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1945年 ヤルタ会談(米英ソ)


 ヤルタ会談に先立ち、1945年1月30日〜2月3日に、地中海のマルタ島で、アメリカのF・ルーズベルト大統領(注:ルーズベルト自身の到着は2月2日)と、イギリスのチャーチル首相が、会談を行っている(マルタ会談)。(出典:LINK マルタ会談 (1945年) - Wikipedia
 マルタ島からクリミア半島のヤルタへ移動する際、イギリスの軍用機2機のうちの1機が墜落しているという。(出典:堤 堯(つつみ ぎょう)著「魔都・上海の街で考えたこと㉒(注:22)」(「WiLL 2014年2月号」所収)p311 )

 ヤルタ会談は、1945年2月4日〜11日に、ソ連のクリミア半島のヤルタ近郊(リヴァディア宮殿)で、F・ルーズベルト大統領、チャーチル首相、ソ連のスターリンによって、会談が行われた。
 この会談では、第二次世界大戦でのソ連の対日参戦と日本領土の処遇、ドイツ降伏後(注:実際のドイツ降伏は、3か月後の1945年5月8日。)のヨーロッパにおける戦後処理、国際連合の設立(常任理事国の拒否権を含む)、などが話合われた。(出典:LINK ヤルタ会談 - Wikipedia
 この時のF・ルーズベルトは、かなり病み衰えていたらしい。(出典:堤 堯(つつみ ぎょう)著「魔都・上海の街で考えたこと㉒(注:22)」(「WiLL 2014年2月号」所収)p308、 および LINK フランクリン・ルーズベルト - Wikipedia の「その他」の項 )
 また、アメリカ側の団員のなかに、2人のソ連のスパイが含まれていたことが判明しているという。アルジャー・ヒス(大統領顧問)とロークリン・カリー(特別補佐官)である。(出典:堤 堯(つつみ ぎょう)著「魔都・上海の街で考えたこと㉒(注:22)」(「WiLL 2014年2月号」所収)p308-309 )

 このヤルタ会談を受けて、ヤルタ協定が結ばれた(1945年2月11日)。その内容を要約すると、次のとおり。(出典:LINK 国立国会図書館電子展示会日本国憲法の誕生資料と解説憲法条文・重要文書ヤルタ協定 を基に、当サイト管理人が要約しました。 )
 三大国(ソ連・アメリカ・イギリス)の指揮者は、ドイツが降伏してヨーロツパの戦争が終結した2か月または3か月後に、ソ連が次の条件で対日参戦することを協定した。
 @外蒙古(モンゴル人民共和国)は現状を維持する。
 A1904年の日露戦争で侵害されたロシアの旧権利は次のように回復する。
  (イ)樺太の南部とこれに隣接する島嶼はソ連に返還する。
  (ロ)大連商港におけるソ連の優先的利益を擁護し、この港は国際化すべく、また、ソ連の海軍基地として旅順口の租借権を回復する。
  (ハ)東清鉄道と大連に出口を供与する南満洲鉄道は、中ソ合弁会社の設立により共同に運営する。ただし、ソ連の優先的利益は保障し、中華民国は満洲における完全な主権を保有する。
 B千島列島はソ連に引渡される。
 前記の外蒙古と港湾・鉄道に関する協定は、蒋介石の同意を要する。大統領(注:米国?)はスターリンからの通知によりこの同意を得るための措置を執る。
 三大国の首班は、ソ連のこの要求が日本国の敗北後において確実に満足されるべきことを協定した。
 ソ連は、中華民国を日本国の覊絆(注:きはん。≒束縛)から解放する目的を以て、自己の軍隊により援助を与えるため、中華民国と友好同盟条約を締結する用意がある。
  1945年2月11日
  ジェー・スターリン
  フランクリン・ディー・ルーズヴェルト
  ウィンストン・エス・チャーチル

 なお、日ソ中立条約(効力発生は、1941年4月25日)の有効期限は批准後5年で、1946年4月25日まで有効であった。この条約は、期間満了の1年前までに廃棄通告がない場合には、次の5年間が自動延長される内容で、途中破棄に関する規定はなかった
 ソ連は、1945年4月5日に、延長しない旨の通告を行い、同1945年8月8日に、日本へ宣戦布告した。このソ連の対日参戦は条約違反だと、当サイト管理人は考えます。
 日本政府は、ソ連から条約を延長しない旨の通告があった後も、ソ連の仲介による和平工作を依頼している。
LINK 日ソ中立条約 - Wikipedia
LINK 日本の降伏 - Wikipedia の「終戦工作」の項
LINK 中野文庫―儀典と法律の総合ウェブページ―日本語総目次条約・協定・議定書大日本帝国及「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦間中立条約 (日ソ中立条約の条文)

 また、LINK ヤルタ会談 - Wikipedia の「極東密約(ヤルタ協定)」の項のなかに、次の記述がある。
『なお、1956年に共和党アイゼンハワー政権は「(ソ連による北方領土占有を含む)ヤルタ協定はルーズベルト個人の文書であり、米国政府の公式文書ではなく無効である」との米国務省公式声明を発出している。また、アメリカ合衆国上院は、1951年のサンフランシスコ講和条約批准を承認する際、決議において「この承認は合衆国としてヤルタ協定に含まれているソ連に有利な規定の承認を意味しない」との宣言を行っている[8]。』
『脚注8 北方領土問題の経緯【第4版】[1] (PDF) P.4(国立国会図書館、2011. 2. 3.)』

LINK 産経ニュース【ヤルタ密約秘話】英外務省、露の北方領土領有の根拠「ヤルタ密約」に疑念 「ルーズベルト米大統領が越権署名」 外交公電で全在外公館に警告(2016年12月5日付の記事)
 この記事によると、米英ソ3カ国が1946年2月11日にヤルタ密約を公表する2日前の1946年2月9日、英国外務省は在外英公館54カ所に外交電報を打っており、その内容にはヤルタ密約内容の文書が含まれるほか、米英ソ3カ国政府がヤルタ合意から1年後にあたる1946年2月11日にそれぞれの議会で合意文書を発表するとしていたことが記されており、さらに、「ルーズベルト大統領が権限を越えて署名したことや、米上院の批准もない状況下での有効性について米国内で論議が起こるかもしれない」として「(英国は)その議論に巻き込まれないよう注意すべきだ」と警告している。


 堤 堯(つつみ ぎょう)著「魔都・上海の街で考えたこと㉒(注:22)」(「WiLL 2014年2月号」所収) p308-311 に、次の記述がある。なお、引用文中の小見出し以外の太字(注)は、当サイト管理人が施したものです。
(前略)
 マルタ島で出迎えたチャーチルは、FDR(注:フランクリン・D・ルーズベルト)のあまりの衰弱ぶりに驚く。これに先立つカサブランカ、テヘラン会談のFDRに比べて大違いだ。これから手強いスターリンを相手の交渉に、相棒としてはいかにも心許ない。二人はスターリンを「アンクル・ジョー」と呼んでいた。FDRはチャーチルに書き送っている。
「私のほうがジョー伯父さんをうまく扱える。彼は貴国の要人すべての心根を嫌っています。私のほうを好ましいと考えています……」
 駐ソ大使アベレル・ハリマンはFDRに書き送っていた。いまや「ロシアの熊」は「世界の悪漢」に変じようとしている、と。しかし、FDRはスターリンの扱いに自信を持っていた。あにはからんや、自分の政権内部に、スターリンが複数のスパイを忍び込ませていることに気づかない。そのうちの二人、アルジャー・ヒス(大統領顧問)とロークリン・カリー(特別補佐官)を、それと気づかずにFDRは今回の会談(注:ヤルタ会談を指す。)同行させている。
 ちなみにヒスはこの五年後、マッカーシー上院議員が主導する「赤狩り裁判」で、偽証罪で五年の懲役刑を科された。ソ連にシンパシーを持つ世界中の左派知識人(レーニンにいわせれば「利用すべき阿呆ども」)が「ヒスを救え!」と叫んだが、のちに発掘・公開された「ヴェノナ文書」は、ヒスが永年、ソ連のGRU(秘密情報機関)のスパイだったと記している。
 一方のカリーは「フライング・タイガー部隊」の起案者だ。これは米空軍から「義勇兵」を募り、中国軍機に擬装した爆撃機を連ねて日本の主要都市を空爆するプランで、FDRはこれを裁可している。欧州戦線に爆撃機を回す必要が生じて実施には至らなかったが、以下の推測が可能だ。
 このプランの情報は、カリーからモスクワ→狸穴(まみあな)(注:東京の麻布狸穴町)のソ連大使館→ゾルゲ尾崎秀実(ほつみ)の手にわたり、二人はこれを「ボヤボヤしていると日本の主要都市が爆撃されるぞ」などと、「南進論」を促す刺激剤として使ったと思われる。だとすれば、廟堂(びょうどう)は尻に火が点いたような焦燥に駆られる。のちにカリーはFBIの追及を逃れ、コロンビアに亡命した。
 そんな二人(注:アルジャー・ヒス、ロークリン・カリー)が身近にいようとは、FDRは思いもしない。以後、このヤルタ会談で常にFDRの斜め後方に控えるヒスの写真が残っている。この会談は、言うなら三人(注:F・ルーズベルト、チャーチル、スターリン)のプレーヤーによるポーカー・ゲームだ。FDRの背後で手の内をスターリンに教える裏切り者がいようとは、さすがのチャーチルも気づかない。会議の進行に合わせてする英米側の打ち合わせも、ジョー伯父さんにすれば先刻ご承知のはずだった。
 一方、チャーチルスターリンについてこう言った。
「ワニを手なづけるようなものだ。顎の下を撫でるべきか、頭をブン殴るべきか、よく分からん。奴が口を開けると、微笑もうとしているのか、こっちを食おうとしているのか、まったく分からんのだよ」
 チャーチルは自らを「ロシアの熊とアメリカの象に挟まれたライオン」と位置づけていた。一番の心配事は、FDRとスターリンが組んでイギリスの権益を剥ぎ取るのではないか、その兆候は先のテヘラン会談(四三年十一月)の折に兆(きざ)している。FDRは何かとチャーチルを冗談のタネにスターリンを笑わせた。その冗談にはどこかトゲがあり、チャーチルは内心、それにウンザリしていた。

金の羊毛を求める旅
 思えば四一年八月、大西洋憲章を世界に向けて発表した二人(注:F・ルーズベルト、チャーチル)は、イギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズの甲板上で、声を合わせて「進め!キリスト教徒の兵士たちよ」を歌った。
「そのひと言、ひと言が私の心を駆り立てた。それはまさに人生の栄光の時だった」
 それから四ヵ月後、真珠湾攻撃の報を得たチャーチルは飛び上がって喜んだ。そこへFDRから電話がかかってくる。
「われわれは同じ船に乗りましたぞ」
 その直後、チャーチルホワイトハウスを訪れて十二日間の長逗留をした。一夜、部屋の風呂に浸かっているところへ突如、FDRがやって来る。風呂から飛び出したチャーチルはフルチンでFDRの前に立ち、大手を広げて言った。
「ご覧ください、大統領閣下。これこのとおり、わがイギリスは閣下に何の隠し事もありません」
 二人で大笑いしたときの打ち解けた気分は、いまやない。戦いも終盤にさしかかり、その帰趨が見えてきたいまとなれば、話は別だ。チャーチルにすれば、アメリカによってやむなく剥ぎ取られたイギリスの権益を少しでも取り戻さなければならない。
 加えて、日本によって壊滅状態にされたアジアにおけるイギリスの権益も取り戻さなければならない。さらには、西ヨーロッパの復旧と自由の確保も喫緊の課題だ。問題は東ヨーロッパで、とりわけポーランドは焦点だ。そもそもイギリスは、ヒトラーのポーランド侵攻を理由に、この戦争に参戦した。そのポーランドはいまやソ連の手中にある。少なくとも、この国の自由選挙をスターリンに認めさせないことには、何のための参戦だったのかとなる。
 様々の課題を抱え、チャーチルの一行は二機の軍用機に分乗し、いまだドイツ軍の支配下にある空域を冒してヤルタに飛んで来た。チャーチルは、このヤルタ会談の暗号名を「アルゴナウテース」と名付けた。ギリシャ神話の英雄イアソンがアルゴー船で船出し、様々な危険を冒して金の羊毛を探し求める旅に因(ちな)んだ。
 まさにチャーチルにすれば、「金の羊毛」を求める旅だった。途上、二機のうち一機は悪天候のために墜落炎上、全員死亡する事故に見舞われている。もしチャーチルがその一機に乗っていれば、以後の歴史は少しは変わったかもしれない。
(後略)


【アメリカの戦争計画】
 詳しくは、 1941年 日本軍が真珠湾を攻撃(大東亜戦争(太平洋戦争)へ、〜1945)【アメリカ側の状況】の項を参照のこと。
・1940年10月7日、アーサー・マッカラムが、8項目からなる挑発計画書を、上司を通じてルーズベルトに提出した。
ロバート・B・スティネット氏が、彼の著書「真珠湾の真実 ― ルーズベルト欺瞞の日々」(日本語訳は文藝春秋、2001年)で暴露したマッカラムの挑発計画書である。
アーサー・マッカラムは、当時、海軍情報部に勤める少佐だった。
マッカラムは、もし日本をしてアメリカに対して戦争行為をとるように挑発して、日米が戦争に突入すれば、三国同盟が発動されて、ドイツとイタリアは日本側に立つはずだから、アメリカがドイツに戦いを挑む名分ができる、とした。
・マッカラム計画書のあとを追って、「外交問題評議会」の「戦争と平和研究プロジェクト」が、「アメリカの極東政策」を提案する。
(出典:古荘光一「誰が「南京大虐殺」を捏造したか19 ルーズベルトの指南番=v(「WiLL 2014年1月号」所収) p306 )
・1941年1月10日、ルーズベルトの腹心ハリー・ホプキンスが、英国首相チャーチルと会談
・のちにチャーチルが書いた「大同盟」によると、ルーズベルトはホプキンスの口を借りて、次のように言わせた。
「戦争介入の名分は、ヒトラーを打倒、破壊および抹殺することに限るべきであって、その他の意図とか忠誠心とか、または国家目標といったものは、いっさい取り除かねばならない」
・これは、ルーズベルトが国民に知らせていない参戦意志を、まず外国の元首に伝えたことになる。
・また、ルーズベルトは、「国家目標を取り除く」として、自分の野心を隠したことになる。実際は、イギリスがドイツと戦ってアジアの兵力配備が手薄になっている間に、太平洋を「大領域」の一部として取り込み、行く行くは世界の覇者としての地位をイギリスから奪い取るつもりだったのに・・・
(出典:古荘光一「誰が「南京大虐殺」を捏造したか19 ルーズベルトの指南番=v(「WiLL 2014年1月号」所収) p306-307 )
・1941年1月15日、「外交問題評議会(注)の「戦争と平和研究プロジェクト」が、「アメリカの極東政策」の提案を文書にまとめる。
(注:「外交問題評議会」は、アメリカの民間シンクタンクであるが、当時は、F・ルーズベルト政権と密接に連携して政策研究を行っていた。(出典:古荘光一「誰が「南京大虐殺」を捏造したか19 ルーズベルトの指南番=v(「WiLL 2014年1月号」所収) )
(以上の出典は、古荘光一「誰が「南京大虐殺」を捏造したか19 ルーズベルトの指南番=v(「WiLL 2014年1月号」所収) p306-307 )


【連合国側の主な首脳会談】
・1941年8月9日〜12日、大西洋会談(大西洋憲章を発表)、カナダのニューファンドランド島沖の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ上、
  F・ルーズベルト米国大統領、チャーチル英国首相。
・1943年1月14日〜24日、カサブランカ会談、モロッコのカサブランカ、
  F・ルーズベルト米国大統領、チャーチル英国首相、フランスのド・ゴール、フランスのアンリ・ジロー。
・1943年11月23日〜26日、カイロ会談(カイロ宣言を発表)、エジプトのカイロ、
  F・ルーズベルト米国大統領、チャーチル英国首相、中国の蒋介石。
・1943年11月28日〜12月1日、テヘラン会談(カイロ宣言を発表)、イランのテヘラン、
  F・ルーズベルト米国大統領、チャーチル英国首相、ソ連のスターリン。
・1945年2月4日〜11日、ヤルタ会談、ソ連のクリミア半島にあるヤルタ、
  F・ルーズベルト米国大統領、チャーチル英国首相、ソ連のスターリン。
・1945年7月17日〜8月2日、ポツダム会談(ポツダム宣言を発表)、ドイツのポツダム、
  トルーマン米国大統領、チャーチル英国首相(7月26日まで)、クレメント・アトリー英国首相(7月27日から)、ソ連のスターリン。
・その他
(出典:LINK 第二次世界大戦の会談・会議 - WikipediaLINK 大西洋憲章 - WikipediaLINK ポツダム会談 - Wikipedia





【LINK】
LINK マルタ会談 (1945年) - Wikipedia
LINK ヤルタ会談 - Wikipedia
・マイケル・ドブズ著「ヤルタからヒロシマへ」三浦元博 訳、白水社、2013年
・長谷川毅著「暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏 上・下」中公文庫、2011年
LINK YouTube ≫ いわんかな#29-2【スクープ秘密文書!ヤルタ密約はソ連案!&韓国ライダイハン問題】岡部伸・堤堯・高山正之・日下公人・福島香織・塩見和子


【参考ページ】
1941年 日本軍が真珠湾を攻撃(大東亜戦争(太平洋戦争)へ、〜1945)
1943年 東京で大東亜会議
1945年 ヤルタ会談(米英ソ) 〜このページ
1945年 広島、長崎に原子爆弾投下
1945年 ソ連が対日参戦(リンクのみ)
1945年 日本がポツダム宣言を受諾して降伏
1945年 HP作者の伯父が樺太で戦死
私の思うところアメリカの覇権に関するリンク集





参考文献
「魔都・上海の街で考えたこと㉒(注:22)」堤 堯 著(「WiLL 2014年2月号」所収)
「誰が「南京大虐殺」を捏造したか19 ルーズベルトの指南番=v古荘光一著(「WiLL 2014年1月号」所収)
「真珠湾の真実 ルーズベルト欺瞞の日々」ロバート・B・スティネット著、妹尾作太郎 監訳、荒井稔・丸田知美 共訳、文藝春秋、2001年
LINK 産経ニュース【ヤルタ密約秘話】「当初から有効性に疑問 英国の立場を示す」 京都大学名誉教授 中西輝政氏(2016年12月5日付の記事)
LINK 産経ニュース【ヤルタ密約秘話】英外務省、露の北方領土領有の根拠「ヤルタ密約」に疑念 「ルーズベルト米大統領が越権署名」 外交公電で全在外公館に警告(2016年12月5日付の記事)
LINK マルタ会談 (1945年) - Wikipedia
LINK ヤルタ会談 - Wikipedia
LINK Yalta Conference - Wikipedia ヤルタ会談
LINK 国立国会図書館電子展示会日本国憲法の誕生資料と解説憲法条文・重要文書ヤルタ協定
LINK コトバンク羈絆・覊絆 とは
LINK フランクリン・ルーズベルト - Wikipedia
LINK アルジャー・ヒス - Wikipedia
LINK Alger Hiss - Wikipedia アルジャー・ヒス(人)
LINK Lauchlin Currie - Wikipedia ロークリン・カリー(人)
LINK 第二次世界大戦の会談・会議 - Wikipedia
LINK 大西洋憲章 - Wikipedia
LINK ポツダム会談 - Wikipedia
LINK 第二次世界大戦 - Wikipedia
LINK ヨーロッパ戦勝記念日 - Wikipedia
LINK 狸穴 - Wikipedia
 このサイトに、次の記述がある。
『 かつて、ソ連大使館が麻布狸穴町にあったことから、ソ連大使館を指す隠語としても用いられた(ただし、現在は住居表示の変更によって麻布台二丁目に編入されている)。 』
LINK 日ソ中立条約 - Wikipedia
LINK 中野文庫―儀典と法律の総合ウェブページ―日本語総目次条約・協定・議定書大日本帝国及「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦間中立条約 (日ソ中立条約の条文)
LINK 日本の降伏 - Wikipedia の「終戦工作」の項


更新 2019/11/21

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