紀伊國屋サザンシアター 3/2〜3/10
3/7(日)観劇。座席 6-24
作 倉持裕
演出 G2南米ガルガル国(?)で発見された巨大な「穴」。その穴の中では、新種の生物が地球上とは違う生態系を築いていた。その生態系を調査するために派遣された学者達。しかし、学者達はヘリコプターの階段から落ち意識不明のガルガル人の学者一人を残し、「忘れ物をした」と言い残し引き返してしまう。同行したルポライターの恵美(秋本奈緒美)、カメラマンの天川(山内圭哉)、医師の留里子(松永玲子)、通訳の蜂峰(松尾貴史)は、そんな状況に困惑しながらも、穴の中にある宿泊施設に入る。そこには現地施設案内役の佐藤(小林高鹿)がいた。施設は中央にロビーが2つあり、周りを囲むように6つの部屋が配置されている。二重の六角形って感じで、全ての部屋が同じ作りになっていた。施設の中では、生態系を壊さない配慮なのか、消毒された同じ服や生活用品が支給された。何日経っても引き返した学者達は戻って来ない。蜂峰は、自分の持ち物が全て「微妙に違うもの」に変わっていると主張、現実逃避を始める。天川は、「あからさまに珍しい動植物」に固執し、写真を撮りまくる。閉ざされた空間の中で、徐々に狂気を帯び始め壊れていく人々・・・。
まずは、G2プロデュースとは相性が悪いのかいつも席が悪い。右側が見切れてしまいわからない。まぁそれほど重要なシーンはなかったけどさ。って、ちょっと愚痴をこぼさせて頂きました。
物語は、閉ざされた施設で徐々に狂っていく人々、っていうか狂わされていく人々を描いているのかなっ。かなっ?って疑問符を付けたのは、ラストが理解出来なかったからに他ならない。で、ラストが解らないと、物語全体の言わんとしている事が一切理解できない作品ではあるんだけど・・・。施設の壁を動かし、人々を混乱させているのが佐藤の仕業なので、狂人に仕上げる仕事をしているのが佐藤。でも、その目的はわからないし、そんな事くらいで人は狂っていくのだろうかって疑問も残る。微妙だからこそ狂っていくのか・・・。徐々にわからないように狂気に犯されていくのは静かな恐怖ではあるが、それ以上に、その穴の中から外に出られないって、閉鎖的な空間での表面的な恐怖には触れていない。閉所恐怖症はいないのか。新しい生物からの攻撃はないのか。生態系の変化を拒んでいるのは誰なのか・・・。何が言いたい物語なのか、今ひとつ、いやそれ以上に理解できなかった。それまでの人間関係は面白かったのにラストの不明確さは納得いかない。脚本が悪いのか、それとも演出が悪いのか。
穴に地上の鳥が木の実を何十年も投げ入れている。それは、穴の中から生物が地上に出ないようにする為の行為だって説明があるが、それが何かの比喩だと思うのだが、一体何の?って根本から理解できてない。何か巨大な力があって「穴」の存在自体を闇の中に封印しようとしている?それとも映画「CUBE」を意識して、原因自体は謎のままなのか?う〜ん、わからん。で、次に役者に関してだが、役者はいい役者を揃えていたと思う。ただ、秋本奈緒美は自分的にはダメ。コメディなのかシリアスなのか、その中途半端な演技がハナにつく。演技も下手だし。
で、なんやかんや言って一番楽しかったのが、カーテンコールでの話だったってのはなんだかなぁ。って公演。まったくの不完全燃焼である。
“AGAPE store”自分が観た公演ベスト
1.BIG BIZ〜宮原木材危機一髪!〜 2.BIGGER BIZ〜絶対絶命!結城死す?〜 3.しかたがない穴 4.地獄八景亡者戯 5.超老伝2000
作 ケラリーノ・サンドロビッチ
脚色・演出 ブルースカイ(演劇弁当猫ニャー)2014年、人類は人工脳への切り替えを行い始めていた・・・。そんな状況の中、サラリーマンを突然解雇になった高野課長(藤田秀世)の訴えから物語は始まる。それは一週間前。屋上でキャッチボールに参加してしまった事から端を発する。昔、高校球児だった高野の投球を見たいとはしゃぎたてる社員達。そこに偶然社長の姿も。いいところを見せようと投げようとする高野だったが、肩が痛くて投げられない・・・そんな姿を見た社長(廣川三憲)は「肩を壊してしまっては引退しかないな」と突然の解雇を言い渡す・・・。それとは別に高野の家では、そば屋と間違われた一本の電話を受けたことから、注文の電話がちょくちょく入る理不尽な状態が続いていた。しかし、困り顔をしつつ注文を受けてしまう妻(渡辺道子)のせいで、そば屋はいつの間にか繁盛してしまい、高野家はドンドンそば屋になっていく・・・。そんな状況にノイローゼぎみの高野が医者に行けば、偽者の医師(三谷智子)と本物の医師(正名僕蔵)が現れ、翻弄させられ、ディスコでは気取った女(立本恭子)が何かを言う前に自殺。国民管理局は、アルジャーノン監督(正名僕蔵)を追う。そして、相変わらず高野の自宅へはそばの注文が続いている・・・。
ナイロン100℃の公演は、1992年の初演も1995年の再演も観ていない。ただ、ナンセンスコメディの傑作だとか、あんな面白い作品は見た事がないとか、様々な噂は耳にしていた。その作品をブルースカイが演出するとあっては、期待しないわけにはいかない。
で、どうだったかと言うと、期待したほど面白くはなかったのである。まぁ表現が難しいところなんだけど、ブルースカイの作品としては面白かったのだが、ケラの作品としてはどうなのよ、って胸に何か詰まっているような感覚が残る。オリジナル作品とどう変わっているか、どう同じなのか全然わからないが、あきらかにケラ作品ではなくブルースカイの作品と化していたと思う(想像の域は出ないのだが・・・)。ナイロン100℃の公演を観た人に聞いたら、そばの注文に翻弄されドンドンそば屋になっていく高野家の姿は同じなんだけど、と答えをもらった。原作を踏まえつつも脚色の部分の比重が相当高いみたいである。後半、本筋の物語を置き去りにして別の物語を膨らませてしまう、主人公の高野さえをも置き去りにしてしまうナンセンス感覚、これは一体何の作品だよ、ってオリジナルの脚本さえも破綻させてしまう素晴しさは買うが、不条理なのと破綻するのは違うんじゃないのかと、疑問も残る。ブルースカイらしくていい、と絶賛したい気持ちとは裏腹に、それは自分の作品だから生かされるのであって「ウチハソバヤジャナイ」でやるべきではなかったのではないか。後半の“あいのり”のパロディは笑えたけど違うんじゃないか・・・とかとか。まぁ“あいのり”を入れた事で、高野一人が狂っているのか、周りが狂っているのか、世界がどんどん狂気に染まっていく・・・みたいな、そんな崩壊感を感じる事ができたのでいいのかも。って考えが一貫しない。本当に申し訳ない。良くもあるし、悪くもあるし・・・って自分の意思が揺れ動く。自分も狂気に(って言うかブルースカイに)毒されてしまったのか・・・。役者では藤田秀世が良かった。自分が観た藤田秀世の中では一番。あの飄々とした感じが、狂気の淵で右往左往している様で、とても味わいがあった。そして、小村裕次郎の素晴らしさを実感。小村裕次郎はやっぱブルースカイと組むのが一番だわ。
王子小劇場提携企画。あいさつ文から抜粋させてもらうと「<the flat>とは、文字通り何もないがらんとした空間という意味で、<無=何もない>ということです。王子小劇場は、この<the flat>で、菅間馬鈴薯堂と時間堂に、敢えて<無>というお題を投げかけてみました。」という企画。
お題目の“フラットな空間”とまでは行かないが、舞台上にはダンボール箱とか、ピアノとかが無造作に置かれてある。そのどちらかと言うと目的を持たない舞台装置を二つの劇団が共通で使用し、別の空間を構築するという企画。○演劇ユニット時間堂『気がついたときにはいつも』
作・演出 黒澤世莉とある地方の村。その瓜生家の蔵の中。昔、瓜生カンジが書いた台本で“ごっこ遊び”に興じている。その明るさとは裏腹に、その日は瓜生カンジの葬儀の日である。一通り儀式が終わったその後という感じの時間。喪主で弟の梨本ツグオ(池田ヒロユキ)。幼馴染の小松タケシ(内山一寿)。元妻の梅田アキコ(渡辺詩子)。幼馴染で婦警の佐竹ショウコ(両角葉)。カンジの姉の瓜生マサコ(大谷伸)や姪のリツ(稲村裕子)、そのリツが東京でお世話になった榊原カオル(石田恭子)らも蔵にやってくる。和やかな雰囲気。そこにカンジの恋人の椎名ケイコ(藤波恵)が来たことにより、カンジを取り巻く人間関係にさざ波が立ち始める・・・。カンジが死んで瓜生家を継ぐツグオ(何故苗字が瓜生ではなく梨本なのか?劇中でその説明があったのか?記憶にない・・・)は、小松タケシの勤める会社が計画しているダム計画(その計画では村はダムに沈む)の裏取引をしていたり、ツグオがピアノを弾けなくなった原因は、佐竹ショウコがツグオの腕を切ったからだとか、隠された様々な問題が明るみにでてくる。そして、ケイコの「死んだのは本当にカンジなのか?」という問いかけが人々の心をかき乱す・・・。
【感想にはネタバレが含んでいます。知りたくない人は読まないでください】
どう取っていいのかわからない芝居であった。頭の中が不燃焼ぎみでまとまってない。昔ながらのシガラミが残る地方の人間関係を描いているのかと思えば、過疎化が進行している村の問題だったりもする。そして最後には愛だとか恋だとかの男女関係にも発展してしまう。どうにも焦点が定まらない。結末をばらしてしまうと、ラストに死んだと思われていたカンジが登場するのである。結局蔵の中に潜んでいただけで、死んでなかったのである。で、そこからさらに物語が進むかと思ったら、結末を投げ出されたかの如く終了してしまう。起承転結の結の部分を投げ出された感じ。観劇後すぐ思ったのは“ラストでのカンジの登場は必要がなかった”というものだった。想像の域のままでいいものと、そうでないものがあると思うが、今回は生きていると信じて待っているだけでいいのではないか。登場してしまった事により、物語を壊してしまったのではないか。それくらい登場させてしまった事を否定していた。ただし、この感覚は見終わってすぐのものである・・・。
時間がたって捕らえ方が急変した。カンジを登場させた事によって、その後のイメージが膨らみを持ち始めたのである。登場していなければ、カンジを取り巻く物語もある程度の収束を迎え、カンジがとてもいい男のままで終わり、一体この芝居が何を言いたいのか、皆目理解できなかったと思う。それがカンジが登場した事により、ただの思い出話ではなく、人間の持つエゴとか見栄とか嘘つきとか、嫌な部分が一瞬ではあるが露呈する。それが作者の策略なのかわからないが、そこに「結」の部分が存在したと感じたのは自分だけなのだろうか。そんな風に感じたのは、暗転後、個々に舞台を去る役者の動きに、何か言いたげな表情を見たからに他ならないんだけど・・・。
いや、そうは言っても、これ以降は自分の想像の域を出ないので、作者の意図かどうかは計り知れない。まるっきり見当外れかもしれない。しかし、もし、この暗転後の舞台を去るシーンがこの芝居の本題だとしたら、今までの芝居は前振りだったとしたら・・・これは凄い舞台だったんじゃないかと思わざるを得ない。
カンジという人物は、死んだ事によって美化されていたと思うのだが(自分の想像でも美男子みたいな感じで膨らんでいたし)、生きていた事によって180度反対の存在「邪魔者」になってしまう。カンジが生きていた事によって、ダム計画は白紙に戻り、小松タケシの人生は狂い始めるであろう。カンジの元妻にしろ現彼女にしろ、カンジが死んでしまったという現実を踏まえて奪い合い(というか自己主張)をしているわけで、生きているカンジを奪い合うつもりはないと想像できる。アキコに結婚しようと告白してしまったツグオにとっても、カンジは邪魔者以外の何者でもない。婦警の佐竹ショウコは、カンジが死んでしまったから過去の告白をしたわけだし・・・。「その後」の話の方が修羅場。さらに加えれば、カンジだと思われていた死体の正体も謎に包まれる。もしかしたら、行方不明をいいことにタケシとツグオの共犯で赤の他人を殺してツグオという事にしてダム計画を推し進めようとしたとも考えられる・・・。生きていたのを喜ぶ者は誰もおらず、驚きのあと呆れたって感じの空気が濃く漂い、その後「邪魔者」という嫌悪感が満ち溢れる。その心情を、挨拶後の複雑な面持ちで舞台を去る役者に込めていたとしたら。この空気こそが作者の意図だとしたら、こんな凄い演出はなかなか見れるもんじゃない。深読みだろうか・・・。
○菅間馬鈴薯堂『木登り馬の挿話』
作・演出 菅間勇舞台は、1995年の阪神淡路大震災後に、被災者避難所として割り当てられた小学校の体育館。季節は、震災から約7ヶ月後、そろそろ体育館を明け渡さなければならない日が近づいてきた盛夏。そこで生活する被災者達の物語。
当日パンフに“ご挨拶に代えて”として、ものすごい分量の文章が載っていた。観劇前には読む元気がなく舞台設定のみを読んだ。それによってこの芝居が阪神淡路大震災のその後を描いていると解った。観劇後に文章を流し読んだ。それによると“この芝居の台本に「地震」「震災」、それらに類した言葉を一切使用しないこと、あれば、すべて削除する”との課題を知った。知った上で疑問が生じた。何故、阪神淡路大震災を素材にしたのか?文章の中には“<阪神淡路大震災>でなくとも<オウム・サリン事件>でも、ぼくにとってはよかったような気がする”と書かれてあった。なら、完全なフィクションでも良かったのではないか。東京で大震災が起こったという架空の出来事を下敷きにしても良かったのではないか?何故、現実にあった事件を下敷きにする必要があったのか?自分は直接の被害者ではないが、ちょっと怒りにも似た感情が生じてしまった。
そんな怒りとは裏腹に、芝居の方は静かなテンポがとても辛い芝居であった・・・。眠くて参ったのである。セリフから人となりや状況が見えてこないので感情移入もできないし・・・。
●最後に『the flat』に関して。同じ舞台装置を使って、違う芝居を作りあげるという企画自体は面白いと思うが、2作の関係性が見えないのが残念。残念ついでに書いてしまうと菅間馬鈴薯堂の当日パンフに、この企画の意図の半分が、劇場費も満足に支払えないならニ劇団の併合公演をして費用を分割すれば・・・うんぬんが書いてあった。これは企画自体を楽しみに劇場に足を運んだ観客への冒涜ではないだろうか。こんな裏事情は隠しておいて欲しいものである。公演全体としては、時間堂は興味の持てる公演ではあったが、菅間馬鈴薯堂は琴線に触れるものがなかったので評価は低い。
作 ケラリーノ・サンドロビッチ
脚色・演出 千葉雅子(猫のホテル)地図にも載っていない国“フリドニア”。その港町。大雨の被害で公民館での避難生活をしているメグ(植木夏十)、母親のクミ(長田奈麻)、祖父で漁師のマモル(市川しんペー)。マモルは双子で、その兄ナカヤマヒトシ(市川しんペー二役)は、町長をしていた。「双子なのに」と境遇の違いに口では文句を言っているが、意外と呑気に生活しているメグ達。
それとは裏腹に、町長のヒトシの家庭は崩壊寸前であった。ヒトシは、妻ヒロエ(佐藤真弓)の愛を感じながらも、色情狂の秘書・ライカ(高木珠里)と愛人関係を続けていた。それを知っていながらもヒトシに仕えるユーリ(小林健一)。一人息子のカズヒロ(辻修)はメグのストーカーを続けていた・・・。
“フリドニア”では、海から薔薇の香りが漂った時、海底で死者の姿を見る事が出来るという言い伝えが残っていた。それと共にそれは災難の前触れとも言われていた・・・。そんな町に流れ着いた不老不死の妙薬を売る行商人のタブチ(いけだしん)と娘のビスコ(伊藤修子)。天使の翼を持つツバサ(村上航)。街娼をまとめるけいこ(千葉雅子)・・・。町長一家の崩壊と共に物語は混沌として行く・・・。眠くて全貌を理解できていない、ってのが本音。ナイロン100℃が1996年に上演したものは観ていないので、オリジナルの脚本は知らない。どう違っているのか、まったく同じなのか比較は出来ない。ただ、作品を味わう上では、この素の状態で観劇するのがベストだとは思う。しかし、この一作だけで作品を評価してしまうと、正直言って「つまらない作品だった」としか言いようがない。
1994年にナイロン100℃が公演した『薔薇と大砲〜フリドニア日記#2〜』は観ている。それとの比較はまったく意味がないと思うが、もし雰囲気が同じだったとしたなら、今回の作品は、あまりにも遜色があり過ぎる。『薔薇と大砲〜フリドニア日記#2〜』は、そのダークな空気の中で個々のおかしさがいい狂気となって現れていた傑作である。まぁ、ナイロン100℃の公演は役者のおかしさが作品のおもしろさを引き出しているとも言えるんだけど・・・。で、今回は、ナイロン100℃の役者に引けを取らない、強烈な個性を持つ猫のホテルの役者が中心となった作品ではあるが、そのおかしさが、この作品の中では生かされていなかった。又、芸達者な役者達も作品のおもしろさを引き出してはいなかった。千葉雅子が持つ負のエネルギーも架空の国では霞んで見えてしまった・・・。と、そんな感想を抱いてしまった。オリジナルの脚本に縛られてしまい、社会面的なネタに独特の鋭さを発揮する千葉雅子の良さは、一つも出ていなかったのではないだろうか。って千葉雅子の作品をたくさん観ているわけじゃないので偉そうには言えないのだが、2002年に観た『ビルの中味』が印象深かったので、そう思ってしまう。と同時に残念でならない。極端な発想だが、地図に載っていない国“フリドニア”は、日本のある地方の村に置き換えてしまっても良かったのではないだろうか。もっと自由に千葉ワールドを構築できていれば、面白くなっただろうにと思うのだが、過大評価だろうか。KERA作品のリメイク合戦の一本だが、作品の選び方とか、ちょっと企画倒れかなっ、とも思う。でも、千葉雅子が、KERAの持つ不思議な空気にどんなクサビを刺すのか、興味と共に期待は高かったんだけどね・・・。
作・演出 徳尾浩司舞台は、古ぼけた貨物宇宙船の機関室。宇宙船の動力は備長炭。その備長炭をシャベルで炉に放り込むのが機関士達の仕事である。機関士のローレル(石切山哲也)、マリー(島優子)、ベルサイユ(斉藤広之)、そして彼らを束ねる艦長の坂本(山室智美)、設備管理者(?)の緒方(徳尾浩司)が全搭乗員。そんな貨物船を地球までの護送船として使用しようと、刑事の白滝(高良真秀)とアカリ(樫岡左弥香)は機関室に冷凍カプセルを運び込む。そのカプセルには凶悪犯罪者の黒沢(崔太均)が冷凍されていた。しかし黒沢は冤罪で捕まったらしい(黒沢の話を聞く限りでは、冤罪なのかぁ〜って疑いが残るんだけど)。事情を知り、逃がそうとするアカリは、やかんのお湯をかけ黒沢を解凍する。地球に着くまでにアカリは黒沢を無事逃がす事ができるのか・・・。そして、そんな事件に巻き込まれた機関士たちの運命は如何に・・・。って感じの物語に、ローレル、坂本、緒方の三人が昔宇宙で戦う戦士だったって話や、白滝が一方的にアカリに恋している話とかが絡んで展開する。
余談だが、初めて観る劇団ほど恐ろしいものはないのである。昔は期待を胸に足を運んだりもしたのだが、何度も裏切られ続け、今は「期待する方が悪い」という心理に変わっている。なのに足を運んでしまうのは、自虐的なのか、B級映画好きが災いしているというか・・・。まぁ、万が一にも素晴らしい劇団に出会わないとも限らないから足を運ぶんだけどね。
ってことで、今回が旗揚げ公演の『とくお組』。徳尾浩司は、慶応大学在学中に7本の作品を発表、その後、堅気の社会人になってはみたが、1年目が過ぎ、会社組織の虚しさを覚えてきた・・・そんなあたりでの旗揚げ、と案内からは読めたんだけど違うのか?「“非現実世界”で巻き起こる“現実的な”青春群像劇を得意とし、漫画・絵本の世界に近い舞台設定の中、キャラクターの言動や心理はリアルに描く」というのが手法らしい。今回は、非現実的な“貨物宇宙船”の中で、社会人1年目で感じた気持ちを登場人物に少し重ねているらしい。自分がそこにいる意味、存在意義、どう折り合いをつけて生きていくべきかとかとか・・・。って前フリは措いておいて、どうだったかと言うと、「う〜ん、つまらなくはなかったんだけどね」って感じなのである。所々マジに笑える所もあったが、飛びぬけていいところがなく、どちらかと言うと普通なのである。かと言って嫌いな芝居じゃなかったので誤解なきように。連れも喜んでいたし。ただ、個人的には群像劇はあまり好きではないので、1本筋が通った太い話がなく、主人公は誰って感じの今回の芝居は、全体的に散漫な感じが残ってしまいイタダケナイ。物語の概要はつかめても、感情移入ができないまま終わってしまったって感じなのである。
機関士たちが微妙に成長する話って当日パンフには書いてあったが、成長した機関士ってマリーのこと?って疑問符が付いてしまうくらいに誰が主人公だったのかはっきりしない。まぁ最後には機関士としてのプライドを持って生きていくみたいな事をマリーが言ってたから、きっと主人公なんでしょうってくらいなもの。ただ、マリーが主人公だとしても、物語が主人公を中心として展開しておらず、脇である人物達が、あっちこっちで勝手気ままにサイドストーリーを展開してしまったって感じの作品になってしまった。黒沢とアカリの逃避行の話は主人公とは関係のないところで進行するし、ローレル、艦長、緒方の過去と現在の話は、余談にしては長い上、主人公にはあまり絡んでないし・・・。群像劇だからと言ってオムニバス的にいろいろな話を盛り込んでしまっては、作品を駄目にしてしまう。サイドストーリーも主人公を中心にし、いろんな障害に右往左往しつつも成長してしまうマリーの物語にしたなら、違った面白さがあったのではないだろうか、と勝手に想像してしまう。次に登場人物のキャラクターだが、うさぎの呪いをかけられたと思い続けている緒方のキャラはむちゃくちゃ面白かった。トイレはどーすんだよとか突っ込みところは多いが、それすらも納得してしまう面白さだった(一番おいしい役を演出家自身がやっちゃ卑怯だよー、って言いたいくらい)。そんな強引な設定はうまいのに、艦長の昔の姿(昔は男だったが呪いをかけられて女の子になってしまった)は中途半端。もっとオヤジ臭くなくっちゃギャップを楽しめない。あのオヤジが、なんでこんな少女にってくらいの差が欲しかった。
駄目だしついでに書いてしまうと、映像は最低。もっと腕を磨いて欲しい。あそこまで下手だと芝居を台無しにしかねない、って言うか、していた。全然、面白くないし。あと、演技はまずまずなのに、島優子の前髪がうざったかった。