近況メモ(平成一七[二〇〇五]年九月〜一〇月)
平成一七(二〇〇五)年〜「うろこ雲出づ」から「雨続きの秋」へ
九月四日(日)曇り
先週のはじめ、朝焼け空に見事な「うろこ雲」が広がっていました。また、福井方面の田園地帯を車で走っていると、すっかり実った稲の刈り取りがもう始まっています(左写真)。8月30日には小生以下金沢支店から異動になる人たちの送別会が催され、小生の金沢での仕事も8月31日を以って終了しました。さる方から、別れを惜しんで、
大空へ 飛び立つ背中 稲穂波
という句を詠んでいただきました。金沢で学んだことは数多くありましたが、歴史と風土を深く体感させてもらったこと、そしてその経験を通じて自分の故郷や家族や日本のことを深く考えさせてくれたことが、小生にとっては特に大きな蓄積になったように思います。この経験は旅行や観光で得られたばかりでなく、ビジネスの場においてさえ、北陸地方は人々が日本の歴史と風土の陰翳を色濃く体に染み込ませているのが感じられ、小生の感性を覚醒させてくれたように思います。
九月一〇日(土)曇り時々晴れ
9月1日から東京での仕事が始まりました。久しぶりの電車に一時間揺られての通勤が何となく新鮮です。自宅近くの帰り道では虫たちの大唱和が聞こえ、秋の気配が濃くなっているのを感じました。3日にはいったん金沢に戻り、4日に金沢能楽会の別会能を拝見し(そのときの感想を「華やかなるかな、実盛!」と題して記しましたので、ご覧ください)、その夜、藪先生がご自宅で催していただいた送別会に出かけました。
翌5日には引越しの荷物を送り出して東京に戻り、6日には東京に荷物が着きました。なかなか荷物が片付かず、今も家中散らかっている状態です。通勤時間が長くなったので、電車の中で読書時間が作れます。今週は、藪先生のホームページの管理人をしておられるUさんからいただいた「利休百首」(井口海仙著・淡交社)という本を読みました。これは、茶道を習う人の心構えや手前作法の技術などを百首の和歌の形でまとめたものです。型の大切さという意味では能に通ずる教えが数多くあったばかりでなく、広く芸術一般や人生に適応できる教訓も含まれていました。何よりも薄茶色の表紙のデザインがとてもきれいでお気に入りになりました。
九月一七日(土)秋晴れ
ようやく朝夕が涼しくなり、日中外出していても気持ちよく歩ける季節になりました。仕事で外出ついでに東京のあちこちに立ち寄ってみました。まず我が本社から遠くない飯田橋にある「東京大神宮」(左写真)。ここは、東京における伊勢神宮の遥拝殿として明治13(1880)年に創建されました。最初は日比谷の地に鎮座していたことから「日比谷大神宮」と称されていましたが、関東大震災後の昭和3(1928)年に現在地に移ってからは「飯田橋大神宮」と呼ばれ、戦後は社名を「東京大神宮」と改め今日に至っているとのこと。神前結婚式というものを始めたのはこの神社だそうです。御祭りしている主な神々は、伊勢神宮と同じく、天照大神(あまてらすおおみかみ=日本国民の先祖神)と豊受大神(とようけのおおかみ=農業、諸産業、衣食住の守護神)です。明治になってから出来た神社とはいえ、伊勢神宮ゆかりだけあって風格が感じられます。しかしその風格は威圧的ではなく、すっきりした簡素な印象の神社です。
次に愛宕神社です。愛宕神社は慶長8(1603)年に徳川家康の命により江戸の防火の神様として祀られました。主祭神は火産霊命(ほむすびのみこと)です。虎ノ門と東京タワーの間の街中に、ここだけ盛り上がって森が広がる不思議な地形の、その山の上に鎮座しています。敷地は6000坪あり、海抜は26メートルで東京23区では最も高い山です。
愛宕神社に上がる石段は「出世の石段」と呼ばれています(左写真)。三代将軍家光が将軍家の菩提寺である芝の増上寺に参詣の帰りに、ここ愛宕神社の下を通りました。折しも春、愛宕山には梅が咲き誇っていました。 家光はその梅を見上げ、「誰か、馬にてあの梅を取って参れ!」 と命じました。しかし、この愛宕山の86段の石段はとても急勾配です。小生がこの日歩いて登り降りをするのも大変でしたので、馬でこの急勾配の石段をのぼって梅を取ってくることなど、とてもできそうにありません。失敗すれば重傷か悪ければ命を落とします。ところが、家臣たちが皆躊躇しているところに、颯爽と馬で石段を登り、山上の梅を手折り、再び馬で石段を降りて家光公に梅を献上した若者がいます。それは四国丸亀藩の家臣で曲垣平九郎(まがき・へいくろう)という武士でした。「この泰平の世に馬術の稽古怠りなきこと、まことにあっぱれである」と、平九郎は家光より「日本一の馬術の名人」と讃えられました。この故事にちなみ、愛宕神社正面の坂を「出世の石段」と呼びます。曲垣平九郎の話は講談で有名になったそうですが、単なる講談の世界のフィクションではないかと疑う向きもあったようです。しかし平九郎以降もこの石段を馬で登り降りすることに成功した猛者が何人かいるとのことで、神社にはそれら猛者の絵や写真を掲示しています。最近では、昭和57(1982)年に「史実に挑戦」というテレビの番組で某スタントマンが馬での登り降りに成功したそうです。
また、愛宕神社(左写真)は、幕末に勝海舟と西郷隆盛の会談が行われた場所でもあります。京都から江戸に進軍した新政府軍は、江戸城明け渡しについて幕府側と交渉していましたが、交渉は行き詰まり状態にあり、このままでは江戸を舞台にした大戦争が始まりかねない危機的な状況でした。明治元(1868)年3月13日、幕府方の勝海舟と新政府方の西郷隆盛は、家康ゆかりのこの山に登って江戸の町を見渡しました。そして「この江戸の町を戦火で焼失させてしまうのは忍びない」との思いを共有して山を降りたのです。そののち三田の薩摩藩邸で両者は歴史的な会見をして無血開城の調印を行ったのです。二人がこの山から江戸の町を見渡したことが無血開城のきっかけになったわけです。
世界史上、多くの革命が血の犠牲の上に行われたのに対し、明治維新が江戸城の無血開城によって円滑に進んだことは、世界史上稀に見る立派な事跡です。もしこの時幕府軍と新政府軍との間で激しい戦争が起こり、江戸の町が廃墟になっていたら、とても明治維新は成らなかったでしょう。幕末の武士たちの大局観の確かさと冷静な判断力には心から敬意を表さざるを得ません。
ところで、明日は仲秋の名月です。旧暦で今は秋の三ヶ月の真ん中の月(葉月=8月)なので「仲秋」、明日は葉月15日で十五夜となり、満月の日です。東京は明日の夜は曇りとの気象予報だったので、今夜、家の玄関先から家族三人で月見をしました。といっても特にお団子やお酒はありませんでしたが…。まん丸な明るい月を観賞するのは久しぶりでした。しかし月はカメラで普通に撮ったのではうまく写りませんね(下写真)。人間の肉眼は本当に良くできているとつくづく思います。
九月二五日(日)台風で暴風
台風接近で関東地方は風がきつくなりつつあります。先週は、転任の挨拶状を書き上げて出状したり、貸し倉庫へ我が家の荷物の一部を運んだりして過ぎました。三連休が続いてくれたおかげで、引越しの荷物整理がはかどりました。挨拶状を出した何人かの方々から、ご丁寧な返信のお葉書やメールや電話をいただきました。特に金沢時代にお世話になった方々からのおたよりは心温まるものが多く、感激しました。また、「枕草子」に清少納言も書いているとおり、何年もお会いしていない方から思いがけなくおたよりをいただくのはうれしい驚きです。既にこうした懐かしい人たち何人かとお会いしたり食事をしたりしていますが、これからもしばらくは、仕事で関わりがあるかどうかは別として、旧交を温める時間を持ちたいと思います。
金沢での単身赴任中の家財が新たに加わったので、この際、我が家にある不要不急の家財をまとめて貸し倉庫へ預けることにしました。小生は金沢でも書籍やCDをしこたま買い込みましたので、整理整頓するのに汗だくになりました。また、妻や娘も自分の持ち物を各自チェックして整理したところ、本や衣類など全部で段ボール20箱分くらいの荷物が出てきましたので、それを市内の倉庫へ預けました。これでようやく我が家も広く使えるようになりました。我が家はそんなに物持ちではないとは思いますが、とにかく家財整理をしていて感じたのは、現代日本にはモノがあふれ返っているということです。特に東京近郊のマンション暮らしでは、モノよりスペースの方が貴重です。もっと簡素な生活が出来ないものか、と、つくづく考えさせられた次第です。
一〇月一日(土)秋晴れ
我が家から徒歩10分ほどのところに、昔の鎌倉街道の一部と伝えられる古道があります(左写真)。源頼朝によって鎌倉幕府が開かれると、それまで諸国の国府間を結んでいた官道の多くは幕府の手により再整備され、鎌倉を中心として放射状に伸びる「鎌倉街道」が成立します。「いざ鎌倉」という言葉のように、この街道は緊急時には軍道となりますので、諸国の武士が最短距離で馳せ参じられるように、道は可能な限り直線に作られていたそうです。関東地方の鎌倉街道には、鎌倉から上野(こうづけ)や信濃へ抜ける「上ノ道」、奥羽方面へ向かう「中ノ道」、常陸や下総に至る「下ノ道」と三本の主要なルートがありましたが、我が家の近くの古道は「上ノ道」系統の道です。すなわち、鎌倉の「鶴岡八幡宮」から北へ向かい今の町田市あたりを通って「武蔵国の国府(=現在の府中市、我が家の所在都市です)」に至り、さらに北へ狭山丘陵を抜けて「上野国の国府(=現在の前橋市)」に至る「上ノ道」街道の一部ないしは支線だったと言われています。このあたり、JR武蔵野線を挟んで、東側に武蔵国分寺の跡、西側に国分尼寺の跡がありますが、その尼寺のわきにこの古道が200メートルほど残っているものです。軍道らしく国分寺崖線を切通しでまっすぐ南北に走っています。
小生は、中世の武士たちが馬で駆ける蹄の音が聞こえてきそうなこの切通しの道が好きで、時々散歩していたのですが、久しぶりに来て驚いたのは、こんな自動車の通れない狭い道をコンクリで舗装してしまったことです。以前は土のままの道だったので、確かに雨が降ったりすると泥道になっていましたが、生活道路でもないこの道を舗装などする必要があったのでしょうか。歴史的な古道は古道として保存してほしいと思います。三年ぶりに帰って来てがっかりしたことのひとつです。
一〇月八日(土)雨
今週の日曜日、保谷のコンサートホールで催されたオーケストラ・シンポシオンの演奏会に妻と出かけました。その感想は私の音楽鑑賞メモ(二〇〇五年)に「プラハ交響曲聞き比べ」と題して記しましたが、日曜日の午後を夫婦で過ごすにふさわしい和やかな雰囲気の演奏会でした。夜は吉祥寺で鶏料理を楽しみました。吉祥寺の飲食店街も久しぶりに行きましたが、以前と変わらず繁盛している店もあれば無くなってしまった店もあります。日本の消費者の繊細で多様で移ろいやすい嗜好に応えることができる店はそう多くはありません。月曜から仕事が始まり、朝、最寄り駅まで自転車を走らせていると、風に乗ってふわりと甘い香りがします。そうです、金木犀です。今年ももう金木犀の香る季節になりましたね。
さて、最近、ふたつほど便利な道具に嵌っています。ひとつはパソコン+DVDです。過去に録画した能のテレビ放送などのアナログ・ビデオテープをパソコンに取り込んでDVDにしているのです。取り込みや編集に結構時間はかかりますが、こうすれば自分の好きなところだけを自由に選んで編集できますし、何度観ても磨り減りませんし、BGMとして音だけで楽しむことも出来ます。パソコンの有能さをまた改めて認識しました。ふたつめはCDのソフトケースです。膨大な数の音楽CDが棚に収まりきらず悪戦苦闘している小生が、御茶ノ水のCDショップで見つけたものです。このビニールでできたCDケース、従来のプラスチックのケースと比べ、半分から五分の一くらいの厚さになります。ページの多い解説書などもきちんと収まり、かつ自由に開けるように工夫されています。CDを不織布袋から取り出すのに少し手間取りますが、収納スペースの節約には替えられません。
パソコン+DVDにしろ、CDのソフトケースにしろ、「こんなものがあったらいいなあ」と思っているような道具に出会ったときは、かゆいところを掻いてもらったような心地よさがあり、この商品を考え作り出した「匠」たちに感謝したくなります。
一〇月一六日(日)雨
今年の東京の秋は雨が多いような気がします。今日も雨降り、昨日も朝夕は秋雨でした。昨日、雨の降っていなかった午後、妻の所属しているフラワーアレンジメントの会の発表会に国立(くにたち)のギャラリーに出向いたついでに、府中市内を縦に(南北に)走って往復10キロほどのサイクリングを楽しみました。我が家の近くにある根岸病院や都立神経病院の西側を南北に走る街道が大きく拡幅されて、蔦屋だの山田電機だのといった郊外型店舗が進出し、瀟洒な住宅が立ち並んでいます。町の様子がこぎれいになった反面、今までこの辺りを覆っていた森がいっぺんに無くなってしまったのには何ともやりきれない複雑な気持ちです。この街道をまっすぐ南に走ると、甲州街道(国道20号線)、JR南武線、中央高速道と交差し、やがて京王線の「中河原」という駅にたどり着きます。ここにはかつて我が勤務先銀行の独身寮と運動場があり、小生も入行してしばらくはこの寮に住んでいました。その後、銀行は経営難に陥り寮も運動場も売却しましたが、懐かしくなってその「跡地」に立ち寄ってみると、すっかり瀟洒なマンションや住宅が立ち並び、洗濯物が干してあったり、子どもたちが家々で歓声をあげたりして、我々の青春とは何のかかわりも無い人々の生活が営まれており、さすがに20年の歳月を感じさせられました。そこからさらに自転車を走らせると、程なく多摩川にたどり着きます。数年前に四谷大橋という立派な吊り橋ができており、これを渡ると向かいは日野市です。多摩川べりは格好のサイクリングとジョギングのコースに整備され、この日も老若男女が気持ちよさそうに汗を流して多摩川堤を走っていました。小生もしばし、薄の群れが銀色に色づき白鷺が何羽かたむろする多摩川を見ながら自転車を走らせました。
さて、先週は、日曜日に家族三人で立川へ映画「蝉しぐれ」を見に行き、木曜日に妻と二人で「日比谷シティ夜能」を見に行きました。いずれもなかなか見ごたえがあり、その感想を本文に記しましたので、ご覧ください( 「蝉しぐれ」―民族の叙事詩と都市空間での夜能の楽しみの二編です)。
一〇月二三日(日)快晴
今日は久しぶりに雲ひとつ無い秋晴れでした。今年になって初めて秋らしい気候になりました。さて、神楽坂の町を歩いたことがありますか? 神楽坂は小生の勤務先から遠くないところなのですが、今までゆっくり歩いたことはありませんでした。先日、時間があったとき、初めてこのレトロな町をみてまわりました。JR飯田橋の市ヶ谷寄りの改札を出て、東京理科大を左手にして神楽坂通りの坂を登ります。通りの左右の至るところに小路があり、居酒屋やバーの看板が掛かっています。小路は石畳になっていて情緒があり、とりわけ、山田洋二監督も宿泊して寅さんシリーズの台本を書いたという旅館「和可菜」のあたりは、時代を四十年ほど遡ったような懐かしい気分にさせられます。坂を上りきったところには毘沙門天を祭った善国寺があり、ちょっとした門前町風情です。地下鉄神楽坂の駅近くの新潮社の裏手には矢来能楽堂があります。ここは能楽師・観世喜之さんのご自宅でもあり、かしこまった雰囲気ではない、ちょっと人のお宅にお邪魔するような気軽な雰囲気で能を楽しめそうな感じの能楽堂です。
神楽坂の町の雰囲気は、「日本百名山」をもじった嵐山光三郎さんの「日本百名町」(光文社知恵の森文庫)という本の宣伝文句を借りると、「仕事が終わると『さあ行こうか』ということで、下駄を突っかけて路地を歩いて行く。石畳にカランコロンと下駄の音が鳴る。居酒屋で焼酎をくいっと飲んだかと思えば、バーでワインをしっとりと味わう。銭湯にざぶんと入っては、ぶらっと立ち寄った店で紙人形を買う。『町のカレーライスを全部食うぞ』と息巻いては、毘沙門天で立川志らくの落語を聞く。つまり、この町と付き合うのが心底楽しくて仕方が無いという風情なのである。神楽坂はまさに『人の息づかいがたっぷり沁み込んだ町』といえる。」という具合になるようです。この町を気に入って住み着いている有名人や外国人も結構居るようで、タウン誌も大変充実しています。歩いて楽しい町というのは、たいてい古い伝統や歴史の重みを感じさせるものですが、神楽坂も古き良き江戸の町の雰囲気をよく伝えてくれています。
一〇月三〇日(日)曇り
この週末も曇りで時々小雨がぱらつくあいにくの天気です。今年の秋は本当に雨が多いように思います。そのせいか、小生も喉の痛みや下痢など初期の風邪の症状が二週間近く続き、なかなかすっきり直りません。たまたま出張が重なったこともあって疲れが取れず、体調が戻るのに時間がかかっています。皆さんもお気をつけください。そんな中でも、良さそうな演奏会があるとつい出かけてしまいます。去る金曜日も、サントリーホールへ、ブタペスト祝祭管弦楽団の演奏会に行きました。その感想を「私の音楽鑑賞メモ(二〇〇五年)」に追記しましたのでご覧ください。
昨夜は、妻の誕生祝で(何歳になったのかは内緒です(^^;) )、最寄の西国分寺駅前に先週オープンしたばかりのフランス料理店に家族三人で出かけました。予約の人たちでけっこう賑っていました。たまにはこういう洒落た食事もいいものです。その前に、お昼は、我が家が愛好している国分寺駅南口のそば屋「一乃屋」で「鴨汁そば」などを食べました。ここは昔禅寺などで寺方料理として自然食を盛り合わせて作ったと言われる「禅味」を売り物にしていて、素朴で野趣ある味を楽しめます。その後、国分寺から西国分寺にかけて自転車で散策して回りました。まず、国分寺駅北口にある名曲喫茶「でんえん」に入ります。ここは昭和32(1957)年に開店した古い喫茶店で、この辺に住む絵描きの卵や漫画家などがよく出入りする店だそうです。漫画家の「さいとうたかを」さんも若き日によくこの店に通い、「ゴルゴ13」の何篇かをここで書いたとのこと。この日も店内は昔ながらの名曲喫茶の風情で、静かにクラシック音楽が流れ、多摩美術大学か武蔵野美術大学の学生でしょうか、ひとりしきりに鉛筆でデッサン(?)をしている髭を生やした若者がいました。こんな古色蒼然とした「名曲喫茶」がまだ残っているとは驚きです。
その「でんえん」を出て、国分寺崖線から湧き出る湧き水を溜めた「姿見の池」あたりの湿地や昔の武蔵野の面影が残る小さな森を散策してまわりました。この国分寺の「恋ヶ窪」と呼ばれるあたりには、東福寺や熊野神社もありますが、現在の大通りである府中街道からは外れたところに位置しています。前からなぜだろうと思っていましたが、きょう、何気なく通った細い道が、実は、東福寺や熊野神社が面している旧街道でした。大通りから一歩入った旧街道こそが、町の由緒来歴を語り、町の本来の姿を私たちに見せてくれるのですね。娘は毎日天気がよければこの美しい武蔵野の景色の中を自転車を走らせて学校に通っていると聞いて、少しうらやましくなりました。土曜の午後、意外に知らなかった近所の道々をゆっくりと楽しむのもいいものです。