ナチュラルヒーリング研究会
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Johhny K Moritaka
2004.7.7 vol.19

七夕ですね。とある方のBIRTHDAYももうすぐです。おめでとうございます。いいのかな(^_^;)
今年は熊野セミナーなんですね。熊野は本当に好いですよ。熊野大社の杜はこころ洗われる清澄さです。天の川の星々に祈りを込めながら、久しぶりにお便りをくださった関西教室の河内のおっさんに捧げるメルヘンの第3話です。
この世に偶然はない
そう言えば前々回に書いた2度目の夢で、登場人物に河内のおっさんもいらっしゃいましたね。その時は夢の話をお伝えしなかったからご存じなかったと思いますが、あの日、天河から車で発つ僕たちを、淋しそうに見送ってくれた顔を今も覚えています。「明日は仕事なの?」と聞くと「ふつう月曜は仕事やで! アンタ達はおかしいわ」と叫んでいましたね(*^_^*)
あの時は、飛鳥の地に入った時から「馬子」と声が聞こえはじめ、その直後に夢で見たままの埴輪を見つけ、馬子の建てた飛鳥寺に導かれましたが、天河セミナーで紹介している日輪を見せて頂いたのもあの旅でした。
その夢の話の続きですが、管理人はほかに1度だけ未来を覗いたことがあります。
時という観念が、実は曖昧なものであることは多くの方が感じていらっしゃるでしょうが、管理人もわからないながらに感じることがあります。
未来が見えるはずだと思ったのは、2つの夢の影響でしたが、夢の中ではなく、起きている時に見たいと思ったのでした。ある初夏の朝、意識を集中していると、男友達と2人で深緑の薄暗い渓谷の中を手漕ぎボートで楽しんでいる映像が見えてきたのでした。
東京に渓谷があるわけもなく、幻影だったと苦笑いしたその映像は、数ヶ月後に思いもよらない展開で、九州は宮崎、それも神の里と言われる高千穂峡で実現しました。それもボートに乗って初めて思い出したような愚かな自分でしたが。そして面白いことは、その前の晩、やはり夜神楽という神事を火の灯明の中で見ていたのでした。今回は自分の意思で未来を覗きたいと思っただけで、天の計らいとは関係ないことと思っていましたが、やはり天は計らってくれていたのかと思います。この旅は平和を祈り歩く旅でしたが、奇跡と思えることが何度も起こったのでした。
未来が見えることはそう大したことでもないようです。前回書いた体験の中でそう気づきました。たとえば、自分が今見ているものが本当にそこに存在するのでしょうか。この借り物の身体で、天が目と脳との結線をちょっとかけ違えれば、この世界は全く別の世界になるのです。当然ですが、自分が見ている世界と、ほかの人が見ている世界は全く別のものとも言えます。
未来はすでに存在すると言うと、かなり非難を浴びそうですが、未来はやはり「在る」のでしょう。河内のおっさんは、「では人間の意思とはなんぞや」と問われましたが、すべての未来はひとの自由意思が創っていく、その自由意思で創られた未来がすでに在るということではないですか。自由な「今」の積み重ねが、同じように「未来」であり「過去」であること――。
ひとは自分の意思で生きています。しかし、その時々に起こる行動や閃きは、じつは天からの導きが大きく関与していることを知らないのではないでしょうか。前々回も書きましたが、天から許されなければ指一本でさえ動かすことはできないのです。そしてそれが許されている自由な世界こそがこの世――。
戦争を起こすのも人間の意思、また戦争を無くそうと努めるのもひとの意思、そのどちらを選ぶかは自分が決めるしかありませんね。そして僕の知る限り、天の意思は後者にあるようです。貴方はどちらの道を行きますか――天はただそう聞くだけです。そうして創られていく歴史が、すでに天には存在するのでしょう。
ですがひとは残念ながら独り立ちできるほど成熟してはいないようです。いやその表現は難しいですね。ひとは生きているのではなく、生かされているのですから。しかし生かされていることを知らないから、争うことをやめない。ではどうすればいいのでしょうか。
幸福という意味で言えば、天の存在を知らず、何の苦労もなく人生を楽しめているなら、こんな幸せなことはないでしょう。ですが僕自身がそうであるように、そんな幸せな人に出会ったことはありません。だとしたら、やはり天と向き合うしかないのではないでしょうか。そして自分は個で生きているのではなく、全体の中で生かされているのだと知った方が好い。そう思いませんか。
先生が何かの折に「私は舞台の役者のようだ」とおっしゃったことがありました。まさにこの世を舞台とすれば、ひとは皆それぞれ役者なのでしょう。しかし、天という脚本家は並大抵の腕ではなく、役者の個性をどこまでも熟慮したストーリーを書いてくださっているようです。
「自分がどんな役を演じたいか、よく考えてみなさい」と言われているように感じるのです。
ひとは「果てしなく壮大なドラマを演じていること」を認めた時に初めて、本当の人生の楽しさを知るのではないでしょうか。それは畏敬の念と共にではありますが。この世に生きるというのはその体験することが貴重なのであって、ただ思い悩む為に生きるのではないようです。
天の目から逃れられる場所はどこにもない。思ったことの何ひとつとして聞かれていないものはないことを知った時、畏れと共に安心が生まれる気がしました。
天はどの瞬間にもこころの声を聞いてくれている。生きていれば、色々なことに思い悩む時が必ずあるが、そんな時は自分のこころに問いかけながら堪えよう。真実な問いには必ずいつか納得できる答えが与えられるとわかったからです。
「和をもって尊しとなす」おそらく前世で世話になったであろう恩師は言いました。自分の内から争うこころを祓い去ること、瞬間瞬間がこころの鍛錬であることを忘れなければ、平和を諦めることはないですね。ひとは何度生まれ変わっても、自らの内に平和を築いていく道を歩いていくのではないでしょうか。その道の先に何があるのか――天の絵巻物は壮大ですね。
3つのメルヘンはいかがでしたか。これは管理人のメルヘンですが、皆さんは皆さんのメルヘンを楽しんでいただければなあと思います。
こんな拙いメルヘンだけでは申し訳ないので、お口直しに近所のヤマモモの実を。

ヤマモモの実は野生果物の女王と言われて、昔は子どもたちのおやつだったそうです。

ありがとうございます――
今夜も天に感謝しながら、幸福な一日が暮れていきます。
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