レーニンの反労働者政策とストライキ労働者弾圧・処刑

 

プロレタリアート独裁の実態=反労働者の党独裁・党治国家

 

ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』より(宮地引用・編集)

 〔目次〕

   1、宮地コメント−ストライキ弾圧・処刑資料とその隠蔽・破棄

   2、レーニン・トロツキーの反労働者政策と労働者弾圧・処刑データ

      1、レーニン・トロツキーの反労働者政策とその経緯

      2、ストライキ激発データと労働者弾圧・処刑(表1〜3)

   3、ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』より引用・編集

      1、1917年の労働者ストライキと弾圧・処刑資料

      2、1918年の労働者ストライキと弾圧・処刑資料

      3、1919年の労働者ストライキと弾圧・処刑資料

      4、1920年の労働者ストライキと弾圧・処刑資料

      5、1921・22年の労働者ストライキと弾圧・処刑資料

 

 〔関連ファイル〕          健一MENUに戻る

     第5部『革命労働者ストライキの弾圧・第5次クーデター』

     第5部2『トロツキー「労働の軍隊化」構想と党内論争』

     『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構』

     『ペトログラード労働者大ストライキとレーニンの大量逮捕・弾圧・殺害手口』

     『クロンシュタット水兵とペトログラード労働者』水兵の平和的要請とレーニンの皆殺し対応

 

     『「赤色テロル」型社会主義形成とその3段階』レーニンが「殺した」ロシア革命勢力の推計

     『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書

 

 1、宮地コメント−ストライキ弾圧・処刑資料とその隠蔽・破棄

 

 1917年から22年にかけての、労働者ストライキの状況、鎮圧実態については、1997年フランスで出版された『共産主義黒書』が、ソ連崩壊後に初めて明らかにした。このファイルは、レーニンのクーデター政権最高権力者期間5年2カ月間に関するデータである。

 

 E・H・カーは、『ボリシェヴィキ革命1〜3』(みすず書房、1967年、原著1952年)で、レーニンの労働者・産業政策を下記や別ファイルのように、綿密に分析した。彼は、レーニン・トロツキーの反労働者政策とその経緯についてだけなら発掘・公表をすることができた。しかし、彼でさえも、労働者ストライキ・鎮圧データについて、一件も発見できなかった。ソ連崩壊(原著1952年)では、ストライキの実態は極秘で、彼もそれを発掘できなかった。なぜ、ソ連が崩壊するまで、それらレーニン・トロツキーによる労働者犯罪資料を発見できなかったのか。

 

 ニコラ・ヴェルトは、『共産主義黒書』(恵雅堂出版、2001年11月、P.94)で、その理由を次のようにのべている。ボリシェヴィキは、労働者の名において政権を獲得したのだが、弾圧のエピソードの中で新体制が最も注意深く隠蔽したのは、まさにその労働者に対して加えた暴力だった。

 

 それら暴力データに関し、これほどの100%隠蔽度合は、レーニン自身が、プロレタリア独裁国家成立がウソだったこと、その実態は労働者党独裁・党治国家だったことを十分認識していた証拠ではないのか。

 

 ただし、レーニン・トロツキーは、ストライキ労働者への弾圧・大量殺人犯罪資料について、()最も注意深く隠蔽しただけでなく、()その多数を破棄・焼却したと思われる。

 

 稲子恒夫『ロシアの20世紀』が、破棄・焼却=浄化の規模、根拠について、次のように明記している。

 十月革命後も文書の破棄がくりかえし行われた.革命後の文書も政治的な判断で処分されたものがあり,また保存文書を「浄化」するキャンペーンが何回か行われ,そのため1980年代末まで連邦文書総局ではなく,ロシア文書総局管轄のアルヒーフだけでも,9000万以上文書が破棄された.文書の破棄はソ連末期に19913月のソ連共産党書記局の決定でも行われ,約660万の文書の破棄が決まったが,実際に234の文書が破棄された.1991年のクーデターのとき同党末期の文書がシュレーダーで急いで裁断された.

 

 このため革命前の文書だけでなく,ソビエト時代の多くの文書,とくに党の最高幹部が直接に関係した文書が破棄された.それでも膨大な数の文書が「秘」,「極秘」として残っていたから,これらの公開により20世紀ロシアのわれわれの知識は数千倍も豊かになった.

 

    稲子恒夫『ロシアの20世紀−はしがき』革命後の文書大量破棄

 

 ヴォルコゴーノフも、『レーニンの秘密・上下』において、レーニンのクーデター政権にたいするドイツ政府・軍部の資金援助の極秘資料を、「レーニン文書保管所」で徹底して探したが、一つも発見できなかった。そこから、彼は、レーニン自身がそれらの完全破棄を指令・直接点検をしたのではないかとの推測を書いている。

 

 は、1921年2〜3月ペトログラード労働者の全市的ストライキに関する文献・資料を収集し、検証したが、それらストライキ参加労働者数十万人にたいするペトログラード・ソヴィエト議長ジノヴィエフの大量殺人犯罪データを一つも発見できなかった。わずかに、V・セルジュ『母なるロシアを求めて』の証言だけだった。それは、ストライキ弾圧・1万人逮捕と同時に、ストライキ指導者たち500人即座に銃殺されたというメンシェヴィキ指導者ダンの証言である。

 

 逮捕労働者1万人中残り9500人にたいする処刑・強制収容所送りのデータは発見されていない。クロンシュタット事件の直前であり、革命拠点ペトログラード・ソヴィエトで発生した連結したストライキだけに、レーニン・トロツキー・ジノヴィエフらは、完璧なまでに、そのデータを破棄しつくしたと、私は推測している。ニコラ・ヴェルトも、このペトログラード全市的ストライキとその参加労働者への大量殺人犯罪データを載せていない。破棄犯罪により、発見できなかったのか? 『黒書』でも、1920〜22年ストライキ・データをほとんど載せていない。それらも、彼らが意図的に破棄したと推測できる。

 

    第5部『革命労働者ストライキの弾圧・第5次クーデター』労働者の大量逮捕・殺害

    『ペトログラード労働者大ストライキとレーニンの大量逮捕・弾圧・殺害手口』

 

 以下の労働者ストライキ・データは、ほとんどがニコラ・ヴェルトが発掘・公表した資料に基づいている。破棄を免れた極秘資料の原典がそれぞれ付いている。しかし、ロシア語原典をフランス語に直したもので、邦訳された資料はない。よって、出典としては、『黒書』のページ数を書く。これらは、『黒書』(P.70〜125)にある。

 

 「第2章、プロレタリア独裁の武装せる腕(かいな)」、「第3章、赤色テロル」、「第4章、醜悪な戦争」と「第5章、タンボフから大飢饉へ」から、()労働組合問題()労働者ストライキ事実()それが発生した原因・前後経過()レーニンによるストライキ労働者への弾圧・処刑関係データのみを、抜粋・引用し、月日・都市・事項を太字にし、各色太字も付けた。私の見解に基づく小見出しもかなり付けた。(宮地引用・編集)編集とは、『黒書』データを年月日の時系列順に並べ直したというだけで、原文を直していない。出版社からは、以前に、別ファイル「第2章の部分転載、抜粋引用」という形式でのHP転載の了解をいただいた。今回も、『黒書』からの抜粋・引用なので、出版社から改めての了解は得ていない。

 

 

 2、レーニン・トロツキーの反労働者政策とストライキ労働者弾圧・処刑データ

 

 〔小目次〕

   1、レーニン・トロツキーの反労働者政策とその経緯

   2、ストライキ激発データと労働者弾圧・処刑(表1〜3)

 

 1、レーニン・トロツキーの反労働者政策とその経緯

 

 これについては、別ファイルで詳細に分析した。それをリンクする。以下11のデータを通じて、「レーニンがしたこと」としての、都市ソヴィエト、労働組合、工場委員会から、ソヴィエト権力・革命労働者の権力簒奪していく過程を検証する。それらの経過全体は、レーニン・トロツキーらが革命労働者のソヴィエト権力を簒奪していく第5次クーデターとなった。これらは、EH・カー『ボリシェヴィキ革命2』(みすず書房、1967年、原著1952年)全体にある資料、および、ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』(恵雅堂、2001年、原著1997年)のデータに基づいている。引用頁数はいちいち書かない。

 

    『レーニンの労働者・産業政策と労働者要求との対立激化』11項目の内容と経緯

 

 〔小目次〕

   1、1918年1月7日、第1回全ロシア労働組合大会

   2、1918年2月1日、「差別的報酬形態」「出来高払い制」の布告

   3、1918年3月3日、最高国民経済会議による「上からの統制強化」法令

   4、1918年4月3日、労働組合中央評議会の中央集権化と「出来高払い制」の準則公布

   5、1918年4月28日、レーニン『ソヴィエト権力の当面の任務』を発表

   6、1918年5月13日、「食糧独裁令」発令。6月11日、「貧農委員会を組織する法令」公布

   7、1918年6月18日、「大工業国有化令」の発令

   8、1919年1月16日、第2回全ロシア労働組合大会

   9、1919年12月6日、チェーカー「飢餓と労働者の問題」についての報告

  10、1920年2月1日、レーニンのトロツキー宛「メモ」

  11、1920年3月29日、第9回党大会でのトロツキーの「労働の軍事規律化」発言

 

    第5部2『トロツキー「労働の軍隊化」構想と党内論争』

 

 2、ストライキ激発データと労働者弾圧・処刑(表1〜3)

 

 これは、『共産主義黒書』データを()にしたものである。出典は、すべて『黒書』のページ数である。ただ、弾圧・処刑数について、未判明分・未記載分が多くあり、数字に含めていない。レーニン・トロツキーらが、どれだけのストライキ労働者逮捕し、殺害したのかを、ニコラ・ヴェルト発掘・公表データによって検証する。ジェルジンスキーチェーカーによるストライキ労働者逮捕・銃殺・処刑・強制収容所送り行為は、当然ながら、レーニンによる「ストライキをする黄色い害虫」レッテルに基づく弾圧・処刑・浄化命令に基づいている。

 

 ただ、1921〜22年ストライキ・データが、ほとんどない。それは、稲子恒夫証言のように、彼らによる破棄犯罪の結果とも考えられる。というのも、トロツキー提唱・レーニン支持による「労働の軍事規律化」が、1920年〜22年にかけ、2000企業で実行された。それに反対する労働者ストライキが激発した。レーニン・トロツキー・ジェルジンスキーは、下記()数字よりもはるかに大規模なストライキ労働者逮捕・銃殺・処刑・強制収容所送り行為という労働者犯罪を遂行たからである。そのケースは、ニコラ・ヴェルトが、ウクライナ・ドンバス炭坑における一例を発掘・公表できただけである。

 

 レーニンは、1921年3月第10回大会の最終日分派禁止規定突如提出し、成立させた。そして、レーニン主流分派・トロツキー「労働の軍事化」分派という2分派は、同年夏までに、「労働の軍事化」に強烈に反対していた労働者反対派分派・民主主義的中央集権分派党員の約20%〜24%・136836人除名をした。これは、レーニン分派・トロツキー分派による反対2分派粛清の騙まし討ち的な党内クーデターだったと規定できる。

 

 レーニン・トロツキーによる()3月分派禁止規定成立と、()「労働の軍事化」反対2分派全員除名とを、一体のものとして関係づける歴史解釈が必要である。詳しくは、別ファイルで検証した。異様な除名規模24%・136836人は、フランス人研究者ダンコースが発掘・公表したデータである。

 

    『レーニンによる分派禁止規定の国際的功罪』

       レーニンがしたこと=少数分派転落・政権崩壊に怯えた党内クーデター

    『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機、クロンシュタット反乱

    リチャード・パイプス『1921年危機−党機構官僚化と分派禁止』

    ダンコース『1921年民衆蜂起・ネップ・分派禁止規定』

 

 レーニン・トロツキーは、労働者反対派ら党員20%〜24%の全員除名という党内の邪魔者を党外排除しつくした上で、労働者にたいし、「労働の軍事規律化」2000企業で実行させた。プロレタリアート独裁看板掲げるからには、その裏側で遂行された労働者犯罪データは、レーニン・トロツキーにとって、隠蔽だけでなく、全面破棄する必要があったのではないか。

 

(表1) 労働者ストライキと参加者の大量逮捕・処刑数

1917年〜18年

地方・都市

月日・内容

逮捕・処刑

出典

1917

ペトログラード

12、公務員ストライキ

リーダー逮捕

70

1918

モスクワ

ソ連全土

 

コルピノ

エカチェリンブルグ

7都市

ペトログラード

 

 

()支配地域

ヤロスロヴリ

ペルミ県

4.11、アナキスト襲撃

56、社会主義的反対派新聞

    反対派勝利のソヴィエト解散

56、労働者の食糧要求デモ

56、ベレゾフスキー工場の抗議集会

56、抗議集会、デモ、ストライキ

56、ストライキ、集会、デモ70

6.20、暗殺への「赤色テロル」

7.2、抗議のゼネスト呼び掛け

夏、大規模な「農民反乱」140

7.24、イジェフスク兵器労働者蜂起

11、モトヴィリハ武器工場ストライキ

逮捕520人、処刑25

新聞205を発行禁止

1930で敗北、12を解散

射殺10

殺害15人、銃殺14

流血の鎮圧

ロックアウト、指導者逮捕

逮捕800

弾圧、スピリドーノヴァ逮捕

 

処刑428

ロックアウト、全員解雇、逮捕、処刑100人以上

73

75

 

76

 

 

78

 

 

80

81

87

 

(表2) 労働者ストライキと参加者の大量逮捕・処刑数

1919年

地方・都市

月日・内容

逮捕・処刑

出典

1919

ペトログラード

 

9都市

4都市

アストラハン

 

 

 

 

トゥーラ

 

3.10、全市の抵抗運動とストライキ

プチーロフ工場も党独裁批判の宣言

春、ストライキ

春、労働者街にある兵営の軍隊反乱

3.10、食糧配給量と社会主義活動家逮捕への抗議ストライキ、デモ。それへの発砲拒否の第45連隊の合流。クロンシュタット虐殺前のボリシェヴィキ権力による最大の労働者虐殺

冬、多くの武器製造工場であるトライキ

3月初め

3.27、何千という労働者と鉄道員の「自由を求め飢えと闘う行進」

全員解雇、逮捕900人、処刑200人、密告者網

ロックアウト、処刑、配給停止

何百とまとめて処刑

スト参加者と反乱兵士の銃殺・溺死処刑2000人から4000人。ブルジョア銃殺600人から1000人共産党側犠牲47

 

社会主義活動家逮捕数百人

リーダー逮捕、全労働者解雇、ロックアウト、配給券差押え、リーダー死刑20

94

 

95

 

96

 

 

 

 

96

 

(表3) 労働者ストライキと参加者の大量逮捕・処刑数

1920〜21年

地方・都市

月日・内容

逮捕・処刑

出典

1920

レーニン

 

プラウダ

 

 

労働人民委員部の公式統計

シンビルスク

 

エカチェリンブルグ

リャザン・ウラル線

モスクワ・クルスク線

ブリヤンスク

 

ソ連全土

2.1、「何千もの人間が死んでもかまわないが、国家は救われなければならない」

2.12、「これら有害な黄色い害虫であるストライキ参加者の絶好の場所は、強制収容所である」

20年前半、ロシアの大・中規模の工業経営の77%であるトライキ。「労働の軍事規律化」が最も進んだ金属工業、鉱山、鉄道が中心

4、武器工場でイタリア・ストライキ型サボタージュ=許可なし休憩、日曜強制労働に抗議、共産主義者の特権批判、低給与告発

「労働の軍事規律化」への抗議ストライキ

4、鉄道員

5、鉄道員

6、金属工場

 

「労働の軍事規律化」によるストライキの例は、さらに何倍もある

 

 

 

 

 

 

 

収容所送り12

逮捕・収容所送り80

有罪100

有罪160

有罪152

 

それへの弾圧も何倍もある

98

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

99

1921

ペトログラード

ウクライナ・ドンバス

他地方

23、全市的ストライキ

「労働の軍事規律化」のさらなる強化、2000企業

他データの発掘・公表なし全面破棄が原因か?

逮捕1万人、即時銃殺500

炭坑夫銃殺18

 

125

 

 『第5部2』に載せた1920年春以降の2000企業「軍隊化」とソ連全土における労働者ストライキ激発、それにたいするレーニン・トロツキーらによる弾圧は何を示すのか。1921年「ネップ」後、ウクライナのドンバス大鉱工業地帯で実施された「労働の軍事規律化のさらなる強化」実態は、何を浮き彫りにしたのか。それらレーニン・トロツキーがしたことは、「すべての権力を労兵ソヴィエトへ」と決起した労働者兵士ソヴィエト革命にたいし、ソヴィエト権力を簒奪しつくす反革命クーデターそのものだった。これらの実態を知っても、それでも「プロレタリア独裁国家は成立していた」と、なお強弁する左翼がいるだろうか。

 

    第5部『革命労働者ストライキの弾圧・第5次クーデター』

    第5部2『トロツキー「労働の軍隊化」構想と党内論争』

 

 

 3、ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』より引用・編集

 

 レーニンは、単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターの最初から、ストライキ労働者を敵視し、一貫して「黄色い害虫」とのレッテルを貼っていた。レーニン・トロツキーの反労働者政策にたいし、労働者ストライキは激発していた。ストライキ弾圧参加労働者大量処刑・強制収容所送りは、赤色テロルにおける本質部分である。よって、赤色テロル関連データもここに引用する。編集とは、私の判断により、()小見出しをいくつか挿入したこと、()事件を時系列順に並び直したことを指す。なお、訳語として、『黒書』は、ソビエトを使っているので、そのまま載せる。

 

 〔小目次〕

   1、1917年の労働者ストライキと弾圧・処刑資料

   2、1918年の労働者ストライキと弾圧・処刑資料

   3、1919年の労働者ストライキと弾圧・処刑資料

   4、1920年の労働者ストライキと弾圧・処刑資料

   5、1921・22年の労働者ストライキと弾圧・処刑資料

 

 1、1917年の労働者ストライキと弾圧・処刑資料

 

 12月、ペトログラード、公務員ストライキ

 

 チェーカーが、最初にやったのは、この公務員ストライキの粉砕することだった。そのやり方は迅速だった。「リーダーの逮捕」であり、その根拠は「人民とともに働くことを欲しないものは、人民とともにいる場所をもたない」(『黒書』P.70)

 

 これは、時期的に、下記の鉄道従業員組合と同じような、ボリシェヴィキ単独権力奪取クーデターにたいする直後の批判ストとも推測される。しかし、正確なストライキ原因は、書いてない。チェーカーとは、レーニンが創設したばかりの秘密政治警察だった。ストライキ労働者のいる所は監獄であるというのが、権力奪取1カ月後のレーニン、ジェルジンスキーの基本姿勢だった。1905年革命における労働者ストライキを称賛し、激励した「革命家レーニン」は、権力奪取クーデターの瞬間から、ストライキ労働者逮捕する一党独裁政治家レーニンへと、見事に変身した。

 

 2、1918年の労働者ストライキと弾圧・処刑資料

 

 1月10日、鉄道従業員組合にたいするレーニンの組合分裂策動と新労組からも権限限定

 

 単独権力奪取後、単独政府を維持する上で、最初の障害となったのが、鉄道従業員組合だった。それにたいするレーニンの策動の分析を2つ載せる。ただし、ニコラ・ヴェルトでなく、E・H・カーR・ダニエルズによる検証である。この事件は、次の点で重要な位置づけとなるテーマとなった。

 

 レーニンは、単独武装蜂起・単独権力奪取クーデター連立政府要求拒否の一党独裁反対・抵抗する組合を分裂させた。さらに、新分裂組合の権限をも極端に限定した。これは、上記・別ファイルで検証した労働組合政策・工業政策全体の原型になった。ボリシェヴィキ党独裁・クーデター政権と、労働組合・工場委員会との矛盾が激化したとき、レーニンがより厳格な中央集権的労働者管理に転換することの先例となった。さらに、その労働者政策は、労働の軍事規律化政策に変質して行った。

 

 左派エス‐エルとの連立政府の期間は、1917年12月から始まり、1918年3月3日ブレスト講和条約で決裂するまでの3カ月間だけだった。連立成立の原因が、鉄道従業員組合の挑発・脅迫だけではない。しかし、それは明白な原因の一つである。そして、ボリシェヴィキ路線・政策を批判する労働組合にたいするレーニンの対応は、その後の彼の労働者・産業政策の基本となった。

 

 ()、E・H・カーは、『ボリシェヴィキ革命2』の「鉄道にたいする労働者統制」(P.293)で、次のように分析している。鉄道は、革命前から国有だった。全ロシア鉄道従業員組合(ヴィグジェーリ)は、ロシア最大の労働組合である。その執行委員会40人中ボリシェヴィキ2、メジライオンツィ2、ボリシェヴィキシンパ1で、他の35人はエス‐エル、メンシェヴィキ、独立派だった。その組合は、「十月革命」と同時に、鉄道の管理を自ら行い、「労働者統制」を実施するマンモス工場委員会の役割を果たした。

 

 1917年11月8日の第2回全ロシア・ソヴィエト大会が予定されていたにもかかわらず、レーニン・トロツキーは、その大会決定・承認を待たずに、冬宮襲撃をクーデター的に強行した。レーニンの「抜け駆け的単独権力掌握クーデター」にたいして、ソヴィエト内社会主義政党メンシェヴィキ・右派エス‐エルとともに、鉄道従業員組合は、強烈な怒りをもって反発した。レーニンは、やむなく「左翼エスエルとの連立政権」要求を受け入れつつも、組合分裂策動で応えた。その詳細な経過を別ファイルに載せた。

 

    E・H・カー『鉄道にたいする労働者統制』レーニンによる組合分裂策動と統制開始

 

 ()、R・ダニエルズも、『ロシア共産党党内闘争史』において、詳細なデータで、「蜂起か連立か」の情景の描写をしており、その論証を次のようにしている。

 

 挑戦は、十月革命の翌日第二回全ロシア・ソヴィエト大会の席上で、もっともあからさまな、劇的な形でおこなわれた。ヴィグジェーリは、一政党による権力の奪取にたいして否定的態度」をとり、「すべての革命的民主主義の全権機関に責任をおう革命的社会主義政府」が結成されるまでは、ヴィグジェーリが鉄道を引きうけ、その後も、この政府から発せられる命令だけに服従するであろう、と声明し、万一鉄道従業員にたいする弾圧的処置をとろうとする試みがなされた場合には、ペトログラードへの補給を絶つ、と脅迫した。この一斉射撃にたいして、カーメネフは全ロシア・ソヴィエト大会の最高権威を主張する形式的回答をなしえたのみであった。

 

 ヴィグジェーリの態度は、普通に考えられていたような労働者統制をこえてしまった。それは、もっとも極端な形でのサンジカリムであった。にもかかわらず、人民委員会議は無力であった。鉄道はヴィグジェーリの手中にとどまっていた。二日後鉄道ゼネストをもって脅かす最後通牒によって、ボリシェヴィキは連立政府をつくるため、他の社会主義諸政党と交渉に入らざるをえなくなった。

 

 交渉はだらだらと長引いた。レーニンとトロツキーがあまりに強い線をとっていると考えたボリシェヴィキの一グループは、辞職を突きつけた。しかし、五日後三人のエス‐エル左派を人民委員会議に入れるという合意が達せられた。それは、ヴィグジェーリによって承認され、委員会の旧委員が交通人民委員部の空席を満たした。

 

 ヴィグジェーリとの妥協は不安定で、連立政府よりも永続的でないことさえあきらかになった。全ロシア鉄道従業員組合大会が、憲法制定議会の会議中に開かれていて、少数差で議会への信任投票を通過させた。これは、ボリシェヴィキと政府にたいする挑戦として意図され、かつ承認されたのであった。

 

 少数派は大会を脱退して、それ自身の対抗的鉄道従業員大会を組織した。この大会は、レーニンの長い政治演説をきいた後、二五人のボリシェヴィキ、一二人のエス‐エル左派、三人の独立派からなるそれ自身の執行委員会(区別するため、ヴィグジェドールと呼ばれた)を創設した。新しい大会とその執行委員会はただちに人民委員会議から公式に承認され、ヴィグジェドールの委員であるロゴフが交通人民委員となった。

 

 いまやソヴィエト政府は、鉄道職員にたいするヴィグジェーリの権威失墜させるために、労働者統制の原則をひきつづき呼びかけた。おそらく、それまでのソヴィエト立法のなかでもっとも露骨なサンジカリスト的措置であったと思われる。この新組織は、有能ではあるが敵意あるヴィグジェーリを破壊するのに役立ち、未知数ではあるが友好的なヴィグジェドールにとってかわるのに役立った。しかし、それは、ロシアの鉄道運行のための効果的な道具にならなかったし、またなりえなかった

 

 全ロシア鉄道従業員大会の機能は、人民委員部参与会員の選挙にはっきりと限定された。これらの選挙は人民委員会議と全ロシア中央執行委員会の確認を得なければならず、参与会の権限は人民委員に反対して上記二機関に訴えることだけに限定された。この布告は、思い切ったもののようにみえるけれども、困難なく守られ、正当化された。

 

    R・ダニエルズ『ロシア共産党党内闘争史』連立か独裁か

 

 4月11、12日、モスクワ、チェーカーによるアナキスト襲撃

 

 チェーカーは一九一八年の四月十一日から十二日にかけての深夜、その最初の大規模作戦で、一〇〇〇人以上の特別部隊がモスクワのアナキストの立てこもる二〇軒ほどの家を襲撃した。数時間の激しい戦いののち、五二〇人のアナキスト逮捕され、二五人「匪賊」として略式で処刑された。この「匪賊」〔バンディト〕という呼び方はその後、ストライキ中の労働者徴兵忌避の人間や食糧徴発に反対して蜂起した農民をも指すようになった。

 

 モスクワでも、ペトログラードでも「鎮撫化」作戦が行なわれ、この最初の成功のあと、ジェルジンスキーは一九一八年四月二十九日に全露中央執行委員会にあてた書簡の中でチェーカーの能力の増大について記している。「今日の段階において、四方八方の反革命勢力の増大に直面して、チェーカーの活動が累乗的に増大するのは不可避である」。(『黒書』P.73)

 

 5、6月、ソ連全土、ボリシェヴィキの選挙敗北と反対派掌握のソビエトを武力で解散

 

 政治面で、一九一八年春独裁の強化は、すべての非ボリシェヴィキ系新聞最終的発禁非ボリシェヴィキ系ソビエト解散反対派逮捕多くのストライキ粗暴な抑圧となって表れた。一九一八年五月〜六月には、二〇五の社会主義的反対派の新聞が完全に発行禁止になった。メンシェヴィキや社会革命党が多数派だったカルーガ、トヴェーリ、ヤロスラーヴリ、リャザン、コストロマ、カザン、サラートフ、ペンザ、タンボフ、ヴォロネジ、オリョール、ヴォログダのソビエトは、武力で解散させられた。

 

 弾圧はどこでもほとんど同じやり方で行なわれた。反対派が選挙で勝って、新しいソビエトがつくられると、その数日後に土地のボリシェヴィキは軍隊の応援を頼むが、それはたいていチェーカーの分遣隊だった。ついで戒厳令を出して、反対派逮捕したのである。(『黒書』P.76)

 

 5月31日、トヴェーリ、ジェルジンスキーによるチェーカー全権委員への指令

 

 反対派が勝利した町に自分の信頼する協力者を送ったジェルジンスキーは、一九一八年五月三十一日、トヴェーリヘ派遣した全権のエイドゥークに、自分の命令を実行するにあたってなにより有効な武力行使について、次のように単純率直に書いている。「メンシェヴィキエス‐エルや、その他反革命の畜生どもに影響された労働者たちは、ストライキを行い、『社会主義』めいた政府の創設に賛成を表明した。君はすべての市にポスターを張って、ソビエト権力に対して陰謀を企てるあらゆる匪賊、盗賊、投機家、反革命家はチェーカーによってただちに銃殺されると声明すべきだ。

 

 市のブルジョワに対しては特別の支援を頼むがいい。彼らを調べ上げよ。もし彼らが動きだしたら、このリストが役立つだろう。我々の地方チェーカーがどんな構成員からなっているか、わたしに聞いてくれ。人を黙らせるには一発ぶっはなすのがいちばん有効だ、とよく知っている連中を使うことだ。わたしは経験から、少数の断固とした人間で情況を変えることができるということを学んだ。」(『黒書』P.76)

 

 5月後半から6月、その弾圧・排除にたいする労働者の抗議・デモ・ストライキと流血の鎮圧

 

 反対派の掌握したソビエト解散し、一九一八年六月十四日にソビエトの全露執行委員会からメンシェヴィキと社会革命党員排除したことで、多くの工業都市において抗議、デモ、ストライキが起こった。一方、そこでの食料事情はますます悪化していった。ペトログラード近くのコルピノにおいて、あるチェーカーの分遣隊長は、労働者の食料要求デモ発砲を命じたが、彼らの配給食糧は一カ月小麦粉二フント〔〇・八キロ〕まで落ち込んでいた! その結果、十人死者がでた。

 

 同日、エカチェリンブルク近郊のベレゾフスキー工場では、赤衛軍によって十五人殺されたが、彼らは「ボリシェヴィキの委員たち」が、町でいちばんよい家々を占拠した上に、土地のブルジョワジーから取り立てた一五〇ルーブルを横領したことに抗議の集会を開いたからだった。翌日には地区当局はこの工業都市に戒厳令を宣言し、モスクワの判断も仰ぐことなしに、土地のチェーカーによって十四人即座に銃殺された!

 

 一九一八年の五月後半と六月にはソルモヴォ、ヤロスラヴリ、トゥーラや、ウラルの工業都市のニジニ−タギール、ベロレツク、ズラトウスト、エカチェリンブルクなどで、多くの労働者のデモ流血の中で鎮圧された。運動抑圧において、土地のチェーカーの役割がますます強くなったことは、「コミッサロクラシー〔委員官僚制〕」に奉仕する「新オフラナ(帝政時代の政治警察)という言葉やスローガンが、労働者間で使われる頻度が多くなったことでも証明される。(『黒書』P.76)

 

 6月8日、第一回全ロシア・チェーカー会議

 

 一九一八年六月八日から十一日にかけて、ジェルジンスキーは第一回全ロシア・チェーカー会議を開催し、そこに四三地区、約一万二〇〇〇の代表一〇〇人ほどが出席した。このチェーカーのメンバー数は一九一八年の末には約四万に、そして一九二一年初めには二八万人以上に増加した。何人かのボリシェヴィキが「ソビエト以上」「党以上」とさえ言ったこの会議は、「ソビエト・ロシアの行政当局の最高機関として共和国全土に反革命に対する闘いの重荷を引き受ける」ことを宣言した。この会議のあとで採用された理想的構図は、一九一八年六月から政治警察に割り当てられた広範な活動領域を示している。注目すべきことは、これが一九一八年夏の「反革命的」蜂起の大波が襲うだったということである。(『黒書』P.77)

 

 6月10日、死刑を法的に復活

 

 この全ロシア・チェーカー会議が終わる二日前に、政府は死刑を法的に復活させることを布告した。死刑は一九一七年の二月革命のあと廃止されていたが、一九一七年七月にケレンスキーが復活した。しかし、これが実施されたのは軍法下にあった前線だけであった。一九一七年十月二十六日(十一月八日)の第二回ソビエト大会で採択されたひとつは、この死刑の廃止だった。

 

 この決定は、レーニンを激怒させた。「これは間違いだ。許すことのできない弱気だ。平和主義的幻想だ!」 レーニンとジェルジンスキーは、死刑の復活がチェーカーのような超法規的機関によって「こまごました遵法」など抜きにして執行されるようになるだろうということは百も承知の上で、その法的復活を粘り強くはかった。革命裁判所において最初に死刑の判決が下されたのは、「反革命」罪のシチャストヌイ提督に対してで、彼は一九一八年六月二十一日に「合法的に」銃殺された。(『黒書』P.77)

 

 5月〜6月20日前、ペトログラード、労働者ストライキ・集会・デモとロックアウト

 

 ボリシェヴィキと労働者の関係は、悪化し続けていた。一九一八年五〜六月、ペトログラードのチェーカーは、七〇の「事件」―ストライキ、反ボリシェヴィキ集会、デモ―について報告した。彼らの主力は一九一七年とそれ以前において、最も熱烈にボリシェヴィキを支持していた労働運動の砦たる金属労働者であった。彼らのストライキに対して当局は国営化された大工場をロックアウトすることで応えたが、このやり方はその後何カ月かの間、労働者の抵抗打ち破る常套手段となった。(『黒書』P.78)

 

 6月20日〜7月2日、ペトログラード、ヴォロダルスキー暗殺、800人逮捕、ゼネスト呼び掛け

 

 六月二十日、ペトログラードのボリシェヴィキ指導者の一人であるX・ヴォロダルスキーが、エス‐エルの活動家によって殺された。この暗殺は、古都を一時期ひどい緊張状態に陥れた。ヴォロダルスキー暗殺のあと、ペトログラードの労働界は、かつてない連続逮捕に見舞われた。ペトログラード・ソビエト対抗する労働者の真の反権力組織としてペトログラードにできた、大部分がメンシェヴィキからなる「労働者全権会議」は、解散させられた。二日間八〇〇人以上の「首謀者」逮捕された。この大量逮捕に対して労働者側は、一九一八年七月二日ゼネストの呼び掛けで応えた。

 

 この時レーニンは、モスクワからボリシェヴィキ党のペトログラード委員会議長のジノヴィエフに手紙を送ったが、これはテロについてのレーニンの見解と、彼の異常な政治的幻想についてよく示すものである。労働者がヴォロダルスキーの暗殺に反対して立ち上がったと考えたことで、レーニンはとんでもない政治的誤りを犯したのだった。

 

 「同志ジノヴィエフ! 我々はたった今ペトログラードの労働者が同志ヴォロダルスキーの暗殺にたいして、大量テロをもって応えようとしたこと、そして君(君個人ではなく、ペトログラード党委員会のメンバー)たちが、それを止めたことを知った。わたしは断固そのことに抗議する! 我々は身を危険にさらしているのだ。我々はソビエトが決議した大衆テロを推奨しながら、いざ実行となると大衆の完全に正しい率先的行動を妨害しているのだ。これは許しがたい! テロリストたちは我々を腰抜けだと考えるようになるだろう。いまは非常時なのだ。反革命に向けられたテロの大衆的性格とエネルギーを鼓舞しなければならない。とりわけ決定的な先例をつくることになるペトログラードではそうだ。敬具。レーニン。」(『黒書』P.78)

 

 夏、内戦中でのボリシェヴィキ支配地域で、140の大規模な「農民反乱」勃発

 

 どうにかボリシェヴィキが支配していた地域でも、一九一八年にはおよそ一四〇の大規模の反乱が起きた。その主な原因となったのは、食糧徴発隊によって乱暴に取り上げられることを、農民共同体が拒絶したこと、個人的商取引が制限されたこと、新たに赤軍に徴兵されることであった。怒った農民は群れをなして手近な町へ行き、ソビエト包囲し、ときには火をつけようとした。多くの場合、事態は悪化していった。軍隊や、治安維持を任務とする民兵隊や、ついで次第に頻繁にチェーカーの部隊が、ためらわずデモ発砲するようになった。(『黒書』P.80)

 

 7月24日、3都市とイジェフスク兵器工場労働者の蜂起

 

 一九一八年反乱に関するチェーカーの報告を注意ぶかく読むならば、社会革命党の指導者ボリス・サヴィンコフ指揮下に、祖国〔と自由〕防衛同盟によって組織されたヤロスラヴリ、ルイビンスク、そしてムーロムの反乱と、メンシェヴィキと社会革命党の地方組織によって扇動されたイジェフスクの兵器工場労働者の蜂起だけが、前もって準備されたものだということがわかる。

 

 その他の反乱は、すべて食糧徴発徴兵反対して農民の共同体が起こした事件のあと、自発的にまた局部的に発生したものだった。これらの反乱は、赤軍の分遣隊チェーカーの部隊によって、数日中情け容赦なく鎮圧された。サヴィンコフの部隊が土地のボリシェヴィキ権力を奪ったヤロスラヴリ市だけが、半月ほど抵抗した。この市が陥落したあと、ジェルジンスキーは、ヤロスラヴリに「特別調査委員会」を派遣したが、これは一九一八年七月二十四日から二十八日までの五日間四二八人処刑した。(『黒書』P.81)

 

 8月8、9日、ソ連全土、蜂起防止の「予防措置」としての人質と名指し指名

 

 一九一八年八月ひと月を通して、ということは九月三日赤色テロルが「正式に」に始まる以前に、レーニンとジェルジンスキーをはじめとするボリシェヴィキ指導部は、チェーカーや党の地方機関に無数の電報を打って、蜂起のあらゆる試みを防ぐために「予防措置」を講ずるよう要求した。「これらの措置のうちで最も効果的なのは−とジェルジンスキーは説明している−ブルジョワジーの中から人質をとることである。諸君がつくったブルジョワジーから徴収された特別税のリストをもとにして……すべての人質と容疑者逮捕し、強制収容所に監禁するのだ。」

 

 八月八日、レーニンは食糧人民委員のツルーパに、次のような政令を起草するように要求した。「各穀物生産地区において、最も裕福な者二五人を人質にとり、食糧徴発計画が実行されないときには、その命をもって責任をとらす」。ツルーパはこのような人質をとることは難しいというところから、要求が聞こえないふりをした。レーニンは今度はもっとはっきりした第二の覚え書きを彼に送った。「わたしは人質をとれとは言っていない。各地区において名指しで指名するようにと言っているのだ。この指名の目的は彼ら金持ちが自分たちの税金に対して責任があるように、自分たちの地区の食糧徴発即時実現命をかけて責任をもつということだ。」(『黒書』P.82)

 

 8月9日、裁判もなしに「疑わしき者」を閉じこめる強制収容所政策

 

 人質政策のほかに、一九一八年八月にボリシェヴィキ指導部は、戦時のロシアに出現したもう一つの抑圧道具を実験した。それは「強制収容所」である。一九一八年八月九日、レーニンはペンザ県の執行委員会に電報を打って、「クラーク、聖職者、白衛軍、その他の疑わしき者強制収容所」閉じこめるように命じた。

 

 その数日前、ジェルジンスキーとトロツキーは同じように人質「強制収容所」に収監するよう命じた。これらの「強制収容所」はきわめて簡単な行政措置で、まったく裁判もなしに、「疑わしき者」を閉じこめる収容施設である。ロシアには他の交戦国と同様に、すでに多くの捕虜収容所があった。

 

 予備拘束される「疑わしき者」の中には、まず第一に、まだ自由の身だった反対党の政治家がいた。一九一八年八月十五日、レーニンとジェルジンスキーはメンシェヴィキ指導部の主立った者、マルトフ、ダン、ポトレーソフ、ゴールドマンらの逮捕命令に署名した。すでにこの時、彼らの新聞沈黙し、代表はソビエトから追放されていた。(『黒書』P.82)

 

 8月9日、レーニンの電報−テロル・強制収容所送り・処刑

 

 日増しに増加するこのような衝突の中に、ボリシェヴィキ指導部は白衛軍を装ったクラーク」によって指導された、自分たちの権力に対抗する大規模な反革命の陰謀を見た。

 

 「ニージニー−ノヴゴロドで白衛軍の蜂起が準備されているのは明らかである。同市のソビエト執行委員会議長から、食糧徴発抗議する農民の事件を聞いたレーニンは、一九一八年八月九日に同議長にあてて電報を打った。ただちに、独裁のトロイカ(君自身とマールキンともう一人で)をつくり、大衆テロルを即時実施し、兵士たちに酒を飲ませる何百人もの娼婦や、旧士官等を、銃殺するか強制収容所へ送るべきである。一刻の猶予もならない……断固として行動すべきである……大規模な家宅捜査を行なうこと。武器携帯者は処刑メンシェヴィキおよびその他の疑わしい者強制収容所送り。」(『黒書』P.81)

 

 8月10日、ペンザへのレーニン電報−クラーク絞首刑指令

 

 翌八月十日、レーニンは同様の内容の電報をペンザのソビエト執行委員会に打った。

 「同志諸君! 君たちの五つの郷におけるクラークの蜂起は、容赦なしに粉砕しなければならない。全革命の利害がそれを要求している。なぜなら今後いたるところで、クラークとの『最終的闘い』が始められるからだ。先例を示す必要があるのだ。1、世間に知られたクラーク、大金持ち、吸血鬼どもを、少なくとも一〇〇人以上絞首刑にすること(わたしは人々に見えるようなやり方で絞首刑にしろと言っているのだ)。

 

 (2)、彼らの名前を公表すること。(3)、彼らの穀物全部没収すること。(4)、昨日電報で指示した人質の身元確認をおこなうこと。これらのことを周囲何百ベルスタ〔一ベルスタは約一キロ〕もの人々が見て、震えながら、我々が血に飢えたクラークどもを殺しているのだ、これからも殺し続けるだろう、と言うようなやり方で実行するのだ。諸君がたしかにこの指令を受け取り、実行したと返電されたし。草々。レーニン。

 追伸。もっとタフな人間をみつけたまえ。」(『黒書』P.81)

 

 8月30日、2つの暗殺事件

 

 ボリシェヴィキの指導部にとって、反対派の異なったカテゴリー間の境界消滅していた。彼らは、国内戦の時には、その時代に特有の法律があるのだと説明していた。

 

 ジェルジンスキーの主な協力者の一人のラツィスは。一九一八年八月二十三日の『イズヴェスチア』にこう書いている。「内戦期には成文法無視される。資本主義戦争には成文法があるが……内戦にはそれ特有の法があるのだ……敵の主力を打ち破るだけでなく、階級的秩序に刃向かう者は誰であれ、剣によって滅ぼされることが明らかにされなければならない。ブルジョワジーがプロレタリアに対する内戦において常に守ってきたのは、かかる法則である……我々は未だこの法則を十分わがものとしていない。彼らが我々を何百、何千と殺しているのに、我々は委員会や裁判で長い時間かけて彼らを一人ずつ処刑している。内戦においては、裁判所はない。これは生死をかけての戦争なのだ。殺さなければ、殺されるのだ。それなら、殺されたくなかったら、殺すのだ。」

 

 一九一八年八月三十日二つの暗殺事件が起こって、ボリシェヴィキ指導部に、自分たちの存在自体が脅かされているという考えを一層強固なものにした。一つはペトログラードのチェーカー長官MS・ウリッキーに対するもので、もう一つはレーニンに対してだった。実際のところ、これら二つの事件は相互になんの関連もなかった。前者は、自分の友人の士官が数日前ペトログラード・チェーカーによって処刑されたことに復讐したいと思った若い学生によってなされたもので、純粋に革命的ナロードニキのテロルの伝統を受け継いでいた。

 

 もう一つのレーニンに向けられた事件は、社会革命党のアナキストに近い女性闘士ファニー・カプランによるもので、彼女はその場で逮捕され、三日後裁判もなしに死刑に処されたと長いこと言われてきた。しかし、今日では真犯人を逃がしたチェーカーによって仕組まれた挑発の結果だ、と考えられている。ボリシェヴィキ政府はただちにこれらの犯人は「フランスとイギリスの帝国主義の手先である右派社会革命党員」によるものだと発表した。(『黒書』P.82)

 

    『赤色テロル3段階と白色テロルとの関係』赤色テロルへの報復としての白色テロル

 

 8月31日、テロル拡大、赤色テロルのアピール

 

 翌日から、新聞論調政府の宣言は、テロルの拡大を訴えた。「労働者諸君−と『プラウダ』の一九一八年八月三十一日号は書いている−我々がブルジョワジーを殲滅させる時が来た。さもなければ、君たちは彼らによって殲滅されてしまうのだ。都市という都市は、すべてブルジョワ的腐敗をすっかり洗い清めなければならない。すべてこれらの旦那衆はブラックリストに載せられ、革命の事業にとって危険な者は皆殺しにされよう……労働者階級の讃歌は憎悪と復讐の歌となろう!」

 

 同日、ジェルジンスキーとその補佐役のペーテルスは、同様の精神の「労働者階級へのアピール」を作成した。「労働者階級がその大衆テロルによって反革命のヒュドラ〔ギリシア神話の水蛇の怪物〕を粉砕するように! 労働者階級のどもは、すべて武器を不法に所持していたかどで逮捕された時は、即座に処刑されることを知らねばならぬ。またソビエト体制に対していささかでも反対の宣伝を行なう者は、即座に逮捕され、強制収容所に収監されることを知らねばならぬ!」

 

 このアピールは九月三日の『イズヴェスチア』に掲載され、ついで翌日には、内務人民委員ペトロフスキーによって、すべてのソビエトへ通達された。この中でペトロフスキーは「労働者大衆」に対する体制のによって「大衆の弾圧」が行なわれているにもかかわらず、いまだ赤色テロルの必要性の自覚が遅れていると苦情を言っている。

 

 「今やこのような軟弱さ、このような感傷に止めを刺す時である。すべての右派社会革命党員は、即刻、逮捕されるべきである。ブルジョワジーと将校の中から、多くの人質をとらねばならない。いささかなりとも抵抗するときは、大衆処刑を敢行すべきである。県執行委員会は疑わしき者を、すべて見つけて逮捕し、反革命活動を企てる者は、すべて即刻処刑しなければならない……執行委員会の責任者は、地方ソビエトのあらゆる軟弱や不決断を、ただちに内務人民委員に報告すべきである…大衆テロルを実施する場合は、いかなる弱気もためらいも許されない。」(『黒書』P.83)

 

    『「赤色テロル」型社会主義形成とその3段階』レーニンが「殺した」ロシア革命勢力の推計

    『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書

 

 8月31日、赤色テロルの合法化

 

 大規模な赤色テロルの公式的シグナルであるこの電報は、「一九一八年八月三十日の暗殺に対する大衆の自発的怒りの表現である赤色テロルは、中央からのいかなる指令もなしに始まった」という、ジェルジンスキーとペーテルスがあとになって主張したことを、反証している。実際のところ、赤色テロルは、大部分のボリシェヴィキ指導部が、個人としてではなく階級として」絶滅せんとした「抑圧者」に対して長年抱いてきた、ほとんど抽象的な憎悪の自然なはけ口であった。

 

 このような極端にまで推し進められた「階級の敵」についての容赦せぬ論埋の結果である、冷たく計算されたシニカルな苛酷さは、多くのボリシェヴィキの共有するところであった。ボリシェヴィキの指導者の一人であるグリゴーリー・ジノヴィエフは、一九一八年九月にこう断言している。「我々の敵を滅ぼすには、我々は自身の社会主義的テロルを持たなければならない。我々はソビエト・ロシアの一億の住民中、そう、九〇〇〇万を我々の側に引き込まなければならない。その他の者については、何も言うことはない。彼らはすべて殲滅されるべきである。」

 

 九月五日、ソビエト政府は、有名な「赤色テロルについて」という政令によって、テロルを合法化した。「現在の情況からして、チェーカーを強化し、階級の敵強制収容所に隔離することでソビエト共和国を守り、白衛軍陰謀や蜂起や暴動と関係のあるすべての個人即座に銃殺し、彼らが銃殺された理由を添えて、処刑された者の氏名を公表することが絶対に必要である」。その後ジェルジンスキーが認めているように、「九月三日と五日のテキストは、それまで党の同志さえ反対してきた、誰であれ身元照会なし反革命のならず者と一緒くたに即時処刑するという権利を、我々に合法的に与えるところとなった。」(『黒書』P.84)

 

 8月31日、赤色テロルの最初の大波

 

 九月十七日付けの内部通達で、ジェルジンスキーは、すべての地方チェーカーに対し「手続きを早くし、懸案中の事件を終了させること、すなわち抹殺する」よう命じた「抹殺」は、実際に八月三十一日から開始された。九月三日の『イズヴェスチア』は、ペトログラードで五〇〇人以上の人質が、その数日前に、地方チェーカーによって処刑されたと報じた。チェーカーの史料では一九一八年九月一カ月間で、八〇〇人がペトログラードで処刑されただろうとされる。しかしこれは実際よりはるかに少ない人数である。事件のある証人は次のように詳細を語っている。「ペトログラードに関しては、ざっとの概算で二二〇〇処刑が見積もられている……ボリシェヴィキは彼らの『統計』の中に、クロンシュタット地方当局の命令で銃殺された、何百という上官や市民を含めていない。クロンシュタットだけでもたった一夜四〇〇人銃殺された。中庭に三つ大きな壕が掘られ、その前に四〇〇人が据えられて、次から次へと処刑された。」

 

 一九一八年十一月四日の『ウートロ・モスクヴィ〔モスクワの朝〕』紙のインタヴューで、ジェルジンスキーの右腕のペーテルスは以下のように認めている。「ペトログラードでは感じやすい(ママ)チェキストはついに理性を失って、張り切りすぎるようになった。ウリッキー暗殺以前には、誰一人処刑された者はいなかった。それが−どうかぼくの言うことを信じてもらいたいが、ぼくは人が言うほど残忍ではない−後には少し処刑が多くなりすぎてきて、それもしばしば人目をはばからないようになった。一方モスクワでは、レーニンの暗殺未遂事件に対して、帝政時代の何人かの大臣が処刑されただけだった」。

 

 またしても『イズヴェスチア』によれば、九月三日〜四日モスクワで、「反革命陣営」に属する「たった」二九人の人質銃殺になった。その中には、ニコライ二世の元閣僚のフヴォストフ(内相)とシチェグロヴィートフ(司法相)がいた。しかしながら、多くの証言が「九月の大虐殺」の間に、モスクワの監獄内で何百人もの人質処刑されたという点で、一致している。赤色テロルの時期に、ジェルジンスキーは『チェーカー週報』を発行したが、これは政治警察のメリットを公然と吹聴し、「大衆の正当な復讐心」を鼓舞することを目指すものであった。この週刊紙は何人かのボリシェヴィキの指導者に抗議されて、中央委員会の命令で廃刊になるまでの六週間に、人質をとったこと、強制収容所に収監したこと、処刑したことなどを臆面もなく語っている。(『黒書』P.85)

 

 9月〜10月、赤色テロルの公式かつ最低の資料−『チェーカー週報』

 

 これは、一九一八年九月〜十月赤色テロルの公式かつ最低の資料である。そこにはニージニー−ノヴゴロドのチェーカーが、のちに一九五四〜五七年の期間ソビエト国家の元首となるニコライ・ブルガーニンの命令のもと、とくに急いで八月三十一日から一四一人の人質処刑したこと、このロシアの中規模の都市で三日間七〇〇人の人質逮捕されたことが書かれている。ヴィヤトカでは、エカチェリンブルから退去したウラル地域のチェーカーが、一週間の間に、二三人の「元憲兵」一五四人の「反革命家」八人の「君主制支持者」二八人の「立憲民主党員」一八六人の「将校」十人の「メンシェヴィキと右派エス‐エル」処刑したことが記されている。

 

 イヴァーノヴォ−ヴオォネセンスクのチェーカーは、一八一人の人質逮捕と、二五人の「反革命家」処刑、そして「一〇〇〇人収容強制収容所」の設立を報告している。セベイスクという小さな町のチェーカーは、「一六人のクラークと残忍な専制君主ニコライ二世のためにミサをあげた一人の司祭」が銃殺されたことを、トヴェーリのチェーカーは二二〇人の人質三九人死刑執行を、ペルミのチェーカーは五〇人死刑執行を報じた。この『チェーカー週報』の六つの号から抜粋されたブラックリストは、もっと続けることもできるだろう。

 

 1918年秋、地方の『チェーカー週報』や秘密報告書

 

 その他の地方紙も同様に、一九一八年秋何千という逮捕死刑執行を報じた。ここでは二つの例だけを引用しよう。『ツァリーツィン県チェーカー報知』は、一号出ただけだが、一九一八年九月三日から十日までの一週間、一〇三人処刑されたと報じている。一九一八年十一月一日から八日までに、三七一人がチェーカーの地方裁判所に出頭したが、その中の五〇人死刑、他は「反革命の暴動がすべて完全に一掃されるまで、予防的措置により、人質として、強制収容所に収監される。」という判決を受けた。『ペンザ県チェーカー報知』も、二号だけ出たが、他の解説なしに、次のように報じている。「食糧徴発隊長に任ぜられたペトログラードの労働者、同志エゴーロフ暗殺に対して、一五二人の白衛軍がチェーカーによって処刑された。将来、プロレタリアの武装せる腕に対して腕を振り上げる者は、すべてより厳しい(ママ)処置がとられよう。」

 

 今までほとんど参照できなかった地方チェーカーが、モスクワに送った秘密の報告書(スヴォトキ)によれば、一九一八年夏以降、地方当局が農村共同体のささいな事件をいかに荒々しく抑圧したかがわかる。その最大の原因は、農民食糧徴発徴兵拒否したことだが、これは「クラークの反革命的」暴動で、容赦なく鎮圧されたと型通りに記載されている。

 

 この赤色テロルの最初の大波犠牲者の数を数え上げようと思っても無駄だろう。チェーカーの指導部の一人であるラツィスは、チェーカーは一九一八年後半四五〇〇人処刑したと述べたあと、皮肉ではなしに次のように付け加えた。「もしチェーカーが何らかの点で非難されるとしたら、それは処刑をする際の熱意の過多ではなく、この最高の刑罰の執行が少ないことであろう。鉄の手は常に犠牲者の数を減らす」。一九一八年十月末に、メンシェヴィキの指導者のユーリー・マルトフは、九月初めからのチェーカーの直接的犠牲者の数を「一万以上」と見積もっている。(『黒書』P.86)

 

 11月初め、ペルミ県、モトヴィリハ武器工場のストライキと弾圧・処刑

 

 一九一八年の赤色テロル犠牲者の正確な数がどうであれ−報道から察せられる限りでは、処刑数一万から一万五〇〇〇を下回ることはあるまい−このテロルこそ、ラツィスの言葉を借りるなら、ボリシェヴィキが「独自の法則で」容赦なく用いた、内戦の中の現実の反抗であれ、可能性の反抗であれ、あらゆる反抗形態抑圧したやり方であった。たとえば、一九一八年十一月はじめのペルミ県モトヴィリハ武器工場の場合のように、配給が「社会的出身」に応じてなされるボリシェヴィキ的原則や、地方チェーカーの職権乱用抗議する場合でも、ひとたび労働者がストライキに入れば、それは当局によって、全工場「蜂起の状態に入った」と宣言されるのだった。

 

 ストライキ中の労働者との話し合いは、まったく行なわれなかった。全労働者ロックアウトされ、解雇された。「リーダー」逮捕され、このストライキの元凶と疑われたメンシェヴィキの「反革命家」は、手配された。一九一八年の夏以降、このようなやり方がしばしば行なわれた。しかしになると、今までより整備された地方チェーカーは、中央からの殺人の呼び掛けに「奮い立って」、弾圧の度を強めた。地方チェーカーは、正式の裁判もせずに一〇〇人以上のスト参加者処刑した。(『黒書』P.87)

 

 コペルニクス的転回

 

 二カ月で、約一万から一万五〇〇〇という大量処刑は、およその数からしても、帝政時代と比べて規模の大きさがまったく変わってしまったことを示している。一八二五年から一九一七年までの九十二年間に、帝政裁判所は、「政治の分野に関して」裁判すべき全事件を通して(軍事法廷を含めて)六三二一の死刑判決を下した。このうちで最も多かったのは、一九〇五年革命の反動の年である一九〇六年一三一〇であった。一方、数週間で、チェーカーだけで、ロシア帝国が死刑の判決を下した者の二倍から三倍の人死刑にしたのだった。しかも帝政ロシアの場合、法的手続きによって、死刑の判決をうけた者の大部分が、懲役に減刑されていた。(『黒書』P.87)

 

 12月19日、中央委員会、「チェーカーにたいする中傷的記事の掲載禁止」決議を採択

 

 この規模の変化は単に数字だけではない。「容疑者」、「人民の敵」、「人質」、「強制収容所」、「革命裁判所」といった新しいカテゴリーの導入は、「予防拘束」や、裁判ぬきの略式処刑や、新しいタイプの警察による法によらない何百、何千人逮捕と並んで、この分野におけるまさにコペルニクス的転回をもたらすものであった。この転回は、何人かのボリシェヴィキの指導者さえもが思ってもみないところだった。その証拠に、一九一八年十月から十二月にかけて、チェーカーの役割をめぐってボリシェヴィキ指導部内に論争があった。

 

 ジェルジンスキーの不在中−彼は心身の健康を回復するために「お忍びで」一カ月間スイスに行っていた−ボリシェヴィキの党中央委員会は、一九一八年十月二十五日に、新しいチェーカーの法規を審議した。ブハーリン、オルミンスキーといった党の古参や、内務人民委員のペトロフスキーなどは、「ソビエトと党自体を超えて行動することをのぞむ一機関に全権を委ねる」ことを批判し、「犯罪人やサディストやルンペン・プロレタリアの堕落した分子で満ちた機関の行きすぎた熱狂ぶり」に歯止めをかけるために、措置を講ずることを求めた。政治的監督の委員会がつくられた。この委員会に加わっていたカーメネフは、単純・率直にチェーカーを廃止することまで提案した。

 

 しかし、まもなく無条件の支持派が勝利を占めた。それはジェルジンスキーのほか、スヴェルドロフ、スターリン、トロツキー、そしてもちろんレーニンといった党のトップたちであった。彼らは「テロの問題をより広い観点から考察することのできない……偏狭なインテリによって、多少の行きすぎを批判された」機構を、断固として擁護した。一九一八年十二月一九日レーニンの提案で中央委員会は、ボリシェヴィキの報道が「諸機構、とりわけ困難な情況の下で任務を果たしているチェーカーに対する中傷的記事」を掲載することを禁止する決議を採択した。かくて論争は終わった。「プロレタリアの鉄の腕」は、絶対に誤りをおかさぬ証明を受けた。レーニンが言うように、「よきコミュニストは、よきチェキストでもある。」(『黒書』P.88)

 

 3、1919年の労働者ストライキと弾圧・処刑資料

 

 1919年初め、「共和国国内守備軍」創設

 

 一九一九年の初めに、ジェルジンスキーは、中央委員会から軍の保安を担当する特別部門の創設を認められた。一九一九年初め、彼は内務人民委員に任命され、チェーカーの応援をうけて、民兵隊、部隊、分遣隊およびそれまで行政の様々な部門に付属していた補助的編成隊を、再組織する仕事にとりかかった。一九一九年五月に、これらすべての編成部隊−鉄道民兵隊、食糧供給分遣隊、国境警備隊、チェーカー大隊−は、「共和国国内守備軍」という特別組織に再編され、一九二一年には二〇万を擁するにいたった。

 

 この軍隊は、収容所、駅その他の戦略上の拠点を見張り、食糧徴発作戦の指導、とくに農民反乱労働者の暴動赤軍の反乱鎮圧をその任務とした。チェーカー特殊部隊共和国国内守備軍とは、総数約二〇万とはいえ、統制と抑圧の恐るべき力を代表するものであった。これこそ、総数三〇〇万ないし五〇〇万の、理論的にはよく秩序がとれたことになってはいたものの、実際には装備した五〇万以上の兵士を思うように従わせることのできなかった、相次ぐ兵士の逃亡に悩まされた、赤軍のなかの真の軍隊であった。(『黒書』P.88)

 

 3月10日、ペトログラードの大騒動と鎮圧−隠蔽された労働者への弾圧

 

 ボリシェヴィキは、労働者の名において政権を獲得したのだが、弾圧のエピソードの中で新体制が最も注意深く隠蔽したのは、まさにその労働者に対して加えた暴力であった。

 

 一九一八年から始まったこの弾圧は、一九一九〜一九二〇年にかけて進行し、その絶頂は、有名な一九二一年春クロンシュタットのエピソードである。ペトログラードの労働者たちは、一九一八年の初め以来、ボリシェヴィキに対する不信感を表明してきた。一九一八年七月二日ゼネスト失敗のあと、ボリシェヴィキは社会革命党の何人かの指導者を逮捕したが、これはその中のマリア・スピリドーノヴァが、ペトログラードの主立った工場をめぐって大喝采を博した直後だった。

 

 この逮捕あとの一九一九年三月に、労働者の二度目の大きな騒動が古都〔ペトログラード、新都はモスクワ〕で起こった。すでに食糧供給の難しさから、情勢はかなり緊張していたが、この逮捕によって広範な抵抗運動ストライキが開始された。一九一九年三月十日プチーロフ工場の労働者の総会は、一万の参加者の前で正式にボリシェヴィキを非難する宣言を採択した。「この政府は、チェーカー革命裁判所の助けをかりて統治する共産党中央委員会の独裁でしかない。」

 

 宣言は、()全権力のソビエトへの移行()ソビエトと工場委員会における自由な選挙(3)労働者が田舎からペトログラードへ持ち込むことのできる食糧の制限(一・五プード、すなわち二四キロ)の廃止()投獄されている「真に革命的諸党派」の政治家、とくにマリア・スピリドーノヴァの釈放を要求した。

 

 日毎増大する運動を抑えるために、レーニンは一九一九年三月十二〜十三日に、自らペトログラードにおもむいた。労働者に占拠されている工場演説をしようとした時、彼はジノヴィエフとともに「ユダヤ人と人民委員を倒せ!」という叫びにやじり倒されてしまった。一九一七年十月の革命のあと、ボリシェヴィキが一時的に獲得していた信頼失われるや、いつでも表面化せんとしていた民衆の底辺にあった昔からの反ユダヤ主義が、ただちにユダヤ人とボリシェヴィキを結びつけたのだった。有名なボリシェヴィキ指導者の中に占めるユダヤ人(トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、ルイコフ、ラデックら)の割合が大きかったことが、大衆の目には、ボリシェヴィキとユダヤ人の融合を証明するようにみえた。

 

 一九一九年三月十六日チェーカーの分遣隊は、武器を手にして守っていたプチーロフ工場襲撃した。およそ九〇〇人の労働者逮捕された。その後数日間に、約二〇〇人のストライキ参加者が、ペトログラードから五〇キロほど離れたシュリッセリブルク要塞監獄で、裁判もなしに処刑された。新しい儀式によって、スト参加者全員解雇されたあと、自分たち反革命のリーダーによって騙され、「犯罪に引き込まれた」という声明に署名したあとでなければ、再雇用されることがなかった。このあと労働者厳しい監視下に置かれた。一九一九年春以降、チェーカーの秘密部門は、いくつかの労働運動の中心に、あれこれの工場における「精神状態」を定期的に報告する任務を負った密告者網を設置した。労働者階級危険な階級となった…。(『黒書』P.94)

 

 春、8都市、労働者ストライキと鎮圧−危険な階級

 

 一九一九年は、トゥーラ、ソルモヴォ、オリョール、ブリヤンスク、トヴェーリ、イヴァノーヴォ‐ヴオズネセンスク、アストラハンなど、労働者の町いくつかで多くのストライキが起こって、乱暴なやり方で鎮圧されたことで特記される。労働者の要求事項はほとんどどこでも同じだった。給料は飢餓のレベルの、一日半フント〔二〇〇グラム〕のパンが買えるだけの配給券と同じにまで下がってしまったところから、スト参加者はまず()配給量を赤軍兵士と同じ水準まで引き上げること』を要求した。しかしそれにとどまらず、彼らの要求は、なによりも政治的なものでもあった。『()共産党員の特権廃止()すべての投獄されている政治犯の釈放()工場委員会やソビエトへの自由な選挙()赤軍への徴兵の廃止(6)結社・言論・出版の自由などである。

 

 これらの運動が、ボリシェヴィキ政権にとって危険に見えたのは、それがしばしば労働者街の兵営に居住する軍隊を味方につけたからであった。オリョール、ブリヤンスク、ゴメル、アストラハンにおいて、反乱を起した兵士は「ユダヤ人に死を! ボリシェヴィキの人民委員を倒せ!」と叫んでストライキ参加者と合体した。彼らはチェーカーの分遣隊や、数日間の戦闘のあとでも依然として体制に忠実な部隊によって再占領されていない町の一部を占拠し、掠奪した。これらのストライキ兵士の反乱に対する弾圧の仕方は、様々であった。(1)工場全体をロックアウトし、(2)配給券を差し押さえてしまう――ボリシェヴィキ権力の最も強力な武器は、飢餓だった――というやり方から、(3)何百というスト参加者反乱兵まとめて処刑するのまで、いろいろだった。(『黒書』P.95)

 

 3月10日、アストラハンの虐殺、労働者ストライキ・兵士反乱と大虐殺

 

 ヴォルガ河口近くのアストラハンの町は、一九一九年には戦略上とくに重要な意味を持つようになっていた。ボリシェヴィキにとって、この町は、北東からのコルチャーク提督の軍勢と、南西からのデニーキン将軍の軍勢とが合流することを阻止しなければならない重要地点だった。一九一九年三月に、この町のストライキかつてない荒々しさで鎮圧された理由は、おそらくこれが理由だったろう。

 

 三月初めに、(1)経済的理由−きわめてわずかな配給量と、(2)政治的理由−社会主義者活動家の逮捕、から始まったストライキは、第四五連隊が、町の中心を行進していた労働者発砲するのを拒否した三月十日に、質的に変化した。ストライキを行っていた労働者合流した反乱軍兵士は、ボリシェヴィキの本拠を襲って、何人かの指導者を殺した。この時アストラハン県軍事革命委員会議長のセルゲイ・キーロフは、「あらゆる手段を使って白軍のシラミどもを一掃」するように命じた

 

 町を再占領するべく徹底的に攻撃する前に、依然として体制に忠実だった部隊とチェーカーの分遣隊は、町へのすべての道を閉鎖した。はち切れんばかりにいっぱいの牢獄から出されたスト参加者反乱兵は、平底船に乗せられたあと、首に石を付けられて何百人もがヴォルガ川に沈められた。

 

 三月十二日から十四日にかけて、二〇〇〇から四〇〇〇の間のスト参加者と反乱兵が、銃殺されたり、溺死させられた十五日から今度は「白軍」の陰謀を「教唆した」という口実で、町の「ブルジョワ」が襲われた。しかし労働者も兵士も、たとえ「白軍」だったとしても、ほんの下っ端でしかなかっただろう。二日間、アストラハンの富裕な商人の屋敷は掠奪され、主人は捕らえられて、銃殺された。アストラハンで虐殺された「ブルジョワ」の犠牲者は、おおよそ六〇〇から一〇〇〇の間と見積もられる。合計すると一週間で、三〇〇〇から五〇〇〇の間の人が処刑されたり、溺死させられた

 

 一方、共産党の側で殺され、三月十八日―この日は当局が宣伝するパリ・コミューン記念日だった―に盛大な儀式をもって埋葬された者の数は四七人であった。赤軍と白軍の間の戦闘の単なるエピソードとして長いこと語られてきたアストラハンの虐殺は、今日入手し得る史料に照らしてみると、その本当の性格が明らかになる。それはクロンシュタット虐殺前の、ボリシェヴィキ権力によって行なわれた最大の労働者虐殺であった。(『黒書』P.96)

 

 3月27日、トゥーラ、兵器製造工場の労働者ストライキと大量逮捕・死刑

 

 弾圧に関して最もその性格を示しているのは、一九一九年の三〜四月に、トゥーラとアストラハンで起こった事件である。一九一九年四月三日、ジェルジンスキーは自らトゥーラに赴いたが、それはこのロシアでも武器製造で歴史的に有名な都市で起こった、兵器製造工場のストライキ粉砕するためだった。ロシアの小銃生産の八〇%を占め、赤軍の死命を制するこの町で、一九一八〜一九一九年の冬には、多くの工場が相次いでストライキに入っていた。質の高い労働者の中で活躍する政治的闘士の間では、メンシェヴィキ社会革命党員が多数を占めていた。

 

 一九一九年三月初めに、数百人の社会主義者の活動家逮捕され、それは大きな抗議の波を引き起こしたが、ついに三月二十七日には何千という労働者鉄道員の巨大な「自由を求め飢えと闘う行進」に発展した。四月四日、ジェルジンスキーはさらに八〇〇人の「リーダー」逮捕させ、数週間前からスト参加者によって占拠されていた工場から、労働者武力で排除した。全労働者解雇された。労働者の抵抗は、飢えという武器で打ち破られた。もう数週間前から、配給券は配布されていなかった。日に二五〇グラムのパンをもらうための新しいカードを受領し、ロックアウト後の仕事を見つけるためには、労働者は雇用願署名しなければならなかった。そしてそこには、今後仕事を中止した時は、兵士の逃亡と同様、死刑をもって罰せられると明記されてあった。四月十日、生産が再開された。その前日、二六人の「リーダー」死刑に処された。(『黒書』P.95)

 

 4月15日、二つのタイプの収容所

 

 新しい内務人民委員の最初の政令の一つは、いかなる法的根拠もなしに<一九一八年夏以来存在していた収容所組織の形態に関するものであった。一九一九年四月十五日の政令は<収容所を二つのタイプに分けた。第一は「強制労働収容所」で、ここには原則として、裁判で有罪とされた者が収監された。第二は「強制収容所」(コンツェントラツィオンヌィ)で、投獄された者、最も多いのは単なる行政措置によって「人質」として投獄された者を、まとめて収容するところであった。

 

 しかし、実際には二つのタイプの相違は理論的でしかなかった。それを証拠立てるものに、一九一九年五月十七日の補足通達がある。これは「各県に最低三〇〇人収容の収容所を一つ」建設する以外に、そこに収監さるべき十六のタイプを予想していた。そこには「大ブルジョワジー出身の人質」、「旧官吏で八等官以上の者、検察官とその補佐官、県庁所在地の市長と助役」、「ソビエト体制のもとでの寄生生活者、売春斡旋業者、売春婦として有罪の判決を受けた者」、「通常の脱走兵(再犯でない)、国内戦の捕虜」といった、思いつくままに様々なタイプがあげられていた。

 

 一九一九年から一九二一年の間に、強制労働収容所と強制収容所に収監された者の数は、一九一九年五月約一万六〇〇〇から一九二一年の七万へと、着実に増加していった。しかしこの数にはソビエト政権に反対して蜂起したいくつかの地区は含まれていない。たとえばタンボフ県だけでも、一九二一年農民暴動抑圧する任務を負った当局がつくった七つの強制収容所に入れられた、少なくとも五万の「匪賊」と「人質にとられた匪賊の家族」がいたのだった。(『黒書』P.89)

 

 4、1920年の労働者ストライキと弾圧・処刑資料

 

 1月29日、レーニンの第5軍軍事革命委員会議長スミルノフへの電報

 

 共産党最高指導部−その中にはレーニンもいたが−は、ストライキにたいする見せしめの弾圧を呼び掛けた。ウラルの労働運動の高まりを前に、不安になったレーニンは、スミルノフへの電報を送った。Pの報告によれば、鉄道労働者が大規模なサボタージュをしているという…伝え聞くところでは、イジェフスクの労働者も関係しているとのことだ。わたしは君がそれを放置し、サボタージュ大衆処刑で処置しないことに驚いている。『黒書』(P.99)

 

 2月12日、『プラウダ』記事、ストライキ参加者

 

 工場における「秩序回復」をめざした労働の軍事規律化の方策は、期待した効果とは反対に、多くの時限スト、作業中止、ストライキ、暴動を引き起こし、それらは情け容赦なく鎮圧された。「これら有害な黄色い害虫であるストライキ参加者の絶好の場所は−一九二〇年二月一二日の『プラウダ』はこう書いている−強制収容所である」。労働人民委員部の公式統計によれば、一九二〇年前半にロシアの大・中規模の工業経営の七七%において、ストライキが起こっている。

 

 中でも金属工業、鉱山、鉄道といった混乱の元になった部門が、労働の軍事規律化が最も進んだ分野だったということは、意味深い。チェーカーの秘密部門が、ボリシェヴィキ指導部に送った報告は、軍事規律化反対する労働者に加えられた弾圧がどんなものだったかを明らかにしている。逮捕された労働者は、たいてい「サボタージュ」または「脱走」という罪革命裁判所に裁かれた。(『黒書』P.98)

 

 3月から6月、「労働の軍事規律化」にたいする労働者ストライキの激発と弾圧

 

 「労働の軍事規律化」を通じて、多くのストライキが起こった。

 三月、エカチェリンブルグ、当局は、ストライキ労働者八〇人の労働者逮捕され、収容所送りになった。

 四月、リャザン−ウラル間の鉄道では、鉄道員一〇〇人有罪になった。

 五月、モスクワ−クルスク線では、鉄道員一六〇人有罪になった。

 六月、ブリヤンスクの金属工場では、労働者一五二人有罪になった。

 労働の軍事規律化にたいするストライキがきびしく弾圧されたこれらの例はさらに何倍にもなろう。『黒書』(P.99)

 

 6月6日、トゥーラ、武器工場のストライキと「トゥーラ陰謀撲滅委員会」の鎮圧

 

 体制に反対する労働者の抗議で有名なのは、一九二〇年六月、トゥーラの武器工場の場合である。もっともここは、すでに一九一九年四月に、きびしい弾圧を経験したところであった。一九二〇年六月六日の日曜日に、何人かの金属労働者上から要求された時間外労働拒否した。女子の工員たちはこの日も、それ以前の日曜日働くことを断っていた。それは近郊の農村に食糧の買い出しに行くことができるのは、日曜だけという理由からだった。

 

 管理部の要請で、チェーカーの分遣隊ストライキ参加者逮捕に来た戒厳令が出され、「赤軍の戦闘力を弱める目的で、ポーランドのスパイと黒百人組〔反ユダヤ人主義をかかげス右翼の組織〕に扇動された反革命の陰謀」を告発するために、党とチェーカーを代表するトロイカがつくられた。

 

 ストライキが広がり、「リーダー」逮捕が増える一方で、事態の通常の展開を乱すような新たな事実が生じた。何百、何千という労働者や下級管理者が、チェーカー出頭して、自分らも逮捕してくれと言った。この動きは大きくなり、「ポーランドと黒百人組の陰謀」が馬鹿げたものであることを明らかにするために、労働者大量逮捕要求した。四日間一万人以上獄を満たした上、さらにチェーカーに監視された青天井の空間に押し込まれた。

 

 忙殺されて、もはや事態をなんとモスクワに報告してよいかわからなくなった党とチェーカーの地方組織は、ついに中央当局を、広範な陰謀が生じていると言いくるめた。「トゥーラ陰謀撲滅委員会」がつくられ、何千という男女の労働者が、犯人発見のために尋問された。逮捕された労働者は、釈放され、再雇用されて、新しい配給カードを受けるために、「下記に署名する、臭くて罪ある犬である私は、革命裁判所と赤軍の前に悔俊し、自分の罪を告白し良心的に働くことを約束します」という声明書署名しなければならなかった。

 

 他の労働者の抗議運動とは反対に、一九二〇年のトゥーラの騒動は、かなり軽い判決で終わった。二八人収容所送りとなり、二〇〇人流刑となった。高度の技能を持った労働力が不足していた状況から、おそらくボリシェヴィキ権力は、国一番の兵器製造工なしではやっていけなかったからだろう。抑圧についても、食糧の供給と同じように、決定的に重要な部門や、体制の優先的利益を勘案しなければならなかった(『黒書』P.99)

 

 5、1921・22年の労働者ストライキと弾圧・処刑資料

 

 (宮地注)、このデータは『共産主義黒書』(恵雅堂、2001年、原著1997年)(P.97、125)2カ所のものである。ニコラ・ヴェルトは、ソ連史専攻のフランス歴史学教授資格者である。彼は、ここで、トロツキー「労働の軍隊化」主張を分析していない。「労働の軍隊化」「企業の軍事組織化」の規模・実態を載せている。軍隊組織化企業の一例として、ウクライナのドンバス大工鉱業地帯で施行された政策を発掘・公表した。そこに書かれたドンバスの実態が2000企業で強行されたら、それにたいし革命労働者はどうすべきか、どうしたのか。

 

 そこは、地図にある()ソ連南西部ロストフ州とウクライナ南東部にまたがるドネツ大炭田、都市ドネツク()中南部のクリヴィイ・リィ鉄鉱産地を合わせ、炭鉱・金属関係労働者の町として、「十月革命」時期はウクライナ革命運動の拠点地帯だった。しかも、マフノ運動解放区のすぐ北部に位置した。

 

 トロツキーは、1919〜20年、ウクライナも担当し、フルンゼとともに、マフノ農民軍5万人殲滅マフノ運動参加者皆殺しの指揮・命令をした。1921年にかけて、レーニン・トロツキーは、マフノ運動への報復として、ウクライナで食糧独裁令による過酷な食糧収奪作戦を展開し、意図的飢餓政策も含めウクライナ国民100万人飢死させた。下記ドンバス大工鉱業地帯における実態は、ウクライナの悲劇に新たなデータを加えた。

 

説明: http://ja.wikipedia.org/upload/thumb/5/57/Ukraina.JPG/500px-Ukraina.JPG

マフノ運動解放区の中心地グリャイ=ポーレは、ドニエプル河の

東で、地図のサボリジジャとベルジャンスクの中間に位置する

 

    『マフノ運動とボリシェヴィキ政権との関係』ウクライナの悲劇データ・資料集

 

 ドンバスのデータは、1921年3月8〜16日第10回党大会以降も、「労働の軍隊化、軍事規律化」が、レーニン・トロツキーらによって一段と強化され、遂行された事実を証明している。ニコラ・ヴェルトは、その政策を「ネップ導入と明記している。

 

 なお、ドンバス大工鉱業地帯は、地図のドネツク周辺である。そこでのボリシェヴィキ指導者は、トロツキーに近かったピャトコーフである。名前はピャタコフと訳される方が多い。彼は、1937〜38年、スターリンの大テロル期に、ジノヴィエフ、ラデック、ブハーリン、ルイコフ、トハチェフスキーら中央委員・同候補98人とともに、「反革命」「人民の敵」「スパイ」というレッテルなどで銃殺された。トロツキーは、1940年、スターリンの手先が砕氷用ピッケルを後ろから頭に突き立てた頭骨骨折により、メキシコの自宅書斎で殺害された。

 

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 1919年末〜20年春、労働の軍事規律化−2000以上の企業

 

 一九一九年から一九二〇年にかけて、ボリシェヴィキ権力と労働者世界との関係は、二〇〇〇以上の企業が軍隊組織になった結果、ますます悪化した。

 

 労働の軍事規律化主唱者トロツキーは、一九二〇年三月の第九回大会において、この問題についての自分の考えを述べた−人間は生まれつき怠惰の傾向をもっている−とトロツキーは言う。資本主義の下にあっては、労働者は生きるために仕事を探さなければならない。働く者を駆り立てるのは資本主義市場である。社会主義の下では労働資源の利用が市場に取って代わる。したがって、国家のつとめは、勤労者を導き、使い、統率することであり、勤労者はプロレタリア国家の兵士、プロレタリアの利益の擁護者として服従しなければならない

 

 労働の軍事規律化の意味と基本はこのようなものであって、これは、一部の労働組合活動家や、一部のボリシェヴィキ指導者によって、きびしく批判された。しかし、実のところ、トロツキーによる労働の軍事規律化提唱や、実態としてレーニン・政治局が強行した二〇〇〇以上の企業軍隊組織化とは、次のことを意味した。

 

 ()「戦時共産主義」にあっては、敵前逃亡と同じと政府が見なしたストライキの禁止である。

 ()工場・企業の政府任命3人管理システムの指令と権限の強化であり、それへの労働者ソビエト・労働組合および工場委員会完全な従属だった。

 

 ()プロレタリアートが二月革命から「十月・ソビエト革命」にかけて自力で勝ち取った資本家経営全般にたいする労働者統制権限簒奪した。そして、各労働者組織の役割をプロレタリア独裁の国有化企業におけるボリシェヴィキ生産政策の遂行に限定・矮小化してしまった。

 (4)、当時の飢餓状況下で、労働者が、食糧探しのために、職場を離れたり、欠勤や遅刻するのを禁止する措置だった。(『黒書』P.97)

 

 1921年春、軍事規律化のさらなる強化

 

 一九二一年における体制側の優位の一つは、一九二二年の十分の一に落ちていた工業生産が持ちなおしたことだった。労働者に対する圧力を弱めるどころか、いまやボリシェヴィキはそれまで行なってきた労働の軍事規律化を維持し、さらに強化した。ネップ導入後、一九二一年に全国の石炭と鋼鉄の八〇%以上を生産していたドンバスの大工鉱業地帯で施行された政策は、あらゆる点で「労働者を再び就業させる」ためにボリシェヴィキがもちいた独裁的方法を表しているように見える。

 

 一九二〇年の、指導部の一人でトロツキーに近かったビャトコーフがドンバス石炭産業局中央指令部の代表に任命された。一年間で彼は石炭の生産を五倍にすることに成功したが、それは自分の下の十二万の炭坑夫労働を軍事規律化するといった、労働者階級に、かつて例のない搾取と抑圧の政策によってであった。ビャトコーフのとった政策は次のような厳しい規律であった。欠勤はすべて「サボタージュ行為」と見なされ、強制収容所送り死刑をもって処罰された。一九二一年には十八人の炭坑夫が「札付きの寄生生活」で銃殺された。彼は労働時間を延長し(とりわけ日曜労働)、労働者の生産性を高めるために「配給券による桐喝」を広く行なった。

 

 すべてこれらの政策は、労働者が給料のかわりに、生きるために必要な量の三分の一か半分だけのパンを支給され、毎日仕事が終わった時には自分のたった一足の靴を交替する同僚に貸さなければならないという時期に行なわれたのだった。石炭産業局が認めているように、欠勤が多かったのは伝染病のほかに、「恒常的飢餓」と「衣服、ズボン、靴がほとんどまったくない」ことからきていた。

 

 飢餓が差し迫っている時に、食い扶持を減らすためにビャトコーフは、一九二一年六月二十四日炭鉱で働いていない者、したがって「厄介者」を、すべて町から追放することを命じた。炭坑夫の家族からも配給券が取り上げられた。配給量は厳密に各炭坑夫の出炭高に応じて決められ、給与も出来高払いという原始的形態がとられた。

 

 すべてこれらの施策は、平等の思想と、ボリシェヴィキの労働神話にたぶらかされて末だ甘い夢をみていた労働者の「保証された配給」といった考えに逆行するものだった。それは三〇年代反労働者政策を見事に予示していた。労働者はもはやできる限り有効に搾取されるべき「ラブシーラ(労働力)」でしかなかった。労働組合は単に労働生産性を高める役割しか持たず、組合や労働立法といったわずらわしいものは回避された。労働の軍事規律化は、この強情で、腹をへらし、生産的でない労働力を、最も有効的に指導する形態のように見えた。

 

 この自由な労働の搾取形態と、三〇年代初めにつくられた懲罰機構の強制労働との類似性を、疑問に感じないわけにはゆかない。ボリシェヴィズム揺藍期の他の多くのエピソード−それは国内戦だけに帰するわけにはゆくまい−と同じように、一九二一年にドンバスで起こったことは、スターリン主義の最盛期に実施されたいくつかの事柄を予告していた。(『黒書』P.125)

 

 それは、1921年2月に向けて、()党外で労働者不満・怒りとして鬱積し、ペトログラード労働者大ストライキとなって爆発した。その批判は、()ボリシェヴィキ党内で、組合自治を求める「労働者反対派」党機関の官僚主義化批判する「民主主義的中央集権制派」という2大分派の一つとなった。レーニンは、1921年3月第10回党大会で「分派禁止規定」を緊急提案し、大会後、党員の上から下まで粛清を指令した。その結果、彼は、1921年夏までに、2大分派党員を中心として、党員の24%・136836人を除名した(ダンコース『ソ連邦の歴史1』P.223)

 

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 〔関連ファイル〕

     第5部『革命労働者ストライキの弾圧・第5次クーデター』

     第5部2『トロツキー「労働の軍隊化」構想と党内論争』

     『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構』

     『ペトログラード労働者大ストライキとレーニンの大量逮捕・弾圧・殺害手口』

     『クロンシュタット水兵とペトログラード労働者』水兵の平和的要請とレーニンの皆殺し対応

 

     『「赤色テロル」型社会主義形成とその3段階』レーニンが「殺した」ロシア革命勢力の推計

     『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書