■本の評価は、☆☆☆☆☆満点
☆☆が水準作
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6月30日(水) 『リジー・ボーデン事件』
・『リジー・ボーデン事件』 ベロック・ローンズ(ポケミス/'04.3('39)) ☆☆
学生時代、関が好きな作家として、ベロック・ローンズを挙げていたが、ほんまかいな。『下宿人』しか邦訳のない作家の数十年ぶりの邦訳第二作である。犯罪史上に名高いアメリカの手斧殺人に材をとった一種のノンフィクション・ノベル。現実の事件に虚構を織り交ぜながら、作者は、リジーの犯罪として、事件を再構成する。綿密な調査の上書かれたのだろうが、まさに、見てきたように嘘をつき、であり、真相の大部分が作者の想像した虚構の上に成り立ってるいるようなのは、いただけないし、酸鼻な殺人となった理由もあまり説得力があるようには思えない。再現される19世紀末のアメリカ東部の雰囲気は、それなりに床しいものはあるものの。今、なぜ、ボケミスで、と思うが、近く出版予定という訳者(仁賀克雄)のリジー・ボーデン研究書のプロモーション的意味合いが強いのだろう。
6月29日(火) 『終わりなき負債』
・『終わりなき負債』 C・S・フォレスター(小学館/04.1('26)) ☆☆☆★
海軍士官ホーンブロワーシリーズで知られる著者のクライム・ストーリー。正直いって驚いた。20年代イギリスにこんな犯罪者小説があったとは。借金に追われる銀行員マーブルは、海外から甥が訪ねてきたのを奇貨として殺害したことから、マーブル氏のほんの少しの天国と長い煉獄の日々が始まる。家族を含め登場人物いずれにも感情移入を拒み、淡々と筋を運ぶ筆致、主人公の崩壊していく世界は、やや突飛な連想だが、ジム・トンプスンのようだ(と思ったら、解説にもそう書かれていた)。物語を駆動させていくのは、金銭への欲求であり、リアルな外貨取引のシーンをはじめ、ここまで、金銭にこだわった小説は珍しい。主人公は一介の庶民にすぎないが、投げ込まれている世界は、仮借なき経済の論理が支配する世界である。そこでは、「代償」が求められ、家族は一人ずつ物語の外に放り出される。鈍い戦慄が押し寄せる小説である。
・『ミュージック・イン・マイ・ハート』
監督/ジョセフ・サントレイ 主演/トニー・マーティン リタ・ヘイワース
リタ・ヘイワースがまだスターダムに昇る以前の作品。まだ、黒髪。歌手のロバートは移民局から退去を命じられている身。出国の船に向かう途中、自動車の衝突事故に遭う。相手方の車が大破したため、乗車していたパトリシアを送る羽目になる。お気楽ラブコメ。主人公が歌手だけあって、ミュージカルの体裁をとっているが、ダンスシーンは、少ない。失意の富豪をみかねた執事は、歌手が家族持ちであるという新聞記事を偽造するという策略を施し大騒動となるが、最後に、主人公は富豪の養子となつて永住権を獲得という、なかなか破天荒のハッピー・エンディング。カメラは、ほとんどフィックスだし、ローバジェットとしかいいようのない作品だが、脇役陣が工夫されていて、そこそこ楽しめる。
・このDVDボックス、ブックレットも付いていないんだよな。
6月28日(月) 新しい『太陽黒点』論
・26日は、義母の三回忌。ホテルで。一周忌の次が三回忌とは、これいかに。
・ネットで衝動買いした、リタ・ヘイワースの主演作7本を収めたDVDボックスが届く。コロンビアスタジオ屈指のミュージカル全7作品初DVD化。本邦初登場2作品含むというのが、売り。【収録作品】「カバーガール」(1944年)「今宵よ永遠に」(1945年)「地上に降りた女神」(1947年)「雨に濡れた欲情」(1953年)「ミュージック・イン・マイ・ハート」(1939年)「踊る結婚式」(1941年)「晴れて今宵は」(1942年)
・新青年研究会の谷口基氏から以前、氏の新しい論考、山田風太郎『太陽黒点』論をオ送っていただいていたにもかかわらず、これもサイトで紹介しようと思いつつ、すっかり遅くなってしまった。誠に申し訳なし。
・タイトルは、「山田風太郎『太陽黒点論』―最後の〈敗戦小説〉―」。昭和文学研究 第48集(2004年3月1日発行)に掲載された二段組み12頁ほどの力の入った論考である。
氏の文中で触れられているが、今日、山田風太郎の最高傑作のひとつに数える声が少なくない『太陽黒点』も、発表当時は、「非常に非現実的」「どうしても納得がいかない」「風俗小説みたい」な「観念スリラー」等、当時の評判はけっして芳しいものではなかったそうだ。谷口氏の目論見は、同作を「推理小説のくびきから解き放ち」、「山田風太郎、最後の〈敗戦小説〉として位置づけることを試みるものである。」
氏の探索は、作中の登場人物の心理に分け入り、戦中派と呼ばれる世代特有の原質を探り当てるところから始め、その特有の心情を「前後の歴史からの截断」に求める。彼らの存在が注目されるようになったのは、1950年代半ばだという。同時に、50年代の日本は、戦後国の劣等感から脱して、ナショナリズムが再燃した時代でもあった。「わだつみのこえ」がベストセラーになり、特攻隊再評価の機運も高まる。こうした特攻神話が罷り通る時代に、真犯人の中の「怪物」は胚胎する。真犯人の犯行と心理を跡付け、「特攻隊という「神々」の〈青春図〉を戦後の時空に模倣することで、その〈神性〉を地に墜とす〈神殺し〉」を観てとる氏の分析は、一種名状しがたいような読後の感興をうまく掬い取っているように思われる。そして、『太陽黒点』が、「忍法帖の季節」に書かれたことに再度触れ、「歴史から〈截断〉されたヒーローへの共感に支えられた忍法帖の領土」と地続きの世界として読まなければならない、と結んでいる。
拙い紹介になってしまったが、多彩な資料の引用も含め周到かつ説得力に富んでいて、興味のある向きには、是非手にとっていただきたい論考だ。
・自分は、『太陽黒点』については、笠井潔の大戦間ミステリ論があてはまるとしたらこの作をおいて他にないと思うし、中期以降のクイーンがとらえられたマニュピレータ問題的観点からも詳細に論じられていいと思っているくらいで、ミステリプロパー的にも極めて魅力ある作品だと思うのだが。
6月24日(木) 寝ぼけ署長VS不可能犯罪
・ウィリアム・ゴールドマン『殺しの接吻』、ロバート・ファン・ヒューリック『紅楼の悪夢』(ポケミス)購入。
・アーネストさんからいただいた 初「密告」を二月以上も、ほったらかしにしてしまいました。誠に、申し訳なし。以下、引用させていただきます。
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今回の用件はなんと、密告であります。私もとうとう、密室系の密告できるまでになったか。と思うと、非常に感慨深いのであります。
今回お知らせする物件は二つあります。ひとつめは坂口安吾『明治開化安吾捕物帖』より「幻の塔」。『安吾捕物帖』からはすでに「密室大犯罪」「赤罠」の二つがそちらのリストに挙がっていますが、今回ちくま文庫版を読んでみて、「幻の塔」にも密室が出てくることが判明しました。
この話は、ある武芸道場主が隠し持っていると噂されている金塊を巡る話ですが、その道場主の新築の台所の床下の物置に二人の男の血みどろの死体がある。物置の四囲は石塀で塗り固めてあって出入りは不可能、しかし、台所には一滴の血もないので、その中で殺されたとしか思えない。という密室が出てきます。ちくま文庫版全集では13巻(下巻)に収録。
二つ目は山本周五郎『寝ぼけ署長』より「我が歌終わる」。派手な遊蕩で知られる佐多子爵が厳重に鍵のかかった書斎の中で、短刀で心臓部を刺して死んでいた。ほかに疑わしいところがなかったので一度は自殺と判定されたが、庭からもう一本短刀が発見され、にわかに他殺説が浮上してきた…というあらすじ。これ以上言うとネタバレになるのでいえませんが、変な期待はしないほうがいい、ということは言っておきましょう。なお、僕が読んだのは新潮文庫版です。
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どちらも、恥ずかしながら、初読でごさいました。「幻の塔」は、密室殺人と著者も云っているものの、抜け穴の存在が最初から明かされているため、密室の方の興味はあまりなく、表題になっている金の延べ棒の隠し場所の方が面白い。というより、謎の人物の回りに、不具者が絡んだ曰くありげな構図が、ちと面白い。「我が歌終わる」、『寝ぼけ著長』は、人情推理っぽいのかなと思っていましたが、少なくとも、この作は、謎の提出が堂にいっていて、ちょっとした驚き。トリックが単純すぎて、アンソロジーには向かないかもしれないけれど、寝ぼけ著長が文学や哲学を解し、洞察力に富んだキャラクターであるのも、発見でありました。
6月22日(火) 蛇足
・A.A.ミルン『四日間の不思議』(原書房)、A.H.Z.カー『誰でもない男の裁判』(晶文社)、エドモンド・ハミルトン『フェッセンデンの宇宙』(河出書房新社)購入。
・脚の問題にとらわれ、思わず「長い旅」(by藤原編集長/取り上げていただき感謝)になってしまったが、都合のいい素材だけを使って辻褄を合わせた駄文が、妄想する名探偵ロジャー・シェリンガムの身振りにほんの少しでも似ていれば、願いかなったり、であります。蛇脚ならぬ、まったくの蛇足だが、本を片づけてしまう前に、使わなかった、若しくはうまく使えなかった部分を何かの足しに挙げておく。
「靴が必要なのは、まったく違う理由のためなんだ」(『ロジャー・シェリンガムとヴェインの謎』の中のロジャーの科白。107p流れからいえばなんということのない科白だが、どこかのエピグラフとして使いたかった) 「足は大きかったな」(同。131pロジャーの相棒アントニイの科白。二人とも大足の女はお嫌い)
「彼女のはいている小さなツイードのスカートは、上になった方の脚を、膝から下ほんの少し一、二インチ隠しているだけだったので、ほっそりとしたふくらはぎが両方とも丸見えになった」(『ウィッチフォード毒殺事件』142p。ロジャーとヒロイン・シーラがはじめて二人きりにっなったシーン。この後も、ロジャーのシーラの脚に関する観察は行き届いている)
「ソンダースン夫人はとシーラ・ビュアフォイの違いは、香水の匂う閨房の黒いランジェリーと、開けた荒れ野の小さなハイキングシューズの違いだった。それに、ロジャーはもともと黒いランジェリーがあまり好きではなかった」(同149p。シーラは靴に例えられる)
「リナは満足感にひたりながら自分の寝室に引き返した。結婚後六年もたって、まだ妻の下着に興味をもつ夫がどのくらいいるものかしら、と彼女は思った」(『レディに捧げる殺人物語』145p。夫ジョニーがリナの新しい下着に気づき、褒めそやした後で)
「まるで魅入られたようにトッドハンター氏は、その腕輪を、もはや何の抵抗もしない手からはずして、弾丸と同じようにポケットにおさめた。彼はこのとき記念品がほしかったといえば、異様に聞こえるだろうが、しかし、そのような何かふつうでない気持ちが、ほとんど機械的にその動作をとらせたに違いなかった」(『トライアル&エラー』トッドハンター氏は、被害者の婦人から、何の理由もなく腕輪を奪う。腕輪は後に重要な要素に) 『毒入りチョコレート事件』以降のシェリンガム作には当たり直していないので、まだ、何か出てくるかもしれない。それと、これを書いている筆者は、靴下や下着には、ほとんど執着を感じないので、そこのところ誤解なきよう。(誰にいってる?)
6月21日(月) A.B.コックスとは誰か
1939年、バークリーは、アイルズ名義で『被告の女性に関しては』を世に送る。「性格の自然の成り行きとしての殺人」を扱う3部作の第1作として構想されながら、残りの2作が書かれることは、なかった。批評家の反応はかんばしいものではなく、売れ行きは惨め。ディクスン・カーによれば、この失敗が作者に大きなダメージを与え、小説を書き続ける意欲を失わせたという。(同書解説)
この小説に関しては、アイルズ三部作を風俗小説として捉えなおした若島正氏のエッセイがあるが(『風俗小説家としてのアイルズ』―バークリーの女性性に言及されている)が、バークリー自身の精神的自画像を描いた一種の教養小説、苦み走ったユーモア小説、ともいえるこの小説で、むしろ主題化されているのは、性的オブセッションのように思われる。
本書は、前二作の版元から、サディズムの色彩が強すぎるということで、出版を拒否されたということだが、一読すれば明らかなように、この小説には、ごくごく穏やかな形ながら、サディズムのみならず、マゾヒズム、ディシプリン、フェティシズム、服装倒錯といった各種の性的逸脱のモチーフが潜み、流動している。本書がまともに書評の対象とされなかったのは、こうした作品の傾向が忌避されたからかもしれない。
晩年の世捨て人のようなといわれるバークリーの孤影を思うとき、作中で描かれる性的オブセッションの幾ばくかは、バークリー自身のものであったように思えてくる。内なるオブセッションを正面から主題化した作品がなんらの批評の対象とならなかったときに、作者は小説の筆を折ってしまったのてはなかろうか。
(『レディに捧げる殺人物語』にも、男の「変態性」と女の奇妙な心理的倒錯について言及があったる(123p)。主人公のリナは、道徳不感症者の夫をいつでも放り出すことが可能であるにもかかわらず、むしろその本来の性質を助長し続けてしまう。この物語は、失敗した「女教師」、失敗した「母親」の物語であり、やはりディシプリンの物語である『被告の女性に関しては』と、やはり緩やかにつながっているのである)
後に『被告の女性に関しては』で、明確に主題化される性的オブセッションが、謎解き物語において密やかに提示される『絹靴下殺人事件』は、バークリーのターニングポイントとなった。少なくとも、この段階では、忌まわしいフロイトの名は意識的に遠ざけられる(犯人のある属性を思い出してみる必要があるかもしれない)。
この小説の献辞での登場を最後に、A.B.コックス名義の著作は消え、やがてフランシス・アイルズが誕生することになるだろう。
再び、A.B.コックス氏のごく短い肖像に戻ってみよう。
「親切にも 暇をみてこの本を書いてくれた A.B.コックスへ」
A.B.コックスの二つの属性。彼は、まず親切である。A.B.コックスは、本来物語を作り出す主体であるはずのバークリーに代わって、その義務もないのに「親切にも」物語を書いてくれた。著作を代行してくれただけではない。さらに、その物語を書いてくれたおかげで、バークリーは、自らの嗜好を満たす作品を読めて大いに感謝している。
彼は、また大変な多忙家のようである。せわしない本務のかたわら、時折生じる空き時間を利用して―暇をみて―この本を書きあげてくれた。
『絹靴下殺人事件』では、表面上の犯人捜しの物語と並行して、おそらくは作者にも意識されないところで、別な犯人捜しの物語が進行している。
ロジャーは、連続殺人事件の犯人を探し、フランス式捜査法を口実に、自ら「犯行」を行い、真犯人を白日の下に晒す。(そして葬り去る)
バークリーは、その物語を追いつつ、フェティッシュな「犯行」を重ねる犯人=真の作者を探し、真犯人「A.B.コックス」を見い出す。(そして葬り去る)
ロジャーと真犯人の関係−「犯行」を媒介にした鏡像の関係−は、正確に、バークリーとA.B.コックスの関係に対応している。どちらも、相互依存的であり、やがては互いに見出さけることになる。
それは、普段は眠っているようでもあり、たえまなく流動しているようでもある。それは、あるときは自らを代行するものであり、間歇的に隠された欲動を噴出させる源泉である。A.B.コックスとは、バークリーの「無意識」だったのである。(この項、了)
6月18日(金) フェティシズムの論理/論理のフェティシズム
・(続く)フロイトは、性対象の不適切な代替物をフェティシズムと定義した上で、「性対象の代理物は、一般的にほとんどふさわしくないような身体部位(足、毛髪」あるいは、無生物で性の対象である人物、特にその人物の性欲と明らかに関係があるもの(着衣の切れ端とか白い下着)である」とし、このようなフェティシズムは、正常な愛の行為にもとより備わっているが、病的な事例が現れるのは、「フェティシュを求める志向がこういう制約を超えて固定し、正常な性目標にとって代わる場合、さらには、フェティッシュが特定の人物から離れて、唯一の性目標となる場合」としている。そこでは、フェティシズムは、「病的な錯行」とされている。(「性理論に関する三論文」)こうした性的逸脱は、去勢不安と絡めて説明されるようだ。
ところが、この度読んでみた石塚正英『脚(ピエ)・フェティシズム』(廣済堂出版)―谷崎潤一郎やシンデレラ物語も扱われている。前記の引用も同書から―という本によれば、「フェティシュ」と「フェチ」は、異なるものであるという。
フェティシズムという言葉は、18世紀の思想家・ブロスの造語だが、そこでは、原初的自然神(フェティッシュ)信仰を命名するのに用いられており、「呪物崇拝」と訳される。フロイトの性心理学は、その概念を流用しているが、ド・ブロスのいうフェティシュとは、対象それ自体ををいい(南アフリカ先住民が崇拝していた神(フェティッシュ)は、それ自体が神であり、なにかの概念の代替物や象徴ではない)、フェティッシュを代理物ととらえるフロイトの理論は、ド・ブロス流のフェティシズムの概念を勘違いしているという。
参照枠が広がると、さらに混迷は深まる。たとえば、フェティシズムの概念は、マルクス経済学にも流用されている。商品が生産者の意志を超えて動きだし、人間を拘束する存在となる事態をフェティシズム―物神崇拝―と呼ばれた。
宗教学・経済学・心理学を横断する概念―フェティシズム―は、丸山圭三郎によれば、前近代、古代、原始にさかのほる「構造的同一性・関係的同一性による実体的差異の隠蔽」のメカニズムそのものであり、文化という共同幻想の根底にある自我を生み出すシンボル化能力そのものという、ことになる。(『文化のフェティシズム』(勁草書房)
話がとめどもなく広がりすぎた。しかし、フェティシズムの本質が、部分によって全体を象徴するメニトミー(換喩)もしくはシネクドーク(提喩)的シンボリズム(丸山圭三郎)とするなら、本格ミステリで演じられる推理の営みも、至極フェティッシュなものではないだろうか。
糊のきいたズボンとキャンパス・シューズという手がかりから事件を再構成してみせる論理のアクロバット(『オランダ靴の謎』)、送りつけられたチョコレート・ボンボンという手がかりから、世界をいかようにでも書き換えてみせる多重推理(『毒入りチョコレート事件』)―そこでは、切片から世界を構造化してみせるという、フェティシュな能力そのものが競われているのかもしれない。
とまれ−情報が増えるにつれて蛇行がすぎるようになったこの文章も本来予定されていた結末に向かうべきときのようだ。
6月15日(火) 補給あるいは迂回
(続)この度、中学生以来数十年ぶりに、アイルス名義『殺意』と『レディに捧げる殺人物語』にざっと目を通してみて、脚フェチとしてのバークリーという色眼鏡でみてみると、やはり気になるところがあった。
まず、『殺意』(創元推理文庫/大久保康雄訳)。主人公の田舎医師ビグリー博士が、夫人殺害後、かつて妊娠させて捨てた元愛人の田舎娘アイヴィと再会するシーン。アイヴィは、今は富裕家チャトフォードの夫人に収まっている。(ビグリー博士が交渉をもつ女のうち小柄なのはアイヴィだけだ) その日、アイヴィは絹の靴下をはいていることがさりげなく言及される。 「チャトフォードは彼女の膝を軽くたたいた。かわいた手のひらが絹をこすって音をたてた」(216p) そして、かつて嫌になって捨てた女に対してビグリー博士の欲望が再点火される契機は、この絹の靴下だ。
「きみは前よりもきれいになったよ。アイヴィ。それに、このごろは、とてもスマートになったじゃないか。その帽子は気に入ったね。それにほんものの絹の靴下。正真正銘の絹なんだろう。チャトフォード夫人?」 「だめよ、テディ・・。(以下略)」(233p)
『レディに捧げる殺人物語』(創元推理文庫/鮎川信夫訳)から。 主人公リナが新婚旅行中に夫ジョニーの道徳的不行跡をみつけ、喧嘩になったとき、ジョニーは、リナをパリ随一の靴屋に連れて行き「その店でもっとも高価な、とてつもなく派手な、燃えるように赤い羽根飾りのついたスリッパ」を購入する(23p)。ジョニーは、女の衣装にとても興味をもっている(98p)
考えすぎだろうか。それでは、これは。
夫の不行跡に離婚を決意して妹のところに滞在しているリナは、気晴らしに勧められたパーティに出かける。「客がみんな子供の服装で集まるというばかげたパーティ」やがて、幼児のゲームが始まり、誰かがかくれんぽうをやろうと提案する。
「そして女たちは、みな自分の靴の片方を床のまん中においた。それから男たちが一人ずつ現れて靴を選びとった。その靴の持主の女が、かくれるときのパートナーになるわけだった。リナは、まだ紹介されていない長身の、浅黒い顔色をした男が自分の靴を拾いあげるのを見ながら、かなり興奮を感じた」(198p)
シンデレラ伝説のようでもあり、ここでも脚に絡んだフェティッシュが男女の欲望を刺激する。男(一時期リナの恋人となる画家)は、リナの靴と承知の上で選んだことをすぐ後で告白する。「彼女の靴を選ぼうと思って、かくれんぽうのはじまるのをどんなに待ちかねていたか」(204p)
画家は、リナはモデルとした絵の題を彼女のつけていた帽子にちなんで、『緑の羽根』にする、という。(225p)余談だが、ジョニーがリナに与えた「赤い羽根飾りの靴」と対比的に用いられているのかもしれない。
別れたはずの夫が何の前触れもなくリナの前に現れるのは、ストッキングを洗濯しようとした瞬間というのは(266p)単なる偶然なのだろうか。
ついでに思い出した『最上階の殺人』('31)(新樹社/大澤晶訳)に当たってみる。可愛い女秘書ステラと賭をするシーン(145p)で、ロジャーが賭けるのは、シガレット百本に対して「絹のストッキング一足」それがにべもない返事を受けると「絹のストッキング三足」なのだ。(これも否定されて、賭目録の衣装は累進的増加をみることになる)ロジャーがステラと洋服屋に行くシーンは、マイフェアレディ的(というよりクイーンファンには『ダブルダブル』のリーマとのエピソードを思わせる)な楽しさだが、額面どおりに受け取るわけにはいかないのかもしれない。
6月14日(月) 内部の鏡像
・(続)フランス式捜査法を口実に、フェティッシュな連続殺人の再現という「犯行」に向けて疾走する名探偵。そう再構成してみたときに、思い浮かぶのは、例のブラウン神父のテーゼだ。
「犯人は芸術家だが、探偵は批評家にすぎない」 『最上階の殺人』(新樹社)の解説で、真田啓介氏は、奔放な推理力を携えたロジャー・シェリンガムは、批評家を超えて一個の芸術家である旨を鋭く指摘する。
しかし、ここでのロジャーは、奔放な空想家であるよりも、芸術家としての「犯人」であることを希求しているかのようだ。
いうまでもなく、犯人と探偵はミステリ内部における双子である。シャーロック・ホームズとモーリアティ教授や、明智小五郎と二十面相の例を引き合いに出すまでもなく、鋭敏な知性と果断たる実行力は、探偵と犯人に共通する特性ということだけはない。探偵小説内部においては、犯人なくして、犯罪は生じず、探偵という主体は成立しない。一方、探偵なくして、犯罪の解明はなく、犯人という主体は成立しない。両者は、鏡に映した半身であり、犯罪という紐帯で結ばれたシャム双生児なのである。
『絹靴下殺人事件』では、この鏡に映した半身と同一化しようとするロジャーの欲望が働いているように思われる。そのことは、本人にも、わずかながら意識されている。
「もし、人を外見だけで判断するとしたら、ジョージ・ダニング(注:容疑者の一人)よりもロジャーのほうが冷酷な殺人者にふさわしいだろう。ロジャーはすくなくとも自分自身を殺人者の立場に当てはめ、性格の歪んだ男が味わった身の毛のよだつような快感をほんのすこしくらいは理解することができた」(118p)
婚約者を殺害されたブレイデルの科白。
「心理学者のふりをするつもりはありませんが、二人のうちどちらかが、自分でもぞっとするような行為に駆りたてる力を秘めているのかもしれません−。聞いた話だと、われわれはみなそういう部分をもっていて、ただある者は他よりもそれをうまくコントロールできるということですが」(191p)
『絹靴下〜』で、ロジャーによる「犯行」の実践−犯人という鏡像との同一化−をはからずも描いてしまった、バークリーは、犯人と探偵の関係性を巡る、より高度な展開がみられる『毒入りチョコレート殺人事件』、『第二の銃声』や、「殺人は超人のための芸術なのだ」という認識をもつ犯人自体が主人公となる『殺意』、さらに緻密な変奏曲『トライアル&エラー』という傑作群に踏み込んでいく。その意味でも、『絹靴下〜』は、華麗な傑作群に向かう結節点といってもいい作品なのかもしれない。
だが、しかし、問題は、フェティッシュだ。
6月9日(水) フランス式捜査法
・クライマックスシーンを起点として『絹靴下殺人事件』を読み返すと、ロジャーによる犯行の再現に向けて、導きの糸のごとくあちこちに伏線が張られているのが判る。犯行シーンの再現の口実となるのは、スコットランド・ヤードの捜査法と対比されるフランス式捜査法だ。
現場に残されたメモの手がかりを重視するスコットランドヤードの捜査方式にシェリンガムは異をとなえる。
「スコットランド・ヤードは少なからぬ失態を演じてきた。それらは、より幅広いーたとえばフランス警察の帰納推理のようなー捜査方法を用いていたら、解決できたであろうものだ」
そして、「フランスの敏腕刑事の豊かな想像力」が称揚される。(72p) 実は、犯行の再現は、クライマックスシーンが初めてではない。犯人の手口を推理するロジャーの語りによって、一度再現されている。ここでも、フランス式捜査法が引き合いに出される。
「フランス警察の手法を見習って再現してみようじゃないか」といって語られるロジャーの犯行の再現は、まるでみてきたもののように詳細たが、証拠に基づく推理というより、直観的なものだ。 物語半ばで、ロジャーは、副警視総監サー・ポールにも訴える。「フランス警察の方法を取り入れたら、いい結果が得られるかもしれないと思うのですが」(146P) これに対してサー・ポールは、イギリス人気質を長々話し、「フランス人は知的推理を楽しむ。しかし、イギリス人にとっては、そんなものは無用の長物だ」とすげない。 被害者の婚約者に対しても、ロジャーは己の確信を語る。
「この種の事件は、イギリス警察が通常用いている捜査方法では絶対に解決できないだろう。事件には心理的要素が含まれており、それは想像力に富んだ心理学的手法でしか暴くことはできない」(165P)
一度仕掛けた囮作戦(これも「フランス式」と言及される)が失敗しても、ロジャーは、懲りない。
ロジャーの弁舌によって、「フランス式」にかぶれた友人は、こう聞く。
「ほかにフランス式のやり方はないのか」
「罠さ!」(268P)
「とにかくもうチャンスはこれしか残っていない」と結論したロジャーは、「フランス式からまた別のヒントをもらった」といい、またしても、フランス式が称揚される。
「そう容疑者の前で事件を再現してみせるというのは、昔懐かしいフランス式のやり方だ」
物語のあちこちにばらまかれるフランス式捜査法だが、その実態は、今一つ、判然としない。一体、帰納推理なのか、知的推理なのか、犯行の再現なのか、心理的拷問なのか。
もっとも、ロジャーがフランス式を称揚するのは、この作が初めてではない。
『ウィッチフォード毒殺事件』でも、イギリスの法律が犯人の性格の存在を認めようとしないのに対して、「フランス人はもちろん性格の重要性を認識している」とし、「フランス人は被疑者の眼前に、その犠牲者と思われる遺体をつきつけて、その反応を拡大鏡で観察する」(92p)というロジャーの言葉に、『絹靴下〜』で、採られる作戦の原型をみてとることもできる。
(余談:実際にフランスにこのような伝統があるのか判らなくて、サン・アントニオ『フランス式捜査法』を読んでみたが、これは単にサン・アントニオ警視の潜入捜査のことをそういっているようだ)
それにしても、このフランス式へのこだわり。次作『毒入りチョコレート事件』で、さらに「手法」の徹底化を図るバークリーらしさともいえるが、物語の最初から「フランス式」を連発し、副警視総監(再現シーンの立会人でもある)までかきくどくロジャーは、まるで物語のクライマックスまで見通しているようではないか。
6月7日(月) 罠
・(続) 『絹靴下殺人事件』で、誰もが強烈に印象に残すのは、物語のクライマックス、犯人を罠にかけるシーンではないだろうか。
次々と殺人を続ける犯人を捕まえるには、他に方法がないと判断したロジャーは、妹が被害者となったアン・マナーズの協力を得て囮に罠をしかけるが、失敗。アンは犯人に絞殺される寸前で、一命を救われる。この危険な賭に懲りるどころか、ロジャーは、さらに過激な罠をしかける。容疑者たちを自らの屋敷に召還し、彼らのその眼の前でアンを被験者として、犯行を正確に再現するのである。 意識をなくしたアンの靴の片方を脱がせ、淡い色のストッキングを脱がせ、ストッキングをきつく結んで首にかけ、脱がせた靴をふたたび履かせる。そして、実際に吊される。「想像を絶するほどの苦しみを味わうのは確かだ」といい、「命の危険が伴う」と何度も忠告されるものの、ロジャーは揺るがない。
事件の再現は、「あまりに恐ろしい光景で、生身の人間が耐えられる代物ではなかった」(285p) 犯行の再現は、いささか激烈にすぎる。再現の目的は、犯人の精神的動揺をさそうことにあるのだが、この罠がうまく行く保証はなにもない。事件解決後のロジャーが語るように、犯人逮捕につながる物的証拠の存在を確信しており、その入手はさほど困難とも思えないのだから、「自分でも嫌悪感を覚える」とまでいう強烈な罠を仕掛けなければならない必然性は希薄のように思える。
以下は、邪推−邪悪な推理である。 『ウィッチフォード毒殺事件』のお仕置きシーンが、色眼鏡をかけてみると、「絹靴下をみせる」ところに眼目があったとするのだったら、『絹靴下殺人事件』のクライマックスの犯行再現シーンこそが、小説の眼目だったといえないだろうか。
一度ならず、二度までも吊されるアン・マナーズは、華奢な女性である。 ロジャーとアンの最初の出逢いの描写。「実に華奢だった」「彼女はどこもかしこも小さく、骨格も華奢にできており」(47p) 後に、再会したアンの描写でロジャーは、小柄の女性であることが意識される。
「広々としたレストランで、ことのほか小柄にみえた。ロジャーは自分が小柄な女性が好きなことに気づいた」(176p) 華奢であることには幾度も言及される。「手袋をはめた小さな手の関節」(177p)「あれほど小さな体に」(213p)「あんな華奢な女性」(219p)。
他の作品からみて、アンの「造型」には、ロジャーの好みならず、バークリー自身の好みも反映しているとみて間違いないだろう。 そういえば、唯一、ロジャーが犯行現場に立ち会うことになる第4の被害者の女性も、「小柄で、おそらく身長は五フィートにも満たないだろう。体つきも華奢だ」った。
犯行再現シーンのロジャーは、再現が予想したたとおり進んで、「満足した様子」を浮かべさえする。
「ライル系のストッキングで首を吊らせるのは絶対に嫌」だったのは、ロジャー(バークリー)自身だったのかもしれないのである。
6月3日(木) 心理的?
・前世紀からの約5年に及ぶパラサイト・関のサンノゼ赴任が終了。6月半ばに日本へ帰国の由。長きに渡りお疲れさま。次回は、日本からの通信になります。
・(続く)『絹靴下殺人事件』を一読して感じた奇妙さ−といっておかしければ、も違和感−に移る。
この作は、いわゆるリッパー物の先駆として受け止められている作品である。一見若い女性の連鎖的な自殺事件とみられた一連の事件が物語の中程で、連続殺人事件であることが判明する。飄々としたユーモアを漂わせた前3作とは、かなり趣を変えて、次々と事件が起きる度に、緊迫感が増していく。犯人逮捕を急ぐロジャー・シェリンガムの捜査も、ディレッタントの暇つぶしの域を超えて、本気の度合いが高い。
奇妙に映るのは、殺人事件であることが判明し、この猟奇的な事件のありよう―被害者の絹靴下を脱がせ、それをもってドアのフックにひっかけ絞殺するという―が明らかになっても、犯人の心理や犯罪の特異なパターンに関してほとんど論じられないことである。
犯行の性質や犯人像については、犯罪史に通じていたバークリーらしく、実在の犯罪者−切り裂きジャックやニール・クリームなどが引き合いに出されものの、いささか紋切り型な「性的偏執狂」「快楽殺人」といった言葉で端的に表現されるのみ。
「心理学者が色情殺人とか快楽殺人とか呼ぶものですな」(76p)というモーズビー警部の認識となんら変わらないのである。
犯人の性格に一番踏み込んだ分析は、次のロジャーの科白。
「犯人の精神状態は明らかだ。まちがいなく頭がいかれている。状況から見て、これは快楽殺人としか思えない。重度の精神障害をかかえた殺人狂。たとえば娘たちの履いていたストッキングだが、あれは絹でなければならなかったんだろう。きみにも想像がつくだろうが、ライル系のストッキングで首を吊らせるのは絶対に嫌だったんだろう」(75p)
そして、理由は、あまり判然としないものの、 「犯人はこの救いがたい性癖を除けば、あらゆる点で正常だということをお忘れなく」(116p)という犯人像がもたらされる。
ここで起こっているのは、いささか奇妙な事態ではあるまいか。これは純粋な探偵小説であって、犯人の精神にまで立ち入るのは、ニューロティックなサスペンスやサイコスリラーの登場まで待たなければならないという、ということはあるだろう。読者が求めるのはゲームであって、性格の深層をのぞき込むことにはない。
それにしても、『ウィッチフォード毒殺事件』で「物的証拠偏重主義を拝して、心理に重きをおいた作品をめざした」「意図したのは心理的探偵小説とでも定義できそうな小説」「献辞」)とまで豪語したバークリーが、そして、人生における主要な関心事が「犯罪学、人間の性格、うまいビール」(「ロジャー・シェリンガムについて」(『ジャンピング・ジェニイ』米版序文)というロジャーが、異常な犯人の心理に無頓着だったとは思われない。ロジャーのいう心理学は、フロイト流の精神分析的な手法のことではないという事情もあるだろう。
しかし、時代はもはやフロイトのものである。
3年後に出版された『殺意』には、こんな一節がある。
「コンプレックスとか抑圧とか病的執着というようなことばが世間の人の口にのぼるこのごろ、ビグリー博士が自分のことをそれと無関係だと思っているはずはなかった。』(『殺意』(創元推理文庫40p)
田舎町の医者であるビグリー博士だって、「インフェリオティ・コンプレックスのひどい患者くらい、ほかの医者に負けぬくらい即座に診断できる」(同)と思っているのである。
ロジャーも、けっして、フロイト流の精神分析的手法が念頭になかったわけではない。
容疑者の一人を前にして話を切り出しかねたロジャーは、こう言っている。
「「実は、いまフロイトを読んでいるところなんですが―」ロジャーは唐突に言った。
「とてもおもしろい本です。彼の著作を読んだことがありますか」」(123P)
容疑者は答える。「いや、残念ながら」 紳士はそう答えて、その話題をきっぱりと避けた(123p)。 残念ながら、実際に、ロジャーがフロイトを読んでいる場面はない。その手の議論は、それ以降、「きっぱりと」避けられる。
犯人が明らかになっても、−犯人の特性には別種の興味深い要素があるものの−結局のところ、その性格は「誇大妄想癖」といったところに帰着させられてしまう。物足りない。だが、この物足りなさ−ロジャーの分析が犯人の救いがたい性癖に立ち入らない−のには、たぶん理由がある。
5月28日(金) 献辞の謎
・(続)奇妙といえば、『絹靴下殺人事件』の冒頭の献辞がなかなか奇妙である。
「親切にも 暇をみてこの本を書いてくれた A.B.コックスへ」
無論、A.B.コックスは、バークリーの本名。20年代初期から、この名義でエッセイ等を書き出し、同名義の創作入門や、ユーモア・ファンタジー、ユーモアSFも出している、歴としたペンネームの一つでもある。自分で自分の本名(別名義)に献辞を捧げるというのは、常套を嫌うバークリーらしいユーモアではある。
ミステリの献辞について触れた一章がある小鷹信光『パパイラスの舟』の中では、献辞に自分自身の名を登場させた例が挙げられている。80作を超える小説等に献辞をつけまくったマイクル・アヴァロンが、女流ゴシック・ロマンライター、エドウィナ・ヌーン名義の作品の献辞に、「マイクル・アヴァロン」の名を出している、という。(直接、自らに捧げているわけではない)
小鷹氏は、「自作の献辞に自分の名前をあげた作家は、ちょっとほかに類をみません」と書いているから、誰もが思いつくかもしれないが、実例はなとんどない類の献辞だろう。
『絹靴下殺人事件』に先立つ長編の献呈先をみてみると、
『レイトン・コートの謎』は、探偵小説好きだった「我が父」へ
『ウィッチフォード毒殺事件』は、犯罪学に関する興味を共有した女流作家E.M.デラフィールドへ(後年の『被告の女性に関しては』も同)
『ロジャー・シェリンガムとヴェインの謎』は、チャールズ・ファーラー夫妻へ(不詳)
となる。
献呈先のネタ切れということではなかろう。後に、『殺意』を前妻に、『犯行以前(レディに捧げる殺人物語)』を新婚早々の二番目の妻に捧げるという、強烈なブラック・ユーモアを発揮したバークリーだけに、アントニイ・バークリー=A.B.コックスとして知っている人への気安い目配せということを超えて、この献辞には、何かがあると、疑ってみる価値はあるだろう。単に、自分自身への感謝の証として、本を捧げたのではなくて、代筆してくれたお礼として捧げているのも気になる。アントニー・バークリー作として出る本の冒頭に、真実の執筆者に礼を述べるという謝辞の、この転倒性。A.B.コックスとは、一体「だれ」なのかが問われなければならない。
5月25日(火) 『密室犯罪学教程』
・日下三蔵編・天城一著『密室犯罪学教程』(日本評論社/2800円)をやっと購入。私家版の『密室犯罪学教程』全文と摩耶正物の短編10編を収録。他に「密室作法」(改訂)、自作解説、天城ワールドを覗く(山沢晴雄)、編者解題を収録。「永の漂白」(あとがき)の末の初単行本化、快挙!というしかない。「教程」、短編の大部分は既読だが、改めて味読したい。
・山田風太郎忍法短編全集2『野ざらし忍法帖』(ちくま文庫)。ボーナストラックは、水木しげる画「大いなる幻術」。他にグーディス『ピアニストを撃て』(ポケミス)購入。
5月18日(火) お仕置きと女の靴
・色眼鏡でもって観ると不思議なもので、例えば、バークリーの第2作『ウィッチフォード毒殺事件』の中の、本筋に関係ない、ある場面が気になってくる。
第7章の冒頭のシーン。探偵チームの一角を占める若い女性シーラは、ロジャー・シェリンガムの友人であるアレックに「お仕置き」をされる。親戚同志で幼い頃からの知り合いの二人の親密さを現したシーンであり、お仕置き(「じゃじゃ馬馴らし」とも呼ばれる)自体もシーラの両親やシェリンガムの目の前で行われるのだが、1頁半にわたるこの場面は、ユーモラスというにはやや常軌を逸しているようにも思える。(同書の解説子は、「シーラに対する「お仕置き」などは、今日の目から見ると、少々困惑させられるものがある」と書いている)シーラは、体をヘアピンのように曲げられクッションの山の中に頭を突っ込まれて、激しく抵抗する。しまいには、ドレスは裂け、「緑色の絹のストッキングを丸見えにして」お仕置きは終わる。まるで、この場面は、シーラの絹の靴下を見せるためだけに仕組まれたようみえてくるのである。
さらに、色眼鏡を濃くしてみると、第3作『ロジャー・シェリンガムとヴェインの謎』で、女の靴が作中の重要な手がかりとなっていたことまで、なにやら意味深に思えてくる。ちなみに、物語のヒロイン格のマーガレットは、(ワトソン役のアントニイにとって)「手首や足が華奢なところも好みだった」と描写される。『被告の女性に関しては』のミセス・ポールと同じ特徴で、少なくとも、バークリーの好きな女性タイプを反映しているとはいえるだろう。
で、本題の、第4作『絹靴下殺人事件』である。この作では、途中まで、言及されるべきところが言及されていないようなもどかしさがある。
5月17日(月) 絹の靴下
・トリュフォー、シド・チャリシーときて、アントニイ・バークリー『絹靴下殺人事件』(晶文社)に繋げようと思っていたのだが、随分時間が経ってしまった。先頃完訳なった『絹靴下殺人事件』を読む前に一種の予断のようなものがあって、それは、バークリーは、女の脚信奉者の一人だったのではないか、ということ。その片鱗は、後年の『被告の女性に関しては』(晶文社/白須清美訳)の印象的なシーンに、かなりあからさまな形で出てくる。
主人公の青年アランは、物語の半ば、秘かに惹かれている医師の妻ミセス・ポールと二人きりになった場面で、彼女の「絹のように滑らかな足首が交差され」ているのに触発され、「あなたの足はとても可愛いんですね」と女の脚談義を仕掛ける。夫人との親密な次第に大胆になったアランは、脚を見たい告げると、ミセス・ポールはピンクのシフォンのひだを膝までたくし上げる。アランは、「完璧だ」とつぶやき、さらに脚談義が続く。アランの絹靴下への信仰も語られる。
「「脚の形を引き立てるのに、絹の靴下に勝るものはありませんね」アランはさらに続けた。「まるで照明を当てたようじゃありませんか。絹の靴下の輝きには、ひどく惹きつけるものがある。それに、穿き心地もとてもいいんでしょうね。この滑らかな手触りにはまったく驚かされる」」(188p)
夫人も、「ええ、絹の靴下に勝るものはないわ」と相づちを打つ。
「穿き心地もとてもいいんでしょうね」といったアランが、医師に決定的な一撃を加えて、殺人犯として逃走する際に、夫人の衣裳をまとって女装せざるを得ない皮肉な運命に陥ることになる。ここでは、夫人のストッキングき、胸パットの代用として使われたりもする。
物語の前の方で、夫人は、若い頃にテニスの練習中、足首を挫いて、いまだに治っていないこと、そのせいでテニスの試合に出場できなかったことが「人生で一番落胆した出来事」だったことが言及されており、夫人の脚は彼女の性格設定にも大きな関わりがあるらしいことが窺える。 こうした女の脚−とりわけ絹の靴下−への言及を前に置いてみたとき、堂々たる本格ミステリ『絹靴下殺人事件』は、その貌を少し変化させるかもしれない。
5月12日(木) 少年物リスト改訂
・ひー久しぶりの更新。
・既に掲示板で、ご案内のとおり、安達さん(旧・おげまる)さん作成の少年探偵小説リストが、佐山さん提供になる大量のデータを加え、大改訂となった。
新たに追加されたデータは、ざっと数えて670件を越える。1300件を越える元データに加え、2000件近い膨大なリストとなった。(一部、他サイト等に委ねられた項目があり単純な足し算とはならないが)《大河内常平》《笠原卓》《小酒井不》《中田耕治》《藤木靖子》が新たに加えられたほか、
江戸川乱歩関連作品(81編→110編)、梶龍雄(15→31)、加納一朗(8→127)、柴田錬三郎(7→43)、城昌幸(4→25)、武田(21→69)、氷川朧(18→74)、山村正夫(37→62)等面目を一新した項目も多い。ビッグネームでも、例えば鮎川哲也では、新たに「あなたは名探偵になれるか」「黄色い切手」という作品が追加された。
特定の作家を愛好している方にとってはもとより、オルタナティブな探偵小説史として、児童文化研究の資料として、戦後の雑誌文化の一側面を体現するデータとして、貴重なものになっているものと思う。それにしても、地を這うような地道な作業により、データを渉猟し、まとめられた安達さん、佐山さんの苦労はいかばかりか。ひたすら敬服するのみである。
4月17日(土) シド・チャリシーの3本
・美脚といえば、最近ミュージカル映画を立て続けに何本か観たのだが、先日観た『雨に唄えば』のラスト・ナンバー「プロードウェイ・メロディ・バレエ」に登場するシド・チャリシーの長い脚は、鮮烈だった。AMAZONに掲載されている『雨に唄えば』のカスタマー・レヴューには、「私はズッとシド・チャリシーばかり観てました」というのがあって、笑ってしまったのだが、かくも有名な映画の中で、最後のナンバーにしか出演していないシド・チャリシーの肢体とダンスに釘付けさせられるのは、紛れもない事実なのである。バレエ出身のこの女優は、フィルム・ノワールの犯罪的美女群を扱った最良の手引き、山田宏一『新編 美女と犯罪』においても「暗黒街の女、シド・チャリシー」として一章が割かれており、フィルム・ノワール的ニュアンスにも富んだ女優でもある。同書によれば、シド・チャリシーは、ディートリッヒやベティ・グレーブルの「百万弗の脚」に対して「二百万弗の脚」と呼ばれたといい、当時の人気のほどが窺える。
「プロードウェイ・メロディ・バレエ」の中で、ジーン・ケリーが落とした帽子を椅子に座ったシド・チャリシーが脚の先ですくい取って挑発的に眼の前につきつける、均整のとれた長い脚が強烈な印象を残すが、最近観た『教授と美女』や『レディ・イブ』におけるバーバラ・スタンウイックにも似たようなシーンがあって、脚自慢の女優の決めポーズだったのかもしれない。
というわけで、シド・チャリシーの出ている3本を。いずれも、MGMミュージカルを牽引した検印アーサー・フリード製作。
・『雨に唄えば』('52・米) ☆☆☆☆☆ DVD
監督ジーン・ケリー スタンリー・ドーネン 主演/ジーン・ケリー デビー・レイノルズ
ジーン・ケリーが土砂降りの中で唄い踊るシーンがあまりにも有名だが、サイレントからトーキーへの以降期の映画界を舞台にした、映画をつくることに関しての映画(メタ映画)でもある。トーキーに適応できない俳優たちを素材にした闊達なストーリー展開を縫うように、魅惑の歌とダンスが弾けまくってり、汲めども尽きぬ楽しさを保証する。ラストの17分に及ぶ「プロードウェイ・メロディ・バレエ」のシークエンスは、一編の映画を思わせる素晴らしさだ。
・『プリガドーン』(54・米) ☆☆☆ DVD
監督/ヴィンセント・ミネリ 主演/ジーン・ケリー ウァン・ジョンソン シド・チャリシー
百年に一度だけ姿を表すスコットランドの村に迷い込んだアメリカ人が、村の娘(シド・チャリシー)と恋に落ちて。村に悪が侵入するのを恐れた聖職者の魔法によって、この村の一日は、この世の百年に相当するのだ。18世紀の民族衣装に身を包んだシド・チャリシーが長いスカートを体の一部でもあるかのように優雅に踊る。セットの中の「スコットランド」は、今の眼からするとややつらいかもしれないが、村を去ったジーン・ケリー戻った現代のニューヨークのシーンは、なかなか鮮やか。百年に一度しか姿を表さないはずの村が、再びその姿を表す理由は、観てのお楽しみ。
・『絹の靴下』('57・米) ☆☆☆★ ビデオ
監督/ルーベン・マムーリアン 主演/シド・チャリシー フレッド・アステア グレタ・ガルボ
『ニノチカ』('39)のミュージカル舞台劇版の映画化とのこと。元の映画は、ルビッチ監督、ビリー・ワイルダー&チャールズ・ブラケット脚本の強力布陣。アメリカ資本の映画の音楽を引き受けたソ連の高名な作曲家を奪還するために、ソ連共産党の女工作員ニノチカはパリに潜入するが・・。党の申し子、笑わぬ女工作員シド・チャリシーに恋の揺さぶりをかけて、変心(変身)させていくのがアステアであり、バリの魅惑である。絹の靴下は、西側の自由と生の謳歌の象徴であるという訳。アステアとの愛に目覚め、シド・チャリシーがホテルの部屋で、一人踊りつつ艶やかに変身していくシーンは、素晴らしいの一言。ソ連共産党の本部で、本部員たちがジャズナンバーで踊るシーンをはじめ、全体主義をからかった強烈なギャグに満ちている。怪優ピーター・ローレの踊りがみられるのも楽しい。
シド・チャリシーは、ミュージカル衰退と同じくして人気も低迷し、以後、ナイトクラブなどに出演していたという。