ロシア1918、19年〔コラム〕−10のテーマ

 

プロレタリアート独裁と法、テロ

刑法の指導原理、もしレーニンが殺されていたら

 

稲子恒夫編著『ロシアの20世紀』 (宮地抜粋)

 

 ()、稲子編著書は、1918年表・19年年表の後に、テーマ別に分析した〔コラム〕(P.137〜140。156〜162)を書いている。〔コラム〕は、1918年の3テーマ、1919年の8テーマで分析している。これらはかなり長いので、〔目次〕のように、1918年は一部抜粋にした。転載したテーマについては、訂正・削除をしていない。私の判断で、各色太字・番号リンクを付けた。

 

 〔目次〕

  〔1918年コラム〕

   1、プロレタリアート独裁と法、テロ 2、アネクドート

  〔1919年コラム〕−すべて転載

   1、1919年の党綱領 2、刑法の指導原理 3、社会主義と個人(1)

   4、共産主義と家族 5、農業コムーナ(農業コミューン)

   6、もしレーニンが殺されていたら 7、チャストゥーシカ 8、アネクドート

 

 〔関連ファイル〕            健一MENUに戻る

    『はしがき、あとがき』 憲法制定議会の武力解散もクーデタ

    『1917年コラム』 十月革命は選挙運動中のクーデタ

    『1918、19年、ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化年表』

    『1918、19年コラム』

    『1920、21年、ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化年表』

    『1920、21年コラム』

    『1922年、ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化年表』

    『1922年コラム』

 

    『20世紀社会主義を問う−レーニン神話と真実1〜6』ファイル多数

    『レーニンが追求・完成させた一党独裁・党治国家』

       他党派殲滅路線・遂行の極秘資料とその性質

       レーニンがしたこと=政治的民主主義・複数政党制への反革命クーデター

    『「赤色テロル」型社会主義形成とその3段階』レーニンが「殺した」ロシア革命勢力の推計

    『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書

 

 〔1918年コラム〕

 1、プロレタリアート独裁と法、テロ

 

 レーニン「人びとがわれわれを冷酷だと非難するとき,われわれは彼らがマルクス主義の初歩を忘れているのを不思議に思う.‥…われわれにとり重要なことは,チェカーが直接にプロレタリアート独裁を実行していることである.この点での彼らの役割は計り知れないほど大きい.暴力搾取者押さえつける以外に,大衆を解放する道はない」(1918年).

 

 レーニン「独裁は直接に暴力に依拠し,どんな法にも拘束されない権力である.プロレタリアートの革命的独裁は,ブルジョアジーに対するプロレタリアートの暴力によりたたかいとられ,維持される権力であり,どんな法にも拘束されない権力である」(1920年).

 

 レーニン内乱はありとあらゆる破壊,テロ,戦争のための形式的民主主義制限を不可欠とする」(1918年).

 

 トローツキー「革命は革命的階級がその目的をはたすため,自分が使えるあらゆる手段を用いることを要求する.必要ならば武装蜂起を,また求められたらテロリズムも」.革命的階級が「軍事的陰謀,暗殺,暴動などに直面するところでは,敵の頭上にきびしい制裁の雨を降らすのだ.……テロは舞台を降りようとしない反動的階級に対し非常に効果的かもしれない.おどしは政治の力強い手段である」(『テロリズムと共産主義』1920年).

 

 トローツキー赤色テロは十月の変革のような革命の一部である.‥…階級敵はその責任をおう者を探す.革命家は赤色テロの責任とプロレタリア革命全体の責任を区別しない.レーニンの功績はこのことを,他のだれよりも早く,明解に理解していたことだ.‥こうした状況では,をはっきり見,党を緊張させ,に対する容赦ない制裁を党に教える必要があった.レーニンはこのことを党に教えた」(1927年).

 

 ブハーリン銃殺から始まり労働義務で終わる強制は,資本主義時代の材料から共産主義的人類を作り上げる方法である」(ヴェチェカー審議会での発言).

 

 クールスキー(司法人民委員)「プロレタリアート独裁における法は,プロレタリアートの利益の表現である.……ここには個人の権利と自由を認め保護するためのHabeas Corpus17世紀英国の人身保護条例)のたぐいが存在する余地はない.……都市と農村のプロレタリアートと貧農はブルジョアジー完全な抑圧,人間による人間の搾取の廃止,社会主義の導入という偉大な目的をかかげて,独裁を行っている.ブルジョア法のあらゆる規範廃止が,プロレタリアートと貧農のための裁判の唯一の保証である.革命的人民裁判所の活動は自分の法意識に導かれており,その活動が法創造の新しい源泉である」.そこから「プロレタリアート的共産主義法」という「新しい革命法」が生まれる.

 

 イズゴーエフ(評論家)「社会主義者は『ブルジョア法』否定により,人民を『法』から解放し、これにより法を『ブルジョア法』前にもどした.社会主義法は無法への復帰だった.まっ黒い反動と赤い社会主義との唯一のちがいは,前者では行動が言葉,つまり反動的な思想と一致しているが,社会主義では野獣のような残酷さ不正義自由,平等,友愛の賛美というセンチメンタルな心情告白をともなっていることである」(「社会主義・文化・ボリシェヴィズム」,『深き淵より』1918年).

 

 ポクローフスキー(法学者)「怒りくるったプロレタリアートの独裁は手段を選ばない.多少とも文化的なあらゆる共同生活のごく初歩的な原則でさえも,ひとたび欲望のじゃまになると,ブルジョアの作り話宣言され,びっくりさせる大胆さで掃き捨てられている.人間的なあらゆる権利,ごく人間的な権利でさえそうである」(「ペルーンの呪い」『深き淵より』1918年).

 

 ソローキン「戦争はロシアで軍事的社会主義の絶好の機会を見出した.あらゆる戦争のうち最悪のものは内戦である.内戦はその死の鎌で最良の,才能ある人を滅ぼし,低劣な本能を呼びおこす」(「戦争の人口構成,その特質,社会組織への影響.軍神マルスのにがい収穫」『エコノミスト』1922年).

 

 パステルナークいつ果てるとも知れぬ殺しあいと人間の大量屠殺.白と赤の狂信者たちはお互いその残忍さをきそい合い,残虐は残虐を呼んで,ねずみ算のようにふくれあがっていく.……それは『人はみな狼』という古い格言が実証された時代であった.旅人は旅人を見かければわき道へそれ,顔を見合わせた者同士は,自分が殺されぬために相手を殺した.まれには人肉を食べる事実もあった.人間的な法律はあとをたち,代って野獣の法律が幅をきかせた」(『ドクトル・ジヴァーゴ』江川卓訳).

 

 ヴオルコゴーノフ「革命には革命の法律がある,それもしばしば無法のものである.無制限の暴力,それは無法の壮大なフィナーレである.革命的法律の異常さと戦いながら,新しい悪,それもしばしば前の悪より規模が大きい悪を作れることである.トローツキーはこの『法律』の理想的な執行者だった」(『トローツキー』1992年).

 

 ローザ・ルクセンプルグレーニンとトローツキーの治療法民主主義全面的抑圧は,それが治すと思われている病気よりもなお重い」

 

 プーシキン「ロシアの反乱は,思慮もなければ,容赦もない」(『大尉の娘』).

 

    『「赤色テロル」型社会主義形成とその3段階』レーニンが「殺した」ロシア革命勢力の推計

    『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書

 

 

 2、アネクドート

 

 (ソビエト政権初期のアネクドートで,今日まで伝わっているものは非常に少ないが,レーニンの口調を記録しており,彼がR(巻舌音)を発言できなかったことを記録しているものがある.またレーニンはチューリッヒに亡命していたときから,イネッサ・アルマーンドと特別に親しい関係にあった.このことは極秘とされたが,レーニン『知られていなかった文書.18911922年』(1999)は,このことを裏づけるレーニンのアルマーンドヘの手紙を公にした.しかしそれ以前でも,アネクドートの世界では秘密でなかった).

 

 「ナージヤ,開けてくれ(otkgroi),ナデューシャ,どうして開けてくれ(otkgryvaaessh’)ないのか.ぼくだ,ヴォーフカだ.ニンジン(mogrkovka)だ.フェーリクス・エドムーンドヴィチ(ゼルジーンスキー)!

 

 彼女(イネッサ・アルマーンド)といっしょにいたのはトローツキーだ,つかまえてくれ」(ニンジンは毛の少ないレーニンのこと)

 

   *   *   *

 

 (次の2編は食糧徴発を題材としている)

 レーニンのところへ農民の代表が陳情にきた.

 「今日は,どうぞ座ってください.あなたは,もちろん貧農でしょう?」「いいえ,ヴラディーミル・イリイーチ,私はをもっています」。

 「じゃ,中農野郎です」

 「まあ,腹一杯食べていますし,履物もはいています.子どもたちもそうです.は……」

 「じゃ,クラーク(富農)です」(クラークの意味は121頁参照)

 「それに,ヴラディーミル・イリイーチ,わしらは餓えていませんし,乞食もしていません.百姓が,あなたはクラークだというときがあります」。「じゃ,クラーク野郎です.ふむ,つまり‥‥‥,しかしクラーク野郎です.馬,牛,履物をはいている子ども‥‥‥

 フェーリクス・エドムーンドヴィチ(ゼルジーンスキー),この同志(tovagrishch)を銃殺してください」

 「ヴラディーミル・イリイーチ,昼食の時間です.銃殺食後にします」。「いや,今です.昼食前に是非です.昼食は餓えた子どもたちに!」

 

   *   *   *

 

 「なぜ,レーニンは編み上げ靴をはき,スターリンは長靴をはいているのか」「レーニンのときは,ロシアは,くるぶしのところまでしか汚れていなかった

 

 

 〔1919年コラム〕−すべて転載

 〔小目次〕

   1、1919年の党綱領 2、刑法の指導原理 3、社会主義と個人(1)

   4、共産主義と家族 5、農業コムーナ(農業コミューン)

   6、もしレーニンが殺されていたら 7、チャストゥーシカ 8、アネクドート

 

 1、1919年の党綱領

 

 19193月の第8回党大会が採択のロシア共産党綱領は,革命以後の経済の国有化,市場取引と貨幣経済の制限,配給の拡大により,ロシアでの社会主義の実現は近いと見た.

 

 それは党の当面の主要な目的は,「民主主義の最高形態」であるプロレタリアート独裁と,生産手段のソビエト共和国の所有,すなわち全勤労者の共同所有への転化を基礎とする社会主義の建設であり,優先的課題は住民を消費コミューンに組織し,これにより商業を計画的,組織的な,国家的規模での生産物分配に替えることであり,貨幣によらない計算を拡大し,貨幣の廃止を準備する一連の措置を一貫してとることであるとした.

 

 しかしこの党綱領は1921の新経済政策の開始以後,棚上げにされ,やがて忘れられた

 

 

 2、刑法の指導原理

 

 19183月に左派社会革命党シュテインベルグ司法人民委員が,革命ロシア刑法典草案を全ロシア中央執行委員会に提出したが,左派社会革命党が人民委員会議から脱退したため,この草案は審議されなかった.この草案前文はイェーリングから,法は民族,社会集団,個々人の闘争のなかで生れ,「全般的平和」の樹立を目的とするという言葉を引用し,国家に対する法の優位を説いていた.本文は罪刑法定主義を定めた1903年刑法典から,皇帝に対する罪など,革命で無意味になった条文を削除するなど一部手直しを加えたものだった.シュテインベルグの後任の司法人民委員ストゥーチカによると,この草案はツァーリ時代の古い刑法典の焼き直しだった.

 

 ソビエト政権は裁判所が1903年刑法典を使うことを禁止し,そのかわりに次から次と罰則を持つ布告を公布したが,刑法の体系化を試みなかった.ようやく191212に,ストゥーチカが指導する司法人民委員部は,「ロシア連邦共和国刑法の指導原理」を公布したが,これは刑法総則だけの理念の宣言であった.

 

 それによると,「武装した人民は特別の規則も特別の法典もなしに,自分のを始末したし,始末している.プロレタリアートはその階級敵との闘争の過程で,あれこれの暴力を用いたが,初期には特別の体系もなく,状況におうじて非組織的に暴力を用いている.しかし闘争の経験はプロレタリアートに一般的な処分を教え,体系をもたらし,新しい法を生みだしている.法は,支配階級の利益に適合し,その組織された力により保護される社会関係の体系(秩序)である」,「ソビエト刑法は資本主義から共産主義へのプロレタリアート独裁の移行期における支配階級として組織されている勤労大衆の利益に適合する社会関係の体系を,弾圧を手段として保護することを任務とする」.

 

 この法の定義は成文法,実定法の意義,刑法における罪刑法定主義,個人の権利(つまり人権)の保障まったく認めなかった

 

 シュテインベルグによると,レーニンとの議論はむずかしく,すぐに袋小路に入った.テロが広くおよぶ可能性がある警察措置を彼と議論したとき,レーニンは革命裁判の名で,私の反対に怒った.そこで私はいらだって叫んだ「それでは,なぜ,われわれは司法人民委員部のことを思い悩んでいるのか.率直にそれを社会皆殺し委員部と呼び,それで我慢しようではないか」.レーニンの顔は突如かがやき,「そうだ,まさにその通りだ.しかし,われわれはそうは言えない」と応えた(パイプス『ロシア革命史』西山克典訳).

 

    スタインベルグ『ボリシェヴィキのテロルとジェルジンスキー』

 

 

 3、社会主義と個人(1

 

 ガーステフ「プロレタリアートの心理は,単に動作だけでなく,日々の思考も機械化することにより,おどろくほど規格化される.‥‥‥この特性が個々のプロレタリアの心理に,その驚くべき無名性をもたらすことになり,プロレタリアの個々の単位をABCまたは3250750などのように識別することが可能になる.…‥このことはプロレタリアートの心理に,世界の隅から隅まで強力な重い心理的流れが動いていることを意味する.この流れのためもはや無数の頭脳などなく,あるのは一つの世界的頭脳だけとなるだろう.この傾向がさらにすすむと,いつのまにか個人の思考不可能な状況が作られるだろう」(『プロレタリア文化』誌1919年第910号).ザミャーティンはこの主張を素材として反ユトーピア(ユートピア)小説『われら』(川端香男里訳,岩波文庫)を書いた.

 

    『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』3DCG12枚 『電子書籍版』

 

 プレオブラジェーンスキー「社会主義の観点から見ると,社会の個々のメンバーのは,無条件にその者個人の財産であるという見解は,まったく無意味である.なぜなら個人は過去から未来への種の移行のときの個々の点にすぎないからである.『自分の』子孫に対する同じ見解は10倍以上無意味である」(『道徳と階級規範について』1923年).⇒社会主義と個人(2).409

 

 

 4、共産主義と家族

 

 コロンターイ「家族は死滅する.それは国家にも個々人にも不必要である.……家族という利己的で閉鎖的な細胞のかわりに.大きな全世界の勤労家族が成長する」(『共産主義と家族』1919年)

 

 コロンターイ「経済単位としての家族は,国民経済の観点から見ると無力であるだけでなく,有害であると認めなければならない.共産主義は家族廃止する.家族はプロレタリアート独裁の時代には,国民経済の移行の時期から経済の細胞の意味を失う」.家族は燃料を不経済に使うし,食料品を不合理に使う.家族のための労働は非生産的である.生活は夫婦のペアだけではない…….「家族は利己主義をはぐくみ,確立するし,集団主義の結びつきを弱め,これにより共産主義の建設を困難にする」(『新しい道徳と共産主義』1919年.「生活の集団性」『コムニスト』1921年第12号,「共産主義的道徳のテーゼ」『コムニスト』1921年第1213号).

 

 クララ・ツェートキン「別れの時のレーニンのはなむけの言葉には感激した.彼は個人的育児の世界から社会的育児の世界へ女性を移らせるために,青年の力をかりて階級的な仕事を全力をあげてするように呼びかけた.女性が町人的,個人主義的,主婦的,家族的心理を克服できるように,彼女らの社会生活と社会活動を大いにうながす必要がある」(「レーニンとの会話の覚え書」.この女性解放の名目での家族否定の部分は,1985年に公表).

 

 このような家族消滅論は広まっており,1928に第1回全ロシア児童福祉問題会議で,出席者たちは家族「死につつある制度」であると発言した.⇒社会主義と家族.405

 

 

 5、農業コムーナ(農業コミューン)

 

 農業コムーナは農家単位の生産と生活をやめ,これらを完全に共産化する経営であり,革命前に少数存在したが,革命後は主に貧農,手工業者,労働者,知識人により,地主,修道院が経営していた農地で作られ,規模は840だった.ソビエト政府は,農業コムーナは共同食事なので穀物が節約でき,そこから穀物を調達しやすいと考え,その結成を奨励したが,成功しなかった.その数は19186月現在5001911現在975だった.19214の法令(社会主義的土地整理,社会主義的農業への移行措置の規程)は,農業生産コムーナ(コミューン)の優先的発展を定めた.

 

 しかしコムーナの数は2011現在145820121現在1999にすぎなかった.農民はコムーナに関心をもたなかった.コムーナの生産性は低かったから,国の援助にたよっていた.1919年の農民反乱のとき,農民はコムーナを襲撃し,財産を奪った.

 

 

 6、もしレーニンが殺されていたら

 

 2005に『アガニョーク』誌は,ティホミーロフ「レーニンが殺されていたら.ロシアは87年前崩壊した」という評論を掲載した.それが記すように,レーニンは2回殺されかけた.彼は亡命中の1910にパリで自動車にひかれそうになった.このとき死んでいたら、十月革命は起きなかったし,19182月の憲法制定会議がロシア共和国憲法を採択し,チェルノーフを大統領に選んだだろう.

 

 レーニンは19119にモスクワ市内で自動車に乗っていたとき強盗におそわれた.このとき彼はポケットから財布とピストルを出して強盗に渡したので命が助かった.もしこのとき殺されていたら,トローツキーが党中央の全権をにぎり,1920年に内乱が終わり,1921年に経済が戦時共産主義の軌道に乗り,1923年に2次内乱が起き,共産主義者の体制が崩壊し,軍部独裁が確立しただろう.

 

 ティホミーロフは,レーニンがいなかったら,わが国はとっくに世界地図から消え,ロシアは欧州の小国の規模に縮小しただろうと書いた.この評論に読者から次の投書が来た.「レーニンがいなく,ロシアがいくつかの国に分解したとしても,悪いことはなにもない.英国もフランスもスペインも帝国が分解した.もしそうなっていたら,共産主義者殺された6200万人のロシア人は生きていただろう」(『アガニョーク』2005年第20号).6200万人は革命後の内乱と戦争,弾圧,飢餓,亡命,難民などによる人口の社会的損失を指すようだ

 

 

 7、チャストゥーシカ

 

 (初期のもっとも有名なチャストゥーシカ.ヤープロチカ(小さいリンゴ)は,内戦時の兵士の流行歌の名で,この作品は当時の緑の反乱(農民反乱)の参加者に,赤軍白軍双方の徴兵忌避者,脱走兵が多かったことを歌っている).

 

 あらまあ,ヤープロチカ(小さいリンゴ),熟れたものの色

 を叩くとを叩くと

 

 

 8、アネクドート

 

 (革命直後のアネクドートで,レーニントローツキーがともに登場する作品で,現在まで残っているものは少ない).

 新しい部屋に住むことになった.壁にはなにもなく,釘が一つだけ打ちつけてあった.家具のなかにはレーニントローツキーの肖像だけあった.

 頭かきながら,「どっちをにぶらさげ,どちらをにはったら良いか,さっぱり分からない」(どちらが先に失脚するかの意味がある).

 

   *   *   *

 

 「トローツキーレーニン太ったそうだ」

「いや,ほっぺたをふくらませただけだ」

「どうして」

「全力で,世界革命の火をおこすためだ」

 

   *   *   *

 

 職業紹介所で,「なにかいい仕事を見つけたか」

 「いや,なにも.君のほうは?」

 「給料は良くないが,永久にある仕事さ,世界革命の火をつける仕事だ」

 

   *   *   *

 

 チェカー逮捕者が連れられてきた.「これは,わがほうの者じゃない.確実に反革命派だ」

 「彼がなにかしゃべったのか」

 「なにも.彼はおしだ.だが,反革命派のようにツバを吐いた」

 

   *   *   *

 

 ピオネールがゼルジーンスキーのことを読んで,

 「パパ,フェーリクス・エドムーンドヴィチ(ゼルジーンスキー)は子どもが好きだったというの,ほんとう?」

 父親が「ほんとうだよ.あの人は子どもの親だけを憎んだのだ」

 (ヴェチェカーは,動乱で大量に発生した浮浪児の保護と生活指導もした).

 

   *   *   *

 

 (レーニンは巻き舌音Rを発言できなかった.「政治的売春婦だ」は彼がよく口にした言葉).

 「フェーリクス・エドムーンドヴィチ(ゼルジーンスキー)! トローツキーTotskii)がまたふくらまし丸太(bevno)を盗んだ.なにをもってぼくらは土曜労働に出かけたらいいのだ」

 

   *   *   *

 

 (1960年代のアネクドート)

 レーニンクループスカヤが座って,お茶を飲んでいた.突然,階段ですごい音がし,鎖がカチャカチャ聞こえた.

 「ナーデンカ,玄関へ耐火金庫がおちたらしい」

 「ちがうわ,ヴァロージャ.鉄のフェーリクス(ゼルジーンスキー)が手すりをすべり落ちたのよ」

 (ヴェチェカー以来,国家保安機関が党や政府の要人も盗聴していたことを語っている).

 

   *   *   *

 

 (1920年代のアネクドート)

 

 「ソビエト権力は,どのくらいつづくか」

 「1927117までだ」

 「なぜ,それまでだ」

 「わが国の刑法によると,自由剥奪は10年を超えてはならない

 

   *   *   *

 

 (食糧不足が深刻のときに)

 知り合いの労働者二人が,赤の広場のレーニン廟で偉大な英雄を見たあと,出口でバッタリ出会った.

 「どうだい,このごろの暮らしは」と,ミハイールがたずねると,アンドレーイが答えた.

 「レーニン同志みたいだ」

 「……どうして」

 「だって,食わせてくれないし,埋めてももらえない」(鈴木充訳)

 

   *   *   *

 

 (レーニン時代の赤色テロの秘密が解除された後のアネクドート.レーニンが小男だったことが前提にある)

 ソ連指導者の地獄が一般公開され,スターリントローツキー血の池でもがいていた.

 見物人がガイドに質問した.「トローツキー首まで池につかっているのに,どうしてスターリン首までではないのですか」

 「スターリンレーニンの肩の上に立っているのです」(名越健郎訳)

 

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 〔関連ファイル〕

    『はしがき、あとがき』 憲法制定議会の武力解散もクーデタ

    『1917年コラム』 十月革命は選挙運動中のクーデタ

    『1918、19年、ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化年表』

    『1918、19年コラム』

    『1920、21年、ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化年表』

    『1920、21年コラム』

    『1922年、ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化年表』

    『1922年コラム』

 

    『20世紀社会主義を問う−レーニン神話と真実1〜6』ファイル多数

    『レーニンが追求・完成させた一党独裁・党治国家』

       他党派殲滅路線・遂行の極秘資料とその性質

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    『「赤色テロル」型社会主義形成とその3段階』レーニンが「殺した」ロシア革命勢力の推計

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