配達夫は、横を向いて水色の煙草を吸いながら、ぼんやりと思い出しました。
いつか親方から聞いた、お月さまと、海の娘のおはなしを。
「……そうか、君らは海の娘のお嬢さんかい。」
「あたり。」
また、ぴったりと声を重ねて、ふたりはにっこりと笑いました。
「わたしたち、まだ小さいから、くもっちゃうと歌が届かないの。」
「でもね、今夜は特別な夜でしょ。」
「だからね、せっかくだから、お父さんに、歌聴いて欲しいの。」
「ね、配達夫さん、お父さんに届けてくれる?」
皮の帽子をかぶり直して、配達夫は少し考えながら、海岸線を見つめました。
その遠い果てには、海辺の街の灯台が、ただひとつの明かりを燈していました。
星の見えない夜にも、帰り着く船たちのしるべとなるように。
そのほのかな輝きに照らされた波は、絶えず変わらない調べを繰り返していました。
お月さまが満ち欠けに合わせて奏でるピアノの音色。
海の娘が、そのピアノに応えて歌う、深く透明な海の唄。
あの絶え間ない波の調べは、そんなお月さまと海の娘の、音楽から生まれている。
ずっと昔、配達夫の親方がそうはなしてくれたのでした。
もっとも、配達夫の青年自身は、そんなピアノや歌なんて聴いたこともなかったのですが。
「今晩はちょっと無理だ。」
やがて、ふっとサイダーの香りの煙を吹いて、配達夫は答えました。
「明日の晩じゃだめなのかい。明日だって、波の調べは変わらないだろう?」
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