マフノフシナ 『マフノ叛乱軍史』解説

 

内戦期ウクライナにおける農民運動

 

中井和夫

 

 ()アルシーノフの訳書は2つある。()『マフノ叛乱軍史−ロシヤ革命と農民戦争』(鹿砦社、1973年、原著1923年、絶版)と、()『マフノ運動史、1918〜1921、ウクライナの反乱・革命の死と希望』(社会評論社、2003年)である。このファイルは、絶版になった著書の解説−中井和夫『マフノフシナ』(P.303〜326)の全文である。彼は、ウクライナ研究者・東大教授で、ウクライナ問題に関する著書・論文を多く発表している。アルシーノフは「マフノフシナ」という言葉を、()単にパルチザンとしてのマフノ叛乱でなく、()社会的な広がりを持った現象を表わすものとして用いている。

 〔目次〕は4項目あるが、小見出しが書いてない。絶版なので、私(宮地)の判断で、小見出し・各色太字・(番号)を付けた。

 

 〔目次〕

     はじめに

   1、ウクライナにおける農民運動=土地をめぐる闘いとマフノ軍

   2、ソヴェート側の土地政策・穀物政策と反ソヴェート農民反乱

   3、食糧徴発をめぐる対立−マフノ軍とソヴェート政権との戦闘

   4、マフノ運動地域の特色とマフノの軍隊

   5、《参考文献》リスト

 

 〔関連ファイル〕            健一MENUに戻る

     『マフノ運動とボリシェヴィキ権力との関係』共闘2回と政権側からの攻撃3回〔資料編〕

     第3部『革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』9000万農民への内戦開始

     コンドラーシンウクライナにおけるマフノー運動の本質について』

     ヴォーリン『ウクライナの闘争−マフノ運動』1918年〜21年

     アルシーノフ『マフノ叛乱軍史』ロシア革命と農民戦争

     P・アヴリッチ『ロシア・アナキズムにおけるマフノ運動の位置づけ』

     梶川伸一『レーニン体制の評価について』21年−22年飢饉、ウクライナの悲劇

     20世紀の歴史『試練の大地−ウクライナ』ウクライナの歴史、全文

     ウィキペディア『ウクライナの歴史』 

     大杉栄『無政府主義将軍ネストル・マフノ』1923年

     google検索『クロポトキン』

 

 はじめに

 

 マフノ運動の歴史的意義を挙げるとすれば、第一に、マフノ軍が、ヂェニキン軍との闘いにおいて、その部隊撃破し致命的な打撃を与えたという事である。これが「革命ロシヤ」防衛にとって大きな意味を持った事は疑いえない。第二に、マフノ運動はウクライナ農民の利益を代表しているという事である。これは特にソヴェート権力との関係の中で鮮明になってくるのであるが、「権力と農民」という対抗関係の中にマフノ運動もあったと言える。ヂェニキン軍との闘いについては、アルシーノフが本書で詳しくしかも生き生きと描いているので、ここでは特に農民運動という観点からマフノ運動を見ていくことにする。

 

 

 1、ウクライナにおける農民運動=土地をめぐる闘いとマフノ軍

 

 一九一七年二月革命の後、ウクライナにおける農民運動は、他のロシヤの農民運動と同様に「土地をめぐる闘い」であった。攻撃目標は主に地主であり、地方の地主権力であった。運動の形態としては、土地の奪取、森林盗伐、屋敷の破壊、財産奪取、地主や地方官吏の逮捕、追放、殺害、土地賃貸料の不払いなどであった。奪取した土地や生産用具は、地方の土地委員会(郷委員会)が管理し、この農民によって構成される委員会によって、農民に分配されるのが普通であった。

 

 農民運動の最も激しかった()カザーン県、ペンザ県を含むヴォルガ中流域や、()タムボフ県、リャザーン県を含む中央農業地帯では、既に一〇月革命の前、夏から秋にかけてあらゆる地主地は没収しつくされており、カザーン県などでは秋には農民運動が逆に「下火」になってさえいる。こうして一〇月革命を迎える前に、農民はみずからの組織でみずからの課題−地主権力を粉粋し、地主地を奪取し、土地を自分のものとする−を闘いぬいていたのである。

 

 ウクライナにおいても事情は同じであった。農民は土地を求めていた。一七年の農民運動の件数で見ると、多いのは、ウクライナ南西部ヴォルイニ(三月から一〇月までで一二一件)、ポドリスク(一〇九件)両県と、ウクライナ北部ポルタヴァ(一二一件)、ハリコフ(一〇二件)両県である。エカチェリノスラフ(五八件)、ヘルソーン(五五件)、タヴリダ(三四件)の南部三県は件数の上では最も少なくなっている。

 

 第一回全ロシヤ農民大会が五月四日から二八日まで、ペトログラートで開催され、ここで農民の最も基本的な要求である「土地を農民の手に渡す」という原則が、闘争の成果に基いて確認される。ウクライナでも、五月二八日から第一回全ウクライナ農民大会がキーエフで開かれ、土地問題に関して、私的所有の廃止、全ての土地を土地委員会の管理下に移し、郡・郷土地委員会を通じてその土地を農民に分配する事を決議した。農民の土地を求める「熱情」はウクライナにおいても全く同じであった。

 

 マフノとマフノ運動の「生誕地」エカチェリノスラフ県グリャイ=ポーレでも、一九一七年を通じて他の村々と同じように、土地委員会に率いられて対地主闘争が行なわれた。マフノは、二月革命のあと三週間、モスクワにとどまり、その後故郷のグリャイ=ポーレに帰った。その時マフノは二七才であった。マフノはグリャイ=ポーレ地区の農民運動の先頭に立ってその組織化を行なった。三月の終りにはグリャイ=ポーレ農民同盟をつくりその議長になった。八月のコルニーロフ叛乱の時には、革命防衛委員会が出来てやはりその議長になっている。彼はまた、グリャイ=ポーレ地区のソヴェートの議長となり、一九一七年八月にはそのイニシアチブにより、全ての地主地と家畜、生産用具は農民に分配するために没収された。地主経営はこの地域でも実際には一〇月までには殆んどなくなり、土地は農民の手に渡っていたのである。

 

 一九一七年一〇月革命の後に出された「土地に関する布告」は「土地を農民に渡す」という原則を述べたものであり、これはすでにウクライナを含む全ロシヤの農民運動が追求し、農民がみずからの手で獲得した成果を、ソヴェート政権が認めたものである。「土地に関する布告」の思想は農民の要求そのものであり、エスエルの綱領でもあった。農民はこの布告を歓迎し、その点において一〇月革命を支持した。当時の農村は圧倒的にエスエルを支持しているが、憲法制定会議の選挙結果によると、ウクライナでもエスエルは、ウクライナ・エスエルとロシヤ・エスエルをあわせて七七%の得票率で、ボリシェヴィキの一〇%をはるかに上まわっている。また、エスエルの得票率自身も、全ロシヤの平均よりもウクライナの方が高くなっている。

 

 マフノ運動は、一九一八年三月のブレスト講和とそれに続く独墺軍のウクライナ占領によって決定的な転機を迎える事になる。独墺軍の侵入とともに、追放された地主が再び戻ってきて、武力を背景に地主権力を再建した。彼らは革命によって受けた損害の賠償を農民に要求した。農民は奪取した土地を再び没収されたばかりでなく、彼らの財産一切を奪い取られた。更に農民は強制的に地主地の労働にかり出されていった。ドイツとウクライナ人民共和国との間の協定によると、一九一九年七月一日までに、ドイツはウクライナから、七五〇〇万プードの穀物、一一〇〇万プードの家畜、三万頭の羊、一〇〇万羽の鵞鳥、六万プードのバターとチーズ、毎月四〇万個の肉の缶詰、二五〇〇車輌分の卵、二五〇万プードの粉砂糖、二〇〇〇万リットルの酒などを与えられることになっていた。

 

 要するに、このウクライナから豊かな生産物を一切合切持っていってしまおうというのが、ドイツのウクライナ占領の意図であり、生産物は貨車に積まれて西へ運ばれていった。ドイツの評論家コーリン・ロスはドイツ軍に従軍して、一九一八年三月のウクライナの状況を報告しているが、そこで、()ドイツ軍はウクライナの「次の収穫」のみに関心をもっている事、()ウクライナには全体として中央権力が存在せず各村単位で自立している状態であり、農民はすでに村の周りに塹壕を掘ってあらゆる戦闘にそなえている事、()すでに一二月段階で、反ドイツ感情が住民の間に見られ、将来ドイツの占領が長びくにつれてそれが増大する可能性がある事などを述べている。

 

 ウクライナの農民は、一九一八年五月下旬から六月上旬にかけて、各地でいっせいに対独墺・対地主闘争に決起した。農民は自分の穀物を渡すことを拒否し、自分達が播種した穀物を独軍が奪い取る前にそれらを燃やしてしまうことさえした。農民は武器を手にとり、部隊を組織して地主地を襲い、へトマン軍、独墺軍を襲撃した。小銃、機関銃で武装した農民が、独墺軍と射ちあうという事態が到る処で起った。一九一八年六月五日付のエカチェリノスラフ県の状況を知らせる電報は次のように述べている。「あらゆる村々で農民とオーストリア軍との間に衝突が起っている。農民は穀物を焼き払っている。衝突は死者と逮捕者を伴っている。カメンカでは四五人の農民が逮捕された」。

 

 六月中旬には、農民の武装叛乱はウクライナ全県を覆う。六月二〇日の新聞によるとエカチェリノスラフ県で、六月一九日だけの事件として、アレクサンドロフスク郡ではゼムストヴォ機関が襲われて一万五〇〇ルーブルが奪われ、コヴァリョフ、ミルゴロスキーという二人の地主領が襲われ彼らは負傷した。さらに他の地主地が襲われそこでは七人が殺された。イヴァーキンという地主の領地では管理人が殺され、ヴチコという地主の家からは二万ルーブルが奪われた。ノヴォモスクワ郡でもある地主地の職員が全員殺されるという事件が起った。このように農民の闘争は極めて激しいものであり、当然独墺−地主側からの一層苛酷な弾圧が行なわれる。農民の対独墺・地主武装闘争は、独軍が撤退し、へトマンが打倒される一九一八年末まで続けられる事になる。

 

 マフノは、独墺軍の侵入と同時に武装兵力の組織化に着手するが、独墺軍の力にたちうち出来ずに、タガンロークへ逃げる。グリヤイ=ポーレは占領される。一九一八年四月、タガンロークでマフノは集会を開き、彼らの革命をグリヤイ=ポーレに再建することを決議し、自分達の力しかあてにならないという事を確認しあった。マフノは各地を転々とした後、六月はじめにモスクワに着いた。モスクワで、マフノはスヴェルドロフ、レーニンとも会見している。六月二九日アルシーノフに見送られてモスクワを去ったマフノは、ウクライナで地下活動をする決意を固めていた。彼はドイツ軍の網の目をくぐりぬけて、グリャイ=ポーレに潜入し活動を開始した。

 

 マフノがいない間に、()生家は焼かれ、()マフノの兄弟の一人は処刑され、()もう一人は逮捕されていた。マフノの最初の活動はレジコフという地主に対する攻撃で、その全家族を殺した。この地主と家族はヴァルタ=「ウクライナ防衛隊」=へトマン警察のメンバーだったからである。この地主の家で七挺のライフル、二挺の連発銃、七頭の馬と二つの鞍を奪った。マフノ軍は地主領を襲うことによって馬や武器をふやしていった。マフノ軍はしだいに増強され、グリャイ=ポーレで優勢なオーストリア軍と交戦した。マフノ軍は農民の利益を代表しており、戦闘ごとに村々の青年達はマフノ軍に加わっていった。シチュシの軍と合流した時にマフノ軍は二五〇〇名を数えていた。ヘトマン没落の時期−一九一八年秋−までにはマフノ軍は数千人になっていた。

 

 ヘトマン=スコロパツキーの逃亡のあと、マフノ軍はペトリューラ政府とも闘う事になる。ペトリユーラ政府は、ウクライナ社民党のヴィンニチェンコをその議長とし、ペトリューラが軍事担当責任者であった。このウクライナ人民共和国政府は、一九一八一二月にキーエフに入ったのであるが、一二月二二日にエカチェリノスラフでは、このペトリューラ軍によって労働者ソヴェートが解散させられるという事件が起った。労働者はストライキに入り、エカチェリノスラフの軍事革命司令部は逮捕された三人のコムニストの釈放を要求する最後通牒を二五日にペトリューラ軍につきつけた。しかし二六日、ペトリューラ軍は逆に軍事革命司令部を武装解除した。

 

 ここに至ってウクライナ社民党(ボリシェヴィキ)エカチェリノスラフ地区委員会は、ペトリューラ軍に対する武装蜂起と権力奪取を行なうために兵力の動員をはじめた。この時、地区委員会マフノ軍の協力を要請した。マフノ軍は二六日夕刻一〇〇騎の騎兵と四〇〇名の歩兵で到着した。こうして一二月二七日からのエカチェリノスラフ蜂起は、()マフノ軍と、()ソヴェート軍=赤軍第一ノヴォモスクワ連隊の共同作戦として行なわれた。軍用列車を使っての潜入が行なわれたのはこの時であった(本文九八頁参照)。

 

 一九一九年二月、キーエフがボリシェヴィキによって攻め落とされ、ペトリユーラ軍は西部へ逃走し、ウクライナはほぼ全域にわたって、ボリシェヴィキの軍が入り、その支配の下に入った。マフノ軍ボリシェヴィキの両者の間には、対独墺・対地主闘争、そしてペトリユーラ軍との闘いにおいても大きな利害の不一致、原則的な対立は概ねなかったと言えるだろう。少くとも、それは表面化しなかった。すでに述べたように両者が共同行動をとった時さえあった。しかしこうした両者の関係は、一九一九年二月以降崩れていくことになる。その直接の原因はソヴェート側の土地政策、穀物政策にある。

 

 

 2、ソヴェート側の土地政策・穀物政策と反ソヴェート農民反乱

 

 一九一九年二月一一日ウクライナ臨時労農政府の布告によると、()以前地主地であった大経営地は、ソフォーズ組織化の為に国家の管理下に入る事、()砂糖工場とそのビート畑も国有化される事などが宣言された。その前、二月五日には、()醸造工場とその原料畑も国有化が布告された。更にウクライナ臨時労農政府は、()生産用具についてもソフォーズなどへまず第一に分配するという布告を出した。

 

 こうした一連の布告が、農民の間に強い反感を呼び起こした。第二回グリャイ=ポーレ地区パルチザン・労・農大会は、二月一二日に、グリャイ=ポーレで開かれたが、この大会は土地問題について、「()全ての土地は勤労農民の手に移る。()土地は誰のものでもないという原則に基づいて土地はみずからの手で耕作する農民に無償で分配されること」、「()土地委員会は全ての土地を即時没収し、農民に分配すること」を決議した。

 

 農民は、全体としてウクライナ臨時労農政府の布告に反対した第二回地区大会における「現状勢に関する決議」の後半部分で、()ソヴェート政府が地方の労農ソヴェートの自由と独立をおかしていると告発している。また、()ソヴェート政府による左派エスエル、アナキストの逮捕についても非難をしている。こうして第二回地区大会は労働者・農民に対して、()ボリシェヴィキ政府を監視する事を呼びかけ、労働者・農民が地方ソヴェートに結集するように決議している。

 

 こうしてソヴェート政府の土地政策を直接の原因として、ウクライナ農民ソヴェート権力との対決がはじまるのである。一九一九年三月末頃から、ウクライナでは反ソヴェート農民叛乱がはじまった。タヴリダ県オレホフ地区では二〇〇〇人が武器をとった。これにはマフノ軍の一部が加わっていたと言われ、鎮圧に派遣された騎兵部隊三〇〇名が叛乱側につくという事も起った。一九一九年三月から四月のエカチェリノスラフ県アレクサンドロフスク郡の状況を知らせるソヴェート側の報告によると「郡の政治的状況はよくない。アナキストと左派エスエルの影響力は極めて強い。郡ソヴェート大会はまったく左派エスエルが握っている。穀物を都市に送ることを拒否するよう農民に宣伝が広がっている」。

 

 同じ時期のポルタヴァ県ゾロトノシヤからの報告によると「一五〇人のパルチザン部隊が現在、ゾロトノシヤから約四〇キロの所にいる。町には一〇〇人の赤軍兵がいる。その他はパルチザンとの闘いのため他地方へ派遣されている。町にいるのはその他コムニストと労働者の部隊全部で三〇〇人である。農民はまだ行動には移っていないが明らかに反ソヴェート政府的気分を持っている」。

 

 また、一九一九年四月三日報告によると、「エリサベートグラートのソヴェートでは共産党員は少数である。執行委員会は四〇名だが、エスエルが圧倒的である。この地方の工場、鉄道員の間では反ソヴェート政府宣伝が行なわれている。エリヴォルタ工場では改選の結果執行委員会二五人のうち三人しかコムニストが選挙されず、鉄道員の間では一一人のうち二人しかコムニストが選挙されなかった」。更に赤軍の状況を知らせるものとして、一九一九年四月二〇日にウクライナ赤軍第一師団内の連隊の状況報告が行なわれているが、それによると「第六連隊内には反セミチズムが広がっている。

 

 赤軍兵士反コムニスト的になっている。酒とカルタが蔓延し規律がゆるんでいる。赤軍兵士の中に『バチコ・マフノ万歳!』『黒旗万歳!』という声が広がっている。多くの赤軍兵士が黒いリボンをつけている。このような状態を改善するためには司令部の粛清だけが残された方法である。第八連隊第三大隊で、オシンスキーは自分がアナキストである事を宣伝し、反セミチズム宣伝をしている。大隊はオシンスキーに同情的であり、オシンスキーを逮捕しようとする試みに対し、彼を渡すことを拒否した」。

 

 こうして一九一九年四月にはウクライナは全体として反ソヴェート政府的になっていた、この時期にマフノ軍が二万名近い歩兵八〇〇〇騎の騎兵を擁する大軍団に成長していた事を考える、といかに反ソヴェート政府的気分が強かったかがわかるのである。

 

 一九一九年四月一〇日、グリャイ=ポーレで第三回地区大会が開かれるが、赤軍司令官ドゥイベンコは、この大会を反革命と断定する電報を大会に送り、赤軍とマフノ軍との対立は明確なものとなる。この第三回地区大会でソヴェート政府の食糧徴発反対する決議がなされたのは極めて重要である。食糧徴発めぐって、ウクライナ農民ソヴェート権力が決定的に対決するのはヂェニキンとの闘争を経て、一九二〇年に入ってからであるが、すでに一九一九年にもそれをめぐっての闘いははじまっている。

 

 ウクライナでは一九一九年の食糧徴発が、一二〇九万プードが予定されていたが、実際に徴発できたのは一六一万プードでありわずかに一三%であった。一九二〇年五月ウクライナ貧農委員会の組織化が「穀物をめぐる闘い」の本格化の合図であった。さて、マフノ軍と赤軍との対立は、マフノ軍が一九一九年六月一五日第四回地区大会をグリャイ=ポーレで開こうとした事によって決定的なものとなる。この四回大会召集は、革命軍事会議議長トロッキーの名において禁止された。トロッキーはすでに、六月二日「マフノフシナ」という論文を書き、その中で「マフノの仮面をはがせばグリゴーリエフである。共産党員に反抗しているのは、クラーク投機者である」と断定していた。()大会禁止、()大会代議員の逮捕、()軍事法廷といった恫喝によって結局大会は開かれず、マフノ軍は赤軍師団から離れることになった。

 

 こうして殊に、四回大会召集をめぐってマフノ軍とソヴェート権力との対立は深まり基本的な対立点が明確となっていったが、この頃から夏にかけてヂェニキンとの闘争が全面化し、ソヴェート軍との対決は先にのばされていくかたちとなる。こうしたマフノ軍とソヴェート権力の対立の中で、マフノ運動地区のボリシェヴィキ委員会がマフノ運動を支持し、マフノ軍に参加することを一〇月二七日組織として決定しているのは、極めて重大な事実である。

 

 一九一九年八月二〇日頃から、マフノ軍はヂェニキン軍との激烈にして連続的な闘争に入った。マフノ軍は根拠地から北西方面へ、ウマニ−キーエフ方面へ退却しつつ戦っていったが、この一〇〇〇キロにも及ぶ「長征」はマフノ軍の本質を見る上で極めて重要な事件である。九月二六日突然方向を転換して、ペレゴノフカ村を襲い、ヂェニキンの部隊壊滅させてからのマフノ軍の攻撃のはやさは目をみはるばかりである。マフノ軍はこうしてヂェニキン軍の補給線を絶ち切り、その壊滅のために決定的な役割を果たした。マフノ軍のこの闘いは特筆されるべきであろう(本文第七章参照)。マフノ軍はヂェニキン軍との闘いを経て、一九一九年後半には、四万名の歩兵一万五〇〇〇騎の騎兵を擁する軍団に成長していた。

 

 

 3、食糧徴発をめぐる対立−マフノ軍とソヴェート政権との戦闘

 

 一九一九年一二月二日から四日まで、第八回全ロシヤ党協議会がモスクワで行なわれた。ボリシェヴィキはウクライナに関する決議の中の第七項で土地政策の変更をした。これを受けて一九二〇年二月五日の布告ではそれが具体化され、第三条で「かつての地主地、国有地、寺院領地などで昨年(一九一九年)ソヴェート権力によって没収された土地は無償でウクライナの勤労人民の利用に供される」。第四条で「昨年、かつての地主地からつくられた全てのソフォーズは、無土地或いは小土地農民の直接の利用に供される」ことが定められた。この布告は農民に対する妥協のあらわれであった。この布告に従ってかつてソフォーズに属していた六〇万デシャチーナの土地が農民に与えられた。また砂糖工場に属していた二〇〇万デシャチーナの土地のうち、一八〇万デシャチーナの土地が農民に分配された。

 

 ソフォーズの数は、一九年から二〇年で半分に減っておりその土地は三分の一以下になっている。一九二〇年の土地革命について、ウクライナ農業人民委員部のマヌイーリスキーが報告の中で次のように述べている。「ウクライナにおける土地革命はロシヤと同じように完全な均等性をその特徴としている。均等な土地革命は大地主的土地所有に対して行なわれ、農民は農業の大経営を粉砕した。農民の土地への情熱の前には、経済法則だの国民経済的観点から見た利益などは消えてしまう。ここに農民がソフォーズの形で大経営を残そうとしたソヴェート政権の去年(一九一九年)の政策に反対した理由がある。農民大衆の目にはソフォーズはかつての所有者が国家に代っただけの『賦役労働』の新しい形態と映った。したがって今年の土地革命はソフォーズには見むきもしないで農民的均等原理を貫徹している」。

 

 一九二〇年二月五日の布告によって、ソヴェート政権は土地政策を転換し農民との妥協をはかった。しかし食糧徴発に関しては何の変更もなかった。一九二〇年三月三日のマリウポリ郡の報告によると「家畜、飼料、農産物が軍や食糧委員会によって徴発されていくが、それに対して金は払われずに領収書のみが渡される。赤軍騎兵も馬を徴発して金を払わない。こういうやり方に農民は激昂している」、「農民は動揺しており、マフノ軍の人気が高まっている」。三月六日、同郡の郷革命委大会が行なわれ、「農民は穀物を公定価格でのみ労働者・軍隊に売り渡す」ことを決定した。しかし穀物調達機関は公定価格を支払わなかった。しかも徴発された穀物や飼料がしばしば調達機関の怠慢や非組織性により腐敗してしまうという事も起った。例えば赤軍第一三軍は、一〇万プードの飼料を徴発し、その半分近くを腐らせてしまった。農民の反感はしだいに高まっていった。

 

 一九二〇年、ウクライナにおける食糧徴発はどのように遂行されたのだろうか。この年ウクライナの都市で必要とした穀物は労働者とその家族のためにだけで一億八〇〇〇万プードとされ、食糧徴発では一億六〇〇〇万プードが予定されていた。ところが実際に徴発されたのは僅かに九七二万プードで、予定の六%であった。マフノ運動の根拠地では徴発された食糧の予定量に対する比率はもっと低かった。アレクサンドロフスク郡では三・一五%、ヴォルイニ県二・六九%、ポドリスク県四・九%、チェルニーゴフ県一六・六%であった。農村が都市に食糧を僅かしか供給しなかったと同様に、あるいはそれ以上に都市はその工業製品を農村に供給する事が出来なかった。

 

 食糧徴発は、従って交換によってではなく強制的手段による没収という形をとった。こうした武力による食糧徴発に対して農民もまた武装して対抗し、反ソヴェート農民軍による()運輸手段の破壊、()徴発された穀物の奪還、()食糧徴発機構への攻撃、()活動家に対するテロなどが行なわれた。一九二〇年食糧徴発活動の為動員された人数は約二万一〇〇〇名と言われ、そのうち共産党員は一六四六名であった。ロシヤ共産党第一〇回党大会の席上、ツリューパは一九二一年一月までにウクライナで食糧徴発活動に従事していた者が一七〇〇名も殺されていることを報告している。一割に近い人数が農民によって殺されている事は、この食糧徴発=穀物をめぐる農民とソヴェート権力との闘いがいかに激しいものであったかを物語っている。

 

 ソヴェート政権の食糧政策をウクライナの各地方で実行する機関としてウクライナ貧農委員会(コムニェザーム)が、一九二〇年五月一九日の布告によって組織されはじめた。一九二〇年一一月一〇日には郷・村に九五九九の貧農委員会が組織れており、これは三つの村に一つの割合である。マフノ運動の中心地では貧農委員会の形成のテンポは遅くその数も多くは出来なかった。例えばアレクサンドロフスク県(一九二〇年に新しく県となった)では一九二〇年二月一〇日の段階では、五四の貧農委員会しか出来ていなかったが、その時キエフ県では一二七一、クレメンチューク県(新しい県)では七八一、ニコラエフ県(新しい県)で七五六、ポルタヴァ県で三三七、ハリコフ県一一九〇、チェルニーゴフ県で七六五の貧農委員会がつくられていた。

 

 貧農委員会は、農村で「クラーク」から穀物、土地、生産手段などを没収していった。一九二〇年を通じてオデッサ県では貧農委員会によって没収されたものは、穀物九万二〇〇〇プード、牛四〇〇〇頭、馬五五〇頭、羊一〇〇頭、弾丸一〇〇〇包、タバコ二一〇〇プード、皮革八〇〇プード、遠心分離器五九、鋤九〇〇、馬鍬四二五、播種機三〇四、箕三〇、刈取機五二九、打穀機八九などであった。要するに、貧農委員会は穀物、土地を含めた農民の財産を一切合切ソヴェート権力の為に没収しようとしていたのである。

 

 一九二〇年一一月一五日ウクライナ共産党(ボ)中央委員会の報告によると、六〇九一の貧農委員会に七二万三〇〇〇名の男性と一〇万五〇〇〇名の女性が組織され、二〇%が中農(三デシャチーナ以上)で、八〇%が中土地所有者か無土地農民である。五〇二の郷で貧農委員会によって馬の徴発が行なわれており、一九二の郷で「匪賊」の存在が確認され、二三三の郷で「反革命」宣伝が行なわれており、四八一の郷で貧農委員会による農村の武装解除が行なわれており、六八三の郷で貧農委員会が食糧徴発を遂行中である。貧農委員会は「クラーク」から土地を没収したが、その面積は全ウクライナで三四万九〇〇〇デシャチーナにのぼった。

 

 貧農委員会はウクライナの農村を武装解除する作業をも行なった。貧農委員会によって三万三〇七五挺のライフル、五挺の機関銃、サーベル三七振、爆弾三六個、ピストル三六二挺、大砲一門が没収された。例えばマフノ軍の根拠地の一つであるアレクサンドロフスク部ヴォズネセンカ村では一九二一年に、村は自発的に武器を供出したが、その内容は、六九挺のライフル、九挺のピストル、一一振のサーベル、短くした小銃六五挺、一八個の爆弾、二三〇〇包のライフル弾、銃剣六二、大砲の弾丸三三六発、二六九個の飯盒、八〇個の水筒、二つの機関銃用保弾帯、一つの防楯、四三本の行軍用シャベルであった。このようにヴォズネセンカ村がほぼ「完全武装」の状態であった事がわかる。

 

 ところが数日後、この同じ村が今度は強制的に捜索され、以下の武器が没収された。四一挺のライフル、三五挺の小銃、四〇個のライフル銃身、一〇六八包のライフル弾、一四振のサーベル、五個の爆弾、一五挺のピストル。そして三たび、数日後に同じ村強制捜索の結果、二挺のライフル、五挺のピストル、一個の爆弾、二八挺の小銃、三五挺の銃剣、九四〇包のライフル弾、一八挺のライフル銃身、五つの薬莢が没収された。このように貧農委員会による農村「刀狩り」=武装解除は極めて徹底的に行なわれたが、特にそれがマフノ運動の根拠地に対して執拗に行なわれていることは注目すべきである。

 

 こうした貧農委員会をその尖兵とする各地のソヴェート権力に対してマフノ軍は徹底的な闘争を展開した。マフノ軍はそのアピールの中で「()民警を倒せ、貧農委員会、執行委員会を倒せ」「()貧農委員会とコムソモールの組織と活動を根こそぎ絶滅せよ。()民警、チェーカー、食糧軍その他のソヴェート組織を根こそぎ粉砕せよ」と農民に訴えている。

 

 マフノ軍の攻撃対象が主にどこにあったかという事は、マフノの妻ガリーナ・クズイメーンコの日記からもうかがう事が出来る。「一九二一年二月二三日、朝一〇時に隊の若者が二人のボリシェヴィキの代表者を逮捕した。彼らは射殺された。昼食のあとガヴリロフカへ出発した。ガヴリロフカで家畜を徴発した二人の代表を逮捕した。更に革命委と執行委を組織しに来た技師二名を逮捕した。二月二五日、昼食のあと、マロロスコエに移動、ここで穀物などを徴発した三人の代表を逮捕し射殺した」。

 

 このようにマフノ軍の攻撃は、主にソヴェート権力地方機関、とくにその食糧徴発機関の代表に集中している。このことはマフノ軍の司令官の一人であるベラシの記録を見ると一層はっきりする。「一九二〇年二月一一日、アンドレーフカ村でマフノの指令により三〇人の貧農委員会部隊とベルジャンスク・チェーカーの支持者が殺された。一九二一年三月六日ザポロジェ県ベルジャンスク郡ベロツェルコフカ村で、ジニコフスキーの指令により二名の民警と一名の元貧農委員会メンバーが殺された。三月一四日、メリトポリ郡ルバシェフカ村でジニコフスキーとマフノの妻ガリーナの指令で貧農委員会議長一名と三名の民肇が殺された。三月二七日、クリグォロシスク郡イヴノフカ村でジニコフスキーの指令により一名の元貧農委員会メンバーと二名の民撃が殺された。

 

 三月三〇日、ザポロジェ県トクマンスク郡ヴイルポヴァ村でジニコフスキーとガリーナの指令により元貧農委員会メンバー一名とソヴェート活動家二名が殺された。五月五日、エカチェリノスラフ県ノヴォモスクワ郡ヴァシリエフカ村で、元貧農委員会メンバー一名と二名の民撃が殺された。五月一〇日、ポルタグァ県ガジャチスク郡ペスカ村で二名の貧農委員会メンバーと五名の民警、三名のソヴェート活動家が殺された。七月一二日、グリシノ郡アンドレーフカ村で、マフノとジニコフスキーの指令により一名の貧農委員会メンバーと一名の民警が殺された。七月一五日、グリャイ=ポーレ郡スヴャトドゥホヴァ村でマフノの指令により一名の元貧農委員会メンバーと三名の民警が殺された。七月一八日、マリウポリ郡ノヴォトロイッキー村でマフノの指令により二名の貧農委員会メンバーと一名のシンパが殺された」。

 

 マフノ軍ソヴェート権力の地方機関との間の相互的テロルは、一九二〇年から二一年にかけて到る処で行なわれた。ポドリスク県コンスタンチノグラート郡リャシスク郷では三〇人の貧農委員会メンバーが殺されたあと、翌日の夜、貧農委員会側の部隊が五〇人の農民を一晩で殺したという例もある。マフノ軍は同時に、一九二〇年六月前後には、赤軍正規部隊と全面的な交戦状態に入っており、到る処で戦闘が行なわれた。一九二〇年六月一〇日赤軍第一三軍司令部の報告は次のように述べている。「わが部隊によってヴァシリエフカとズナメンカ両村は占領された。マフノ軍はザイツェヴォからドマフ地区へ逃走した。

 

 この地区でバヴログラートからアレクサンドロフスクへ向かう軍用列車がマフノ軍に止められた。彼らは三輌分の装備と四挺の機関銃を奪った。彼らの勢力は五〇〇騎の騎兵、二〇〇〇人の歩兵、二五〇輌の機関銃用軽四輪、八門の大砲である。その他に四門の大砲多くの機関銃をもった二〇〇人の歩兵部隊が、トロイッキーからエリサベートフカ、アレクサンドロフカ地区にかけて集団をなしている。更にアレクサンドロフカ村では七〇〇人の部隊が確認されている」。

 

 また、一九二〇年六月八日報告によると「斥候のしらをによると、四〇〇〇名近くのマフノ軍が、ピシメンナヤからウリヤノフカ駅地区の北へ広がっており南方向へ攻撃をしている。装甲列車『ソヴェート・ロシヤ』は一日中戦闘の中にあって鉄道を彼らの攻撃から守り、彼らを追い払った。装甲列車『紅のカザーク』は匪賊との闘争に入った。戦闘の結果、列車は敵に大きな損害を与え、敵を分断し、ロジデストヴェスコエ駅の方へ敗走させた」。

 

 一九二〇年の夏のマフノ軍とソヴェート政権との闘いは極めて苛烈であり、双方にとって恐ろしく無残なものであった。マフノ軍は数万の部隊を擁していたが、赤軍はそれに数倍する勢力で、マフノ軍を攻撃した。ソヴェート軍との戦闘で斃れた者、処刑された者は合計すれば恐らく数万に達するであろう。マフノ軍は大量の犠牲者を出しながらも、苛酷な弾圧に抗して一年に亘る苦しい後退戦−「敗北の過程」−を闘い統ける事になる。

 

 この間、白軍は、ヴランゲリを将軍として再びウクライナを脅かしはじめた。一九二〇年九月の終りまでには、ヴランゲリ軍はウクライナ深く、アレクサンドロフスク、マリウポリ、ベルジャンスクなどを占領した。こうした情勢の中で、マフノ軍とソヴェート権力は一〇月中旬に政治及び軍事協定を結び、共同の敵ヴランゲリを倒すために、三度目の共同行動をとることになる。しかし既にその間に乗りこえる事の出来ない、深い溝が形成されてしまっていた。マフノ軍とソヴエート軍は、一二月中旬共同してペレコープを陥落させ、ヴランゲリ軍が逃走するか、しないかのうちに再び、そして最後の闘いへと突入していく。

 

 マフノ軍は一九二〇年二月には、一万から一万五〇〇〇名の兵力を有していたが、一九二一年一月にはすでに五〇〇〇から六〇〇〇名に減っている。この後マフノが一九二一年八月末に、八〇騎の騎兵部隊と共にルーマニア国境へ脱出するまでの過程は、数千のマフノ農民軍、一五万人の赤軍部隊に包囲され、強引に押しつぶされていく過程である。一九二一年五月に二〇〇〇騎、六月には一〇○○騎となっている。多くの者は戦闘に斃れ、更に多くの者は処刑され、そして倒れなかった多くの者はかつて地中から堀り出して手にした武器を再び地中に埋め、その土地を耕す農民に戻っていった。マフノ軍はソヴェート権力によって圧殺され壊滅した。しかし埋められた武器はウクライナの土の下で腐ってしまったのか。ネストル・マフノ自身が語っている。「勝利かしからずんば死か−これこそ歴史の現時点におけるウクライナ農民の切迫した課題である。だがわれわれは滅びることはない、なぜならわれわれは人類であり、われわれは無数であるからだ」。

 

 

 4、マフノ運動地域の特色とマフノの軍隊

 

 〔小目次〕

   1マフノ運動地域の特色

   2マフノの軍隊

 

 1マフノ運動地域の特色

 

 以上、マフノ運動の農民運動としての特質をその歴史的発展の中で検討して来たが、最後に、マフノ運動の地域の特色と、マフノの軍隊について簡単に付記しておく。

 ウクライナにはハリコフ、へルソーン、エカチェリノスラフ、キーエフ、ポドリスク、ポルタヴァ、ヴォルイニ、チェルニーゴフ、タヴリダの九県がある。このうちエカチェリノスラフ、へルソーン、タヴリダの「南部三県」を中心としてキーエフ、ポルタヴァ、ハリコフ、ドネツの一部分を含む範囲が、マフノ運動の展開された地方である。マフノ運動は農民パルチザン戦として闘われたので、長い間同じ場所に滞在する事が少なく、頻繁に移動を行なった。そして一九一九年夏ヂェニキン軍の攻撃によって退却を余儀なくされ、その「長征」によって活動がキーエフ方面にまで及ぶこともあった。

 

 マフノ運動の範囲はこのようにかなり広いのであるが、一方常にエカチェリノスラフ県内の一つの村であるグリャイ=ポーレという「生まれ故郷」と結びついていたという事も言える。グリャイ=ポーレが敵に占領されている時には、その奪還はマフノ軍にとって作戦の重要な課題であったし、その地がマフノ軍の手にあるときは、そこは運動の中心−革命の司令部となったのである。

 

地図は、著書冒頭の添付。マフノ運動の中心は、ウクライナ南東部エカチェリノスラフ県

()二重円の外側は、マフノ解放区の影響下にある地域。()内側の円はマフノ解放区。

()内側円の真中が、マフノ出身グリャイ=ポーレ。()ヂェニキン軍とヴランゲリ軍は、西部

と南東から解放区を襲撃。()ボリシェヴィキ・赤軍は、北部全域からマフノ運動に3回の攻撃

 

 マフノ運動の地域である「南部三県」は穀物生産県である。農産物の中で穀物の占める割合は、へルソーンで六四・九%、タヴリダで五八・八%、エカチェリノスラフで四七・二%であるのに比べて、ポルタヴァ二九・五%、ポドリスク二〇%、ハリコフ一九・八%である。一九一〇年から一四年の平均で、「南部三県」は住民が六四〇万人で二億三七二〇万プードの穀物を生産しているのに比べて、その他のウクライナ六県を合わせて住民一六四八万人で、一億七八〇〇万プードの穀物生産である。穀物のより豊富な生産県において穀物をめぐる闘いが熾烈であったという事が言える。

 

 地主との闘争はマフノ運動の歴史において大きな役割を果しているが、「南部三県」では地主地の割合は他の地方よりも大きいと言える。一九〇五年の統計によると、地主地は「南部三県」では全県で五〇%以上の土地を占めているのに較べて、他の六県では全県とも五〇%以下である。更に、農村における農民の階層分化を播種面積別に見ると、エカチェリノスラフ、オデッサ両地方では他の地域よりも階層分化が進んでいて貧農的要素がより多く、中間層が少ないという事がわかる。馬一〜二頭を持っている農民の割合は、ポルタヴァ県では五〇・四%、ハリコフ県では六〇・五%であるのに対して、オデッサ地方では三九・五%である。またエカチェリノスラフ県では家畜を持っていない農民は五一・八五%に達していたが、ザポロジェ県では三六・六五%であった。

 

 「南部三県」特にエカチェリノスラフでは工場労働者の多い事も重要な特徴である。一九一二年の統計によると、鉱山業と金属加工業だけで、「南部三県」では工場数五七一、労働者数二四万八〇〇〇人を数えるのに対して、ウクライナの他六県はあわせて工場数一六七、労働者数一万七〇〇〇人である。エカチェリノスラフには同年に二三万四〇〇〇人の労働者が働いており、これはウクライナの労働者の五〇・七%にあたっていた。このように「南部三県」では労働者の数が多く、農村における階層分化の進展がこのような結果をもたらしたと考えられる。農村の貧しい子弟は都市に出て労働者となっているのである。マフノ運動の指導部にもかつて労働者であったものがかなりいる。マフノ自身もそうであったし、ベラシ、ヂュベンコ、アルシーノフなどがそうである。

 

 次にウクライナの民族別人ロの割合を見ると、図からわかるように都市部では五九%がロシヤ人とユダヤ人であり、ウクライナ人は三分の一である。逆に農村部ではわずかに、一七%を除いてあとはウクライナ人である。ユダヤ人は殆んど商業に従事していたが、キーエフ県で全体の商人のうちユダヤ人が七五・八%を占め、ポドリスクでも九〇・六%であったのに対して、タヴリダ、エカチェリノスラフではそれぞれ二七・四%、四〇・二%であった。マフノ運動の地域では他のウクライナの地方に比べてユダヤ人商人の力は小さく、ユダヤ人に対する反感はより少かったようである。南西地方・ウクライナ右岸で農民運動が反セミチズム的なものになり、ショーヴィニスティックになったのに比べて、マフノ運動にはユダヤ人も参加しえた背景があったと言える。

 

(表1) ウクライナの民族別人口割合()、1923年

都市部

郡部

ウクライナ人

ロシヤ人

ユダヤ人

ドイツ人

ポーランド人

その他

32

34

25

83

100

100

 

 2、マフノの軍隊

 

 最後にマフノ軍隊について述べよう。マフノ軍、即ちウクライナ・革命的パルチザン軍の軍隊構成は、赤軍と同じように、()一個師団が三個旅団、()一個旅団が三個連隊、()一個連隊が三個大隊という風になっていた。革命軍事会議が全軍を統括していて、これは軍幹部とパルチザン農民の全体集会で選ばれる。革命軍事会議の構成員は二二人からなり軍司令官マフノから出される指令を実行に移した。注意しなければならないのは、マフノ軍は常に単一の軍隊であったわけではたいという事である。彼らの原則は「攻撃は集中して、退却は分散して」であった。マフノ軍は普通二から三の軍団にわかれ、個々の司令官に従って独自の行動をしていた。

 

 優勢な敵の部隊に襲撃されると退却し、攻撃が不可能な時には、マフノ軍はいくつかのグループに分散して異なる方向へ逃走する。彼らはしばしば最も小さな戦術的単位にまで「解隊」してしまう。彼らはある時は統一した勢力となり、またある時には分散し、武器を地中に埋め、「平和な農夫」に還ってしまう。マフノ軍の各連隊はそれぞれ特定の村を根拠地としていた。つまりある村の農民が軍に参加して村単位の部隊が出来、それが連隊の基礎となっているのである。例えば第二四テルノフスク歩兵連隊と言えば、その構成員の多くはテルノフカ村出身者からなっているのである。

 

 マフノ軍の司令官の一人ヴォロビエフは、マフノ軍の連絡活動について次のように述べている。「マフノ軍の個々の部隊は互いに連絡を維持しているわけではなかった。個々のグループと中央司令部との連絡には、婦人か少年がその任にあたった。諜報連絡にはその他に巡礼者のふりをしたボロを着た老人がよくその任を果した。グループがばらばらになってしまった時、根拠地へこのような連絡者が派遣された」。

 

 マフノ軍にとって、急速な移動という事も一つの重要な戦術であり、「神出鬼没」を可能ならしめるものであった。通常騎兵部隊は一日に約四〇キロぐらいの移動が可能であるが、マフノ軍の騎兵隊は一日に約六〇キロから一〇〇キロ移動した。その理由は、マフノ軍がを農民と常に交換することが可能だったからである。もちろん、マフノ軍はすべて騎兵からなっていたわけではなく、初期にはむしろ歩兵部隊の方が数としては多く、二〇年から二一年にかけて騎兵の割合が増大していったのである。

 

 マフノ軍の主要な武器は、ライフル銃と機関銃であった。ライフルは銃身を短かくして持ち歩きやすくし、機関銃は軽四輪に据えつけて移動した。その他の武器として大砲、装甲車、装甲列車などを保有していた時期もあった。マフノ軍はエカチェリノスラフ県内の到る処に秘密の武器庫を建設していて、ライフル銃と実弾を埋蔵していた。彼らは、出撃基地や隠れ場所を森の中や洞窟に数多く持っていた。

 

 次にマフノ軍への農民の参加の時期について、第五エカチェリノスラフ騎兵連隊の例をとって調べてみよう。

 

(表2) 第五エカチェリノスラフ連隊への入隊時期

1918年

1919年

1月〜3月

4月〜6月

7月〜9月

10月〜12月

19人

2人

2人

87人

1月〜3月

4月〜6月

7月〜9月

10月〜12月

23人

4人

48人

56

110人

131人

 

 マフノ軍への農民の入隊は、その時期における住民のシムパシーをあらわしているが、一九一八年では表からもわかるように、一〇月から一二月が多くなっている。ノヴォニコラエフスク部隊でも一九一八年では一二月が最も多い。この時期はマフノ軍が、ペトリューラ軍に対して積極的行動を起した時期である。第五エカチェリノスラフ騎兵連隊では、一九一九年は後半が圧倒的に多くなっている。七月から八月終り頃までマフノ軍は、ソヴェート軍との対立を深めていた。この時点で農民のマフノ軍への参加が増大している事は、農民が反ソヴェート政府的であり、ソヴェート側の食糧徴発をはじめとする農業政策に反対しマフノ軍を支持していた事を示している。その後一九一九年末まではヂェニキンとの闘争の時期であった。この一九一九年末の農民の軍への参加数が最も多くなっている。これは他の部隊でも同様である。この時期マフノ軍は、ヂェニキンと闘う唯一の大軍事組織となっていた。

 

 最後にマフノ軍の年令別構成を、同じ第五エカチェリノスラフ騎兵連隊を例をとって検討してみょう。同連隊二五三人のうち二〇才以上は七二人、二一才から二五才の者は一二六人で、二五才以下で八割を占めている。二六才から三〇才の者が五一人で三〇才以上の者が四人となっている。構成を見てわかるように、軍はかなり若い青年層からなっていたことがわかる。マフノ自身一九二〇年に三〇才である。いかにも若いパルチザン軍団ではあったと言えるであろう。

 

 5、《参考文献》リスト

 

 *クバーニン『マフノフシナ』レニングラート、一九二七年

 *『ウクライナにおける内戦』キーエフ、一九六七年

 *スプルネンコ『ウクライナにおける内戦と武力干渉』モスクワ、一九六六年

 *トゥリフォノフ『ネップ開始期の諸階級と階級闘争』レニングラート、一九六四年

 *コーリン・ロス『一九一八年三月ウクライナの状況報告』ベルリン、一九二一年

 *イグレーネフ『エカチェリノスラフの思い出』ベルリン、一九二一年

 *『革命と民族問題』モスクワ、一九三〇年

 *『一九一七年の農民運動』モスクワ−レニングラート、一九二七年

 *『ロシヤ共産党一〇回党大会議事録』モスクワ、一九六三年

 *『ソ連共産党決議集』モスクワ、一九七〇年

 *フットマン『ロシヤの内戦』ロンドン、一九六一年

 *大杉栄『無政府主義将軍−ネストル・マフノ』一九二三年

 

以上  健一MENUに戻る

 〔関連ファイル〕

     『マフノ運動とボリシェヴィキ権力との関係』共闘2回と政権側からの攻撃3回〔資料編〕

     第3部『革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』9000万農民への内戦開始

     コンドラーシン『ウクライナにおけるマフノー運動の本質について』

     ヴォーリン『ウクライナの闘争−マフノ運動』1918年〜21年

     アルシーノフ『マフノ叛乱軍史』ロシア革命と農民戦争

     P・アヴリッチ『ロシア・アナキズムにおけるマフノ運動の位置づけ』

     梶川伸一『レーニン体制の評価について』21年−22年飢饉、ウクライナの悲劇

     20世紀の歴史『試練の大地−ウクライナ』ウクライナの歴史、全文

     ウィキペディア『ウクライナの歴史』

     大杉栄『無政府主義将軍ネストル・マフノ』1923年

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