32GTRのころ2
最初の頃に、店で出していた、GTRレポートもよく書けていましたし、店の
みなさんも気がよくて、店に行くことが楽しみでした。それからは、毎日が
タノチイタノチイでした。また年甲斐もなくサーキットにもよく行きました。
当時はよくTIサーキットが、走行会の対象になってまして、コースもよくて、
走ってても気持ちが良かったです。何回目かのサーキットですが、走行後の
処置が慣れてなかったのですねえ。走行後ピットに止まっている車を見ると、
ラジエターの水が漏れ出しているじゃあありませんか。こりゃいかん! てな
感じで、そして水道の水でジャーっと冷やしたのですが、その後もなんとなく
おかしかったです。オーバーヒートってやつですかぁ。それからはなんとなく
エンジンをいたわりつつ走ってましたが、やっぱしだめでしたねえ。
当然、オーバーホールです。どうせエンジンを下ろすなら、エンジン本体も
チューンしてしまえぇーっ。ということで、とうとうエンジン本体にも手を
入れることになりました。私は、車を使用する場所が、ほとんど町中である
ということもあって、最高出力は控えめにして、中間重視型で行こうという
ことで、当時のターボ車としては異例でしたが、ハイコンプ(高圧縮)で
いくことになりました。タービンなどの補機類は、基本的にそのままです。
当時出来始めのT3Gを使ってましたので、容量的には十分で、そのまま
続いて使いました。ハイコンプなのでブーストは1.3まで、インジェクターも
ノーマルのままでしたので、450馬力くらいでしたかしら。でも低速から
乗りやすくて大変使いよかったです。
この頃はタービンがよく壊れました。例のスラストメタルってやつが原因
ですな。270度のメタルではあんまり持たないってことが分かってきて、
手作業で、360度のメタルを作ってもらってました。でも、それぞれに
固体差があって、早いやつでは5000kmくらいで、マフラーからケムリさんが
もくもくになりました。当時のマネージャーの鈴木さんは、「エンジンが
タービンに勝ってるんですよねぇ。しかたないですよ。」って言うのが口癖
でした。
その内に360度メタルが量産されて、精度が上がったのかしら壊れなく
なりました。その間も車は少しずつ発展して馬力も500馬力、550馬力と
増産されていきました。そうこうして、だんだん走行距離が進み、車も少し
ずつくたびれてきたのです。音もギシギシいうようになってきたし、よく
見ると、左後ろのガラスのところから、雨漏りがしてるじゃありませんか。
もっとも走行距離は8万キロを超えてましたが・・・。
マフラーは75から85へ変更しました。
羽は大きいのが目立つので、大きいのは取ってしまって、ニスモのちびはね
だけにしました。当時、ゼロヨントップランナーの、鷲津さんの車がカッコ
良かったので。ちょっとミーハー。