1918、19年のソ連とソ連共産党年表
ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化データ
『ロシアの20世紀−年表・資料・分析』より
稲子恒夫編著(宮地抜粋・編集)
〔目次〕
1、宮地コメント
憲法制定会議の解散
プロレタリアート独裁。動乱。赤色テロ
国有化。食糧挑発。経済混乱
動乱2年目。共産主義への移行
世界革命へ。コミンテルン結成
〔関連ファイル〕 健一MENUに戻る
『はしがき、あとがき』 憲法制定議会の武力解散もクーデタ
『1917年コラム』 十月革命は選挙運動中のクーデタ
『1918、19年、ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化年表』
『1920、21年、ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化年表』
『1922年、ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化年表』
『20世紀社会主義を問う−レーニン神話と真実1〜6』ファイル多数
他党派殲滅路線・遂行の極秘資料とその性質
レーニンがしたこと=政治的民主主義・複数政党制への反革命クーデター
『「赤色テロル」型社会主義形成とその3段階』レーニンが「殺した」ロシア革命勢力の推計
『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書
1、宮地コメント
〔小目次〕
1、年表ファイル副題の「排除・浄化」という意味
年表ファイルの副題を「排除・浄化」としたのは、レーニン自身がその「浄化」用語を、発掘・公表された極秘資料からだけでも、主要な3回+その他3回の計6回も使い、ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・粛清命令を自ら繰り返し出しているからである。レーニンが意図した「浄化」とは、ボリシェヴィキ党員ではレーニン批判党員の除名である。しかし、ボリシェヴィキ以外の国民・政党党員にたいしては、銃殺や強制収容所送りか、国外追放という指令を意味する。
〔浄化1回目〕、1920〜21年、レーニンは、農民反乱・ペトログラード労働者の全市的ストライキの武力鎮圧、クロンシュタット水兵・労働者14000人の皆殺し犯罪をした。その後、レーニンは、第10回大会後から翌年春にかけ、ボリシェヴィキ内の労働者反対派党員や民主的中央集権派党員などレーニンを批判する共産党員20%を粛清・除名し、それを「党員浄化」と呼んだ。
1921年10月〜1922年5月、党の「浄化」により,約20%の党員を除名した。除名党員数データは、さまざまである。(1)P・アヴリッチは、「全党員のほぼ4分の1を除名」(『クロンシュタット1921』、P.273)としている。(2)ダンコースは、「党員の24%、136836人を規律違反・重大な誤ち・不活動で除名」(『ソ連邦の歴史1』P.223)と書いた。(3)『ロシア史(新版)』は、「約20万人を除名」(P.482)と推定している。
『「秩序ある後退」をするために、党員粛清・大量除名を決行』除名手口とレーニン発言
『レーニン3つの選択肢と大粛清選択』「党の統一について」決議の反民主主義的性質
〔浄化2回目〕、1921年〜22年、レーニンは、一党独裁政権崩壊の21年危機に直面し、二面作戦を採った。(1)経済面での「ネップ」により反乱農民要求に譲歩をし、後退する裏側で、(2)政治面において、あらゆる分野における民主主義抑圧という政治反動を強化した。メンシェヴィキ、エスエル・左翼エスエル幹部・党員を大量逮捕・裁判にかけ、銃殺や強制収容所送りにした。その反対政党撲滅=一党独裁システム完成のとき、それらを「政党浄化」とした。
大藪龍介『党内分派禁止と反対政党の撲滅。民主主義の消滅』レーニンの犯罪
梶川伸一『共産主義「幻想」と1921年危機』現物税の理念と現実
〔浄化3回目〕、1922年5月、第1回脳梗塞から年末の第2回脳梗塞にかけ、チェーカーに指令し、ボリシェヴィキ・レーニンを支持しない知識人を自らリストアップ・チェックし、彼らを反ソヴィエト知識人とでっち上げ、「哲学船」に乗せ、まず数百人をヨーロッパに国外追放した。レーニンは、それも「反ソヴィエト知識人の浄化作戦」と名付けた。
1922.7.17 (極秘) レーニン,スターリンへの覚書でカデート,人民社会党,メンシェヴィキーの数百人の知識人を急いで逮捕し,理由を告げず国外追放し,ロシアを永遠に浄化することを指示.→8.10.
第8部『知識人数万人追放「浄化」・第7次クーデター』知識人浄化
〔それ以外の3回〕−稲子年表より
(1)、1920.1.17 白衛派文献の国立図書館での保管と利用のため,教育人民委員部への引き渡しの人民委員会議決定.11.− 教育人民委員部政治総局(局長クループスカヤ)設置,その「図書館の浄化」の通達の記すリストにより図書を回収.→23.10.6.多数の文献が回収,閲覧禁止になり,あらゆる文献目録から抹消
(2)、1921.4.21 (極秘) レーニン,ゼルジーンスキーにヴェチェカーによる次の措置の計画作成を指示.(1)社会革命党の絶滅,彼らの監視強化,(2)メンシェヴィキーも同様,(3)共産党の浄化,ぐらついている共産主義者は失せろ,(4)サラートフ.サマーラ両県の浄化,(5)特別任務隊の浄化(19.4.17参照),(6)地方の軍学校生徒の浄化,(7)農村の国家権力機構の浄化.→6.4
(3)、1922.6.28 (極秘) 都市とその周辺の浄化のゲベウー決定.ペトログラードから反革命白衛派,その政治集団の分子、エスエル,メンシェヴィキー,ペトログラードとペトログラード県の経済機関,個々のトラストなどに勤務の彼らの協力者.労働組合,プロレタリア大衆団体のメンシェヴィキー,エスエルのメンバー,彼らの積極的協力者,反革命的活動を思動的政治的に仕上げ,反非命的事業に全面的積極的に協力できる自由職業の者,反革命的学生を市外へ移すため,逮捕,孤立化,流刑の手続きで市を浄化.→8.17
これらの極秘資料は、それぞれの年度の年表箇所でも載せる。よって、これら主要な3回+その他3回の用語使用計6回と、下記抜粋・転載の5年2カ月間の年表行動は次のことを証明する。
レーニンは、10月クーデター=単独武装蜂起・単独権力奪取後の国家から、(1)レーニン批判・不支持の共産党員浄化、(2)レーニン・ボリシェヴィキ不支持のあらゆる政党浄化、(3)知識人浄化をしつくすことにより、レーニン直属秘密政治警察チェーカー支配の完璧な一党独裁国家・社会・団体・共産党システムを一貫して追求した「革命家」だった。彼は、(1)党内民主主義抑圧・(2)政党間民主主義破壊=反対政党撲滅・(3)社会内民主主義消滅を、最高権力者期間で基本的にやりとげた。スターリンは、レーニンの弟子として、レーニンの意図を忠実に受け継ぎ、かつ、歪曲・拡大し、4000万人粛清でそれらを完成させた。
塩川伸明『メドヴェージェフによる「スターリニズムの犠牲」の推計』200万党員銃殺
このファイルは、レーニン5年2カ月間のうち、まず1918年年表と1919年年表だけを抜粋・転載する。それだけでも、膨大にあるので、年度前半と後半に分ける。抜粋の基準は、その中から、レーニン・チェーカーによる(1)ボリシェヴィキ・レーニン不支持者・政党すべての排除・浄化作戦項目と、(2)それと表裏一体だった意図的な一党独裁体制追求路線項目のみを年月日順に抜粋・転載する。各項目内容への加筆・訂正は一切していない。なお、私の判断で、各色太字を付けた。
(1)(2)項目だけを特別に抜粋・転載する理由は次である。
1991年ソ連崩壊後のヨーロッパでは、「レーニン秘密資料」6000点を含む極秘資料の公表・出版やその新年表出版が大量になされてきた。それによって、レーニンによる労働者・農民・兵士などロシア革命勢力数十万人の大量殺人・収容所送り・国内外追放などの犯罪事実や、プロレタリア独裁国家成立・労農同盟成立などの論文・演説がウソ・詭弁だったことが、左翼・有権者にとって常識になっている。さらに、レーニンは10月クーデター時点から、一党独裁体制を目的意識的に追求し、そのため、ボリシェヴィキ不支持者・政党を粛清・浄化する命令を出し続けた事実も常識になった。
第9部『レーニンが最高権力者5年2カ月間でしたこと』ウソ・詭弁と大量殺人犯罪データ
しかし、ソ連との大陸地続き・共産党犯罪の生情報流入・亡命者300万人のヨーロッパの常識は、21世紀東方の島国日本において、依然として常識になっていない。レーニンの犯罪事実やウソ・詭弁内容はほとんど知らされていない。それどころか、「レーニン神話」信奉者が、左翼・有権者の中で、異様なまでに残存する資本主義世界で唯一の特殊な島国になっている。その視点に基づき、レーニン最高権力者5年2カ月間の年表から、(1)(2)項目を浮き彫りにする年表箇所を抜粋する。
年表全項目を調べたい方は、ぜひ本書を購読してもらいたい。ただ、稲子教授が、70歳から80歳まで10年掛け、ソ連崩壊後に発掘公表された極秘資料などを一人でパソコンに入力した分量は1069頁あるので、値段が13000円と高い。
2、1918年前半年表 (大正7年)
憲法制定会議の解散。プロレタリアート独裁。動乱。
赤色テロ。国有化。食糧徴発。経済混乱
〔1月〕
1.5(1.18) ペトログラードとモスクワで憲法制定会議擁護のデモ,武力により鎮圧,死者8ないし30人,負傷者200人以上.ペトログラードのデモは1.9までつづく
1.5(1.18) 憲法制定会議招集.1917年11月選挙の議員715人(内ボリシェヴィキーと左派エスエル155人)のうち410人出席.ボリシェヴィキーが「勤労被搾取人民の権利の宣言」を提案したが,136票対237票で否決されたので,ボリシェヴィキーと左派エスエル退場.
1.6午前4時前 水兵が「衛兵は疲れている」と,議場を去ることを要求したので,憲法制定会議は討議省略で土地法,平和宣言,国家構造の決定を採択.国名はロシア民主連邦共和国.午前5時,午後6時再開を決めて休憩に入る.
1.6朝 全ロシア中執委,憲法制定会議解散の布告採択
1.6夕方 憲法制定会議の建物に議員が入れず.
1.6(1.19) 憲法制定会議解散の布告採択の全ロシア中執委の会議で,レーニンが「われわれは内乱を辞さない.どんなことがあろうとソビエト権力を渡さない」と演説.→1.11
1.8 サマーラで憲法制定会議議員委員会が臨時政府樹立
1.10〜18(1.23〜31) 第3回全ロシア労働者兵士代議員ソビエト大会.
1.11(1.24) レーニンが「われわれは,どの政府も宣言できなかった内乱を公然と宣言した」と演説.
1.12(1.25) 勤労被搾取人民の権利の宣言.十月革命とソビエト政権の政策を確認し,搾取者の容赦ない抑圧と社会主義の勝利,あらゆる国での社会主義の勝利を基本的任務とすることを宣言.
1.14(1.27) 平和問題の決議.
〔3月〕
3.18 モスクワのブルジョア新聞の発行禁止の人民委員会議決定.→5.11
〔4月〕
4.3 モスクワで無政府主義者の住む26戸を手入れ,武器と略奪品を押収
4.11〜12 ヴェチェカー(全ロシア非常委員会),モスクワで無政府主義者をいっせい検挙,約40人射殺,約500人逮捕.
4.15 全ロシア中執委,内務人民委員部に集中収容所を管理する部局の設置を決定.
4.18 無政府主義の旗で行動する武装勢力との闘争について,全ロシア非常委員会(ヴェチェカー)報告にかんする全ロシア中執委決定.
4.23 ペトログラードでヴェチェカーが無政府主義者をいっせい逮捕,多数の者を銃殺
4.29 ソビエト政権の当面の任務についてのレーニンの報告についての全ロシア中執委決定.単独責任制,経済の中央集権化を決める
〔5月〕
5.4 すべての県,郡,郷代議員ソビエトと全員への全ロシア中執委命令.小ブルジョア的動揺に対する鉄の規律と徹底的なプロレタリアート独裁が,現時点の全体的スローガンであると強調
5.11 全ロシア中央執行委員会幹部会,ニセのうわさ掲載のブルジョア的,愚劣な新聞の発行禁止と編集者に罰金を科することを決定.直接の理由はウクライナ情勢の報道阻止.→8.4
5.14 『ノーヴァヤ・ジーズニ』紙で,ゴーリキーが「ソビエト政権はまたしも自分の敵の新聞数紙を絞殺した.このような敵との闘争方法が誠実でないことは,言うまでもない.君主制の時代,ふつうの人が新聞の発行禁止が愚劣だと見ていたことを想起するまでもない.というのは誠実と不誠実の概念は権力の権限外,関心外であることは明白であり,権力が古い−恣意と暴力にもとづく新しい国家を作れると信じることはばかげている」と書く
5.17 全ロシア中執委決定により,部局名は強制労働部,施設名は強制労働収容所になる.
5.24 人民委員会議布告により,集中収容所を陸軍人民委員部から内務人民委員部に移管.
5.25 チェリャービンスクで,チェコスロヴァキア軍団と赤軍の衝突始まる.
〔6月〕
6.4 軍事人民委員トローツキー,集中収容所設置を命令.⇒収容所(ラーゲリ)の起源.121頁
6.8〜12 (極秘) 全ロシア・チェカー会議.6.12全ロシア・チェカー会議のボリシェヴィキー・フラクション会議が,「(1)秘密協力者を組織する.‥…(3)将官と士官を尾行し,赤軍,指揮官,クラブ,サークル,学校などを監視する.(4)明白な反革命分子,投機業者,収賄者を銃殺する.(5)地方でブルジョア的協調派の新聞,俗悪新聞に対し断固たる厳重な措置をとる」と決議
6.8 サマーラで社会革命党とメンシェヴィキーの議員92人が,憲法制定会議議員委員会(Komuch,コムーチ)を開き,臨時政府樹立.ボリシェヴィキーのソビエト解散,サマーラ,ウファー,シンビールスク,オレンブールグでの自由選挙,人民軍の設置を決める.6〜8月のコムーチ政権の統治地域はサマーラ県,シンビールスク県と次の県の一部,サラートフ,カザーン,ウファー.
6.14 全ロシア中執委と地方ソビエトから反革命的な社会革命党(右派と中央派)とメンシェヴィキーの代表を除名する全ロシア中執委決定.→11.30
6.16 ボーリスクで,エルモーゲン主教ら多数の政治犯を溺死の方法で処刑
6.20〜21 シチャースヌィー事件.最高革命裁判所,「反革命クーデタの条件」準備の罪で,バルト艦隊をドイツ軍による捕獲から救ったシチャースヌィー艦長(4.11参照)を裁判.シチャースヌィーのかばんの中にあった,バルト艦隊の自沈またはドイツ軍への引渡しのソビエト政府とドイツ軍の秘密協定をつたえる文書を,裁判所は偽造とし(秘密協定は実在),証人なしで,公訴人トローツキーのシチャースヌィーは自分の名声を作り,これをソビエト権力の反対に利用したとする熱烈な論告にしたがい,裁判所は死刑判決.6.21〜22夜全ロシア中執委幹部会,判決を承認,6.2午前4時40分銃殺
6.26 (極秘) レーニン,ペトログラード党委員会が,6.20のペトログラードのヴォロダールスキー暗殺の報復を抑制しているのに抗議し,ジノーヴィエフに「超戦時」を理由に,労働者が望む大量テロを指示
〔7月〕
7.6〜7 モスクワで左派社会革命党がクーデター,ドイツ大使ミルバッハを殺し,ヴェチェカー(全ロシア非常委員会)の建物と中央電信局を占拠.ゼルジーンスキーとラーツィスを逮捕したが,鎮圧される
7.14 トゥーラ県で大規模な農民反乱(緑の反乱)起きる.9月まで中央・ロシア22県で反ソビエト権力の農民暴動
7.15 トローツキー,カザーンのラスコーリニコフで白衛兵,強盗,やみ屋ら犯罪者をとじこめた数隻の船を沈め,不逞のやからにパニックを起こさせることを命令
7.20〜21 6,15ペトログラード工場委員会代表臨時会議の呼びかけによる全ロシア労働者大会.各地から40人の代議員参加.出席者少数のため,労働者代表大会または協議会とすることを決め,決議で内戦の中止,全人民的権力,労働者と全人民の政治的権利の復活だけが,工業の復興と失業の減少をもたらすとし,社会化と工場委員会の国家化の実験の中止を要求,ボリシェヴィキーの国民経済の計画化が国と労働者階級にとり破滅的であるとする.
7.21 決議採択後に出席者全員逮捕,全文書押収.ダガーンスク刑務所に収監の26人が事件の新聞の虚偽報道に抗議の公開状を発表し,最高革命裁判所に起訴され,銃殺を求刑されたが,労働運動の抗議により刑事手続きが中止となり,1918年末以後釈放
7.24 サマーラで憲法制定会議議員委員会(Komuch,コムーチ)宣言.土地は人民の資産,労働者の保護,結社の自由,企業家の権利などを記す
7.29 社会主義の祖国は危機にありの宣言(全ロシア中執委,モスクワ・ソビエト,労働組合,工場委員会の合同会議で採択).「ソビエト権力は後方を確保し,ブルジョアーを監視下におき,彼らに対する大量テロを実践しなければならない」と,大量テロを宣言
〔8月〕
8.4 (極秘) 軍事人民委員トローツキー,ヴォーログダ県軍事委員会への命令で,反革命派を容赦なく弾圧し,疑わしい者を集中収容所に送り,略奪者を過去の業績と関係なく銃殺を指令
8.4 すべてのブルジョア新聞禁止の人民委員会議布告
8.7〜8夜 「トローツキー列車」(移動軍事人民委員部)編成.当初15輌 書記局,印刷室,電信室,放送室,発電室,図書室,車庫,浴室などで編成,戦局の状況におうじて36回運行され,総運行距離は10万ヴェルスター(約10万キロ)にたっする
8.8 『イズヴェスティヤ』紙に,レーニンとツュルーパ(食糧人民委員)署名の食糧綱領.「農村ブルジョアジーから穀物をふつうの手段で取り上げられないなら,暴力を使わなければならない」.補足のレーニンの指令「クラーク(富農)と金持ちから,全余剰穀物を残らず取り上げ,奪う.‥…郡から余剰穀物をきれいになくす.‥…全穀物をすぐモスクワへ運び集める.…郷ごとの人質を取らず,穀物の即時の収穫と集荷に,自分の命で責任を取る者の名簿を作る」
8.9 (極秘) レーニン,ニージニー・ノーヴゴロドで白衛派が反乱を準備中なので,ただちに大量テロを実行し,兵士を酔わせる数百人の売春婦や旧帝政軍将校の銃殺か,市外追放を命令
8.9 (極秘) レーニン,ペーンザ県に「クラーク(富農),司祭と白衛派に対する大量テロを実行しなければならない.疑わしい者は市外の集中収容所に閉じこめろ」と命令
8.11 (極秘) レーニン,ペーンザ県に「100人以上の有名なクラーク(富農),金持ち,吸血鬼を絞首刑にする」ことを命令
8.12 ペーンザ県の農民反乱鎮圧.首謀者13人銃殺
8.22 (極秘) レーニン,サラートフへの電報で「だれにも相談せず,くだらない手続きなしで,陰謀分子,動揺分子を銃殺せよ」と命令
8.28 トローツキー署名の最高軍事評議会議長,軍事人民委員命令18号.無許可の退却のとき,第一に部隊政治コミサール,次に部隊長の銃殺を指令
8.30 レーニン狙撃され重傷.犯人ファーニヤ・カプラーン(女性)は「右派エスエル」とされ,9.3裁判なしで銃殺.背が低く弱視のカプラーンが真犯人であるかの疑問は消えていない.→9.2
8.31 ペトログラードで非常委員会(チェカー)議長ウーリッキー暗殺.報復としてペトログラードで9.5まで「反革命派と白衛派」512人銃殺.うち12人は社会革命党員.エリセーエフの日記(日本語)によると,「九月の一日(ママ)ウーリッキー執政官の暗殺があって,その晩にソビエトは市内に拘引を行った.妹の家に夜の二時頃五人の水兵が来て拘引状を見せ,妹の主人をソビエトに連れて行った.そして間もなくそこで銃殺した.その日中央特別委員会(ヴェチェカーのこと)は各区のソビエトに千人を銃殺するの許可を与えたので,およそ一夜に七千人を銃殺したそうである.また薪木を運送する大きな木造の船に主に五六百人の士官を乗せ,蒸気船でこれを沖まで曳船してその船を沈没させた.乗った人はみな死んだ.その翌日の新聞を見ると『反革命者は連合国の手先としてわれわれの友人ウーリッキー執政官を殺した.労農政府は一人の共産主義者のために一万人の反革命者と資本階級の人を銃殺する.よくこれを覚えておけ』と書いてあった」
〔9月〕
9.1 『プラウダ』紙,「今や,生ではなく,あらゆる手段が許される死の闘いの時がきた」と報道
9.2 人民委員会議議長レーニンに対する襲撃についての全ロシア中央執行委員会決定.反革命の白色テロに対し,労働者と農民はブルジョアジーとその手先に対する赤色テロでこたえることを訴える
9.2 赤色テロをヴェチェカーが決定
9.2 ソビエト共和国を軍営に転換する全ロシア中執委布告.戦時総動員を布告
9.2 共和国革命軍事評議会(議長トローツキー)設置の全ロシア中執委決定
9.4 (極秘) 人質についての内務人民委員部命令.電話で地方ソビエトに左派エスエルを逮捕し,ブルジョアジーと将校を人質にとり,どんな些細なものでも白衛派の運動があれば,彼らの銃殺を指令.各地で裁判なしで多数銃殺
9.5 (極秘) 赤色テロのヴェチェカー命令
9.5 赤色テロの人民委員会議決定→10.27,11.1
9.17 クロポートキン,レーニンへの手紙に「あなたへの襲撃,ウーリッキー殺害が、あなたの同志の陣列におこした憤激はよく分かる.しかし大衆に分かることは,あなたの党の『指導者たち』には許しがたい.その大量の赤色テロの呼びかけ,人質をとる呼びかけ,この目的専用の刑務所に拘禁されている人の大量銃殺は,見境のない復讐である.‥‥‥社会革命の指導者にふさわしくない」と書く
9.30 (極秘) 革命軍事評議会議長トローツキー,敵側への逃亡者と裏切り者の家族をしかるべき機関と共同で逮捕を命令
〔10月〕
9〜10月 クールスク,リャザーン,トゥーラ,タンボーフ各県で農民反乱.ヴォローネジ県で反乱農民とドン・カザーク軍が合流し,農民部隊を結成
10.7 県非常委員会に銃殺権のヴェチェカー命令
10.18 『プラウダ』紙,今までのスローガン「すべての権力をソビエトに」を「すべての権力を非常委員会(chrezvychaiky)に」に変える
10.27 モスクワのペトローフスキー公園で,元司法大臣シチェグロヴィートフ,元内務大臣フヴォーストフ,元警察長官ベレーツキー,元内務大臣プロトポポーフ,長司祭ヴォストールゴフら数十名が,公衆の見まもるなかで銃殺
10._ メンシェヴィキー,内乱と外国の軍事干渉の状況でソビエト政権を条件づきで支持を決定.→11.30
〔11月〕
11.1 ヴェチェカーの機関紙のラーツィス(ヴェチェカー幹部)の論文「赤色テロ」が次のように記す.「われわれは個人との戦争をしていない.われわれは階級としてのブルジョアジーを絶滅しつつある.取り調べでは,被疑者が行為または言葉でソビエト権力に反対した資料または証拠をさがすな.被疑者に対する最初の質問は,どの出自,育ち,教育または職業かである.これらの間題が被疑者の運命を決めるべきだ.ここに赤色テロの意味と本質がある」
11.7 赤軍,ウラルのイジェーフスクの労働者の反乱を鎮圧
11.9 [ドイツ]革命が起き帝政崩壊
11.10 ドイツ革命の勝利にかんしドイツの労働者,兵士,水兵評議会へのソビエト政府の呼びかけ
11.11 ドイツ降伏.第一次世界大戦終わる
11.12 [オーストリア]革命が起き帝政崩壊
11.13 ブレースト・リトーフスク条約破棄の全ロシア中執委・人民委員会議決定
11.21 住民へのすべての食料品,日用品,家庭用品の供給を組識する人民委員会議布告.商業を禁止,住民への配給は食糧人民委員部が国有と協同組合の商店をとおして行う.都市住民への食品の配給は階級的基準により,防衛産業企業の労働者には特別配給.実際は配給では暮せなかったから,かつぎ屋によるヤミ経済が生活を支える
11.22〜26 英仏軍,黒海沿岸のノヴォロシースク,セヴァストーポリ,オデッサに上陸.英仏,ロシアの内乱に本格的介入へ
11.26 若干の生産物と物資の商業の国家独占の全ロシア中執委・食糧人民委員部布告
11.26 学術,文学,音楽,美術の著作物を国家の資産とみなす人民委員会議布告
11.27 『イズヴェスティヤ』紙に次の記事.ゼルジーンスキーが地方の非常委員会(チェカー)についての演説で,「チェカーはプロレタリア的闘争の機関であり,それはプロレタリアートの創造的仕事をさまたげるあらゆる者を,容赦なく道から投げ捨てることで、最大限の革命的エネルギーと政治的成熟をしめさなければならない」と語る
11.30 ロシア社会民主労働党(メンシェヴィキー)中央委員会の呼びかけの全ロシア中執委決定.メンシェヴィキーが内戦反対,反ソ武力活動の中止,ソビエト政権の条件付き支持を呼びかけたので,各級ソビエトからメンシェヴィキー追放の6.11決定を取消し
〔12月〕
12.3 (極秘) 労農防衛会議,チェカーの勤務員は共産党員にかぎることを決定
12.4 (極秘) ヴェチェカー(全ロシア非常委員会)幹部会命令,ただちに大きな村と郷に対する秘密の監視を確立し,扇動者を逮捕,身元を明らかにし,県,郡の非常委員会(チェカー)へ連行,情報収集のため人の集まる場所,軍の部隊,会議,集会で,政党の現・元党員でソビエト国家の統治に参加していない著名人,疑わしい集団などを監視,そのさい知人,交際,親類,住所,合い言葉,特徴,住居,生活様式などをも明らかにすることを指示
12.7 全ロシア反革命・投機・職務犯罪取締非常委員会(ヴェチェカー)規程(全ロシア中執委決定).地方機関はチェカー,40県,356郡に設置
12.12 (極秘) 特別に困難な状況で活動する校閲の完全な正しさについての党中央委決定.ゼルジーンスキーの報告にもとづき,ヴェチェカーの違法活動を全面的に承認し,ヴェチェカーは11.8法律の完全な順守の第6回全ロシア・ソビエト大会決定の適用外であることを確認→12.19
12.12 (極秘) レーニン,アーストラハンのシュリャープニコフへの手紙で.「アーストラハンの投機者や収賄者どもを捕まえ,銃殺したまえ.このならず者を懲らしめて,だれにも何年も思い知らせてやるべきだ」と指示
12.18 革命軍事評議会議議長トローツキー,赤軍に退却阻止の特別部隊の設置を命令
12.19 (極秘) 党中央委,党とソビエトの新聞にソビエト機関,とくに特別に困難な状況で活動するヴェチェカーへの悪質な批判記事の掲載禁止を決定
12.23 軍事検閲規程(革命軍事評議会決定).党中央委の指示により,革命軍事評議会に検閲部設置
12.30 共和国革命軍事評議会議長,陸海軍人民委員トローツキーが「必要な声明」で,赤軍で働く元士官,元将官の軍事専門家に対する不当な攻撃に反論
年末 『ペトログラーズカヤ・プラウダ』紙(19.4.9)によると,ペトログラードの労働者の配給食料の平均熱量は740カロリー
1918年 ロシアでもスペインかぜ大流行.死者多数
1918年の赤軍 検査出頭者191万1821人.召集場所出頭者172万4824人,その内赤軍志願の農民16.3%,動員83.4%.
1918年の反革命罪 刑事責任を問われた者5万8762 勾留5万8762.判決:自由剥奪(収容所などへの拘禁)1万4501,死刑(銃殺)6185.これらの数字は国家保安委員会の(秘)保存文書によるが,実際は赤色テロではるかに多数の者が裁判なしで銃殺
4、1919年前半年表 (大正8年)
動乱2年目。共産主義への移行。世界革命へ。コミンテルン結成
〔1月〕
1〜6月 ペトログラードの反革命・職務犯罪・投機非常委員会(チェカー)の死刑判決1206.内訳:反革命罪617・職務犯罪115,投機罪36,一般刑事犯罪438
1.9 ヴォローネジで聖職者160人銃殺
1.11 国家の処分にゆだねられる穀物,飼料の生産県での割当供出の人民委員会議布告.食糧割当供出の実施.その後じゃがいも,肉も供出に,1920年末に全農産物が割当供出に
1.11 ロシコーフ,レーニンへの手紙にペトログラードの食糧事情は絶望的であり,このままでは住民の半分が餓死する恐れがあるとし.「あなたの食糧政策は誤った根拠にもとづいている.‥…私的商業のイニシアチブの協力がなければ.あなたは,いやだれでも,この避けられない災厄を乗り切れないでしょう」と記す.→1.29
1.19 強盗がモスクワでレ「ニンが乗っていた自動車をおそい,身分証明書,ピストルなどを奪い,車を乗り逃げ,⇒もしレーニンが殺されていたら.159頁
1.20 ドイツのカール・リープクネヒト殺害の報復として,ペトログラードのペトロパーヴロフスク要塞で4人の元大公(元皇族)を銃殺
1.24 (極秘) カサークとの関係の党中央委組織局通達.豊かなカサーク絶滅の容赦なき大量テロを指示.スヴェルドローフの提案により,レーニンも賛成.→3.11,3.16,3.19
1.28 元皇族のなかの唯一の自由主義知識人,歴史学者ニコラーイ・ミハーイロヴィチ・ロマーノフ(ロシア歴史協会会長),ペトロトヴロフスク要塞で銃殺.事前のゴーリキーの特赦の要請に,レーニンが「革命に歴史家は要らない」と答える.他の皇族2名も銃殺.口実はルクセンブルグとリープクネヒト殺害に対する世界ブルジョアジーへの回答.マールトフ,論文「恥ずべきこと」で「なんという醜悪だ.なんという不必要な残酷だ.新たな流血によるロシア革命の非良心的名誉毀損だ」と書く.→2.26
1.29 レーニン,ロシコーフの手紙(1.11)への返書で,食糧の「商業の自由による逆行ではなく,国家独占の改善により,社会主義へさらに前進しなければならない」と記し,さらにワイマール憲法制定をめぐるドイツの情勢について,「ソビエト権力対“普通,直接,平等,秘密選挙の,つまり反革命的憲法制定会議”の闘い」であり歴史は,ブルジョア民主主義とブルジョア議会主義の全世界的崩壊,内乱はもはや避けられないことを示している」と書く.→8.11
〔2月〕
2.6 ヴェチェカー(全ロシア非常委員会)特別部規程(全ロシア中執委決定).特別部は赤軍内のヴェチェカーの機関として18.12.9設置,軍内の反革命とスパイを取り締まり
2.6〜8 社会革命党が非合法で協議会を聞き.ボリシェヴィキーとの武装闘争を一時放棄するが,レーニンの党とも「ブルジョア的反動」とも協調しないことを決定.→2.26
2.7 『イズヴェスティヤ』紙に,陸海軍人民委員トローツキーの「中農への回答」.ある中農が手紙で,農民の意見では中農政策でレーニンとトローツキーの「仲が悪く」,レーニンは中農の立場に立ち,「中農から穀物を取り上げ,税金を取る命令をしていない」が,トローツキーは中農を敵としており,貧農から赤軍を作り,中農から取り上げた穀物を赤軍に送っており,もしトローツキーがレーニンに宣戦を布告するなら,農民はレーニンを支持し,「彼の軍隊に穀物を送るだろう」という編集部への投書に対し,トローツキーは自分は党中央委員会に属し,食糧,軍事その他あらゆる問題は,レーニンが指導する党中央委員会で検討されており,レーニンとのあいだにどんな意見の違いもないとしたうえ,ソビエト政権の食糧政策の基本命題は不可避であり,農民の軽率な歩みがエスエルに向かわせると農民に警告した.
2.15 『イズヴェスティヤ』紙にレーニン「農民の質問への回答」,トローツキーの説明に同意し,2人のあいだにどんな意見の違いもないとしたうえ,中農政策を説明し食糧供出の必要を説く.◆当時レーニンは穏健派,トローツキーは強硬派のうわさが広まっていた.
2.10 チェカー(非常委員会)のテロの非難をつづけたスピリドーノヴァ,他の左派エスエル党員213人とともに逮捕→41.9.11
2.15 労農防衛会議,鉄道の除雪が不十分な地域で農民を人質にとり,除雪が行われないときは銃殺する権限をチェカーにあたえる決定
2.24 (極秘) ヴェチェカー秘密部設置(ヴェチェカー幹部会決定).秘密部の基本的任務はブルジョア政党,小ブルジョア政党,集団,教会,宗教セクト(カルト)関係者の反ソ活動取り締まり
2.26 右派社会革命党の処遇について全ロシア中執委決定.同党がソビエト政権に対する武力闘争と外国の軍事干渉に反対を決議したので,同党を合法化
2.26 メンシェヴィキーについて全ロシア中執委決定.同党の『つねに前進』紙を発行禁止
2.27以前 (極秘) 農民反乱の防止措置について,県,市,郡執行委員会へ内務人民委員部通達.一連の県での反乱発生を伝える.→3.2−20
〔3月〕
3月 トゥーラ,ブリャーンスク,ペトログラードで労働者ストライキ
〔4月〕
4.10 [ウクライナ] 第3回マフノー運動参加者大会,ボリシェヴィキーの「社会革命への完全な裏切り」と独裁,チェカー,食糧独裁を非難,左翼諸党派の完全な自由を決議.マフノー軍は農民パルチザン軍,1922年8月マフノー,ルーマニアへ脱出
4.11 強制労働収容所設置の全ロシア中執委決定.各県に強制労働収容所を設置.
4.11 レーニン,「われわれは革命を始めるとき,それは世界革命になると約束したが,それは始まった.われわれの国際的状況はすばらしい.今や数カ月だけで,われわれは世界規模の資本主義に勝利する」と語る
4.12 土曜日,モスクワの鉄道で労働者3台の蒸気機関車を無給で修理.以後毎年4.12前後の土曜に半ば強制の社会奉仕の無償労働.84年後のロシア紙によると「一労働者の軽率な行動」で無給の共産主義土曜労働始まる
4.13 (極秘) 政治局の会議でジノーヴィエフ,ペトログラードの状況について労働者の賃金が30%に減り,病院での飢えによる死亡率が33%になったと報告.しかし,もとはやせていたジノーヴィエフは党幹部の特別配給を受けて太ったので,ペトログラードで「ラム酒のばあさん」のあだ名をつけられた
4.13 (極秘) 政治局,外国共産党への資金援助を外務人民委員部からコミンテルンへ移管を決定.ただし財源はひきつづきロシアの国庫.1921年コミンテルンに秘密の資金接助を業務とする国際連絡部を設置後は,これをとおして援助.◆外国の革命運動への資金援助は17.12.13の人民委員会議布告により行われ,1918年初めから1922年末まで援助総額8123万2600金ルーブル(金ルーブルは革命前の金本位制通貨.1金ルーブル=0.7442g).コミンテルンをとおしての資金接助の総額は不明.⇒左派労働者組織支援国際労組基金.577頁
4.17 特別任務隊(ChON)結成の党中央委決定.ChONは工場党細胞,地区,市,郡,県党委員会が組織した党員,労組員,コモソモール員の部隊で,パトロール隊,歩兵,騎兵,砲兵,装甲車兵から編成.重要施設の警備にあたり,農民反乱との闘争で重要な役割をはたした.21.3.24赤軍警察部隊に編入.1921年12月現在ChONの職業的勤務者3万9673人,動員勤務者32万3372人.1924〜25年解散
4.24 (極秘) ヴェチェカーに3人からなる常任幹部会設置.その任務はヴェチェカーの捜査終結事件について判決.密室で書面により事件を審理.34.11.5設置の内務人民委員部特別会議の起源.
4.28 (極秘) レーニンとカーメネフ,モスクワのストライキ印刷労働者の容赦ない逮捕をチェカーに要求
〔5月〕
5.1 レーニン,赤の広場での演説で「国際ソビエト共和国(単数)万歳!」,「共産主義万歳!」と叫ぶ
5.1 (極秘) 全ロシア中央執行委議長カリーニンと人民委員会議議長レーニン,司祭との闘争をヴェチェカー議長ゼルジーンスキーに指示.「……できるだけ早く司祭と宗教に決着をつける必要がある.司祭を反革命分子,サボタージュ者として逮捕し,容赦なくいたるところで銃殺する.できるだけ多く,教会は閉鎖する.建物は封印し,倉庫に変える」.39.11.11廃止
5.2 [ドイツ] トーマス・マンの日記,ロシアについて,「文化のおそるべき破局,いつかは世界をおびやかす」と書く
5.12 強制労働収容所(集中収容所)の全ロシア中執委通達.ヴェチェカー管轄の県ソビエト所在の市と若干の郡に「とくに敵対的な分子」用の集中収容所を設置.収容者処遇は司法人民委員部管轄の強制労働収容所よりも厳しく定める
5.27 レーニン,ハンガリーの労働者へ,「昨日,あなたがたのプロレタリアート独裁の味方になった社会主義者や小ブルジョアのあいだに,動揺があらわれたなら容赦なく動揺を鎮圧する.銃殺は戦争で臆病者がうける当然の運命」と忠告.→6.24
〔6月〕
6.2 脱走兵根絶の労農防衛会議決定.自発的にもどらない脱走兵は勤労人民の敵,裏切り者であり,銃殺をふくむ厳罰
6.18〜20 第9回社会革命党大会.反ボリシェヴィキー武装闘争の中止を決議
6.20 全ロシア非常委員会(ヴェチェカー),県非常委員会,地方非常委員会の裁判によらない権利の全ロシア中執委布告.ヴェチェカーに組織的武力行為,その援助について銃殺権をあたえる
6.22 [極秘] 戒厳令布告地域の一般裁判管轄除外の全ロシア中執委布告.広い範囲の事件をヴェチェカーと県チェカーの管轄とする
6._ 労農防衛会議「われわれに敵対的,軍事行動をとっている国家のブルジョァジー出身で,ロシア社会主義連邦ソビエト共和国に居住する17歳以上55歳未満の外国人を,すべて集中収容所に拘禁する.ただしソビエト権力に忠誠を示した者を除く」と決定
〔7月〕
7.9 党中央委,党活動家に「ソビエト政権に反対し,したがってデニーキンを支持する」カデート,メンシェヴィキー,エスエルの摘発と逮捕を呼びかけ
7.18〜20 モスクワまたは近郊で社会革命党第9回評議会,ボリシェヴィキーとソビエト権力に対する方針を検討.ボリシェヴィキーが社会主義の基本原則である自由と人民主権をくつがえし,それを多数者に対する少数者の独裁に変えているから,現時点ではボリシェヴィキーとの協調は不可能とする中央委員会の見解を認め,しかし右からの反動の脅威がきわめて強まっており,民主派には目的達成のため二つの戦線でたたかう十分な力がないとして,武装闘争の中止を決め,ボリシェヴィキーが右からの反動をはぐくむ政策を自発的に捨てないなら,党は民主派の力を動員,組織し,「人民主権,自由,社会主義」の名で右派勢力と戦う力をととのえることを決定
7〜8月 [ウクライナ] 各地でソビエト政権の食糧,土地政策に反対の農民反乱.→8.30〜31
〔8月〕
8.1 [ハンガリー] ソビエト政権崩壊
8.15 赤軍モンゴールに進撃
8.18 地方の運送業の組織化の人民委員会議布告.馬を持つ農民に運送業務.1918〜19年に運送用,騎兵用に馬44万1428頭を馬車,そり,馬具とともに動員し,農民反乱の一因となる.21.12.21廃止
8.28 レーニン,『プラウダ』紙で「白軍,地主,資本家の共犯,従僕」であるエスエルとメンシェヴィキーを批判.ヴェチェカー資料によると9〜12月にエスエルとメンシェヴィキー2380人逮捕
〔9月〕
9.9 製紙業の危機にともない廃棄された保存文書調査のアルヒーフ総局通達.◆これ以後も貴重な保存文書の古紙としての処分がつづき,たとえばモスクワのレフォールト文書館の文書が3カ間に2万プード(約330トン)処分され,その中には1880〜1913年の将軍,高級将校の名簿,1877〜78年のトルコとの戦争の文書がふくまれている
9.11 [極秘] 政治局,カデート党中央委事件による教授と学者の大量逮捕を決定.→9.15,9.24,9.25
9.15 レーニン,ゴーリキーへの手紙に「労働者と農民の知的能力は,ブルジョァジーとその手先である知識人,人民の頭脳とうぬぼれている資本の走狗の打倒の闘いのなかで成長し,強くなっている.実際は彼らは頭脳ではなく,くそ(糞)である」と書く.3日後のゴーリキーへの手紙に,カデートとカデート周辺の公衆の逮捕は「行き過ぎではない.1万人を殺すより,数百,数千の知識人を数日か数週間勾留するほうが良い」と書く
9.24 詩人ギーピウスの日記.「昨日モスクワで67人(教授,社会活動家,女性)銃殺の公示,今日ここ(ペトログラード)で29人.‥‥‥闇と穴の感じ.静かな狂気」と書く.→11.2
9.25 ロシア共産党モスクワ市委員会の建物爆破.党モスクワ市第一書記ザゴールスキーら12人死亡.ただちにゼルジーンスキーの命令で,投獄中の元警察官,カデート党員,侯爵,伯爵が銃殺されたが,捜査の結果,爆破は無政府主義者によるものと判明.
9.26 (極秘) 党中央委員会総会,大量「赤色テロ」の宣言というゼルジーンスキーの提案を否決したが,事実上の実施をヴェチェカーに行わせることを決定
〔10月〕
10.19 キーエフ滞在のエレンブールグ,「キーエフで考える」に,赤軍のキーエフ急襲について「ボリシェヴィキーは政治的敵ではなく,暴行者であり,征服者である.これは『体制の交替』ではなく,略奪者の襲撃であり,市民の脱出であり,逃げおくれた者が捕虜となる」と書く
10.22 (極秘) レーニン,トローツキーへの手紙に,ペトログラードに迫るユデーニチ軍に決着をつけるため「悪魔のようにすることが最重要」だとし,「さらに2万人の労働者にプラスして〔1万人のブルジョアを動員し,その背後に機関銃を置き,数百人を撃ち殺し〕,ユデーニチに真の大衆的な打撃を加えてはいけないのか?」と記す(全集第5版に公表の手紙では,強調の〔〕内部分削除)
〔11月〕
11.2 革命軍事評議会命令,裏切り者の家族の逮捕と,最終的な勝利後の懲罰のため,裏切り者のブラックリスト作成を指令
11.2 詩人ギーピウスの日記.「耳にたえまない騒音.困難.パンは1フント(約410グラム)が300ルーブル.もう売る物はない.この先のあらゆる希望が消えた.…‥ボリシェヴィキーはたえず大喜びしている.白軍の完全な粉砕を信じ
11.8 (極秘) 政治局の会議で,スターリンが会議のいくつかの情報がなんらかのルートで敵に伝わっていると発言し,彼の提案で,政治局が(a)会議の議事録は少数の同志だけが知ることができる手続きを定め,(b)中央委員の同志は受取った議事録を注意深く保管を決定
11.21以前 (極秘) 政治局の会議.レーニン執筆の「ウクライナ政策の党中央委員会テーゼ案」を審議し,一部修正して採択.レーニン自筆の案によると「ウクライナのユダヤ人(ていねいにユダヤ人小ブルジョアジーと表現する)と都市住民をトゲ付き手袋(ezevyie rukavitsy)でおどし,戦線に送り,権力機関に入らせない(あるいは特別の場合に,ごく少数の%を階級的な(特別の)監督下におく)」.レーニンの母方の祖父はユダヤ人だったが,彼もユダヤ人は小ブルジョアジーとする階級的視点からの反ユダヤ主義に毒されていた.もっとも彼はマルクス,トローツキー,ジノーヴィエフなど革命家は別と見ていたようだ.→20.11.18
11.28 国家機関,国有企業軍事化規程(労農防衛会議決定)
〔12月〕
12.5〜9 第7回全ロシア・ソビエト大会.12.5レーニン,報告でボリシェヴィキーは穀物の自由商業反対で血の最後の一滴までたたかうと語る.
12.17 [極秘] 専門家の人質と逮捕のヴェチェカー命令
12.25前 (極秘) 労農防衛会議,第7回全ロシア・ソビエト大会の燃料問題決定(12.9)実施のため,燃料の調達と積み下ろしに,“ブルジューイ(ブルジョア野郎)”,役人,創作知識人(作家,美術家,音楽家など),帝政時代の将校など「過去の人間」の動員を決定.この問題の労農防衛会議特別全権代表にエーイドゥクを任命.→12.25
12.25 (極秘) レーニン,エーイドゥクに次の覚書をおくる.「聖ニコーラの日(旧暦12.6 新暦12.19)の放置は,ばかげている.聖ニコーラの日に作業に出なかった者の銃殺のため,全チェカーを立ち上がらせるべきだ.ただちに次の措置をとる必要がある.(1)積み込みをふやす.(2)クリスマスと新年のずる休みを防止せよ‥‥‥」
12.30 (極秘) レーニン,ヴェチェカーのカサークの捕虜約100万の措置について指示を請うの文章に,「一人残らず銃殺」と決裁
12.31 作家チュコーフスキーの日記.「1920年の正月を小麦のかゆ(カーシャ)で迎えた.それ以外になにもなかった」
1919年 北カフカース,シベリアで白軍,外国干渉軍に対するパルチザン戦争.ウクライナでマフノーのひきいる反ソビエトの農民反乱
19.5.1現在 外国干渉軍兵力総数約20万2500,(内訳)日本軍8万(戦争終了時15万),英軍約4万5000,チェコスロヴ了キア軍団4万2000,仏軍1万3500その他
1919年後半 赤軍から150万以上脱走.1919年末赤軍兵力311万5055,その内動員兵力130万,農民100万
1919〜20年 ロシア共産党の財政の85%が国庫からの流用
1919年の反革命罪 刑軍事責任を問われた者6万9238,勾留6万9238.判決:自由剥奪(収容所などへの拘禁)2万2022,死刑(銃殺)3456
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〔関連ファイル〕
『はしがき、あとがき』 憲法制定議会の武力解散もクーデタ
『1917年コラム』 十月革命は選挙運動中のクーデタ
『1918、19年、ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化年表』
『1920、21年、ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化年表』
『1922年、ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化年表』
『20世紀社会主義を問う−レーニン神話と真実1〜6』ファイル多数
他党派殲滅路線・遂行の極秘資料とその性質
レーニンがしたこと=政治的民主主義・複数政党制への反革命クーデター
『「赤色テロル」型社会主義形成とその3段階』レーニンが「殺した」ロシア革命勢力の推計
『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書