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しぶけん
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2004/10/09 23:46:49 |
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どこで聞くかによって回答が違うでしょうね。ここで聞けるのは、日蓮正宗が正しいというお話しだけですので悪しからず。
大聖人様の肉声を聞く事ができれば、間違う事はないのでしょうけれども、残念ながらそうもまいりません。また、大聖人様の遺された多くの論文やお手紙(御書と総称いたします)がありますけれども、それも流派ごとによって都合良く解釈されていて、素人には見分けが付かないから困ったものです。
南無妙法蓮華経のお題目は日本中に知れ渡っています。子供でも、「なんみょ〜ほ〜れんそう」などといってふざけているぐらいです。この南無妙法蓮華経を、末法の衆生の実践的な修行方法として打ち立てられたのが、鎌倉時代に御出現あそばされた大聖人様です。要するに「南無妙法蓮華経」の元祖が日蓮大聖人様ということです。
では「南無妙法蓮華経」って、そもそも一体、何なのでしょう。一般的に解釈をすれば、妙法蓮華経に南無し奉りますという意味です。南無は帰命(きみょう)の意ですが、簡単に訳せば命を懸けて無二に信じるという強い信仰心の表明です。ですから、南無阿弥陀仏とか、南無観世音菩薩とか、南無八幡大菩薩のように、本人の信仰の対象に対して南無するのです。ですから、お題目は「妙法蓮華経の仏様」に対して南無し奉りますという意味なのです
次に、問題になるのは「妙法蓮華経の仏様」とは誰かということです。真っ先に思いつくのは、印度で法華経を説かれたお釈迦様です。でも本門の釈尊ならば、南無釈迦牟尼世尊とお唱えするべきで、誰かさん達のように釈尊像等を祀って南無妙法蓮華経というのは、佐藤さんに向かって鈴木さんと呼びかけているようなもので、仏様に対して失礼千万です。大聖人様の御図顕された曼荼羅に、南無妙法蓮華経とは別に南無釈迦牟尼世尊としたためられていることからも、「妙法蓮華経の仏様」≠お釈迦様は明らかで、そうでなければ脇士の筋目を混乱してしまいます。
結論を述べれば、寂日房御書に「日蓮となのる事、自解仏乗(じげぶつじょう)とも云いつべし」と説かれてあるように、法界を御所持遊ばされる御本仏の御自覚において地水火風空の本有の五大を束(つか)ねて、中央に南無妙法蓮華経 日蓮(花押)としたためられたのが曼荼羅であり、「妙法蓮華経の仏様」とは末法のそして久遠元初の御本仏である日蓮大聖人様の御事なのです。そして、御入滅の後の末法万年の衆生救済を慮(おもんぱか)られて、人即法(南無妙法蓮華経)・法即人(南無日蓮大聖人)の御当体を「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり」(草木成仏口決)とて遺されたのです。
ごく初期の曼荼羅は、題目の左右に釈迦如来・多宝如来の二尊を配しただけの相貌ですが、建治年間から弘安年間に向けて、世に十界互具曼荼羅として知られる為体(ていたらく)が整足されました。特に、大石寺においては「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし」(日興跡条々事)として、代々の法主上人に相承される弘安二年十月十二日の板曼荼羅を本門戒壇の大御本尊と称し奉り、『聖人御難事』に宣言されるところの宗祖出世の御本懐たる人法体一の御法体として信仰し申し上げているのです。
長くなりましたので、今回はこの辺で終わりにしておきますが、南無妙法蓮華経とは何かと考えるときに、題目であるというところから入ると法体に迷うのです。あくまで、本尊(一大秘宝→三大秘宝)であるというところから入ることが肝心です。
めろんぱんさんの御質問は、最もシンプルですが最も重要なことなのです。ただし、私は僧侶ではありませんし、不特定多数の方がご覧になられている掲示板であるという危険性もあって、一定のライン以上にかみ砕いて簡単に述べるのは困難です。法華講員のお知り合いがいらっしゃるのでしたら、その方を伝手(つて)にして正宗の僧侶から話しを聞く機会を持たれることを強くお勧め致します。
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