終戦直後の日本![]() 西尾幹二著「決定版 国民の歴史 下」(文春文庫、2009年)p339 から引用します。なお、引用文中の(注)と太字は、当サイト管理人が施したものです。 |
私(注:著者の西尾幹二氏。)より三歳上の文芸評論家・桶谷秀昭氏も、私とのある対談の中で、日本の戦争の終わり方は予想に反していたと語った。「つまりああいう形で負けるとは考えていないですね。本土決戦やって、日本人が一千万死ねば、アメリカも百万ぐらいは死ぬだろう。そういう形で長期戦になって、要するに痛み分けみたいに持っていけばいいと思っていたんです」(『正論』平成九年五月号)。国民はみなそう考えていたから、特攻隊の若者は一足先に死出の旅路に疾走していくことができたのだった。日本政府を動かしていたたったひとつの動機は「国体の護持」だった。そして国民も例外なくそれを支持していた。 このような状況が八月十五日になって、突如、なんの前触れもなしにポツンと途切れてしまったのである。ポカーンと呆気にとられた空虚感だけが国内を蔽ったというのは想像にかたくない。国民のみなさん、今日から平和ですよ、といわれてもピンとはこない。アメリカ軍が占領してくるといわれても、正体不明なものへの恐れしか感じようがない。 |
(関連資料)![]() ![]() |
西尾幹二著「決定版 国民の歴史 下」(文春文庫、2009年)p344-345 から引用します。なお、一部の旧漢字で、そのままパソコンに置き換えできなかったものがあり、近い文字を使用したものがあります。 また、引用文中の(注)と太字は、当サイト管理人が施したものです。 |
いま私(注:著者の西尾幹二氏。)の目の前には、終戦直後の『讀賣報知』二十一日分がある。昭和二十年八月二十八日から九月九日までと、九月十二日から十九日までである。昔の新聞を読むことには尽きせぬ興味がある。ことにこの時代の新聞には興味以上のものがある。 八月二十九日には日本との戦争終結はただちに「なほひとつの戰爭問題を残した、それは支那の内乱であり、又内乱に對する米英ソ三國の『政治的』干渉の可能性である」というリスボン発同盟(注:同盟=同盟通信社)の文面が載っていて、待っていましたとばかりの国際政局の新動向を示唆している。マッカーサーの厚木到着の翌日三十一日の広告欄には、「お待兼ね劇團輕喜座 伴淳三郎一座、淡谷のり子と大山秀夫樂團 淺草花月劇場」というのと、「日響定期公演 尾高尚忠、佐々木成子 Rストラウス歌曲、ベードーヴエン第三 日比谷公會堂」というのが載っている。日本のもうひとつの顔がいち早く動き出していることを示す。 九月十四日のコラムには、次のような面白い記事もある。六大学リーグ戦と職業野球を復活させ、進駐米軍と試合させたらどうか、という提案である。「感情の融和であり相互の理解」のためなら、神宮球場の農園を廃止してもよいではないか、と書かれてあることから、当時の神宮球場が野菜畑であったことを知る。 同日の一面には、十二日に第一総軍司令官杉山元元帥が自決した報が発表されている。十一日には東條英機大将が自決に失敗している。時代はまさに混沌たる渦を巻いて動いていたのである。当時の日本人は目の前のあわただしい奔流に接し、ただ呆然と立ち尽くすばかりであったであろう。 |
【LINK】 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 【参考ページ】 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 参考文献 「決定版 国民の歴史 下」西尾幹二著、文春文庫、2009年 更新 2014/9/16 |
![]() |