グラーグ−ソ連集中収容所の歴史
第1部第1章、端緒をひらいたボリシェヴィキー
アン・アプルボーム
〔目次〕
序論−冒頭3頁のみ抜粋(P.15〜17)
1、一九一七年一〇月二四日、レーニンによる臨時政府転覆のクーデタ
〔関連ファイル〕 健一MENUに戻る
ソルジェニーツィン『収容所群島』第2章、わが下水道の歴史
『収容所群島』第3章「審理」32種類の拷問
ニコラ・ヴェルト『ソ連における弾圧体制の犠牲者』
英文リンク集『ソ連の強制収容所』ポスター、写真、論文など多数
『「赤色テロル」型社会主義形成とその3段階』レーニンが「殺した」ロシア革命勢力の推計
『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書
これは、アン・アプルボーム『グラーグ−ソ連集中収容所の歴史』(白水社、2006年、原著2003年、651頁)からの引用・抜粋である。全体は、序論と3部・27章からなり、「第1部、グラーグの起源、1917〜39年」「第2部、収容所の生活と労働」「第3部、収容所=産業複合体の盛衰、1940〜86年」である。ソルジェニーツィン『収容所群島』(1972年)、ジャック・ロッシ『強制収容所・注解事典』(1996年)などと並ぶ、レーニン・トロツキー創設のソ連集中収容所に関する画期的な研究書であり、ルポルタージュでもある。
彼女の経歴は、最後に載せたが、2003年出版の本書で、04年度ピュリツァー賞(一般ノンフィクション部門)とダフ・クーパー賞(英国)のダブル受賞をした。序論は22頁あるが、冒頭の3頁だけ引用した。本文の3部・27章中、レーニン・トロツキー・ジェルジーンスキイによる強制収容所創設と運用、レーニンの最高権力者期間5年2カ月間のデータとして、第1章(P.43〜55)の全文を載せた。第1章は長いので、私の判断で、小見出しと各色太字を付けた。第1章だけで、57の出典原注があるが、7つの訳注と合わせ、カットした。
アプルボームは、第1章において、レーニン・トロツキーらが、1917年10月24日(11月7日)にしたことは、革命でなく、クーデタだったと明記している。1991年ソ連崩壊後、レーニン・ソ連に関する文献を出版した研究者は、ほぼ全員が、クーデタ説の立場に立っている。クーデタとは、臨時政府権力とソヴィエト権力という二重権力双方にたいする、レーニン・トロツキーらによる単独武装蜂起・単独権力奪取行動の性格規定である。
『1917年10月、レーニンのクーデター』クーデタ説のファイル多数
ソルジェニーツィンは、『収容所群島』において、レーニンこそが、下水道(強制収容所)の創設者だと、ソ連崩壊19年前の1972年に暴露した。アプルボームは、ソ連崩壊後に発掘・公表された極秘資料、原注57の出典を駆使し、ソルジェニーツィンのレーニン告発を立証した。さらに、その内容は、レーニン・トロツキーらがクーデタの最初から、他党派殲滅路線に基づく党独裁・党治国家を目指していたことも証明した。レーニンの他党派・ソヴィエト勢力殲滅路線は、必然的に、赤色テロル=グラーグ型国家を生み出し、一体化した。
このような国家が、社会主義国家だったと、それでも規定できるのか。通常の社会主義国家理念とは異質の党独裁・党治国家だった。どうしても、社会主義だったと名付けたいのなら、レーニン・トロツキー・ジェルジーンスキイらが創設したのは、赤色テロル=グラーグ型社会主義国家だったと言える。
ソルジェニーツィン『収容所群島』第2章、わが下水道の歴史
『「赤色テロル」型社会主義形成とその3段階』レーニンが「殺した」ロシア革命勢力の推計
『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書
このHPへの転載については、白水社編集部の了解をいただいた。これらの転載によって、関心が高まれば、本書を購読(5200円)していただければ幸いである。
序論−冒頭3頁のみ抜粋 (P.15〜17)
法律の一線を越えれば /だれしも平等の運命(さだめ)
クラーク〔富農〕の子も、ナルコーム〔人民委員の子も /将官の子も聖職者の子も…
敵の血をひく乳呑み児には /生まれながらに反逆者の烙印…
アレクサーンドル・トヴァルドーフスキイ『記憶の権利によって』
これはグラーグの歴史、かつて白海の島々から黒海の岸まで、北極圏から中央アジアの大草原まで、ムールマンスク、ヴォルクターからカザフスタンまで、中央のモスクワからレニングラート郊外まで、ソ連の東西南北全域にわたって散在していた労働収容所の一大ネットワークの歴史である。
グラーグ(GULAG)とは、もともと「収容所〔ラーゲリ〕管理総局」(Glavnoe Upravlenie Lagerei)の略称だが、それがしだいに集中収容所を管理する官庁の名称だけではなく、ソ連の奴隷労働システムそれ自体を、そのあらゆる形態や多様性−労働収容所、懲罰収容所、刑事囚および政治囚の収容所、女性収容所、児童収容所、中継収容所−をひっくるめてあらわす用語にもなった。さらに広い意味では、ソ連の弾圧システムそのもの、かつて囚人たちが「肉挽き器」〔myasorubka〕と呼んだ手続き全体−逮捕、尋問、暖房なしの家畜用貨車での移送、強制労働、家族の離散、長期流刑、早すぎる非業の死−をあらわすようにもなった。
グラーグの前身は帝政ロシアにあった。一七世紀から二〇世紀初頭にかけて、シベリアで使役されていた強制労働者集団である。これが、ロシア革命の直後ともいってよい時期に、いっそう近代的なおなじみの形をとり、ソヴィエト体制と一体化した。ほんものの反対派はもとより、反対派の嫌疑をかけられた人たちまでをも対象とする大量テロルは、そもそものはじめから革命の一環であって、革命指導者レーニンは、一九一八年夏にすでに、「信頼できぬ分子」を主要都市の外側の集中収容所にぶちこめと要求した。貴族、商人その他潜在的な「敵」ときめつけられた人びとが続々としょっぴかれ、しかるべく投獄された。一九二一年にはもう四三県に八四の収容所があったが、その大多数はこれら最初の「人民の敵」どもの「更生」を目的としたものだった。
一九二九年から、収容所は新たな意味あいをおびるにいたった。この年、スターリンはソ連の工業化促進と、人跡まれなソ連極北帯の天然資源開発の両方に、強制労働を利用することにきめた。秘密警察〔政治警察〕もまた、ソヴィエト行刑システムの統制に乗り出し、国内のすべての収容所や監獄を徐々に司法機関の管轄からはずして、自分のなわばりにとりこんでいった。一九三七年と三八年の大量逮捕のあおりで、収容所は急速な拡張の時期に入った。一九三〇年代末には、ソ連の一二の標準時帯(時差帯)のすべてに収容所があった。一般に考えられているのとは逆に、グラーグは一九三〇年代に成長を止めたわけではなく、第二次世界大戦期と一九四〇年代をつうじて拡大しつづけ、五〇年代のはじめに最大規模にたっした。
このころまでに、収容所はソヴィエト経済で中心的役割を演じるようになっていた。収容所は、全国の産金額の三分の二、石炭と木材の産出額の大半を占め、その他のほとんどあらゆる産品を大量に生産していた。ソ連存続期間中につくられた収容所複合体〔コンプレクス〕は、すくなくとも四七六カ所確認されているが、それらは数千の個別収容所から構成され、各収容所の収容者数は数百ないし数千、数万人だった。囚人はおよそ考えられる産業部門のほとんどすべて−森林伐採、採鉱、建設、製造業、農業、航空機や火砲の設計など−で働き、実質上国家のなかの国家で生活し、別個のものといってもよい文明を形成していた。
グラーグには、独自の法律、独自の慣習、独自の道徳から独自のスラングまであった。それは独自の文学、独自の悪役、独自のヒーローを生みだし、囚人だろうと看守だろうと、そこで過ごしたすべての人に独特の刻印を残した。釈放後何年たっても、グラーグのかつての住人は、街路で出会う人の「目つきだけで」、相手もグラーグの元住人と見分けかつくことが多かった。
こうした出会いは、しょっちゅうだった。収容所の出入りがはげしかったからだ。逮捕はたえまなしだったけれども、釈放もひんばんだった。刑期満了者、赤軍への編入者、傷病者、幼児をかかえる女性、囚人から看守にとりたてられた者などが釈放された。その結果、収容所の囚人総数はおおざっぱに言って、二〇〇万前後にとどまったが、刑事囚あるいは政治囚としてラーゲリ〔収容所〕体験をもつソヴィエト市民の総数は、これよりずっと多かった。グラーグの大拡張がはじまった一九二九年から、スターリンが死んだ一九五三年までの期間に、もっとも信頼できる推計によれば、この大量弾圧システムを、ほぼ一八〇〇万人が通過した。ほかにほぼ六〇〇万人が先祖伝来の地を追われ、カザフの砂漠やシベリアの森林に流刑された。入植先の村落にとどまるよう法律で強制されたこれらの人びとも、有刺鉄線の内側で暮らしたわけではないとはいえ、やはり強制労働者だった。
数百万人を巻きこむ集団強制労働システムとしての収容所は、スターリン死後に消滅した。グラーグはソ連の経済成長に絶対必要だとスターリンは死ぬまで信じていたけれども、政治的後継者たちは収容所がじっさいには後進性と投資構造のひずみの元凶であることをよく知っていた。スターリン死後数日のうちに、後継者たちはその解体に着手した。三件の大規模反乱が起こり、もっと小規模ながら、それにおとらず危険な事件の頻発とあいまって、このプロセスを促進した。
とはいっても、収容所は完全消滅したわけではなく、進化をとげた。一九七〇年代全体と八〇年代初期をつうじて、その一部は改組され、新世代の民主活動家、反ソ民族主義者、一般犯罪者の収監施設として使用されるようになった。ソ連国内異論派のネットワークと国際人権運動のおかげで、これらポスト・スターリン時代の収容所にかんするニュースが西側で定期的に流され、それがしだいに冷戦外交に一役買うようになった。一九八〇年代になっても、ロナルド・レーガン米大統領とその交渉相手ミハイール・ゴルバチョーフは、まだソ連の収容所をめぐる論争をつづけていた。自身もグラーグ囚人の孫であるゴルバチョーフが、一九八七年にようやくソ連の政治囚収容所全体の解体に着手した。
ソ連自体の存続と同じ期間存続し、何百何千万もの人びとがそれを通過してきたというのに、ソ連集中収容所のほんとうの歴史は、よく知られているどころか、まだ知られていない部分のほうが多いといってもいい。上述のもろもろの事実そのものでさえ、いまでは西側の大多数の研究者にはあまねく知れわたっているとはいえ、一般の人びとの意識には入りこんでいない。フランスの共産主義史研究者ピエール・リグロがかつて書いたように、「人間の知識は、石工が規則正しく積み上げてゆく壁のレンガみたいに蓄積されるものではない。その発展、停滞、後退は社会、文化、政治の枠組みに左右される」。
グラーグにかんする知識を構築するための社会、文化、政治の枠組みは、いまなお、ととのっていないと言えるだろう。
第1部第1章、端緒をひらいたボリシェヴィキー (全文)
だが、おまえの背骨はへし折られた /わが美しくもみじめな世紀よ!
無意味なほほえみを浮かべて /きびしくも気弱にふりかえる
かつてはしなやかだった獣が /みずからの足跡をながめるように
オーシプ・マンデリシターム『世紀』
いちばん凶暴な弾圧の時代は、一九三六〜三七年にはじまったという神話をうち砕くことも、私のねらいのひとつである。一九一八年初頭、つまりその年の秋に「赤色テロル」が公式に宣言されるまえから、すでに大量の逮捕、刑の宣告、流刑がはじまっていたことが、いつの日にか統計数字で明らかにされるだろう。あのとき以来、この大波はスターリンの死にいたるまで、凶暴化の一途をたどったのである。ドミートリイ・リハチョーフ『回想』
〔小目次〕
1、一九一七年一〇月二四日、レーニンによる臨時政府転覆のクーデタ
1、一九一七年一〇月二四日、レーニンによる臨時政府転覆のクーデタ
一九一七年、二度にわたる革命の大波がロシア全土を席巻し、帝政ロシア社会は砂上の楼閣さながらに押し流され。いわゆる二月革命の結果、三月二日〔現行のグレゴリオ暦では三月一五日〕に、皇帝ニコラーイ二世が退位すると、事態は混乱の極にたっして、だれも制止、統制できなくなった。革命後、最初の臨時政府の首班となったアレクサーンドル.ケーレンスキイの後日の述懐によれば、旧体制崩壊直後の真空状態のなかで、「既存のあらゆる政治綱領や当面の方針は、たとえ気宇壮大でじゅうぶんに練り上げられたものであっても、目標を見失って無益に宙に浮いているような感じだった」。
しかし、臨時政府が弱体で、一般民衆の不満がひろがり、第一次世界大戦の殺戮にたいする怒りが高まっているとはいっても、さらに急速な変革を提唱するいくつかの急進的社会主義政党のひとつ、ボリシェヴィキー党の手中に権力が移ると予測した人はごくわずかだった。国外ではボリシェヴィキーの実態はほとんど知られていなかった。外国での反応を如実にしめすまことしやかな逸話がつたえられている。一九一七年、ある役人がオーストリア外務省にかけこんで「閣下、ロシアで革命がおこりました!」とさけんだが、大臣は鼻先でせせら笑って、「ロシアでだれが革命など起こせる? まさかあそこのカフェ・ツェントラールの常連の人畜無害のトローツキイ先生じゃあるまいな?」と言ったというのだ。
ボリシェヴィキーの実態はナゾにつつまれていたが、それにもましてナゾめいていたのが、その指導者ヴラジーミル.イリイチ・ウリヤーノフ−のちにレーニンという革命運動でのペンネームで、世界に広く知られることになる人物である。亡命革命家としての長年の国外暮らしのあいだに、レーニンは頭のきれる大物とみとめられてはいたが、節度のなさと派閥根性のゆえにきらわれてもいた。他の社会主義指導者たちにしょっちゅうケンカをふっかけ、どうでもいいような教理上の問題をめぐるちょっとした意見の違いを、大論争に仕立てあげる性癖があったからだ。
二月革命につづく数カ月間、レーニンは自分の党内でさえ不動の権威をかちとるにはほど遠い立場にあった。一九一七年一〇月のなかば〔旧ユリウス暦で〕になっても、ひとにぎりの指導的ボリシェヴィキーは、臨時政府転覆のクーデタを起こすという彼の計画に反対しつづけていた。党には権力掌握の準備がないし、まだ大衆的支持をうけていないというのが、その論拠だった。しかし、彼は論争に勝ち、一〇月二四日〔現行グレゴリオ暦では一一月七日〕にクーデタを起こした。レーニンのアジテーションに乗って暴徒が冬官を占拠した。ボリシェヴィキーは臨時政府閣僚たちを逮捕した。数時間もたたぬうちに、レーニンは彼がソヴィエト・ロシアと改名した国の指導者となっていた。
しかし、レーニンが首尾よく権力を奪取したとはいえ、彼に反対したボリシェヴィキーが完全に間違っていたわけではなかった。ボリシェヴィキーは、じっさいにひどい準備不足の状態にあった。その結果、この党の初期の決定は、一党支配国家創設の決定もふくめて、急場しのぎにあわてて採択された。大衆の支持はじっさいに弱く、とにもかくにも権力を維持しようと、彼らはほとんど即座に血みどろの内戦に突入した。一九一八年、レーニンの同志−「カフェ・ツェントラールのトローツキイ先生」ひきいる赤軍に対抗する戦闘に、旧体制派が白衛軍を再結集し、このとき以来、ヨーロッパの歴史上、もっとも残忍な戦闘がロシアの辺境でくりひろげられた。
2、労働収容所というレーニンの考えと創設
暴力は戦場だけにかぎられなかった。ボリシェヴィキーは、知識人や政治家のあらゆる反対意見表明をおさえつけようとやっきになって、旧体制の代表者のみならず、メンシェヴィキー、アナーキスト、社会主義者・革命家党(エスエル)など自分たち以外の社会主義者をも攻撃した。新生ソヴィエト国家がようやくまがりなりに平和な時期にはいるのは、一九二一年になってからである。
こういった場当たり的な方針と暴力の雰囲気のなかで、最初のソヴィエト労働収容所が生まれた。ボリシェヴィキーが創設したほかの多数の制度・施設と同様に、それらも内戦のどさくさまざれの急場しのぎの非常措置としてつくられた。とはいっても、この構想は内戦期にはじめて打ち出されたわけではない。一〇月革命の三週間前に、すでにレーニンその人が、富裕な資本家に必須の労働義務を課する案をおおまかながらも練っていた。一九一八年一月になると、ボリシェヴィキーにたいする反対運動の根強さに業を煮やした彼は、さらに激越になって、「列車の一等、二等のコンパートメントにおさまって、破壊工作をやっている大金持ちどもの逮捕」は結構なことだ、「連中には鉱山で半年の強制労働をやらせればよいだろう」と書いた。
特定部類のブルジョアジーという「敵」を処罰する特別形態としての労働収容所というレーニンの考えは、犯罪や犯罪者についての彼の信念とも整合していた。ソヴィエト初代指導者は、昔ながらの犯罪者−どろぼう、スリ、殺人犯−は味方になる可能性もあると考え、これにたいしては煮えきらぬ態度をとった。「社会的逸脱」(つまり犯罪)の根本原因は「大衆の搾取」にあるとみなし、この原因をとりのぞけば「逸脱もしだいに消滅する」と信じていた。だから犯罪者を抑止するためのとくべつの罰は不要で、時がくれば革命そのものが犯罪者をなくしてしまう、というのだ。そこでボリシェヴィキーの最初の刑法典の条文の一部は、西側のもっとも急進的進歩的な刑法改革論者の心をなごませるものとなった。もろもろの規定のなかには、「個人の罪なるものは存在せず」、刑罰を「応報と見てはならない」という規定もあった。
その一方で、レーニンは−追随したボリシェヴィキー法理論家たちも同様だが−ソヴィエト国家創設とともに新たな部類の犯罪者−「階級敵」が生まれるとも見ていた。階級敵は革命に反対し、それを破壊するために活動する。その活動は公然とおこなわれることもあるが、秘密裏におこなわれることのはうが多い。階級敵はふつうの犯罪者よりも摘発がむずかしいし、たたきなおすのはもっとずっとむずかしい。
ふつうの犯罪者ならいざしらず、階級敵を信用してソヴィエト体制と協力させることはぜったいにできないし、ありきたりの殺人犯やどろぼうよりもきびしい処罰が必要である。そこで、一九一八年五月のボリシェヴィキーの最初の『贈収賄にかんする布告』は、こう宣言した。「贈収賄罪をおかした人物が有産階級に属し、所有権にむすびつく特権の獲得または保持に賄賂を利用する場合には、もっともきびしく苛酷な強制労働を言い渡し、その全財産を没収しなければならない」。
言い換えると新生ソヴィエト国家では、ごくはやい時期から、人はその行為ではなく、出自を目安に刑の宣告をうけるべきものとされた。
こまったことに、どういう人物が「階級敵」とされるのか、明確に記述した人はだれもいなかった。その結果、ボリシェヴィキーの政権奪取にともない、あらゆる種類の逮捕の数が劇的にふえた。一九一七年二月以降、手あたりしだいにかり集めた革命支持者たちから構成される革命法廷が、手あたりしだいに逮捕した革命の「敵」に有罪を宣告するようになった。銀行家、商人の妻、「投機者」−自立して経済活動に従事するすべての人がこれにあてはまる−、帝政時代の監獄の看守、その他疑わしいと思われるすべての人にたいし、禁固刑、強制労働、はては死刑までもが勝手気ままに言い渡された。
だれが「敵」で、だれが「敵」でないかという定義も、場所によってことなり、ときには「戦時捕虜」の定義と重なり合った。トローツキイ指揮下の赤軍は、新たに都市を占領すると、しばしばブルジョアを人質に取った。戦線が流動的で都市が白軍に奪還されることもしょっちゅうだったが、そういう時には人質は射殺されることもあったし、当座は強制労働にかり出され、塹壕掘りやバリケードづくりをやらされることも多かった。政治犯と一般刑事犯との区分けも、同様にいいかげんだった。急ごしらえの委員会や革命法廷の無教育なメンバーが、たとえば市電の無札乗車でつかまった人を、とつぜん反社会的行為をおかしたと判定し、政治犯なみの判決を下すこともあった。とどのつまり、こういう判定の多くは、逮捕をおこなう警官や兵士にゆだねられた。チェカー−レーニンの秘密警察でKGBの前身−の創設者フェーリクス・ジェルジーンスキイ〔一八七七〜一九二六〕は、みずから小さな黒いメモ帳を所持し、仕事中に出会った「敵」の名とアドレスをそれに走り書きしていた。
八〇年後に、ソ連そのものが崩壊するまでのあいだずっと、この区別はあいまいなままだった。それでもなお、「政治囚」と「刑事囚」という二つのカテゴリーの囚人の存在は、ソヴィエト行刑制度の形成に絶大な影響をおよぼした。ボリシェヴィキー統治の最初の一〇年間に、ソヴィエト懲治システムはそれぞれのタイプの囚人を対象とする二つのシステムに分裂したほどである。この分裂は既存の監獄システムの混乱状態への反作用として、自然のなりゆきで生じた。
革命直後には、「伝統的」司法管轄官庁−まず司法人民委員部、のちには内務人民委員部の管轄下にすべての囚人か「通常」監獄システムに収監された。つまり帝政時代から引き継がれた監獄システムに収容された。それはふつうそれぞれの大都市で中心的な位置を占めるうすぎたない陰気な石造の監獄だった。一九一七年から二〇年までの革命期には、これら施設は全面的混乱状態にあった。暴徒が監獄を襲撃し、コミサールを自称する人物が、看守を解雇し、囚人たちは大盤ぶるまいの恩赦をうけたり、あるいは勝手に出ていったりした。
ボリシェヴィキーが引き継いだとき、まだ残っていた少数の監獄は超満員で機能不全の状況にあった。革命後数週間たってからやっと、レーニン自身が、「ペトログラートの諸監獄への食糧供給を即時改善する緊急措置」を要求した。数カ月後、モスクワのチェカーのメンバーが市内タガーンスカヤ監獄を視察して、「ひどく寒くて不潔」で、チフスと飢餓が猛威をふるっていると報告した。囚人の大半は衣服がないため課せられた強制労働に従事することができなかった。ある新聞記事によると、定員一〇〇〇名のモスクワのブティールカ監獄は、すでに二五〇〇名を収監していた。別の新聞記事は、赤衛軍が「毎日、数百人を手あたりしだいに逮捕しなから、その処置に困っている」と文句をつけた。
定員超過は「創造的」解決をもたらした。窮余の策として、新政権は地下室、屋根裏部屋、空いた宮殿、元教会堂に囚人を収容した。生き残りの一人の後の回想によると、無人となった家屋の地下室にぶちこまれたが、一室に五〇人、家具はなく、食糧もわずかで、家族から差し入れ小包をうけとれない人は飢餓にひんしたという。一九一七年一二月、チェカーの委員会は窃盗、泥酔、さまざまな「政治囚」など雑多な囚人五六名の処置を討議したが、これらの連中はペトログラートのレーニンの革命本部スモーリヌイの地下室に拘留されていた。
この混乱状況でみんなが苦しんだわけでもなかった。スパイ嫌疑をうけた(じっさいにスパイだったのだが)イギリス外交官ロバート・ブルース・ロッカートは、一九一八年にクレムリンの一室に拘留されたが、ひとりトランプをやったり、トゥキュディデスやカーライルを読んだりしてひまをつぶした。ときおりかつての帝室の侍僕が熱い紅茶や新聞をもってきた。
だが、残った旧時代の監獄でも、規制はゆるく、看守は新米だった。北ロシアのフィンランドとの国境の町ヴィーボルクの一囚人の体験だが、革命後の下克上の世界でかつての自分のおかかえ運転手が看守になっていた。その男はよろこんで、元のご主人を助けて、もっと上等で湿気のすくない監房に移し、ついには脱走の手引きをしてくれた。白軍の一大佐も、一九一七年三月のペトログラート監獄では囚人が自由に出入りし、夜間はホームレスの人びとが監房で眠ったと回想している。あるソヴィエト幹部はこの時代を回顧して、「脱走しないのは、よくよくものぐさな連中だけだった」と語った。
混乱は、チェカーに新たな解決策の採用をせまった。「ほんものの」敵どもを、通常の監獄システムのなかにはうりこむのは、ポリンェヴィキーとしてとうてい容認できないことだった。乱脈をきわめた監獄や怠惰な看守でも、スリや非行少年には対処できるかもしれない。しかし、破壊工作者、徒食者、投機師、白軍将校、聖職者、ブルジョア資本家、その他ボリシェヴィキーがとほうもなく過大に危険視した連中に対処するには、もっと創造的な解決策が必要だった。
3、トローツキイ提唱、レーニン使用の集中収容所とチェカー
はやくも一九一八年六月一四日、ひとつの解決策が見いだされた。トローツキイが、手におえぬチェコ人戦時捕虜を鎮圧し、武装解除してコンツラーゲリ、すなわち集中収容所に入れるよう提唱した。その一二日後、トローツキイはソヴィエト政府あての覚書のなかで、ふたたび集中収容所を論じた。露天監獄を設置して、そこに「都市と農村のブルジョアジーを…動員し、後方勤務大隊を編成して、雑役(バラック、収容所や街路の清掃、塹壕掘りなど)をさせるべきである。拒否する者には罰金を課し、それを支払うまで拘留をつづける」
八月、レーニンも、集中収容所という用語を使った。反ボリシェヴィキー蜂起が起こったペーンザのコミサールあての電報で、「クラーク(富農)、聖職者、白衛軍を対象とする集団テロル」を呼びかけ、「信用できぬ連中」を「市外の集中収容所に拘禁する」ようもとめたのである。その施設はすでにあった。ブレスト=リトーフスク条約でロシアが第一次大戦から離脱したのちの一九一八年夏のあいだに、体制は二百万の戦時捕虜を釈放し、空いた収容所をただちにチェカーに移管していたのである。
当時チェカーは、「特別」収容所に「敵」を監禁する仕事にうってつけの組織と見えたにちがいない。まったく新たに組織されたチェカーは、共産党の「剣と盾」となるべきものとされ、ソヴィエト政府あるいはそのいかなる部局にも従属せず、遵法の伝統をもたず、法の支配に服する義務を負わず、警察もしくは裁判所、もしくは司法人民委員と協議する必要もなかった。「全ロシア反革命・怠業取締非常委員会」あるいは「非常委員会」を意味するロシア語の略語チェカーという名称そのものが、そのとくべつの地位を物語る。まさに通常の適法性の圏外にあるからこそ、「非常」なのだった。
創設とほとんど同時に、チェカーに非常任務があたえられた。一九一八年九月五日付けで、ジェルジーンスキイは、レーニンの赤色テロル政策の実施を命じられた。レーニン暗殺未遂事件〔八月三〇日の直後に発動されたテロルの波−逮捕、投獄、殺害−は、これに先立つ数カ月間のテロルよりももっと組織的で、事実上内戦の重要な一環となり、そのほこ先は、「国内戦線」で革命破壊の活動をやっていると目された人びとに向けられた。それは血まみれの非情残忍なテロルであり、実施した側もそれを望んだ。赤軍の機関紙『クラースナヤ・ガゼータ』は書いた。「われわれは情容赦なく数百の敵を殺す。数千でもよい。きゃつらを自分自身の血の海のなかで溺死させよう。レーニンの血の代償として……ブルジョアジーの血の洪水を起こさせよう。もっとたくさんの血を、できるかぎりの大量の血を……」。
赤色テロルは、レーニンの権力闘争の重要な一環であり、集中収容所、いわゆる「特別収容所」は赤色テロルの重要な一環だった。赤色テロルにかんする最初の命令が、すでにこれらの収容所に言及し、「ブルジョアジーの重要人物、地主、工場主、商人、反革命聖職者、ソヴィエト権力に敵対する将校」を〔人質として〕逮捕、拘禁するだけでなく、「集中収容所に監禁して警備兵の監視下で働かせる」よう指示していた。囚人の数についての信頼できる数字はないが、一九一九年末現在、ロシアには登録された収容所が二一カ所あった。一九二〇年末にはそれが五倍以上の一〇七カ所となった。
とはいっても、この段階では収容所の目的は、不明確なままだった。囚人を働かせる目的はなにか? 囚人の再教育のためか? 彼らのメンツをつぶすためか? それとも新しいソヴィエト国家の建設の一助とするためか? さまざまなソヴィエト指導者やさまざまな機関が、ちがった答えを出した。ジェルジーンスキイその人は、一九一九年二月に大演説をぶち、ブルジョアジーの思想的再教育が収容所の役割であるべきだと主張した。
「新収容所は逮捕された人物、すなわちなにも仕事をせずに暮らしているだんながたや、強制されなければ働けないような連中の労働を活用することになる。ソヴィエト機関で働きながら仕事にたいする無自覚な態度や職務怠慢ぶりをしめしている連中にも、この懲罰が適用されるべきだ。‥…われわれはこういうやり方で労働の学校をつくりあげようとしている。」
しかし、一九一九年春に、特別収容所にかんする最初の公式布告〔五月一七日付け「強制労働収容所にかんする全ロシア中央執行委員会の決定」〕が出されたとき、これとはいささかちがった趣旨が最優先されて、先例となったようだ。この布告は規則や勧告を列挙したとてつもなく長大な文書で、それぞれの地域の中心都市は「市域のはずれ、あるいは近傍の修道院、荘園、農園等々の建物に」すくなくとも三〇〇名を入れる収容所をひとつ設置するよう指示していた。
一日八時間労働で、超過労働や夜間労働は「労働法に準拠するものでなければ」許可されない。差し入れ小包は禁止。家族との面会は日曜、祝日にかぎり許可される。脱走をこころみる囚人は刑期を一〇倍に延長され、再度のこころみには死刑もありうる。脱走にたいする帝政時代の罰則−ボリシェヴィキーが熟知していたあの手ぬるい罰則−にくらべれば、極端にきびしい刑罰だ。もっと重要なのは、この布告が囚人労働の目的を囚人自身の再教育などではなく、収容所の維持費の捻出だと、はっきり規定していたことだ。働けない囚人はべつの場所に送らねばならない。収容所は自己資金で運営されるべきである。収容所の始祖たちは、それらが自力で経費をまかなっていけるものと楽観視していた。
国庫からの資金供給がとぎれがちなので、収容所の運営にあたる人たちは、たちまち資金の自己調達、あるいはすくなくとも囚人たちを活用してなにがしかの利益をあげるという考えに関心をもちはじめた。一九一九年九月、ジェルジーンスキイに回された秘密報告は、ある中継収容所の衛生状態が「劣悪以下」であると苦情を述べ、その大きな理由は重病人まで働かせているところにあると指摘していた。「湿気の多い秋には、それは人間を集めてその労働を活用する場どころか、伝染病その他の病気の温床となる」。
ほかのもろもろの提案とともに、報告の筆者は働けない連中をべつの場所へ送り、収容所の効率を高めるよう提案した。これこそ、のちにグラーグ指導部がくりかえし提唱した方針である。このころすでに収容所の責任者たちは、おもに病弱あるいは空腹な囚人は役に立たぬ囚人だという理由から、病気と飢えを心配していた。囚人たちの生存はいうにおよばず、その尊厳や人間性にも、責任者らはまったく関心をしめさなかった。
再教育にしろ独立採算にしろ、それがすべての収容所長の関心事だったわけではない。それよりも、彼らが重視したのは、これまでいい暮らしをしていた連中に罰をあたえ、そのメンツをつぶし、労働者の苦労を味わわせることだった。ウクライナの都市ポルターヴァを一時奪回したのち、白軍の調査委員会が作成した報告の指摘によると、ボリシェヴィキー占領中に逮捕されたブルジョアがやらされた仕事は「人を愚弄し、おとしめることをねらったものだった。たとえばある被逮捕者は……よごれた床に厚くつもったほこりを素手で清掃するよう強制された。もうひとりは便所掃除を命じられ…作業用にテーブルクロスを渡された」。
たしかに、方針のこういった微妙な違いは、数万の囚人にとってはたいした違いではなかっただろう。まったく理由もないのに逮捕されたという事実そのものが、彼らにしてみれば、じゆうぶんに屈辱的だった。方針の違いは、囚人の生活条件にも影響しなかったと思われる。それはどこへいっても途方もなくひどいものだった。シベリアの収容所に送られたある聖職者は、臓物を煮込んだスープ、電灯もなく、冬も実質上暖房のないバラックをのちに回想している。帝政時代の著名政治家アレクサーンドル・イズゴーエフは、ペトログラートの北の収容所に送られた。途中で囚人グループはヴォーログダの町で止められた。熱い食事と温かい居室を約束されていたのに、彼らは宿を探してあちらこちらへ歩かされた。彼らのための中継収容所は準備されていなかった。最後に一同は「むき出しの壁とベンチだけ」の元学校に宿泊することになり、所持金のある者は町で自分の食糧を買い求めた。
しかし、こういうでたらめなひどい処遇をうけたのは、囚人だけではなかった。内戦の危急存亡のときにあたり、赤軍とソヴィエト国家の緊急の要求は、再教育から報復、公正な裁きについての考慮にいたるまでのすべてに優先された。一九一八年一〇月、北部戦線司令官は道路建設と塹壕掘りに緊急に必要な労働者八〇〇名をペトログラート軍事委員会に要請した。その結果「旧商人階級のなかから多数の市民が、将来のある時点で課せられるかもしれない労働義務の登録のためという名目でソヴィエト本部への出頭を求められた。登録のため出頭したこれら市民は、そのまま逮捕され、前線出動にそなえて待機するよう、セミョーノフスキイ兵営に送られた」。
それでもじゅうぶんな数の労働者が集まらなかったので、現地ソヴィエト当局はペトログラートの目抜き商店街ネーフスキイ大通りの一部を包囲し、党員証あるいは政府機関勤務証明書を所持しない者を全員逮捕して、近くの兵営にかり立てた。女性はのちに解放されたが、男性はひとまとめに送り出された。「こうした異常な形で動員された男たちには、家庭の問題を片づけることも、家族にわかれを告げることも、しかるべき衣服や靴を入手することもゆるされなかった」。
こうして逮捕された通行人はびっくりしたにちがいないが、ペトログラートの労働者たちはこれをさほど奇異な事件とは思わなかっただろう。ソヴィエトの歴史のこの初期段階で、すでに「強制労働」とふつうの労働の区別があいまいになっていたからだ。トローツキイは、この国全体を赤軍にならって、「労働者軍」に変えると公然と語った。以前から、労働者は中央労働局への登録を強制されており、その指令で国内のどこへでも派遣されることになっていた。特定職種の労働者−たとえば鉱山労働者−の離職を禁止する特別布告が出された。生活条件は囚人よりずっとマンというわけではなかった。どれが作業現場でどれが集中収容所なのか、外見だけで見分けるのは、かならずしもたやすいことではなかった。
しかし、これはやがてきたるべき事態の前触れにすぎなかった。その後の一〇年間の大半をつうじて、「収容所」「監獄」「強制労働」の定義は混乱につきまとわれ、行刑施設の管理もあいかわらず変動しつづける。さまざまな官僚やコミサールたちがこのシステムの管理権掌握をこころみ、それにつれて、管掌機関も幾度となく改称と改編をくりかえすことになる。
そうは言っても、内戦終結のころには明らかに、あるパターンができあがっていた。ソ連はすでに独自の規則、独自の伝統、独自のイデオロギーをもつ二つの異なった監獄システムを発展させていた。司法人民委員部、のちには内務人民委員部が「正規の」監獄システムを運営し、ソヴィエト体制が「刑事囚」と呼んだ囚人をおもにあつかった。じっさいの運用面ではこのシステムも混乱してはいたが、その囚人は旧来の監獄に収監され、管理者側が標榜する目的も内部覚書にしめされたとおり、「ブルジョア」諸国でもじゆうぶんに理解されうるものだった。「囚人は技術を学んで正業にもどるため働かねばならない」。つまり矯正労働をつうじて囚人をたたきなおし、再犯を防止すべきだというのである。
その一方で、チェカー−その後GPU〔、ゲペウー=国家政治保安部〕、OGPU〔オゲペウー=合同国家政治保安部〕、NKVD〔エヌカヴェデー=内務人民委員部〕、最後にKGB〔カゲヴェー=国家保安委員会〕と改称−は、別の収監システム、すなわち当初は「特別収容所」あるいは「非常収容所」システムとして知られたものを管理していた。チェカーも内部で同じ「再教育」や「たたきなおし」理論の一部を使うことがあったが、これらの収容所は、じつは通常の懲治施設とは似ても似つかぬもので、ほかのソヴィエト機関の管轄外にあり、公衆の目にふれなかった。
そこには特殊な規則があり、脱走にたいする罰もきびしく、生活規制も厳格だった。囚人はかならずしも通常の裁判で有罪を宣告されたわけでなく、そもそも裁判などまったくうけない者も多かった。とどのつまり、非常措置として設置されたこれらの収容所は、「敵」の定義が拡張され、チェカーの権力が肥大するにつれて、ますます拡大し、強権的になった。そして通常と非常の二つの行刑システムが最後に統合されるとき、その統合は後者の支配のもとにおこなわれることになる。チェカーがライバルを併呑してしまうのである。
「特別」監獄システムは最初から、帝政時代の旧官僚、ブルジョア投機師、新秩序の敵などの特殊囚人を対象としていた。だが、「政治囚」という特異なカテゴリーが、当局の最大の関心の的だった。これはボリシェヴィキー以外の革命的社会主義諸党のメンバー、おもにアナーキスト、右派エスエル、メンシェヴィキー、その他革命をめざしてたたかったけれども、レーニンのボリシェヴィキー派に合流するだけの先見の明を欠き、一九一七年一〇月のクーデタに全力をあげて参加しなかったすべての人である。帝政に反対する革命闘争での、かつての同盟者として、これらの人びとは特別あつかいにされた。生き残りの大半が逮捕、処刑された一九三〇年代の末にいたるまで、共産党中央委員会は、これらの人びとの処遇を再三にわたって討議することになる。
囚人のこの特異なカテゴリーを、レーニンが気に病んだ理由のひとつは、排他的セクトのすべての指導者たちと同様に、彼も背教者へのはげしい憎悪をいだきつづけていたところにあった。ある典型的なやりとりのなかで、彼は自分を批判する社会主義者の一人を「ペテン師」「西も東も見えぬ青二才」「ブルジョアジーに平身低頭する」もっぱら「変節漢の汚物だめ」にふさわしい「吸血鬼と悪党の走狗」ときめつけた。じつのところ、革命のずっと前から、レーニンは社会主義の同志たちのなかで、自分にたてつく連中の処置を考えていた。革命の同志の一人がこの問題についての会話を回想している。
私は言った。「ヴラジーミル・イリイチ、もしあなたが権力の座についたら、翌日から、メンシェヴィキーの絞首刑をはじめるでしょうね」。彼は私を一瞥してこう言った。「最初のメンシェヴィキーの絞首刑は、最後のエスエル党員を処刑したあとのこととなるでしょうな」。そして不機嫌な顔で、はははと笑った。〔X・チェルノーフの回想〕
だが、「政治囚」というこの特殊カテゴリーに属する囚人たちは、はるかに手ごわい連中でもあった。帝政時代の長年の監獄生活を体験し、ハンストのやり方や看守への圧力のかけ方、情報交換のための監房間の交信法、結束して抗議を申し立てる方法を知っている者が多かった。
7、「政治囚」グループの抵抗とその形態、チェカーの対応
さらに困ったことに、彼らは外部世界と連絡をとる手だてを知り、だれに連絡するべきかも知っていた。ロシアの非ボリシェヴィキー社会主義諸政党の多くは、あいかわらず国外−ふつうはベルリンあるいはパリ−に亡命者支部をもち、そのメンバーはボリシェヴィキーの国際的イメージに重大なダメージをあたえることができた。一九二一年の共産主義インタナショナル〔コミンテルン〕第三回大会で、社会主義者・革命家党(エスエル)−イデオロギーではボリシェヴィキーにもっとも近く、一部の党員はじっさいにボリシェヴィキーと連合して緊密に協力していた−の代表が、ロシアで投獄されている同志たちからの手紙を読み上げた。この手紙は大会でセンセーションをまきおこした。革命ロシアの監獄の条件は、帝政時代よりももっと劣悪だと主張していたからである。「われわれの同志たちは半飢餓状態にあり、近親者との面会も、手紙も、散歩もゆるされずに、数カ月も収監されている者が多い」と。
革命前にやったのとまったく同様に、亡命社会主義者たちは、囚人たちになりかわってアジることができたし、じっさいにそれをやった。ボリシェヴィキー・クーデタの直後、帝政時代の監獄での体験記を書いたヴェーラ・フィーグネルや、作家マクシーム・ゴーリキイの妻エカチェリーナ・ペーシコヴァ〔一八七八〜一九六五〕をふくむ幾人かの著名な革命家の助力で、「政治赤十字」が活動を再開した。これは革命前に非合法で活動していた囚人救援組織である。
ぺーシコヴァは、ジェルジーンスキイをよく知っており、親愛の情のこもった手紙を定期的にやりとりする間柄だった。彼女のコネと権威のおかげで、政治赤十字は監禁施設を訪問して政治囚の話を聞いたり、小包を発送したり、病気の囚人の釈放を請願したりする権利を獲得した。これらの特権は、一九二〇年代の大半をつうじて維持された。すこしあとの一九三七年に投獄された作家レフ・ラズゴーンは、二人目の妻−その父親が社会主義者囚人の一人だった−から政治赤十字の話を聞いたとき、当時すでにそういう活動はとうていできなくなっていたので、「とてもほんとうとは思えないおとぎばなし」でも聞くような気がしたという。
西側の社会主義者や政治赤十字の流す情報によるイメージダウンを、ボリシェヴィキーは大いに気に病んだ。彼らの多くは長年の亡命生活の経験者で、それゆえにかつての国際的な同志たちの意見には敏感だった。革命がいつ西側に波及してもふしぎでないと、いまだに信じる者も多く、かんばしからぬ報道に共産主義の前進がさまたげられては困ると考えた。西側の新聞報道に手を焼いた彼らは、一九二一年に反撃を開始した。これは「資本家のテロル」を攻撃することで共産主義テロルから人目をそらそうとする数多くの試みのはじまりだった。この目的で彼らは囚人救援の「対抗馬」組織として、「資本主義下の囚人一〇万」の救援活動を目的とする一革命戦士救援国際協会」−ロシア語略称MOPR−を設立した。
政治赤十字ベルリン支部は、すぐさまMOPRを糾弾し、「ロシアの監獄、集中収容所、流刑地で死にひんしている人びとのうめき声を圧殺しようとする」こころみときめつけたけれども、だまされてしまった人もいた。一九二四年に、MOPRは会員四〇〇万と自称し、全世界から代表を集めて第一回国際会議まで開いた。宣伝は功を奏した。刊行されたロシアの獄中の社会主義者からの書簡集についてコメントをもとめられたフランスの作家ロマン・ロランは、こう切り返した。「ポーランドの監獄でもほとんど同じような事態が見られますよ。カリフォルニアの監獄でもIWW〔世界産業労連〕の労働者が虐殺されている。アンダマン諸島のイギリスの地下牢でも同じだ……」。
さらにチェカーは、やっかいものの社会主義者を連絡困難な遠隔地に送って、好ましくない報道が流れるのを阻止しようとした。かつて帝政当局がやったのとそっくり同じやり方で、彼らの一部は行政命令で遠隔地に流刑され、その他は北方のアルバーンゲリスク市近傍の遠隔地収容所、とりわけペトログラートから数百マイル北、白海の岸近くのホルモゴールイ修道院跡に設置された収容所へ送られた。しかし、さいはての地の流刑囚でさえ、通信手段を見つけだした。
遠いシベリアのナリームの小さな集中収容所から少人数の「政治囚」グループが、亡命社会主義者の新聞に手紙を送り、窮状をつぎのようにうったえた。「われわれは外部世界から厳重に隔離されているので、宛先に届くと期待できるのは、身内の健康状態あるいは、われわれ自身の健康状態にかんする手紙だけで、それ以外のメッセージは届かない」。仲間にオーリガ・ロマーノヴァという一八歳のアナーキスト女性がいたが、同じ地域のとくべつに遠い部分に送られ、そこでは「三カ月のあいだ、パンと湯だけしかあたえられなかった」。
遠隔地へ流刑しても、獄吏たちが安心できたわけではなかった。かつて帝政時代の監獄で政治因がうけた特権的待遇に慣れた社会主義者囚人たちは、ほとんどすべての流刑先で、新聞、書籍、散歩、無制限の文通の権利、そしてなによりもまず自分たちの代表をえらんで当局と交渉する権利を要求した。石頭のチェカー職員−アナーキストとアーソニスト〔放火犯〕との区別もつかぬ連中だったにちがいない−かそれを拒否すると、社会主義者たちは抗議し、ときには実力にうったえた。ホルモゴールイ収容所のある記録によると、その状況はつぎのようなものだった。
「社会主義者とアナーキストにたいして政治囚のあたりまえの権利をみとめる、といったもっとも初歩的なことがらのための闘争が必要だった。この闘争で彼らは隔離監禁、殴打、飢餓、体罰、建物への軍部隊の組織的発砲など、ありとあらゆる懲罰をうけた。年末までに、ホルモゴールイの囚人たちは、これまでのもろもろの記録にくわえて、通算三〇ないし三五日におよぶハンガーストライキという新記録を自慢できたといえば、それでじゅうぶんだろう」。
ついにこの囚人グループは、ホルモゴールイからペトロミーンスクの別の収容所、別の修道院に送られた。のちに彼らか当局に提出した請願書によると、彼らはここで「粗暴などなり声と脅迫」に迎えられ、小さな僧房に六人が監禁され、「シラミだらけ」の寝棚をあてがわれ、散歩も読書も筆記もすべて禁じられた。ペトロミーンスクの所長バチュリス同志は、光と熱をうばうことで−そしてときおり監房の窓めがけて発砲することで−囚人たちを屈服させようとした。これにこたえて、囚人は無期限ハンストと抗議状差し出しの新ラウンドを開始し、ついにはマラリア多発地であるという理由で収容所それ自体からよそへ移動させるよう要求した。
ほかの収容所長たちも、この種の囚人について苦情を申し立てた。ある所長は、ジェルジーンスキイあての手紙で、自分の収容所では「政治囚気取りの白衛軍人ども」が「意気盛んなチーム」を結成して、警備兵の職務遂行を妨害し、「管理部を誹謗し、その名誉を毀損し、誠実善良なソヴィエト勤務員を侮蔑している」と書いた。一部の警備兵は専断で対処した。一九二一年四月、ペトロミーンスクの囚人の一グループが作業を拒否し、食事の増量を要求した。この不服従に業を煮やしたアルハーンゲリスク州当局は、五四〇名全員に死刑を宣告し、銃殺刑はとどこおりなく執行された。
別の場所では、当局がこれとは反対の方針を採って、社会主義者のすべての要求をみとめ、平和を維持しようとした。エスエル党員ベールタ・バービナの回想によると、モスクワのブティールカ監獄の「社会主義者の側翼」に到着した彼女を待ち受けていたのは旧友とのうれしい再会だった。そこには「サンクトペテルブールクでの地下活動の友人、学生時代の友人、放浪時代にさまざまな町や市で会った友人たちかいた」。囚人は監獄への自由な出入りがゆるされていた。朝の体操をみんなでやったり、オーケストラやコーラスを結成したり、外国の雑誌をそなえた「クラブ」やりっぱな図書室をつくったりした。
革命前からの伝統にしたがい、それぞれの囚人が釈放されるときに所持本を残していった。囚人協議会が、各人に監房を割り当てたが、そのなかには床と壁をカーペットでおおったきれいな部屋もあった。別の囚人は「われわれは並木道でも歩くみたいに廊下をそぞろ歩きしていた」と回想している。バービナには監獄生活は夢の世界のように思えた。「わたしたちをちゃんと閉じこめておくことさえできないのかしら?」
チェカー指導部も同じ不審の念をいだいていた。ある監獄監査官は、一九二一年一月付けのジェルジーンスキイあての報告で、ブティールカ監獄では、「男女がいっしょに歩き回り、監房の壁にはアナーキストと反革命のスローガンかかかっている」と腹立たしげに文句をつけている。ジェルジーンスキイは、規制をきびしくするよう勧告したが、厳格な規制が導入されると囚人はまたしても抗議した。
ブティールカののどかな生活はまもなく終わりを告げた。エスエル党員グループの当局あての手紙によると、一九二一年四月、「午前三時から四時までのあいだに武装した一群の男が各監房に乱入し、攻撃を開始した……女性の手足や髪をつかんで監房から引きずり出し、ほかの人びとを袋だたきにした」。チェカーはのちの彼ら自身の報告のなかでこの「事件」を収拾がつかなくなった反乱と描きだした。そして今後二度とこんな多数の政治囚をモスクワに集中させるべきでないと決定した。一九二二年二月にはブティールカ監獄の「社会主義者の側翼」が解体された。
抑圧も懐柔もききめかなかった。特別収容所においてさえ、チェカーは特別囚人をコントロールできなかったし、彼らにかんするニュースが外界に届くのを阻止できなかった。特別囚についても、特別収容所システムに集められたその他の手に負えぬ反革命派についても、ほかの対策が必要なことは明白だった。その解決策は、一九二三年春までに見いだされた。ソロヴェーツキイである。
アン・アプルボーム ANNE APPLEBAUM
『ワシントン・ポスト』コラムニスト、論説委員。1964年、ワシントンDC生まれ。イェール大学でロシア史・ロシア文学を学び、卒業後、マーシャル基金奨学生として英国に留学。ロンドン大学とオックスフォード大学で国際関係論を履修。
88年、『エコノミスト』ワルシャワ特派員としてポーランドに移り、ジャーナリストとしての活動を開始。旧ソ連および中・東欧諸国の共産政権崩壊や市民社会形成の過程を取材。英各紙に記事や評論を寄稿。92年、ロンドンに戻り、『スペクテーター』外報部長、副主筆。独立の熱意に燃えるリトアニア、ウクライナ、ベラルーシへの取材旅行の記録をまとめた最初の著書『東と西のはぎまで』Between East and West:Across the Borderland
of Europe(Pantheon Books,1994)で、96年度アドルフ・ベンテインク賞受賞。
2003年出版の本書で、04年度ピュリツァー賞(一般ノンフィクション部門)とダフ・クーパー賞(英国)をダブル受賞。
この間、『ウォールストリート・ジャーナル』『フィナンシャル・タイムズ』『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』『フォーリン・アフェアーズ』『ボストン・グローブ』など有力紙誌に健筆をふるい、英米のテレビにもしばしば出演。英語のほか、フランス、ロシア、ポーランド語を自在にあやつる。夫君ラドースワフ・シコールスキは、ポーランドの文筆家・政治家で、05年にポーランド人民防衛(国防)相に就任。二人の息子の母。
以上 健一MENUに戻る
〔関連ファイル〕
ソルジェニーツィン『収容所群島』第2章、わが下水道の歴史
『収容所群島』第3章「審理」32種類の拷問
ニコラ・ヴェルト『ソ連における弾圧体制の犠牲者』
英文リンク集『ソ連の強制収容所』ポスター、写真、論文など多数
『「赤色テロル」型社会主義形成とその3段階』レーニンが「殺した」ロシア革命勢力の推計
『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書