PARCO劇場 3/28〜4/17
4/10(木)観劇。座席 J-24
台本・詩 寺山修司
演出・音楽 J・A・シーザーオーディションで選ばれた一人の少女(藤岡杏)が、舞台『青ひげ公の城』の第7の妻を演じるために、劇場の楽屋を訪れる。期待を胸に少女が飛び込んだその場所は、劇の世界とも現実の世界とも区別できない奇妙な空間であった。これまで青ひげ公の妻を演じてきた女優達が次々と現れるが、肝心の青ひげ公は一向に姿を見せない。そればかりか、第8の妻までが登場し、さらなる迷宮へと迷い込む・・・。
寺山修司没後20年の記念公演なので、劇評を述べる前に、まず寺山修司の事を語らねばならない。って書いてはみたが、恥ずかしながら寺山修司の事をよく知らない。前衛劇団「演劇実験室◎天井棧敷」主宰であり、競馬の解説、映画監督などあらゆるジャンルでマルチな才能を発揮し、精力的な活動をしていたくらいは知っている。競馬の解説をしてる姿は、テレビで観た記憶もある。亡くなった後は、タモリがものまねしていた(と思うが記憶が曖昧・・・)が、それさえも随分昔の話・・・、あくまで上辺を知っているだけで、人となりを知っているわけではない。アヴァンギャルドのカリスマ的存在であったと、チラシや関連記事には書かれているが、アヴァンギャルドって何?状態なのである。なので調べてみました。ちなみにアヴァンギャルドは「前衛」って意味でした。知らないのは自分だけ?また無知を露見してしまった・・・。無知ついでに広辞苑から引用すると「第一次大戦頃からヨーロッパで起こった芸術運動。既成の観念や流派を否定し破壊して新しいものを建設しようとした立体派・表現派・ダダイズム・抽象派・超現実派などの革新的芸術の総称。」とのこと。今で例えるならゴキブリコンビナートや毛皮族がそれにあたるのかなぁ。既成の観念を破壊するって意味ではシベリア少女鉄道だってそう言えなくもないか。
おっと、寺山修司の人となりを調べるんだった・・・寺山修司は、1954年に天才青年歌人として歌壇にデビュー(でも自分は一つとして知らない)。その後、1967年に横尾忠則、東由多加、九條今日子らと「演劇実験室◎天井棧敷」を設立。代表作に「毛皮のマリー」「身毒丸」「青森県のせむし男」「阿呆船」「奴婢訓」「百年の孤独」などがある(が、私は一作も観た事がない)。また、詩人、劇作家、映画監督としても活躍。数多くの創作活動を行い、傑作を発表。映画の代表作として「田園に死す」「書を捨てよ町に出よう」「草迷宮」「さらば箱舟」などがある(が、昔観た記憶があるが覚えていない・・・)。1983年、病に倒れこの世を去る。簡単だが、そんな感じ。
で、寺山修司の代表作の一つである魔術音楽劇「青ひげ公の城」であるが、1979年の初演後、流山児★事務所をはじめ、さまざまな劇団によって上演が繰り返されてきた作品である。初演はPARCO劇場(当時は西武劇場と呼ばれていたらしい)の為の書き下ろし。その作品が。24年の時を経てPARCO劇場で上演される。ちょっと脇道に反れるが、「青ひげ」とは、中世ヨーロッパに伝わるシリアルキラーの名称で、長く伸ばした青い髭を持ち、妻を娶っては次々に殺していたと言われている。この「青ひげ」には、モデルと噂された実在の人物がいて、フランス陸軍元帥としてジャンヌ・ダルクとともに戦ったこともあるジル・ド・レイがその人であると言われている。ジャンヌ・ダルクの死後、黒魔術に傾倒していった彼は、生贄として少年たちを残虐な方法で殺害し続け、300人余りの殺人を自供して絞首台へ送られたそうである。でも、妻殺しと少年殺しじゃ違うじゃん、って思うが、専門的な研究はその道に詳しい人におまかせ。そんなモデルとは関係なく、「青ひげ」の名称は、館での大量殺人鬼の代名詞として今も生き続けているのである。
そして、今回の公演であるが、天井棧敷の元スタッフが再度結集した事も目玉の一つ。初演では寺山修司と共同で演出したJ・A・シーザーが本公演の演出と音楽を手掛け、天井棧敷の美術監督として後期の寺山作品を支た小竹信節が、舞台美術を務める。スタッフの充実に伴い、出演者も負けじと面白いキャストが揃う。第1の妻には、昨年の『業音』でオールヌードを披露した荻野目慶子。第5の妻には読売演劇大賞を受賞した秋山菜津子が扮している。中でも一番の注目は、過剰な自己愛の第2の妻を演じた三上博史。寺山修司監督作『草迷宮』のオーディションで合格し、デビューを飾った彼だが、寺山修司の舞台に立つのは初めてらしい。加わえて16年ぶりの舞台出演となる。役柄も怪しくていいが、それを楽しげに演じる三上博史が最高である。他男優陣には、元HIGHLEG JESUS総代の河原雅彦、花組芝居出身の佐藤誓らが出演し、個性を発揮していた。アリスとテレスは、キュートな双子デュオFLIP FLAPが扮している。さすが双子だけあって息もぴったり。深夜番組でショートドラマをやってた頃、気になる存在だったので、今回舞台で観れるのはちょっと嬉しい。しかし、何をおいても一番楽しみにしていたのは、第8の妻を演じる「毛皮族」主宰の江本純子。しかし、期待に反し、第8の妻としての登場がラストもラストなので、むちゃくちゃ物足りない。江本純子じゃなくてもいいじゃん、って思ってしまった。しかし、そんな役柄だが、見事にオーラを発し、存在感を見せつけていた、と付け加えておきたい。
なんかいろいろ書いてみたが、余談ばっかで肝心な芝居がどうだったかが書かれていない。まったく無駄に長いだけで・・・と反省をし、どうだったか書くと、イマイチ面白くなかったのである。全ての登場人物が、劇場にとり憑いている亡霊のような、不確かなと言うか、現実と虚構が交じり合っている摩訶不思議な空気は大好きである。美術もいい。詩的なセリフもいい。しかし、第1の妻が出てきて少女を混乱させ、第2の妻が出て来てさらに混乱させ・・・と、出てきては消えるという繰り返しが、流れを途切れさせてしまい、単に一つ一つのシーンを傍観しているような気持ちになってしまった。芝居はその劇空間に引き込まれないと面白さは半減すると思うのだが、所々で緊張感が途切れてしまい、気持ちが醒めてしまった。そんな点が面白く感じなかった要因かもしれない。それに、初演より時を経てしまっている為か、全然“前衛”的ではなかった点も付け加えたい。その当時は凄かったかもしれないが、懐かしむ訳でもない自分にとっては、物足りなさを感じてしまった。舞台と客席の区別がつかないようなもっと小さな劇場で観たなら、作品に対する感じ方も違ったかもしれないのだが・・・。
作・演出 土屋亮一大学受験を控えた高校3年の秋(なのかなぁ〜不確かだけどそんな感じ)。理由はわからないが転校する事になった守田(染谷景子)。自分の事を唯一理解してくれる大杉とは、大学受験が終わるまで会う事も電話する事も止めて、春になったら志望校で再会する事を約束していた。守田は、自分の事は理解されないだろうと、転校先では、あえて親しくならない様に関わりを拒否していた。仲良くなろうと声を掛ける恵美(水澤瑞恵)だったが、守田は、「構わないでくれ」と冷たい態度を取っていた。そんな守田に対し、赤石(秋澤弥里)は怒りを覚えていた。前日公園で喧嘩した鶴本(前畑陽平)も同じクラスだった。仲間の雅博(加藤雅人)の機転により、その日は事なきを得たが、クラスの中は、気まずい空気が流れていた。それを察したのか、守田は勝手に早退し、自宅で絵を描く事に没頭する。青い空に赤い太陽、そこを飛ぶ黄色い鳥のピーコの姿がキャンパスに描かれていた。
複雑な人間関係が渦巻く教室。担任の石根(藤原幹雄)はいつまでたっても生徒からは“クン”呼ばわり。バスケ部のエース雅博は、自分の成りたい姿と今の自分とのギャップに悩んで練習もさぼりがち。試合が近いからと大学生の先輩山口(吉田友則)は練習を見に高校へ顔を出す。しかし、本当の目的は元恋人の赤石との復縁だった。その赤石の現恋人の狭野(土屋亮一)は頼りがない。明るく振舞う恵美も恋人にふられたのをキッカケに、買い物依存症に侵されていた。さまざまな悩みを抱える人々。崩壊寸前のクラス。そんな中、守田は自分が性同一性障害であると告白するのであった・・・。
その告白を聞き、誤解が解けかけたクラスに、事故の連絡が入る。鶴本の父親がガス自殺をしようとしているらしいと。駆けつける生徒達。部屋の中はガスが充満し危険な状態の為、手の施しようがない。いてもたってもいられない鶴本は部屋のドアを開けてしまう。そして、その場所に居合わせた守田は、爆風を浴びてしまう。その時、小さな破片が目に入ってしまい失明してしまうのであった・・・。と「金八先生」もどきのドラマが前半。※これ以降はネタばれなので、観てない人は読まない方がいいかも。
守田が描いている絵がモノクロになり、別の絵(ある人物の肖像画)が浮かび上がる・・・。思い悩む守田の「今日も終わってしまう・・・」のセリフと時計の映像。大杉が好きだったという曲を聴く為にヘッドホンを付ける守田。秒針が12時を刻む・・・。その途端聞きなれた音楽が流れ、今までカーテンに隠れていた舞台セットが目前に現れる。それは「笑っていいとも」のセット。物語は続いて行くが、セットはあくまで笑っていいとも。“外見と中身は違うんだ、外見に囚われずに中身を理解する事ができるのか”と前半のテーマが視覚的に実践されていく・・・。
で、ちょっとネタばらし。恋人に捨てられたのは自分に足りない物がある、と買い物依存症にかかった恵美は、王女様の姿となり登場する。これはもちろん「はしのえみ」。鶴本はいろんな人から愛称で呼ばれるが、固定のものはない。最後に和解した時に守田が付けた呼び名は“鶴べえ”。これはそのまま「笑福亭鶴瓶」。爆破後素直になった鶴本(爆破のせいで頭がパーマ状態になっている)に対し「昔の鶴べえみたい」と見た目と改心した今を表現。狭野は赤石の事をさん付けで呼んでいる。それに対して赤石は「せめてちゃん付けで呼んで」といい狭野は「赤石さん、ちゃん」と・・・これは「明石さんま」。山口はどんどこどんの山口。石根クンは関根つとむなどなど。
例によって、凄い。この作品が初演の作品だったって事が一番の驚きであるが、初演から一貫して「こんなんだったらおもしろい」って事を現実の作品として完成させてしまう。その手腕に脱帽である。ただ、今回の作品を観る上での前知識はなかったものの「後半の大ドンデン返し」を期待して観てしまったのは、愚かな行為であった。期待しないところに面白さや意外性が潜んでいるのに。そんな気持ちで観てしまったため、ネタ部分ばかりが気にかかり、中身を見逃してしまったと思う。後半部分では「笑っていいとも」として完成しているのだろうかと、その事ばかりが気にかかり、肝心なドラマの部分はないがしろにしてしまった。これじゃ駄目だよねぇ〜。素晴らしいのは、ネタ部分だけじゃないのに。一貫したテーマ“見た目と中身は同一ではない”って事を捕まえられずに、見た目だけを楽しんでしまっては駄目じゃん、って自分の行為を大いに反省。外見に囚われない柔軟な心を持ちなさい、って作品で指摘しているのに。
それにしても、いい話をくっだらないものに変換してしまう、土屋亮一の才能にはまったくもって脱帽である。も〜素晴らし過ぎ。
“シベリア少女鉄道”自分が観た公演ベスト
1.耳をすませば 2.デジャ・ヴュ 3.笑ってもいい、と思う。2003。[ノーカット完全版] 4.遥か遠く 同じ空の下で 君に贈る声援 5.栄冠は君に輝く
作・演出 土屋亮一物語は『笑ってもいい、と思う。2003。[ノーカット完全版]』と同じなので、ここを参照してください。
16thパルテノン多摩小劇場フェスティバル参加の為に1公演だけ行なわれた、[ショートカット版]。ショートカット版とサブタイトルが付いてはいるが、まったくショートカットされてはおらず、こっちこそが完成された“完全版”であったと思う。1公演限りというのは勿体無さ過ぎ。
今回2度目の観劇と言う事で“ネタ”を知った上での観劇となった。で、どうだったかと言うと、知って観た方が数倍面白かったのである。その事を土屋氏に言うと「それじゃ駄目なんだけど」と返答がかえってきた。でも、一度目はその仕掛けられたネタに面白みを感じ、二度目は仕掛けられている様々な伏線を楽しんで観てもいいのではないかと思う。そんな感じで、笑ってもいいと思う。なんて、タイトルも入れてみたりして。オープニングから仕掛けられている伏線に感動し、そのままドラマに引き込まれていく。今回は前半のドラマの部分がより素晴らしいものになっていたのが、作品の完成度を上げた要因だと思う。守田が性同一性障害を告白するシーンでは、染谷景子の熱演も手伝って、目頭が熱くなるほど本気で感動してしまった。その反動で見る後半部分のおもしろさは、格別のものであった。「目に見えるものが本質とは限らない。」というテーマ(?)が明確に見えた公演であった。
[ノーカット完全版]では、さほど気が付かなかったのだが、コーナーからコーナーへの転換時のコマーシャルまでも描いている。その徹底した細かさに感服である。でも、Jフォンネタとか後半で使うなら、ドラマの部分で使うのをやめた方が面白かったのに。小さな事だけど。
あっ、そうそう小劇場フェスティバルの結果は最下位だったそうだ。優勝したのは、古いスタイルの劇団(観てないので名前を出すのは控えますが・・・)。新しい才能を見つけ出すってのが、このフェスティバルの目的だったと聞いていたのに、全然正反対。フェスティバルの存在意義まったくなし。「若い演劇者たちの登竜門」なんて看板は今すぐ外して欲しいもんだ。
“シベリア少女鉄道”自分が観た公演ベスト
1.耳をすませば 2.笑ってもいい、と思う。2003。[ショートカット版] 3.デジャ・ヴュ 4.笑ってもいい、と思う。2003。[ノーカット完全版] 5.遥か遠く 同じ空の下で 君に贈る声援 6.栄冠は君に輝く