2000年2月はこの8公演

 


ロリータ男爵「犬ストーン2000」

ウエストエンドスタジオ 2/10〜2/13
2/11(金)観劇。座席 自由(3列目中央:招待)

作・演出 田辺茂範

 開場後15分くらい経ってから客席に入る。生のピアノ演奏が始まっている・・・悲しい調べの中、不安顔で立ち尽くす子猫。子猫をよく見ると手には地図が・・・劇場の入り口に確か「猫を捜してます」みたいなチラシが貼ってあったなと気が付く。階段の上にはおまわりさんが一人。そして幕が開く。流れるメロディは、
♪迷子の迷子の小猫ちゃん あなたのおうちはどこですか?♪
・・・そうか迷子の小猫に犬のおまわりさんか。でもおまわりは人間・・・。
そこで男が「犬になりてぇ〜」と叫び、芝居は始まる。
 そう、犬になりたい男の話なのである。男の名前はイチロー(大佐藤崇)。おまわりでもなんでもない、犬になることが生涯の夢と言うおもちゃ屋のコスプレ息子である。彼はある日、流しの紙芝居屋のおやじから“犬ストーン”と呼ばれる石の話しを聞く。その話しによると、肉きゅうがある石“犬ストーン”を4つ集め、石に人の生命を宿し、犬場と呼ばれる場所に行くと犬になれるというのである。男はこの伝説を信じ石を集め始めるが、行く手を阻む人物がいた・・・そんな犬になりたい人々が織り成す、へなちょこミュージカル。

 1999年のインターネット演劇大賞を『信長の素』で受賞し、波に乗っているロリータ男爵である。今回は原点に戻り、劇団員の中でも知らない人が多数いるという、1995年12月に上演された幻の旗揚げ作品『犬ストーン』の新リアレンジである。初演を観ていないので、どこまでリニューアルされているのか比較できないが、芯の通ったヘナチョコぶりは健在であった。物語も「犬になること」だけの単純さで、妙に心地よい。って言うか犬になる事が至高の喜びって事自体おバカ過ぎる・・・そんな最高のへなちょこさを思う存分堪能できた公演であった。「面白かった」と言うよりは「楽しんで観れた」と表現した方が合っているかもしれない。そんな微妙な面白さが心をくすぐるのである。旗揚げ作品とは思えない出来映えでもあった。役者の成長と共にますますへなちょこさが冴える脚本・演出に、田辺茂範の笑いに対するセンスの良さが垣間見れる。田辺は、ペットショップ「鳥獣戯画」のバイト役としても出演していたが、舞台で田辺を見るのは『三つ子の百まで』以来である。私はあの独特の空気が好きなので、どんどん舞台に立ってもらいたいと熱望する。身のこなしの軽さも披露していたが、役者としても今後の活動が期待できるというものだ。って今後も出演するかどうかは知らないけど。

 役者の成長と書いたが、成長せずへたくそのままいい味を出していたのが、イチローの恋人ルリ子を演じた本山みどりである。へたくそさがかえって効果的というのもこの劇団の不思議な魅力である。他の役者も個性爆発である。鳥獣戯画のパート役のタタララタタが機関車トーマスのかぶりものをして登場するインパクトの強さはいつもの通りであるが、今回脇に徹した犬公方を演じた斉藤マリがいい味を出していた。生意気なくそがきを演じるより好感が持てる。プードルを演じた中西恵子は、相変わらずHっぽくて好きである。

 今回、歌もなかなかグッド。特に「犬への想い」が心に響く。
♪イヌって噛む イヌって噛む イヌって噛む♪ってメロディが頭の中をぐるぐると廻る。

 余談になるが、母親役で登場していた本物の猫は、大学で捕まえた盲目のノラ猫だとか。


“ロリータ男爵”自分が観た公演ベスト
1.犬ストーン2000
2.恋は日直
3.信長の素〜端午の節句スペシャル
4.地底人救済
5.三つ子の百まで〜その100分の1

演劇の部屋に戻る


ブリガドーン「セックスは、なぜ楽しいのか?」

ザ・スズナリ 2/9〜2/13
2/12(土)マチネ観劇。座席 自由(7列目中央)

企画・構成・演出 二村ヒトシ

 男と女が小屋の対角線上に位置し、卑猥な小説を読むということから舞台は始まる・・・。とりあえず、パンフに載っていた演目をちょっとした感想と共に列挙する。

1.脱がせダンス
2.茶の間(映像):母役の手塚とおる、兄役の小手伸也が逸品。
3.嬲る(なぶる)(映像):原案 南智子
  SM嬢をしていた母の話を平然と聞く妹(千木良悠子)という構図の会話劇。
  やはり母親役の手塚とおるがいい。
4.おなかすかせて、きて: 作 羊屋白玉 
  これは最低。餃子屋の話なんだけどよくわからん。
  昔読んだ指輪ホテルの記事で、食物はエロチックであるとみたいな事が書いてあったよう
  な気がする(記憶違いだったらごめんなさい)が、それを舞台にあげたのだろうか?
  しかし、全然エロチシズムは感じられず、気持ち悪いだけであった。
5.満月(映像):いやらしい女に囲まれながら、いやらしい女を演じていた池田鉄洋がいい。
6.魂を救うだろう(映像) :原案 よしもとよしとも
  彼氏が大人のおもちゃになってしまったと思い込んでいる女(加藤直美)の話。
  これはもー加藤直美なしでは出来ない作品。加藤藤直美のHっぽさに、思わず股関を押さ
  えてしまいそうな出来映え。
7.縁側(映像):父役の手塚とおると兄役の小手伸也の会話劇。
8.私が童貞だった頃 :原作 川崎ぶら
  女優が童貞の男子中学生を演じるって事以外はおもしろくない作品。
9.わいせつ赤ちゃん
10.シメルオンナ :作 深津篤史
  彼女(鯉沼トキ)の家にいる男(梅林美人)を同居人(安元有加)が誘惑するという話。
  しかし、同居人の女には性交時に男の首を絞める事によって性的快感を得るという性癖が
  あった・・・。
  深津篤史の作品としては、昨年観た『うちやまつり』より“死とセックス”を感じ(って
  言うかそのものずばりなんだけど・・・)私としては、とてもおもしろく観れた。
11.エンディング(映像)
 こんな感じだが、おもしろいと思ったのは、映像で観た作品中心というのが、なんとも物足りなさを感じてしまう。かろうじて10番目の『シメルオンナ』が芝居として楽しめたくらいで、『おなかすかせて、きて』に及んでは、セックスの楽しさから程遠い作品に仕上がっていた。まぁそもそも、セックスって楽しい行為に決まっているので、今さらそんなものを舞台にあげてどうする?って気はする。セックスはなぜ、楽しいのか?・・・それは、種の保存の為に気持ちいい行為にした、って生物の授業みたいな答えを書いてもなんの意味もないやね。それはともかく、芝居の方は、どうも自慰行為的であり自己満足的なものでしかなかったと思う・・・。まぁ今回は映像ではあるが、加藤直美が観れたのでヨシとしよう。

演劇の部屋に戻る


サードステージ・RUP共同プロデュース
「ララバイまたは百年の子守唄〜ハッシャ・バイより〜」

紀伊國屋サザンシアター 1/28〜2/19
2/12(土)ソワレ観劇。座席 2-15

作・演出 鴻上尚史

 舞台は劇団青空の稽古場。『ハッシャ・バイ』の公演直前に、演出家であり主演役者でもある男が、劇団の若い娘と失踪してしまうという事件が起こる。劇団の女座長・坂口奈美(石田ゆり子)は公演を中止にしない為に「流しの主役」を捜しだす。そこに現われたのは、『ハッシャ・バイ』の主人公、金田一龍彦を名乗る正体不明の男(筧利夫)であった・・・。
 座長に想いを寄せる若手俳優・平井純(佐藤アツヒロ)、主役の座を狙っているベテラン俳優・馬場三太(佐藤正宏)、金田一龍彦を名乗る男の過去を知る女(生方和代)らの思いを他所に稽古が始まる。『ハッシャ・バイ』の世界と現実が交差し、絡み合いながら同時進行していく・・・。

 正直言って、劇中劇の『ハッシャ・バイ』が面白かったから耐えられた、と言っても過言ではない。物語は『ハッシャ・バイ』の稽古という形で進行しているのだが、芝居の大半が『ハッシャ・バイ』の上演という、とんでもなく中途半端な構成になっていた。何故、単純に『ハッシャ・バイ』の再演をしなかったのか、疑問が残る。正直言ってその方が観たかったし、面白かったに違いない。パンフレットによると『ハッシャ・バイ』の「夢と現実(今回はそれに「虚構」も加えているらしい)」というテーマと、芝居の稽古場と劇団に降りかかるさまざまな問題という物語がリンクしているそうだが、明らかに劇団の話が弱い。上演前に主役がいなくなったとか、男が以前いた劇団で女性問題を起こしたとかの話では、ちょっと力不足。そんな昼ドラみたいな話ならいらない、ときっぱり言いたい。『ハッシャ・バイ』の現実と夢が交差し、夢が現実を食いはじめる、そんな不思議な疾走感も小間切れに上演されてしまった為に、のめり込んだ途端現実に引き戻されてしまい、非常にストレスを感じた。今まで『ハッシャ・バイ』の上演を観たことがない私にとっては悔しさ一杯である。こんなおもしろい脚本を自ら解体し、名作を駄作にしてしまう鴻上尚史は、一体どこに行こうとしているのだろうか?
 パンフレットのインタビューを読むと、時代の読み方は確かに鋭い。以前はそれが芝居に表われていた。いや、芝居の方が現実より先を走っていた、と言っても過言ではない。しかし、今の芝居にはそれが全然ない、と痛感するのは私だけではあるまい。「あなたの時代は終わったんですよ」と、言ってもいいのではないか。今の鴻上には、過去の栄光を捨てて、無の状態から再生する必要があるのではないだろうか。鴻上の作品が好きなだけに、本物の“劇王”の復活を望む。

 演出に関しても、仁王立ちで役者にセリフを喋らせるスタイルは変わっていなかった。英国留学して何を学んできたのやら。でも、英国芝居がどんな演出をするのか、良く知らないで発言してるんだけど・・・。筧の役柄に関しても“けだもの”が似合うからと言って、過去にしがみつかせてしまうのもどうかと思う。筧の演技に関しては文句なし。舞台上の筧はやはりカッコイイ、と言うか魅力がある。佐藤正宏のワハハ本舗ネタである“平成モンド兄弟”ネタを使ったのにはガッカリ。石田ゆり子の無感情な表情も駄目。まぁ綺麗だったので見入ってしまったんだけど、もっと喜怒哀楽を表情でも演じて欲しかった。

演劇の部屋に戻る


イデビアン・クルー「不一致」

パークタワーホール 2/17〜2/19
2/19(土)観劇。座席 3列目中央

振付・演出 井手茂太

 ストーリー的なものはないので(深く読めばあるのかもしれないんだけど)、パンフに書かれた文章を転記することにします。
 (無断掲載ご了承ください・・・)

 「一致」とは二つ以上のものがくいちがいなく一つになること。
 「不一致」とは、「一致」しないこと。
 「一致団結」「言行一致」ということばがあるが、
 はたして完全な「一致」はあるのだろうか。
 一体どっちなのか、わからなくなってしまうような状態。
 舞台上は「不一致」だらけ・・・which(どっち?)。

 幕が開くと喪服姿で一列に並んでいるダンサー達。表情は厳しい。舞台一面の畳。白と黒の垂れ幕・・・。そこで流れるポップなリズム。そのリズムに合わせて踊りだす・・・。
 いきなりの「不一致」さを目の前にし、心が踊る。途端、身も心もイデビアンの世界に引き込まれてしまった感じだ。も〜素晴しいとしか言いようが無い。舞台は葬儀場なのだが、喪服姿で踊るって事がこんなにもおかしさを醸し出すとは思いもよらなかった。その状況設定のおかしさに加えて、いつもながらの配置と動きの素晴しさに感動する。一見バランスが悪そうでいてそうでない。その不完全さが美を造る。いや、不完全さと言ってしまっては語弊がある。個々にはバラバラに見える不完全さも、全体的に見ると完全に統一された素晴しい動きを見せている。完璧なる一体化なのである。その動きを把握し、振り付けをする井出茂太の才能には驚かされっぱなしである。今回は井出茂太も出演し、天才的な踊りを見せているので必見の公演だったと言えるのではないだろうか。いや必見の公演だったと断言する。


“イデビアン・クルー”自分が観た公演ベスト
1.不一致
2.コッペリア
3.包丁一本
4.ウソツキ 改訂版
5.ウソツキ

演劇の部屋に戻る


AGAPE store「超老伝2000」

紀伊國屋ホール 2/21〜2/27
2/21(月)観劇。座席 B-14

原作 中島らも「超老伝〜カポエラをする人」
脚本 中島らも、山名宏和、故林広志、G2
演出 G2

 足だけを使う異色の格闘技カポエラの名手でもある瘋癲(ふうてん:キチガイの意味らしい)の老人・菅原法斎(松尾貴史)を中心に、その周りで起る奇想天外な出来事を出演者3人だけで演じる、芝居だかコントだかわからない作品。

 キッチュこと松尾貴史とG2のユニット「AGAPE store」の3回目の公演である。超老伝としては2年ぶりの再演となるが、私は今回が初見。
 で、感想はと言うと・・・どぉ〜表現したらいいのか正直言ってわからない。中島らもの原作を読んでないので、どこまでが原作通りなのかわからないが、不条理劇でもあるような、単なる寄せ集め的でもあるような・・・う〜む。大まかなストーリーはあるものの、コントの連続と言った感じの芝居なのである。確かに脚本はおもしろい。役者も芸達者でいい。松尾貴史のモノマネ攻撃などは、卑怯すぎると言いたいくらいに腹を抱えて笑った。パワフルな山西惇(劇団そとばこまち)、色っぽい松永玲子(ナイロン100℃)もいいのだ。なのに退屈なのである。何がいけないのか、と問いかける間もなく“演出”がいけないという答えが返ってくる。どうも、おもしろい脚本を生かしきれていない、とゆーかまとめきれていないように思われる。悪く言えばおもしろい脚本を垂れ流しているだけなのである。共同脚本のどのパートを誰が書いているのか知らないが、もう少しストーリーも考えたものだとまとまりがあったのではないだろうか。松尾貴史の個人芸を観るには最高の舞台だったが、芝居としての評価は低い。まぁ、あくまで私個人の意見だけど。

演劇の部屋に戻る


拙者ムニエルプレゼンツ
「猫演劇フェスティバル」

三鷹市芸術文化センター 星のホール 2/19〜2/27
2/23(水)観劇。座席 C-18

総合演出 村上大樹

 猫が付く3劇団(拙者ムニエルはこのフェスティバルだけ、猫・拙者ムニエルと改名)が集って行なった企画公演。とりあえず『桃太郎』という共通テーマを設置し、猫・拙者ムニエルが「桃太郎の誕生」をモチーフにし、猫のホテルが「イヌ、サル、キジをお供にするところ」、猫ニャーが「鬼退治」となっていた。全員参加で歌い上げる壮大なオープニング→猫・拙者ムニエル→猫のホテル→猫ニャー→全員参加で涙のフィナーレという流れをノンストップで観せる。各劇団の公演には他劇団員がゲスト出演するって感じの企画。

■【猫・拙者ムニエル】
 『生命の瞬間〜maternitique2001〜』
 作・演出 村上大樹

 フェスティバルを開いた首謀者劇団。劇団名に“猫”を付けてまでフェスティバルに打ち込んだみたいだが、この企画って意味あるんだろうか・・・。その無意味に意味がある?よーわからん。それは、さておき物語は、偽桃太郎(加藤啓)の誕生から、偽桃太郎が出会ったピーターパン(伊奈恵一)との戦いを描く・・・そんな内容。
 ピーターパンが作ったネバーランドが“ユニクロ”って発想が妙にツボにはまる。全体を通しても、まずまずおもしろかったと思う。でも、肝心な物語より、健康機具(エアーウォーカーとか言う、中空を歩くやつ)を使った宇宙空間の描き方が爆笑もの。しかし、その印象が強烈過ぎて、肝心な物語が霞んでしまい記憶に残っていないのがちょっと痛手。って言うか、忘れてしまったのは自分だけかもしれないが、マジに記憶に残っていない。困ったもんだ。まぁそれはともかく、宇宙空間のシーンは、演劇史上に残るばかばかしさであった。これだけでも観る価値が充分あったというもの。で、その宇宙船で艦長を演じていたのが、相変わらずのパワー全開(全壊と言ってもいいほど)の小手伸也。昔は2枚目で通ったらしいが、今では想像ができないクレージーさ。小手伸也に限らずこの劇団は個性豊かな団員ばっかで、私は好きだ。

■【猫のホテル】
 『くちぐるま』
 作・演出 千葉雅子

 どこぞの工場に異国からの研修者(森田ガンツ・いけだしん)がやってきて、日常生活を破壊するって感じの内容。
 共通テーマである桃太郎を無視、イヌ、サル、キジをお供にするところがモチーフってのも無視。もしかして深いところにテーマが隠れている?そんな勘繰りを持ってしまうくらいに独自の道を歩んでいたと思うのだが、どーなんだろ。しかし、そのフェスティバルを無視したスタンスは面白かったと思う。が、内容はイマイチ。もしかして、この“くちぐるま”って題名は「村上大樹のくちぐるまにまんまと乗せられてちゃった」って事??

■【猫ニャー】
 『Nobody Knows〜エブリワン〜』
 作・演出 ブルースカイ

 鬼達の奴隷と化した人間達が住む奴隷島。そこに現われた救世主であろう桃太郎(加藤美保)は、核エレルギーで動いている訳ではないと思うが、背中に核エネルギーのタンクを背負っていた・・・。お供には、純情な仮面をかぶった横暴な犬(西部トシヒロ)や、ロリコンで猟奇趣味の猿(これを小村裕次郎が演じるのだから、狂気の眼差しがドンピシャリ)など、一癖も二癖もあるシモベ達。しかし、鬼は出払っていて一向に帰ってこない。・・・桃太郎達が来てから3日が経過した。そんなある日、ついに核漏れが発生してしまう。それにより、桃太郎への風当たりが強くなり、鬼に殺される方がマシだという意見すら飛びだす始末。正義感は強いが、どこかピントが外れている桃太郎の苦悩が始まる・・・。
 そんな内容なのだが、最後は結末うんぬんより演劇的思い出作りの話しになってしまい、どんな結末だったかさえ思い出せない。芝居全般をこけおろしているのか、本気で芝居をやっているのか、マジでよーわからん。あえてつまらない言葉遊びをしてみたり、映画的手法で芝居をしてみたり、みえみえの効果音を入れてみたり、恋があったり、集団劇だったり、第三舞台的に正面向いて声を合わせてみたりと、マジで芝居に取り入れようとしているのか、ふざけているのか・・・理解不能である。私としては、そんな微妙な空気が心をくすぐり、おかしくて仕方がなかった。ラストでの演劇的思い出づくりとあえて言うふてぶてしさも好きだ。ただ、泣きのシーンがちょっと長すぎて、しつこかったけど。まぁ、それはそれとして、フェスティバルって何?芝居って何?みたいな実験的バカ芝居には大いに満足であった。本当に笑いのセンスはピカイチである。ただ、“何かを社会に訴える様な劇は見たくなかった”と言う感想も流れ聞いた。あの芝居をストレートに受けてしまう人もいるんだぁと感心すると共に、そういう人には、つまらない芝居だったかもしれないとも思った。・・・でも、まさか演劇的思い出作りまでマジに取ってやしないだろうなぁ・・・そう考えると今回の芝居は猫ニャーを知っている人には面白く、知らない人にはなんだかわからない芝居だったかもしれない。いろいろな試みは、本公演でやるべきだったのかも。
 余談になるが、オープニングでマジ顔で、夢と現実を語るブルースカイを見て、まだ「マトリックス」が尾を引いているのかぁ〜と、笑うシーンでもないのにおかしくて仕方がなかった。そりゃ何回も観りゃ頭にこびり付くわな。

 総合的には、三鷹くんだりまで往復3時間かけて行った甲斐はあった、って感じかなっ。でもマジに遠かった。駅から歩くんじゃなかったよぉ・・・って芝居の感想とはまったく離れてしまったけどさ。
 あと、村上大樹の総合演出が空回りしている感じでとても素敵でした。ただ上演時間が長かったのが辛かった。まぁともかく、3劇団が集まる幸せを感じた公演ではあった。

演劇の部屋に戻る


双数姉妹「ニセオレ−偽俺−」

THEATER/TOPS 2/19〜2/29
2/26(土)マチネ観劇。座席 G-8

作・演出 小池竹見

 とあるフランスレストランの店長・馬場ケイスケ(五味祐司)に似た男が街中を歩いていた、という話がレストランの厨房で話題にあがる。果たして彼は本人なのか、似た別人なのか・・・。

 と、そんな感じで物語は始まる。某雑誌の紹介には「誰からも好感をもたれようと、人を殺してまで嘘を突き通した二重人格の男がモチーフ」と書かれてあった。ふんふん、なるほど。と、そこまでは“ニセオレ”って臭いがプンプン漂い、期待十分。しかし、話しが進むにつれ、スパイ物の匂いが強くなっていき・・・その懸念のまま結局は、二重人格ではなく二重生活のスパイの物語で終ってしまった。いつものように(と言っては失礼だとは思うが・・・)当初の構想とは、全然違う内容になっていた。伝奇浪漫テイストっちゅーのも欠片もないし・・・。

 歌舞伎町を舞台に、風俗とは知らずに働きだす中国人兄妹・葦(柏原直人)と椿(野口かおる)の話が挿入されていたが、その話だけ単独でもっとディープな世界を描き出して欲しかったと思う。今回は、単に歌舞伎町の一面としか描かれておらず残念でならない。そんな精神面の深いところを描くのが、双数姉妹だったと思うのは自分の勝手な思い込みだろうか・・・。歌舞伎町という空間も以前の小池竹見ならもっと違った空間を演出したのではないだろうか・・・。サンドウィッチマン(内藤達也)が影の人物だったりするのも、ありきたり過ぎてがっかり。がっかりと言えば、音楽の選曲が容易過ぎるのもがっかり。がっかりばっかりだが、いくらスパイ物だからって「007」の音楽では、直球すぎて興ざめ。客がハケる時の音楽も椎名林檎の「歌舞伎町の女王」ってのも容易過ぎやしないか。

 余談になるが、今回アカペラは、脚本が上がるのが遅くて練習する暇がなくなり、なくなったらしい。ないと今度はちょっと寂しかったりするから人間って困ったもんです。えっ、私がわがままなだけだって・・・その通りです。


“双数姉妹”自分が観た公演ベスト
1.ハクチカ'96
2.オクタゴン
3.3 BALKAN BOYS
4.安天門
5.ニセオレ−偽俺−
6.オペレッタ―王女Pの結婚―
7.SHOCKER

演劇の部屋に戻る


流山児★事務所15周年スペシャル「Happy Days」

本多劇場 2/17〜2/27
2/26(土)ソワレ観劇。座席 G-13

作 鐘下辰男
演出 ケラリーノ・サンドロヴィッチ

 地方の山麓に居を構える古くから続く家屋。先祖伝来の土地、山林は祖父の代から切り売りによって、現在は家とその裏手にある山林がわずかに残っているだけであった。かつてはこの土地の有力地主として、周りからの羨望のまなざしがあったこの鬼藤家も、現在は没落の一途をたどっていた。現在この家を守っている、長男・栄一(塩野谷正幸)も、家を守る気などさらさらなく、家屋を文化財として高い値で売りさばく事しか頭になかった。次男・賢次(ラサール石井)も女関係が激しく、家の事には無関心であった。母親の葬儀の日、東京から10年ぶりに帰ってきた末弟・晃(篠井英介)は、実家の荒廃にショックを受け、母親は殺されたと言い出し、おかしな行動を取りはじめる・・・。母の土地を巡って、腹違いの三兄弟が織り成す狂気の世界を、鐘下辰男+ケラという異色の組み合わせで作り上げた作品。

 まず会場に入って、舞台の広さに唖然とした。見慣れているはずの本多劇場の舞台がまるで別空間になっていたのである。天井の高さの見せ方によって、こんなにも広い空間を生み出せるのかと関心した。ひときわ高い位置に配置された柱時計が、なんとも印象に残る。舞台の景色と自分の記憶の中の「田舎の家」がダブって目前に広がる。屋根は見えないがそこにはカラブキ屋根の立派な旧家が建っており、家主である老婆がまるで家の中心であるかのように座っている、そんな景色が脳裏に浮かんだ。実際の舞台では、その母=老婆は他界しており、そんなシーンはない。ただ、そんなイメージを受けてしまったのである。そのイメージの後に続く、母=家の中心がなくなってしまった微妙なズレ、辛気くさいような匂い(家の死臭みたいなもの)は、物語の重要な役割を担っていた。舞台美術でこんなにも関心したのは久々であるが、舞台美術が加藤ちかと聞き納得した。しかし、その存在感の強さが芝居の邪魔になっているわけではなく、白蟻に食われていく家屋と、狂気に虫食まれていく人の心という対比がいいバランスで舞台上で対峙していた。篠井英介の壊れていく恐ろしさ、塩野谷正幸の酒臭さ(っぽい雰囲気)、ラサール石井のむっつりすけべっぷりなど、役者もいい味を出していたので、バランスを考えれば、これだけ力強い舞台美術は必要不可欠だったのではないだろうか。母に取り憑かれたラストの篠井英介のキレ方も、舞台美術が一役買っていたように思える。

 物語の中心は狂っていく三兄弟であるが、子供を刻んで井戸に捨てていたのであろう近隣の子殺し夫婦、三兄弟と男女関係があった長男の妻・響子(今村冬子)など、この家を取り囲む人間も狂っているのである。家が人を狂わすのか、誰が狂って、何が狂っているのかわからなくなる迷宮。正気と狂気の紙一重さ。幸福と不幸の紙一重さ。そして、結局みんな狂っていた・・・、そんな救いようのない暗さが、古い日本家屋に棲む狂気と重なりあい最高の舞台を作り上げていた。大人計画の芝居が好きな自分としては、“人が狂って行く”と言う事に飢えていたのかもしれないが、観終って心がずしんと重くなる、後味の悪い最高の舞台であった。

 そして何より、鐘下+ケラという無謀とも思える企画を成立させた流山児祥に脱帽である。鐘下作品を観るのは初めてであったが、鐘下が作り出した狂気の世界をあれだけ見事にケラが演出してみせるとは、驚きの一語であった。それをわかった上で組み合わせた(だろう)流山児祥の見る目は凄い。

演劇の部屋に戻る



CONTENTSのページに戻る