言論出版・思想学問の自由剥奪の反民主主義国家
検閲システム確立と国内外情報閉鎖=鉄のカーテン国家完成
レーニンがしたこと=民主主義・自由権廃絶の反革命クーデター
(宮地作成)
〔目次〕
2、あらゆる民主主義・自由権廃絶路線・遂行の極秘資料-稲子恒夫データ
3、検閲・浄化システム確立と情報閉鎖=鉄のカーテン国家完成-稲子データ
4、レーニンの民主主義・自由権概念と、実践結果の反動性・犯罪性
5、民主主義以前の異質な党独裁・党治国家を理想とする社会主義国家イメージ
6、レーニンが5年2カ月間でしたこと=民主主義・自由権廃絶の反革命クーデター
〔関連ファイル〕 健一MENUに戻る
『スターリンは悪いが、レーニンは正しい説当否の検証』ファイル多数
『レーニンが追求・完成させた一党独裁・党治国家』他党派殲滅路線・遂行の極秘資料
レーニンがしたこと=政治的民主主義・複数政党制への反革命クーデター
『レーニンによる分派禁止規定の国際的功罪』1921年クーデター政権崩壊危機
レーニンがしたこと=少数分派転落・政権崩壊に怯えた党内クーデター
稲子恒夫『ロシアの20世紀-年表・資料・分析』「はしがき」「あとがき」、8ファイル
1、民主主義国家完成か、それとも、反民主主義国家だったのか
これは、稲子恒夫『ロシアの20世紀』(東洋書店、1069頁、2007年)における膨大で詳細なレーニン極秘資料年表・コラムを基礎資料としたソ連・レーニン分析の3回目ファイルである。ただし、分析テーマは、〔関連ファイル〕内容のように、それぞれ異なる。
〔小目次〕
〔第1回テーマ〕、『レーニンが追求・完成させた一党独裁・党治国家』
〔第2回テーマ〕、『レーニンによる分派禁止規定の国際的功罪』
〔第3・今回テーマ〕、『言論出版・思想学問の自由権剥奪の反民主主義国家』
〔第1回テーマ〕、『レーニンが追求・完成させた一党独裁・党治国家』
他党派殲滅路線・遂行の極秘資料とその性質を検証した。その結果、レーニンが、10月クーデターの最初から、党独裁・党治国家を目的意識的に追求し、それを最高権力者5年2カ月間中に完成させた真相が判明した。一党独裁体制が、他党派の反革命・武装反革命によって、やむなく形成されたとするのは、レーニンのウソ・詭弁=ソ連史の偽造歪曲だったことを、極秘資料が証明した。
そこから、私は、レーニンがしたことが、政治的民主主義・複数政党制・三権分立を廃絶させる反革命クーデターとした。彼が廃絶させたのは、ブルジョア民主主義ではなく、それ以前から、人類が政治権力にたいし、あらゆる闘争・革命によって勝ち取ってきた人類の歴史的遺産だった。
レーニンは、それらをブルジョア民主主義と歪曲・捏造し、その廃絶路線をプロレタリア民主主義とするウソ・詭弁ですり替えた。そもそも、民主主義概念に階級闘争理論を無理やり持ち込んで、2つの階級的民主主義に分別し、対立させたのは、レーニンの恣意的な詭弁、理論的にも根本的な誤りだった。
レーニン・トロツキーらが10月にしたことは、社会主義革命でなく、(1)臨時政府権力と(2)ソヴィエト権力という二重権力双方にたいする(3)単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターだったという真相が、国際的にもほぼ完璧に論証されてきた。
日本においても、クーデター説を真っ向から否定し、あくまで、社会主義革命だったと主張する研究者はほとんどいない。それにたいし、クーデター説を著書において明確に支持・表明しているのは、加藤哲郎・中野徹三・梶川伸一・稲子恒夫ら研究者4人がいる。
彼は、クーデター後、プロレタリア民主主義をほとんど言わなくなり、もっぱら、プロレタリアート独裁国家成立を宣伝した。しかし、レーニンが追求・完成させた実態は、プロレタリアート独裁国家ではなく、それは、彼の真っ赤なウソ・詭弁だった。真相は、党独裁・党治国家だったデータを、稲子極秘資料・コラムが証明した。
『レーニンが追求・完成させた一党独裁・党治国家』他党派殲滅路線・遂行の極秘資料
〔第2回テーマ〕、『レーニンによる分派禁止規定の国際的功罪』
1921年クーデター政権崩壊危機とレーニン選択の4作戦を分析した。分派禁止規定を、分派根絶・一枚岩統一功績と党内民主主義抑圧犯罪という二面性から解明した。さらに、従来は、(1)1921年3月の分派禁止規定と、(2)その4カ月後・夏における桁外れの異様な規模の大量除名事件が、ばらばらに位置づけられていた問題に注目した。21世紀現在も、それらを連結した党内事件だったとする研究は出ていない。
その歴史解釈を、稲子恒夫極秘資料に基づいて、分派禁止規定と大量除名事件とを結びつけ、レーニン主流分派とトロツキー「労働の軍事化」分派による反主流2分派=労働者反対派・民主主義的中央集権派排除の連結した事件と捉え直した。その結論として、レーニンがしたこと=少数分派転落・政権崩壊に怯えた党内クーデターだったのではないかと提起した。
分派禁止規定と一体化させた民主主義的中央集権制こそ、コミンテルンを通じて、全世界に、犯罪的組織原則政党を結成させ、「レーニン神話」と結びつけた国際的功罪をもたらした。
『レーニンによる分派禁止規定の国際的功罪』1921年クーデター政権崩壊危機
〔第3・今回テーマ〕、『言論出版・思想学問の自由権剥奪の反民主主義国家』
検閲システム確立と国内外情報閉鎖=鉄のカーテン国家完成事実を、稲子恒夫極秘資料年表・コラムから解析する。そのデータから、レーニンがしたことは、民主主義・自由権廃絶の反革命クーデターだったということを論証する。
稲子恒夫極秘資料・コラムが出版される2007年4月以前、民主主義的権利・自由権の存在実態や、レーニン・ボリシェヴィキがそれらをどのように剥奪していったのかという経過は、具体的にほとんど発掘・公表されていなかった。ところが、稲子極秘資料出版によって、言論出版の自由権、思想信条・宗教の自由権、学問の自由権を、レーニンが抑圧・剥奪していった事実、検閲・浄化システムを確立させていった経緯が浮き彫りになった。
それらのテーマに関するデータだけを抽出し、その性質を突き止めていくと何に突き当たるのか。はたして、レーニン・トロツキーらが完成させたのは、(1)民主主義国家なのか、それとも、(2)反民主主義国家だったのかという恐るべき逆説的疑惑が浮上する。もう少し詳しくすると、その国家とは、(1)民主主義的社会主義国家なのか、それとも、(2)1991年ソ連崩壊までの75年間、それとは正反対で反動的な反民主主義的クーデター政権であり続けたのかという根本的な疑惑になる。
もっとも、ソ連崩壊後の現在も、国内外の研究者で、(1)レーニンが10月にしたのはクーデターであり、社会主義革命ではないと言明していても、(2)ソ連が、レーニン時代から、反民主主義国家だったとするレベルの逆説を唱える研究者はいない。ただし、ニコラ・ヴェルト、クルトワや、ダンコースらは、それと明言していなくても、それに近い論旨を書いている。3人ともフランス人研究者である。
しかも、クーデター政権最高権力者レーニン5年2カ月間時代の実態は、反民主主義国家というだけでなく、具体的には、言論出版・思想学問の自由権剥奪の反民主主義国家となる。もう一歩踏み込めば、レーニン・トロツキーらは、他党派を含む労働者・農民・兵士のロシア革命・ソヴィエト勢力全員への監視・検閲・浄化システム確立と国内外情報閉鎖=鉄のカーテン国家完成をさせたのではないかとの疑惑に到達する。そこから、レーニンがしたことは、あらゆる民主主義・自由権廃絶の反革命クーデターだったとの結論が出てくる。
この〔第3回〕ファイルは、〔第1回テーマ〕における他党派殲滅路線・遂行の極秘資料ではなく、重複する面もあるが、もっと幅広く、あらゆる民主主義・自由権廃絶に関する年表極秘資料とコラムをピックアップし、その性質を分析する。
ただし、ピックアップの箇所を、テーマの違いによって、2箇所に分けて載せる。〔目次2〕のあらゆる民主主義・自由権廃絶路線・遂行の極秘資料-稲子恒夫データと、〔目次3〕の検閲・浄化システム確立と情報閉鎖=鉄のカーテン国家完成-稲子データである。両者のテーマにまたがる極秘資料もあるが、いずれかに分けた。なお、ロシア語・人名の日本語訳は、稲子著書のままにした。
2、あらゆる民主主義・自由権廃絶路線・遂行の極秘資料-稲子恒夫データ
〔小目次〕
1、稲子恒夫『ロシアの20世紀』-民主主義・自由権廃絶路線・遂行の極秘資料
1、稲子恒夫『ロシアの20世紀』-民主主義・自由権廃絶路線・遂行の極秘資料
〔小目次〕
〔1918年〕、民主主義・自由権廃絶路線・遂行データ
〔1919年〕、民主主義・自由権廃絶路線・遂行データ
〔1920年〕、民主主義・自由権廃絶路線・遂行データ
〔1921年〕、民主主義・自由権廃絶路線・遂行データ
〔1922年〕、民主主義・自由権廃絶路線・遂行データ
〔1918年〕、民主主義・自由権廃絶路線・遂行データ
1.5(1.18) ペトログラードとモスクワで憲法制定会議擁護のデモ,武力により鎮圧,死者8ないし30人,負傷者200人以上.ペトログラードのデモは1.9までつづく
1.5(1.18) 憲法制定会議招集.1917年11月選挙の議員715人(内ボリシェヴィキーと左派エスエル155人)のうち410人出席.ボリシェヴィキーが「勤労被搾取人民の権利の宣言」を提案したが,136票対237票で否決されたので,ボリシェヴィキーと左派エスエル退場.
1.6(1.19) 憲法制定会議解散の布告採択の全ロシア中執委の会議で,レーニンが「われわれは内乱を辞さない.どんなことがあろうとソビエト権力を渡さない」と演説.→1.11
1.11(1.24) レーニンが「われわれは,どの政府も宣言できなかった内乱を公然と宣言した」と演説.
1.12(1.25) 勤労被搾取人民の権利の宣言.十月革命とソビエト政権の政策を確認し,搾取者の容赦ない抑圧と社会主義の勝利,あらゆる国での社会主義の勝利を基本的任務とすることを宣言.
3.18 モスクワのブルジョア新聞の発行禁止の人民委員会議決定.→5.11
4.3 モスクワで無政府主義者の住む26戸を手入れ,武器と略奪品を押収
4.11~12 ヴェチェカー(全ロシア非常委員会),モスクワで無政府主義者をいっせい検挙,約40人射殺,約500人逮捕.
4.15 全ロシア中執委,内務人民委員部に集中収容所を管理する部局の設置を決定.
4.18 無政府主義の旗で行動する武装勢力との闘争について,全ロシア非常委員会(ヴェチェカー)報告にかんする全ロシア中執委決定.
4.23 ペトログラードでヴェチェカーが無政府主義者をいっせい逮捕,多数の者を銃殺
5.11 全ロシア中央執行委員会幹部会,ニセのうわさ掲載のブルジョア的,愚劣な新聞の発行禁止と編集者に罰金を科することを決定.直接の理由はウクライナ情勢の報道阻止.→8.4
5.14 『ノーヴァヤ・ジーズニ』紙で,ゴーリキーが「ソビエト政権はまたしも自分の敵の新聞数紙を絞殺した.このような敵との闘争方法が誠実でないことは,言うまでもない.君主制の時代,ふつうの人が新聞の発行禁止が愚劣だと見ていたことを想起するまでもない.というのは誠実と不誠実の概念は権力の権限外,関心外であることは明白であり,権力が古い-恣意と暴力にもとづく新しい国家を作れると信じることはばかげている」と書く
6.4 軍事人民委員トローツキー,集中収容所設置を命令.⇒収容所(ラーゲリ)の起源.121頁
8.4 (極秘) 軍事人民委員トローツキー,ヴォーログダ県軍事委員会への命令で,反革命派を容赦なく弾圧し,疑わしい者を集中収容所に送り,略奪者を過去の業績と関係なく銃殺を指令
8.4 すべてのブルジョア新聞禁止の人民委員会議布告
10.7 県非常委員会に銃殺権のヴェチェカー命令
10.18 『プラウダ』紙,今までのスローガン「すべての権力をソビエトに」を「すべての権力を非常委員会(chrezvychaiky)に」に変える
11.1 ヴェチェカーの機関紙のラーツィス(ヴェチェカー幹部)の論文「赤色テロ」が次のように記す.「われわれは個人との戦争をしていない.われわれは階級としてのブルジョアジーを絶滅しつつある.取り調べでは,被疑者が行為または言葉でソビエト権力に反対した資料または証拠をさがすな.被疑者に対する最初の質問は,どの出自,育ち,教育または職業かである.これらの間題が被疑者の運命を決めるべきだ.ここに赤色テロの意味と本質がある」
11.26 学術,文学,音楽,美術の著作物を国家の資産とみなす人民委員会議布告
12.3 (極秘) 労農防衛会議,チェカーの勤務員は共産党員にかぎることを決定
稲子恒夫『1918年年表』ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化データ全項目
1.9 ヴォローネジで聖職者160人銃殺
1.29 レーニン,ロシコーフの手紙(1.11)への返書で,食糧の「商業の自由権による逆行ではなく,国家独占の改善により,社会主義へさらに前進しなければならない」と記し,さらにワイマール憲法制定をめぐるドイツの情勢について,「ソビエト権力対“普通,直接,平等,秘密選挙の,つまり反革命的憲法制定会議”の闘い」であり歴史は,ブルジョア民主主義とブルジョア議会主義の全世界的崩壊,内乱はもはや避けられないことを示している」と書く.→8.11
2.10 チェカー(非常委員会)のテロの非難をつづけたスピリドーノヴァ,他の左派エスエル党員213人とともに逮捕→41.9.11
2.24 (極秘) ヴェチェカー秘密部設置(ヴェチェカー幹部会決定).秘密部の基本的任務はブルジョア政党,小ブルジョア政党,集団,教会,宗教セクト(カルト)関係者の反ソ活動取り締まり
2.26 メンシェヴィキーについて全ロシア中執委決定.同党の『つねに前進』紙を発行禁止
4.28 (極秘) レーニンとカーメネフ,モスクワのストライキ印刷労働者の容赦ない逮捕をチェカーに要求
5.1 (極秘) 全ロシア中央執行委議長カリーニンと人民委員会議議長レーニン,司祭との闘争をヴェチェカー議長ジェルジンスキーに指示.「……できるだけ早く司祭と宗教に決着をつける必要がある.司祭を反革命分子,サボタージュ者として逮捕し,容赦なくいたるところで銃殺する.できるだけ多く,教会は閉鎖する.建物は封印し,倉庫に変える」.39.11.11廃止
5.2 [ドイツ] トーマス・マンの日記,ロシアについて,「文化のおそるべき破局,いつかは世界をおびやかす」と書く
7.9 党中央委,党活動家に「ソビエト政権に反対し,したがってデニーキンを支持する」カデート,メンシェヴィキー,エスエルの摘発と逮捕を呼びかけ
7.18~20 モスクワまたは近郊で社会革命党第9回評議会,ボリシェヴィキーとソビエト権力に対する方針を検討.ボリシェヴィキーが社会主義の基本原則である自由権と人民主権をくつがえし,それを多数者に対する少数者の独裁に変えているから,現時点ではボリシェヴィキーとの協調は不可能とする中央委員会の見解を認め,しかし右からの反動の脅威がきわめて強まっており,民主派には目的達成のため二つの戦線でたたかう十分な力がないとして,武装闘争の中止を決め,ボリシェヴィキーが右からの反動をはぐくむ政策を自発的に捨てないなら,党は民主派の力を動員,組織し,「人民主権,自由権,社会主義」の名で右派勢力と戦う力をととのえることを決定
8.28 レーニン,『プラウダ』紙で「白軍,地主,資本家の共犯,従僕」であるエスエルとメンシェヴィキーを批判.ヴェチェカー資料によると9~12月にエスエルとメンシェヴィキー2380人逮捕
9.11 [極秘] 政治局,カデート党中央委事件による教授と学者の大量逮捕を決定.→9.15,9.24,9.25
9.15 レーニン,ゴーリキーへの手紙に「労働者と農民の知的能力は,ブルジョァジーとその手先である知識人,人民の頭脳とうぬぼれている資本の走狗の打倒の闘いのなかで成長し,強くなっている.実際は彼らは頭脳ではなく,くそ(糞)である」と書く.3日後のゴーリキーへの手紙に,カデートとカデート周辺の公衆の逮捕は「行き過ぎではない.1万人を殺すより,数百,数千の知識人を数日か数週間勾留するほうが良い」と書く
9.24 詩人ギーピウスの日記.「昨日モスクワで67人(教授,社会活動家,女性)銃殺の公示,今日ここ(ペトログラード)で29人.‥‥‥闇と穴の感じ.静かな狂気」と書く.→11.
12.17 [極秘] 専門家の人質と逮捕のヴェチェカー命令
12.25前 (極秘) 労農防衛会議,第7回全ロシア・ソビエト大会の燃料問題決定(12.9)実施のため,燃料の調達と積み下ろしに,“ブルジューイ(ブルジョア野郎)”,役人,創作知識人(作家,美術家,音楽家など),帝政時代の将校など「過去の人間」の動員を決定.この問題の労農防衛会議特別全権代表にエーイドゥクを任命.→12.25
12.30 (極秘) レーニン,ヴェチェカーのカサークの捕虜約100万の措置について指示を請うの文章に,「一人残らず銃殺」と決裁
稲子恒夫『1919年年表』ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化データ全項目
〔1920年〕、民主主義・自由権廃絶路線・遂行データ
7.31 (極秘) 政治局,レーニンの提案で『共産主義インタナショナル』誌第12号に掲載のゴーリキーの論文には.「まったく共産主義的なものがなく,多くの反共産主義的なものがあるから,同誌がこれをとくに巻頭に掲載したことは,きわめて愚かと認める.今後は同紙にこの種のものの掲載を禁止する」と決定
8.11 (極秘) 県チェカーが課する刑罰処分,チェカーの機関と革命裁判所との相互関係のヴェチェカー命令
8.14 革命軍事評議会議長トローツキー,白衛派ポーランドと戦闘の部隊にワルシャワ総攻撃を命令.8、16~17ワルシャワ総攻撃失敗し.8個師団全滅,10万人が捕虜となり,うち半分以上が収容所での非人道的処遇と飢えのため死亡,残り約3万人が消息不明.ヨーロッパ革命の夢くずれる
8.16~20 モスクワで戦略センター事件裁判.法廷では同センターは組織も規約も綱領もないことが確認されたが,公訴人クルイレーンコが次のように主張.「ある社会階層があり,彼らは革命的社会主義の代表者がずっと前から考察していた社会生活をしている.この層は今後も存在するだろう.…いわゆる知識人である.…‥この訴訟でわれわれはロシア知識人の活動に対する歴史の審判,彼らに対する革命の審判をすることになる.被告人28人は会って,たがいの見解を知り,ソビエト体制崩壊後の国家体制はどうあるべきか,意見をかわし,話しあった.……ここにいる被告人がなにもしなかったとしても,この時期に,どういう体制が崩壊まぎわのソビエト権力に替わるべきかと,茶飲み話に話しあうことも反革命行為である.‥…内乱のときは,あらゆる作為が犯罪であるだけでなく,不作為でさえ犯罪である」.判決は銃殺,ただし内乱終了まで集中収容所拘禁
11.27 政治局,メンシェヴィキーにソビエト大会での審議権をあたえないことを決定
12.10 プロレトクーリトの党中央委書簡.「プロレタリア文化は,プロレターリアートや文化活動家が自主的に配慮するのは無意味であり,それは党の仕事である」として,プロレトクーリトの自主性に終止符
稲子恒夫『1920年年表』ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化データ全項目
1月 モスクワで金属労働者協議会,言論の自由権を要求しソビエト政権の崩壊を予言
2.5 『プラウダ』紙に.レーニンが書いた「教育人民委員部の体系に勤務する共産主義者への中央委員会指令」,大学に旧専門家を勤務させるが,「一般教育科目,とくに哲学,社会科学,共産主義教育の内容は共産主義者だけが決定する」.→3.8
2.21 ペトログラードの93工場,燃料不足で月末まで操業停止.労働者総会が民主主義への移行を決議.2月下旬ペトログラードのいくつかの工場で「騒動」とストライキ.→2.24
2.24 ペトログラードに非常事態宣言
2.28 (極秘) 反革命との闘争強化のヴェチェカー命令.「エスエルとメンシェヴィキーが,きびしい生活状況に対する労働者の自然の不満を利用し,ソビエト権力とロシア共産党に対するストライキ運動を呼びかけ,それに組織的,全ロシア的性格をあたえている」とする
3.1 戦艦ペトロパーヴロフスクとセヴァストーポリの乗組員集会,ソビエトの即時・自由権な改選,言論と報道の自由権,全政治犯の釈放,没収の中止,商業の自由権,買出取締隊の廃止などを決議
3.1 クロンシュタートでメンシェヴィキーと無政府主義者の代表からなる臨時革命委員会設立
3.2 クロンシュタートにおける社会革命党,白衛派の反乱の政府公報
3.2 レーニンとトローツキーが署名の労働防衛会議決定.3.1の乗組員集会の決議を「黒百人組・社会革命党的」と呼び,指導者とその一味を「法律の外」におくと宣言
3.8 トゥハチェーフスキー指揮の赤軍,クロンシュタートを攻撃,失敗
3.8 高等教育機関の共通必修科目新設の人民委員会議布告.社会科学分野では史的唯物論とプロレダリア革命史が必修となる
3.8~16 第10回ロシア共産党大会.農民反乱とクロンシュタートの反乱のなかで新経済政策決定,政治の民主化は拒否.新経済政策(NEPネップ)への急転換
3.15 割当供出の現物税へ変更の決定.
3.16 党内のサンジカリスト・無政府主義的偏向の決定.党の統一の決定(党内分派禁止第7項(分派活動の発起人は厳罰)は秘密とされ,1924年に公表).労働組合の役割と任務の決定
3.18 クロンシュタートの反乱の鎮圧終わる.3.20臨時トローイカ(3人委員会),戦艦ペトロパーヴロフスク乗組員167人の銃殺を決定,刑即時執行.3.21同艦で32人銃殺.3.24同艦で27人銃殺.夏まで反乱参加者銃殺2103人,刑務所拘禁,流刑計6549人,のち全員銃殺.⇒1921年春のクロンシュタート市の事件についてのロシア連邦大統領令(94.1.10).200頁
8.16 トゥハチェーフスキー,タンボーフ県などの反乱鎮圧を党中央委に報告.⇒1918~22年の農民反乱の名誉回復についてのロシア連邦大統領令(96.6.18).200頁
8.24~31 「ペトログラード戦闘組織」または「ダガーンツェフ陰謀」事件のペトログラード非常委員会の秘密裁判.ソビエト政権の崩壊がありうるとして,共産党のない将来のロシアを話し合ったにすぎない詩人グミリョーフら61人に銃殺の判決.のちに別の2グループも銃殺,銃殺合計87人.91.9.20ロシア連邦最高裁刑事部が判決を取り消し.◆『イズヴェスティヤ』紙(2001.8.25)は,グミリョーフはペトログラードのオゲペウー司法部の判決により銃殺されたとし,2001.8.24に死後80年追悼ミサがペトログラードで行われたと報道したが,オゲペウー(統合国家保安局)はヴェチェカー(全ロシア非常委員会)の誤り.この記事によると,秘密裁判は61人の犠牲者を一人づつ呼び出し,判決を言い渡す方法で行われた
11.18 (極秘) 政治局,文学者グループの無党派新聞発行の申請却下
12._ (極秘) ジェルジンスキー,ヴェチェカー副議長ラーツィスへ次の指示.「教会は解体する,これにはわれわれの手助けが必要であり,刷新された形式であれ,教会を複活させない.だからヴェチェカーが教会解体政策を行わなければならず,これは他のいかなる機関にもまかせられない.党と司祭どもとの公式または非公式の交渉は許されない.勝ち目は共産主義にあり,宗教にはない.司祭どもの解体という唯一の目的のため舵を取れるのは,ヴェチェカーだけである.他の機関が司祭どもとなんらかのつながりを持つことは,党に汚点をもたらす.これは危険なことである」
稲子恒夫『1921年年表』ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化データ全項目
〔1922年〕、民主主義・自由権廃絶路線・遂行データ
1.1 不眠症のレーニン,21.12.31の政治局決定により,モスクワ郊外のコスティーノ村での6週間の休暇に入る.クループスカヤによると.「ひどい不眠症で苦しんでいた.朝はいつも調子が悪く,それから眠ったが,眠りは悪かった」.レーニンは党中央委書記局の許可がなければ,モスクワに行くことができず,1日に1時間重要問題についてだけ電話をすることが許された.レーニンは指令と手紙を何度も送り,メンシェヴィキーとエスエル,教会と信者の弾圧などを強硬に主張した.3.22モスクワ郊外のコルジンキノ村に移り,3.25モスクワにもどる
1.2 (極秘) 教会財産一掃の全ロシア中執委幹部会決定
1.12 (極秘) レーニン,政治局への手紙で「人民委員会議がボリショーイ・オペラ・バレー劇場維持のルナチャールスキーの実にくだらない提案を採択したと知った.その取り消しを提案する.それは純粋に地主的文化のかけらだ.これに対し争うことなど,だれもできない」と書く.→11.1
1.17 レーニン,上映の映画を娯楽映画と宣伝映画に分け,両者の比率の維持と検閲を教育人民委員部に指令
2.4 反宗教宣伝の党中央委通達.宗教的偏見をこわす作業を系統的に行うことを党地方組織に指示
2.23 信者集団が使用の教会聖器物の強制収用手続きの全ロシア中執委布告
2.26 聖器物の緊急強制収用が必要との人民委員会議決定.飢餓救済の穀物の緊急輸入の資金にあてるため,礼拝に使用中のものをふくむ教会の聖器物を強制収用
2.28 ティーホン総主教が2.23の布告は涜神と抗議
2.27 (極秘) 文学出版の分野の小ブルジョア・イデオロギーとの闘争報告について,党中央委組織局決定
2月 大学の自治の否定に抗議してモスクワ工業大学教授ストライキ.
2._ (極秘) レーニン,スターリンとカーメネフに「20~40人の教授をかならず解任する」ことを指示
3月から 教会の聖器物の暴力的収用キャンペーン.モスクワ,ペトログラード,スモーレンスク,シューヤ,カルーガ,キーエフその他で聖職者と信者が抵抗.以下3.5以後に主な教会聖器物強制収用事件だけを記す.→11.1
3.5 ペトログラード府主教ヴェニアミーン,教会はすべてを飢餓救済に提供する用意があるが,暴力的収用は涜神と声明.→3.15
3.11 (極秘) 政治局,トローツキーの提案で教会聖器物強制収用特別委員会設置を決定.トローツキーは聖器物強制収用で中心的役割を果たしたが,彼の自叙伝はこれにふれていない
3.14~15 ヴラディーミルのウスペーンスキー大聖堂からの教会聖器物強制収用に多数の住民が抵抗
3.15 (極秘) 例外として教会聖器物のかわりに同量の金,銀その他の製品の強制収用を認める全ロシア中執委幹部会決定
3.15 イヴァーノヴォ・ヴォズネセーンスク県シューヤで,教会聖器物収用に反対の聖職者と群衆を赤衛兵が弾圧.死者4人,負傷者10人.シューヤ事件.→3.19,3.25,3.28,5.2
3.15 ペトログラードのカザーン大聖堂からの聖器物収用に聖職者と群集が抵抗.府主教ヴェニアミーンが抗議声明.3.16ペトログラードのセーンナヤ広場のスパースカヤ教会からの聖器物収用に群集が抵抗.→5.29
3.19 (極秘) レーニン,政治局員への覚書で,「飢餓地域で人を食い,道路に数千とはいえないが,数百の遺体が積み上げられている」今こそ,狂ったように断固として教会の財宝を収用し,弾圧へのどんな抵抗も残らないようにし,その際,賢い作家が「国家的問題について一定の政治目的実現のため,一連の強硬措置をとる必要があるときは,それをもっとも精力的に,またもっとも短期間に行わなければならない.なぜなら強硬措置が長期間つづくことに,民衆は耐えられないからだと記している」と書き,聖職者を迅速に容赦なく弾圧することを指示(「賢い作家」については2.20参照)
3.20 (極秘) 政治局,トローツキー提案の「教会聖器物収用の指令」を一部修正して採択
3.23 (極秘) 党中央委の県委員会への電報で,教会の聖器物強制収用のための秘密委員会設置を指令
4.26 商業の開業と営業の許可手続き廃止の人民委員会議布告.商業の自由権
4.26 モスクワ革命裁判所,教会聖器物の暴力的収用に抗議の聖職者と信者54人の裁判開始.→5.4,5.8
5.2 (極秘) 政治局,3月シューヤ事件についての革命裁判所の4.25判決の11人銃殺のうち,2人の司祭の死刑の取り消しというカーメネフの提案を否決、判決承認4票(レーニン,トローツキー,スターリン,モーロトフ),減刑1票(ルイーコフ),判決取り消し2票(トームスキー,カーメネフ).5.5全ロシア中執委幹部会,特赦申請を却下
5.4 (極秘) 政治局,聖器物強制収用のモスクワ裁判について,ティーホンを裁判にかけ,聖職者に最高刑(銃殺)を課するという裁判所への指令を決定.裁判についてモスクワの新聞に積極的に報道させる仕事をトローツキーに委任.→5.8,5.19
5.7 (極秘) レーニン,司法人民委員クールスキーへの手紙で,刑法典(5.26)の反革命宣伝扇動に,国外追放の刑を定めることを指示.→5.15,5.19
5.8 政治局の指令にしたがい,モスクワの聖職者,信者裁判で11人(内聖職者8人)に銃殺判決.
同日 (極秘) 政治局,銃殺を2人にかぎるカーメネフの提案を否決,反対4票(レーニン,トローツキー,スターリン,ジノーヴィエフ),賛成3票(カーメネフ,トームスキー.ルイーコフ).5.14モスクワ革命裁判所6人の銃殺取り消し,5人だけ銃殺に判決変更.
5.22 (極秘) 政治局,カーメネフの提案で銃殺判決取り消し
5.9 [ベロロシア] (極秘) ロシア共産党中央委ベロロシア・ビュロー,ポーランド人の神父を聖器物強制収用への抵抗で裁判にかけることを決定.5.26 (極秘) 党中央委ベロロシア・ビュロー,判決は死刑1人,死刑,ただし執行せず1人.刑務所拘禁1人と決定.5.29裁判開始(以後の経過は保存の極秘文書に記録なし).⇒カトリック教会の弾圧.217頁
5.12 反宗教キャンペーンの一環として,ペトログラードのアレクサーンドル・ネーフスキー大修道院で,聖アレクサーンドル・ネーフスキーの棺の蓋を開けて公開検査.『ペトログラード・ソビェト』紙によると,棺内には不完全な頚骨2本と肋骨,頭蓋骨,鎖骨だけで,信者を落胆させる.銀の棺はエルミタージュ博物館へ移され,遺骨は大修道院内に埋葬
5.19 ロシア正教会総主教ティーホンを聖職者の活動を組織の理由で逮捕.ティーホン事件.政治局は最高革命裁判所の公判,死刑を決めたが,国外からの非難のため公判廷期.→23.6.16
5.24 (極秘) 政治局,4月の全ロシア医師大会でカデートとメンシェヴィキー支持者が多数を占め,新聞発行を決めたことを重大視.→6.8
5.25~26 レーニン,脳梗塞で倒れ.右半身不随になり,言葉も不自由権に
5.29 ペトログラード総主教ヴェニアミーン逮捕.→6.9
6.8 (極秘) 政治局が5.24にひきつづき全ロシア医師大会問題を検討し,知識人のなかの反ソ集団について決定.あらゆる大会はゲペウーの許可を必要とするものとし,ゲペウーが新聞に危険思想がないかを点検し,大学入学のときの思想検査を強化し,ゲペウーに登録されない創作家団体・専門家団体の新設を禁止し,反ソ知識人を国外追放することを決める.→6.22,8.10
6.10 ペトログラード音楽院ホールで,革命裁判所による教会聖器物の強制収用に抵抗の府主教ヴェニアミーンら聖職者と信者,被告計87人の大見世物裁判始まる.一→7.5
6.22 (極秘) 政治局,ゲペウー次官ウーンシュリフト提出の危険思想の医師のリストを検討し,リスト掲載の者を次の三つに分けることをウーンシュリフトに指示.(1)逮捕,即時居住地追放.(2)逮捕,非合法文献の配布を取り調べ.(3)逮捕,身辺整理の余裕をあたえ1週間後に居住地追放.→8.10
6,29 (極秘) 政治局,シャリャーピンに国外公演のため3ケ月の国外滞在を許可.しかし出国後帰国しなかった.シャリャーピンの回想「私は没収された金も,両首都の家も,田舎の土地も望まなかった.悲しませたのは,ロシアの風景であり,ロシアの農民であり,洗練された人たち(知識人)が事態がどれだけ悪いかと語っていることである」.38.3.12パリで死亡.→27.8.22
7.5 ペトログラード革命裁判所,6.10に開始の裁判で聖職者と信者59人に有罪判決,内ペトログラード府主教ヴェニアミーンら10人は銃殺.内4人は8.12.13夜に刑執行.残り6人は自由権剥奪に減刑
8.4~9 第12回ロシア共産党全ロシア協議会.反ソ的政党と潮流の決定,社会革命党とメンシェヴィキーを短期間に完全に一掃することを決める.新党規約,入党条件をきびしく.一党制の確立へ
8.10 行政的居住地追放の全ロシア中執委決定.→24.3.28.◆居住地追放(vysylka)は住んでいた都市など大都市での居住禁止,類似の流刑(ssylka)は指定の僻地への強制移住.ともに当局の監視下で生活.帝政時代の流刑,居住地追放復活へ
8.28 すべての男性共和国国民の兵役義務の全ロシア中執委・人民委員会議布告.勤労分子だけに兵役義務,「搾取階級」の代表には労働の義務
10.1 作家プリーシヴィンの日記.「社会主義は,資本主義の個人否定の原則に対する生きた個人の熱烈な抗議により生まれたのに,自分はその技術生産集団の中で個人を窒息させるのか」
11.1 前日までの教会聖器物強制収用の成果(全ロシア中執委幹部会の政治局への報告)金33プード32フント(551トン),銀2万3007プード23フント(3万7865トン),ブリリアント型宝石3万5670個,その他の宝石7万1762個,真珠14プード32フント(252トン).金貨3115ルーブル,銀貨1万9155ルーブル,各種物品52プード307ント(252トン).合計推定価格465万810.67ルーブル,別に価格査定が必要な骨董品964点,教会から強制収容の貴金属などは,飢餓対策の穀物輸入ではなく,コミンテルンを通しての外国共産党への接助などに使われた.→12.7
11.9 フランスに出張中のヴェルナーッキー(自然科学者)の日記.「現在の反動は-右に-動いているという.だが“右に”どこへ行くのか,科学的に創造する自由権な人間個人の観点からすると,さらに実際の反動に行く.今日,言論と報道の自由権がなく,科学研究の自由権がなく,自治がなく,政治的権利だけでなく,市民的権利さえない.個人の尊重と保障の要素がない」
12.16 レーニン,2度目の脳梗塞で倒れる
12.18 医師の示す安静規則をレーニンが守ることの監視が,スターリンに委ねられる
12.30 全ロシア中執委付置最高裁判所軍事部,ティーホン総主教の刑事責任を問い,刑法典(5.26)の定める犯罪により取り調べ開始を決定.→23・6・16
稲子恒夫『1922年年表』ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化データ全項目
2、あらゆる民主主義・自由権廃絶路線を遂行したレーニン
レーニンが剥奪・廃絶させた民主主義的権利・自由権は、あらゆる分野に及んでいる。
(1)、集会・デモ・結社の民主主義的権利・自由権の剥奪・廃絶
単独武装蜂起・単独権力奪取クーデター後、最初に弾圧したのが、憲法制定議会選挙支持の集会・デモだった。旧暦1月5日(新暦1月18日)、ペトログラードとモスクワで憲法制定会議擁護のデモが行われた。レーニン・ボリシェヴィキは、憲法制定議会選挙を支持していたのに、議席24%で敗北するや、武力によりデモを鎮圧した。死者8ないし30人,負傷者200人以上になった。ペトログラードのデモは1月9日までつづいた。
それ以降、ボリシェヴィキ官製デモ・集会以外は、すべて禁止し、弾圧した。他党派も反革命レッテルを貼り付け、非合法化した。レーニンは、意図的に、他党派殲滅=一党独裁・党治国家を追求・完成させた。このテーマは、稲子極秘資料に基づいて、別ファイルで詳しく分析した。
『レーニンが追求・完成させた一党独裁・党治国家』他党派殲滅路線・遂行の極秘資料
レーニンがしたこと=政治的民主主義・複数政党制への反革命クーデター
(2)、言論出版の民主主義的権利・自由権の剥奪・廃絶
レーニンのクーデター政権は、1918年3月18日、早くも、モスクワのブルジョア新聞発行禁止の人民委員会議決定をした。一般新聞だけでなく、他党派新聞・無党派新聞や出版も次第に全面禁止にした。出版社も、ボリシェヴィキ系出版社以外は、すべて閉鎖させた。多数のケースは、上記稲子データにある。言論出版の民主主義的権利・自由権剥奪の組織的保障となる検閲テーマについては、〔目次3〕で分析する。
(3)、思想信条・学問の民主主義的権利・自由権も剥奪・廃絶
とりわけ、レーニンは、ロシア正教にたいする弾圧を、教会財産没収だけでなく、批判・抵抗した聖職者・信徒数十万人殺害を含む規模で遂行させた。トロツキーは、聖職者大量殺人犯罪の中心的執行者だった。
知識人にたいし、クーデター政権を支持するか、しないかで分別し、レーニンが先頭に立って、国外追放・辺地流刑を指令した。これらの指令をレーニンは、何度も浄化という犯罪思想で奨励した。これらレーニンの2つの犯罪については、上記稲子恒夫極秘資料とともに、別ファイルでも検証した。
『聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革命倫理』レーニン・スターリンで約70万人殺害
『「反ソヴェト」知識人の大量追放「作戦」とレーニンの党派性』
稲子恒夫『1922年のソ連とソ連共産党年表』ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化
『ロシア1922年〔コラム〕―6つのテーマ』検閲の歴史、教会の弾圧
3、検閲・浄化システム確立と情報閉鎖=鉄のカーテン国家完成-稲子データ
〔小目次〕
1、稲子恒夫『ロシアの20世紀』年表における監視・検閲・浄化データ
3、国内外情報閉鎖国家=鉄のカーテン国家を完成させたレーニン
1、稲子恒夫『ロシアの20世紀』年表における監視・検閲・浄化データ
〔小目次〕
〔1918年〕、監視・検閲・浄化データ
〔1920年〕、監視・検閲・浄化データ
〔1921年〕、監視・検閲・浄化データ
〔1922年〕、監視・検閲・浄化データ
稲子恒夫の上記データから、レーニン・ボリシェヴィキによる監視・検閲・浄化データは、抽出し、こちらにも転載した。というのも、あらゆる民主主義・自由権剥奪というレーニンによる反民主主義犯罪において、その組織的保障・遂行機関としての監視・検閲・浄化システム確立が、絶対必要条件だったからである。2つのデータが重なる性質もあるが、あえて、監視・検閲・浄化だけを分けて、こちらに載せた。
監視・検閲システムがなければ、民主主義的権利・自由権剥奪ができない。その根底には、レーニンが、クーデター政権最高権力者になって以降、むき出しにし始めたソ連国家・社会を浄化しつくすという彼独自の異質な社会主義国家理念・構想がある。浄化とは、ボリシェヴィキ一党独裁・党治国家にたいし、反対・批判・抵抗する、または、積極的に支持しない他党派・知識人・国民・共産党員を排除し、それらを存在させなくするレーニン創作の社会主義思想用語である。
浄化の方法は、(1)逮捕・(2)銃殺・(3)強制収容所送り・(4)国外追放・(5)辺地流刑など、あらゆる手口が使われた。
〔1918年〕、監視・検閲・浄化データ
6.8~12 (極秘) 全ロシア・チェカー会議.6.12全ロシア・チェカー会議のボリシェヴィキー・フラクション会議が,「(1)秘密協力者を組織する.‥…(3)将官と士官を尾行し,赤軍,指揮官,クラブ,サークル,学校などを監視する.(4)明白な反革命分子,投機業者,収賄者を銃殺する.(5)地方でブルジョア的協調派の新聞,俗悪新聞に対し断固たる厳重な措置をとる」と決議
11.27 『イズヴェスティヤ』紙に次の記事.ジェルジンスキーが地方の非常委員会(チェカー)についての演説で,「チェカーはプロレタリア的闘争の機関であり,それはプロレタリアートの創造的仕事をさまたげるあらゆる者を,容赦なく道から投げ捨てることで、最大限の革命的エネルギーと政治的成熟をしめさなければならない」と語る
12.4 (極秘) ヴェチェカー(全ロシア非常委員会)幹部会命令,ただちに大きな村と郷に対する秘密の監視を確立し,扇動者を逮捕,身元を明らかにし,県,郡の非常委員会(チェカー)へ連行,情報収集のため人の集まる場所,軍の部隊,会議,集会で,政党の現・元党員でソビエト国家の統治に参加していない著名人,疑わしい集団などを監視,そのさい知人,交際,親類,住所,合い言葉,特徴,住居,生活様式などをも明らかにすることを指示
12.12 (極秘) 特別に困難な状況で活動する校閲の完全な正しさについての党中央委決定.ジェルジンスキーの報告にもとづき,ヴェチェカーの違法活動を全面的に承認し,ヴェチェカーは11.8法律の完全な順守の第6回全ロシア・ソビエト大会決定の適用外であることを確認→12.19
12.19 (極秘) 党中央委,党とソビエトの新聞にソビエト機関,とくに特別に困難な状況で活動するヴェチェカーへの悪質な批判記事の掲載禁止を決定
12.23 軍事検閲規程(革命軍事評議会決定).党中央委の指示により,革命軍事評議会に検閲部設置
稲子恒夫『1918年年表』ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化データ全項目
〔1920年〕、監視・検閲・浄化データ
1.17 白衛派文献の国立図書館での保管と利用のため,教育人民委員部への引き渡しの人民委員会議決定.11._ 教育人民委員部政治総局(局長クループスカヤ)設置,その「図書館の浄化」の通達の記すリストにより図書を回収.→23.10.6.◆多数の文献が回収,閲覧禁止になり,あらゆる文献目録から抹消
3._ (極秘) ヴェチェカーと特別部への党の広範な援助について,県党委と陸海軍の政治部への党中央委通達.軍を監視するヴェチェカー特別部への常時情報提供者であることを,コミサールと軍内の党員の義務とする
8.10 (極秘) 革命軍事評議会命令により,住民の意向を知るための郵便検閲がヴェチェカーの職務に.以後カゲベー(国家保安委員会)にいたるまで,国家保安機関が郵便を検閲し,電話を盗聴
稲子恒夫『1920年年表』ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化データ全項目
〔1921年〕、監視・検閲・浄化データ
4.21 (極秘) レーニン,ジェルジンスキーにヴェチェカーによる次の措置の計画作成を指示.(1)社会革命党の絶滅,彼らの監視強化,(2)メンシェヴィキーも同様,(3)共産党の浄化,ぐらついている共産主義者は失せろ,(4)サラートフ.サマーラ両県の浄化,(5)特別任務隊の浄化(19.4.17参照),(6)地方の軍学校生徒の浄化,(7)農村の国家権力機構の浄化.→6.4
8.1 レーニン,ミャスニコーフヘの手紙で,「報道の自由権は,ブルジョアジーとそのもっとも忠実な下僕であるメンシェヴィキーと社会革命党の政治的組織の自由権」と記し,検閲廃止を拒否
8・11 (極秘) ヴェチェカー命令,軍事検閲を軍からヴェチェカーに移管.→10.13
10.13 ヴェチェカー軍事検閲規程(人民委員会議決定).「ロシア連邦共和国の政治,経済,軍事的利益のため,新聞,郵便電信,放送に検閲実施
10.15 国立出版社の活動に対する教育人民委員部の監督権の人民委員会議決定.検閲機関として教育人民委員部に政治部設置
12.14 図書館に閲覧禁止書の「特別書庫(スペツフラーン)」制度実施.23.10.6図書館への党の支配確立.1990年廃止
12.30 10人の作家グループが国立出版社による検閲について,教育人民委員ルナチャールスキーに抗議の手紙.そのうちベルジャーエフらは1922年に国外追放か亡命
稲子恒夫『1921年年表』ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化データ全項目
2.10 (極秘) 党中央委員会組織局決定.ゲペウー政治監督部に検閲諸機関を監督する権限
4.25 (極秘) 現地にゲペウーの機関「協力ビュロー」設置のゲペウー命令.すべての企業,施設,大学に設置.ビュローは三人から構成,その任務は専門知識によるゲペウーへの協力,反ソ的現象の体系的収集,反革命分子の摘発.11.14ゲペウー命令,秘密協力者を外から観察工作員,情報員,通報者に区分
5.19 (極秘) レーニン,ジェルジンスキーへの手紙で,「反革命を助ける作家と教授」の国外追放のため,彼らの著作を読み,批評を書くことを政治局員に提案.→8.17
6.3 (極秘) 知識人の中の反ソ集団について,ゲペウーが政治局へ報告.新経済政策がブルジョア,小ブルジョア勢力の結集の危険を作ったとして,大学,各種団体,官庁主催大会,協同組合,トラスト,商業施設,宗教問題での反ソ知識人の活動,私的出版社の活動を報告
6.6 文献,出版総局(Glavlit,グラヴリート)規程(人民委員会議決定).既存の検閲機関を統合したグラヴリートを教育人民委員部に付置.グラヴリートの任務は,マルクス主義と革命への敵対的攻撃,民族的,宗教的狂信の宣伝,虚偽情報とポルノグラフィーの流布の監督による予防と弾圧.30.10.9教育人民委員部文献出版総局(グラヴリート)に改組.グラヴリートはその後の検閲機関の改組にもかかわらず.検閲機関の略称として使われた.⇒検閲の歴史.216頁
8.10 (極秘) 政治局,ウーンシリフト(ゲペウー副長官)提出の国外追放すべき反ソ知識人のリストを承認
8.10 (極秘) 敵対的知識人の国外追放の全ロシア中執委決定
8.17 モスクワ,ペトログラードなどで知識人(考える人)の逮捕始まる.レーニンの5.19の提案にしたがい,哲学者ベルジャーエフ,プルガーコフ,フラーンク,フロローフスキー,社会学者ソーキン,法哲学者イヴァーン・イリイーン,歴史学者メリグノーフ,評論家イズゴーエフ,大学の学長,学部長,文学研究者,ジャーナリスト医師,農業専門家ら160人を逮捕.9.2船(いわゆる賢者の船)に乗せて国外追放.1974年2月ソルジェニーツィン国外追放の先例.→8.31
8.31 『プラウダ』紙の論説「最初の警告」,文化の分野での反革命分子との決定的闘争の必要を説き,ブルジョア知識人の一定の層がソビエト権力と和解せず,大学,ジャーナリズム,文学,哲学,医学,農学,協同組合が反ソ活動の拠点になっているとし,もっとも積極的なブルジョア・イデオローグ160人の国外追放を伝える.実際の国外追放は9.23.→9.4.◆1922年に,レーニンの強い主張により国外追放された知識人の総数は不明,200人説もあり,このほか同年多数の知識人が亡命
9.4 (極秘) ジェルジンスキーのウーンシュリフトへの指示「全知識人をグループに分ける必要がある.たとえば(1)小説家,(2)評論家と政治家,(3)経済専門家(次のサブ・グループに分ける必要がある.(a)財政専門家,(b)燃料専門家,(c)運輸専門家,(d)商業,(e)協同組合など,など,(4)技術専門家(やはり次のサブ・グループ,(a)技師,(b)農業技師,(c)医師,(d)参謀本部員など),(5)教授,大学教員など,など.われわれ(ゲペウー)のすべての部が情報を集め,これを知識人部に集中させなければならない.知識人一人ひとりの調書を持たなければならない)
稲子恒夫『1922年年表』ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化データ全項目
2、稲子『ロシアの20世紀』〔コラム〕における検閲システム
〔小目次〕
1、プロレタリアート独裁の完成、自由権抑圧のシステム化-1920・21年〔コラム〕
2、検閲の歴史-1922年〔コラム〕
1、プロレタリアート独裁の完成、自由権抑圧のシステム化-1920・21年〔コラム〕
ネップは経済だけの改革であり,政治のネップすなわち政治の民主化の要求は拒否された.21.3.16のロシア共産党第10回大会で労働者反対派,民主的中央集権派は党の民主化を要求をしたが,大会は分派禁止でこれに答えた.
ネップによる食糧割当供出の廃止,商業の自由権はメンシェヴイキーと,社会革命党が主張していたことだから,共産党はこれらの党の影響をなくすため,メンシェヴイキーと,社会革命党を弾圧し,農民が「農民同盟」のような自主的な政治組織を持つことも禁止して,一党制を確立し,信仰,言論,報道,学問の自由権を最終的に否定し,検閲制度を確立した.図書館から共産党批判の本が消え,代表的な知識人が国外に追放された.
強大な政治警察である国家保安機関が,臨時のヴェチェカー(全ロシア非常委員会)から常置の国家保安局(ゲペウー)に昇格した.
政治的自由権が完全に消えたロシア(ソ連)では,政治的な論争と対立は共産党中央委員会政治局というコップの中だけの嵐になり,その中で書記局と組織局という実務機構をにぎるスターリンの権威主義が生まれ,すぐに個人独裁が成立した.
大藪龍介『党内分派禁止と反対政党の撲滅。民主主義の消滅』レーニンの犯罪
『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機、クロンシュタット反乱
『トロツキー「労働の軍隊化」構想と党内論争』企業「軍隊化」での労働者スト激発と弾圧
2、検閲の歴史-1922年〔コラム〕
1917年の二月革命で成立した臨時政府はすぐに検閲を廃止した.17.10.26にレーニンはソビエト政権樹立のとき,「国家は,大衆がすべてを知り,すべてについて判断でき,自覚してすべてのことにあたるとき,力がある」と公言したが,翌10.27にソビエト政権は,報道の自由権を否定する布告を出し,以後主にヴェチェカー(全ロシア反革命投機職務犯罪取締非常委員会)が検閲をし,新聞などの発行を禁止した.私企業の禁止にともない出版社は国立出版社一つだけになったから,本の検閲は問題にならなかった.
1921年の新経済政策の開始にともない報道の自由権が問題になったが,8.1にレーニンは「報道の自由権は,ブルジョアジーとそのもっとも忠実な下僕メンシェヴイキーと社会革命党の政治組織の自由権」であるとして,検閲の廃止に反対した.
十月革命後は出版事業が崩壊し,国立出版社が出版を独占し,ヴェチェカーが違法な出版を取り締まっていた.21.12.12の布告は私営出版社を認めたが,国立出版社に私営出版社の設立許可,検閲,無許可出版物の没収の権限をあたえた.
1922年にさまざまな国立,協同組合立,私営の出版社が現れたので,22.6.6の政府決定は事前検閲を専門とする文献・出版総局(Glavlit,グラヴリート)を教育人民委員部に設置することを決め,1923~34年に劇場などでの劇,オペラなどの台本も検閲する機関も設置した.以後私営出版社がなくなってからも,検閲機関は次のように何回も改組され,名称は変わったが,正式の略称としてグラヴリートが使われた.
1922~46年 ロシア連邦共和国教育人民委員部文献・出版総局(グラヴリート)
1923~28年 ロシア連邦共和国教育人民委員部グラヴリート付置上演監督本部(グラヴレベルトコーム)
1928~34年 ロシア連邦共和国教育人民委員部文学芸術総局(グラヴィスクーストヴォ)
1933~46年 ソ連人民委員会議出版国家秘密保護全権代表
1935~46年 ソ連人民委員会議(大臣会議)付置芸術委員会付置上演監督本部(グラヴレベルトコーム)
1946~53年 ソ連大臣会議出版国家秘密保護全権代表
1953年 ソ連内務省出版軍事国家秘密保護全権代表
1953~63年 ソ連大臣会議付置軍事国家秘密保護総局
1963~66年 ソ連大臣会議付置出版国家委員会軍事国家秘密保護総局
1966~90年 ソ連大臣会議付置国家秘密保護総局
1990~91年 ソ連大臣会議付置出版・マスメディア秘密保護総局(ゲウオテー)
事前検閲は私営出版社がなくなってからも,あらゆる印刷物に対し行われ,バスの切符や劇場のプログラムまで検閲された.ただし『プラウダ』や『イズヴェスティヤ』などは,党中央委員会の政策にしたがい編集され,党の宣伝機関の役目をしたから,検閲から外されていた.党の出版物はその時期の党の方針にしたがい編集されたから,版が変わると内容がちがった.
グラヴリートはヴェチェカー以来,国家保安機関と緊密な関係にあった.これらは事実上党の機関であり,党中央委員会,その部にたえず報告をし,指示をあおいでいた.したがって検閲の最高機関は党中央委員会であり,その政治局であり,最高の検閲官はレーニン,トローツキー,スターリンなどだった.
1926年のグラヴリート通達は,「ソ連には検閲(tsenzura)は存在しない」と宣言し,グラヴリートの地方機関は,監督(kontrol)機関であることを考慮するよう命令した.以後検閲(tsenzura)は公的には死語となった.
3、国内外情報閉鎖国家=鉄のカーテン国家を完成させたレーニン
〔小目次〕
2、国内外情報閉鎖国家=鉄のカーテン国家は、誰が、いつまでに完成させたか
1、レーニンが指令し、完成させた監視・検閲・浄化システム
以下、稲子年表から、レーニンが指令し、完成させた〔2、監視システム〕、〔3、検閲システム〕、〔4、浄化システム〕だけを分類・抽出して載せる。なぜ、上記年表と重複をする部分もあるのに、再度載せるのか。なぜなら、これらのシステムは、スターリンからでなく、レーニンこそが、クーデターの最初から追求した真相を証明する極秘資料だからである。レーニン・トロツキー・ジェルジンスキー型「社会主義」とは、一体何だったのかを、白日の下にさらけ出すデータだからである。
〔1、監視・検閲・浄化の対象〕
この対象は、ソ連国民全員である。ブルジョア・元貴族・白衛軍だけではない。とりわけ、ボリシェヴィキ不支持者・政党と党員を対象とした。そして、ロシア革命・ソヴィエト勢力でありながら、レーニン・トロツキーらの誤った路線・政策やソヴィエト権力簒奪方針にたいし、ソ連全土で抵抗・反乱する(1)ストライキ労働者・(2)土地革命80%・9000万の反乱農民・(3)クロンシュタット水兵や不穏な動向を示す兵士ら全員を、監視・検閲・浄化の対象にした。
〔2、監視システムをあらゆる分野・階層で確立〕
1918.6.8~12 (極秘) 全ロシア・チェカー会議.6.12全ロシア・チェカー会議のボリシェヴィキー・フラクション会議が,「(1)秘密協力者を組織する.‥…(3)将官と士官を尾行し,赤軍,指揮官,クラブ,サークル,学校などを監視する.
1918.12.4 (極秘) ヴェチェカー(全ロシア非常委員会)幹部会命令,ただちに大きな村と郷に対する秘密の監視を確立し,扇動者を逮捕,身元を明らかにし,県,郡の非常委員会(チェカー)へ連行,情報収集のため人の集まる場所,軍の部隊,会議,集会で,政党の現・元党員でソビエト国家の統治に参加していない著名人,疑わしい集団などを監視,そのさい知人,交際,親類,住所,合い言葉,特徴,住居,生活様式などをも明らかにすることを指示
1920.3._ (極秘) ヴェチェカーと特別部への党の広範な援助について,県党委と陸海軍の政治部への党中央委通達.軍を監視するヴェチェカー特別部への常時情報提供者であることを,コミサールと軍内の党員の義務とする
1921.4.21 (極秘) レーニン,ジェルジンスキーにヴェチェカーによる次の措置の計画作成を指示.(1)社会革命党の絶滅,彼らの監視強化,(2)メンシェヴィキーも同様,
1922.4.25 (極秘) 現地にゲペウーの機関「協力ビュロー」設置のゲペウー命令.すべての企業,施設,大学に設置.ビュローは三人から構成,その任務は専門知識によるゲペウーへの協力,反ソ的現象の体系的収集,反革命分子の摘発.11.14ゲペウー命令,秘密協力者を外から観察工作員,情報員,通報者に区分
〔3、検閲システムの構築と検閲国家完成〕
1918.12.12 (極秘) 特別に困難な状況で活動する校閲の完全な正しさについての党中央委決定.
1918.12.1212.23 軍事検閲規程(革命軍事評議会決定).党中央委の指示により,革命軍事評議会に検閲部設置
1920.8.10 (極秘) 革命軍事評議会命令により,住民の意向を知るための郵便検閲がヴェチェカーの職務に.以後カゲベー(国家保安委員会)にいたるまで,国家保安機関が郵便を検閲し,電話を盗聴
1921.8.1 レーニン,ミャスニコーフヘの手紙で,「報道の自由権は,ブルジョアジーとそのもっとも忠実な下僕であるメンシェヴィキーと社会革命党の政治的組織の自由権」と記し,検閲廃止を拒否
1921.8・11 (極秘) ヴェチェカー命令,軍事検閲を軍からヴェチェカーに移管.→10.13
1921.10.13 ヴェチェカー軍事検閲規程(人民委員会議決定).「ロシア連邦共和国の政治,経済,軍事的利益のため,新聞,郵便電信,放送に検閲実施
1921.10.15 国立出版社の活動に対する教育人民委員部の監督権の人民委員会議決定.検閲機関として教育人民委員部に政治部設置
1921.12.14 図書館に閲覧禁止書の「特別書庫(スペツフラーン)」制度実施.23.10.6図書館への党の支配確立.1990年廃止
1921.12.30 10人の作家グループが国立出版社による検閲について,教育人民委員ルナチャールスキーに抗議の手紙.そのうちベルジャーエフらは1922年に国外追放か亡命
1922.2.10 (極秘) 党中央委員会組織局決定.ゲペウー政治監督部に検閲諸機関を監督する権限
1922.6.6 文献,出版総局(Glavlit,グラヴリート)規程(人民委員会議決定).既存の検閲機関を統合したグラヴリートを教育人民委員部に付置.グラヴリートの任務は,マルクス主義と革命への敵対的攻撃,民族的,宗教的狂信の宣伝,虚偽情報とポルノグラフィーの流布の監督による予防と弾圧.30.10.9教育人民委員部文献出版総局(グラヴリート)に改組.グラヴリートはその後の検閲機関の改組にもかかわらず.検閲機関の略称として使われた.⇒検閲の歴史.216頁
〔4、浄化・排除・国外追放システムの追求・完成〕
1920.1.17 白衛派文献の国立図書館での保管と利用のため,教育人民委員部への引き渡しの人民委員会議決定.11._ 教育人民委員部政治総局(局長クループスカヤ)設置,その「図書館の浄化」の通達の記すリストにより図書を回収.→23.10.6.◆多数の文献が回収,閲覧禁止になり,あらゆる文献目録から抹消
1921.4.21 (極秘) レーニン,ジェルジンスキーにヴェチェカーによる次の措置の計画作成を指示.(3)共産党の浄化,ぐらついている共産主義者は失せろ,(4)サラートフ.サマーラ両県の浄化,(5)特別任務隊の浄化(19.4.17参照),(6)地方の軍学校生徒の浄化,(7)農村の国家権力機構の浄化.→6.4
1922.5.19 (極秘) レーニン,ジェルジンスキーへの手紙で,「反革命を助ける作家と教授」の国外追放のため,彼らの著作を読み,批評を書くことを政治局員に提案.→8.17
1922.6.3 (極秘) 知識人の中の反ソ集団について,ゲペウーが政治局へ報告.新経済政策がブルジョア,小ブルジョア勢力の結集の危険を作ったとして,大学,各種団体,官庁主催大会,協同組合,トラスト,商業施設,宗教問題での反ソ知識人の活動,私的出版社の活動を報告
なお、知識人の逮捕・国外追放作戦において、別ファイルのように、レーニンは1922年6月以降、何度も「浄化」用語を使っている。その判明数も、別ファイルの(表2)として載せた。
『知識人の逮捕・国外強制追放=「浄化」文言』1922年6月~年末
2、国内外情報閉鎖国家=鉄のカーテン国家は、誰が、いつまでに完成させたか
レーニン・ジェルジンスキーが、これらの監視・検閲・浄化システムによってしたことは、ソ連国内における完璧なまでの情報閉鎖国家の完成だった。当然ながら、それは同時に、国外にたいする情報閉鎖国家ともなった。国内外情報閉鎖国家とは、鉄のカーテン国家と同義語である。
鉄のカーテンとは、冷戦時代の1946年、チャーチルが、スターリン・ソ連にたいし、演説の中で言ったたとえとして知られている。ソ連国内情報が国外にまるで漏れ出してこない状況を、鉄のカーテンによって阻止されているというたとえが、正確に言い当てているととして世界に流布した。それによって、国内外情報閉鎖国家は、スターリンが、レーニン死後に、完成させたと信じられてきた。
Wikipedia『鉄のカーテン』1946年チャーチル演説
しかし、稲子極秘資料・コラムは、鉄のカーテン国家を完成させたのは、スターリンよりもはるかに遡って、レーニン・ジェルジンスキーこそが、10月クーデターの最初から、目的意識的に追求したという歴史的真実を暴露・論証した。このように完璧なまでの国内外情報閉鎖国家を構築したレーニンの目的は何だったのか。彼がそれを追求した意図には、社会主義的要素が含まれていたと言えるのか。
レーニンとは、はたして、真の意味での、または、通常の理念に基づく社会主義者だったのか。それとも、国内外を騙した一党独裁党治国家・クーデター政権指導者=フランス革命継承者・マルクス継承者を騙った自称社会主義者=反民主主義者だったのではないかという根源的な疑惑が浮上する。というのも、上記極秘資料にあるのような監視・検閲・浄化システム追求・完成は、通常の民主主義政治家がなしうるレベルとあまりにもかけ離れた反民主主義犯罪の本質を持つからである。
哲学者ベルジャーエフは、「反ソヴィエト」知識人レッテル貼りによって、1922年国外追放された。彼は、レーニンがしたことをソ連国内で最初から直接体験した。そこから、彼は、レーニンを「権力目的だけのための権力者」と規定した。彼によるレーニンの人間性診断は、1917年単独権力奪取クーデターにおいて、かつ、1921年クーデター政権崩壊危機においても、(1)レーニンが遂行した行為の根底には、社会主義目的などなく、(2)単独権力奪取と、(3)そのクーデター権力維持・強化のみを目的とした人間だったという意味である。
ザミャーチンは、レーニンと同時代をソ連国内で、ゴーリキーとともに、ソ連文学の中心的なボリシェヴィキ作家として活躍した。彼は、これら監視・検閲・浄化実態を直接体験した。そして、1921年、世界最初のレーニン批判SF小説『われら』を執筆した。それを読むと、この社会状況が、きわめてリアルに描かれている。別ファイルの3DCG画像12枚のような具体的なイメージが湧いてくる。ただし、SF小説の形を採っているので、誇張や抽象作法をいろいろ使っている。その形式を採らなければ、彼は直ちに銃殺されていたであろう。もちろん、逮捕され、ゴーリキーらの支援によって、釈放されたが、以後、一切の言論出版活動を禁止された。
ザミャーチン『「われら」のストーリー』3DCG画像12枚
4、レーニンの民主主義・自由権概念と、実践結果の反動性・犯罪性
これについては、多面的で膨大な分析・研究が要る。このファイルでは、6人の研究論文・インタビューのリンクによる紹介にとどめる。なお、レーニンが宣伝したプロレタリアート独裁国家成立は真っ赤なウソであり、その実態は党独裁国家だったことが、ソ連崩壊後、ほぼ完璧なまでに証明されている。
しかも、レーニンによる党独裁とは、国家と法の上にソ連共産党がある党治国家だった。その実態は、法治国家の反対物としての、あらゆる民主主義的権利・自由権を剥奪した反民主主義国家だった真相も明白になった。よって、以下の研究論文6つは、プロレタリアート独裁理論・実態の分析が多い。
6人それぞれの研究テーマや分析角度は異なる。しかし、レーニンの民主主義・自由権概念と、実践結果の反動性・犯罪性については、以下のように多方面から考察していく必要がある。ただ、リンクのやり方は、全文のケースと、一部抜粋ケースとがある。
〔小目次〕
1、稲子恒夫『ロシアの20世紀』リンクより一部抜粋を数箇所
2、加藤哲郎『20世紀社会主義とは何であったか』リンクより抜粋
3、中野徹三『社会主義像の転回』リンクより抜粋
4、大藪龍介『国家と民主主義』リンク全文
5、梶川伸一『レーニン体制の評価について』リンク全文
6、アファナーシェフ『ソ連型社会主義への再検討』リンクより抜粋
1、稲子恒夫『ロシアの20世紀』リンクより一部抜粋を数箇所
このテーマに関する箇所だけを、あとがき、および、各年度コラムから数箇所抜粋リンクをする。
1917年コラム『国家保安機関の復活』
1918、19年コラム『プロレタリアート独裁と法、テロ。社会主義と個人』
1920、21年コラム『プロレタリアート独裁の完成、自由権抑圧のシステム化』
1922年コラム『レーニンと刑法典第58条の起源、公法学の不在』
2、加藤哲郎『20世紀社会主義とは何であったか』リンクより抜粋
2つのリンクは、全文だが、『20世紀社会主義とは何であったか』の「2、短い20世紀に現存した社会主義の意味」から、文章のごく一部だけを転載する。私の判断で、(番号)を付けた。
20世紀に有力になったのは、そのなかで、(1)マルクス、エンゲルスの正統的継承をうたい「社会主義革命」を成功させたボリシェヴィキ派であり――当然ロシアにもさまざまな社会主義思想があったのですが――、その体制・国家でした。それは、平等主義や財産共有の思想を19世紀から継承していましたが、同時に、(2)自由権や民主主義の概念を階級還元主義的に分割し、(3)「社会」を経済に還元し、そうして、(4)集権的国有化・計画経済に「社会主義」を矮小化してしまいました。
加藤哲郎が規定する「(2)自由権や民主主義の概念を階級還元主義的に分割」について、私は次のように理解している。そもそも、自由権や民主主義の概念は、階級概念でなく、人類が戦い取ってきた歴史的遺産であり、階級・制度を超えた普遍的価値を持つ。それを、レーニンは、ブルジョア的自由権・ブルジョア民主主義と、プロレタリア的自由権・プロレタリア民主主義という階級概念に矮小化し、還元する恣意的な誤りを犯した。そして、それら2つを敵対的なものとして分割した。その極限的概念が、犯罪的なプロレタリアート独裁理論と実践だった。
3、中野徹三『社会主義像の転回』リンクより抜粋
リンクは全文だが、抜粋した〔目次〕のみを書く。
3、ロシア革命――「民主主義的な道」はありえたか?(一部引用)
4、憲法制定議会とその解散(全文)
(1)、二月革命から一○月までのレーニンと制憲議会 (2)、一〇月革命後のレーニンと制憲議会
5、制憲議会解散の論理とロシア革命の運命(全文)
中野徹三『社会主義像の転回』制憲議会解散、一〇月革命は悲劇的なクーデター
4、大藪龍介『国家と民主主義』リンク全文
全文なので、〔目次〕のみを書く。
第二篇2章五、個人独裁、党独裁の容認-レーニンのプロレタリアート独裁論
第三篇4章 ソヴェト民主主義建設の諸問題
一、ソヴェト民主主義の性格-「出版にかんする布告」=出版の自由権剥奪問題部分抜粋
三、ネップ導入と政治の逆改革
1、1921年の転換 2、クロンシュタット反乱 3、党内分派禁止と反対政党の撲滅 4、民主主義の消滅
大藪龍介『国家と民主主義』プロレタリアート独裁、ソヴィエト民主主義
5、梶川伸一『レーニン体制の評価について』リンク全文
全文なので、〔目次〕のみを書く。梶川伸一の他5ファイルもリンクしてある。ちなみに、彼は、(1)レーニン宣伝のプロレタリアート独裁国家成立のウソと同じく、(2)労農同盟国家成立も、事実に反するウソ・詭弁であることを、ソ連崩壊後に発掘・公表された膨大な極秘資料・アルヒーフ(公文書)を解析し、著書5冊で論証した。その農民問題研究は、国際的にもきわめて貴重なレベルにある。著書5冊の抜粋・転載が、他5ファイルである。
1、教会財産没収政策 2、秘匿された大飢饉 3、ボリシェヴィキ権力の飢饉への対応 4、ウクライナの悲劇 5、秘密裡の宗教弾圧
梶川伸一『レーニン体制の評価について』21年-22年飢饉から見えるもの
6、アファナーシェフ『ソ連型社会主義への再検討』リンクより抜粋
これは、インタビュー記事だが、そこからこのテーマに関する部分を抜粋リンクした。
アファナーシェフ『一党独裁とプロレタリアート独裁、前衛党とレーニン的民主主義』
5、民主主義以前の異質な党独裁・党治国家を理想とする社会主義国家イメージ
上記データ・極秘資料などレーニンがしたことから、彼が理想とし、イメージした社会主義国家とは、どのようなものだったのかが浮かび上がってくる。それには、まず、レーニンに関する2つのデータの隔絶ぶりを確認する必要がある。(1)公表・宣伝されてきたレーニン文献『レーニン全集』第5版、レーニンの伝記無数と、(2)75年間隠蔽され、ソ連崩壊後に初めて発掘・公表された「レーニン秘密資料」6000点内容との違い・隔絶である。
(1)(2)いずれも、単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターによって、最高権力者になったレーニンが、5年2カ月間にわたって、書いたことであり、かつ、したことが収められている。「レーニン秘密資料」はソ連崩壊時点に初めて発見された。それは、20世紀政治史上最大規模の秘密文書発掘・公表となった。というのも、その存在すら知られていなかった「レーニン秘密資料」規模・内容によって、それまでのソ連評価・レーニン評価・トロツキー評価などが180度逆転したからである。
ヴォルコゴーノフの証言『レーニンの秘密・上』(NHK出版、1995年、原著1994年、P.7)によれば、モスクワ中心部の元中央委員会ビル内に、レーニン関連文書保管所がある。そして、核シェルターを思わせる地下室の奥にある特製の棚に並べられた特殊な金属製の収納箱の中に、レーニンについてのありとあらゆる記録が入っていた。そこには、未公開の資料が全部で3724点あった。そのほかに、彼の署名があるだけのものが3000点近くあった。
ヴォルコゴーノフは、陸軍大将の軍籍を持ち、軍事史研究所所長だった。1991年クーデター未遂事件後、エリツィン政権下で、党と国家の文書保管所の管理と機密扱い解除を担当することになり、ロシア共和国最高会議歴史文書委員長も務めた。その地位から、レーニン関連極秘文書保管所へ最初に閲覧を許され、自由に出入りできた最初の研究者だった。その公表・研究の一端が、この著書である。その一部は、HPに転載してある。
ヴォルコゴーノフ『テロルという名のギロチン』『レーニンの秘密・上』
極秘資料は、合わせて6724点近くになる。私は、これを「レーニン秘密資料」約6000点としてきた。その内容として、クーデター以前の資料もある。権力奪取クーデター後、(1)公開許可文献と、(2)〔極秘〕マークを付け、非公開・隠蔽への分別を指令したのは誰か。
『レーニン全集』は、彼の死後、スターリンが編纂した。その時点、または、第5版までの期間、スターリンが『レーニン全集』掲載許可と非公開・隠蔽を分別した文書もある。しかし、大部分は、クーデター政権最高権力者レーニン自身が、(1)公表許可か、(2)〔極秘〕マーク隠蔽→レーニン関連文書保管所行き=永久非公開を指令していたと思われる。
レーニンの本心はどちらにあるのか。なぜ、彼は、6724点近くをも、〔極秘〕マークを付け、非公開・隠蔽を指令したのか。ソ連が崩壊しなければ、これらは、永久非公開・隠蔽のままだった。レーニン関連文書保管所とその6724点近くこそ、レーニンが創設した情報閉鎖国家=鉄のカーテン国家の象徴的な場所であり、真実を封印した秘密文書だった。
レーニンが理想とし、クーデター後、一貫して追求し、完成させた、しかし、秘密裏に封印してきた社会主義国家像は、〔極秘〕マークの極秘資料が、暴露した。その社会主義国家・レーニン像は、ザミャーチンが描いた『われら』の国家像・恩人像とほとんどが重なる。
レーニンが理想とした社会主義国家とは、あらゆる民主主義・自由権廃絶・抑圧路線に基づく、民主主義以前の、異質な社会主義国家=一党独裁・党治国家だった。彼は、民主主義的権利・自由権の全面剥奪・抑圧、他党派殲滅路線による党治国家こそ、真の社会主義だと信じた。ドストエフスキーは、1980年、『カラマーゾフの兄弟』における「大審問官」において、レーニン型の犯罪国家と最高権力者像を描いた。〔極秘〕マークの極秘資料が描くレーニンの現実像と、ドストエフスキー「大審問官」像、ザミャーチン「恩人」像の類似をどう考えたらいいのか。
『ドストエフスキーと革命思想殺人事件の探求』3DCG6枚 『電子書籍版』
『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』3DCG12枚 『電子書籍版』
現存した社会主義国家とは、レーニンが理想とした、レーニン型の異質な「社会主義国家」だった。それは、通常の社会主義国家理念とはかけ離れた国家だった。その実態は、別ファイルで検証したように、ボリシェヴィキ不支持者・政党を排除・浄化しつくした一党独裁・党治国家だった。それは、あらゆる民主主義的権利・自由権を剥奪・破壊し、民主主義国家以前に逆行させたレーニン型犯罪国家だった。
さらには、レーニン・トロツキーの根本的に誤った路線・政策に反対・抵抗したロシア革命・ソヴィエト勢力=労働者・農民・兵士・知識人にたいし、ウソの「反革命・反ソヴィエト」レッテルを貼り付け、その数十万人を殺害した赤色テロル型・ジェルジンスキー型大量殺人犯罪国家だった。その詳細なデータは、別ファイル10部で検証した。
『レーニンによるソヴィエト権力簒奪7連続クーデター』10部作
6、レーニンが5年2カ月間でしたこと=民主主義・自由権廃絶の反革命クーデター
〔小目次〕
1、レーニン・トロツキー評価の180度逆転、中国・中国共産党評価の転換
2、レーニンがしたこと=民主主義的権利・自由権廃絶・抑圧の根本的な後退
1、レーニン・トロツキー評価の180度逆転、中国・中国共産党評価の転換
ソ連崩壊後、膨大な極秘資料の発掘・公表によって、レーニン・トロツキー評価が180度逆転した。しかし、それを受け入れたくない左翼が、東方の島国においてのみ、かなりの比率で残存している。ましてや、私のように、彼らがしたこと=反革命クーデターだったと結論づけるHP論考などは、それこそ反革命見解として敵視する左翼も多いと思われる。
ただ、レーニン・トロツキーが、1917年10月にしたこと=革命ではなく、(1)臨時政府権力と(2)ソヴィエト権力という二重権力双方にたいする(3)単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターだったという真相までは、かなり受け入れられてきた。なぜなら、ソ連崩壊後、世界・日本において、クーデター説を否定し、あくまで、革命だったと主張する研究者はほぼ死滅してしまったからである。
政党指導者では、資本主義世界で、不破哲三だけが、レーニン賛美・中国共産党賛美を、日本共産党出版物10数冊の垂れ流しをしつつ、歌っているだけである。さらに、中国とは、はたして、社会主義革命国家と言えるのか、それとも、その実態に照らして、中国共産党による一党独裁型資本主義国家ではないのかという疑惑が生まれている。
北京オリンピック前後を契機に、チベット問題・新疆ウイグル問題や経済問題など、中国の諸矛盾が噴出してきた。中国の現状をどう認識し、規定するのか。2008年12月、中国知識人303人が『08憲章』を発表した。彼らは、中国共産党の一党独裁終結を要求している。今後の動向、国民の反応がどうなるか。
思いつくまま『08憲章-中華連邦共和国憲法要綱』一党独裁終結要求
中国 08憲章のニュース検索結果→web全体の検索293万件
12月17日賛同者は中国内外で5千人以上 赤旗は黙殺→赤旗
一党独裁・党治国家中国を賛美する日本共産党→→『不破哲三』 ファイル多数
加藤哲郎は、HPファイルにおいて、「社会主義」中国とは、中国型資本主義ではないのかとし、次のような踏み込んだ、冷徹な認識を提示した。その一部を引用する。
今日の中国(中華人民共和国、PRC)を「社会主義」と呼ぶとき、そこでの「社会主義」には、共産党一党独裁以上の意味は、含まれていない。含めようがない。かつての「社会主義」で含意された、生産手段の私的所有の廃絶も、資本主義・市場経済への協働主義的対抗も、医療や教育が誰にでも供給される平等主義と福祉も、もちろん労働者階級が職場の主人公として現場を自主管理することも、とっくになくなっている。いや、もともと日本帝国主義に対する抵抗戦争に発した中国革命の所産に、「民族自決・独立」と「飢餓からの解放」「奴隷的貧しさの平等」以上のものが本当にあったかどうかも、歴史的に再検証されなければならない。
こんな民主主義以前の国家体制=「党治国家」を、「社会主義をめざす市場経済」とか「計画経済と市場経済の結合」などと評価する脳天気な日本の「科学的社会主義」指導者の老醜には、憐れみを覚えるのみである。
加藤哲郎『「社会主義」中国という隣人』
2、レーニンが5年2カ月間でしたこと=民主主義的権利・自由権廃絶・抑圧の根本的な後退
〔小目次〕
〔根本的な後退1〕、言論出版・思想学問・宗教の自由権廃絶、検閲国家完成
〔根本的な後退2〕、ソヴィエト内民主主義的権利・選挙の自由権剥奪
〔根本的な後退3〕、労働者と農民との階級間民主主義廃絶・対立扇動
〔根本的な後退4〕、政党間民主主義・自由権廃絶、他党派殲滅→党独裁・党治国家
〔根本的な後退5〕、党内民主主義抑圧・自由権廃絶の党内クーデター
〔根本的な後退6〕、生存権抑圧=大量殺人・強制収容所・国外追放による浄化国家
ソ連崩壊後、レーニンに関する膨大な極秘資料・さまざまなアルヒーフ(公文書)が発掘・公表され、それらに基づく研究論文も多数出版された。それらは、レーニン・トロツキーらが10月にしたことが、(1)社会主義革命でなく、(2)二重権力の双方にたいするボリシェヴィキ単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターだった真相を暴露・証明した。
レーニンは、憲法制定議会選挙で24%政党と敗北したので、詭弁と暴力を使い、議会1日目で武力解散をさせた。これは、稲子恒夫が規定したように、レーニンの第2次クーデターである。以後、ソ連は、全国民参加の普通選挙を一度もしなかった。ソヴィエト選挙をしたが、それも、クーデター後、ボリシェヴィキが敗北した場合、チェーカーの暴力で、他党派を追い出し、ボリシェヴィキ占拠の機関に変質させた。よって、10月クーデター政権は、社会主義政権に変わることがなく、75年間、チェーカー→KGBの暴力を基軸とするクーデター権力のままだった。
そこから、クーデター政権最高権力者レーニンが、5年2カ月間でしたこと全体を、どう規定できるのか。それは、民主主義的権利・自由権廃絶・抑圧の根本的な後退だった。それは、あらゆる民主主義的権利・自由権・生存権を廃絶・抑圧する犯罪を伴った。それらを6つの権利廃絶犯罪として確認する。
それでは、廃絶・後退をさせたクーデターの性格規定をする必要がある。レーニンがしたことを、単にクーデターと規定するだけでは不十分となる。レーニンの最高権力者5年2カ月間全体を検証すれば、それは「反革命」クーデターと規定できる。ただし、それぞれが長くなるので、主に、別ファイルのリンクによる説明にする。
ただ、レーニンの「反革命」と言うと、読む前から、拒絶反応を起こし、反動的見解と見向きもしない左翼が多数だと思われる。レーニンがしたことを根本的な後退と規定する場合、どの時期、どのレベルからの後退=「反革命」なのかを考慮する必要がある。比較する時期・レベルは3つある。
(1)、ツアーリ帝政時期との比較、(2)1917年二月革命以降の二重権力時期との比較、(3)ヨーロッパの他資本主義諸国のレベルとの比較である。下記〔後退1、6〕の実態は、ツアーリ帝政時期・レベルと比べても、根本的な後退をしている。そして、〔後退1~6〕の実態すべては、二重権力時期・レベルと比べても、ヨーロッパの他資本主義諸国の同一時期・レベルにたいしも、根本的な後退をしている。それら3つの時期・レベルとの比較から見ても、レーニンが5年2カ月間でしたことは、民主主義的権利・自由権・生存権廃絶という根本的な後退をさせた反革命クーデターだったと規定できる。
レーニン・トロツキーが1917年10月にしたことは、二重権力双方にたいするクーデターだったという歴史認識は、ソ連崩壊後、世界・日本の研究者ほとんどの常識になっている。しかし、レーニンが5年2カ月間でしたこと全体の性格規定として、それは、ロシア革命・ソヴィエト勢力である労働者・農民・兵士の諸権利を廃絶させ、根本的な後退をさせた反革命クーデターだったと規定する研究者はまだいない。稲子恒夫、ニコラ・ヴェルト、クルトワ、ダンコースらの研究レベルは、その規定を推定させるが、そこまでは明言していない。歴史研究者として、5年2カ月間の誤った路線・政策を検証するだけで、その性格規定をする必要がないのだろうか。時系列的な歴史記述だけでいいのか。
〔根本的な後退1〕、言論出版・思想学問・宗教の自由権廃絶、検閲国家完成
レーニンは、10月クーデター直後、ブルジョア新聞すべてを閉鎖させた。1918年5月、食糧独裁令への批判・反対が高まり、ソヴィエト選挙において、ボリシェヴィキが敗北すると、他党派機関紙もすべて、チェーカーの暴力で閉鎖させた。他党派・無党派出版社も事実上閉鎖させ、ボリシェヴィキ系出版社だけにした。
1918年1月の憲法制定議会選挙において、24%議席で敗北するや、詭弁を使って、第1日目で武力解散させ、自由権主義政党カデットの言論出版の自由権を全面剥奪した。ロシア正教を、マルクス規定に基づき麻薬視した。1922年、食糧独裁令の軍事割当徴発を原因の一つとする3000万人飢餓・500万人飢死を利用し、教会財産没収と聖職者・信徒各数万人を銃殺した。教会破壊も合わせ、宗教・信教の自由権を大量殺人手段で奪った。スターリン時代を含めると、レーニン型社会主義国家は、聖職者・信徒約70万人を銃殺・殺害した。
1922年後半、ボリシェヴィキ批判・不支持の知識人を敵視し、「反ソヴィエト」レッテルを貼り付け、レーニン自身が先頭になって、国外追放知識人のリストアップをし、追放とともに、辺地流刑を大々的に遂行した。その過程で、検閲システムを構築し、批判・異論者の排除を「浄化」と名付け、検閲国家=鉄のカーテン国家を創り上げた。
これらは、一体、社会主義革命国家がすることなのか、それとも、反革命クーデター国家の仕業なのか。
1918年1月、議会1日目での解散作戦と内戦第1原因形成
『「反ソヴェト」知識人の大量追放「作戦」とレーニンの党派性』
『聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革命倫理』レーニン・スターリンで約70万人殺害
稲子恒夫『検閲の歴史』
〔根本的な後退2〕、ソヴィエト内民主主義的権利・選挙の自由権剥奪
ソヴィエトとは、二月革命以来の自然発生的な独創的組織で、あらゆる党派が参加していた。それは、ペトログラード・ソヴィエトや、クロンシュタット・ソヴィエトの経緯が証明している。レーニン・トロツキーは、10月クーデター時点で、早くも、ロシア・ソヴィエト大会の代議員すり替え操作を、クーデター6作戦の一つとして行った。
犯罪的で、根本的に誤った食糧独裁令への批判・抵抗・反乱が始まるや、ボリシェヴィキは、ほとんどのソヴィエト選挙で、エスエル・左翼エスエル・メンシェヴィキに敗北し始めた。レーニンは、ジェルジンスキーに指令し、敗北ソヴィエトの他党派議員の全員を逮捕させた。そして、選挙をやり直し、ボリシェヴィキだけが占拠するソヴィエトをでっち上げた。その捏造選挙を、敗北した都市・農村でくまなく遂行した。
1921年3月、クロンシュタット事件の第1要求・スローガンは、自由なソヴィエト選挙だった。レーニン・ジェルジンスキーは、全国のソヴィエトを、レーニン型一党独裁・党治国家における、ボリシェヴィキの、ボリシェヴィキによる、ボリシェヴィキのための行政機関に変質させた。そのソヴィエト権力簒奪に至る期間は、10月クーデター後、わずか3年4カ月間だった。
レーニンは、自然発生的なソヴィエトを、権力奪取クーデターの道具と目をつけ、利用した。そして、労働組合の国家機関化とともに、ソヴィエトの国家機関化を謀った。その過程で、ソヴィエト権力簒奪7連続クーデターによって、国家と法の上に前衛党が君臨する党治国家を完成させた。ソヴィエトは、レーニンの反革命クーデターを覆い隠すイチジクの葉として、75年間使われ続け、国民と世界の左翼を欺いた。
1918年6月、すべてのソヴィエトをボリシェヴィキ独裁機関に変質化
『革命水兵の平和的要請鎮圧・第6次クーデター』自由なソヴィエト選挙要求
1921年3月、クロンシュタット水兵・労働者14000人の皆殺し
〔根本的な後退3〕、労働者と農民との階級間民主主義廃絶・対立扇動
マルクスは、プロレタリアートの役割を過大評価し、プロレタリアート独裁を唱えた。レーニンのその一面的な階級闘争理論をさらに過激に歪曲した。ところが、10月クーデター時点、ロシアに労働者は約2~3%・300万人しかいなかった。農民は80%・9000万人だった。
レーニンは、クーデター後、プロレタリア民主主義とほとんど言わなくなり、もっぱら、プロレタリアート独裁だけを唱え、それを試金石の位置まで高めた。ところが、彼のプロレタリアート独裁国家成立は、真っ赤なウソで、その実態は党独裁だった真相がソ連崩壊後に完全証明された。
彼は、労農同盟国家成立も大宣伝した。これも、ソ連全土における食糧独裁令・軍事割当徴発反対の80%・9000万農民反乱データが、ソ連崩壊後に発掘・公表されたことによって、レーニンの真っ赤なウソだったことが判明した。労農同盟どころか、レーニン・トロツキーらは、農民を小ブルジョアとして軽蔑・敵視し、飢餓の責任を農民とその余剰穀物に転嫁した。そして、労働者による農村への食糧徴発隊を組織・派遣し、労働者と農民との対立を煽った。
さらには、土地革命を通じ、共同体内で平等な土地分配をしている農民を、富農(クラーク)・中農・貧農という3分類に恣意的にでっち上げ、農民内の対立も扇動した。食糧独裁令は、ロイ・メドヴェージェフが規定するように、憲法制定議会武力解散と並んで、内戦の主要2原因となった。レーニン・スターリンは、真の内戦2原因を隠蔽し、白衛軍・外国干渉軍との内戦だけを誇大に位置づけ、宣伝し、ソ連史の根本的な捏造歪曲を謀った。
レーニンらによる農民蔑視・敵視と、農民・農村への内戦を始めた意図は、食糧独裁令発令前の会議発言で明白である。これほどの犯罪的発言は、ソ連が崩壊しなければ、発掘・公表されなかった。
『革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』会議発言(表2)
1918年5月、9000万農民への内戦開始・内戦第2原因形成
『マフノ運動と農民反乱-1918~21年』ファイル多数
梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1917、18年貧農委員会
『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』レーニンの「労農同盟」論を否定
『幻想の革命』十月革命からネップへ これまでのネップ「神話」を解体する
『レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか』十月革命は軍事クーデター
『十月革命の問題点』2006年4月16日講演会レジュメ全文
『レーニン体制の評価について』21年-22年飢饉から見えるもの
1921年2月、労働者の大量逮捕・殺害とプロレタリア独裁成立のウソ
『クロンシュタット事件とペトログラード労働者全市的ストライキ』ファイル多数
〔根本的な後退4〕、政党間民主主義・自由権廃絶、他党派殲滅→党独裁・党治国家
このテーマについては、別ファイルで詳細に検証した。他党派による反革命・武装反革命活動の結果として、レーニンがやむなく、他党派を非合法にし、逮捕・銃殺・強制収容所送りにしたというのは、ソ連崩壊後に判明した事実に反するウソだった。レーニン自身が、一党独裁・党治国家を追求し、完成させたというのが、歴史の真実である。そこでの問題は、他党派殲滅の理論的根拠は何かということである。
それは、レーニン型の特殊な政党理論=前衛党概念である。彼は、マルクスの前衛という言葉から、前衛党という政党理論を創作した。社会主義革命理論は、労働運動からは自然発生的に生まれない。それは、社会主義理論を身に着けた知識人が、労働者階級に持ち込まなければならない。それは、労働運動の限界、社会主義理論への自然発生的発展の否定という外部からの持ちこみ理論だった。
そこからは、目的意識的な社会主義革命を担い、革命を起こす職業革命家の党=前衛党の創設・拡大理論が出てくる。それは、鉄の規律に基づく軍事的集権制の政党として鍛えられなければならない。レーニン型前衛党だけが、真理を認識・実践・体現できる。メンシェヴィキ・エスエル・左翼エスエルなど他党派は、いかに社会主義を標榜しようとも、真理を認識・実践・体現できない。
それらソヴィエト内社会主義他党派との連立では、真の社会主義権力・国家を創ることができない。そこから、二重権力の双方にたいする単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターを、蜂起の技術=クーデター6作戦によって、レーニン・トロツキーで成功させた。クーデター直後の政党間力関係によって、やむなく、左翼エスエルとの連立政権にしたが、それも左翼エスエルが5カ月間で離脱し、党独裁・党治国家に移行できた。
あとは、いかに、レーニン型社会主義建設の邪魔者となる他党派を殲滅し、その口実をでっち上げるかである。レーニン型前衛党理論は、本質的に政党間民主主義・自由権廃絶展望を孕んでいた。20世紀政党理論史上、これほどうぬぼれた、エリート的排他的理論はなく、他党派殲滅に行き着く犯罪的政党理論だった。
もっとも、この理論への信仰面で、民青・共産党専従15年間の私も、まったく同罪である。私は、『なにをなすべきか』を10回前後読み、何回も書き込みをし、支部会議にそれを持ち込んで、宣伝した「レーニン神話」の伝道者だった。「イスクラ」を宣伝・扇動・組織者としたように、赤旗拡大のための理論的思想的武器として活用した。しかも、社会主義理論の外部からの持ち込みといううぬぼれたエリート理論になんの批判も、疑いも持たなかった。今から反省すると、共産党専従とは、うぬぼれたエリート意識の持ち主でないと務まらなかったとも言える。
『レーニンが追求・完成させた一党独裁・党治国家』他党派殲滅路線・遂行の極秘資料
レーニンがしたこと=政治的民主主義・複数政党制への反革命クーデター
大藪龍介『党内分派禁止と反対政党の撲滅。民主主義の消滅』1921年
〔根本的な後退5〕、党内民主主義抑圧・自由権廃絶の党内クーデター
鉄の規律・軍事的中央集権制は、国家権力における党独裁・党治国家に至るだけでなく、横断的水平的交流禁止の党内権力が党中央独裁→個人独裁に導く。それは、クーデター3年後の1921~22年、党治国家内・一党独裁政党内における官僚的腐敗を増大させた。その官僚的中央集権的な権力腐敗の実態にたいし、党内で民主主義的中央集権派が形成され、レーニン主流分派を批判した。
トロツキーの「労働の軍事化」路線は、まさに犯罪的な反労働者政策だった。プロレタリアート独裁を名乗る国家における「労働の軍事化」という2000企業での犯罪にたいし、1920年、労働者ストライキが激発した。レーニンは、部分的に、「労働の軍事化」方針を批判したが、基本的には、トロツキー路線に賛同した。ボリシェヴィキ内の労働者党員も、トロツキー・レーニンの反労働者政策に反対し、強力な労働者反対派を形成した。
そのままでは、レーニン主流分派・トロツキー「労働の軍事化」分派は、少数派に転落する危険さえも生まれた。しかも、レーニンの食糧独裁令・軍事割当徴発の犯罪的な誤りによって、食糧家畜生産が崩壊し、飢饉を生み出した。ロシア革命・ソヴィエト勢力である労働者・農民・兵士の総反乱がソ連全土で燃え盛り、一党独裁・党治国家は、政権崩壊危機に直面した。
それにたいし、レーニンは一党独裁権力維持のみを目的とし、経済面で80%・9000万農民へのネップによる譲歩・後退をするとともに、政治では全面的な逆改革=上記全体のような反革命クーデターを断行した。その一つが、1921年3月の(1)分派禁止規定と、(2)その4カ月後の異様な規模の大量除名事件だった。党内で20%から30%に急拡大してきた民主主義的中央集権派と労働者反対派の全員を除名することによって、党内民主主義を抑圧し、党内での言論の自由権を廃絶させた。これは、レーニンによる反革命クーデターの一つとしての党内クーデターと位置づけられる。
『レーニンによる分派禁止規定の国際的功罪』1921年クーデター政権崩壊危機
レーニンがしたこと=少数分派転落・政権崩壊に怯えた党内クーデター
『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機、クロンシュタット反乱
〔根本的な後退6〕、生存権抑圧=大量殺人・強制収容所・国外追放による浄化国家
レーニンは、マルクスのプロレタリアート独裁理論の誤りを一段と歪曲し、かつ、フランス革命の教訓を捻じ曲げた理論を構築した。クーデター政権は、帝政貴族・地主・ブルジョアを殺害することは当然とした。さらには、ボリシェヴィキ不支持者・政党の監視・検閲・浄化へと排除対象を国民全員へと無限に広げた。社会主義革命家・権力者なら、それに批判・抵抗・反乱する国民すべての大量殺人・強制収容所送り・国外追放をすることが許されるとするレーニン型の犯罪的革命倫理で、ボリシェヴィキ全員とチェキスト28万人の理論武装・思想教育をした。
チェーカーの暴力とレーニンのウソ・詭弁がその武器となった。このテーマについては、稲子恒夫極秘資料・コラムが出版される前にも、ソ連崩壊後のデータに基づく多数のファイルで検証したので、これ以上書かない。
1921年3月~22年末、「ネップ」評価とその後に発生した500万人飢死の原因
1922年5月、「反ソヴィエト」知識人追放作戦という文化大革命
『「赤色テロル」型社会主義形成とその3段階』レーニンが「殺した」ロシア革命勢力の推計
『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書
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〔関連ファイル〕
『スターリンは悪いが、レーニンは正しい説当否の検証』ファイル多数
『レーニンが追求・完成させた一党独裁・党治国家』他党派殲滅路線・遂行の極秘資料
レーニンがしたこと=政治的民主主義・複数政党制への反革命クーデター
『レーニンによる分派禁止規定の国際的功罪』1921年クーデター政権崩壊危機
レーニンがしたこと=少数分派転落・政権崩壊に怯えた党内クーデター
稲子恒夫『ロシアの20世紀-年表・資料・分析』「はしがき」「あとがき」、8ファイル