである)。民族が異なる、宗教が異なるという理由だけでは争いを起こすことはない(旧ユーゴスラビアでは民族、宗教が親類縁者間でも雑多な環境で長いこと暮らしてきていたのだから。今現在の旧ユーゴスラビアで起きている紛争は極右思想や大国のエゴが介入してきた結果でしかない)。争う大義名文として民族や宗教が用いられるだけである。それがわかっていてなぜ今現在紛争が絶えないのか(今現在紛争の火種、民族問題が全世界で約140存在する(1996年現在)。その中には日本の竹島、北方領土問題をはじめ、北アイルランド問題や、南北朝鮮半島問題、カシミール地方をめぐる中国、インド、パキスタンの問題も含まれている)。それはその大義名文が大国や起こすものの利害によって利用されるからである。
しかし、私が見知った狭い範囲で言わせてもらえるならば、世界中どこに行っても程度の差こそあれ、「村」社会の延長であるような気がする。過去人間が起こしてきた戦争も「村」意識の延長でしかなかったし、世界は大小の「村」が寄り集まったものではないだろうか(それは今も昔もあまり変わっていないのではないだろうか)。この「村」社会を打ち破るには何が必要なのであろうか。
文字文化の延長であるので、言語の壁は存在はしているが、国境線のない世界が現時点でインターネットの中に実現されている(ただし、秩序やモラルは未だ存在していないが)。インターネットの世界では国とか民族とかを隔てる壁は存在しない。コンピュータ技術の進歩によって、文字や音声や画像などのデータを符号化することにより一括して処理できる、伝送できるようになってきた。このデータを符号化して処理することが情報化である。今後形として存在しない文化や秩序やモラルもやがて情報化されるようになるだろう。情報化が進んで様々な情報が相互に伝送しあうことになるだろう。そうやって情報化が進むということは、国家とか民族とかの囲いが希薄になることだと私は考えている。そうなれば国境線や領土といった現在の争い事というものは過去の遺物となるだろう。
インターネットの世界にひとたび潜れば、世界中の至るところからリアルタイムで発信されている情報、様々な世界情勢についての分析やら提言から、教科書、学校、マスコミのニュースでは伝えられない歴史を知ることができる。ネットワーク全体が巨大な情報のデータベースとなっている。が、まだいかんせん「物質的経済の豊かさ=情報的豊かさ」という状態であり、まだまだ発展途上の段階であるといわざるをえない。このある意味間違った状況は今後修正されていかなければならないと思う。
しかし、たとえ情報化が進んで国境や民族とかの境界線が消滅したとしても、テロリズムだけは消滅しないだろう。テロリズムが人間の誰しもが感じる恐怖心を標的としているためだ。ただはっきりしているのは、テロリズムで社会が変わることはない。テロリズムはある意味暴力だ。暴力で歴史は変わらない。この暴力をいかに制するのか。暴力に対し武力や抑圧で対抗してもそれは今までの歴史の繰り返しになるだけであるし、洗脳で対抗してもそれはそれで問題である(洗脳も思想的暴力と言えなくもない)。これからの人類に対しての課題であるだろう。
ハーグ平和市民会議での提言3点めで挙げられている「力の支配から法の支配へ」であるが、この「力の支配」からの脱却には多いに賛成だが(力で抑えつけようとすれば抑えつけようとするだけ歪みが大きくなる。その「力の支配」は貧しい考え方なのではないのだろうか)、「法の支配」よりは「モラルの支配」でありたいと考える。モラルの結集が法であるならばそれはそれでも構わない(「支配」という言葉にはいささか抵抗感があるが)。モラルとはよりよく生きるための方法、考え方のことを指す。よりよく生きる、地球という枠の中で、互いに互いを認めあい、理解しあって共に生きる。それがこれからの時代の我々の生き方なのではないだろうか。
歴史から学び、様々な文化を認め合い、理解し合い、様々な考え方を出し合い、話し合うことでよりよい解決方法を見つけだし、互いに互いのよりよく共に生きていく方法を探していく。今地球上で生きている全ての人類、生き物たちは奇跡的な偶然で共に生きているのだから。だからこそこの偶然に感謝しつつ、よりよく生きていくためのモラルを探し続けていくべきではないだろうか。
「情報とモラルの時代」と、後に21世紀を表現される時代にしたいと私は思う。
(1999. 5.16.)
今回参考にさせていただいたWebPage
- 朝日新聞 http://www.asahi.com/
- インターネットで読み解く! http://www.alles.or.jp/~dando/
- 世界の民族問題初級編 http://www.komazawa.com/~mitake/semi/ethno0.htm
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