やさしいおじいさんは哀れんで
犬をお墓に埋めました
すると不思議なことに
お墓から木が生えて
見る間に
大木に成長し
どこからともなく
「その木で臼をうすを作りなさい」
と声がしました。
おじいさんは臼をつくり
犬の墓前に供えようともちを作ることにしました
すると
またも餅が大判小判に 変わってしまった。
それを観ていた
よくばりじいさん その臼を盗み餅をつく
でも 出てきたのは
またまた ガラクタばかり
いかった欲ばりじいさん
臼を壊して燃やしてしまう
優しいじいさん
その灰を畑にまこうと家にもって帰る
その道すがら風によって
飛ばされた灰が
桜木にかかり冬にもかかわらず
花を咲かせた優しいおじいさん
「枯れ木に花を咲かせましょう」
と桜の木に灰を巻いた
通りかかったお殿様
見事な満開の桜に喜んで
おじいさんにたくさんのほうびをあたえた
それを見ていた
欲ばりじいさん
灰を盗み出し
お殿様の前で
「花よさけさけ咲かぬと怒るぞ」
ところが灰が殿様の目に入ってしまい
「不届き者・・・」と
捕らえられてしまったとさ
優しい思いが 幸運をもたらし
よこしまな思いが不幸を招く
思いの違いが もろに
結果に反映しています
思いが「原因」 行動が「結果」
結果にはすべて原因がある
これは単なる教訓話でなく
{「原因」と「結果」の法則}
のエッセンスが詰まっています。
仏法修行の究極の目的
仏法修行の究極の目的
仏教
では、仏性を開発し自由自在に発揮することで、
煩悩
が残された状態であっても
全ての苦しみに煩わされることなく、
また他の
衆生
の苦しみをも救っていける境涯を
開くことができるとされる。
この仏性が顕現し有効に活用されている状態を
成仏
と呼び、仏法修行の究極の目的とされている。
煩悩とは
移り変わるものを永遠と信じ、
欲を満たすことを幸せと考え、
ありもしない「私」に執着する からです。
その煩悩、
苦しみの尽きた境地を涅槃(ねはん)といいます。
仏教徒が目指す ゴールです。
衆生とは
生命の あるものすべて。
特に、人間をいう
十界(じっかい)とは、
天台宗の教義において、
人間の心の全ての境地を
十種に分類したもので、
六道に声聞・縁覚・菩薩・仏の四を
付加したものである。
成仏
仏教が目指す境地は「成仏」、
つまり文字どおり
〝仏に成る〟
ことです。
"仏"
とは世の中の真理に目覚め(=さとり)
心は何にも乱されず、
その智慧を活かして
人々の苦しみや悩みを解決しようとする
人を指しています。仏教や成仏というと、
お葬式や死後の世界などを
連想される方もいるかと思います。
しかし、
お釈迦さまが繰り返し説いていた教えは、
私たちがいのちを授かっているこの"現世"で、
いかに悩みや苦しみから開放され、
イキイキと生きるかということに尽きます。
つまり、
"今"をイキイキと生きるための智慧、
それが仏教なのです。