ロシア・アナキズムにおけるマフノ運動の位置づけ

 

トロツキー・レーニンによるアナキスト弾圧・滅亡

 

P・アヴリッチ

 

 ()、これは、P・アヴリッチ『ロシア・アナキズム全史』(合同出版、1971年、原著1967年、絶版)からの抜粋である。著書は、318頁ある。「第1部・1905年」が5章、「第2部・1917年」も5章の構成になっている。このファイルは、「第2部第8章、ロシア・アナキズムの滅亡」(P.209〜238)から、マフノ運動に関するテーマのほぼ全体を抜粋した。題名と副題は、私(宮地)が付けた。第8章は長く、インターネット画面では読みづらい。絶版なので、私(宮地)の判断で、小見出し・各色太字・(番号)を加えた。P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』の抜粋は、別ファイルに載せてある。

 

 〔目次〕

   1、アナキストとウクライナ

   2、ヴォーリン、アルシノフと「ナバート連合」(警鐘)

   3、ネストル・マフノとその経歴

   4、クロポトキンとの会見とレーニンからの招待

   5、グーリャイ=ポーレにおけるマフノ軍

   6、1919年前半の農民・労働者・反乱兵地方会議4回

   7、ボリシェヴィキとの友好関係→トロツキーによるマフノ軍攻撃命令

   8、マフノ軍の絶頂期とその計画の問題

   9、マフノ軍をポーランド戦線へ移動させる指令と拒絶

  10、ウランゲリ軍との闘争で共闘→赤軍による協定破棄・総攻撃

  11、トロツキー・レーニンによるアナキスト弾圧と滅亡

 

 〔関連ファイル〕            健一MENUに戻る

     『マフノ運動とボリシェヴィキ権力との関係』共闘2回と政権側からの攻撃3回〔資料編〕

     第3部『革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』9000万農民への内戦開始

     ヴォーリン『ウクライナの闘争−マフノ運動』1918年〜21年

     アルシーノフ『マフノ叛乱軍史』ロシア革命と農民戦争

     梶川伸一『レーニン体制の評価について』21年−22年飢饉、ウクライナの悲劇

     20世紀の歴史『試練の大地−ウクライナ』ウクライナの歴史、全文

     ウィキペディア『ウクライナの歴史』 

     大杉栄『無政府主義将軍ネストル・マフノ』1923年

     google検索『クロポトキン』

     P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』

 

 1、アナキストとウクライナ

 

 数世紀にわたってウクライナは、ツァーリの政府や特権貴族階級から逃亡した農奴や盗賊や叛徒その他の逃走者の隠れ場所となっていた。この伝統は専制が終わってからもつづいた。一九一八年、新ボリシェヴィキ体制が政治的反対者の弾圧に力を入れはじめたとき、ペトログラートやモスクワのアナキストは、十五年前にいち早く彼らの運動の発祥地となった地方に避難所を求めて、南部の「荒野」へ集まった。

 

 北部から来た避難者はウクライナに着くとただちに、二月革命後に出獄したり、流刑地から戻った仲間の多くのアナキストと連絡を密にした。ハリコフでは運動を統一しようとする試みが、一九一七年になされ、失敗はしたが、異なるアナキスト・グループを一つの堅い革命的勢力に結合しようとする新しい動きの基となった。こうした動きの成果として、アナキスト組織連合「ナバート」(警鐘)が結成された。これは、一九一八年秋に本部をハリコフに設置し、キーエフ、オデッサ、エカチェリノスラフ、その他のウクライナの大都市に支部が置かれ繁栄した。連合は無神論者同盟の結成を後援し、まもなく全南部に強力な青年運動を誇ることができるようになった。

 

 

 2、ヴォーリン、アルシノフと「ナバート連合」(警鐘)

 

 サンディカリスト新聞『ゴロス・トゥルーダ』の元編集員のヴォーリンは新しい団体の指導的人物であった。彼が「統一アナキズム」(エジニィ・アナルヒズム)と呼んだところのもの、換言すれば、アナキスト−コミュニスト、アナルコ−サンディカリスト、個人主義的アナキストを包括し、なおかつ参加団体や個人に十分な自治の手段を保証する単一の組織のシンボルとして彼は「ナバート」をみつめたのであった。アナキズムの雑多な構成要素を一つに結びつけようとしたヴォーリンの努力は、奇妙な逆説によって、彼自身のサンディカリストの同志が「ナバート」に参加するのを拒んだのをきっかけにぷっつりと終わってしまった。反対者は「統一アナキズム」があやふやで効き目のない統一の古臭いきまり文句だと考え、アナキスト―コミュニストが新たな連合の中で支配的存在となるのを恐れたのであった。

 

 ヴォーリン以外で「ナバート」運動のもっとも優れた指導者は二人の古くからのアナキスト、アロン・バロンとピョートル・アルシノフであった。ピョートル・アンドレエヴィチ・アルシノフは、一九〇六年にアナキズムに転向する以前は、ボリシェヴィキであった。彼はエカチェリノスラフ郊外の工業地帯の冶金工であったから、自分の工場でアナキストのプロパガンダを流布し、労働者仲間にアナキスト細胞を作った。アルシノフはアジテーターとしての役割に加えて、最後には逮捕、投獄に導いたテロリストのはなれわざにも従事した。

 

 彼はなんとかして国外へ逃亡したが、ロシアに帰ったとたんに、今度はアナキスト文書をオーストリア国境から持ち込んだ嫌疑で、再び拘留された。二月革命後の臨時政府による政治犯の恩赦で釈放されるまで七年間、モスクワ刑務所で苦しい年月を送った。モスクワ・アナキスト連盟にしばらく積極的に参加したのち、アルシノフは故郷のエカチェリノスラフに帰り、ドネツ盆地のアナキスト事務局の仕事をし(彼はそこの機関誌『ゴロス・アナルヒスタ』の編集員を勤めた)、十年前にしたように鉱夫や工場労働者に講演をした。

 

 一九一八年十一月、「ナバート」連合は第一回総会のためにクールスクの町に集合した。モスクワのカレーリンの全ロシア・アナキスト連盟に比較すると、「ナバート」グループは、ボリシェヴィキの「プロレタリア独裁」にとっても、また国家なき社会の開始に先立つその他の「過渡的段階」にもあまり有用ではなかった。ロシア革命は、資本主義体制を都市および農村のコミューンの自由連合に置き換えるまで続くはずである、世界的社会革命の「第一波」であるにすぎないと、大会は宣言した。

 

 だが代表たちは、自分たちがいくらソヴェトの独裁に批判的であっても、白軍は一層悪いと考え、赤軍の公式の枠外で活動する彼ら自身のパルチザン部隊を編制することによって白軍に対抗しようと決議した。経済的な面については、大会は非政党的ソヴェトや労働組合の支配を受けない工場委員会(労働組合は「旧式な労働者組織の形態」と言われていた)や貧農の委員会へ、アナキストが参加することに賛成した。最後に大会は地方や都市や国中にアナキスト・グループの永続的な連合を作り、運動全体の中にもっと大きな相互扶助を達成する必要を再度強調した。

 

 同じ議題が、数カ月後の一九一九年四月、エリザベートグラートで開かれた第一回「ナバート」会議でも他を圧した。セーニャ・フレシンは、会議の直前に連合の機関誌に、共産主義者は「彼ら自身と大衆の間に城壁」を築いているという攻撃の文章を書いて、会議の雰囲気を作った。会議はフレシンの抗議を反映して、ひとたび自由と自主性をもったロシア革命の労働者委員会は、「全く官僚的な行政的、政治的な、かつ新たな搾取の親分たる国家の警察機構でもある労働組合に」飲み込まれてしまったと嘆いた。代表たちは、ソヴェトもボリシェヴィキによって国家権力の道具に変えられてしまったと発言し、それらをあらゆる種類の非政治的委員会−工場・農民委員会、住居・隣組委員会、文化教育委員会−に置き換えることを要求した。

 

 代表たちはまた、彼ら自身の同志にも怒りの炎を向け、「ソヴェト・アナキズム」やゴルジン兄弟の汎アナキズムをしたたかに攻撃した。さらに彼らはアナルコ−サンディカリストたち(彼らは会議に参加するのを拒んだ)の「偏狭な党派性」をも非難し、近く開かれることになっている第三回全ロシア・アナルコ−サンディカリスト大会へ代表を送る提案に反対した。仲間のアナキスト・グループに対するこの遠慮会釈のない攻撃は勿論、運動内部の統一をはかろうという「ナバート」の主要な目標にとってあまり役に立たなかった。

 

 しかし、批判のある一点において、「ナバート」連合は血のつながるアナキストの大多数と完全な意見の一致をみた。すなわち、アナキスト運動のもっとも差し迫った任務は、たとえ仮に共産主義者と手を結ぶことになろうとも、白軍の猛襲から革命を防衛することであった。とはいえ、前年のクールスク大会と同じように、エリザベートグラート会議は、赤軍ボイコットを決議し、赤軍を典型的に軍国主義的方法で「上部から指令」される権力組織であると誹謗した。「ナバート」はそれにかわって、革命的大衆自らの中に自発的に編制される「パルチザンの軍隊」に期待をかけた。そして連合の指導者は、ネストル・マフノの指揮の下にウクライナで行動しているゲリラ隊をそうした「パルチザン部隊」のもっとも格好な中核と考えた。

 

 

 3、ネストル・マフノとその経歴

 

 ネストル・イヴァノヴィチ・マフノは、ドニエプル河とアゾフ海の間のエカチェリノスラフ地方にあるグーリャイ=ポーレというウクライナ人の大きな村で、貧農の末っ子として、一八八九年に生まれた。一歳にもならないとき、父親が死に小さな五人の子どもが母親の肩にかかった。七歳のときマフノは牛や羊の世話をするようになり、その後、農場労働者や工員の職についた。一九〇六年、十七歳のときグーリャイ=ポーレのアナキスト−コミュニスト・グループに参加した。

 

 二年後に彼は地方警察官の命を狙ったテロリズムの行為に参加したため、法廷に立たされた。法廷は彼に絞首刑を宣告したが、年齢が若いためモスクワのブトゥルキ刑務所における終身懲役に減刑された。マフノは不従順な囚人で、刑務所の規律を認めず、九年の拘留期間中、しばしば足伽をはめられたり、独房に入れられたりした。一九一〇年ピョートル・アルシノフがアナキスト文書を秘かにロシアへ持ち込んだため逮捕され、ブトゥルキ刑務所へ投獄されたとき、二人の反徒は親友となった。グーリャイ=ポーレ出身のろくに字も読めない農民の倅よりは学問もあり、年上でもあったアルシノフはマフノにアナキスト理論の基本を教え、バクーニンクロポトキンへの信念を堅めさせた。

 

 マフノとアルシノフは、一九一七年三月の臨時政府の恩赦で出獄した。アルシノフはモスクワに残ってモスクワ・アナキスト連盟の活動的なメンバーとなったが、マフノはウクライナの生まれ故郷の村へ戻った。ここでマフノはすぐに村でおきる諸々の事柄に指導的役割を演じた。彼は農場労働者の組合を組織しその議長をつとめた。まもなく彼は大工と冶金工の労働組合支部と、農民および労働者議員のグーリャイ=ポーレ・ソヴェトの議長に選出された。一九一七年八月にはマフノはソヴェトの議長として武装農民の小集団を募集し、近隣の貴族領地の収奪とその土地の貧農への分配に手をつけた。その頃から村人たちは彼を新しいステンカ・ラージンか、さもなくば、プガチョフとみなすようになり、彼らの昔からの土地と自由への夢を実現する方向に向かった。

 

 しかしマフノの活動は、翌年ソヴェト政府がブレスト−リトフスク条約に調印し、ドイツとオーストリアの大軍がウクライナに進軍してきたとき、不意に停止した。マフノはこの許すべからざるドイツ「帝国主義」との妥協に対して彼の仲間のアナキストが抱いている義憤に共鳴していた。しかし彼のパルチザン部隊は弱すぎて、とても役に立つような抵抗はできなかった。彼は身を隠さざるを得ず、ヴォルガ河へと困難な道を進み、つづいて北へ向かい、町から町へと流れ歩いていたが、ついに一九一八年六月にモスクワに到着した。モスクワには多数のロシア・アナキスト指導者が集まっていた。

 

 

 4、クロポトキンとの会見とレーニンからの招待

 

 首都での短い滞在期間中に、彼は崇拝者ピョートル・クロポトキンとの感動的会見の機会をもった。彼らは長々とウクライナの混乱した情勢について語り合ったが、クロポトキンは、ひとたびマフノが故郷に帰ってからの行動については一切具体的な助言を与えることを差し控えた。「同志、この問題はあなたの生命の危険をともなっている。あなただけがこの問題を正しく解決することができるのだ」とこの老人は言った。

 

 マフノが帰ろうと立ち上がるとクロポトキンはさらに「同志よ、われわれの戦いは感情的になってはいけない。われわれ自身が選んだ目的へ向かう途上における無我と心情、および意志の強さが、すべてを征服するのだ」と言った。クロポトキンの道徳的精神は、この静かな貴公子と接したすべてのリバータリアンと同様に、マフノの上にも終生忘れることのできない強い印象を与えた。彼の別れる際の言葉は、マフノが思い出の中で書いているように、内戦を通じ、またその後の孤独なみじめな年月に彼の支えの一助となったのであった。

 

 また同時にモスクワで、マフノは、()ウクライナ農民の新政府に対する態度、()南部の軍事情勢、()ボリシェヴィキとアナキストの革命論の相違などについて探りを入れようとするレーニンからも招待された。「アナキストの多くが現在を知らないで、未来についてあれこれ考えたり書いたりしている、そこがコミュニストとアナキストのちがうところだ」と、レーニンは述べた。レーニンはさらにつづけて、アナキストは「無我な」人たちではあるが、彼らの「空っぽな熱狂主義」は現在のヴィジョンも未来のヴィジョンもともに曖味なものにしていると語った。

 

 「だが、同志、私はあなたが現代の燃えさかる犯罪に対して、現実的な態度を持ち合わせていると考えている。たとえアナキスト−コミュニストの三分の一の者しか君のような態度をとらないとしても、われわれコミュニストは一定の周知の条件で、生産者の自由組織実現を目指して働く彼らに協力する用意がある」と、レーニンはマフノに語った。マフノは、アナキストは空想的夢想家ではなく、行動する現実的人間であると、レーニンに反撃し、要するにウクライナの民族主義者と特権階級を敗退させたのは、ボリシェヴィキではなくて、アナキストと社会革命党員であったことをレーニンに思い起こさせた。レーニンは「私が間違っていたようだ」と言い、さらにマフノが南部へ帰る便宜を計ろうと申し出た。

 

 マフノは、レーニンの強い個性に衝撃を受けながらも、社会主義インテリと官僚の偽造した「机上の革命」と呼んで軽蔑しているところのものに、少なからず敵意も感じつつ、そのインタヴューから帰ってきた。彼がモスクワ連盟で会ったアナキスト−ポロヴォィ、ロシチン、ゴルジン、サンドミルスキー、その他−でさえ、彼には行為よりも書物の人というふうに映った。だが彼らの人間性と学問がいくら強く印象に残ったとしてもやはり、彼らは彼ら自身の言葉と決議の催眠術に酔っており、彼らの理想のために闘う意志を欠いているようにみえた。マフノは彼の農民的気質にはなじめない大都会をすぐに去って、グーリャイ=ポーレに戻った。そこの土からは自分の力を引き出すことができ、その土が自主と自由への彼の情熱を駆り立てるのだ。

 

 

 5、グーリャイ=ポーレにおけるマフノ軍

 

 一九一八年六月、マフノがグーリャイ=ポーレに戻ってみると、そこはオーストリア軍とウクライナの傀儡スコロパツキー軍司令官(ヘトマン)の軍団(ヴァルタ)に占領されていた。いまだ逃亡者であるマフノはこっそり村に入り、彼の留守中に母の家は焼かれ、戦傷で足の悪い兄のエメリアンが銃殺されていることを知った。彼はほとんど寝ずにパルチザン部隊を編制し、アナキズムの黒旗の下に、オーストリア・バンガリア軍とゲトマン軍と地方貴族の領地に猛烈な奇襲を開始した。南部の農民に向けた彼の最初の宣言は次のようにいっている。「われわれは過去の年月の例を引き継ぐため、また新たな主人となる運命を引き受けるために、戦勝するのではない。われわれは運命を自分たちの手に握り、われわれ自身の意志とわれわれ自身の真実の考えに基いて、われわれの生命を御していくがために戦勝するのだ。」

 

 すばらしい機動性と賢明な機略に富んだ術策が、マフノの首領としての戦術を確立した。彼の兵士たちはに乗ったり、農民の軽い馬車(ターチャンカ)に機関銃を満載し、ドニエプル川とアゾフ海の間の広い高原を行きつ戻りつ、敏捷に動き回った。そして行くに従って、人数も増えて小さな軍隊となり、敵の核心部でのテロルを指令した。それまでは、独立ゲリラ部隊がマフノの指揮を受け、彼の黒旗の下に結集していた。村民は喜んで食糧や生きのよい馬を提供し、マフノ軍が一日に難なく四〇キロから五〇キロも移動できるように手を貸した。

 

 彼らは全く予期しないところへ突然出現し、貴族や旅団を襲撃し、来たときと同じようにあっという間に姿を消した。スコロパツキー軍司令官(ヘトマン)の軍隊から奪った軍服に身を隠し、敵の作戦を知ったり、敵を直撃するために、敵の兵士の間に侵入することもあった。あるときマフノとその随員は、ゲトマン軍の警備兵を装って、うまく地主の舞踏会に入り込み、彼らの饗宴のまっ最中に客人に襲いかかった。追い詰められると、マフノ軍の兵士たちは武器を土の中に隠し、歌を歌いながら村へ帰り、野良仕事をして、武器の隠し場所を掘り起こせという次の号令を待って、再び予期せぬ地域に姿を現わすのであった。

 

 ヴィクトル・セルジュの言うところによれば、マフノの反徒は「組織化と戦闘のまさに叙事詩的資質」を示していた。だが彼らの成功は彼らの司令官のたぐい稀な才能に負うところが大きかった。マフノは鉄の意志と鋭いユーモアのセンスを兼備え、農民の仲間への愛と献身の気持をもった勇敢な機略縦横の指導者であった。一九一八年九月、彼がジブリフキ村でオーストリア軍の先鋭隊を破った際、彼の兵士らは彼のことを親しみをこめた愛称で「バーチコ」、すなわち「小さな父親」と呼んだ。

 

 一九一八年十一月の革命記念日が、中央権力のロシア国境からの撤兵となったとき、マフノは彼らの武器と備品の大部分を持ち出し、ウクライナの民族主義の指導者ペトリューラの仲間に激しい怒りを燃やした。十二月末に、彼は大きく画策し大胆に実行する戦略で、ペトリューラ守備隊をエカチェリノスラフ市から撃退するのに成功した。彼の軍は武器を衣服の中に隠し、エカチェリノスラフ中央駅から普通列車に乗り込んだ。彼らはペトリューラの民族主義者を驚愕させ、町から追い払った。しかし翌日、敵は後続部隊とともに再び姿を現わしたので、マフノはドニエプル河を渡って逃げ、グーリャイ=ポーレの基地へ戻らなければならなかった。ペトリューラ軍は、間もなく赤軍によって放逐された。

 

 

 6、1919年前半の農民・労働者・反乱兵地方会議4回

 

 一九一九年の前半の五カ月の間、グーリャイ=ポーレの一帯は、外部の政治権力の一切から自由であった。オーストリア軍ゲトマン軍も、ペトリユーラ軍も追放され、赤軍白軍もまだ政治の空白を埋めるほど強力ではなかった。マフノはこの凪の機会を利用して、リバータリアンの路線に沿った社会の建設を試みた。一月、二月、四月と、マフノ軍は経済的、軍事的諸問題を討議し、再建の仕事を監督するために、農民・労働者・反乱兵の地方会議を開いた。

 

 地方会議の主要な議題は、その地域の統制権を確立しようとする人びとから地域を防衛する問題であった。一九一九年二月十二日、グーリャイ=ポーレで行なわれた第二回会議は、「義勇兵の動員」を決議した。それは実際には、すべての有資格者は召集された場合、従軍するよう要請されるという具合で徴兵を意味しているのであった。代表はまた、定期的会議の決定事項を実行に移すための農民・労働者および反乱兵地方軍事革命評議会を選出した。この新しい評議会は、町や村の「自由」ソヴェト、要するに政党を排除したソヴェトの選挙に力を入れ激励した。これらの団体を創設するについてのマフノの意図は政治的権力を排斥するところにあったが、軍事革命評議会は地方会議やソヴェト支部とともに活動していたから、現実には、グーリャイ=ポーレをとりまく地域におけるゆるい結びつきの政府のようなものを形作っていた。

 

 軍事革命委員会も、アナキスティックなコミューンの建設を援助した。このコミューンは、一九〇五年の革命の折にグーリャイ=ポーレに初めて出現し、一九一七年に再び存在するようになったのである。各コミューンはだいたい十二世帯、百人から三百人くらいを含んでいた。実際にはそのうちのほんの二、三人がアナキストと自称しているだけで、参加者は完全な平等の基礎の上にコミューンを経営し、クロポトキンの相互扶助論を彼らの基本的信条と見なしていた。農民・労働者および反乱兵地方会議は、近隣の貴族の領地から没収した家畜や農具を各コミューンに分配し、他所の労働者を雇わずに、ちょうど耕せるだけの土地を割り当てた。この頃組織されたこの種ソヴェトの一番最初のものは、自由と平等のための闘争の殉教者として比較的に政治的意識のある農民から崇拝されているローザ・ルクセンブルクの名誉のためにその名前がつけられていた。

 

 ウクライナの反乱軍(マフノ軍はそう呼ばれていた)は、軍事革命評議会と同じように理論的には地方会議の指令下にあった。だが実際には権威の手綱は、マフノと彼の司令部が堅くつかんでいた。マフノは規格化するような風潮を極力避けようと努力したが、彼の幹部将校は彼が任命し(その他は兵士たちが選んだ)、近くのザポロジエ地方のコザック軍団が伝統としていた厳しい規律に彼の軍隊を服従させた。だがやはり反乱軍は決して平民的気質を失わなかった。将校のすべてが農民であるか、ごく稀に工場の労働者であった。上流や中流階級やあるいは進歩的インテリゲンツィヤ出の指揮官を見つけようとしても無駄なことであった。

 

 行動を独学で学んだマフノは、ロシア・アナキスト運動内のインテリゲンツィヤの優れた学問に対して畏敬の念とまで言わなくとも、深い尊敬の気持を抱き、アナキスト理論の基本を農民の仲間に教えるについて、彼らの助けをほしがってはいたが、気質的にはアナキスト知識人とは遥かにかけ離れていた。ヴォーリンアロン・バロンはボリシェヴィキが「ナバート」連合を解散させ、その会員たちを無理やりに潜行させた後、一九一九年の夏マフノのキャンプに到着した。

 

 彼らは、数カ月前からマフノに協力している、マフノの昔の刑務所仲間であったピョートル・アルシノフとともに、その運動の機関誌『プチ・ク・スヴォポージェ』『自由への道』を編集し、弾圧された新聞『ナバート』を復刊し、リーフレットを出版したり、軍隊で講演会を催したりする文化教育委員会を設立した。これらの活動のほかに、知識人たちは、生徒の間に独立し自主の精神を育てるフランシスコ・フェレルの近代学校をモデルとした学校を開設する計画を立てた。さらに文化教育委員会は実験劇場を創立し、農民や労働者のための成人教育のプログラムを企画した。

 

 マフノ運動では、相当の数のユダヤ人が重要な役割を受け持っていた。アロン・バロンのようなインテリで文化教育委員会で働いた者もあったが、大多数はユダヤ人歩兵および砲兵特別分遣隊の隊員か、またはウクライナ人、ロシア人その他の国籍の農民や労働者の側に立つ正規のパルチザン部隊の中で、反乱軍の一兵卒として闘った。マフノは自分の意見としてどのような差別も非難し、農民の仲間たちの憎悪をこめた反ユダヤ主義の感情を抑えるよう努力したが、その仕事は彼らの略奪や飲酒を抑制するのと同じくらい困難を極めた(飲酒についてはマフノ自身がアルコール中毒であるため矛盾していたが)。反ユダヤの行為は、ただちに厳罰を受けた。ある隊長はユダヤ人街を襲撃したのち結局銃殺された。またある兵士は反ユダヤのきまり文句である「ユダヤ人をやっつけてロシアを救え!」という言葉をポスターに書いただけで同じ運命となった。

 

 

 7、ボリシェヴィキとの友好関係→トロツキーによるマフノ軍攻撃命令

 

 一九一九年の初春、マフノと彼の熱心な同志たちが、リバータリアン社会の基礎作りをしていたとき、彼らのボリシェヴィキとの関係は少なくとも穏やかで友好的であった。グーリャイ=ポーレの農民は、極端な食糧不足に悩むペトログラートとモスクワの工場労働者に大量の穀物を送りとどけたほどであった。ソヴェト新聞は、マフノを「勇敢なパルチザン」とか偉大なる革命の指導者として賞讃した。一九一九年三月、マフノと共産主義者が、デニキン将軍の白軍に対する共闘の契約を結んだ頃、双方の関係は最良であった。協定によれば、ウクライナの反乱軍は、赤軍の一師団であり、ボリシェヴィキ最高司令部の命令に服従したが、反乱軍の名前と黒旗とともにその将校と内部組織はそのまま保持した。

 

 しかしこのような外見的な調和のゼスチュアは、二つのグループ間の根本的敵対を隠しおおすことはできなかった。共産主義者は、反乱軍の自主的状態や反乱軍が農民の新参兵に及ぼす強力な魅力に全く関心を示さなかった。マフノ軍の側では、遅かれ早かれ赤軍がマフノの運動を破局へ傾けるであろうことを恐れていた。その年の初めに、第一回・第二回のマフノ軍会議で率直に物を言う代表が、ボリシェヴィキ党は「農民と労働者の代議員のソヴェト支部から自由と自治を奪い」、「革命の独占を要求」しようとしているとすでに糾明していた。

 

 四月、第三回会議が招集されると、ドニエプル地区の赤軍司令官ドィベンコは、「反革命的」集会だとして禁止した。マフノの軍事革命評議会は怒ってすぐに返事を送った。「奴隷のきずなを断ち切り、現在自分たち自身の意志で自分たちの生活を創造している人民を、反革命呼ばわりする権利が君にあるのか? 革命的人民大衆は自分たちが勝ち取ったばかりの自由を『革命家』が奪っていくのに、黙って見ているというのか?」 一九一九年四月十日、禁止令を公然と無視して、農民・労働者および反乱兵の第三回会議を開いた。ソヴェト新聞は、今やマフノ主義者の讃美をばったりやめて、彼らを「富農(クラーク)とか「アナルコ山賊」と攻撃し始めた。

 

 五月マフノ暗殺のために派遣された二人のチェカ員が捕まり、処刑された。最後の破局はマフノ主義者が、六月十五日に第四回地方会議を招集し、代表を送るよう赤軍の兵卒に申し送ったとき生じた。ボリシェヴィキ軍総司令官であったトロツキーは激怒した。六月四日、彼は会議を禁止し、マフノを違法者とした。共産軍は、グーリャイ=ポーレを急襲し、ローザ・ルクセンブルク・コミューンとその類のコミューンに解散を命じた。二、三日すると、デニキン軍が到着し、まだ残っていたコミューンを一掃し、地方ソヴェトも同じように解放させて、共産軍の仕事を仕上げた。

 

 その夏デニキン軍のモスクワ大進撃で、共産主義者もともにゆさぶられた際、不安定な同盟が再び急いで結ばれた。八月と九月マフノ・ゲリラ軍はウクライナの西の国境へ撃退された。この疲労困憊した後退に加わったヴォーリンは当時を回想して、マフノ軍は圧倒的に優勢な強敵に対しても絶望することはなかったと言っている。反乱軍の先頭の馬車には大きな黒旗がなびき、「自由か死か」「農民へ土地を、労働者に工場を」というスローガンが書かれてあった。つづいて一九一九年九月二十六日、ウマン町の近くのペレゴノフカ村で、マフノは突然反撃に出て成功し、白軍の兵站線を切断し、将軍の後衛に恐慌と混乱をひきおこした。これがデニキンのロシア中心部への劇的大進撃における最初の重要な逆転であり、ボリシェヴィキ首都へのデニキン進撃を停止させた大きな要因であった。年末に、赤軍の反撃によって、デニキンは黒海沿岸へ速かな撤退を余儀なくさせられた。

 

 

 8、マフノ軍の絶頂期とその計画の問題点

 

 マフノ軍の勢いは、ペレゴノフカにおける勝利ののち数カ月の間、絶頂に達した。十月と十一月、マフノは数週間にわたってエカチェリノスラフとアレクサンドロフスクを占拠し、その結果、アナキズムの思想を都市生活に採用する初めてのチャンスを得たのであった。大きな町へ入ってマフノが行なったこと(刑務所を開放した後に)は、新しい形態の政治的規律を導入しに来たのではないかとの印象を払拭することであった。これより市民は市民が適していると考えるやり方で生活を組織化する自由があること、要するに反乱軍は「何をせよと指示したり」命令したりしないことを知らせる公示を掲載した。

 

 言論、出版、集会の自由が宣言され、エカチェリノスラフでは、広範囲にわたる政治的見解を代表する六種類の新聞が一夜のうちに出現した。しかし、表現の自由を奨励する一方で、マフノは人民に権力を押しつけようとする政治組織は許しておかなかった。そこで彼はエカチェリノスラフとアレクサンドロフスクのボリシェヴィキの「革命委員会」(レフコミィ)を解散させ、その会員に「何か真面目な商売をするよう」指示した。

 

 マフノの目的は、あらゆる形の支配を追放し、経済的、社会的自決を促進させることであった。「労働者と農民の生活すべての面において彼らが正しいと考えるやり方で自らを組織し、相互理解を深めることが労働者と農民の肩にかかっている」と、一九一九年の声明文のあるものは述べている。一九一九年十月、アレクサンドロフスクの労働者および農民の会議で効果的な指導権の必要を主張した社会革命党員は、マフノ軍兵士たちからの抗議の叫びを浴びた。「われわれはあなたの言う指導者はもうたくさんだ。いつも指導者、指導者、指導者だ。今度はわれわれに指導者なしでやらせてくれ。」 アレクサンドロフスクの鉄道員がわれわれはもう幾週間も給料をもらっていないと不平をいうと、マフノは彼らに鉄道の管理をし、乗客や輸送品に、彼らのサービスに対して公平と思われる料金を請求するよう助言した。

 

 しかしマフノの空想的計画は、労働者の少数を獲得することに終わった。なぜなら自分たち自身の事柄を扱うことに慣れている独立した生産者である村の農民や職人とはちがって、工場労働者や鉱夫は複雑な産業機構に付属した部分として動いており、監督や専門技師の指導なしには途方に暮れてしまうのであった。そのうえ農民と職人は彼らの労働の産物を物々交換することもできたが、都会の労働者は生活のための一定の賃金に頼っているのである。おまけにマフノはすべての紙幣が彼の前任者−ウクライナ民族主義者、白軍、ボリシェヴィキ等−によって発行されたことを知ると、混乱を倍加した。

 

 彼は都市経済の複雑性を理解していなかったし、知ろうと努力もしなかった。彼は都市の「害毒」を忌み嫌い、彼が生まれた農民の周囲の自然な純粋性を愛した。とにかく彼は、彼の不明確な経済計画を非常な短期間に実現した。彼は息つく暇なしに絶えず動き回っていた。当時いっしょに活動していた人たちの話では、マフノ軍は「車上の王国」「馬車(ターチャンカ)の上の共和国」であった。エカチェリノスラフとアレクサンドロフスクにおけるマフノの企画について、ヴォーリンは「いつものように不安定な情勢が積極的な仕事の邪魔をした」と書いている。

 

 

 9、マフノ軍をポーランド戦線へ移動させる指令と拒絶

 

 一九一九年の末、マフノは、彼の軍隊をポーランド戦線へ移動させよとの赤軍司令部からの指令を受けた。その命令は明らかに、マフノ軍をホーム・グランドからひき離し、ボリシェヴィキの規律を確立させてしまおうとの意図によるものであった。マフノは動くことを断わった。彼の反乱軍は、ウクライナで一つの真に人民の軍であるから、当地に残って、人民の勝ち得たばかりの自由を守るとマフノは返答した。

 

 トロツキーは、デニキンの「群れ」に赤軍を置き換え、財産を奪われた地主に政治人民委員を置き換えたいと願っている、とマフノは言った。トロツキーの返答は断固として揺るがなかった。彼はマフノ軍を犯罪者と呼び、彼らに対する出動の準備をした。グーリャイ=ポーレのマフノ本部は攻撃を阻止しようと絶望的努力をし、ボリシェヴィキ軍に、ウクライナの「平和な居住地」を踏み荒らすような命令を拒むよう訴えたリーフレットを洪水のように撒いた。「人民は人民委員制度ではなくて、自由ソヴェトの秩序を必要としている」とリーフレットは主張した。「われわれは暴力には暴力をもって応えるであろう。」

 

 この先、両者に多大な損害を被らせた、八カ月にわたる激戦が繰り広げられた。ひどいチブスの流行が犠牲者の数をますます増加させた。クリヴォイ・ログ町で病気になったヴォーリン赤軍に捕えられ、モスクワ刑務所へ運ばれた。マフノ・パルチザンは数の点でとても敵わなかったから、正面きっての戦闘は避け、二年以上の内戦で熟達したゲリラ戦術に訴えた。彼らは歌の中で、マフノの指導的人格への信義を公言している。

 

  われらは奴らをうち負かすぞ / そしてこの戦いで奴らをうちのめすぞ

  われらは人民委員を一人残らず / ひっ捕えるぞ

 

  フレー! フレー! フレー! / われらは敵に進撃するぞ

  母ガリーナのため / 父マフノのため!

 

 

 10、ウランゲリ軍との闘争で共闘→赤軍による協定破棄・総攻撃

 

 一九二〇年十月南部のデニキンの後継者ウランゲリ男爵は大攻撃を開始し、クリミア半島から真っすぐ北進した。赤軍はもう一度マフノの協力を得て、再び同盟が結ばれ、それによって反乱軍は、ボリシェヴィキ指揮下の半分自主的な師団となった。共産主義者はマフノの協力の報いとして、ロシアの刑務所にいるすべてのアナキスト恩赦にすることに同意し、ソヴェト政府の暴力的転覆を要求するのは慎しむという条件でアナキストにプロパガンダの自由を与えた。(チブスの発作から回復したヴォーリンはその後、ハリコフで『ナバート』誌を復刊し、年末に開催予定の全ロシア・アナキスト会議の準備を始めることができた。)

 

 しかし一カ月もたたないうちに、赤軍は内戦に勝てる見込みを持てるだけの利益を得たので、ソヴェトの指導者は、マフノとの協定破った。マフノ軍は軍事上のパートナーとしての有用性を失っていたばかりでなく、バーチコ(マフノ)が自由の身であるかぎり、原始的アナキズムと農民暴動−プガチョフシチナ−の危機が不安なボリシェヴィキ政府を悩ましつづけることになる。そこで十一月二十五日ウランゲリ軍に戦勝したばかりのクリミアのマフノ指揮官たちは、赤軍に捕えられ、ただちに銃殺された。翌日トロツキーはグーリャイ=ポーレのマフノ本部の襲撃を命じた。一方チェカも同時に、差し迫った会議にハリコフへ集まってきた「ナバート」連合の会員を逮捕し、国中のアナキスト・クラブや組織を襲った

 

 グーリャイ=ポーレの攻撃の最中、マフノ軍幹部の大部分は捕えられ、投獄されるか、あるいはその場で射殺された。しかしバーチコは、かつては数万を数えた軍隊の敗残兵とともになんとかして追跡者から逃れた。一年近くもウクライナを彷徨したのち、疲れ切り、未だに治り切らない傷に苦しむパルチザン指導者は、ドニエプル河を渡ってルーマニアに入り、パリへ向かうことになった。

 

 

 11、トロツキー・レーニンによるアナキスト弾圧と滅亡

 

 ボリシェヴィキのアナキストに対する弾圧は、チェカが一九一八年四月モスクワ連盟に対する最初の襲撃を開始したときからますます大きくなっていた。一九一九年には、黒色防衛隊とゲリラ戦士の過激な一団−政府に対する戦いの危険をもつ勢カ−が警察にとっての唯一の標的ではもはやなくなり、ペンよりほかに危険な武器を持たないアナルコ−サンディカリストや「ナバート」連合の知識人、とりわけレーニンやトロツキーを「裏切者」とか「過激分子」と批判することをやめようとしない強情者が、たびたび逮捕されたり、拘留されるようになった。グリゴリー・マクシモフは、一九一九年から一九二一年までに六回以上も拘留されたと述べた。ゴルジン兄弟やユーダ・ロシチンのような忠実な「ソヴェト・アナキスト」でさえ、短期間ではあったが投獄された。

 

 一九二〇年の夏エマ・ゴールドマンアレクサンドル・ベルクマンは、彼らの同志たちが弾圧を受けていることについて当時、モスクワで開催中の第二回共産主義インターナショナル大会に抗議した。アナキスト黒十字団も同じ不満を訴えた。アナルコ−サンディカリストはコミンテルン大会の代表としてモスクワにきた外国のサンディカリストを促して、ソヴェト指導者に影響を及ぼそうとした。

 

 しかし、この一連の抗議も、トロツキーの「大外科手術」を妨げることはできなかった。この「大手術」は、一九二〇年十一月、ウクライナで行なわれ、このとき赤軍はグーリャイ=ポーレのマフノ本部を襲撃し、チェカがハリコフの「ナバート」連合の指導者−ヴォーリン、アロン、ファーニャ・バロン、オルガ・タラトゥータ、セーニャ・フレシン、マルク・ムラチニィ、ドレンコ−チェケレス、アナトリー・ゴレリクを含む−を狩り出し、モスクワのタガンログとブトゥルキ刑務所に詰め込んだ。首都ではアナルコ−サンディカリストのマクシモフとヤルチュクが数週間、拘留された。

 

 エマ・ゴールドマンはこの逮捕の新しい波に怒って、教育人民委員のアナトリー・ルナチャルスキー女性厚生人民委員のアレクサンドラ・コロンタイに強く訴えた。エマがアンゲリカ・バラパノフに語ったところによれば、二人とも「これらの非難を認めたが抗議することは賢明ではないと考えている」というのであった。そこでコミンテルンの書記であるパラバノフは、エマがレーニンに会えるよう取りはからったが、レーニンは彼女に、アナキストはその信条だけで追求されることはない、「山賊」とマフノの反乱兵士だけが弾圧されているのだと再び言明した。

 

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 〔関連ファイル〕

     『マフノ運動とボリシェヴィキ権力との関係』共闘2回と政権側からの攻撃3回〔資料編〕

     第3部『革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』9000万農民への内戦開始

     ヴォーリン『ウクライナの闘争−マフノ運動』1918年〜21年

     アルシノフ『マフノ叛乱軍史』ロシア革命と農民戦争

     梶川伸一『レーニン体制の評価について』21年−22年飢饉、ウクライナの悲劇

     20世紀の歴史『試練の大地−ウクライナ』ウクライナの歴史、全文

     ウィキペディア『ウクライナの歴史』

     大杉栄『無政府主義将軍ネストル・マフノ』1923年

     google検索『クロポトキン』

     P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』