BACK_HOMEトップのページ   BACK世界史のページ   年表1年表1に戻る

エジプトの新王国時代


 エジプトの新王国時代は、第18王朝から第20王朝までで、BC1570年ころからBC1090年ころである。


第18王朝
 テーベ侯のセケネンラー王やその子カメス王などがヒクソスに抵抗していたが、ついにBC1570年ころ、テーベ侯アフモス(アフメス)Ahmose がヒクソスの根拠地アヴァリス市を制圧し、ヒクソス人をデルタ地方から追い出して、第18王朝を開いた。アフモスの軍隊は、ヒクソスから学んだ馬と戦車の戦法を用い、短剣・こん棒・槍・弓矢・楯で武装していた。アフモスは、ヒクソスを追ってパレスチナに進出し、また南方地域もおさえた。

 この王朝は、軍国主義的で国王は同時に将軍として、馬と戦車で装備された軍隊を指揮した。地方の知事や貴族の勢力はヒクソス人の手で一掃されていたので、中央集権化は容易に進められたが、その反面多数の官僚が出現することになった。国王は神として君臨し、エジプト全土を原則として所有し、租税として収入の1/5を徴集した。王権の強化と平行して、王権に宗教的な裏付けを行っていったため、首都テーベの市神アメンの神殿や神官も富強となっていった。

 第3代の王トトメス1世は、南方ではナイル河の第4急湍までをおさえ、アジアでは北シリアからユウフラテス河畔まで軍隊を進めた。エジプト人は、この河がナイル河とは逆に南へ流れるのをみて驚いた。

 第4代の病弱な王トトメス2世女王ハトシェプストは、国内統治に力を入れ、平和外交や神殿の造営修築を行った。女王ハトシェプストは、「上下エジプトの女王」「女のホールス」という称号を用いた。
 テーベの西郊デル・エル・バハリには、中王国時代第11王朝のメントゥヘテプ2世とその子メントゥヘテプ3世が造営した神殿があったが、その隣に、ハトシェプスト女王の神殿を造営した。
LINK Travel photos EarthAfricaEgyptTemple of Hatshepsut

 第5代の王トトメス3世は、積極政策に転じた。最初の遠征で先頭にたって進撃する勇猛果敢な王で、20年間に17回の親征を行った。シリア、パレスチナ、ユウフラテス河上流のミタンニ、南方のヌビアへ軍を進めた。
(注:現代の歴史学者のなかには、「古代エジプトのナポレオン」と評する者もいる。)

 第6代の王アメンヘテプ2世も剛勇の人で、外征を行った。彼のころには、エジプトの首都テーベはオリエントの中心都市として栄え、各国から人が集まり、豊かな物資が運び込まれた。


 アメンヘテプ4世は、強大となっていたテーベの市神アメン神の神官勢力を排除するため、首都テーベを捨て、テーベの北360キロに新しい都アケタトン(テル・エル・アマルナ)を建設した。アメン神の崇拝を禁止し、日輪の神(太陽神)アテンを唯一神として信奉した。自らの名もアメンヘテプ(「アメンは満足する」の意)から、アケナテン(「アテンによりてかがやくもの」の意)に改めた。宗教改革を断行し、伝統にとらわれない真実を愛した。芸術も伝統にとらわれない、写実的なものが隆盛した。アマルナ芸術と呼ばれる。「王妃ネフェルティティの胸像」が、その代表作といえる。
LINK Travel photos EarthAfricaEgyptBust of Nefertiti

 このころ、シリア、パレスチナの諸侯が反乱を起こし、ヒッタイトやアッシリアの動きがめだってきたが、アケナテン王は戦いを嫌い、ひたすらアテン神に祈りをささげた。国内の反対勢力から糾弾にあい、国中に不満の声がわきおこって、宗教改革の理想は約10年で挫折した。王は、家臣に裏切られ、最愛の妻とも別居し、失意のうちに病死した。
(注:1887年に、アマルナから外交文書を主とする楔形文字の粘土板(アマルナ文書)が発見され、当時の外交関係を知る貴重な史料となった。)

 アケナテン王(=アメンヘテプ4世)の婿養子トゥタンカテン王が即位したが、アメン神官の勢力に抗しきれず、即位後まもなくテーベにもどり、名前もトゥタンカメン(「アメンの生ける像」の意)に改めた。
 この王は、幼少のころは個性の強いアケナテン王のもとにあり、その後をうけ10歳で即位したが、18歳でこの世を去っている。即位後もアメン神官の強い圧力のもとにあり十分な意思表示を行えなかったであろう。その事跡も伝わっていない。
 王の死後、妃のアンケセナメンは、ヒッタイト国の王子を婿に迎えて対抗勢力を抑えようとしたが、王子は旅の途中で暗殺された。
(注:トゥタンカメン王は、王墓が盗掘されないままの状態で発見され、大きな話題となった王である。)
LINK Travel photos EarthAfricaEgyptMask of King Tutankhamun

 トゥタンカメン王についで、年老いたアイ王が即位したが、すでにエジプトは外地の大半を失い、国力も底をついてしまった。



第19王朝
 BC1305年ころ、国民の要望に応えて将軍ハレムハブが即位し、第18王朝のアイ王の後をついで第19王朝を開いた。

 第19王朝初期のそれぞれの王が失地回復を図り、たびたび西アジアへ出兵したが、南下するヒッタイト国と衝突し、戦局はおもわしくなかった。ラメセス2世が、BC1285年にヒッタイトと戦ったカデシュの戦いは、くわしい記録が残っており特に有名である。
 いくども戦いを繰り返したのち、平和条約が結ばれた。のちに、ラメセス2世は、ヒッタイト国の王女を第一婦人に迎えている。

 ラメセス2世の治世は67年におよび、後半生は平穏であった。アジアとの交渉に便利なように下エジプトのタニスに移ったほか、アブ・シンベルの岩窟神殿をはじめとする多くの神殿を全国各地に造営した。また、多くの妻妾をもち、男子79人、女子59人の子をもうけたと伝えられる。
LINK Travel photos EarthAfricaEgyptTemple of Abu Simbel

 ラメセス3世のころ、穀物の価格があがってインフレがひどくなり、墓地労働者が食料の給付が遅れていることに抗議してストライキを行ったという記録がある。
 ラメセス9世のときには、王陵の谷を荒らした墓泥棒の盗賊団が処刑されたが、取り締まりにあたるはずの官憲まで一味に加わっていたという。
 宮廷での政権争いが激しくなり、政界は腐敗し、社会不安がつのった。


第20王朝
 第20王朝の後半には、シリア、パレスチナでの利権を失い、デルタ地帯に「海の民」(アカイア人やリュキア人などかと思われる諸民族の混成軍)が来襲し、また西方からはリビア人が侵攻した。エジプトは守勢の一方であった。


末期王朝時代へ
 BC1090年ころ、下エジプトのタニスに新政府ができて第21王朝を立てるが、上エジプトはテーベの神官王が支配した。エジプトは分裂し、衰退と混乱へ向った。



【参考ページ】
エジプト文明(初期王朝時代)
エジプトの古王国時代
エジプトの第1中間期
エジプトの中王国時代
エジプトの第2中間期
エジプトの新王国時代
エジプトの末期王朝時代


【LINK】
LINK 大英博物館ミラーサイト(日本語)古代エジプト地形図

LINK A VISUAL HISTORY OF ANCIENT EGYPT





参考文献
「世界の歴史2 古代オリエント」岸本通夫ほか著、河出文庫、1989年
「新訂版チャート式シリーズ 新世界史」堀米庸三・前川貞次郎共著、数研出版、1973年


更新 2003/3/16

  <広告>


 BACK_HOMEトップのページ   BACK世界史のページ   年表1年表1に戻る