BCJフォーラム(19) [07/04/22〜]


ご意見・ご感想のコーナー
BCJファンの皆様からお寄せいただいたご意見やご感想などを集めてみました。内容をできる限りBCJのみなさんにもお伝えして、お返事などを頂けましたらあわせてこのコーナーでご紹介していきたいと思っています。是非こちら[makoto-y@mxi.mesh.ne.jp]までご意見等をお寄せ下さい。特に投稿フォームは設けませんが、お送りいただいたメールの内容をこのコーナーで紹介させていただこうと考えておりますので、掲載をご希望されない場合は、その旨お書き添えいただけますようお願いいたします。(ご意見・ご感想No.337〜)

*ご意見・ご感想の中の太字表記は、当ホーム・ページの制作者によるものです。

360 《素晴らしいヨハネ週間でした。》

矢口様 御無沙汰しております。
今年の素晴らしかった3日間のヨハネ週間に関するフォーラムの中島様・矢口様のコメントを、大変興味深く読ませていただきました。

2002年3月、BCJの定期でヨハネ受難曲の第2稿が演奏されましたが、それまで慣れ親しんでいたものとまったく違った別の曲のようで、大きな衝撃を受けました。その後鈴木様の御著書で、バッハの書いた第1稿と第2稿では、その神学的意義がまるで違っているという御説を知り、以来なぜバッハはこのヨハネに何度も手を加えたのか、また残された4稿のいずれがバッハの本心なのだろうかと疑問に思っておりました。(おそらく皆様も同じ疑問をお持ちだったと思います)

今回の2回のレクチャーでゲストの小林義武・川端純四郎の両先生がその問題に触れられました。小林先生は私見と断られた上で、「冒頭と最後に合唱の枠を作り、マタイからの引用と40番のコラールを削除した第3稿が最もバランスが取れているのではないか、第3稿でバッハは純粋なヨハネ伝の精神を目指したのではないかと思う。」と言われたあと、「おそらくバッハ自身は、第1稿に最も満足していたのではないか」とコメントされたのが大変印象的でした。

しかし皆様と同じく、あの喜ばしい40番のコラールがないヨハネなどほとんど考えられない私個人としては、失明直前のバッハは、第4稿で当局の圧力から歌詞こそ変えながらも音楽はペテロの否認(川端先生は、バッハは自分こそペテロだと感じたのではと言われました)を含めて殆ど第1稿に戻し、40番の明るい復活のコラールで終えるのが最晩年のバッハの真意だ、と思いたいのですが・・・。

とはいえ、いついかなる場合にも常に信念を曲げることなく、自分の才能の最善を尽くさないではいられなかったバッハであってみれば、どちらかということに意味があるのではなく、どちらもバッハの本心だったことに疑いないのではないか、というのが今回のレクチャーを伺った後の私なりの結論でした。

今回両先生の素晴らしいお話には伺い大きな感銘を受けましたが、私としても今まで単にバッハを受身で聴くだけでは充分でない、さらに奥深い音楽的・神学的理解を目指さねばならないと痛感致した次第でした。しかし、こんな凄い内容のレクチャーなんてあり得るのでしょうか!(鈴木様のヨハネの詳細なシンメトリー分析図も凄いものでしたね)

そして最後の3日目のBCJの演奏!
中島様は、前日のレクチャーで使われた自らのCD演奏を鈴木様が「若い頃の不協和音はツメが甘いですね・・・」と言われたのを聞きながら、実演の第一曲を聴き逃されたとのことでしたが、それは誠に痛恨でした。今回の冒頭第一曲の冒頭の鋭い不協和な軋みは尋常ではなく(三宮様と尾崎様の物凄い気迫!)、これから始まる悲劇を表現して余りあるものでした。そしていつになく起伏の大きなドラマを歌い上げる練達の合唱(かくも身の毛もよだつ凄惨なドラマと敬虔で真情溢れるコラールが、同じ合唱団で歌われるたはとても信じられません)には、まったく圧倒されました。そしてアリア彩る器楽・弦の名手の見事さ!特に35番での野々下様の「溶けて流れよ我が心」の名唱とそれ支えた前田・若松・三宮・秀美・優人様の甘美で素晴らしい合奏には、恍惚とするばかりでした。そして最後のコラールの見事さ!

誠に得難い3日間ではありました(正直少々疲れましたが)。今秋にはヘンデルの大曲まで演奏されるという鈴木様とBCJの今後の御活躍に期待しましょう。

(玉村 稔様) (07/04/26)
玉村様、せっかく頂戴したお便りをご紹介するのが遅くなってしまい申し訳ありません。公演直後に検索しましたら、ネット上のブログにも今回のレクチャーや演奏について色々なご意見がありましたので、リンク集のような形で皆さまにもお知らせしたいと考えています。ただ、なかなか時間が取れず実現に至っていないことが痛恨です。ともあれ、実に濃い3日間(私は神戸にも参りましたので4日間でしたが!)でした。 (矢口) (07/05/29)

359 《1つの理想形としての「ヨハネ」》

待望のBCJ《ヨハネ受難曲》神戸公演。今まで予習していたものがすべて吹っ飛ぶような,とても充実した《ヨハネ受難曲》第4稿。[雅明さんのスコアも見たところCarus社の2002年出版の第4稿と思われます] あっという間の2時間18分でした(休憩20分含む)。

天気が予報と違って曇りから雨。雨が降る直前に特有なすごい湿気の多さ。楽器の調整が大変じゃないかなと心配でしたが,秀美さんが何度か直しておられたのは,単に湿気のせいだけじゃなくて思いっきり弾いておられたこともあったに違いありません。

編成は,合唱が各4名ずつといつもより多いので,祭壇?の後ろに並ぶという配置。エヴァンジェリスト以外のコンチェルティストは合唱の中に入ってました。もっとも神戸公演も完売なので,客席も本当に一杯一杯でした。あとは,カンタータの時と比べると,チェロが1名とコントラ・ファゴットが1名追加(第2部でガンバも)。そのせいで,ヴィオラがいつもより下手の,第2ヴァイオリンの後ろにおられました。チェンバロは優人さんに一任して,雅明さんは指揮に専念しておられました。[ヴィオローネは4弦でlow D]

プログラムは1,500円でしたが,バッハ学者マリッセン氏の注釈付きの対訳,小林氏と川端氏の寄稿と,雅明さんと小林氏による《ヨハネ受難曲》変遷表も入っていて充実していました。プログラムは早々に完売ということで以前のものが一旦売られましたが,第2便が到着ということで事なきを得たのでしょうか。
マリッセン氏の注釈で「ヘブライ語」に関して「実際にはアラム語」と記されている点については,紀元1世紀の言語状況はかなり複雑であり,一時言われていたように「新約聖書で『ヘブライ語』と書いてあるのはアラム語のこと」とは単純に言えなくなってきていると思います。ヘブライ語の中に既にかなりのアラム語が入り込んでいてヘブライ語の語彙の一部になっていたかもしれません(現代ヘブライ語のように)。小林氏の詳細な資料分析にはうならされ,川端氏の「楽長型カントール」としてのバッハもなるほどという思いで読みましたが,川端氏のを拝見してヨハネの福音書の特別な性格とそれをバッハ的確に捉えて音楽としていたというのは重要な点だと思いますし,だからこそ最後のコラールは決して蛇足でもなんでもなくてなければいけないコラールであることを改めて思いました。

以下,いくつかの曲について断片的に。
第1曲:合唱が「主よ!主よ!主よ!」と3回叫んで,あっという間にその世界に引き込まれました。上手にいたので,バスが音量を上げながら上昇していくのを聞いて,やはり主を賛美する表現はこうではないかと思いました。
第2曲:レチタティーヴォでプファイファー登場。着実に仕事をする職人さんという印象。かといって決して無味乾燥ではなく情感豊か。チェンバロは右手が活発?
第3曲:コラールではイエスのヴェルナーは参加しない?イエスはトゥルバじゃないから?と思ったら第2部は結構参加。
第7曲:テイラー登場。気のせいかオーボエとのコンタクトが?
第8曲:野々下さん登場。フルート起立。何とも暖かな喜びに満たされたアリア。野々下さん今日は特に充実。
第10曲:長いレチタで下女や下役やイエスも登場。プファイファーのドイツ語は,割と現代の話し言葉に近い発音か。「Diener」などは「ディーナー」のように,自然な響きに聞こえて大げさすぎない感。
第11曲:このゲルハルトのコラールは高速。
第12曲:浦野さんのペテロももうすっかり定番。「鶏」にはチェンバロの装飾が。「ペテロは…激しく泣いた」はゲルトのよろめくようなじっくりよりはやや速く,泣きながらもその場を早く去りたい心理か?
第14曲:コラールにヴェルナー参加。あっという間の36分。
[第1部終了後に拍手がなかった。いやしないように雅明さんもされて,聴衆もそれに応えていた]

休憩。雨が降って急激に寒くなってきたので,トイレが満杯。知り合いが来ていたのでしばらく談笑。

第2部開始。
第15曲:やはり《ヨハネ》のコラールは厳しい。フルートの位置が入れ替わっている。なぜ?と思ったが,第35曲で解決。
第16曲:浦野さんのピラトも定番。合唱の「悪事を為すもの」の半音階の上昇音型,「殺す」の上昇して下降する半音階も目の前で聴くと実に不気味。イエスの出番が多くなるが,ヴェルナーのイエスも良い。
第17曲:「反王権のシンメトリー」の中心。この両側に合唱(トゥルバ)による反イエスの表現が。
第18曲:人殺しバラバの名前が強く登場。「鞭打たせた」は跳ねる感じで3連にならず。
第19曲:ヴァイオリン2名起立。コントラ・ファゴットは入るがファゴットは入らない。結局チェンバロが入りました。不協和音と繊細な楽器の音が合わさった何とも無気味だけれども不思議な美。耽美的で結構好きな世界です。歌詞も第1稿でしたらさぞどぎつい表現だということがわかります。
それにしてもオランダなどでよく見た「ヴァニタス」のような頭蓋骨を描いた絵画を思い出します。これが本当に多くてなぜ絵画の題材になるのか理解できない面もありますが,この曲もそうした流れで捉えられるものか?
第20曲:第19曲に比べればあっさり聴けますが,ここはじっくり。これも第1稿の歌詞はなかなかどぎついです。
第21曲:21b合唱での細かな音型での嘲笑の表現が,ヴァイオリンも重ねて一層強く。21fフーガの合唱での「Gesetz」の子音の強さ。その時のユダヤ教の律法主義的側面を感じます。
第22曲:スメントが指摘したシンメトリーの中心のコラール。じっくり丁寧に歌詞の表現がなされていました。捕われによって自由に。イエスが僕にならなければ我らは僕から解放されない。最後の半音階で上がるバスの進行。
第23曲:シンメトリーの逆。全く違うが,R・シュトラウスの《アルプス交響曲》を思い出してしまいました。シャープ圏からテヌート気味に「十字架にかけられた」で一気にフラット圏に移るのが本当に見事。
第24曲:「どこへ?」は素晴らしいの一言。合唱の「どこへ?」も美しくもゴルゴタへの厳しい響き。「ゴルゴタ」は語形としてはアラム語です(ヘブライ語なら確か「グルゴレト」)。アラム語は語尾に「アー」が付く語形がとても多いのですが,上述のようにだからといって「アラム語」とはすぐに言えないと思います。
第26曲:このコラールは過度に確信的にならずどっしりしみじみとした表現。
第27曲:十字架の下でお気楽な兵卒たちの様子が乗り移ったのか,楽しげな演奏者も。
第30曲:アルトのアリア。オルガンも音は少なめ。ガンバはさすが。アルトも情感豊かだったが「最後の」の長いcisが短いのは意図的?3拍子から4拍子に戻るところの間がもう少し欲しかったが,好みの問題か?それにしても,カウンター・テノールの端くれとして,この曲は歌ってみたい。
第31曲:終わった後の長い間と静寂…。
第32曲:ヴェルナーは立つが,合唱は座ったままで。何ともフレンドリーな良い雰囲気。ヴァイオリンとヴィオラもなぜか印象的。[この曲の時に携帯が数秒鳴って冷や汗をかきましたが,演奏家の方は集中されままで,聴衆も集中を乱さず,事なきを得ました]
第33曲:地震の表現もあまり大げさ過ぎず。
第35曲:ソプラノのアリア。フルートはヴァイオリンの所へ。左:ヴァイオリンとフルート,中:ソプラノ,右:オーボエ・ダ・カッチャという3点定位が実に効果的。野々下さんは今日とても良かったと感じました。「死んだ」の装飾はそうきましたか!
第39曲:合唱は,間の多さと,繰り返しでの遅さが印象的な子守歌。
第40曲:やはりこのコラールがないと《ヨハネ受難曲》は終われません。キリストは神の御子であり勝利者。「クリスト」にフェルマータ。本当にキリストへの大きな祈りでした。「恵みの玉座よ」と「わが祈りを聴き給え」のあとの間も印象的
このコラールが終わった後思わずうるっと来たのですが,演奏者の中にもそうした方がおられたのを見て,今日は本当に良い演奏だったとしみじみ思いました。カーテンコールの多さに,雅明さんも満足しておられたんだなぁと感じました。

終演後にある人と話したのですが,《ヨハネ受難曲》で大切なのはバランスで,これまで聴いたCDの多くは合唱が強すぎたり,逆にどこか弱かったりして,本当は難しい曲なんだということで同意しました。今日は松蔭という空間でそのバランスがうまく取れて,1つの理想型としての《ヨハネ受難曲》になったのだと思います。
父の1周期を2月に迎えたこの年,本当に良い《ヨハネ受難曲》を聴くことができて,新たに力を得ました。[4/8復活祭の日に]

(竹内茂夫様) (07/04/08)
いつもながらの詳細なレビュー、ありがとうございます。原文はこちらのブログに書かれたものですが、当ページへの転載にあたって、若干の省略をさせていただきました。どうかご了承ください。
(矢口) (07/05/29)

358 《どうもありがとうございました。(ヨハネ受難曲感想)》

矢口様、先日(もう大分前ですが・・・)ロ短調ミサ曲の録音について質問させていただいた者です。その後回答を頂戴していただいたにも関わらず、御礼のメールもせず失礼致しました。
直ぐにお礼はしませんでしたが、まさか回答を頂戴できるとも思わず、また本当に録音したと伺って感激いたしまいした。今から発売が本当に待ち遠しいです。

さて、先日2日間のレクチャー聖金曜日のヨハネに行ってきました。
レクチャーではとても興味深い話が聞けました。小林先生は最後のコラールについてやや否定的な意見をお持ちで、川端先生は肯定的な感情をお持ちだ、というところに興味を覚えました。
また2日目のレクチャーでは隣に座っておられた浦野さんが急に歌いだしたりして、びっくりするやらその深い豊かな美声に感動するやら、とにかく貴重な体験をさせていただきました。

ヨハネ当日は、電車の遅れに巻き込まれて、なんと会場に到着したのは冒頭合唱の始まった直後!!!レクチャーで鈴木さんが冒頭のオーボエの不協和音についてコメントしておられたので、そこを楽しみにしていたのに・・・。悔やんでも悔やみきれません。(しかし、ホールの外で聞いていましたが、不協和音の効果は録音よりも際立っているように感じました。)

今回も素晴らしい演奏で、とても幸せな時間を過ごすことが出来ました。
今日は質問というよりも感想に近いのですが、以下の2点を矢口さんをはじめ皆さんがどうお感じなったかと思い、メールさせていただきました。

1.最後のコラールについて
鈴木さんの演奏では、とてもポジティブなエネルギーに溢れていて、やはり必要な曲などだと感じました。その前の合唱でヨハネの「枠」は閉じ、しかし、受難という悲痛な出来事で終わるが、それで終わりではないというか、とても前向きで、その後にくる復活を予感させ、確信するような終わり方と思いました。ヨハネの物語を飛び出した、現実の世界での祈り、といいますか。うまい言い回しは出来ないのですが。私はキリスト者ではないのですが、イエスは本当に復活するのだ、という確信に私も導かれる思いでした。

2.曲が終わった後の拍手について
今回、まだ鈴木さんが手を下ろしきらないうちに拍手を始めた方が何人かおられました。私は上記1.の理由で感動に浸っていましたので、少々不快というか、余韻に浸る間もなく現実に引き戻されてしまったようで、違和感を感じました。宗教音楽ということもあり、最後の一音がなり終わらないうちに「ブラボー!」と叫ぶヴィルトゥオーゾのコンサートのようなリアクションはふさわしくないと個人的に感じたのですが、実際に演奏されている皆様や、他の聴衆の皆様はどうお考えなのでしょうか・・・。(すいません、ちょっと口うるさいとお思いになられるかも知れません。が、そのくらい違和感を感じたのです。)

以上、ダラダラと長くなってしまいました。申し訳ありません。
これからも貴HPの発展とBCJの益々のご活躍をお祈り申し上げます。

(中島 豊 様) (07/04/16)
中島さま、こんにちは。お便りありがとうございます。今年の受難節はレクチャー+ヨハネで、本当に濃い毎日でした。さて、そのヨハネの演奏についてのご感想ですが、まず、最後のコラール(第40曲)は、私もなくてはならない曲だと思っています。レクチャーでの小林義武先生の、純粋な「ヨハネ伝による音楽」としてはあらずもがなのものかもしれませんが、バッハの受難曲としては欠くことのできない一曲と思います。次に演奏後の拍手については、まったく同感です。今回の東京公演はやはり早すぎる喝采でしたね。普段のカンタータの定期などでは充分に余韻を楽しんでからの拍手がほとんどで、素晴らしいのですが、今回は普段BCJにお見えになっていない方もいらしたためでしょうか。その点、翌日の神戸公演は早々に売り切れてしまったこともあってか、なじみの皆さんばかりだったようで、最後のコラールが終わり、鈴木雅明さんが完全に腕を降ろされてからさらに一呼吸あってから拍手が沸き起こりました。これは素晴らしい体験でした。もっともその松蔭チャペルでも、昨年のマタイのあとは、どうも外国人の方と思われる人が最期の音が止むか止まないかというタイミングで拍手を始めてしまい、気まずい思いをしたこともあります。この拍手のタイミング一つとってみても、一期一会のものなのでしょうね。来年の受難節のBCJマタイ演奏では、是非会場全体で余韻を噛みしめたいものです。
(矢口) (07/04/22)
あのヨハネ公演からもう一ヶ月以上の時間が経ってしまったのですね。今回の演奏に向けたレクチャーの「濃さ」には驚きました。2日間という充分すぎる時間をとってあったはずですが、初日にずらりと並べられた現存する「ヨハネ」のすべての楽譜資料のコピーを見る時間や、2日目のシンメトリー構造のさらに核心にあるもののお話など、結局時間は足りないぐらいで、まだまだお話をうかがいたいところでした。
続く聖金曜日の演奏は、今までのBCJ「ヨハネ」と異なる表現が随所に見られ、厳しさの中にも私は何か温かなものを感じたものです。そして翌日の神戸公演では、今回のプロジェクトの最良の成果が発揮され、実に感銘深いヨハネが鳴り響いたのでした。

さて、ご意見をとのご要望の2点についてですが、まず1.の最終コラールについては、やはり私は「なくてはならないもの」と思います。2.の拍手については、確かに今回の東京公演では、最低もう一呼吸間が欲しかったですね。名古屋公演でも拍手の早さが話題になっていましたが、最後の神戸公演では、実にしみじみとした静寂が保たれてからの拍手となっていました。普段のカンタータ公演では、東京でも充分な静寂がありますので、今回のヨハネ・東京公演は、まだBCJの演奏会に通い慣れていらっしゃらないお客様がいらしたのかもしれませんね。こうしたマナーといいますか味わい方も、色々な条件に左右されながら少しづつ変わっていくものと思っています。10月にCD発売記念として開催される予定の「ロ短調」公演で最後の余韻を堪能できたら素晴らしいでしょうね!! 是非そうありたいものです。
(矢口) (07/05/22:「Q&A」に同じお便りを二重にご紹介してしまった時のコメントです。07/05/29にこちらにまとめました。)

357 《新聞・雑誌におけるBCJの記事について》

矢口様 こんにちは。初めてメールさせていただきます。バッハの宗教曲は2〜3年前まで敬遠していたのですが、だまされたつもりでBCJのCDを聴いて以来、すっかりはまってしまいました。それからというもの、2〜3ヶ月に一枚はカンタータのCDを買い求め、第9巻まで拝聴しております。聴いていく上で、このサイトは、本当に助けになります。今後とも、情報、データをよろしくお願いいたします。

さて、ご存知かと思いますが、読売新聞 1月26日?夕刊に、鈴木秀美さんの記事が掲載されていました。記事そのものは、このサイトに転載は無理かとは思いますが、「雑誌・新聞等に関係の方の記事が掲載された云々」程度のことも、御紹介していただければありがたいです。(あるいは、膨大過ぎて、無理なんでしょうか?)

今後とも、更なる広報?活動をよろしくお願いいたします。

(Haruhisa & Mitsuko YAMAGUCHI 様) (07/02/04)
YAMAGUCHI様、お便りのご紹介が遅くなってしまい申し訳ありません。
BCJ関係の報道については、できるだけご紹介したいと考えてはいますが、現実には、特に新聞での記事などは著作権の関係や、記事の掲載を知ってももう過去のことになってから、という点がネックになり、正直難しい面が多いです。ただ、その記事をお読みになっての感想などはこの「フォーラム」でご紹介していくこともできますので、よろしければまたお便りください。
最近のケースでは、3月に日経新聞の夕刊紙上で鈴木雅明さんに関する特集があったそうですし、数日前に今年の「ヨハネ」公演の批評が出たともうかがっております。お読みになられましたでしょうか? (矢口) (07/04/22)

356 《セバスチャンと呼びたくなる本のご紹介》

 こんにちは。川澄と申します。かけだしのバッハファンです。
 
 川端純四郎著『J.S.バッハ 時代を超えたカントール』をお読みになられたでしょうか。
 かけ出しの私が知ったかぶりをしてお勧めするのは気が引けるのですが、ある書評では「膨大な資料をもとに、バッハが生きた時代の社会的・宗教的な状況を詳細に検証。著者独自の新しい視点でその生涯を追う。時代ごとに彼が遂げていった変化、彼が目指していたものは何だったのか。賛美の調べを奏で続けた大音楽家の生涯が生き生きと感じられる秀作」と。
 読んだ後には、「バッハ」ではなく、つい「セバスチャン」と呼びたくなる、そういう本だと思います。
 貴サイトからもリンクされている富田氏のHPにも紹介されていました。
http://www.music.qub.ac.uk/tomita/bachbib/review/bb-review-j_Kawabata.html
 装幀の画像でおわかりのように、鈴木雅明氏も絶賛されているようです。
 
 著者 川端純四郎氏のサイトもあるようです。(HPの作りはイマイチとは思いますが)
http://www.jade.dti.ne.jp/~jak2000/index.html

 失礼しました。
 
(川澄 敏雄 様) (07/01/14)
川澄さま、お便りをいただいてからもう3ヶ月が過ぎてしまいました。申し訳ありません。
ご紹介いただいた本ですが、今回のBCJ「ヨハネ」公演に先立つレクチャーに、川端先生御本人がゲストで出演されたおり、会場で入手いたしました。まだつまみ食い程度にしか中身に目を通せていませんが、これからじっくり楽しませていただこうと思っています。
レクチャーでも言及されていた、ヨハネ受難曲における「反ユダヤ主義」の問題について、バッハ本人が関与したテクストにはまったくそのような部分はないというご指摘に、大いに納得いたしました。しかし、難しい問題をはらんだ話題であることは事実ですね。ご紹介、ありがとうございました!
(矢口) (07/04/22)

 


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