ロシア1917年〔コラム〕−16のテーマ

 

臨時政府時期と「十月革命」=10月クーデター

 

稲子恒夫編著『ロシアの20世紀』 (宮地抜粋)

 

 ()、稲子編著『ロシアの20世紀』(東洋書店、2007年)は、1917年年表の後に、テーマ別に分析した〔コラム〕(P.72〜78。89〜102)を書いている。〔コラム〕は、臨時政府時期と「十月革命」後とに分けて分析している。これらはかなり長いので、一部抜粋にした。私の判断で、各色太字・番号リンクを付けた。

 

 なお、稲子教授は、〔1917年コラム〕において、()1917年10月を憲法制定議会選挙運動中のクーデタと規定した。それとともに、「あとがき」では、()憲法制定議会の武力解散もクーデタと明記した。

 

 ソ連崩壊後、日本の研究者で、1917年10月を、革命でなく、レーニン・ボリシェヴィキによるクーデターと明確に規定したのは3人いる。加藤哲郎、中野徹三、梶川伸一である。クーデター説は、稲子恒夫で4人目となった。ただ、彼は、1917年10月単独武装蜂起・単独権力奪取行為だけでなく、憲法制定議会の武力解散もクーデタとした。私は、HPファイルで、レーニンの7連続クーデター説を提起しているが、彼の規定は、2連続クーデタ説と位置づけられよう。

 

 1917年10月クーデター前後の稲子年表は、転載をしない。というのも、私の別ファイルにおいて、前後の事実経過を年表的に詳述したからである。その他ファイルのリンクも合わせその年表に代える。

 

    『「レーニンによる十月クーデター」説の検証』10月10日〜25日の16日間

    第1部『レーニンによるソヴィエト権力簒奪7連続クーデター』10月クーデター

 

 〔目次〕

   〔臨時政府時期〕

   1、臨時政府の人権宣言  2、レーニンの四月テーゼ  3、ソビエト

   4、レーニンの一件書類  5、ロシアの主な政党  6、臨時政府時代の政治状況

 

   〔「十月革命」後〕

   7、憲法制定会議十月革命は選挙運動中のクーデタ

   8、人民委員会譲,人民委員,人民委員部  9、省庁の接収

  10、裁判所  11、十月革命後の治安  12、無法の司法

  13、国家保安機関の復活 14、国有化 15、土地と農民  16、アネクドート

 

 〔関連ファイル〕               健一MENUに戻る

    『はしがき、あとがき』 憲法制定議会の武力解散もクーデタ

    『1917年コラム』 十月革命は憲法制定議会選挙運動中のクーデタ

    『1918、19年、ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化年表』

    『1918、19年コラム』

    『1920、21年、ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化年表』

    『1920、21年コラム』

    『1922年、ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化年表』

    『1922年コラム』

 

    『20世紀社会主義を問う−レーニン神話と真実1〜6』ファイル多数

    『1917年10月のレーニン』10月クーデター前後の年表的データを含むファイル多数

    『「レーニンによる十月クーデター」説の検証』10月10日〜25日の16日間

    第1部『レーニンによるソヴィエト権力簒奪7連続クーデター』10月クーデター

    第2部『憲法制定議会の武力解散・第2次クーデター』

    『レーニンが追求・完成させた一党独裁・党治国家』

       他党派殲滅路線・遂行の極秘資料とその性質

       レーニンがしたこと=政治的民主主義・複数政党制への反革命クーデター

    中野徹三『憲法制定議会とその解散「民主主義的な道」の終焉』詳細な経過分析

 

 1、臨時政府の人権宣言 臨時政府の成立宣言(1732)から

 

 1.テロ行為,武装蜂起,農村犯罪などをふくむすべての政治的,宗教的事件の完全,即時の大赦

 2.言論,報道(pechat’),結社,集会,ストライキの自由.政治的自由は軍事的,技術的事情のゆるすかぎり,軍勤務員にもおよぶ

 3.あらゆる身分的,宗教的,民族的な制限の廃止

 4.普通,平等,秘密,直接選挙にもとづく憲法制定会議の招集の即時準備.憲法制定会議が国の統治形態と憲法を確定する

 

 5.警察(politsiya)を人民警察(narodnaya militsiya)に替える.人民警察はその長が選挙され,地方自治機関に属する

 6.普通,平等,秘密,直接選挙にもとづく地方自治機関の選挙

 7.革命運動に参加した部隊の武装を解除せず,それをペトログラードから撤退させない

 8.厳格な規律を維持しながら,軍務に服していないときの,兵士が他のすべての国民にあたえられている社会的権利の行使に対する一切の制限の廃止.⇒まぼろしの暫定憲法.76頁,憲法制定会議.89

 

 

 2、レーニンの四月テーゼ

 

 二月革命が起き,臨時政府が成立すると流刑地からもどったスターリン,カーメネフらボリシェヴィキーの指導部は,臨時政府による公約の実行を要求し,それが実行されるかぎりで臨時政府支持するという方針をかかげた.しかしスイスに亡命していたレーニンは「遠方からの手紙」で,ロシアの革命は社会主義革命の段階に移ったとして臨時政府支持するなと訴えていた.

 

 彼は帰国すると「現在の革命におけるプロレタリアートの任務について」(いわゆる四月テーゼ)を発表して,()臨時政府を一切支持しない,()ブルジョア民主主義革命の社会主義革命への転化,()プロレタリアート独裁の樹立,()戦争からの革命的離脱,()「すべての権力をソビエトへ」を主張し,党幹部を説得して,これをボリシェヴィキーの方針にすることに成功し,十月革命をもたらした.彼は臨時政府による民主化の意義を一切認めず,その政治的利用だけを主張した.この結果,臨時政府の事業のすべてが,十月革命後に否定され,長いあいだ無視された.

 

 レーニン「現在の革命におけるプロレタリアートの任務について」(抄)

 

 ロシアの現時点の独自性は,プロレタリアートの自覚と組織性が不十分な結果,ブルジョアジーに権力をあたえた革命の第1段階から,権力をプロレタリアートと貧農層にあたえなければならない2段階への移行である.この移行の特色は一方では最大限の活動であり(ロシアは現在は世界の全交戦国のなかでもっとも自由な国である),他方では大衆にたいする強制がないことであり,さらに平和と社会主義の最悪の敵である資本家に対する大衆のだまされやすい,無自覚な態度である……臨時政府絶対に支持しないこと,その約束の全部がうそであることを明確にすること,この政府が資本家の政府であり,帝国主義者になった資本家の政府であることの暴露.

 

 

 3、ソビエト

 

 ソビエト(sovetsoviet)は助言,合議体である会議,評議会を意味するが,1905年革命のとき,各地の労働者が政治闘争の組織として,労働者代議員ソビエト(評議会)を作ってから特別の意味をもち,1917年の二月革命のとき多くの市で労働者代議員ソビエト(評議会)が作られ,その代議員は工場ごとの労働者集会で選ばれた.ペトログラードなどでは大隊ごとの兵士集会で選出の代議員も参加したから,労働者・兵士代議員ソビエトとなったが,モスクワなどでは兵士代議員ソビエトが別に作られた.

 

 全国のソビエトの活動の統一のため,6に第1回全ロシア労働者・兵士代議員ソビエト大会が開かれたが,参加の代表の多数はメンシェヴイキーと社会革命党(エスエル)であり,大会は臨時政府の支持を決定した.8月下旬のコルニーロフ事件のあと,各地のソビエトでボリシェヴィキーが多数派となり,1025からの第2回全ロシア労働者・兵士代議員ソビエト大会で,ボリシェヴィキーと同党に同調の左派社会革命党が多数になることが確実になった。

 

 そこで,開会直前にボリシェヴィキーが支配のペトログラード・ソビエトの軍事革命委員会が,武力で臨時政府をたおし,これを受けて第2回全ロシア労働者・兵士代議員ソビエト大会が,レーニンを指導者とする臨時革命政府の設置を決め,ソビエト政権を樹立した.しかし全ロシア・ソビエト大会の基盤である各地のソビエトは,選挙人の範囲も,ソビエトの組織もまちまちであり,これが統一されたのは19187月の憲法によってである.

 

 

 4、レーニンの一件書類

 

 19173月レーニンらボリシェヴィキーの指導部は,亡命していたスイスから敵国ドイツを経由して帰国し,ロシアでの活発な活動を始めた.その豊富な資金の出所ドイツではないかとの疑いがあったので,臨時政府は「反逆罪」容疑の捜査を始めたが,十月革命後これにふれることはタブーになった.タブーが消えた今日では,多数のロシアの歴史学者が残っていた極秘文書により,ボリシェヴィキーのドイツ資金を研究しており.次の171116外務人民委員部の極秘文書も発見された.

 

 「人民委員会議議長へ

 人民委員レーニン,トローツキー,ポドヴォーイスキー,ドィベーンコ,ヴォロダールスキー同志の会議で採択の決議にしたがい,われわれは次のことを行った.

 

 1.司法省アルヒーフ(文書室)のレーニン,ジノーヴィエフ,コズローフスキー,コロンターイその他の同志の“反逆”の一件書類から,われわれはレーニン,ジノーヴィエフ,カーメネフ,トローツキー,スメンソーン,コズローフスキーその他の同志への,ロシアでの平和宣伝のための資金支払いを許可する1732ドイツ帝国銀行命令第7433取り除いた

 

 2.ストックホルムのニア銀行にドイツ帝国銀行の指図で設けられたレーニン,トローツキー,カーメネフその他の同志名義の口座の全帳簿が調べられた.これらの帳簿はベルリンから出張のミューレルに引き渡された.外務人民委員部全権代表 イェ・ポリヴァーノフ ゲ・ザールキンド」

 

 こうして「レーニンの一件書類」中の基本文書は破棄されたが,臨時政府の諜報機関が集めた書類21綴りは残っていた.191811月に全ロシア中央執行委員会の会議で,レーニンが「私はロシア革命をドイツの金で行ったと,何度も非難されている.私はこのことを争わない.やがて私はロシアの金で同じ革命をドイツでするだろう」と語ったことも判明した.

 

 ドイツの資金供与革命後もつづいた.プーニチ『党の金(きん)』(1993年)によると,18130現在,ドイツの特別宣伝目的費に38200万マルクが計上され,その内ロシア向けは支出済み4060万マルク,残高1450万マルクだった.以後7まで毎月300万マルク供与され,ドイツ大使ミルバッハはテロで殺される直前に,4000万マルクの増額を求めていた.

 

 

 5、ロシアの主な政党(1917年)

 

 1017日同盟(オクチャブリスト).経営者が基盤の右派自由主義政党,1915年に国家会議の会派に変わり,国家会議外の組織がなく,二月革命後に政治の舞台から消える.

 

 人民自由党(カデート).知識人が指導の左派自由主義政党,臨時政府支持.臨時政府の法令の大半は,カデート党員またはカデート支持の法学者と弁護士が作成.十月革命直後「人民の敵」の党として非合法化され,指導者逮捕.内乱時代にカデート党員は大弾圧を受け,多数のカデート系知識人が亡命1917年の党員数約5

 

 社会革命党(エスエル,エセール).第2インタナショナル加盟のロシア特有の社会主義政党,臨時政府を支持し,二月革命後急成長した.政治綱領はカデートとほぼ同じだが,とくに土地所有廃止による土地改革を主張.十月革命後は内戦食糧徴発反対し,体制内野党としてソビエト政権を批判したが,1922非合法化19175月の党員数40万以上70万の説もある).

 

 左派社会革命党(左派エスエル,左派エセール)19175に社会革命党の左派が独自の指導部と綱領をもつ分派として左派エスエルを結成,十月革命を支持し,11に社会革命国際党として独立したが,通称は引きつづき左派エスエル.19187月にクーデターをおこして失敗,非合法になる.19187月の党員数約8

 

 トルドヴィキー(労働派).社会革命党系だがテロ否定の小政党.二月革命後は社会革命党に合流.代表はケーレンスキー

 

 ロシア社会民主労働党(メンシェヴイキー).右派の社会民主党.臨時政府支持.十月革命反対し,左翼連立政権を主張.労働者のあいだに根強い支持があり,野党としてソビエト政権を批判.二月革命後の党員数約3,その後増えたが,9月以後減りはじめた.1918年に党員が増え,同年5月の党員数は約6(グルジアをのぞく).1922年に非合法化.グルジアのメンシェヴイキー政権は1921年に赤軍のグルジア占領で崩壊.元メンシェヴイキーの知識人は新経済政策の時代に弾圧されたが,一部は経済管理などで大きな役割をはたし,1930年代に弾圧された.

 

 ロシア社会民主労働党(国際派)マールトフが指導のメンシェヴイキー左派.1919年春の党員数約10001922年に消滅

 

 ロシア社会民主労働党(ボリシェヴィキー).左派の社会民主党,十月革命で権力を獲得,1918にロシア共産党(ボリシェヴィキー)と改称.ソ連共産党の前身.党員数二月革命時23600,十月革命時351918年夏151921373

 

 

 6、臨時政府時代の政治状況

 

 臨時政府は成立直後から不安定な弱い政府だった.それは各地に作られた労働者,兵士,農民の代議員評議会(ソビエト),とくに首都ペトログラードのソビエトの支持を得ているかぎり存在でき,その意思に反することを実行できなかった.このような権力の二重構造は地方にも存在した.さまざまな地域で150の政府が樹立され,フィンランド,バルト地方,ウクライナ,中央アジアでは自治,さらに独立が宣言された.ボリシェヴィキーをふくめ多くの政党が最終的に統治機構を決める憲法制定会議の選挙と招集を主張したが,それには準備の時間が必要だった.⇒憲法制定会議.89頁.

 

 二月革命後の警察と治安

 

 二月革命で蜂起したペトログラードの群集は,憎悪の的だった警察署を襲撃し,警察官を殺し始めたので,警察官は制服を捨てて逃げ去った.米国のフランシス大使によると,「大使館から3軒へだてた警察署は,群集により破壊され,保存文書や書類が窓から放り出され,道路でみなの前で焼かれた.おなじことは市内の警察署全部で起きた.秘密警察の保存文書は指紋押捺書や犯罪人特徴書などもふくめて,全部廃棄された.兵士と武装した市民が警察官を追及し,自宅,避難先,病院を捜索した」.

 

 首都の警察の惨状がつたわると,多くの地方で警官が逃げ出し警察が崩壊した.臨時政府はこの事態を追認して,オフラーンカ(公安警察),警備警察(zhandarmeriya)とともに,通常の警察(politsiya)を廃止し,かわりに警察(militsiya)を自治体警察として設置すると決めた.militsiyaは本来民兵のことだが.現在も,この言葉は警察の意味で使われている.「民警」の訳はまちがい.「民警支署」は警察署の誤りである.

 

 しかし元の警察(politsiya)の建物が破壊されたため,新しい警察(militsiya)には専用の建物がなかったし,経験をつんだ刑事もいなく,犯罪防止や犯人逮捕のときに必要な武器さえ十分なかった.

 

 街には犯罪予備軍があふれていた.大赦により政治犯だけでなく,一般刑事犯も大量に釈放されたが,元の警察の記録が破棄されたため,新しい警察は釈放された刑事犯の情報を全然持たなかった.ペトログラードには軍需工場が多かったので,失業者は少なかったが,経済混乱のため1917年から失業者が増えだし,前線から脱走してペトログラードに来た数万の兵士が,失業者に加わった.軍での兵器の管理はルーズになったから,武器の入手は簡単だったし,兵士の制服もいくらでも買うことができた.そのため強盗は兵士の姿をしていた.

 

 

 7、憲法制定会議 十月革命は選挙運動中のクーデタ

 

 ボリシェヴィキーは憲法制定会議の早期召集を主張していたから,1112の投票の選挙の候補者としてレーニン,トローツキーらの党幹部を中央選挙管理委員会に届けていた.十月革命は選挙運動中のクーデタだったから,革命政権の布告は憲法制定会議にふれざるを得なかった.全ロシア・ソビエト大会の訴えは憲法制定会議の召集を約束し,1126土地の布告労農政府の設置の布告は,どちらも憲法制定会議の召集まで臨時措置であることを明記しており,レーニンは平和の布告を提案したとき,平和の条件は憲法制定会議が決めると語った(どれも『レーニン全集』に入っている).

 

 革命後にボリシェヴィキー指導部が憲法制定会議問題を検討したとき,レーニンは選挙で負けることを予測して,選挙の延期を提案したが,支持されなかった.ボリシェヴィキーは選挙で暴力革命の事後承認を求めるという賭けに出た(1939年の『全連邦共産党史.小教程』は,憲法制定会議のその後の運命を正当化するため,事実をゆがめて,「その選挙は基本的に十月革命に行われた」としている).

 

 以下は主な選挙アッピールである.

 投票日のペトログラード・ソビエトの訴え

 「今日(1112)は憲法制定会議の選挙の大切な日だ.諸君はみな出かけなければならない.労働者も兵士も,だれ一人として投票を忘れてはならない.君自身が出かけ,君の妻や姉妹も連れていこう.すべての勤労者諸君,家事使用人,馬車の御者,洗濯婦のみなさんも,投票に出かけ,ペトログラード労働者兵士代議員ソビエトの決議にしたがい,投票しよう.投票は(政党)名簿第4に!

 

 8カ月ものあいだ地主,資本家のケーレンスキー政府は,憲法制定会議の選挙を引きのばすためあらゆることをした.彼らはそれを開かないことを決めた.それは,彼らが憲法制定会議が自分らの意志に反して,土地,平和その他の重要問題の宣言をすると,知っていたからである.憲法制定会議を開く唯一確実な方法は,ケーレンスキー政府を打倒し,ブルジョアジーに対する労働者,兵士,農民の勝利をもたらすことだった.今や憲法制定会議の選挙が保障され,その時が来た」

 

 この訴えが記す名簿第4中選挙区比例代表制ボリシェヴィキーの候補者名簿であり,それにはウリヤーノフ(レーニン),ラドムィースキー(ジノーヴィエフ),ブロンシュテーイン(トローツキー),ローゼンフェルド(カーメネフ),コロンターイ,ジュガシヴィーリ(スターリン)……の順で18人の候補者名がのっていた.

 

 社会革命党(エス工ル)の訴え

 「すべての権力を憲法制定会議へ!

 諸君が“土地と平和”に賛成なら,名簿第9号にj

 諸君が公正な平和に賛成なら,名簿第9号に!

 諸君が民主共和国に賛成なら,名簿第9号に!

 諸君が8時間労働,最低賃金制,失業保険,医療保険に賛成なら,名簿第9号に!

 諸君が言論,報道,労働組合,ストライキの自由,人身の不可侵に賛成なら,名簿第9号に!

 すべての土地を人民に」

 

 カデート(人民自由党)の訴え

 「ペトログラードの市民諸君! 憲法制定会議の選挙の日がせまっている.この機関がロシアの唯一の真の主人である.それは,その強力な声,数千万のロシア人の声により,統治の形態,権力の組織,わが国が平和を選ぶか,戦争をつづけるかを決めることができる.暴力の行使者,権力の横奪者,殺人者でなく,言論,報道の自由の破壊者でなく,“人民委員会議”など勝手に任命のいかなる組織でもなく,憲法制定会議だけが土地と平和の布告を出す権利をもっている.その決定にしたがわなくてはならない.

 

 憲法制定会議が全人民の意志を真に実現できるだろう.すべての人民が投票し,投票用紙に自分たちの代表とすべき者を記さなければならない.暴力により権力をにぎり,ロシア人民の名で語ろうとする者に対し,効果的に使える強力な武器は投票用紙である.市民諸君,新しいロシアを再建するのは,兄弟の血で手が汚れている者ではなく,真の政治家の才能を持ち,自分の国を真に愛し,敵から国を解放する用意があり,人民の自由を尊敬する人であることを理解しよう.棄権はボリシェヴィキーを助け,したがって国に対する重大な犯罪であることを考えよう」

 

 ペトログラード・ソビエトの訴えが記すように,ボリシェヴィキーは憲法制定会議だけが,土地と平和その他すべての問題を解決すると約束した.ボリシェヴィキーの得票率はペトロダラードで453,モスクワで50.1であり,その得票率はモスクワを中心とする中央工業地区各県とペトログラード市周辺の県で高かった.しかし全国でのボリシェヴィキーの得票は239にすぎなかった.エスエルは農村部で票を集め,とくにヴォルガ沿岸と中央黒土地域の諸県では70の票を得たが,ボリシェヴィキーは14だった.メンシェヴイキーはグルジア以外ふるわなかった.都市部ではカデートが第二党になった.

 

 選挙で負け,窮地に立ったボリシェヴィキーは,憲法制定会議の召集を妨害するため,人民委員会議の名で中央選挙管理委員会のエスエルとカデートの委員を逮捕し,またカデート指導部を「人民の敵」として逮捕し,カデートの議員から議員資格うばった.ボリシェヴィキーは憲法制定会議を本気で召集するのか.

 

 このような不透明な状況で,詩人ギーピウスは次のように書いた.われらの祖父の不可能だった夢 / われらの英雄の囚われの犠牲者 / われらの臆病な唇の沈黙 / われらの希望とあこがれ / 憲法制定会議− われらなにをすべきか

 

 彼女が心配したように,1222に『プラウダ』紙は,レーニンが書いた論説「テロに賛成のプレハーノフ」を掲載した.それは第2回党大会でプレハーノフが,「革命の利益」のためなら,われわれは悪い議会を2週間後に解散すると言ったことを引き合いに出して「革命の利益,労働者階級の利益こそ最高の利益」であるとし,社会主義の敵から人身の自由,報道の自由,普通選挙権の剥奪も可能であり,「悪い議会」は2週間以内の解散に努めるべきだと説いた.

 

 憲法制定会議召集の直前に,左派社会革命党スピリドーノヴァは,憲法制定会議召集,すぐに解散というレーニンの考えを聞いたとき,面と向かって彼を非難したが,レーニンは「政治には道徳はない」と答えた.

 

 1815憲法制定会議擁護のデモ武力で解散させられ,同日召集の憲法制定会議が休憩中に,ソビエト政権は憲法制定会議を解散した.ボリシェヴィキーは憲法制定会議の召集を要求し,約束していたから,その解散は正真正銘の公約違反だった.

 

 その日,憲法制定会議の議長チェルノーフはレーニンに長文の手紙を送り,憲法制定会議についての彼の数々言動を証拠にあげて,「労働者の血はあなたの手を照らし,全人民に対するたび重なる公然の嘘の思い出は,あなたの顔を恥で上塗りするだろう.これはあなたの道徳的死刑だ」と書いた.

 

    中野徹三『憲法制定議会とその解散「民主主義的な道」の終焉』詳細な経過分析

 

 118に第3回全ロシア・ソビエト大会は171026の布告から憲法制定会議関係の文章を削ることを決定した.以後ボリシェヴィキーは十月革命時の布告の中の憲法制定会議の文章にふれなくなり,ソ連の学術文献もこれらの布告の意義を説きながら,憲法制定会議との関係にふれることを禁止された.⇒まぼろしの暫定憲法76頁.憲法草案の起草77頁.

 

 

 8、人民委員会譲,人民委員,人民委員部

 

 171026にスモールヌイー学院第36号室で,ボリシェヴィキーの中央委員数名が政府の樹立を検討した(出席者数名の回想による.トローツキーの回想記は彼とレーニン二人だけの対話として記している).

 

 レーニン「どういう名前にしようか.大臣(ministry)だけはごめんだな.古くさい名前だ」.トローツキー「コミサール(komissary)はどうだろう.だが,いまはコミサールが多すぎる.最高コミサール(verkhovnyekomissary)はどうだろう.いや『最高』(verkhovnye)は聞こえが悪い.『人民の』はどうだろう」

 

 レーニン「人民コミサール? それがいい.まさに革命の匂いがする」.カーメネフ「じゃ政府は人民コミサール会議(Sovet narodnykh komissarov)と呼ぶ」

 

 たしかに二月革命後のロシアでは,フランス語に由来するコミサール(特定の業務を委任された者,受任者)が多かった.臨時政府は帝制時代の知事を解任し,その代りを任命したとき,フランス革命の故事にならい,県コミサールの名を選んだ.これがきっかけで,まだ新しい官職の名が決まっていないポストについて,いろいろなコミサールが生まれた.

 

 そこで「人民コミサール」の言葉が考案され,省(ministerstvo)は人民コミサール庁(narodnyikomissariat)になった.レーニンらは,帝政時代以来,政府の正式名が大臣会議(Sovet ministrov)であり,ここでもソビエト(Sovet)が使われていたことには,ふれなかった.

 

 しかしSovet narodnykh komissarov(人民コミサール会議),narodnyikomissar(人民コミサール),narodnyikomissariat(人民コミサール庁)は長すぎたので,実際にはSNK(エセンカー),narkom(ナルコーム),narkomat(ナルコマート)という略語が使われた.

 

 突然46315Sovetministrov(大臣会議),ministr(大臣),ministerstvo(省)という伝統的な名が復活した.コミサールは受任者,受任官であり,国連のHigh commissioner(英語),Verkhovny komissar(ロシア語)の公定訳は高等弁務官である.日本語が達者なエリセーエフはnarodnyikomissarは国民執政官と訳したが,日本では人民委員という不適訳が定着した.

 

 人民委員会議への権力集中

 

 政府として作られた人民委員会議と,議会として設けられた全ロシア中央執行委員会議の権限はあいまいであり,人民委員会議は多数の布告の公布で重要な立法を行った.1841全ロシア中央執行委員会の会議で,議長のスヴェルドローフは「立法権と執行権の区分はソビエト共和国の活動に適合しない.人民委員会議は立法,執行,行政などの直接の権力機関である」と語った.十月革命前にレーニンは『国家と革命』のなかで,パリ・コミュンにならい議会の執行部が政府の仕事をすることを説いたが,同じ著作でプロレタリアート独裁は強力な政府を必要とすると主張した.

 

 権力をにぎるとレーニンは議会が政府の仕事をするという自説を捨てたが,『国家と革命』は現実との違いなんの説明もなしに,聖典して版を重ねた

 

 

 9、省庁の接収

 

 171026の布告で臨時労農政府として作られた人民委員会議(政府)各省にあたる人民委員部は,初めは組織としての実体をもたなかった.政府の建物としてとりあえずスモールヌィー女子学院の建物が使われた.人民委員会議議長の活動を支える職員はたった4だったから,レーニンが雑用をし,電話番をすることさえあった.各人民委員部といっても,当初は机一つの存在であり,人民委員つまり大臣は椅子の奪い合いさえし,椅子を確保した人民委員の最初の仕事は椅子で熟睡することだった.

 

 レーニンは行政の経験をもたなかったから,革命前の『国家と革命』で,既存のブルジョア的国家機構の「粉砕」を簡単に主張したが,人民委員部が実際に仕事をするためには,いままでの省庁接収しなければならなかった.

 

 外務人民委員になったトローツキーの最初の仕事は,帝政政府がむすんだ秘密条約の暴露だった.トローツキーは,外務人民委員部次官になったバルト艦隊の水兵に外務省の接収にあたらせたが,彼は官吏をおどして金庫を開け,秘密書類を持ち出した.ある省の接収に出かけた者が帰ってきて,建物から全員を外に追い出し,人口に鍵をかけたと報告したので,大笑いになった.国家慈善省の接収に行ったコロンターイは,受付で勤務時間は終わったと言われ,中に入れなかった.結局各省の接収は担当の者が赤衛兵(武装した労働者)を連れて建物内に入り,官吏らに革命政権のため働くことを要求するかたちで行われた.これに対し官吏たちは出勤拒否のサボタージュで抵抗した.内務省では文書送達吏と守衛しか残ってなく,ペン軸にはペン先がなく,インクびんの中はカラになっていた.

 

 しかし官吏のサボタージュは長く続かなかった.彼らは無収入では物価値上がりの時代に,生活できなかったから,19181月の憲法制定会議の解散後に職場にもどり,そのため人民委員部などソビエト政権の中央行政機関の職員は,人民委員,次官などトップ集団をのぞき,多くが革命前の官吏で占められた.彼らはソビエト政権の初期に各人民委員部の中央機構の半分以上,上級官僚のたぶん90%を占めていた.

 

 彼ら旧官僚が官僚主義,とくに事務の渋滞(volokita),つまりむずかしい問題の解決の「先送り」,他への「たらい回し」という昔からの悪風を,革命政権に持ちこんだとされてきた.たしかに革命前のロシアは官僚主義に毒されていた.ロシアでは経済活動を規制する法規が非常に多く,企業は許認可の手続きのわずらわしさ,官僚の事務引き延ばし,彼らへの賄賂の必要に悩まされていた.しかしウィッテは賄賂を受け取らないことで知られており,彼とストルイーピンが代表する改革派官僚が支配する財務省(通産省をかねていた)と農業省は,十月革命以後の官庁よりも効率的だった.

 

 ソビエト国家の病理になった官僚主義を生み出した主な原因は,すべてを国家が解決する体制で生まれた中央主権的な行政システムであり,しかも官庁のトップになった共産党員が行政の知識と経験をもたないことだった.しかも彼らは所管のことを自分で解決する実質的な権限をもっていなく,問題を解決したのは共産党の中央委員会(政治局,書記局,部)だった.そのため年とともに党中央委員会には非常に多くの勤務員がいる大きな機構が,官庁の上に作られていった.党の官僚機構が官僚主義の本当の病因だった.

 

 

 10、裁判所

 

 ロシアの司法界暴力で成立したソビエト政権を認めず,裁判所は臨時政府の名で判決をつづけた.弁護士のなかでボリシェヴィキーと左派社会革命党の党員は,指で数えられる程度しかいなかったから,各地の弁護士会ソビエト政権拒否反応をしめした.

 

 これに対抗して人民委員会議171122の布告で,今までの裁判所,検察庁,弁護士制度を一挙に廃止し,治安判事のかわりに地方ソビエトが選挙する地方裁判所(のちの人民裁判所)を設置し,法廷は常任の人民判事と勤労者のなかから選出の非常勤の人民陪席判事から構成されることにした.常任の人民判事には法律家の資格は要求されなかった.

 

 この布告は,地方裁判所はその判決で,革命により廃止されず,革命的良心と革命的法意識に反しないかぎりで,転覆された政府の法律にみちびかれるとし,全ロシア中央執行委員会と労農政府の布告,ロシア社会民主労働党と社会革命党の最小限綱領に矛盾する法律は,すべて廃止されたものと見なされると定めた.新しい布告は訴訟手続きを定めなかったから,1864年の民事訴訟法,刑事訴訟法が生きていたことになる.しかし法学の専門知識のない新しい裁判官は訴訟法を理解できなかった.そこで181130の布告は裁判所が革命前のすべての法律を使うことを禁止した.

 

 171122の布告は反革命勢力とたたかうため,県ソビエトにより選挙の革命裁判所を設置することにしたが,革命裁判所は法律ではなく,もっぱら「革命的法意識」により裁判することになった.

 

 171122の布告は上級審裁判所,新しい検察庁と弁護士制度を定めなかった.こうして1864年の司法改革以来のロシアの司法制度は否定されたが,新しい裁判所はすぐにととのわなかった.実際には反革命事件で中心の役割をはたしたのは,全ロシア非常委員会(ヴェチェカー)とその地方機関である非常委員会(チェカー)であり,それは逮捕,取り調べだけでなく,自分で銃殺の判決をし,刑を執行するという超法規的権限をあたえられた.

 

 「法という恣意」

 

 ソ連では多数の法令があり,一見すると法が機能していた.しかしソ連末期の代表的法学者であるアレクセーエフによると,存在したのは「法という恣意」であり,ボリシェヴイズムは反法現象であり,そのイデオロギーと秩序は,法をブルジョア的ガラクタとよぶ法蔑視でつらぬかれていた.たしかに十月革命は布告など多数の法令を作りだしたし,1918年,1924年,1936と憲法も制定された.しかしレーニンが率直に認めたように革命的布告は宣伝のためであり,大量の法令の適用と法律機関の実務は革命的法意識にしたがい行われ,法は決して党官僚と行政機構の権限を拘束するものでなく,裁判での,また裁判外の抑圧の法的外被だった.ソビエト法システムは全体主義的スターリン独裁,テロ障害にならず,これらに適法性の概観をあたえていた(「別の法」『独立新聞』(9293).

 

 

 11、十月革命後の治安

 

 ペトログラードの犯罪は,十月革命直後は兵士と赤衛兵が街の警備をしたため減ったが,すぐにふえ出した.十月革命後の経済情勢の悪化で失業者がふえ,前線から来る職のない兵士がふえ,治安が悪化した.そのうえ臨時政府が作った弱体な警察は機能を麻痺していた.

 

 そこで1151118)にレーニンは人民委員会議議長の名で住民への訴えを出し,「きわめて厳正な革命的秩序を打ちたてよう.酔っ払い,ならず者,コルニーロフ派など無政府状態をたくらむ者を,容赦なくおしつぶせ.…人民の事業をあえて害する者は,だれでも逮捕して,人民の革命裁判所に引き渡せ」と呼びかけた.レーニンらボリシェヴィキーは,犯罪はカデートが組織していると主張したが,証拠はあげなかった.翌年1月にレーニンは投機者,略奪者を現場で射殺することを要求した.

 

 しかし酔っ払い,ならず者,投機者,略奪者だけが無政府状態を生んだのではない.長いあいだ,革命では労働者と兵士の規律が守られ,彼らによる略奪,暴行はまれだったとされていた.実際には革命後の数週間,ペトログラードの住民は兵士たちの乱暴狼籍(ろうぜき)におどろいた.連日の逮捕,銃殺,家宅捜査と没収,白昼に家族の面前でさえ行われた将校,下士官,聖職者の銃殺,人質,酒蔵強盗.パヴローフスキー兵営で女性大隊の全員が強姦されたのうわさがひろがった.

 

 群集が犯人を捕まえると,その場で殺すリンチは十月革命前にもあったが,十月革命後は数がふえたゴーリキー171124の『ノーヴァヤ・ジーズニ』紙で,ペトログラードの状況を次のように記した.「革命はどういう新しいものをあたえるのか.それでロシアの凶暴な生活は変わるのか.……革命になってから,もう1万件の“リンチが数えられている.民主主義はその罪人を次のように裁いている.アレクサーンドロフ広場のそばで泥棒がつかまった.群集はその場で彼をなぐってから,溺死と銃殺のどちらで死刑にするかを投票した.溺死に決まり,彼を氷がはった川に投げこんだ.彼がどうにか浮き上り,岸にはいあがると,群集の一人が近づいて射殺した.……今日の日常的な凶暴な殺害について,だれを非難すべきか」.

 

 1220の『ペトログラードの声』紙によると,前日ペトログラードで群集による殺人犯のリンチをやめさせるため,適法な裁判所だけが彼らの運命を決めると,群集に訴えた市民もリンチで殺された.だが古い「適法な裁判所」は廃止され,新しい裁判所はまだ出来ていなかった.

 

 

 12、無法の司法

 

 作家ブーニン1826(新暦219)の日記は,革命前の法の廃止後の状況をつたえる新開記事を記している.『人民の権力』(社会革命党機関紙)から.「労働者代議員ソビエトでの取り調べでたびたび認められ,毎夜繰り返されている逮捕者の殴打事件にかんがみ,かようなごろつきもどきの暴力行為を防ぐことを人民委員会議に求める……」.

 

 『ロシアの言葉』(一般紙)から.タンボーフ県クローフスコエ村の農民は,次の議事録を作成した.「130(旧暦)われわれの共同体は,搾取者2名,すなわちわれわれの市民,ニキータ・アレクサーンドロヴィチ・プールキンおよびアドリアーン・アレクサーンドロヴィチ・クジーノフを追及した.われわれの共同体の申し合わせにより,両名は追及の上,ただちに処刑された.

 

 その場でこの『共同体』は犯罪の処罰について,次のような独自の法典も作成した.

 −人を殴ったばあい,被害者は加害者を10回殴るべし.

 −人を殴って傷を負わせるか骨を折ったばあい,加害者は生命を奪われる.

 −窃盗を犯した者または盗品を手に入れた者は,生命を奪われる.

 −放火して見つかったばあい,その者の生命を奪うべし.

 

 やがて泥棒2名が現行犯で捕まった.彼らはただちに『裁判にかけられ』て,死刑を宣告された.まず一人が殺された.竿秤で頭を割られ,熊手で脇腹を刺され,死体は衣服を剥がれて車道に棄てられた.次いで二人目にとりかかった」.いまではこのような記事を毎日,読まされている(佐藤祥子訳).

 

 

 13、国家保安機関の復活

 

 二月革命で成立の臨時政府は,帝制時代の悪名高い公安警察オフラーンカ(内務省保安局)を廃止したが,自らの保安機関を持たなかった.十月革命以後はとりあえず軍事革命委員会が保安機関の役をしたが,ソビエト政権は191712全ロシア反革命・サボタージュ取締非常委員会(略称VChK,ヴェチェカー)という,オフラーンカより強力な政治警察を発足させた.ヴエチェカーの設置は発表されたが,その職務はあいまいだった.1918にヴェチェカーは正式の名を全ロシア反革命・投機・職務犯罪取締非常委員会(ヴェチェカー)と一部変えた.ヴェチェカーの地方機関はChK(チェカー)と呼ばれた.

 

 以後,国家保安機関は次のように改組されてきた.

 2226 内務人民委員部付置国家保安局(GPU,ゲペウー)

 

 以下ソ連の国家保安機関

 

 23918 統合国家保安局(OGPU,オゲペウー).その共和国,地方の機関はGPU(ゲペウー)と呼ばれた.

 34710 ソ連内務人民委員部(NKVD,エヌカヴェデー)

 4123 ソ連国家保安人民委員部(NKGB,エヌカゲベー)

 4172 ソ連内務人民委員部(NKVD,エヌカヴェデー)

 

 43414 ソ連国家保安人民委員部(NKGB,エヌカゲベー)

 46315 ソ連国家保安省(MGB,エムゲベー)

 5335 ソ連内務省(MVD,エムヴェデー)

 54313 ソ連大臣会議付置国家保安委貞会(KGB,カゲベー)

 

 7875 ソ連国家保安委員会(KGB,カゲベー)

 911022 カゲベーをソ連中央諜報庁,ソ連共和国合同保安庁,ソ連国境委員会に分割.1226廃止

 

 このように国家保安機関は改組されてきたが,チェカーに由来するチェキストという,その勤務員の通称は変わらなかったし,国家保安機関の執務室の壁には.ヴェチェカー・ゲペウー・オペウー議長だったゼルジーンスキーの肖像写真があった.ゼルジーンスキーは,26618のヤゴーダあての手紙に,「ヴェチェカー・ゲペウーの歴史は,その必要がなくなったとき,はじめて書くことができるだろう」と記した.たしかにヴェチェカー以来の国家保安機関の歴史は,1992年以後のカゲベー保存の極秘文書の公開により,初めて書けるようになった.

 

 ヴェチェカー副議長だったラーツイスによると,設置当初のヴェチェカーには左派エスエル(社会革命党)という独特な「泣き虫」がいた.「彼らは反革命との闘争に頑強に抵抗し,自分らの“全人類的”な道徳とか,人間性とか,反革命派のための言論,報道の自由の制限の抑制を持ち出した.ソビエト権力の指導者にとり,彼らとともに反革命と闘うことは考えられないだろう.そこで左派エスエルが入らない新闘争機関を作る考えが出てくる」.1918年夏左派エスエルがソビエト政権から抜けると,ヴェチェカーからも左派エスエルが消えた.

 

 ヴェチェカーの権限ははっきりしていなかったから,チェキストは反革命との闘いのためなら,なんでもできると考えた1918年に彼らは人民委員会議の車庫にあったレーニン用とトローツキー用をふくむ5台のクルマを徴発した.彼らはクルマを外に出させようと執拗に要求したが,ことわられると,車庫の係員を反革命だと告訴した、

 

 十月革命後の警察

 

 二月革命後に自治体警察として発足の警察(militsiya)は,十月革命後はほとんど機能しなくなった.革命政権は171110に労働者警察(rabochayamilitsiya)を設置することを決めたが,それはほとんど作られなかった.そこで政府は18321に臨時政府が作った警察(militsiya)を改組し存続させる布告を出し,18510に警察は常勤の者だけで構成されることにし,職業的な警官(militsioner)からなる警察を復活させた.しかし警官の数は少なく,制服や装備が不足し,その配給食糧も少なかったから,十分に機能しなかった.したがって警察で中心の役割をはたしたのは,強力なヴェチェカーだった.

 

 

 14、国有化

 

 レーニンは権力奪取を前にして,社会主義とそれへの移行について考えた.彼が191789月に書いた『国家と革命』は,マルクスの『資本論』にしたがい,社会主義ではすべての生産手段が国有となり,経済全体が一つの工場のように管理されると理解し,そのモデルとして郵便を考え,技術者,作業監督,会計責任者を「武装したプロレタリアートの監督と指導のもとに,労働者なみの給与で働かせる」ことが,当面の目標であり,「すべての市民が一つの全人民的な国家的シンジケートの職員と労働者になる」と説いた.

 

 レーニンは9月に書いた『迫りくる破局(カタストローフ),これとどうたたかうか』で,革命的民主国家での「国家による監督,監視,在庫調べ,統制,物資の生産と分配における労働力の正しい配置,人民の力の節約,無駄づかいの除去,力の節約」だけが,経済の破局を克服できるとし,臨時政府の無為無策を非難し,ドイツの戦時国家独占主義に見習って次の「手荒い」政策を1週間以内(!)に布告で実施することを主張した.1全銀行の一つへの統合,国家による監督または銀行の国有化.2資本の巨大な独占組織である精糖,石油,石炭,鉄鋼などのシンジケートの国有化.3営業の秘密の廃止.4工業家,商人,一般に経営者の団体への強制加入.5住民の消費組合への加入の強制または奨励.

 

 レーニンはこれらの統制に違反の業者に財産没収と銃殺でのぞむことを主張した.

 

 レーニンは革命的民主国家におけるこのような国家独占資本主義は社会主義への入口であり,両者のあいだには一歩あるいは数歩しかないと主張した.

 

 しかし権力をにぎると,レーニンらは国有化を急いだ.まずソビエト政権の171114の布告は労働者が経営を監督する制度を定め,122の布告は経済統制の機関である最高国民経済会議の設置を決め,これに産業部門ごとに没収,収用,資産凍結の権限をあたえた.それより前に政府の命令にしたがわない個々の企業について,国有化が始まっていたが,1214の布告で全銀行が国有化され,1918に入ると部門ごとの国有化が商船,貿易,精糖,石油の採掘,加工,取引について行われた.国有化はどれも無償だった.

 

 19171124の政府決定は,生産サボタージュの企業没収する権限を地方ソビエトにあたえた.これがきっかけで「資本に対する赤衛隊的攻撃」あるいは「騎兵隊的攻撃」のキャンペーン半年間つづき,労働者が工場の管理部に押しかけて国有化を宣言し,ウラーを叫ぶという収奪者の収奪」が行われた.ルナチャールスキーによると,「われわれにはブルジョアジーを粉砕し,その手にあったあらゆる所有を絶滅する必要があった」.

 

 しかし国有になった企業を,だれがどのように経営するかについて,政府はなにも決めなかったから,多くの企業が労働者の支配下におかれた.これについてレーニンは楽観的で,191712に「生産を組織する任務は,全体としての労働者階級に課せられている.国家的な業務,銀行の管理は労働者にはできない任務だという偏見から永久に手を切ろう」といい,当面「経済生活を組織する具体的な計画はない,ありえない」と断言した.1918年春彼とトローツキーはこのような国有化の進行で,ロシアは6カ月社会主義に移行すると言明した.

 

 しかし無計画な国有化のため,経済は大混乱し,状況は臨時政府のときより深刻になったので,レーニンは考えを180度変えた.彼は19184の『ソビエト政権当面の任務』で,「物資の生産と配分のもっとも厳格な,全般的な現物調べと監督を実施し,労働生産性を向上させ,実際に生産を社会化する」必要を説き,「お金の計算を正確に,誠実に行え,経営を節約して行え,怠けるな,盗むな,労働規律を厳重に守れ」のスローガンを出した.レーニンは整然たる組織の必要を訴え,労働者が集会を開くという民主主義と,企業の長が独裁的な権限をもつこととの結合を主張し,さらに徒食行為で有罪の者10人につき1人の銃殺」(!)もふくむ,強制の方法をひろく利用することまで主張した.彼は革命直後に実施の労働者による経営の監督について,もはや語らなかった.

 

 レーニンはソビエト権力当面の任務について,全ロシア中央執行委員会で報告したとき,「われわれには社会主義の知識があるが,100万単位の規模の組織の知識,組織と生産物分配の知識がない.古いボリシェヴィキーの指導者は,われわれにこれを教えなかった」と,自分らの無知を認め,「古いボリシェヴィキーの指導者」(マルクス?責任を転化した.

 

 しかしボリシェヴィキーは一度始まった国有化の流れを止めず,これによる混乱国家が経済を全面的ににぎることで解決しようとした.18628の布告は小規模なものをのぞく工業と運輸企業の国有化を決めた.国有企業の大半はモスクワの最高国民経済会議が直接に管理することになった.

 

 これが可能だったのは,ソビエト政権の支配地域がモスクワ,ペトログラードをふくむ中部ロシアにかぎられていたし,原料,資材が不足し,企業の操業率が低かったからである.そのために最高国民経済会議の部門別本部委員会(略称グラーフキ)と中央管理部(センター)が経営の細部まで決定する超中央集権的な指令経済システムが作られ,1919に企業の経理も独立でなくなり,国の会計の一部になった.

 

 このような集権化でも生産量は増加しなかったが,最高国民経済会議のグラーフキとセンター数は増加し,その数は1918年秋18だったが,1920には52にたっし,部門間の調整と統合も困難になった.

 

 この間題の解決のためソビエト政権は経済の国家化と集権化をさらに進めた19204の第9回ロシア共産党大会は工業と運輸の軍事化,単一の経済計画,組織や企業の長が単独で意志決定する単独責任制の強化軍事的作業方法の導入を決定し,201129の法令は零細なものをのぞく工業企業全部国有化を決めた.

 

 この国民経済の完全な国家化と指令経済システムは1921の新経済政策で放棄されたが,社会主義経済の原型として,1920年代末復活する.

 

 十月革命後のペトログラードの経済状況

 

 ロシアの経済は,十月革命後にさらに悪化した.ペトログラードでは操業の停止と短縮の結果,毎年1月現在の工場労働者数は,1917379277人だったのが,1919124610人,192087950人と激減し,出勤しても作業につかない者が多かった.地元の新聞『クラースナヤ・ガゼータ』によると,1920年の初めに,国有金属工場の労働者5人のうち出勤は3人だけであり,その数はさらに減りだした.工場に顔を出さない労働者は工場に席を残しながら,軍隊に行っているか,ソビエト機関に勤務し,あるいは商業,手工業に従事しており,一部は生活のため犯罪に走った.

 

 

 15、土地と農民

 

 ボリシェヴィキーは革命のとき「土地を農民へ」のスローガンをかかげたが,具体的な政策を持たなかった.レーニンは権力をとる直前に,社会革命党が土地改革要綱として作った「農民指示」を,そのままソビエト政権の土地改革法とすることを決めた.そのためレーニンが171026に第2回全ロシア・ソビエト大会で,「農民指示」を内容とする土地の布告を提案したとき,それは社会革命党のものだという野次がとんだが,彼はこれを認めて,しかし農民の要求だと反論した

 

 「農民指示」は土地所有の廃止を記すが,ボリシェヴィキーの主張する土地国有を書いてなく,土地の割り替えという農民慣習をそのまま記し,土地の売買,賃貸借,抵当設定,雇用の禁止という農業の発展をさまたげる平均主義を定めていた.

 

 土地の布告は憲法制定会議までの暫定法だったので,憲法制定会議の解散後に,ソビエト政権は自分の土地法である土地社会化法を制定した.まだ左派社会革命党が政権に参加していたから,この法律は土地は人民に属すると記し,前年の「農民指示」から基本的内容を引きついだが,これでは農業の発展の展望がないので,農民に分配しない保留地の一部を,「労働と生産物の節約のためにもっとも有利な経営」である集団農場(コルホーズ)にあたえ,これを「社会主義への移行の目的で」発展させると記した.

 

 一歩すすんで19214の社会主義的土地整理と社会主義農業への移行規程は,はじめて土地国有を記すとともに,土地の配分で,社会主義の原則による農業の組織のため大規模なソビエト経営(ソフホーズ,国有農場)農業コムーナ(コミューン)土地共同耕作組合(トーズ)など組合的土地利用を優先させて,個人農後順位においた.

 

 レーニンらはコムーナやトーズというコルホーズの普及で,ロシアの農業は23のうちに社会主義になると考えていた.とくに農民が私有財産を持たず,食事も共同食堂でするコムーナは,共産主義の夢の実現であった.しかも国家は個々の農家よりコルホーズから,都市に必要な穀物を楽に調達できるはずだった.レーニンがあげていないが,コルホーズの種類としては,穀物栽培は集団でするが,野菜などの栽培は農家が個別的にするアルテーリがあった.これも穀物調達に便利だった.

 

 コルホーズの数は次のとおりだった.コムーナ19189851919196119201989.アルテーリ19186041919360519202722,トーズ191966219208861919年の数がとくに多いのは,ウクライナのソビエト政権が1919年夏にコルホーズをふやす「左翼小児病」的政策をとったからである.

 

 当時のコルホーズの規模は小さかったから,コルホーズへの農家の加入率は非常に低かった

 

 白い土地法

 

 171026の土地の布告は,それが憲法制定会議までの緊急措置であることを明記していた.1816未明に憲法制定会議は少数派のボリシェヴィキーと左派エスエルが退場したあとで,次の土地基本法総則を討議省略して急いで採択したが,その直後にソビエト政権は憲法制定会議解散した.

 

 土地基本法総則

 

 1.土地の私的所有権は.ロシア共和国の領域内で,今後,永久に廃止される.

 2.ロシア共和国の領域におけるすべての土地は,そのすべての地下資源,森林資源および水資源とともに,人民の資産である.

 3.すべての土地,その地下資源,森林資源および水資源の処分は.本法の定める原則により,中央機関および地方自治機関が代表する共和国が行う.

 

 4.ロシア共和国の,国家法の原則により自治を行う州は,本法にもとづき,連邦憲法にしたがい,その土地法を施行する.

 5.土地,地下資源,森林資源および水資源の処分の分野において,国家権力機関は次のことを任務とする.a 国の自然の富の最良の利用および生産力の最高の発展にとり好ましい条件の創出.b 住民間でのすべての自然の恵みの公平な配分

 6.土地,地下資源,森林資源および水資源に対する人および施設の権利は,利用権の形態でのみ行使される.

 

 7.ロシア共和国のすべての国民は,民族,信仰,その結社の違いに関係なく,土地,地下資源,森林資源および水資源の利用者になることができる.国家施設および社会施設も同様である.

 8.土地利用権は,本法の定める原則にもとづき,取得および行使され,消滅する.

 9.個人,結社,施設の土地に対する現在の権利で,この法律に反するものは廃止される.

 10.従来,個人,結社,施設に所有権にもとづき属していた土地,地下資源,森林資源および水資源の人民の資産への繰り入れは,買取金なしで行われる.

 

 十月革命後の食糧問題

 

 ソビエト政権は土地改革で農民を味方につけたが,農村からの強引な食糧調達農民を敵にしてしまった.臨時政府は都市での食糧の確保のため穀物の国家管理を実施し,ソビエト政権もこれを引き継ぎ,食糧人民委員部を置いて,穀物の調達にあたらせたが,思うように穀物が集まらず,都市の食糧事情は臨時政府のときより悪化した.

 

 そこでソビエト政権は19185農村武装した部隊を送って余剰穀物徴発する食糧独裁にふみきった.容赦ない闘争の対象とされたのは.「クラーク(富農)=金持ちと農村ブルジョアジー)」だったが,実際には多くの農民自家消費分と作付用までふくめて穀物没収された.そのため各地で農民反乱(緑の反乱)がおきたが,ソビエト政権は武力で反乱を容赦なく鎮圧した.

 

 1919からは農家からの穀物の調達は割当供出によることになったが,政府の買入価格は非常に安く,手にした紙幣は紙切れ同然であり,実態は食糧徴発だったから,依然として各地で農民反乱がおき,1920年と1921大規模な農民反乱クロンシュタートの反乱がおきた.そのため1921にボリシェヴィキーは穀物の割当供出の廃止新経済政策への転換に踏み切らざるをえなかった.しかし暴力的な食糧調達が原因で,1920からの飢餓のため1922まで数百万の餓死者が出た.このようなソビエト政権初期の農業政策の実態と,これがまねいた農民反乱と飢餓は,ソ連崩壊後にレーニンの著作をふくむ極秘資料の公開で,はじめて明きらかになった.

 

    梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1917、1918年貧農委員会

          『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』クロンシュタット反乱の背景

           食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、

           レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討

          『幻想の革命十月革命からネップへ これまでのネップ「神話」を解体する

          『レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか』十月革命は軍事クーデター

          『十月革命の問題点』2006年4月16日講演会レジュメ全文

          『レーニン体制の評価について』1921年〜1922年飢饉から見えるもの

 

    第3部『革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』

       191918年5月、9000万農民への内戦開始・内戦第2原因形成

    『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』

 

 

 16、アネクドート

 

 (十月革命が舞台のアネクドートは,1920年代に作られたもの).1917年.ペトログラード.デカブリストの孫娘が街の騒ぎを聞いたので,女中になにがあったか調べに行かせた.女中がもどってきた.「奥様,革命です」.

 「あら,革命,すばらしいわ.私の祖父も革命家だったわ.で,あの人たち,なにを望んでいるの」

 「金持ちをなくすのですって」

 「変ね.私のおじいさんは貧乏人をなくそうとしたのに」

 

         *  *  *

 (街頭の)拡声機から聞こえた.「十月革命は資本主義の鎖から,人民を永久に解放した」

 「ほんとうにそうだった.あの時,水兵がやってきて,全部しらべて,私から金の小さい鎖(ネックレス)を取り上げたのを,思い出すわ」

 

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 〔関連ファイル〕

    『はしがき、あとがき』 憲法制定議会の武力解散もクーデター

    『1917年コラム』 十月革命は憲法制定議会選挙運動中のクーデター

    『1918、19年、ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化年表』

    『1918、19年コラム』

    『1920、21年、ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化年表』

    『1920、21年コラム』

    『1922年、ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化年表』

    『1922年コラム』

 

    『20世紀社会主義を問う−レーニン神話と真実1〜6』ファイル多数

    『1917年10月のレーニン』10月クーデター前後の年表的データを含むファイル多数

    『「レーニンによる十月クーデター」説の検証』10月10日〜25日の16日間

    第1部『レーニンによるソヴィエト権力簒奪7連続クーデター』10月クーデター

    第2部『憲法制定議会の武力解散・第2次クーデター』

    『レーニンが追求・完成させた一党独裁・党治国家』

       他党派殲滅路線・遂行の極秘資料とその性質

       レーニンがしたこと=政治的民主主義・複数政党制への反革命クーデター

    中野徹三『憲法制定議会とその解散「民主主義的な道」の終焉』詳細な経過分析