過去の雑記 99年 7月

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7月21日
17日の記述で書き漏らしていたことを思い出したので修正。あとは、えーと、『遠き神々の炎』を読んだり「世界の文学」を読んだり、寝たり、寝たり、寝たりしてました。まる。

架空書評勝負に細木さん(8)が参戦。しかし、作品募集の担当が僕だということに気づいてないらしいのはなぜ?ひょっとして、DASACONのスタッフだと思われていないのか?あるいは、ひょっとして僕はDASACONのスタッフではないんじゃないのか?
なんか怖い考えになりそうだからやめよう……。

7月22日
なんとなく無意味にストレスが溜まってきたので本を買うことにする。てなわけで、夕方休みに古書ワタナベで「SFの本」1、2、3、7とアルフォンス・アレー『悪戯の愉しみ』を購入。

アレーは帯の背の部分に書かれた「黒いユーモア46」という言葉に惹かれて買ってみたのだが、割と正解。実に性格の悪いコント(フランス風のショートショート、というと言い切りすぎか? )が並んでいる。
例えば冒頭の「夏のたのしみ」。近所の嫌な婆さんに悪戯をしかけるという話なのだが、婆さんの嫌なところがほとんど描かれていないため、主人公が一方的に悪く見える。しかも、その悪戯の内容が「婆さんの野菜畑に大量のかたつむりを巻く」だの「栽培されている香草と見分けのつかない毒草の種をまく」だのとかなり悪辣。それでおちが「あんまりいじめてたら婆さんは心臓麻痺で死んじまったよ。めでたし、めでたし。」というんだからなんともはや。この手のひどい話がかなりの割で混ざっているんだから、作品集全体から受ける印象は御想像の通りだ。
実に爽快感のある人間味に溢れた作品集である。

「SFの本」をぱらぱらと眺める。「イズム」の様なものかと思っていたのだが、遥かに真面目に作ってあるのには驚きだ。いや、もう本当に真面目で読むのに疲れてしまいそうなくらい。面白いけど、これは売れないだろう、普通。
こんな雑誌が3年も続いてしまった、80年代前半という時代に10点差し上げる。

7月23日
書店で一目惚れしてしまった『つかぬことをうかがいますが…』(ハヤカワ文庫NF)を購入。水玉螢之丞は卑怯だろう水玉螢之丞は。

中身の方はあまり期待していなかったのだが意外に拾い物。素人の素朴な疑問に専門家が答えるQ&A集なら世の中に溢れかえっているが、素人の素朴な疑問に素人が答えるというのは結構珍しいのでは。あまつさえ、その回答が間違っていることもあるというのはかなり新しい。なんたって複数の回答が寄せられて、それが相互に矛盾している場合すらあるのだ。ついでにただのジョークも混ざっているし。
雑学を得るための本というよりは、回答を得る方法を学ぶための本という性格が強い。水玉のイラストも良い出来だし、わりと万人にお薦め。

7月24日
昼過ぎに起きだして高円寺の古書店を幾つかまわる。本当は古書市に行きたかったのだが行き当たりばったりで行ってみたら会場の場所がわからなかったのだな。あんまり衝動で行動せずに、少しは下調べをしてから行動しろということだろうか。

夜からはオールスターを見たり見なかったりする。松坂に注目することは止めやしないが、試合を見捨ててまでインタビューをしなくてもいいだろう。この中継、解説が入らないどころか、画面にも映ってない安打がかなりあったように思う。「まず試合そのものを中継する」という基本を守ることが出来ないのなら、2度と野球中継をするな。 > テレ朝。
でもテレ朝って民放の在京キー局では2番目に野球報道の上手い局のはずなんだよなあ。ああ、野球報道地に落ちたり。

永瀬唯『欲望の未来』(水声社)読了。序文で全体をテーマ付けしようとはしているが、基本的には既発表の評論を集めたものなので、やや雑然とした印象があるのは否めない。能動的に読んだ訳ではないので、まとまった異論・反論などはないが、1点だけ気になった。
この本、評論集なので、当然参考文献リストがあるのだが、そこにはWebサイトのURLはあっても、映像作品の名はないのだ。
確かに、参考「文」献なのだから、この措置にも正当性はある。が、しかし、映像作品の評論が4作(実に1/3)もあるのに、批評される作品自体は参考文献にならないというのはどこか歪んでいるように思う。TVアニメにしろ、映画にしろ時機を逃すと手に入り難い物だから、という言い訳はありうる。しかし、より時機に依存するWebのURLをあげているのだから、映像作品の名を挙げたっていいはずだ。引用されたものと同じ物が手に入る可能性は映像作品の方が遥かに高い。
批評の対象にするのなら、もっとちゃんと扱ってやろうよ。

ヴィンジ『遠き神々の炎』の上巻をやっと読了。読み始めは鉄爪族にすっかり目を奪われていたが、半分まで読み進んでみると実に真っ当な冒険物である事がわかる。長いのは確かだが、それはすべてプロットとアイデアを詰め込んだ結果であり、どうでもいいドラマを盛り込んだせいで長くなっているのではない。とりあえず後半が楽しみだ。

7月25日
わっちSF巡回中に溝口日記の7月21日づけで、『子供たちの午後』を入手した旨の記述を発見。実にめでたいことである。確かに、DASACON2のオークションのことを考えれば、参戦者が減るのは惜しいのだが、そんな個人的なことよりはラファティが世に広まることの方が重要だ。すべてのラファティ作品が翻訳され、そのすべてが書店に平積みになり、世にラファティが満ち、遍く一切の人が「アダムには三人の兄弟がいた」を読む。そんな世界の到来する日が訪れんことを、僕は願って止まない。

7月26日
昼休みに近所の書店でSFマガジン9月号ミステリマガジン9月号、野田昌宏『SFを極めろ! この50冊』を購入。ごく日常的な行為である。確かに、ふだんならHMMは買わないが、スレッサーの短篇が載っていたら普通買うだろう。常識の範囲内の行動だ。

夕方休みに古書ワタナベで幻想文学4冊を購入。ごくありきたりの行為だ。およそ日本人の7割はこのような行動をしているに違いない。

会社帰りに馬場の芳林堂で幻想文学44号『ホラーを書く!』『たれぱんだ』を購入。「なぜそれをいまさら」という声は多いと思われるが、その点を除けばありふれた行為といえる。あまりの平凡さに涙が出るほどだ。

そのまま5階に行き、いしいひさいち『鏡の国の戦争』、村枝賢一『RED』2巻、富沢ひとし『エイリアン9』1、2巻、あさりよしとお『宇宙家族カールビンソン SC完全版』1、2巻、唐沢商会『近未来馬鹿 改訂版』、ユナイト双児『プリマ・マテリア』を購入。「いまさら手を出すなんて恥ずかしいと思わんのか」という作品が並ぶことを除けば当然至極な行為といえる。

このように、日常的でありきたりでありふれた当然至極な行為をしただけなのに、財布から2万円が消えていたのはなぜだろう?不思議なこともあった物だ。

帰りの電車で唐沢商会『近未来馬鹿 改訂版』(青林工藝舎)を読む。もとの『近未来馬鹿』は名古屋においてあるので書き直しなどがあるかどうかはわからないが、1990年の元版に、短篇1本を追加し、あとがきを差し替え、初出一覧を加えた(だけの)物のようだ。ほぼ上位互換なので、マニア以外はこちらだけ買えば良いだろう。内容は旧き良き唐沢。唐沢商会独特の地味さが全編に溢れており懐かしかった。ギャグに対しては実に真摯な作りになっており、最近の『けだもの会社』『からまん』などに慣れた目からすると、感動的なほどの完成度を誇っている。『ホスピタル』『BURAI-KEN』などはそれすらも凌駕する完成度を持っていたことを考えると、90年代前半の唐沢なをきがいかにすぐれていたかがわかる。

さらに野田昌宏『SFを極めろ! この50冊』を読み始める。むう。駄目だこの本。何がどう駄目か、だがしかし如何にこの本が必要か、などについては長くなりそうなので以下次号。しかし、駄目だよ、これじゃあ。

7月27日
昨日はひどいことを書いた『SFを極めろ! この50冊』だが一晩置いて読み返してみると、そんなに駄目じゃなかった。というわけで一気にトーンダウン。あんまり駄目じゃないこの本。

昨日、駄目だと思ったのは、最初に読み始めた項目が『九百人のお祖母さん』だったのが理由らしい。最初に悪印象を持ってしまったので、全体構成や作品リストなど何もかも駄目だと感じてしまったが、ゆっくり見返してみると並の下くらいではある。入門用ガイドとしてはこんなものなのかもしれない。

でも、やぱり不満ではあるのだ。
確かに、ヴェルヌ&ウェルズから始まって、ほぼ全ジャンルに目を配りながらファインタックに至ってしまうラインナップは、スタンダードの選びかたといい、その外し方といい、品切れの少なさ(6/50)といい、出版社への忠誠度(47/50)といい正に教科書通り。創元からホーガン&ビジョルドは入れないが<火星><スカイラーク>は入れるというあたりの選択は絶妙という他はない。しかし、そんなお上品なリストを作るなら、野田昌宏じゃなくてもいいじゃないか。せっかく野田昌宏を起用するのなら、もっと独断的な熱意だけのリストを読みたい。特に気に入ってもいない作品におざなりのコメントをよせる大元帥なんて僕は見たくはない。

ちなみに、『九百人のお祖母さん』の項が気に入らなかった原因は、とりあげられた作品にある。「せまい谷」「その町の名は?」「一期一宴」は良いとしても、メインでとりあげるのが「時の六本指」ってのは無いだろう。確かに、サスペンスフルな佳作ではあるが、この作品に漂うリアリティはあまりにラファティらしくない。ジャンルを代表する作家ならともかく、ラファティはジャンルのバラエティを示すために取りあげられているのだから、彼の作風を端的に表す作品をこそメインで扱うべきだ。『九百人のお祖母さん』から選ぶのであれば、残虐と諧謔、無理な設定、無謀な理論、無茶な結末とラファティのほとんどが一望できる「スナッフルズ」こそ中心に据えるべき物ではなかったか。いや、作品として面白いかどうかは別として。

7月29日
午後10時、中野発の折り返し電車に乗り込み、ふと斜め前を見ると、熟睡している男性がいた。僕の前に電車に乗り込んだ人はいない。電車が終点に着いたことにも気づかず眠り込んでいるのだ。一瞬、起こしてあげるべきかとも考えたが、いやいや睡眠を妨げるのは仁義にもとる、と思い直し温かく見守ることにする。
数分後、電車は中野を発った。落合、高田馬場、早稲田……、彼はなかなか電車が東に向かっていることに気づかない。このまま荒川を渡ってしまうんだろうか、とワクワクしかけたのだが、残念ながら神楽坂で自分のおかれた状態に気づいてしまった。しかし、飯田橋で慌てふためいて降りていく彼の姿は僕の心を和ませるにじゅうぶんなものがあった。

心温まる光景も無くなり、電車も込んできたので音楽に集中する。……しばしの間……。ふと気がつくと、車内が想像以上に空いている。不安を感じつつ降りてみると、そこは江戸川の向こう側だった。

とぼとぼと反対側のホームに向かう僕の心の中には、因果応報の四文字だけが空しく浮かんでは消えていった。

7月30日
いよいよ、プロ野球後半戦がスタートである。ここまで、わが横浜は借金1。おせじにも昨年の覇者の闘いとは言えない。内部も、佐々木の手術問題だの、ローズの引退問題だのさまざまな問題がくすぶっており、とてもじゃないが健全な状態ではない。しかし。
最近の横浜を見るのは楽しい。負ける試合は僅差で競り負ける。勝つ試合は大差で叩き伏せる。典型的な弱者の展開だが、これが実に楽しい。これぞ大味を持って旨とする横浜いや横浜大洋の野球だ。
もちろん、勝利を大前提とする立場からは非難されても仕方が無い。攻撃の基本もなってない奴に監督をやらせるな、という声は理解出来る。だが、すべてのチームがV9読売になる必要はないじゃないか、と思う。
今の横浜の野球は豪気だ。弱体な先発が不用意な失点をする、あるいは不調の中継ぎが致命的な追加点をとられる、もう駄目だと誰もが諦めた瞬間、打者一巡の猛攻で大逆転を果たす。こんな劇的な試合をもう数度見られるのなら、後半も勝率なんてどうだっていい。ちまちました勝利よりは、劇的な勝利を。今後も順位は気にせず大雑把に戦って欲しい。

でも、やっぱりAクラスは確保して欲しいかな。

7月31日
DASACONのスタッフ会議で三島に向かう。クリーニング屋によったり、金をおろしたりしているうちに予定より大幅に遅れたので、どうなることかと思ったが、集合予定の5分後につく東京-沼津直通の電車には間に合った。日ごろの行いの正しさの賜物だろう。

電車のトラブルもあり集合は若干遅れたが、なんとか全員揃ったところで三島図書館へ。談話室で森太郎原案のカードゲームのデザインを行う。集団でネタ出しをしているうちに、どんどん失礼なゲームになっていったのは御愛敬というものだろう。いや、しかしみんなひどいよな。

議論が白熱するうちに図書館を追い出されてしまったので、居酒屋へ場所を移してしばし休憩。その後、メイン会場に移動してゲームデザインとテストプレイ、ディベロップを続ける。ゲーム製作がいかに時間を消費する行為であるかということを改めて実感した。
ゲームの出来はまあまあ。ゲーム性に関してはもう少し練り込みが必要な気もするが、とりあえず素人ゲームの合格点には達していると思う。何より、ネタが卑怯な飛び道具満載なので、内輪受けは確実に見込めるのではないだろうか。メインコンセプトを決めた森さんのセンスに拍手だな。

会議の方はちょっとゲーム製作に力を使いすぎたかも。一応、その外についても話を進めたつもりだが、どう決まったのか今一つ思い出せない。朝になってから、ボーっとしりとりをしていたことだけは思い出せるのだが。

さて、なんとかなるのか本当に。

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