戦時の『マタイ』、そのメッセージ
〜BCJ 2003 アメリカツアー、受難節コンサート〜

矢口 真


[プロローグ]
 「2003年4月、BCJは初のアメリカツアーを行い、帰国直後の聖金曜日、東京で『マタイ』を演奏する。」 これは、数年に渡る関係者の皆さんの準備と、我々BCJの聴衆(アメリカツアー各地の公演プログラムには必ず「Special thanks to the BCJ Audiences in Japan who contributed to the funding for this tour.」の文言が印刷されていたという)を含めた多くの人々の支援が実現させたものである。しかし、この一連の受難節の演奏が戦争で緊張した世界情勢のもとで行われるようになることを、誰が想像し得たであろう。
 予兆はすでに2年前の9月、あの「9.11」にある。それは今日にいたる世界の新たな緊張のプロローグであったのみならず、BCJのツアープランにも大きな影響を与えたものであった。聞くところによれば、当初のプランでは、カーネギーホールの複数の施設を使っての“ミニ・BCJフェスティバル”のような企画であったとのこと。それが、あの「9.11」に端を発するニューヨークの混乱などで大ホールでの『マタイ』公演のみになり、その公演を核として他の諸都市での演奏会が企画されたそうだ。すでにそのような社会情勢の中で準備されたツアーと日本での公演だったのだが、出発直前の3月20日、訪問先の国が戦争のまさに当事国になるという事態にまでいたってしまう・・・・。
 同時期の日本からのサッカーチームの渡米や、大リーグの来日が次々に中止になっていく中、BCJメンバーの皆さんは議論を重ねた(第58回定期公演「巻頭言」参照)。 かの国からは”こういう時だからこそ是非来て音楽をして欲しい”とのメッセージが続々と舞い込んだ(「第58回定期プログラム冊子p73「感謝」での記述などによる)。 そしてBCJはツアーの決行を決意した。
[アメリカにて]
 初めの公演地ロサンゼルスはとても穏やかで暖かい気候だった。メンバーの皆さんに同行してくださったカメラマン・三浦興一さんのショットが、戦争当事国のうららかな春の日の様子を物語っている。(「第58回定期プログラム冊子p40,41参照) 当時、戦いはイラクの首都バグダッドでの攻防に向け、緊張を高めている時だった。いく度にも渡る大規模な空爆と交戦がくり返されていたが、日本ではある程度紹介されていたその空爆の被害の様子などが、当事国 アメリカ本土のメディアではまったく紹介されていなかったそうだ(BCJメンバーの方のお話)。
 ツアーのハイライトともいえるニューヨーク、カーネギーホール公演の当日は、前日の大雪もあり、厳しい寒さだった。我々はその状況をリアルタイムにテレビの衛星中継で知ることができた。まさにこの同じ日、本拠地での大リーグデビュー戦を見事な満塁ホームランで飾った松井秀喜選手の活躍のおかげである。そのホームランが飛び出した頃、BCJはリハーサルを終えたところだったとのこと。そして、鈴木雅明/BCJの入魂の『マタイ』がニューヨークに響いた。
 ツアーの最後の2公演は、日本と同じ8人のソリストによる”分離”『マタイ』。(それまでの公演は、昨年2002年のスペインツアーと埼玉公演と同様な旅ヴァージョン) 大勢のバッハ学者が集結し、シンポジウムも開かれたグランラピッズ公演での会場の静寂は並のものでは無かったそうだ(「静寂の質が違った」とは鈴木秀美さんの弁)。 バグダッドは陥落し、アメリカの大義による戦いの趨勢が決したころの事である。そしてBCJの一行は「誰も死なずに」帰ってきた。この戦時のアメリカでの『ヨハネ』『マタイ』の演奏体験はBCJに何をもたらしたのだろうか。
[復活の『ヨハネ』、そして聖金曜日の“特別”な『マタイ』]
 4月17日、聖木曜日。不死鳥のように“よみがえった”日大カザルスホールを賛美するかのような素晴らしい『ヨハネ受難曲』が演奏された。(詳しくはこちらに書きました!) そして聖金曜日の4月18日、BCJ第58回東京定期公演・受難節コンサート2003のハイライト、本拠地・東京オペラシティでの『マタイ』を迎える。
 この日の演奏は様々な意味で“特別”なものだった。まず、BCJとして1994年以来久しぶりの定期公演での『マタイ』である点。そして、初めてBCJの『マタイ』のライブがテレビ収録されること。さらにもちろん、彼らがアメリカ公演を経て感じてきたものを我々に示してくれる場となる、BCJ 30回目の節目の『マタイ』演奏である点だ。
 器楽メンバーの登場--暖かい拍手。チューニング。合唱、コンチェリスト(ソロ)、指揮者の入場--拍手。そして満場の熱い期待に満ちた静寂の中、厳かに“特別な”『マタイ』が始まった。
 
 第1曲目のリピエーノ・ソプラノ。99年のオペラシティでの『マタイ』ではホールの大オルガンと少女合唱を用いた演奏だったが、今回は野々下さんとロビン+第2グループのオーケストラのポジティフ・オルガンでの演奏だった。そう、これこそ、2000年からの新生BCJ『マタイ』の特徴である。・・・・呼び交わす2つのグループの対話によって受難への道のりの様が重なりあう響きの中で示されていく。心地よい高揚感と緊張の内に第1曲が終わった。レチタティーヴォ〜ゲルト・テュルクの絶妙なエヴァンゲリスト。かわるがわる前方に出てソロを聴かせてくれるコンチェリストたち。前進力に満ちたテンポ。・・・しかし、このあたりからだろうか、いつものBCJの『マタイ』と違う何かを感じ始めたのは。
 微妙な呼吸のずれ。かつてない緊張を感じさせるコンティヌオの動き。何かに追われるかのような焦燥感、もどかしさを感じる。19曲目、第2グループのコラールを執拗にせき立てる。危ういバランスの中で緊迫感に満ちたアンサンブルが続く。・・・いよいよ第1部の終曲(第29曲)。合唱の無い部分のオーケストラの動きを、細かく分けた指揮で前へ前へと進める雅明さん。コラールが入ると振りが大きくなり、音楽がのびやかさを取り戻す。この緊張と弛緩の繰り返しの中で、危うい瞬間を乗り越えて第1部が終わった。
 
 第2部。幕開けの第30曲、やはり第2グループをぎりぎりのところまで前へ進める音楽。受難の物語はエピソードを重ねながらクライマックスへと進む。・・・やはりレチタティーヴォのコンティヌオが不安定な印象。これまでBCJの演奏で一度たりとも感じたことが無かった事だ。そして残念なことに「どんなにたくさんの楽器でやっても一つの役割を果たさなくてはならない(“ガット・カフェ”での鈴木秀美さんの言葉)」コンティヌオ・グループに、何ヶ所かで明らかな事故も起きてしまった。ポイントになるアリアなどで微妙な音程のうわずりや器楽のアクシデントが起こる。もちろん、ライブに事故はつきものではあるのだが、それを乗りこえるドラマの力強さがこの日の演奏から私には迫ってこなかった。正直、せっかくのテレビ収録なのに残念、という思いをぬぐえずに聴き進めるうち、私は疲れ果ててしまった。これまで、こんなにBCJの『マタイ』を“長い”と感じたことはなかった・・・。第57曲、楽器の限界と格闘するかのようなヴィオラ・ダ・ガンバとコンティヌオ(チェロ+オルガンのみ)の音のぶつかり。その痛々しさが胸に突き刺さる。神はなぜこの演奏を記録に残させたもうたのか。ぬぐいきれないもどかしさの中、終曲(第68曲)を迎えた。苦い思いを抱えたまま終演。 何が起きたのか、重い問いかけを課されたような思いで家路についた。
[4/19、カザルスホールにて]
 4月19日(土)、イースター前日、カザルスホールでは初めてのBCJの『マタイ』。今日の『マタイ』がなにがしかの答えになってくれるのだろうか。2003年の受難節コンサートのしめくくりとなるこの日の演奏は、午後5時の開演。あの2000年4月の、鈴木雅明・秀美さんのお父様が亡くなった日の『松蔭マタイ』と同じ開演時刻である。そしてまさに同じイースター前日の土曜日。カザルスホールも松蔭チャペルまではいかないものの、大変親密な空間。そんな中での『マタイ』である。期待が高まる。
 
 第1曲。初めに断言してしまおう。この曲でのこの日の演奏は、私の聴いた数多くの『マタイ』(実演だけでこの日が40回目。そのうち12回がBCJの演奏)の中で、最高の出来映えであった。その最大のポイントはリピエーノ・ソプラノのインパクトとバランスの絶妙さである。BCJがフランチャイズとしていた頃には無かったアーレント・オルガンがリピエーノ用に用いられ、しかも、野々下&ロビンのリピエーノ・コンビが、そのオルガン・バルコニーから降りそそぐようにコラールを響かせてくれたのだ。松蔭の『マタイ』の時は背後からのコラール唱とオルガンだった(歌手はソプラノ2人)。呼び交わす2グループに、まさに天上から割って入るリピエーノ・コラール。a'=440Hzのアーレント・オルガンで半音下げた調で弾いたことによる微妙な音律の差が、よりコラールを浮き上がらせ、綾を織りなす。そのようにコラールの響きが起立して迫ってくるので、リピエーノの入りで全体を抑えることなく音楽が重なり合う。この音楽の絵巻を完璧な形で見せていただいたように思う。
 レチタティーヴォが始まる。大丈夫だ。コンティヌオにもいつもの安定感がある。最初のコラール・・・絞った人数による透明感のある響きが親密な空間に無理なく響く。美しい。最初のアルト・ソロ(第5曲)、前日微妙に合わなかった8小節目のブレスが2本のトラヴェルソとぴったり合う。よし。アリアが始まった(第6曲)。トラヴェルソと溶けあった素晴らしいバランス。ロビンは、ステージ前方のソロ・スペースに出てきて歌っていた前日と違い、自らの合唱での位置ですっと立ち、表情豊かに歌っている。そしてレチタティーヴォ・・・アリア・・・合唱・・・と音楽が進む。ドラマに自然な流れがある。受難の物語のただ中にいる自分。そうだ、この流れが前日の演奏では薄かったのだ。その違いのもとは、ソロ(コンチェリスト)の歌う位置ではないか。確かに前日も、出来るだけドラマの流れをつなげるべく、ソリストたちはそれぞれのソロの前にステージ前方のソロ・スペースに素早く移動していたが、どうしても間があいてしまううらみがあった。(ただ、オペラシティでも、合唱の間に挟まれた「アウスリーベ」(第49曲)だけは、野々下さんがその場で立っての演奏であった。) 特に、エヴァンゲリストが位置していた第2グループ前方のスペースに出てきて歌うソリスト(第22曲のバス、第34曲のテノール、第51曲のアルト)は、エヴァンゲリストがレチタティーヴォを歌い終えて下がって腰掛けるのを待ちかねて位置を決め、自分の楽譜を開いて歌う体勢を作るのにどうしても時間がかかるので大変そうだった。(エヴァンゲリストは本来は第1グループに属するのだが、第1グループのコンティヌオを担うチェロの鈴木秀美さんの位置からテュルク氏の唇の動きを見ることができるように、第2グループ側での立ち位置になったとのこと。この立ち位置は4/18,19とも共通だった。) 前日の『マタイ』では、こうした微妙な間が生じることによるもどかしさが、ドラマをつなげようとする焦燥感と落ち着きのなさを生んだのではないか。私にはそう思えてきた。これは、ステージの狭いカザルスホールと空間の大きなオペラシティとの環境の違いから生じた出来事に違いないが、2つの『マタイ』に決定的な違いをもたらしていたように思う。さらに、コーラスの位置でソロが歌われることで、第1グループと第2グループの分離がよりはっきりし、カザルスホールでは対比の妙がより効果的に立ち現れていた。第27曲の1グループのソプラノ/アルトのデュエットと2グループのコーラスの対照などがその好例である。オペラシティでのこの曲の演奏では、第1グループのソプラノ/アルトのソロは第1曲と同じように指揮者を挟むように前方に出てきて歌っていた。広い空間での響きの通りを考えると確かにその選択が賢明なのかもしれないが、月の光のしたたるようなデュエットと第2グループのコーラスの叫びの対比は平面的になってしまっていた。このように様々な要素が、カザルスホールでは巧まずして『マタイ』の世界のより効果的な現出に寄与していたのだ。
 そして、ほとんど各パート1人となった器楽アンサンブルの潔い響きも心地よかった。まさに室内楽的といえるその音楽は、この上ない親密さを醸し出してくれた。そうだ、この感覚はあの松蔭チャペルでの『マタイ』の時におぼえたものだ。耳に、皮膚に、あの時の祈りに満ちた体験がよみがえる。“いつもの”BCJ『マタイ』が、確かな足取りで進んでいく。いつの間にか、「アウスリーベ」(第49曲)を迎えていた。第1グループのソプラノ・ソロ、野々下さんの祈りが心に染みる。3日間を通じて今までになく表情豊かに、うるおいと清潔感を兼ね備えたバッハを聴かせてくださったことに感謝したい。アリアが終わったあとの長い長い沈黙。この日の『マタイ』の白眉の瞬間であった。やがてその沈黙を凶暴な合唱が打ち破ると、ドラマはいよいよイエスの鞭打ちと死へ。「エリ・・エリ・・」の叫びを残して“甘き十字架”(第57曲)を背負われたイエスがゴルゴタの丘で息を引き取られた。あの松蔭での『マタイ』でことさら深い意味を持ったコラール(第62曲)が美しく幕を閉じると、聖人たちの復活の奇跡と兵卒たちの目覚めの時だ(第63曲)。

 うるわしい時がやってきた・・・。しかし、ここでのレチタティーヴォと“清め”のアリア(第64,65曲)を、なぜか本来の割り振りと異なる第2グループのバス・ソロのクプファーが、第1グループのコーラスの前に歩を進めて歌い始めたのだ。なぜ?私は悲しかった。このアリア(第65曲)こそ、甘き十字架を背負い息絶えたイエスを、コラールや群衆の合唱も含めて歌い続けた第1グループのバス・ソロが歌うべきではないのか。それでこそ「すべてが自分の中で起こる」という2000年からのBCJ『マタイ』の核心が意味を持つのだ。そういえば、前日のオペラシティでもこの部分をクプファーが歌っていたことに気がついた。思い返せば、この部分を正しく第1グループのバス・ソロが歌ったのは、2000年4月21日のサントリーホール公演と翌日の松蔭チャペルの公演だけであった(いずれもコーイが歌った。ただ同年の横浜、福岡公演では、やはり第2グループのバス・ソロのヴィトマーが歌っていたことも付記しておく。また1999年の大阪とオペラシティにおけるイエス役のコーイによるバス・ソロの歌唱は、浦野さんのキャンセルによるものなので例外と考える)。カザルスホールでのソロの位置や伴奏のオーケストラの編成を考えた時のバランス、さらには、コーイとクプファーの声量の違いなども考慮した上での現実的な判断なのかもしれないが、ここはコンセプトの整合性を重んじて欲しいと私は思った。このあたりのかねあいをどう解決していくかが、これからのBCJ『マタイ』の大きな課題であると思う。
 
[“目覚めていなさい”]
 やがて、福音史家を歌い切ったゲルト・テュルクが後ろに下がってコーラスの列に加わり、4人のソリストが眠りにつかれたイエスへの思いを語る。そして終結合唱(第68曲)が始まった。受難節コンサートを締めくくる、万感の思いのこもった歌声が呼び交わす。その時、ある声が私の中に響いた。「目ざめていなさい」。・・・そうなのだ、この2日間の『マタイ』のメッセージはこの言葉だったのだ。この日、この時の世界の痛みを、流血を避けることの出来なかったもどかしさと焦燥を、忘れてはいけない。すでにあのコンサートから一ヶ月が経とうとしている今、このコメントを書いているが、戦いのさなかにあったあの日の緊張感を我々は忘れてはいないだろうか。
 アメリカから持ち帰った「緊張」が少なからず影を落としていた、まるで「問い」と「答え」のような今回の2つの『マタイ』のうち、「問いかけ」ともいえる聖金曜日の『マタイ』が記録に残されたことの意味はここにあるに違いない。あの、いつもと違うBCJの『マタイ』をくり返し見て聴く時、私はあの日々の緊張感を必ず思い出すだろう。思えば、受難曲の存在自体が、イエスの痛みをくり返し「思いおこす」ことでその意味に思いをいたすためのものである。それは、私たちが忘れがちな“痛み”を思い出す“トゲ”のようなものかもしれない。そして、「安らかに憩いたまえ」と声をあげられるのは、そのイエスの受難から目をそらさず、見続けるからこその願いなのだ。
 今、時代は痛みに満ちている。どうしても目をそらしたくなるその“にがさ”に、目をつぶるな、目ざめていよ、というメッセージこそ今回の『マタイ』のメッセージだと、今、私は思う。
 戦争は防げなかった。正義とは何だろう。本当に大切なものは何なのかが見えにくくなっている。時代の閉塞感の源は何なのか。・・・そんな問いを封印しないでおこう。あきらめずに見つめ、考え続けていこう。そんな勇気が湧いてきた。戦時の『マタイ』をくり返し味わうことで、その勇気を忘れずに生きていきたい。

 (03/05/18記)


NHKでの放送が5月24日、23:00〜 BSハイビジョンで、また 6月14日、0:00〜(6/13の深夜) BS2で行われます


VIVA! BCJに戻る