BCJフォーラム(9) ['00/02/27〜]


ご意見・ご感想のコーナー
BCJファンの皆様からお寄せいただいたご意見やご感想などを集めてみました。内容をできる限りBCJのみなさんにもお伝えして、お返事などを頂けましたらあわせてこのコーナーでご紹介していきたいと思っています。是非こちら[makoto-y@mxi.mesh.ne.jp](または[ニフティID:DZE01555])までご意見等をお寄せ下さい。特に投稿フォームは設けませんが、お送りいただいたメールの内容をこのコーナーで紹介させていただこうと考えておりますので、掲載をご希望されない場合は、その旨お書き添えいただけますようお願いいたします。(ご意見・ご感想No.169〜)

*ご意見・ご感想の中の太字表記は、当ホーム・ページの制作者によるものです。

186 《Thank you! (von Mattaeus-Passion)》
 
"nigauri"こと高田と申します。「招き猫」掲示板での貴フォーラムのご案内、どうもありがとうございました。貴ページに寄せられた、みなさまのマタイ公演レビュー共感を持って拝読いたしました。BCJの演奏に接した感動を、このような形で深く掘り下げ、共有できる場があるということは本当に素晴らしいですね。(中略)

2000年のBCJマタイ受難曲公演から、4週間が過ぎようとしています。
しかし、ある種の体験は、時間の経過によって決して色褪せることなく、幾度も反芻されながらむしろ強められていくものなのですね。

あの時のBCJのマタイの余韻は、歌手の好不調や些細なアンサンブルの乱れといった演奏の表面的な瑕疵が時とともに洗い流されるにつれて、いっそう強く、鮮やかに私の記憶のなかで響いております。その響きの種々について、触れたい点は多くあるのですが、あまりに長文になることは本意ではございませんので、あえて、一点だけに絞るとすれば、今回のBCJマタイを聴いて強く感じたのは「できごとの一回性」ということでした。

例えば、コボウ氏のみずみずしいエヴァンゲリストは、キリストの受難をまさに神が歴史に介入した「一回限りの出来事」として私たちの前に示してくれました。そして、コンサートホールにいる私たちは、受け身の聴衆として聞き慣れたクラシック音楽の中の一曲を聴いているのではなく、まさにその一回限りの出来事を演奏者と共に体験するということが可能になったのでした。

そのことによって、私たちは、バッハの「マタイ受難曲」が決して観念的な作品ではく、この曲の指し示すものが、認識によって意識化し固定化し得るものではないということを実感したのです。

すなわち、マタイの優れた演奏に接するとき、この曲の指し示すものは、そのたびごとに、一回限りの出来事として、あらたに歴史の上に生起し、私たちに働きかけます
そのとき、演奏するという行為は、ただ作品として固定されたものを再現するという二次的な行為ではもはやなく、また、聴くということも、単に「鑑賞する」という第三者的な受け身の行為ではありません。
そこではすでに、演奏者と聴衆という区別さえなく、受難の「できごと」に立ち会ったエヴァンゲリストの体験は、わたしたち一人ひとりの個人的な体験へと収斂していくのです。

今回のBCJの公演では、イエスの受難という一回限りの「できごと」を語り終えたエヴァンゲリストが、舞台中央から静かに合唱の中へと退いてゆき、共にコラールを歌い始めたとき体験の共有としての演奏は、静かにではありますが、一つのクライマックスを迎えたように思います。イエスが、ユダが、ピラトが、そしてエヴァンゲリストが一体となってコラールを歌う、そして、それを歌っているのは実は私たち一人ひとりでもある・・・。このようにして、今回のBCJのマタイは、私たちの生の現実へ向けて開かれたものとなったのです。

一部には今回のエヴァンゲリストがテュルク氏でないことを惜しむ声も聴かれましたが、私個人としては新しい才能に出会えた喜びの方が、遙かに勝りました。何よりコボウ氏は聴衆を引き込む魅力を持っています。今後、キャリアを重ねて大成する方だと思いますが、経験と引き替えに今の新鮮さを失わないようにして欲しいと切に願います。

もちろんこの「一回限りのできごと」の提示と「体験の共有」としての演奏が成功をおさめたのは、ひとりエヴァンゲリストだけの功績ではありません。一番先にあげられるべきは、鈴木雅明氏の深い洞察と共感に満ちた作品把握と、通奏低音を中心としたBCJの優れた演奏でしょう。

しかし、それについて何か述べることは現在の私の力に余ります。
まだまだ、私の心の中で整理の付いていないことが数多くあるのです。
それほどに豊かな、BCJマタイ体験でした。
            
***

BCJフォーラムQ&Aのバックナンバーも楽しく読ませていただきました。
BCJの活動が、矢口さまはじめ多くの熱心なファンの方々に支えられているということ、またBCJの感動的な演奏がファンのみなさまに大きな喜びとエネルギーを供給している様子を伺い知ることができました。
貴ページのおかげで、BCJがとても身近に感じられ、ファンのみなさまとの交流の風景にはすがすがしい思いさえ致しました。

ホームページを運営されている矢口さまのご苦労は並々ならぬものがあると思いますが、お体に気を付けられ、これからも生きたBCJの情報を届けてください。

長々と生硬な駄文におつきあいいただき失礼いたしました。

私もいつか是非、神戸のチャペルでの演奏会にもお伺いしたいと思っております。
その折りには、またご挨拶でもさせていただけたら幸いです。

(高田直紀様) (00/05/19)
 高田さん、お便りありがとうございました。「クラシック招き猫」の掲示板、「音の余韻館」にできた今年のBCJ「マタイ」の感想のスレッドで、4/23の福岡公演を聴いて書き込みをしてくださったことがきっかけになっていただくことのできたお便りです。高田さんの投稿に私がレスポンスをつけてこのHPを紹介させていただいたことで、このページにも来てくださることになったという訳です。(お便りをいただいてからこちらでご紹介させていただくまでにずいぶんと時間が経ってしまい申しわけありませんでした。)
 またまた今回のBCJ「マタイ」の特質を見事に語っていただき、感激しました。そう、まさに「できごとの一回性の共有」こそが今回のコンセプトの柱であったのです。
 昨日まで、フィリップ・ヘレヴェッヘが手兵のコレギウム・ヴォカーレとバッハの3大宗教曲を披露する演奏会に行って参りました。合唱団のすさまじいまでに自在な表現力をもとに組み立てられたその演奏に感銘を受けたのですが、当たり前のことながら、ソリストと合唱がまったく別々に音楽に参加していることを見て、BCJの今回の「マタイ」とはまったく違うあり方なのだな、と思いました。オリジナル楽器を用い、テキストの内容にこだわったアプローチをする姿勢はBCJとも共通のものなのですが、それぞれの演奏のめざすものがいかに異なったものであるかを突きつけられた気がしました。7月の、リピエニスト/コンチェルティストのコンセプトによるBCJの「ヨハネ受難曲」第4稿の演奏がますます楽しみになってきました。 ヘレヴェッヘの「マタイ受難曲」(5/30演奏)はNHKがテレビ収録していて、7月23日(日)午前0時45分からNHK-BS2の「クラシック・ロイヤルシート」枠で放映されるそうですので、興味がおありの皆様 はご覧になってみてください。 高田さん、よろしかったら是非またお便りください。 (矢口) (00/06/02)

185 《マタイ福岡公演を聴きました》
 
初めまして、福岡県在住の田中と申します。VIVA! BCJ、愛読させていただいております。読む度に、矢口さんの努力と熱意に敬服させられています。

さて、4月23日マタイ福岡公演を聴きました。実演でマタイを聴くのは初めてだったせいもあってでしょう、この演奏には心底感動いたしました。CDもよいのですがやはり実演は違いますね。そしてこんな時って、誰かにその思いを伝えたくて伝えたくて仕方がなくなるものなんです。妻にもいろいろと喋りまくった挙げ句に、一面識もない矢口さんにメールをお送りしている次第です。こちらに送れば演奏者の方にも見ていただけるかも知れないと、図々しくも考えました事を告白しておきます。長くなりますが、4つだけ特に心に残ったことを書かせて下さい。

まずは、演奏者の御父様がお亡くなりになったとの由、御冥福をお祈りいたします。そのような折に福岡まで来ていただいてすばらしい音楽を聴かせて下さったこと、お礼申し上げます。

全体の印象は、音響としての音楽が充実していると同時に、精神的なもの=私たちが生きる上で心しなければならない何か、を強く考えさせられるものでした。聴き終えた後の充実感は深く、しばし拍手する気持ちにすらなれませんでした(多くの聴衆はすぐに拍手をしたので消えていく最後の音を聴けなかったのは残念でした)。 ところが一つだけ腑に落ちない思いが残ってしまいました。終結合唱は私の大好きな部分ですが、今回は「ああこれで終わるんだな」と思うだけで特別な感慨はなかったのです。正直言ってなくてもかまわないとさえ思いました。それまでにすべてが十分語りつくされていたからです。特にイエスの死後、夕暮れを歌うバスのレチタティーヴォとアリアから、復活を暗示する民衆の壮麗な合唱はあるものの、最終合唱前の「イエスよ、おやすみなさい」のソロと合唱まで次第に穏やかになっていく印象はCDでも感じましたが、実演ではいっそう安らぎを感じ、すがすがしく晴れやかな気持ちになりました。その上「生きててよかった」とさえ思ったのです。不思議です。そして最終合唱は、この一 晩の出来事の気持ちの整理とでもいう趣で、特別な印象は残らなかったのです。こんな感じかたは演奏者の意図に反しているのでしょうか、最後の合唱曲は大好きなだけに今でも不思議です。

イエスの死後地震が起きてのち「イエスは本当に神の子であった」という合唱があります。短い部分ですが、私は全曲中ここが最も好きです。特にリヒターの新旧CDのようにテンポをぐっと落として印象的に歌うのが、まさに雲間から一条の光明がさすごとく罪が浄められた印象で一番のお気に入りです。古楽演奏の方々はこの部分を聖書の言葉として、語る表現をとりますので常々物足りなく思っていました。この日の演奏も語るには相違ないのですが、なんと美しく響くこと、百人隊長やその部下達の言葉なのになんとやさしく心からの言葉になっていたこと。これはまさに信仰告白そのものではありませんか。テンポの問題ではないのですね。ひょっとして全曲中最も大きな声量で響かせたのではないかと思えるほどホールの隅々まで響いていました。音響の美しさではなく心の美しさとして感じ取ることができました。幸せでした。

ソプラノが歌う aus liebe のアリア、「低音群が一切沈黙することによって、この世の束縛から解き放たれた罪なきイエスを象徴している」と以前に指揮者自身が述べていたこのアリアは、「イエスは罪がないのに殺される、それは私たちの罪のせいなのだ」という懺悔の声に聴こえました。この時私の心に生じたものは感動というより戦慄というほうが適切だ思います。背筋がゾッとするような感覚でした。これはかつて感じたことのないものでした。そしてしばし放心状態になっていたところに、再び「十字架につけろ」の合唱です。この対照は、音響としての対照でなく私たちの心の中の対照的な精神を表していることを認識させられる、印象的な音楽でした。

今までどの演奏を聴いても納得できない箇所がありました。ユダが自殺した直後、バスが「私のイエスを返せ」と歌う所です。感情的には怒りが表現されるはずなのに、そう聴こえなかったからです。しかしこの日の演奏で感じたことは、怒りというより「やり場のなさ」ということでした。やり場のない怒りと悲しみ、やり場のない思いは身の内で暴れまわるが、どこへも吐き出すことができず悶えるばかり。言葉はイエスを返せと単純なのですが、思いは複雑で、裏切りという罪を自らの死で償ったユダの威厳を表す音楽でもあり、でもイエスは帰ってこないという悲しみもあり、祭祀長たちへの怒りもあり、そうした思いがまとまらないまま身の内で駆けずり回っている様を、バイオリンの音型が示しているのでしょうか。言葉で音楽は説明できませんが、ともかくも非常に説得力のある音楽になっていました。それにしても実演で見るとバイオリンは難しそうですね。バッハは技巧を内面の表現のために用いているという端的な例でしょうね。

最後に、チェロの鈴木秀美さんの存在感。友人のフルート吹きが「バロック音楽におけるバス(通奏低音)はだ」と語ったことがあります。少々語弊のある言い方ではありますが、まさにその言葉どおり。お父上の亡くなったことが演奏にも影響を与えていたのでしょうか、何か尋常でない存在感を感じました。

今回、コンチェルティスト=リピエニストというプランに基づいておりましたが、新しい方法論だというようなわざとらしさはなく、ごく自然に聴こえました。指揮の鈴木雅明さんの考えが前面に出ている印象もありませんでした。聴きながら、この人は音楽に奉仕しているのだなと感じました。そんなおつもりでなかったら申し訳ありません、しかしそう思わせる謙虚さが感ぜられたのです。こうした音楽を作ったバッハ、それを伝える演奏者、それを支える協力者たち、その皆様に対し感謝の念を禁じ得ません。この日の体験も元をただせば、イエスの受難を通して神が私たちに示した愛と、それに応えたいと願う人々の思いから生じているのですね。私はクリスチャンではありませんが、それでも素直にこの愛を受け入れてみたいと感じました。確かにマタイ受難曲教義を超えた人類の宝に違いありません。本当に格別なひとときでした。ありがとうございました。

矢口さんのHPは、BCJ ファンにとってのよい刺激です。ほぼ毎日の更新は大変でしょう、お体を大切に、いっそうの御活躍を願っております。

(田中修二様) (00/05/04)
 田中さん、はじめまして。「フォーラム」にようこそ! BCJの「マタイ」2000の最終公演を深く深く受けとめられたお便り、ありがとうございました。今年の「マタイ」はいままでにもまして多くのご感想をいただき、大変うれしく思います。本当にすばらしいものに出会うと、田中さんもお書きになってくださったように誰かに伝えたくなるものですよね。この「VIVA! BCJ」も、そんな思いからスタートしたものですから、こうしてたくさんの方がお便りを寄せてくださることが何よりの喜びです。今後ともよろしくお願いいたします。
 田中さんがお感じになったことは、今年のBCJ「マタイ」の特徴そのものではないかと思います。
まず終曲の印象について。私も3回聴いたどの日も、あぁ、もう終わりか、という感じで、「マタイ」のドラマに引き込まれ、あっという間に時間が過ぎていました。そこでは、終曲は、これで終わり、という「フィナーレ」としてではなく、物語の一区切りとして響いていたと思うのです。受難のドラマは復活への準備である、といったところでしょうか。今年は、その来るべき復活をいままでになく意識させてくれた演奏だったと思います。それは、やはり演奏者も聴衆も、受難のドラマをとても深いところで共有できたからこそではないでしょうか。このように今年の「マタイ」で、物語が“続く”という開かれた形で終曲が鳴り響いたことは、われわれが自らの愚かさや、弱さに向き合い、それらをみなこれからも抱え続けていかなければならないことを示しているのでしょう。それにピリオドがうたれるのは“神の時=死”を神がわれわれにおくってくださる時に他なりません。そこに受難節を毎年過ごし、「受難曲」を聴く意味があるのであろうと思います。そんな役割にとてもふさわしい今回の演奏ではなかったでしょ うか。
 昨年までの「マタイ」では、普遍的なこと(田中さんの表現では「私たちが生きる上で心しなければならない何か」といったもの)を、その場に集ったもの全体で共有するという方向の音楽づくりだったように思います。しかし、それが今年は、コンチェルティスト=リピエニストというプランを取り入れることによって、その場に居合わせた一人一人がそれぞれの内面で受けとめるという、言ってみればよりパーソナルな形での共有に変化してきたのではないでしょうか。 たとえば、私はペーター・コーイさんの歌いぶりから強くそのことを感じました。昨年、彼はステージの前の方に位置して、聴衆に語りかけるようにイエス役を務めてくださいました。しかし今年は第1グループのコーラスの中で、自らに向けても語りつつ歌っていたのではないかと思うのです。 この尋常でない取り組みは、比較的広い会場では危険なことかも知れません。事実、サントリーホールでは、コーイ氏の務めるイエスが物足りなかった、という感想をお持ちになった方もいらっしゃいました。福岡も比較的大 きいホールでしたが、そのあたりはいかがでしたでしょうか。 この印象の違いは、イエス役の印象の違いに留まらず、実は演奏全体の印象に大きく関わっていたのではないかと思います。すなわち、今回の「マタイ」をステージ上での音楽に耳を傾ける聴衆として受けとめた場合、昨年の方がよかったということも十分あり得るということです。そして実際、音楽の完成度そのものは確かに昨年の方がよかったのでは、と私も思います。しかし、受難曲の役割としてもう一つの重要な側面である“祈りの共有”という視点をもって考えたとき、より多くの実りをもたらしてくれたのは今年の「マタイ」だったのではないでしょうか。
 今年のBCJ「マタイ」は一つの始まりです。三宮さんのオーボエや菅さんのトラヴェルソなどの好調さは、これからの演奏への期待をふくらませてくれるものでした。 今回の取り組みでの課題を整理していただき、“音楽としての完成度”“祈りの共有”をさらに高い次元で両立させてくれる、21世紀のBCJ「マタイ」を楽しみに待ちたいと思います。  
(矢口) (00/05/14)

184 《はじめまして》

児玉ともうします。バッハ メーリングリストで BCJでは アルトをカウンターテナーの方が歌っていることに関する質問について書き込んだものです。こちらを教えてもらい、さっそくおじゃまさせていただきました。
BCJについては評判がよいので、CDは購入しましたが、それ以外ほとんど何も知りませんでした。
こちらのページはとても内容豊富で、ついついあちこち読んでいる間にいつの間にかずいぶん時間がたってしまいました。今まで全然知らなかった事をたくさん知ることができてうれしいです。これからも時々寄らせていただきたきたいと思います。

それにしても このHPでは 鈴木雅明氏に直接答えていただけるのは 大変すばらしいですね。
マタイ受難曲について、受難週にしか演奏しないのが原則、しかし今年のようにバッハイアーで特別企画がある年には、全く別の立場からの受難曲演奏を試みることで、いろいろな側面を見せたいとおっしゃっていることなど、とても納得できることばかりです。
私ごときがこんな事を言うと大変失礼に当たるかもしれませんが、 矢口様のHPで読ませていただいた鈴木雅明氏は 音楽面の質の高さはもちろん、理に叶った筋の通った説得力のある解釈・意見を持っておられ、その上親しみやすい人柄でいらっしゃるように 思えました。是非 演奏会にいってみたくなりました

クネヒトの部屋ものぞかせていただきました。
私もカルロス・クライバーがとても好きなのですが、矢口様の好きな曲・演奏の中には彼の指揮のものが出ていませんね。どのような曲をお好きなのか、もし差し支えがなければ 追加していただけませんか?
私は こうもり ビデオをもってますが、とてもおもしろいです。

どうも長々と恐縮です。
どうぞこれからもずっと続けてくださいませ。 
(児玉様) (00/05/01)
 児玉さん、「VIVA! BCJ」にようこそ! バッハMLで、「マタイ」でのカウンターテナーの起用についてお尋ねになっていらっしゃったので、私が鈴木雅明さんからのコメントをご紹介したことがご縁でおいでいただきました。
 鈴木雅明さん(本当は「さん」などとお呼びするのも大それたことだと思うのですが)には、本当にお世話になっています。お忙しい中、わがままな意見や質問にもいつもていねいにお答えをいただき、昨年のブレーメンツアーのあとにはご報告まで頂戴して、いつも感激しております。今発売中の『音楽現代』誌5月号の特集「現代のカリスマ演奏家は誰?〜巧いだけでは感動できない!!」で、保延裕史さんが「−人は、超常的な演奏家に憧れる」とのサブタイトルのもと、チョン・ミュンフン、アルゲリッチらとともに鈴木雅明さんを挙げて論じていらっしゃいますが、その中の「彼の演奏会に通うファンたちを見ると、「鈴木詣で」に近い気持なのかも知れないと思う」は、まさにその通りだと思います。もちろんそれは、その音楽の語るものの大きさゆえな訳ですが、直接に、またはこのHPなど色々な場面で雅明さんの素顔に触れられた方は、そのお人柄を慕って「詣でる」という部分も決して少なくはないのではないかと思います。この7 月の東京定期公演の終演後、BCJ創立10周年の記念パーティが開かれるそうですので、多くの方が参加してくださるといいな、と思っています。きっと、雅明さんやBCJのメンバーのみなさんの気さくな一面に触れることができるでしょう。 神戸ではもちろん、カンタータコンサートのあとの懇親会がおすすめです。BCJ神戸公演後援会の皆様のご尽力で開催されているこの会には、演奏を終えたばかりの鈴木雅明さんをはじめとするBCJメンバーのみなさんがいつも参加され、楽しいひとときを過ごすことができます。来る5/27のブランデンブルグ協奏曲全曲コンサートの神戸公演後には、神戸でも創立記念パーティが開かれるとのこと、私は都合で参加できないことが残念でなりません。・・・と、盛り上がってご紹介してしまいましたが、まずは児玉さんも、是非BCJのコンサートにお出でくださいね!
 さて、“カリスマ”と言えばやはりカルロス・クライバーの名前がまず挙がりますよね。先ほどご紹介した『音楽現代』誌の特集でも、最初のページはカルロスの写真です。このカルロス・クライバーの演奏には2度立ち会っています。どちらももうずいぶん前ですが、最初はバイエルン国立管との来日公演の横浜でのベートーヴェン4,7番、もちろんアンコールはこうもり序曲「雷鳴と電光」です! いやぁー、あの時の印象は鮮烈でしたね。右腕のぶん回しも絶好調で、しかも優美な指揮振りでした。こうもりも絶品。アンコールとは言ってもはじめからステージ上に小太鼓とかチャイムとかが置いてあるのですからプログラムの一部も同然でしたが・・。バイエルンでの「こうもり」、私もLDで持っています。アドリブが冴えていますね。そしてもう一回のカルロス体験が、ミラノ・スカラ座の来日公演でのプッチーニ「ラ・ボエーム」です。フレーニとドヴォルスキーのキャストで、ゼッフェレルリ演出の豪華な舞台をカルロスの音楽とともに堪能しました。ただ、数年前の「バラの騎士」の来日公演には行きませんでした。(65000円 がきつかった・・、今年のベルリン・フィルの「トリスタン」はどうしましょう。来週発売だ!) 他に、ウィーン・フィルとのウィンナ・ワルツ公演(@NHKホール)のチケットは入手していたのですが、お得意のキャンセルでシノーポリのブルックナーに変わってしまって涙々・・でした。(でもこの時のVPO公演が伝説のコンサートマスター、ゲルハルト・ヘッツェル氏の勇姿を見た最後になってしまいました) 話が広がってしまいましたが、カルロスの演奏で一つ選ぶなら、VPOとの最初のニューイヤーコンサートでしょうか。もう、何とも言えない愉悦気品のある演奏ですね。カルロスは今度、いつ現場に戻ってきてくれるのでしょう・・・。最近出た70年代のVPOとのブラームス(4番)のCDを買いました。・・・きりがありませんので今日のところはこの辺で。児玉さん、是非またお便りお寄せください!    (矢口) (00/05/06)

183 《鈴木正美、告別式レポート》
 
 26日の鈴木正美告別式、行ってきました。ホームページ運営者にご報告まで。

 雨の中、経堂北教会には200人以上の参列者。黙祷のあと、長谷川美保のオルガンに合わせて故人が愛唱していた讃美歌136「主イエス・キリスト 苦難」(あのマタイのコラールと同じメロディ!)を歌い、岸俊彦牧師による聖書の朗読(詩編62編1コリント15章50−58節)。
 そして、四竃揚主任牧師による式辞。そのなかの「故人略伝」には興味深い話がいろいろありました(生まれはケープタウン! 徴兵されて海軍の『特殊潜航艇』乗りになって8回出撃したけれども、敵艦に出会わなかったので生還!! 商社マン、のちに貿易関係の会社の社長を務め、最後まで現役だった。70年に洗礼。以後は熱心な信者として活動していたなど)。
 入院前後の話は、体調を崩して3日(だったか)に検査、末期の肝臓ガンが見つかって11日(たしか・・)に入院、直後に容態が変わって、22日午前9時半に永眠だったそうです。四竃牧師によると、とにかく「マタイ」の公演が迫っている最中だったので、家族が死に目にあえるかどうかが一番の問題で、「人間の死のときは定められているけれども、神の御心で全員が顔を揃えたところで召天させてくれた」のだそうです。で、出棺を終えてから神戸に向かって、無事演奏が行われたというわけです。
 そのあと、讃美歌100「主は死につながれ」を歌い、弔辞に。仕事で関係が深かった国際化工株式会社取締役長谷川文雄氏(仕事熱心で、取引先の外人から「彼はいつ寝ているのか」「まるで歩くファックスだ」などと言われていたなどのエピソードが。入院直前まで11日にある打ち合わせに出席予定で、前日夜11時半頃に「出られない」旨のファックスが届いたそうです)、鳥居坂教会員の中津川昭氏(信仰仲間として、奥様とともに熱心な活動をされていた話が出ました)がそれぞれ話したあと、BCJ武田さんが弔電を披露してくれました。
 頌栄541を歌ったあと、遺族代表で鈴木雅明氏が挨拶を(子供の頃、潜水艦の話をよく聞かされていて「ぼくも潜水艦に乗りたい」と言ってお母さんに怒られた話も。そのあと、BCJのメンバーによるカンタータ106番「神の時こそいと良き時」が演奏(合唱は上から3333、リコーダー2、ガンバ2、オルガンとチェロの通奏低音)されました。心のこもった、あたたかい響きで、しみじみさせてもらいました。
そして最後は献花。出棺見送りはしませんでしたので、ここまでですが、状況は分かるかと思います。何かの参考にしてください。 
(北村洋介様) (00/04/27)
 北村さま、はじめまして。私たちがその音楽を通じて大いなる慰めをいただいている鈴木雅明、秀美ご兄弟を育まれた、鈴木正美様の告別式の様子、お伝えいただきありがとうございました。鈴木正美さんのお姿は、BCJの演奏会場などで奥様とともにいらっしゃっているところを何度もお見かけしておりました。とてもダンディな方で、暖かくも凛とした雰囲気をお持ちでした。2月の東京でのカンタータ公演のあと、楽屋口から秀美さんのチェロを引っぱってお帰りになる姿が、私がお見かけした最後になってしまいました。しかし、人間魚雷に搭乗のご経験がおありとは・・・。戦争で体験されたことがやはりその後の信仰の生活にもつながっていたのでしょうね。鈴木雅明さんがBCJのカンタータ第1巻の巻頭言を、“50回目のVJ-day”にお書きになったのも、何かのつながりを感じさせます。
 実は私も、告別式の前日に行われた「前夜式」にうかがいました。その時にも、冒頭(私は遅れていったので直接うかがってはいませんが)にあの「マタイ」の受難のコラールである、賛美歌136が歌われていました。式次第のその賛美歌の横に(故人愛唱)と記されていたことがまことに印象的です。まさにその「マタイ」の演奏に、愛すべき息子さんたちが取り組んでいる最中に召されたのですから。そして、神戸公演を実現させてくださったのもやはり神の御心だったのでしょう。前夜式では、鈴木秀美さんが無伴奏チェロ組曲第2番からアルマンドを、また、鈴木雅明さんのオルガン伴奏、鈴木環、美登里さんのデュエットでブクステフーデのカンタータ「私はこの世を去って」BuxWV46から、が演奏されました。
 鈴木正美様、どうか安らかにおやすみください。  (矢口) (00/05/05)

182 《松蔭と福岡の「マタイ受難曲」》
 
 矢口さん、神戸では楽しいひとときをもてましたね。大阪の「マタイ」では、厳しく人間の罪をみつめる「マタイ」という印象を持ちましたが、今回の松蔭での「マタイ」はなんと慰めに満ちていたことでしょう。
 コンサートに先立って、鈴木さんから「ここが教会であり、松蔭での今までの皆様との関係を考えお話いたします。今朝父がなくなりました。62曲に「いつの日かわれ去り逝くとき」という、イエスが大きく叫んで息を引き取ったすぐその後に歌われるコラールがあります。内容が受難曲の構成としてはおかしいという考えがありますが、しかし、本日私はこれはここになければという思いがします。・・・」とお話があり、聴衆一同驚きと悲しみに包まれました。
 緊張感に支えられた導入の合唱、後ろのオルガン席に立ち並ぶ聴衆のすぐ横で歌われるリピエーノ、天からふってくる歌声に包まれ、きびきびしたテンポで演奏が進み、野々下さんと波多野さんの二重唱アリアの美しさ、続く合唱は有珠山の噴火を思わせる激しさで、息もつけない感じでした。そして1部の最後のコラールでは、会衆席ぎりぎりまで前に出ているオケと合唱、後ろからの大オルガンのリピエーノにより「執り成しの仲保者イエス」への思い演奏者と聴衆が一体となった感じがしました。ソリストも合唱と一つになって歌う、と共に演奏する者と聞く者がバッハの音楽によって一つと成る、というこの思いは2部の終結合唱まで続き、こんなコンサート体験は初めてです。コンサートというより「マタイ」の世界に入り込んだような思いがしました。バッハがトーマス教会で演奏した時もこんな感じだったのかなと思いました。鈴木さんのいわれた62曲のコラールが歌われている時、ふと天井に目をあげると、3人の女達と空になった墓に立つ天使を描いたステンドグラスにそこだけ光があたり、イエ スの復活の光のもとで受難が語られている様でした。
 演奏が終わり、鈴木さんの手が静かにおろされた時、私達は深い息を吐き、感謝を込めて万雷の拍手を惜しみませんでした。その拍手はいつまでも続き、演奏家が楽器を片付けようとしている時も鳴り止まなかったため、秀美さんが雅明さんを呼ばれました。私達は立ち上がってBCJにありがとうと最後の拍手を捧げました
 友人の伊藤さんは「自分はクリスチャンではないけど、今日の演奏を聞いていて、まるでマタイがここで私達にイエス・キリストのことを直接はなして聞かせてくれているみたいな気がした。波多野さん「憐みのアリア」のとき、自分の目から流れる涙を拭うような歌い方をされて、本当に心にしみるすばらしいアリアだった」と言っていました。
 この日聴いた「マタイ」の演奏は忘れられないでしょう。

 そして翌日の福岡公演は、ホールの大きさに始めの方はちょっと物足りない感じでしたが、(松蔭であんな感動的な演奏を聞いてしまったのですから仕方ないですよ)しだいに力を発揮して引き込まれていきました。はじめのリピエーノでは美登里さんとミア・パーションは指揮者の横で、最後は合唱の中でうたっていたのかな?(よくわかりませんでした。) この日気がついたのですが(松蔭では人の頭の間から見ていたので)最後の合唱では福音史家も合唱の一人となって歌っていましたね。終結合唱は大ホール一杯に響き渡り、深い感動の内に終わりました。 演奏家の方々は必ずしもベストコンディションではなかったと思いますが、こんなに慈愛に満ちた「マタイ」を私達に与えてくれて、さすがBCJ!!。

余談ですが、アクロスで神戸公演にもいらっしゃっていた方にお会いして聞いたことですが、その方が乗った新幹線にBCJのメンバーものっていたそうです。ところが、その前を走っていた新幹線に何と「こいのぼり」が引っ掛かって「ただいま乗務員が取り除いていますのでお待ちください」と車内放送があり、数時間(?)到着が遅れたそうです。落壁の次がこいのぼりとは・・・
(大庭美登里様) (00/04/25)
 大庭さん、神戸と福岡のBCJ「マタイ」2000のご感想、ありがとうございました! 神戸では終演後お食事をご一緒させていただき、とても楽しく過ごさせていただきました。その時に、翌日の福岡公演に来るようにと、他にご一緒させていただいたみなさんも含めて熱烈なお誘いをいただいたのですが、月曜日に仕事を休むわけにはいかず、深夜まで悩んだあげく断念した次第です。福岡で午後5時開演で、たぶん終演は8時45分頃。そのあと9時10分の福岡空港発の東京行き飛行機に乗れば大丈夫、と調べてくださった方もいたのですが、「マタイ」の終演後、そんなにあわただしく行動できるわけがありませんので、聴きに行ったら絶対に月曜日には仕事に行けない、と思っての決断でした。熱心にお誘いくださったBCJの皆様も、どうかお許しください・・?! 
 というわけで、今回唯一うかがえなかった福岡公演の様子もお伝えいただき、とてもうれしく思います。第1曲のリピエーノ・ソプラノは指揮者のサイドで歌われたのですね! 今でもあの横浜公演でのミア・パーション、鈴木美登里さんの姿が目に浮かびます。福音書記者のコボウ氏は、場所的に合唱に加わりにくかった横浜公演を除いて、最終合唱にもしっかり参加していました。(横浜でも口ずさんではいらっしゃったようでした。) 他に、コラールの時もともに歌っていらっしゃいました。福岡では、この福音書記者という大役を勤め上げて、きっとのびのびと歌っていらっしゃったのではないかな、と思います。次の共演が楽しみですね。
 今年の「マタイ」の慰めに満ちた調べは、今年のイースターの時期にもどこか関連があるのではないか、と最近思い始めました。今年の受難日、4/21というのは、もっとも遅い時期の日程だと思います。ヨーロッパではどうなのか、心もとない部分もあるのですが、桜の季節を過ぎ、世の中がなんとはなし活動的になってから迎えた受難節。年度始めのあわただしい毎日の中でふっと色々なことを考えるきっかけを与えてくれたように思います。このように毎年毎年、思いを深めていくのが受難曲を聴く意味なのではないかな、とも思いました。そういった意味では、昨年の「マタイ」は何か特別なものであったような気がします。BCJとともに年月を重ねていく楽しみがまた一つ増えたように思います。 (矢口) (00/05/05)

181 《特別なひとときの祈り 〜BCJ「マタイ」2000、第三夜〜》

 その日はまさに特別な一日になった。
 もともとこの日は、BCJのふるさととも言える神戸・松蔭のチャペルで、これまではその大きな編成のため上演は難しいと考えられていた『マタイ』を、新しいコンセプトによる切りつめた編成で初めて演奏するという、特別な日であった。

 しかし、神はこのイースターの前日に、もう一つのエピソードを付け加えられた。この日の朝鈴木雅明・秀美さんご兄弟のお父さまがお亡くなりになったのだ。月初め以来体調の不良を訴えられ入院されていたところ、急激に病状が重くなり、4月22日午前9時30分ごろ、天に帰せられたとのこと。その時刻は、午後5時開演の神戸に東京から向かうにはギリギリのタイミングであった。

 開演5分前、このチャペルでの、パート譜の数をもとにした最少人数による『マタイ』(器楽は一枚のパート譜に一人、歌い手は一枚のパート譜を二人が見ると想定とのこと)を演奏できる喜びとその意義を聴衆に語りかけてくださった鈴木雅明さんは、ここが神戸のチャペルであり、そこに集まってくださっている皆様だからこそということで、「プライベートな話ながら、今朝、父が亡くなりました」とお話くださいました。
 そして「イースターの前日に亡くなって、すぐに復活しようなんていう魂胆で・・・」などと話をなごませながらも、『マタイ』第62曲のコラール(「いつの日かわれ去り逝くとき」)の歌詞を引いて、「イエスの死の時に、私の死の時について語るこのテキストが、受難曲としておかしいとの指摘もあり、私も少し首を傾げる部分があったのですが、今日はこの歌詞が是非とも無くてはならないと感じます。音楽が大きな支えとなっていること〜実際、それが無くては私はここに立っていることすらできないわけですが〜、その神のメッセージを強く感じます。プロテスタントでは、亡くなった魂はただちに神の御許に行くので、レクイエム(鎮魂)ということはしません。ですから、この演奏を故人に捧げることはいたしません。しかし、私の魂が演奏とともに天に昇っていく気持です。では、最後まで『マタイ受難曲』を充分に味わってください。」とお話しされて演奏が始まりました。

 その演奏は、深い思いに支えられた激しいドラマになりました。前日のサントリーホールの広い空間とは違うチャペルの中に、最小の編成にもかかわらず、巨大な音のうねりを生み出し、響きと祈りで空間を満たした第1曲。チャペル後方のオルガンバルコニー席から、大オルガンと2人のリピエーノ・ソプラノ(鈴木美登里、緋田芳江)の歌声が、対話を重ねる2つのグループの上に降り注ぎます。天候などの状況のためか、微妙に音程が低めな大オルガンの響きが、かえってはっきり耳に届いたのも、神の御業でしょうか。ペーター・コーイ、ヤン・コボウと鈴木美登里さんを除いて、前日までとは違うソリストによる演奏が、それぞれに説得力のある表現で繰りひろげられます。コボウ氏の語りぶりは、さすがに少々疲れが感じられるものの自由闊達。昨日感じたやや一本調子な感じはサントリーホールの広い空間に力んでいたこともあったのでは、と思いました。横浜、東京とは異なり、コンチェルティストが壇に乗って後列に立ったのもこのチャペルの音響を考慮してのことでしょう。一部不安定になってしまったアリアなどもありまし たが、いずれも心のこもった歌声でした。 そして、その合間のコラールの素晴らしさチャペルに会した一同が一つになる瞬間です。中でも件の第62曲のコラールはやはり格別でした。
 前半、日ざしでその美しい絵柄を光らせていたチャペル上部のステンドグラスが、第2部に入ってチャペルのまわりが闇に包まれるとともに暗くなって見えなくなっていたのですが、イエスの死が近づくころ、正面のイエスが御手を広げられた図柄のところだけが、特設されている照明によって“よみがえる”という演出がなされていました。このチャペルならではのものですね。
 この日の終曲「憩え・・・」は、今まで聴いたどの『マタイ』よりも深い祈りとやすらぎに満ちたものに感じました。

 終演後、鈴木雅明さんは「実は、演奏中に感極まったらどうしようか、と思っていたのですが、そんなことはまったくおこらず、曲が終わりに近づくにつれてとてもうれしい気持になっていきました。そして演奏を終え、振り返ってお客様の喜んでくださっている姿を見て、たくさんの皆様とともに音楽ができたことを本当にうれしく思いました。思えばこのチャペルでは、あの地震の時にもコンサートを開くなどして、人が死ぬことと生きることを考える機会が多くありました。今日もそんな中の一コマとして心にとどめていただければ、と思います。」とおっしゃっていました。こうして、特別な一日は幕を閉じたのです。
 BCJはこのあと、福岡に向かい2000年最後の『マタイ』演奏に臨みましたが、私は(本当は福岡にも行きたかったのですが!)翌日帰宅し、多くの実りを与えてくれた私にとってのBCJ『マタイ』2000は幕を閉じたのでした。鈴木雅明さん、そしてすべてのBCJのみなさんありがとうございました!
(矢口) (00/04/23、05/04)

180 《BCJ「マタイ」 in Suntory Hall, again
           〜BCJ「マタイ」2000、第二夜〜》


 BCJの「マタイ」が6年の歳月を経て、再びサントリーホールに響いた〜まったく新しい姿で
 横浜でスタートしたBCJによる新「マタイ」。この日もさらに新たなアイディアが試みられた。
まず、配置。リピエーノ・ソプラノとエヴァンゲリストの位置に加えて、チェンバロの場所も違っていた。
 リピエーノ・ソプラノは、大オルガンを鳴らすこともあって、第1曲では2階のオルガンコンソールのところ、第29曲ではステージ後方の広くあけられたスペース(オケ、合唱ともできるだけ客席に近づく形でセッティングされていた)の一番奥で、ステージ上の壁を背にする形で歌われた。1曲目ではやや響きが拡散してしまい、その姿による象徴的な意味合いの方が強くなっていたが、29曲では音も良く通っていた(もっとも29曲ではTuttiのソプラノも同じ旋律を歌っているが・・・)。 1曲目、29曲目とも演奏された大オルガンは、29曲でトラブルがあったようだが、ムリなく全体の響きの中にとけ込んでいた。ただ、どうしても音の立ち上がりに時間差ができ、少し遅れて聞こえることが残念。これは昨年のオペラシティ公演でも感じたことであり、今後改善を求めたい。私個人としては、この人数、この編成でのリピエーノ・ソプラノであれば、横浜公演での形(指揮者の両脇に立つ)の方を好ましく思う。やはりコラールの歌声(テキスト)にこそ重要性があると思うので、それがはっきり聞こえて欲しいのだ。
 チェンバロ第2グループの一員としての位置づけが鮮明にされ、第2オケの後方の一段高い位置にしつらえられた。この結果、チェンバロの響きはより多く客席に届いたが、指揮者からの距離が遠くなったことでアンサンブルはやややりにくかったようだ。
 福音書記者は横浜では第1オケのチェロの前に陣取っていたが、サントリーホールでは2台のオルガンの真ん中に立って歌った。これにより、コンティヌオとのアンサンブルがより緊密になり、イエスとピラト等を歌う第2グループのバス・コンチェルティストとのトライアングル(三角形)が形作られ、ドラマが見えやすくなっていた。女中とのやりとりでそちらの方を見るしぐさなどは、この位置ならではのものだった。しかし、私はこの点でも横浜での配置を好ましく思う。それは、今回のコンセプトの柱の一つ、第1グループと第2グループのはっきりした対比、という点からである。福音書記者が、その受け持つアリアも含め、第1グループに属していることをより鮮明に示してくれたのが横浜公演であった。次の機会には、この際思い切って第1グループのコンチェルティストの中に福音書記者を配置してみてはいかがかと思う。 とはいえ、コボウ氏安定感あふれる語りぶりには今回も感銘を受けた。53aで民衆が十字架にかけられたイエスにあざけりつつひざまずくところでの、グリッサンドのように丸く歌う表現など、新しい工夫も見 られた。ただ、今回はやや一本調子に感じたことも事実。たくさんの経験を積んで技に磨きをかけて欲しいと願う。是非また聴きたい逸材だ。名人揃いのコンチェルティストの中では、聴かせどころを知り尽くしたマイケル・チャンス味わい深い表現に大きな感銘を受けたことも付記しておこう。
 演奏は、横浜のホールより格段に豊かなホールの残響を慈しみながら進み、一つ一つの場面が意味深く表現されていった。イエスの死後の「神の子であった」の大きな表現や、復活の事実を刻印した「三日後に・・・」の合唱における各声部のラインが見事に見えた組立の素晴らしさなど、特筆に価しよう。コラールの位置づけの的確さと表現の豊かさも見事であった。ただ、エヴァンゲリストと司祭やピラト、イエスの緊迫したやりとりの中では、コンティヌオの響きと語りがかぶってしまってはっきり聞き分けられないところがあって残念だった。ということで、物語としての緊迫感という面では、ややぎこちない部分もあったが横浜公演をとりたい。しかし、瞑想と祈りという側面において、この今回のサントリー公演は今まででももっとも深い表現に成功していたと思う。物語性祈りの表現の双方を最高のレベルで両立させてくれる日が来ることを期待したい。
 6年前のこのホールでのBCJ「マタイ」にもとても心を動かされたものだった。あの演奏は当時の私にとても大きな希望を与えてくれた。しかし、BCJは歩みをすすめ、こんなにも高度なレベルでのチャレンジを続けている。その姿勢そのものが、私たち一人一人がなすべきことへの取り組みにとっての大きな指針となっているに違いない。また一つ、BCJから授かった素晴らしい時間に感謝!
(矢口) (00/04/22、05/04) 
*写真はBCJ事務局によるものです。

179 《21日のマタイは、感動的でした。》
 
 21日のBCJのマタイは、昨年の演奏よりも格段に円熟した名演だった。テンポも前回のようにあおることなく(特に冒頭の合唱)、またコラールその時々にふさわしい柔軟性のある見事なものだった。鈴木さんの気迫に応えた合唱が、こんなに豊かな表情でしかも端正に歌った演奏があったろうか。それも過剰な表情は皆無で。(マイケル・チャンスだけが表現が過剰気味なのが残念)
 前回の大詰めの場面で若干平板な表現と感じた不満も、今回は悲哀のなかでの静かな開放と法悦が感じられて見事だった。(ソプラノの「アウスリーベ」とバスの夕暮れのアリアの見事さ!)マタイがこんなに短く感じられたのも初めてだった。
 今日の聴衆はまさに熱心なバッハファンの総集合らしく、軽薄さのない良い雰囲気だった。(演奏前の会場の張り詰めた緊張感が凄かった) それに今日の演奏では、鈴木さんの指示でソリスト達は合唱部分にも参加していたが、それに止まらず、今日の聴衆はみんなオーケストラと合唱に合わせて心の中でコラールを歌ったに違いない。それが鈴木さんの究極の願いであり、今日はそれが達成された希有の感動的な演奏だったと思う。
 今後のヨハネロ短調ミサではどんな感動的な演奏が聴けるのだろうか。  
老BCJファンより

(玉村 稔 様) (00/04/25)
 玉村さま、感動的な「マタイ」のご感想、ありがとうございました!
 今回の演奏の合唱、特にコラールは、本当に素晴らしいものでしたね。何か、コーラスがあたかも一つの人格を持つかのように音楽に反応し、物語と省察を繰り広げていく様は、実に感動的なものでした。その祈りは、おっしゃるとおり、サントリーホールを埋めた会衆(もはや単なる聴衆ではなく)の心の中にも広がっていましたね。本当にあっという間の3時間でした。復活を信じる「開かれた」存在として描かれた終曲が、この長大にして劇的な音楽世界を描きつくしてなお「まだ先がある」と感じさせてくれたことが、昨年の演奏との大きな違いでした。
 開演前、鈴木雅明さんが登場した時の満場の期待のこもった拍手に見事に応えてくれたBCJ。この充実した合唱の威力は、「ヨハネ」「ロ短調」でも、私たちを再び新たな感動の地平に連れていってくれることでしょう。玉村さま、是非またご感想をお寄せください。 (矢口) (00/05/04)

178 《4月21日、聖金曜日、サントリーホール》

感慨と再発見。
BCJによる今回の“マタイ”を私なりに無理して手短に表現するならば、このようになるだろうか。

そもそも、今回は指揮に専念された鈴木さんの中で、いつごろ“コンチェルティスト/リピエニスト”の発想が具体化したのだろう?

かつて、“レコード芸術”誌が“マタイ”を特集した際、鈴木さんが演奏家の立場で寄稿されたのを読んだ覚えがある。 あのときは、鈴木さんが初めて“マタイ”を手がけたとき共演したイエス役のエグモント氏が“マタイを歌うのは今回で○○○回目(記事を正確に思い出せないがトンデモナイ回数だった)”と微笑みながら話すのを聞いて、当の鈴木さんは膝から力が抜けてしまった、などというエピソードが語られていたように記憶している。 だが、今回の“コンチェルティスト/リピエニスト”の発想について力説されていたか、よく覚えていない。

その後、矢口さんのホームページに、昨年のBCJによる“マタイ”ツアーに先立ち行われた事前レクチャの様子が掲載されていた。 その中の、次のコメントを見た瞬間、私の中での“マタイ”の風景が確実に変わった。

「自分の中ですべてが起こる」ことこそが「マタイ受難曲」の本質ではないか。

これを境に、私にとって、いままでどうしても掴みきれなかった“マタイ”のイメージが少しずつ身近なものになっていった。 私にとっての“マタイ”原体験は間違いなく、忘れ難い昨年のBCJ名古屋公演(あのとき客席は拍手を忘れたのではなく祈っていた、と最近になって思うようになった)だが、これも事前に鈴木さんのコメントを知らなかったら違った印象を抱いたかもしれない。

私は、その後、昨年の名古屋公演に続く大阪と東京での“マタイ”で、イエス役のコーイ氏がバスのアリアを掛け持ったことを知った。 その場に居合わせた聴衆がどんな感想を抱いたか知らないが、私は、鈴木さんの例のコメントや巻頭言を“全部わかった”ような知ったかぶり気分で、その時のコーイ氏の心境を尋ねてみたい、などと下司なファン心理にしばらくの間、かられていた。

しかし、それも今では全て氷解した。 昨年秋、BCJの“マタイ”がCDになって国内リリースされた際に限定頒布されたビデオの末尾には、おそらくは昨年の“マタイ”東京公演での終末合唱の演奏風景が収録されていたように記憶している。 そして、そこには、その日の福音書家の大役を終えたはずのテュルク氏が終末合唱を口ずさんでいる様子がハッキリ捉えられている。 そういえば、後で気づいたが、古楽を中心とする硬派のホームページを主催しておられるAHさんも、テュルク氏について、次のようにコメントされている。

彼は「群衆」と共にあったのだ!

あのとき、ステージで“マタイ”を熱演していた人たちは全て、“誰が何を受け持って、誰が何を掛け持って”などという、ファンにとっての表層のみの関心事を、演奏以前の問題として、とうの昔に解決してしまっていたに違いない。

そして、鈴木さんとBCJのメンバーは、今年の“コンチェルティスト/リピエニスト”の試みが新奇などとは全然思っていなかったに違いない。

今回の“マタイ”でも、ライブに付き物のアクシデントが無いわけではなかった。 しかし、虚心坦懐にバッハに向き合った演奏びくともしなかった。 そして昨年以上に白熱した音楽は“ああ、ゴルゴタ”を境に、痛ましくも喜ばしい終末合唱に向けて、やはり昨年以上におだやかに収斂していった。

そして終末合唱が終わると、ステージと客席は一体となって、しばし祈った。 昨年に引き続き、BCJの“マタイ”に接して、良い思いをさせてもらった。

聴いて良かった!

from Koshimizu
(KOSHIMIZU様) (00/04/23)

追伸
鈴木さんの厳父の悲報に接し、しばし言葉を失いました。

プライベートなことに詮索(せんさく)しても始まらないことですが、鈴木さんは厳父の容体を気にしつつサントリーホールで熱演されていたのでしょうか?

あのような素晴らしい音楽を聴かせてくれたことに対して、深くお礼を申し上げたい気持ちは、神戸公演に接したファンと同じです。
本当にありがとうございました。
そして、心からお悔やみを申し上げます。

from Koshimizu
(KOSHIMIZU様) (00/04/24)
 KOSHIMIZUさま、聖金曜日のBCJ「マタイ」のご感想、ありがとうございました。
 「レコード芸術」誌の特集は'98年の6月号で、鈴木雅明さんの「時空間を横断する恐るべきオブジェ〜演奏家の視点による《マタイ》論」が掲載されていました。エグモント氏は'91年3月、BCJ初めての「マタイ」公演の時に、「今日で、《マタイ》を歌うのはちょうど300回目だよ。」とお話しされたそうですが、BCJとして4回目のプロジェクトとなる今回の「マタイ」では、今までとはまったく違うアプローチで感動的なメッセージを私たちに届けてくださったと思います。私自身の感想は後日書いてみたいと思っていますが、今回の“コンチェルティスト/リピエニスト”の発想は作品の持つ意味を考える上で非常に重要な視点を与えてくれたのではないでしょうか。
 この新しい発想ですが、上記の「レコード芸術」誌の記事でも、パート譜の研究からはソリストもコラールや群衆の合唱を歌う構成になっているので、その点がまさに“時空間を横断する恐るべきオブジェ”である所以だ、といったお話の展開になっているのですが、実際の演奏でその形をとるには困難が多いというニュアンスで書かれています。ですから、発想としてはすでにこの時点('98年春)にお持ちであったのではないでしょうか。それが実際の演奏形態に結びついてきたのは、今回のシリーズでの神戸公演のために編成を切りつめる必要が出てきたときではないかと思います。(この部分は私の想像です) 昨年のBCJ「マタイ」で浦野さんの代役をも努められたペーター・コーイ氏の歌は、私の聴く限りでは、やはり代役としての歌の範囲にとどまっていたと思います。あのプロジェクトではやはり浦野さんの歌が想定されていたのです。しかし、今年は違いました。第2オーケストラの前に位置した昨年と違って、第1コーラスのもっとも右の位置に立つことで、イエスの部分にバッハが書き込んだ弦楽の響きを前にすることになったこともあり、ややひ き気味の表現に感じられたむきもあったようですが、重要なイエス役とコーラスそれに1グループのバス・アリアを、慎重にペース配分しながらも見事に歌いきりその方法の持つ意義をはっきり伝えてくれたと思います。感謝あるのみです。
 “ああ、ゴルゴタ”の強烈なピチカート(最初の4つは特に大きく演奏され、何が起きたのかとびっくりしてしまいました!)に導かれたイエスの死とそのあとにあらわれる清めのアリアを経て、“復活”を刻印した合唱曲のしっかりした響きが鳴ってから迎えた終結合唱曲の祈りは、ホールを埋め尽くした聴衆すべてをもひきこみ、深い印象を残してくれました。
 21日の終演後、ホール近くで食事をしていたところ、鈴木雅明さんが入ってこられました。失礼かと思いながらも、素晴らしい演奏への感謝などを申し上げていたところ、近くで食事をされていたみなさんもコンサートにいらしていた方が多かったようで、一時、鈴木雅明さんを囲む「ミニ・サイン会」のようになってしまいました。(お疲れの中すみませんでした・・・) その時サインを求められていた中の一人のご婦人が、「実はまもなくリンパ腫の手術で入院しなくてはならないのです。しかし、今日の素晴らしい演奏を聴かせていただき、とても励まされました。12月の“ロ短調ミサ”の時には是非退院して聴きに来ます」とおっしゃっていました。鈴木雅明さんは、その方にも暖かいまなざしでサインをしていらっしゃいました。今思うと、あの時、病床のお父さまを思いだしていらっしゃったのではないでしょうか。しかし、まさか翌朝にそのお父さまとのお別れの時が訪れようとは・・・。このあとの神戸での出来事は稿を改めて書いてみる予定です。 (矢口) (00/04/30)

177 《私も行ってきました!(松蔭「マタイ」)》
 
(前略) 22日の神戸公演,私も行ってきました!
前から「絶対一度はBCJのナマ演奏を聴かなければ!」と心に強く決めていたので,思い切ってチケットをBCJ事務局から送ってもらい,ドキドキしながら松蔭のチャペルに向かいました。

チャペルに入場する途中,「鈴木先生が来られた!」という声がしたので,見るとあの坂を小走りに鈴木雅明様があがって来られているではありませんか。急いでいらっしゃるというのに声をかけてこられる方に,丁寧に会釈されて,とても好感のもてる方ですね。あの長い白髪も風にふわふわなびいてお上品。(私の周囲のお客さんも同じようなことを言っていました)

演奏が始まると同時に,私は涙が出そうになるのを必死におさえていました。
「これが,バッハ・コレギウム・ジャパンの演奏・・・!」
なぜ,涙が出そうになるのかは分かりません。
ただ,感動感激とかそういうものだけでなく,ほかの何かが自然に私の心に訴えてくる・・・!
あの合唱のすばらしさはもうほとんど神の領域なのでは・・・?

演奏の最中にふと思ったのですが,私はBCJの演奏を聴いているだけでなく,BCJと一体になって演奏というお説教(←プロテスタントではこういう言い方でしたっけ?)を聴いているという感じがしました。
押し付けがましさ全然なく自然に受け入れることができました。
また,鈴木様も気丈に指揮をされている姿感動的でありました。

矢口様がなぜ,これほどまでにBCJに惚れ込んで,応援する理由が分かる気がします。(中略)
私はバッハの演奏についての解釈は全然分かりませんが,素人の私にこれほどまでに心に訴えてくる演奏はめったにありません。
遠くからわざわざこの演奏会のためだけに来ましたが,本当に来てよかったと思っています。
「CDの音だけでは伝わってこない何か」を体験できて私は大変満足できました。
まだ,BCJの演奏会に行ったことのない方にもぜひともおすすめしたいです。
では,これにて失礼いたします。
(yoshi様) (00/04/23)
 yoshiさん、こんにちは。初めてのBCJ体験このコンサートであったとは! 本当に松蔭でのコンサートは特に、来て良かった、という思いを強く持ちます。その“何か”こそがBCJの持つ大きな魅力とも言えるでしょう。最後の余韻とその後のいつ果てるともない拍手はすごかったですね。奏者が散会したあとの指揮者だけのカーテンコールはその思いを表して余りあるものだったと思います。また、その“何か”を求めてコンサートに向かいましょう! (矢口) (00/04/24)

176 《はじめまして。神戸の「マタイ」を聴きました》
 
初めまして。この度神戸定期の会員になった竹内茂夫と申します。
普段は大学の教員をしておりますが,音楽もとても好きなので,仕事のかたわら教会の小さな聖歌隊の指導をし,リコーダーなども吹いております。

さて,キリストの受難日の翌日である本日土曜日午後,特別編成の「マタイ受難曲」を聴きに,神戸松蔭女子大学チャペルに行きました。BCJを生で聴くのは初めてでした。マエストロには,15年ほど前に,とある教会でチェンバロの修理か何かをなさっているところに遭遇する機会があって,間近で演奏を聞かせていただいたことを今でも鮮明に覚えております。

3月末までオランダにおり,その時に知り合ったBCJの「マタイ」のCDでも歌ったというアムステルダムの音楽院の学生から「日本でBCJが『マタイ』をやるけど,神戸では特別編成なのでぜひ聴きに行ってください」と言われていたのと,2月にライデンで La Petite Band の演奏会があった時に鈴木秀美さんに声をかけさせていただいた時にもそのことを伺って,聴きに来たいと思っていました。また,帰国前の28日にマエストロの師匠でもあるトン・コープマンが再構成した「マルコ受難曲」を聴いてCDも買ってきたので,それを思い起こしながら今日の演奏を聴きました。「マタイ」の実演も初めてで、CDでは Herreweghe の新盤をよく聴いています。

演奏は,前日のサントリーホールとは違うせいでしょうか,最初の合唱は少し様子を見ている感じでしたが,中盤から合唱が俄然出てきて迫力がありました。ソリストは福音史家の Jan Kobow 若々しく表現豊かで,オランダで聴いた「マルコ」でもイエス役だった Peter Kooij暖かさと迫力があり,アルトの波多野睦美さん素敵でした。オーケストラも全体に安定していたと感じましたが,第2群に途中ピッチやリズムの不揃いなどがあったのが少し残念でした。

マエストロによる短いプレトークの中で,お父上が昨日の演奏会の途中に亡くなられたことを伺い,「マタイ」の中でキリストが息を引き取った直後の第62曲のコラールが新たな意味を持ってきた旨のことを言われ,なるほどと思いました。

いずれにしても,この受難週の時にこの「マタイ」を聴くことができて,とても良い時間を過ごせたと感じて嬉しかったです。3月末にオランダを離れてから初めてのコンサートでしたが,10枚CDを買うよりも1回コンサートに行く方がやはり得るものは比べ物にならないと感じました(そして本当は演奏するともっと得るものが大きいとは思いますが)。

BCJのこれから楽しみにしております。今後ともよろしくお願いいたします。
(竹内茂夫様) (00/04/22)
 竹内さん、「フォーラム」にようこそ! お便りありがとうございます。
日本にお帰りになって初めてのコンサートであった松蔭での「マタイ」心に残るコンサートでしたね! 
第2群のオーケストラは、サントリー公演では比較的安定していたのですが、横浜とこの日は結構大変なところもありましたね。ステージ上の温度がとても高くなる横浜:県立音楽堂のステージや、とても湿度の高かったこの神戸公演の日の状況は、ガット弦には相当応えるらしいです。鈴木秀美さんも演奏中、合間に頻繁に調弦されていましたね。しかし、そこはプロ。がんばって欲しいものです。 
それでは、こちらこそ今後ともよろしくお願いいたします!   (矢口) (00/04/24)

175 《松蔭マタイの感想》

矢口さんこんにちは。たった今、松蔭から帰ってきました。
感想を書こうと思ったのですが、はっきりいって言葉が見つかりません。

礒山先生の東京での感想によると
昨年の《マタイ》は楷書の厳しさを感じさせるものでしたが、今年はふくらみがあり、いっそうやわらか。鈴木さんの巻頭言にある、「瞑想と祈り」に主眼を置いた結果かも知れません。
とのことでしたが、本日の松蔭の演奏会は、予期せぬ雅明さんの個人的な事情により、そんな生易しい演奏ではなかったことを報告いたします。

鬼気迫るとはまさしくこういう演奏を言うのでしょう。
私はBCJの演奏会では上手いと思うことはほとんど毎回ですが、今まで泣いたことはありませんでした。
しかし本日は1曲目から涙腺がゆるみっぱなしでした。
2時間前からならんだこともあり、最前列のステージに向かって中央から3番目、要するに雅明さんとは2メートルぐらいのところで聴いていました。もう雅明さんの、背中から出る「気」3時間受けつづけ、涙、涙の演奏でした。私の連れ合いも同意見でした。

雅明さん、そして秀美さん本日は本当にありがとうございました。
また雅明さんの指揮に反応してくださったBCJの皆さんありがとうございました。
短いですが以上です。
(松田信之様) (00/04/22)
 松田さん、こんにちは。さっそく、松蔭「マタイ」のご感想をお寄せいただきありがとうございます。 私も松蔭、行ってきました! この日の朝、何と雅明、秀美兄弟のお父さまが東京でお亡くなりになるという状況での神戸公演で、まさに特別な演奏会になってしまいましたね。開演に先立って、このチャペルでの演奏のコンセプトを雅明さんが会場に説明してくださった中で、そのお父さまの件もお話くださいました。 「マタイ」東京・神戸公演については私も改めて書かせていただこうと思っています。  (矢口) (00/04/24)

174 《新しい風は横浜から 〜BCJ「マタイ」2000、第一夜〜》

ついにBCJ「マタイ」2000開幕しました。4/19聖水曜日、横浜の神奈川県立音楽堂です。
午後6時すぎ、ホールに向かう坂道を上りながら、何となく、あの神戸松蔭のチャペルに向かう坂道を思い出していました。苦しい(そんなにきつい勾配ではないのですが)坂道を登り切れば、そこにはBCJの響きが待っていると思うと自然に歩調も早くなってきます。そして開演。

BCJの新しい「マタイ」は、ごく自然にスタートしました。しかし、精鋭メンバーからなるコーラスは徐々に響きをつかんでいきます。チャンスが、コーイが、ヴィトマーが歌っている! なかなか壮観です。しかもその表現力は素晴らしく、このあともコラールを始め、今までにないほどの純度の高い響きを聴かせてくれました。第1曲と第29曲でのリピエーノ・ソプラノの2人は指揮者の両脇に立って歌いました。こちらも存在感抜群。第1曲では「娘たちよ来なさい、共に嘆こう」いうテキストがまるで絵になったかのようでした。サントリーホールと松蔭チャペルではこれに大オルガンも加わるとのことですから、“天上から降り注ぐ”音のイメージがますますふくらむことでしょう。そしていよいよ新エヴァンゲリスト、コボウの登場です。
BCJとの初共演でエヴァンゲリストというと、95年の「ヨハネ」でのテュルクが思い出されますが、今回は「マタイ」。実はかすかな不安も胸に第一声を待ちました。結果、脱帽です。強さ美しさ表現力を兼ね備えた素晴らしい歌声でした。
鈴木雅明さんは指揮に専念。レチタティーボなどでの即興演奏が聴けないことは残念でしたが、ダイナミックな表現で、アリアの表情づけなどもとても細やかに行われ、また、正面左に位置するイエスと弦楽器群のアンサンブルもばっちりでした。
第一部を聴き進むうちに、今回のアプローチは、ステージ上の一人一人が試される、実はとんでもなく大変なことなのではないか、と思い始めました。厳しい茨の道のりを通りすぎたところにある果実をこそ味わおうとする試み! しかも、響きの比較的少ないこのホールでの演奏・・・。色々なことがありながらも順調に曲は進みました。
マイケル・チャンスは、もう9年も前の91年のBCJ東京初の演奏会(「マタイ」)以来の共演になるでしょうか。 しかし、その、譜面を少し前につきだして表情豊かに歌う様子を見て、あの時の演奏も懐かしく思い出していました。あの時から始まったアプローチによる「マタイ」は、昨年一つの集大成ができたと思います。今回の新しいコンセプトの「マタイ」のスタートに、再びマイケルを迎えることができるとは、何と意義深いことでしょう。
第二部高い集中力とテンションで歯車がかみ合い、素晴らしく意味深いひとときを持つことができました。そして、最後の音がやみ、鈴木雅明さんの手がおりてから一呼吸して、新しい試みに果敢にチャレンジしてくださったBCJのみなさんへの感謝の拍手が盛大におくられました。

98年の「ヨハネ」第4稿の演奏も、この横浜のホールでスタートしました。そして昨年暮れには、「ヴェスプロ」の新しい演奏のあり方の提案もここで行われました。 まさにこの横浜のホール(県立音楽堂)は、BCJにとって新たな挑戦のスタートを切るステージであるとも言えるでしょう。
さあ、次は 94年以来のサントリーホールでの「マタイ」。願わくば、最後の余韻を横浜でのように、会場全体で共有できますように。
(矢口) (00/04/20)

173 《BCJのマタイ》
 
矢口さん、清水市の望月 亮と申します。初めてメール差し上げます。(中略)
小学校のころからのクラシック音楽ファンですが、バッハではとりわけマタイ受難曲に惹かれてきました。ご多分に漏れずリヒター絶対主義でしたが、先日友人に誘われて鈴木さんのレクチャーコンサートに行く機会があり、いたく感じ入りましたのでBCJ関連のサイトを探していたら矢口さんのページに巡り会った次第です。

矢口さんもHPで書いておられたとおり、この種のレクチャーとしては異常に密度の高い聴衆の、一番前真ん中の席に友人と陣取っての2時間半は、これまでにないほど充実していました。
マタイ受難曲には幾多の思い入れとともに疑問も数々ありましたが、それが鈴木さんの解説によってしだいに解き放たれていくのは実に素晴らしい体験でした。
マタイ全曲中で頂点をなすといつも思っている「愛ゆえにわが救い主は死にたもう」のオブリガートなし(「コンティヌオなし」のことと思います:矢口)のアリア(何曲目か忘れました)についての言及、イエスが息を引き取ったあとの不釣り合いなほど充実した「長官、あの偽り者が...」の合唱の解釈(本当にこの部分については目の覚める思いでした)....レクチャーの資料となったOHPをみると、どこかの講義のノートのような体裁でしたが、本当に芸大の聴講生にでもなって、鈴木さんの講義を聴いてみたい衝動に駆られました。時間が足りなくなってしまって(ややプレヒストリーに時間をかけすぎた)、受難コラールの調性に関する解説が端折られてしまったのは残念至極でしたが....

(本当は、上記の感想、質問などを鈴木さんに直接メールしたいと思ったのですが、芸大のページでもメールアドレスを公開しておられなかったようなので、矢口さんに出来ましたらご伝言をお願い申しあげます。「先日最前列で目を輝かせて聴いていた参加者です!もっと聞けなくてとても残念でした、鈴木さん!」)

関心はありながら、今まで買ったことのなかったBCJのマタイのCDを早速買い求めて聴いていますが、まず会場の音響の素晴らしさにうたれました。日本でもこのような素晴らしい演奏、録音がやれば出来るのですね。それから、レクチャーでも感じたのですが、鈴木さん自身に「こう演奏したい」「このように表現したい」という意欲が満ち満ちているのがうれしかったです。リヒターから(そしてメンゲルベルクから)いつまでも離れられないのは、最近のそこらの録音(古楽器でも現代楽器でも)に、こうしたわき上がるような表現意欲が全く感じられないからです。

ともあれ、今後ともBCJの活動には注目していきたいと思っています。
矢口さんのページのますますの充実を願っています。

(望月 亮 様) (00/03/23)
 望月さん、はじめまして、「BCJフォーラム」へようこそ! 「マタイ受難曲」レクチャーを聴いてのご感想、ありがとうございました。今回のサントリーホールでのレクチャーの第1回だったこの日、もちろん私も会場でお話と演奏をうかがいました。「マタイ」については昨年も何ヶ所かで鈴木雅明さんのお話をお伺いしていましたので、おおよそのアプローチは承知していたつもりだったのですが、この日もまた新しい発見に満ちたお話でした。
 ミューラーの神学との関連や初期稿の自筆譜にみられる記載などにも視点が置かれたお話でしたが、もちろん、BCJのメンバーを交えた演奏によって解説していただいたいくつかの場面やアリアもとても印象に残るものでした。望月さんもお便りの中であげられている「愛よりして」のアリアについてのお話は、昨年のレクチャーレポートにも出てきていますので、よろしければこちらもご覧ください。 「長官、あの偽り者が...」の合唱については、変ホ長調(フラットが3つ:3は三位一体の神の象徴数)のしっかりした合唱曲が、実は受難のあとの来るべき復活を示したものだという解説だったと思いますが、この復活への視点こそが、罪への瞑想を通じた救いへの道を示す「受難曲」の表現の重点なのですね。主の「受難」が我々に何をもたらしてくださるのか、それこそが感じ取るべきメッセージなのだと思いました。
 当日見せてくださったOHPシートは実はご自身のお話されるためのメモだったそうですが、機会がありましたらどこかに公表していただきたいものですね。私も、これはなかなか良くまとまったメモだと思い、写しはじめたのですが、時すでに遅く、ほとんど写し取れませんでした・・・。 また、時間がなくなってしまってうかがえなかった受難コラールの調性をめぐるお話なども何かの機会にうかがってみたいものです。・・・ということでこのHPの「Q&A」のページに出してみました。こちらです!
 ところで、鈴木雅明さんへの連絡方法ですが、雅明さんご本人のメールアドレスではありませんが、BCJ事務局[general@bach.co.jp]あてにメールをお出しになれば雅明さんにもご覧いただけると思います。また、この「VIVA! BCJ」もありがたいことにいつも見てくださっていますので、こちら[makoto-y@mxi.mesh.ne.jp](私)あてにお便りを頂戴しても、雅明さんにお伝えすることができます。ちなみに今回のお便りもさっそくお伝えしておきました。
 望月様も今回のBCJ「マタイ受難曲」公演にはいらっしゃるのでしょうか。わき上がるような表現意欲に満ちた演奏、楽しみにしたいと思います。是非またお便りをお寄せください。  (矢口) (00/03/29)

172 《BCJの音楽の制作現場を見て》
 
 BCJのHP 5万番目の方が名乗り出なかったので、5万1番を取った私が前後賞として何かもらえることになりました。私は物品をもらうよりも、BCJの音楽の制作現場を見ることに興味があったので、練習の見学を希望させていただきました。

 最近、レコード雑誌ではBCJを指揮する鈴木雅明氏のことを紹介する中に、「信仰者」という単語を見かけるようになりました。私も聖書に登場するイエス・キリスト、バッハの教会カンタータに登場する神を信仰するものとして、鈴木氏に関する記事を大変興味深く読んでいます。BCJのカンタータ演奏とその中の聖書の解釈は、信仰者の立場から見ても見事というしかありません。BCJの音楽を聴くうち、信仰者である雅明氏の考えがどのようにしてBCJメンバーに伝わっていくのかということに興味を持つようになりました。BCJがいくら宗教曲を取り上げる機会が多いからといっても、メンバーの全員が鈴木氏のように信仰を持っていらっしゃるわけではないと思います。こうしたことから、鈴木雅明氏のカンタータの解釈と最近レコード誌でも取り上げられている信仰者としての姿勢がBCJメンバーに伝わっていく様子を知るということに重点を置いて、見学させていただくことになりました。

 見学に行った日は合唱練習開始から2日目、場所は東京都内の静かな場所で響きの良い小さなホールでした。私はそこの2階に座り、メンバーの方々を上方から見学させていただきました。合唱団員はみな仲がよく、楽しそうに談笑していらっしゃいました。話し声もとてもきれいです。
 さて、予定よりも少し遅れて練習開始。練習は真剣勝負そのものでした。最初は座りながらの89番コラールの通しでした。89番の合唱は最後のコラールだけでしたので、雅明氏による最終コラールまで行きつくストーリーと意味などの説明がありました。説明の後、発声練習も何も無く、さっそく歌い始めました。さすがプロだなと思わせる出来映えでしたが、BCJらしさはまだ見られませんでした。そこに鈴木雅明氏のコメントと指導が少しずつ入ることによって、だんだんとBCJらしさが顔を出してくるようになり、目の前で静かに起きている変化を目の当たりにすることができました。
 印象的な出来事は、48番冒頭合唱曲にありました。この曲で鈴木雅明氏は、バスパートに対して「wer wird」を、「人生をかけるような切実さ」で表現するように指摘されました。この合唱曲の歌詞は「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」という、『新約聖書』ローマ書7章から引用した言葉です。この言葉を読んだだけでは、普通の人は何を意味しているのかわかりません。どのようにみじめなのか、またはどういう気持ちが込められた言葉なのかが分からなければ正確に表現することはできません。この言葉の背景には次のような意味があります。人が神から信仰を頂く前、一度、「悔い改め」という場面に立たされなければなりません。この「悔い改め」に至る前、人はだいたいローマ書7章の体験をすることになります。つまり、「罪の性質が悪く、これが神と人の間を引き裂く原因になっているが、自分の中には罪の原理しか見出すことができない。これを何とか対処したいと思うのだが、やはりどうにもできない。私はいかにして救われ、この罪の性質から開放されるのだろうか。」という内容です。だからといって、叫ぶほどに歌うのかといってもやはり異なります。心の悲しみに打ちひしが れ、弱りきった中でにじみ出るように発せられる言葉なのです。ですから、この歌詞を鈴木雅明氏は、「(人生を掛けた)切実さ」という風に表現されました。この鈴木雅明氏の言葉が入ってから、この合唱曲も徐々に変化が現れてきました。
 また109番では、「glauben(信じます)」よりも「unglauben(信じません)」が強調されていました。この曲は、人間の不信仰さと熱くも冷たくもなく生ぬるくなった信仰がイエス・キリストによって立てなおされることを歌ったものです。この曲が取り上げている内容は一度信仰を持ったクリスチャンが容易に陥りやすい、大変身近な出来事です。信仰者の人生で、同じような場面に遭遇することがいかに多いことでしょう。練習では「unglauben」の強調の仕方は、最初少し強く当てて弱め、徐々に膨らませるという感じでした。悔い改めていることを表すには適していると思いました。この表現方法も言葉の意味と背景を知らなくては決して生じないものだと思います。鈴木雅明氏の言葉は少ないながら、一つ一つのアドバイスはよく考えられ、的をえたものでした。またその言葉に即座に反応する合唱団も大変すばらしいです。
 2・3時間にもおよぶ長い練習ですので、途中休憩を挟みますが、鈴木雅明氏の話題と興味は常にカンタータだけに注がれていました。その姿勢には、何か芯の通った力強さを感じました。また力強さだけでなく、混声の4パートを聴き分ける能力、言葉の裏に垣間見ることができる人柄と感性は、大変すばらしいです。練習後、鈴木雅明氏は体調が悪かったらしく、帰宅後すぐに熱が高くなるのではないかとご自身でおっしゃっていました(事実、それから3日間、練習に参加できずに寝込んでおられたそうです)。ところが最後、「でもすぐに直りますから」と、勢いのある言葉には驚きました。

 見学の結果、
(1)BCJのカンタータ言葉に重点をおいて演奏されていること、
(2)曲の意味ニュアンス歌詞の言葉の表現方法などによって
  鈴木雅明氏はメンバー全員に伝えていらっしゃることが分かりました。

 音楽作りに関するいろいろな考えがあるとは思いますが、やはり鈴木氏のように「信仰」がなくて教会カンタータは完成されないと思いました。当然、BCJのように音楽的な能力が十分備わってからの話だとは思いますが。
 これからも手作りの演奏を楽しみにしています。長い乱文にお付き合いくださり、ありがとうございました。
  
(金原秀行様)  (00/03/17)
 このHPにアクセスカウンターをつけてからまもなく2年になろうとしているのですが、皆様にご覧いただいているうち、先日、70000アクセスを通過しました。今までも10000番や20000番のプレゼントについてはこの「フォーラム」でもご報告いたしましたが、その後、30000、40000はお申し出なしで、50000番を迎えたのが昨年の9月のことでした。 9/13、今までにも何度かお便りをいただいている金原さんから、「前後賞でした」とのお申し出と共に「50001」と、おまけに「25000」の数字入りTOPページのハードコピーが送られてきました。ところが、それからしばらく経っても「50000」ちょうどの方からはご連絡をいただけませんでしたので、せっかくの区切りの番号でもあり、お申し出のあった方を「前後賞」とすることにして、金原さんのご希望をお伺いしたのが、今回お寄せいただいた「BCJ練習見学レポート」を書いていただくきっかけでした。
 BCJの練習を見学したいという金原さんのご希望は、はじめ実現が難しいかな、と思ったのですが、BCJの武田事務局長さまのお取りはからいにより、「今回限り」で「是非感想を聞かせてください」という条件のもと、2000年2月のカンタータコンサート前の合唱練習を特別に見学させていただくことができた次第です。武田さん、並びにBCJ関係者の皆様、本当にありがとうございました。また練習会場「マカギャラリー」の増井様にも色々お心配りいただき、感謝にたえません。(ちなみに、以前増井様のお書きになったBCJ練習レポートこちらにあります!)
 音楽と「信仰」の問題は非常に難しい側面を持っていますが、やはりバッハの、しかもカンタータを演奏するためには避けて通れない問題ですね。信者ならぬメンバーも多いBCJのみなさんに鈴木雅明さんがどのようにアプローチされているかが、レポートを拝見してよく解りました。要は、音楽の担っている理念を、いかにして具体的な表現手段つなげていくのか、ということなのかな、と思います。そのようにして音楽に込められた理念が、聴衆たる私たちにどんなメッセージとなって届くのか、これこそ音楽という芸術の持つおもしろさなのではないかと思います。受けとめ手としての聴衆が、その演奏を「信仰」にもとづいたメッセージと受け取るか、もっと幅広い意味のメッセージと受けとめるかはそれぞれの聴き手に委ねられると思います。しかし、BCJのメッセージ(それは音楽監督である鈴木雅明さんのメッセージに他ならないわけですが)には、その基盤の部分に揺るぎのない「信仰」があることが、大きな説得力の源になっているのではないかと思いました 。これからもその確かなメッセージから、たくさんのものを受けとめていきたいと思います。金原さん、レポートありがとうございました!
 ちなみに、60000番は私(矢口)が自爆(!)しました・・・。先日の70000番はお申し出がありませんでしたので次の機会は80000番でしょうか。77777も面白いかもしれません。この点、特に計画性はありませんので、きりの良い番号をお取りになりましたら連絡ください。なにか考えてみます。(まさに神のみぞ知る?!)  (矢口) (00/03/28)

171 《聖トーマスのマタイ》
 
矢口さま こんにちは ごぶさたしております mimi です。

米良さんが出演を予定されていた横浜公演。残念ながら米良さんの出演はなくなりましたが、私にとっては、米良さんのキャンセルをも、補ってなお余りあるほどの、素晴らしい、マタイ初体験でした。

合唱の少年たちの歌声は、私が従来抱いていた、少年合唱団(例えばウィーンのような)のイメージを遥かに超えるもので、あの、汚れやぜい肉のない、浄められた圧倒的な雰囲気は、一体何の成せる技なのでしょうか。なんとしても、教会という空間で、一度聴いてみたいと、思わずにはいられませんでした。

マタイ受難曲というものを聴いたこと自体、私は初めてでしたので、(先入観を植え付けたくなかったので、無謀にも予習すらしませんでした(笑)) 特に2部に入ってからは、すべてに、ただただ圧倒されたというか‥‥ 何が悲しいとかじゃなく、悲しみの涙じゃなく、ただただ、が出て止まらなくて、困ってしまいました(笑)日頃、心に積もったままになっていた、ほこりを全部、この涙ですっかり洗い流されたような気持ちです。本当に素晴らしい、マタイ体験でした。

そして、今、冷静になって考えてみると、今回米良さんは、かえって歌われなくて、良かったのではないか‥‥という思いがいたします。

今回の演奏は、(私のような素人の見解で申し訳ありませんが‥‥)とても、硬質で、正統的なものに感じられ、あるいは、米良さんの湿度をたっぷり含んだ独特のバッハは、合わなかったかもしれない‥‥もし合わせようとすれば、両者に、とりわけ米良さんに、とても無理がかかったかもしれない、などと、少々余計な心配かも知れませんが、そんな事を感じました。

ここ2年くらいの活動では、米良さんが、きちんとコントロールされた声で、まとまってバッハを歌う機会も、ほとんどなかったように、お見受けします。久々のバッハ復帰でいきなりマタイ受難曲と言うこと自体、大変なことでしたでしょうし、ほとんど直前まで、いつものリサイタル活動を続けられていて、充分に声を整えるための時間も、あるいは限られていたのかも知れません。

今回、喉をいためられたそうですが、酷かもしれないけれど、ある意味「天恵」だったのかもしれないと‥‥神様が米良さんに、ベストの状態でバッハを歌う為に、もう少し、時間を下さったのではないかと、そんな気がします。

でも、マタイ受難曲を初めて聴いて、改めて、いつか必ずや、米良さんの歌う、マタイのアリアの数々を是非とも聴いてみたいと、思いを新たにいたしました。そして、その時の共演は、私の乏しい知識の中での選択ではありますが、やはり、BCJしか考えられなくなりました。

いつか、来るであろう(是非来て欲しい)その時のために、米良さんには、この神様から与えられた(と私は思う(笑))貴重な時間を大切に、あの素晴らしい歌声の完全復活に力を尽くして頂きたいです。
 
こんなこと書いていますが、一応米良ファンの(笑)mimiより
( mimi 様) (00/03/14)
 mimi さん、こんにちは。お便りありがとうございます。あの聖トーマス・コールの演奏会からいつの間にか、もう2週間が経ってしまいました。米良さんのおかげんはいかがでしょうね。3/24付で「ジャパン・アーツ」のHP「米良美一、大物アーティストとの共演続々で大忙し」というトピックが掲載されましたので、きっと回復されて、「マタイ」リベンヂ(?!)のためにも、「腕」ならぬ「のど」をみがいていらっしゃるのではないかと思います。
 さて、結局米良さんが出演されなかった今回の「マタイ」ですが、初期稿という注目すべきアプローチということに関わらず、「マタイ」が本来持っている“罪への瞑想とその浄化”という作用を mimi さんにももたらしたのだな、とお便りを拝見して思いました。深く罪に沈んでしまっている(?!)私は、演奏をうかがっている最中にも、やれこの曲の音型が違ったとか、おお、ここでこんな風に音符が違っているのか!、等々に気を取られてしまい、今回は音楽にのめり込めぬまま聴き終えてしまったというのが正直なところです。 しかし、朗報! 今回の聖トーマス・コールの「マタイ」来日公演(初期稿)NHKが収録していて(たぶんシュライアーが出演した東京公演の演奏と思います)、この7月、先日「早耳情報」でお知らせしたNHK-FMのバッハ・イヤー特別番組「作品でたどるバッハの生涯」第2回で放送される予定とのことです。解説はわれらが鈴木雅明さん! もう今から待ち遠しいですね。
 「マタイ」は、それを求める人にはとても多くのものをもたらしてくれる希有な存在だと思っています。コンサート前の「予習」については、色々ご意見があることと思いますが、今回 mimi さんは、もしかしたら予習をしなかったからこそ、「マタイ」の持つ力に大きく動かされたのではないかとも思います。その点、今回の公演でも設置されていた「字幕」は大いに役立っているのかもしれません。しかし、例えば、BCJの活動の中心をしめるカンタータの演奏などは、そうそう何回も聴くチャンスのある曲ばかりではないのです。もちろんCDになればいつでも何回でも繰り返し味わえるわけですが、ライブの演奏で感じ取れるものとは少し種類の違うものであると思います。この「VIVA! BCJ」を私がはじめてみようと思ったのは実はそこに大きな理由があったわけで、BCJの貴重な演奏会を一人でも多くの方に深く味わって欲しい、そのためにあらかじめ(コンサートの興をそがない程度に)お知らせできることを、自分も予習しながらお伝えしてみようと思ったわけなのです。 「マタイ」のコンサートには、今年だけでもまだまだ何度も接することが可能です。今回のトーマスコールの「マタイ」の印象を是非大切にされ、今度はBCJの「マタイ」CDなどで、よく演奏される後期稿の演奏にも親しんでみてからまたコンサートに出かけられてみてはいかがかと思います。 私が初めて聴いた「マタイ」はカラヤンの録音でした。その頃(もう20年以上前のことです・・・)、カラヤンのオーケストラ演奏に心酔していた(る)私は、カラヤンの新録音ということでFM放送された演奏をカセットテープを何度も取り替えながら録音していました。その時に感じた、それまでに一度も経験したことのない異様な“重さ”(今思うとあの演奏特有のものだった気もしますが)に恐れおののいたことは、今でも忘れられません。“恐れ(畏敬)” の念は、「マタイ」に対するとき今でも常に持つものです。mimi さんも、この希有の作品から多くものを受け取り、楽しまれていかれるといいですね。
 ちなみに私が初めて実演で聴いた「マタイ」も1985年暮れに来日したトーマス・コーアの演奏でした。その後トーマス・コーアの演奏も何度かうかがいましたが、1990年11月の公演(1曲目、何とシュライアーも合唱に加わっていたんです!)の演奏がもっとも印象に残っています。それ以外では、トーマス・コーアの比較的まろやかな響きと対照的なドレスデン・クロイツ・コーア(ドレスデン十字架教会合唱団)1988年10月のサントリーホール公演が、その冷たく澄んだ歌声を暗譜で見事に操って味わい深い「マタイ」を築き上げたマルティン・フレーミッヒの指揮とともに深く印象に残っています。ドレスデン・クロイツ・コーアはその後、新しいカントルと来日したのですが、過日の面影がうかがえなかったことが残念でした。あのかけがえのない歌声の復活を期待したいと思っています。そして、私の「マタイ」体験で今や頂点となっているのが、昨年4月3日、彩の国でのBCJの演奏です。 しかし、さらに“一人一人の、罪への瞑想と救い”というテーマを掘り下げた今 年のBCJの「マタイ」が、「マタイ」演奏の歴史に新たな一ページを加えてくれるのではないかと期待しています。 mimi さまも、色々とお忙しい毎日とは思いますが、是非BCJの「マタイ」にもいらっしゃってみてください。
 長くなってしまいましたが、最後に米良さんに関する話題を一つ。5月に発売が予定されていると伝えられているCD、「MERA SINGS BACH(仮称)」について、BISからすでにリリースされている「バロック・アリア集1,2」に未収録の録音などからのコンピュレーション・アルバムになるとのことですが、どうも、BCJのCDとしてもリリースされていない、貴重な未発表音源が含まれる可能性があるとのことです。具体的には、96年2月に収録され、CDになっていないライプチッヒカンタータ、BWV72「すべてはただ神の御心のままに」アルトによるレチタティーボとアリアが盛り込まれる可能性があるとのこと。このころは、現在カンタータCD第3巻に収録されているアルトのソロ・カンタータ、BWV54「罪に手向かうべし」にも取り組んでいた時期(96年4月収録)で、米良さんのもっとも脂ののりきった時期とも言えると思います。すごい演奏でしたよ。お楽しみに。 (矢口) (00/03/27)

170 《フラストレーション払拭にセント・トーマス・コールを聴いてきました》
  
 矢口さん、ご無沙汰しています。(いつも同じご挨拶・・・笑) 毎日必ず貴サイトに目を通しているのですが、行くことの出来ないイベントばかりでフラストレーションがたまり、少々癪が鬱積していたところです。
 実は今日は前回のメールでお伝えした通り、札幌コンサートホール・キタラSt.Thomas Chor.のマタイを聴いて参りました。その興奮さめやらぬ間に、BCJのマタイを再度聴きながらおさらいをしているところです。

 まず、これは矢口さんはじめこれからの公演をお待ちの方々には非常に残念なお知らせなのですが、米良氏が急遽病欠になりました。昨日のゲネプロまでは歌われていたのですが、途中から調子を崩し、病院で診察したところ全治10日間の声帯炎ということで、診断書のコピーとともにお詫びの貼り紙がされていました。札幌は昨日の気温が12度、今日が2度という急激な温度差だったので、それが原因だったのかも知れません。この時期札幌の+12度というのは全くの異常気象です。代役(ダブルキャスト)はアルトでしたが、のるまでに時間がかかり、決してよい出来ではなかったようです。

 今回の公演はこのような事情で、米良氏のいないプログラムということで、興味の半分は消滅してしまったのですが、それでも往年ファンだった酔いどれコンヴィチュニーの手兵であるゲヴァントハウス管弦楽団と、旧アルヒーヴでバッハのお手本にしていた St.Thomas Chor.の組み合わせは、垂涎そのものでしたので、最後まで緊張に次ぐ緊張、全く眠気を催さずに聴き通しました。
 リヒターから始まって何種類かの演奏を聴いてみての比較ですが、まずBCJにも通ずるテンポの小気味よさに非常に共感を覚えました。但し、アーティキュレーションは全く違う・・・。 要所要所のオブリガートがちょっと違うな・・・と思いながら聴いているうちに少々不自然さを覚えつつ第1部の終曲を迎えました。ところがなんと、これが聴いたことのない曲(クリスチャン・カイマン作「私はイエスを離さない」)だったのです。拍手するのも忘れて狐につままれた思いでいたところ、渡されたプログラム修正版から BWV244b であることが分かりました。指揮者である St.Thomas の31代目現カントル、クリストフ・ビラー氏の意向により、バッハ没後250年記念としてこの稿で演奏することになったそうです。普段聴いている244ではなく、初稿だったのです。日本国内では初演とのことです。 他にもアルトのアリアがバスで歌われている部分があったり、事情が分かってからは全く244との比較をしているような有様でした。 楽器構成も違っていて、ポジティヴオルガン1台(大オルガンは閉じたまま)、チェンバロにキタローネ(チューニングが甘かった〜残念:おかげでバスが音をはずしてしまった)という珍しい構成になっていました。

 普段、座右の銘のような形でBCJのマタイに接していて(当然今も聴きながらメールを打っていますよ)、リヒターの演奏さえ違和感を持つまでになってなっているような状況ですが、今日の演奏は違和感なく溶け込むことが出来ました

今度は是非BCJのマタイをキタラで聞けることを夢見つつ、あまりBCJに関係のない話で失礼いたします。

【どうでもいい話】St.Thomas Chor.のメンバーは上限18歳。赤ちゃんのようなかわいらしい子もたくさんいます。出番までの仕草を見ていると実にほほえましいです。坊主刈りがいたり、ちょんまげがいたりスタイルも実に多種多彩。ほんと、可愛いですよ。

(越野義貴様) (00/03/05) 
 越野さん、こんにちは。いつもご覧いただいていてありがとうございます。 実はこのお便り、公演当日の夜にすでに頂戴していたのですが、米良さんのキャンセルのお知らせはいち早くUPしたものの、肝心の中身について、自分で3/11に聴いてから感想なども添えてUPしようと思っているうち、3/11以降体調を崩してしまったり、仕事に(本職のですよ!)追われたりしてしまってご紹介が遅くなってしまいました。申しわけありません。トーマス・コールの「マタイ」については、私もうかがった横浜公演について、mimi さまからもお便りを頂戴しておりますので、こちらも近日中にご紹介させていただきたいと思っています。お待ちください。
 さて、まず、米良さんのキャンセル。残念でした。1/2の「あさのバッロク」でのこの「マタイ」にかける意気込みなどもうかがっていて、とても楽しみにしていましたので・・。ただ、今回プログラムの冊子で同じ1ページ扱いで紹介されていたあのシュライヤーですら、数年前のドレスデン十字架教会合唱団との「マタイ」来日公演ではキャンセルをしていたこともありましたので、今はただひたすら回復をお祈りするしかありませんね。「米良マタイ」はまたの日の楽しみにとっておきたいと思います。
 今回の演奏でなんといっても注目は、バッハの娘婿、アルトニコルによる初期稿の筆写譜に基づく演奏、ということでした。この札幌公演が日本初演になるのですね。現カントルのビラー氏は、受難曲の様々な稿に興味をお持ちで(もちろんわれらが鈴木雅明さんもそうですが!)、96年 2月には横浜のアマチュア合唱団に客演して、『ヨハネ受難曲』の第2稿を通して演奏されていたのをうかがったことがあります。ちなみにそのステージで、当時まだ売り出し中だった米良さんとも共演されていました。あの時の出会いが、実現はしなかったものの、今回の共演企画の呼び水になったのかも知れませんね。
 「マタイ」初期稿の特徴については、米良さんのファンのるりねさんが、こちらにまとめてくださっていますのでご覧になってみてください。 しかし、気をつけ出すと本当にたくさんの違いがありました。ついスコアを追いかけながら聴いていたのですが、驚いているうちに曲が終わってしまった感じでした。 初めて聴いた「マタイ」が今回の初期稿であったすると、通常の版での演奏を今後お聴きになった時に結構大きく違うようにお感じになるのではないかと思いました。 ただ、通常の版で親しんできた私の感想を申し上げると、「結局『マタイ』の場合、浄書譜はやはり完成度の高いものなのだな、と改めて思うことになった」といったところでしょうか。
 というわけで、版の違いに結構気を取られてしまったため、今回のトーマス・コールの演奏がどうだったのか、今ひとつ判断しかねるような感じになってしまいました。トーマス・コールの「マタイ」は今回が私にとっては5回目の実演で、初めて『マタイ』の実演に接したのも、1985年のバッハイヤーに来日したトーマス・コーアの演奏でした(指揮はロッチュ)。もう15年も前のことですから、今の最年長の団員はまだ生まれて間もない頃のことなのですね。ついそんなことに感慨を持ってしまいました。 このつづきの感想などは、もう一つの mimi さんのお便りへのコメントの中で続けようと思います。
越野さん、またのお便りお待ちしています。そしていつの日にか再びBCJが札幌の地を訪ねることがありますように!  (矢口) (00/03/23)

169 《松蔭でのカンタータの感想》
 
松蔭でのカンタータの感想を書きます。
矢口さんも来られていたので詳しくはおまかせするとして、全体の印象を書かせていただきます。

今回は前から3列目の一番中央よりで聴く事ができました。

結論から先に述べますと、大変よい演奏でした。
それは私がよく指摘する合唱の弱さ(要するに声が飛んでこない)が無く、オケと合唱のバランスここ5年ぐらいの松蔭で生で聴いたカンタータの中でも1番ではないか?という出来でした(CDではもちろん上手くいっているのですが)。

神戸では東京より合唱の人数が一人ずつ減り各パート2名でした。
合唱のときはソリストもいっしょに歌いましたので3人ということになります。
今回はアルトにブレイズ、テノールにテュルクが入ったことで内声の動きが鮮明で「バッハやなあ」と言う感じがよく味わえました。久しぶりにアルトにCTの入った録音が聴けるのが今から楽しみです。ソプラノも慨して良かったのですが、コラールのときはもう少し出てきてほしかったです。
金曜日には録音がすでに終わっていたとのことですが、その疲れも見せずに緊張感のある演奏を披露してくれました。

演奏会の後は久しぶりに懇親会へ。
以前から一度お話をお伺いしたかった穴澤さんとアルトについてのさまざまな話が出来て充実した時間が過ごせました。
懇親会にはHPにもあったようにオランダからの「おっかけ」の方もいらして、たまたまそのとき持っていた、私が所属していた大阪Hシュッツ合唱団のヨハネ受難曲のテープ(1995年ライブ録音)を記念にと思いプレゼントしたのですが、ほとんどボディーランゲージでしたので意図が通じてないかも(^^)。喜んでいただけるとよいのですが。

それではこの辺で失礼いたします。

(松田信之様) (00/02/27) 
 松田さん、いつも神戸公演のご感想などをお寄せくださってありがとうございます。今回は文中でも紹介していただきましたが、私も神戸詣でをさせていただきました! 本当に素晴らしいコンサートでしたね。
 合唱のメンバーが東京よりそれぞれ1名ずつ少なくなったことで松蔭の響きの中でもすっきりと旋律のラインが聞こえてきていましたし、ソリスト(コンチェルティストと呼ぶべきか?)のみなさんが合唱に加わっていることで力強さも申し分ないものでした。順調に進んで前日の夜には終了したという録音の出来映えも楽しみです。
 個々の曲について私の感想も書いてみます。まず冒頭のBWV48ですが、最初の合唱曲が東京での演奏とはまるで別の曲であるかのようにゆったりとしたテンポでじっくり歌い込まれていました。東京での、“叫び”のような音型を早めのテンポで表した演奏も なるほど、と思いましたが、神戸の演奏では、救いを求める切実さがより一層際だっていたように思います。第6曲のテノールアリアでは、鈴木雅明さんが3拍子で拍をとりながらも2小節単位に重さを与えていて、ヘミオラの動きも見事に表現されていることに気づきました。そして、チャペルで聴くコラールの響きがなんと言っても格別でした。
 続くBWV89でも、冒頭のバスのレチタティーヴォが東京公演よりも落ち着いたテンポで“神の怒り”が表されていたように思います。そしてなんと言っても島田さんのホルンの妙技に感動しました。東京公演の私の座席からはよく見えなかったので、今回オルガンバルコニー席から拝見させていただいてその手技のすごさをつぶさに見ることができたのです。いやぁ、いいものを見せていただきました。
 後半開幕のBWV148、今度は島田さんは通常の(?)バロックトランペットで活躍されました。ということはこの演奏会では何と3種類の楽器を吹き分けていらっしゃったのですね。脱帽です。華やかな1曲目の合唱ではやや男声陣のラインが聞こえにくい感じ。これはチャペルの響きの関係でしょうか。ちなみに、東京公演でこの曲を鈴木雅明さんはチェンバロを弾いてコンティヌオをつけていらっしゃいましたが、神戸ではチェンバロとポジティフ・オルガンを並べて置いてありましたので、今井奈緒子さんと交代しながらオルガンを弾いていらっしゃいました。
 そしていよいよメインのBWV109。この曲を迎えて、やおらステージ左奥に陣取っていたオランダの「福音放送」のスタッフが活動を開始しました。この109番を取材に来たという気迫に満ちた取材ぶり。照明などの重い器材も何のその、黙々と、しかし情熱的にBCJの音楽の流れを見つめていました。それに触発されてか、演奏も熱気を帯びたものに。わずかに気が乱れて足取りが揺らいだ瞬間もありましたが、確かな手応えのある演奏でした。第3曲でのテュルクさんの“シュメルツ!”の叫びは、チャペルの響きの多さのためか、東京公演ほどのインパクトではなかったのですが、やはり鬼気迫るものでした。(東京公演で心臓をえぐられるほど激しい衝撃を受けていたので、こちらが構えてしまっていたからなのかもしれません・・・) 東京公演では鈴木雅明さんが指揮に専念してチェンバロなしで演奏された終曲のコラール楽章は、神戸では雅明さんのチェンバロ弾き振りでコンティヌオのラインがはっきり聞こえ、かくあるべし、という演奏でした。
 以下に神戸での画像をUPしますので、どうぞその雰囲気をお楽しみください。
 松田さんには、コンサート翌日にお便りをいただきながら、諸般の事情でこちらへの掲載がとても遅くなってしまったことをお詫びいたします。これに懲りずに、是非またお便りください!
終演後の喝采

左奥の取材陣がおわかりいただけますかどうか・・・。
島田さん作の
“トロンバ(?)・コルノ・ダ・テラルシ
105番の時の半音よりも大きな
全音のスライドが必要で苦労された
とのこと。(下図が全音下げたところ)
(矢口) (00/03/16)

 


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