ラマルク(1744〜1829):フランスのパリ、自然史博物館の植物園にラマルクの胸像がある。その胸像のところにラマルクの娘、コルネイユさんの言葉が刻み込まれている。それは「後世の人びとはあなたをたたえ、あなたのために復讐してくれるでしょう、お父さん」という一文である。ラマルクは当時もう一人の生物学者キュヴイエにいじめ抜かれたのである。そしてこの娘さんは最後まで父ラマルクに味方する非常に親思いの娘さんであった。ラマルクの主張する進化論をキュヴイエは認めない。そしてキュヴイエは当時学会に絶大な権力を持っているためだれもラマルクの味方にならなかった。それでもラマルクは屈せず、晩年目が見えなくなって職を退いたのちも、本を書いてキュヴイエと闘った。その口述筆記をしたのがこのコルネイユである。
現在キュヴイエもラマルクも評判は余り良くない。それは「獲得形質の遺伝」を主張したからであって、のちにそれは遺伝しないことが証明された(とされている)。
ラマルクは1744年の生まれだから、1769年生まれのキュヴイエよりも、25歳も年長であった。いわば親子ぐらい離れていたわけである。キュヴイエが20歳の頃にフランス革命が起こった。このころ、ラマルクは40代半ばであった。ラマルクはこのフランス革命に感動して、大いに革命政府に協力したらしい。そしてナポレオンの反革命が成功した後も、いち早く尻尾を振ったキュヴイエとは反対に、死ぬまで革命の初心を忘れなかったらしい。革命が成功し、国民公会が権力を握ったとき、それまで王様の持ち物であった王立植物園を拡充改組して、自然史博物館として新しく出発させることとなり、キュヴイエやサンチレールとともにラマルクもその「教授」として就任する。しかしラマルクはついていなくて、彼がそれまでやっていた植物学の講座はすでに埋まっていて、空いていたのはリンネ以来ややこしくて手のつけようのない、したがって誰もやりたがらなかった無脊椎動物学の講座だけであった。もっとも動物界を脊椎動物と無脊椎動物に分けたのはラマルクだから、当時は無脊椎動物学などという名称はなかったかもしれない。
もともと学者というものは、年齢をとるにしたがって次第に専門分化していくものである。最近ではその傾向が強まり若いうちから極度に専門化してしまう。よって中年になってから研究対象を変えるというは大変なことである。しかもラマルクは自分の意志によって変えたのではなく、だれかに変えさせられたのである。それがキュヴイエの差し金であるという説もある。ただ当時20歳のキュヴイエにはそれだけの力はなかったであろう。
ラマルクは結局、博物館の中に整理もされずにたまっていた虫けらどもを丹念に洗い出し、こつこつと調べ始めたのである。そしてそれから10年も経っていない1801年に無脊椎動物すべてを網羅し体系づけた大著、「無脊椎動物モノグラフ」を書き上げたのである。そしてさらに8年後の1809年に、かの有名な名著「動物哲学」を公刊する。
(参考文献 日本生物学会誌 奥野良之助編) ちなみにこの日本生物学会誌は会長の奥野良之助氏の助教授退職により現在ではたぶん発行されていません。またバックナンバーもないかもしれません。問い合わせ先は?です。)
動物哲学動物の自然史に関し、その体制及びそれから得る能力の多趣相に関し、それらの生命を保持し、而して、それが営む運動を生ぜしめる理学的原因に関し、尚お、或は感覚を生ぜしめ、或は知能を有するものにそれを生ぜしめる理学的原因に関する諸考察の叙述
ラマルクの進化論は「用不用説」と「獲得形質の遺伝」といわれている。では実際にラマルクがどう書いているかを見てみよう。ラマルクは「動物哲学」の中で2つの法則を掲げている。
發達の限界を超えてゐない一切の動物に於て、何等かの器官のより頻繁なそして持續的な使用は、その器官を段々と強壮にし發達させ大となし、そして使用の期間に正比例する力を輿へる。これに反して、ある器官の使用の永續的の廢止は知らず識らずの間にそれを弱め小となし、漸次その能力を減殺し、そして終にその器官を消失せしめるに至る。
その種類が遙か以前から暴露されてゐた環境の影響により、その結果ある器官の特に優つた使用の影響により、若しくはある部分の使用の恒常的廢止の影響によつて、自然が個體に獲得させ、若しくは喪失させた一切のものは、獲得された變化が雌雄に共通であり、或は新たな個體を生んだものに共通である場合には、自然は、生まれた新たな個體に、これを生殖によって依つて存續させる。
まあ、第一法則がいわゆる用不用説で、第二法則が獲得形質の遺伝ということになるでしょうか?そしてラマルクはこの2つの法則を使って実に多くの現象について書いています。
といったような例が書いてあり、さらに多くの例も載っています。このあたりの話は誰が読んでも面白いんじゃないでしょうか。