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「古典派からのメッセージ・2009年〜2010年」目次へ戻る
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民主党政権印象記

 

 

平成二一(二〇〇九)年八月三〇日の衆議院選挙で自民・公明の両与党が大敗し、ついに民主党を中心とする鳩山由紀夫政権が誕生しました。この鳩山政権について感じるところを、床屋談義風に「放言」してみたいと思います。

 

@さすがに「影の内閣」などで政権担当の準備をしていたため、概して言えば、人事が思った以上にきちんとしている印象を受けています。閣僚人事も、民間人や女性を多数登用した妙なメディア受けを狙わず、民主党議員オールスターによる手堅い布陣です。また、事務担当の内閣官房副長官や首相秘書官など、内閣と官僚団との接点の「内閣官僚」人事は、安倍政権や麻生政権などよりも官僚団にとって納得ゆく人物を当てているように見受けられます。小生の知人の国土交通官僚氏によれば、事務次官会議の廃止などより、こうした的を得た「内閣官僚」人事の方に官僚たちは注目しているようです。

 

A鳩山内閣の閣僚で心配なのは、菅直人副総理と長妻昭厚生労働大臣。菅氏も長妻氏も「破壊」や「批判」は得意ですが、「創造」や「設計」はできないタイプではないでしょうか? 失政を演じたらすぐに取り替えるべきでしょう。逆に、仙石由人大臣(行政刷新・公務員制度改革担当)は、意外と懐が深く、与謝野馨氏のように官僚たちの信頼を得るのではないでしょうか。行政改革を成し遂げるキーマンは仙石氏かも知れません。とにかく、とんでもないポピュリストの田中康夫氏(新党日本)や人望のかけらもない渡辺喜美氏(みんなの党)が閣僚に入らなくて良かったです。我が儘なだけで政治的能力の欠如した田中真紀子氏も昔の勢いはなく、おとなしくあてがわれたポストに甘んじるでしょう。

 

B小澤一郎幹事長の影響力をメディアは囃しすぎではないでしょうか。小澤氏の意に反した閣僚もけっこう入っています。問題は、山岡賢次氏のような小澤取り巻き連中が、小澤氏の名を語って権力を牛耳ろうとすることです。小澤氏がこれらの取り巻きをきちんと押さえ込めるかに注目です。心臓病を抱える小澤氏の体調は、今のところいいようです。選挙の応援も積極的に買って出ましたし、「小澤塾」は中年のおばさんたちで大繁盛のようです。おばさんたちは、新宿コマ劇場の杉良太郎のような「セクシーさ」を小澤氏に感じるのだそうな(小澤塾に入り込みその様子を観察した某ノンフィクションライターが驚愕していたそうです)。小澤一郎という政治家は、八〇年代の小澤、九〇年代の小澤、そして今の小澤と、政治家として大きく変化してきています。この人の評価が定まるのはだいぶ先になりそうです。

 

C今回の内閣は、団塊の世代を主体とする、日本史上、最初で最後の内閣となるのではないでしょうか。団塊たちは、これまで首相を出したことが無く、このまま政治の世界から退場するかと思われましたが、ようやく鳩山氏、菅氏という政治リーダーを出したのです。団塊たちの特徴は、「安全圏からの正義」に過ぎない甘ったれた反体制運動に毒されたため、政治に素直に向き合う信念やポリシーがないこと。団塊の代表である鳩山氏も菅氏も、「実現したいこと」がぼんやりしており、実際に権力を握ると、左右にかなりぶれる恐れがあります。人の批判にいちいち耳を傾けてしまい、何をしたいのかわからなくなり、言うことやることがぶれる恐れがあるのです。この政権が長持ちするかどうかは、鳩山氏らが団塊の弱点を克服できるかどうかにかかっていると言えましょう。もしダメなら、民主党には後続世代にもっときちんとした政治信念を持った政治家たちが控えていますから、早く世代交代をしたほうがいいでしょう。小生は基本的に団塊の世代を信頼していません(詳しくは拙文「団塊の世代の弱さ」をご参照下さい)。

 

D二大政党の確立はだいぶ先のことになるでしょう。自民党はこのままではどんどん人材が流出して社民党並みに衰弱するでしょう。もともと「包括政党」として、無信念で個別利害を集約して生きてきた政党だけに、野党になって個別利害を集約できなくなると全く弱いのです。よほど「へま」をしない限り、来年の参議院選挙も含め、当面は民主党の一人勝ちになるでしょう。しかしそのうち民主党内で政策を巡る対立が起きて、反対勢力が抜け、政界再編の流れが生じ、ここにようやく政策を軸にした二大政党ができる可能性が生まれるのです。政策対立軸は「格差は容認して自由と経済成長を重んじる(供給側の効率性を重んじる小さな政府)」か「平等や分配の公平を重んじる(需要側を重んじる大きな政府)」かという古典的な主題になるのではないでしょうか。たぶんあと三〜五回くらい衆議院総選挙をやらないと、二大政党の交代という仕組みにならないと思います。

 

E民主党政権に影響を与えている学者、知識人としては、次のような人たちがいます。まず、政治学者では、飯尾潤政策研究大学院大学教授。英国型議院内閣制(ウェストミンスター・モデル)を推奨するグループの一人で、著書「日本の統治構造」(中公新書、二〇〇七年)はなかなかの名著です。ただ、飯尾氏は、小生の印象ではやや生真面目な理想主義が目立つ人ではあります。それが岡田克也外務大臣に典型的な民主党の生真面目な人たちに受けているのでしょう。しかし、人間の欲得や情念を捌くことも政治には必要です。岡田氏に人間的な幅を求めるのは無理でしょうか。

 

F経済政策では、榊原英資早稲田大学教授と水野和夫三菱UFJ証券チーフエコノミストが民主党に入れ込んでいます。特に「ミスター円」こと榊原氏は、閣僚入りも噂され、本人もやる気充分なようです。彼らの特徴は、小泉・竹中流の経済成長論者と一線を画そうとし、注力すべき産業として農業を重視し、円高を容認することです。農業重視や円高容認は小生も賛成です。しかし、この人たちの言説は、全体として依って立つ経済思想が定かではありません。メディア世論のいいとこ取りをしたような印象しかないのも事実です。民主党の経済政策がいまひとつぼやけているのもそのせいでしょう。断片的な標語ではなく、少子高齢化と新興国の台頭を踏まえた、日本らしい経済政策の「思想」が欲しいところです。ゼロ成長を甘受し生活の質を追求することこそ21世紀のあるべき姿だという「徹底したゼロ成長論」もいいでしょう。経済成長の鍵を技術革新にのみ見出す「徹底した技術革新主義」もいいでしょう。何れにしろ、既存の欧米モデルに頼る時代は終わったと覚悟すべきでしょう。中途半端にケインズ主義や新自由主義を参照しないことです。

 

ちょうど九月二八日付日経新聞に、千本倖生イーモバイル会長のインタビューが載っていましたが、いくつもの「起業」を経験した千本氏らしく、何かと悲観的な経済論調に真っ向から反論する「反・悲観論」は爽快です。第一に、「鳩山政権の政策には成長戦略が見えない」と言うインタビュアーに「政権が変わっただけでも効果がある。今回は変革の意図が明確で期待している人が多い」と述べています。

第二に、「温暖化ガスの二五%削減には産業界が強く反対しています」とのコメントには「日本が飛躍的に伸びたのは石油ショック後の苦境を技術的なブレークスルーで乗り越えたためだ。どうせ対応を迫られるなら真っ先に取り組む。先頭で走るのは日本の存在感を世界に示せるいい機会だ。日本には高い目標に挑戦してゆく潜在的パワーがあり、関連消費が増えて外需に頼らない経済になる」と主張。

第三に、保護政策と競争政策について「競争は疲弊を招くという議論が増えているのは気になる。世界は競争して発展しているのに、それを忌避していたら世界で競争するガッツが出てこない」と諫めています。

第四に、「日本の潜在成長率は一%未満だと語るエコノミストもいますが」との究極の悲観論に対し「誰がそんなことを言っているのですか。そもそもエコノミストの発言に従っていたら、日本に今日の自動車産業など育っていない。人間の能力には伸縮性があるのであって、(中略)潜在力を解き放てば、もっと高い成長ができる。戦略と志の高さがリーダーシップの発揚につながる」と反駁します。

そして第五に、「米国や中国の景気が回復しないと日本は低迷から抜け出せないのでは」との問いに、「米国は明らかに力が落ちている。中国は成長すると思うが、ハイテクでも何でも国内で作る能力を高めており、日本製品の輸入は減る方向だ。輸出か内需かの選択ではない。内需を膨らませないと日本は成長できない」と述べる。政権交代をチャンスと捉える千本さんのような気概を日本の経済人が共有すべきです。

 

G外交政策では、寺島実郎三井物産戦略研究所会長がブレーンになっているようです。寺島氏は、穏健な保守派とも言われるようですが、小生の印象では、団塊の世代特有の腰の据わらない情緒的平和主義と反米感情がその言説から顕現しており、小生はあまり好きな論者ではありません。米国のリベラルは権謀術数も愛国心も身に付いた、もっと腰が据わった存在でしょう。団塊の世代の愛国心の無さと情緒的平和主義は「宿痾」であり、矯正は困難なように思えます。日本にはなぜ、チャーチルに代表される伝統的英国保守政治のような徹底的に国益至上で腹の据わった現実主義外交が根付かないのでしょうか。

 

 政治の現実を見る冷徹な眼と自分の身は自分で守るという気概が戦後日本人には欠けています。そのことを早くも一九五〇年代から強く懸念し、かつ、そうした気概を持ったイギリス的保守主義を体現していた福田恆存の言説を、民主党の政治家にぜひ学んでほしいと思います。拙文「福田恆存全集読書メモ(二〇〇五年)」から福田の政治に関する文章例を改めて引用しておきます。それは、平和、平和と唱えていれば平和が実現するかのような思考停止した臆病な平和論への痛烈な反駁です。この文章は、まさに団塊の世代が低劣な学生運動や平和運動にうつつを抜かしていた一九六〇年代に書かれたものです。曰く:−

 

「私はこの人間社会から戦争はなくならないと信じてをります。ある雑誌でさう答へましたら、あまりにショッキングであり反動的だといふ理由で没になりました。(中略)これは戦争といふ言葉への恐怖症です。戦争は永遠になくならないぞ、と言っただけで、ぞっとする人種がゐるらしい。彼らは現実を見ようとしないのです。『臭いものには蓋(ふた)をしろ』主義で生きてゐるわけですが、さういふひ弱な人たちが、平和を得たからといって何ができませう。いや、現に平和の今日、彼らのできることといへば、戦争を恐れること、その恐怖感をそのまま誠実と思ひこむこと、それだけではありますまいか。」(福田恆存全集第三巻所収「戦争と平和と」より)

 

「力の政治は力によってしか抑(おさ)へられません。原水爆を抑へ得るのは、おそらく署名運動ではありますまい。(中略)『カイゼルのものはカイゼルへ』と言ったイエスは、さういふ文明のアイロニーを的確に感じてゐたのです。」(同上)

 

平成二一(二〇〇九)年九月二八日