署名:隗より始めよ
著者:芝豪
発行所:祥伝社
発行年月日:2002/10/25
定価:1,900円+税
郭隗は不詳の人でもかかわらず、「隗より始めよ」の故事は有名。紀元前300年前後の人物とされる。韓・魏・趙・楚・燕・斉・宋の7国の時代。春秋、戦国時代燕の人。荘子、孟子の生きていた時代と重なる。
1つ、遠大な計をなすにはまず手近な事から始めよ
2つ、事を起こすにはまず自分自身のことから始めよ
3つ、言い出したものからやり始めるべきだ
本書の中にはっとする言葉があった。荘子が言った言葉として「命には限りがあり、知には限りがありませぬ」ということ。誰でも知っているし、あたりまえの事として見過ごしていたが、実はここに深い考えが出て来るということを知った。限りある身の我らが限りある知を追い求める危険を荘子は察知していた。今、生きている人間が、知を求めて先のことを追い求めることは実は身の程知らずなこと。これはレベルがかなり高い知が不要とは言っていないでも知ばかり求めることの危険を言っている。「理想は高きに持し、実践は低きに始めよ」と。
「古きを訪ねて新しきを知る」今を精一杯、今持っている知・肉で生きよ!頭でっかちにならずに功利主義に陥らず、自分の物差しで物事を推し量り、今できることをやる。これ中庸という。
聖人が唱えた説、制度など一時的には良いかもしれないけれど最後はそれがために身を社会を滅ぼしてしまう。だったら聖人など居なかった方が良かった。という事になりかねない。一行一行に考えてしまう含蓄ある言葉が散じばめられている。
本書80ページより
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命には限りがあり、知には限りがありませぬ
われらの命には限りがあり、知には限りがありませぬ。限りある身のわれらが、限りなき知をひたすら追い求める。これは危ういことと言わねばなりませぬ。にもかかわらず、人は知を追い求めて破滅していくのです。善をなせば名誉に近づき、悪をなせば刑に近づく、と人は錯覚しているに過ぎませぬ。名誉も刑罰も究極のところでは、われわれの身を滅ぼさずにはおかぬのです。(荘子)
民のためよかれなどと振る舞う人たちが、結局民の暮らしを破壊し、民の命を損なうのです。なまじ聖人が現れるがゆえに、かえって田成子のような大盗人を育てる結末を引き起こします。わたしは、聖人なるものを打ち殺すべきだとすら考えています。どうか民のためなどといって、民のためにならぬことをなす思い上がりをお捨て下さい。
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田成子・・・かの太公望呂尚が建国した斉の国は田成子に簒奪されたのであり、田成子は聖人の知恵の産み出した統治の制を盗むことによって、みずからの身を守ることができた。