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近況メモ(平成23[2011]年〜平成27[2015]年)

 

平成23(2011)年1月8日(土)冬晴れ

 一年で一番寒い季節になりました。みなさんお正月はいかがお過ごしでしたか? 我が家は小生と家内の実家に帰省しました。大晦日に出発して3日には戻りましたので、本当は旧友に会ったりもしたかったのですが、時間がありませんでした。写真左は、元旦に氏神さまに参詣した帰りに小生の実家近くの広場で子供たちが凧揚げをしていたのを撮ったものです。左上の方に二つの凧が上がっているのがおわかりいただけるでしょうか。写真右は、我が家からほど近い坂の上から空気の澄んだ朝には丹沢山系を従えた富士山がくっきりとずいぶん間近に見えるのを撮ったものですが、両写真とも、解像度の低い我が携帯のカメラではきれいには撮れませんでした(^^;

 さて、年末年始の新聞・雑誌から、日本の今後にとって参考になりそうなコメントをいくつか拾いましたので、ご紹介します。まず、雑誌「VOICE」2011年1月号から、歴史学者の山内昌之氏と元外務事務次官の谷内正太郎氏の対談「中露の帝国性にどう対峙するか」は、中国とロシアの大陸国家としての伝統的な帝国性を踏まえ、日本は「自由と繁栄の弧」と「シーパワー・ネットワーク」を重視して、「仲間」を増やして両帝国への抑止力とすべし、と説いています。「自由と繁栄の弧」は、麻生首相時代に谷内氏が推進したもので、ユーラシア東端の日本から西端の欧州に至る民主政治と自由主義を共通に持つ国々(ASEAN諸国、インド、トルコ、バルト三国など)の連帯を進めようという外交政策です。また「シーパワー・ネットワーク」は、アメリカ、インドネシア、マレーシア、オーストラリアなどの環太平洋海洋諸国が協力して、海洋の自由を守ろうというものです。大陸の二帝国に日本が対抗するには、共通の利害や政治・経済の自由を持つ国々と連帯・強力することが重要だということです。
 次に、2010年12月27日付「日本経済新聞」に載ったフランスの歴史家エマニュエル・トッド氏の「中国牽制へロシア接近を」というコメントです。フランスは歴史的にドイツへの対抗上ロシアを利用してきました。日本も地政学的に考えれば中国への対抗にロシアと思い切って接近すべしとの提案です。「ロシア、特にシベリアは人口が急激に減っており、中国人のシベリア進出もあり、日本と良好な関係を築くことはロシアの国益でもある。」「日露両国が戦略的な関係を築けば北方領土問題も必ず解決の道筋が見つかる」とのトッド氏の観察には説得力があります。
 さらに、2010年12月30日付「日本経済新聞」では、アメリカの投資会社ブラックストーン会長のスティーブン・シュワルツ氏が、日本への投資を開始した理由として「経済に前向きな兆しがあるからだ。2011年は2%近く成長する可能性がある。人口が伸びていない割に悪くない。」「円高は日本企業が成長する機会でもある。外国の資産や企業を安く買えるし、そのための財務基盤も健全だ。日本は円高を負担に感じるだけでなく、対処できる国だ。」と述べています。このコメントは、日本国内の悲観的なメディアの論調よりはるかに冷静かつ正確に日本経済の価値を観察していると思います。

(追伸)このウェブサイトも11年ほど前の開設以来、訪れていただいた方が累計7万人を超えました。ありがとうございます。

          
     元旦の凧揚げ(1月1日撮影)                    富士山を臨む(1月5日撮影)      

 

1月23日(日)冬晴れ

 右写真は、夕焼け空に見事な高積雲(ひつじ雲)が流れていたのを撮ったものです。ひつじ雲とうろこ雲はよく似ていますが、高いところ(5000m〜13000m)にあるのがうろこ雲で、そこより低いところ(2000m〜7000m)にあるのがひつじ雲だそうです。うろこ雲より少し大きめに見えます。

 20日は大寒でしたが、それらしい寒い日が続きます。それでも、きょう、家内と散歩していた一橋大学構内で白梅が花開いているのを見つけました。梅の木も春を待ちかねているようです。その梅の木のあたりでテレビ局がなにやら撮影をしているので、見物していた若い女の子に尋ねてみると、松下奈緒さん主演のテレビドラマ「コントロール」という番組の撮影とのことでした。松下奈緒さんと言えば「ゲゲゲの女房」で売れっ子になった人ですね。小生は現代の俳優・女優の類に全く疎いのですが、紅白歌合戦の司会者もしていましたので、さすがに彼女の顔は思い出しました。紅白で見たときの印象よりもずいぶん華奢な人でした。歌手やタレントに何もありがたみを感じない小生ですが、話のネタにはなりそうです(^^;


 

2月17日(火)曇り

 先週から今週初めにかけて、東京多摩地方でも積雪がありました。写真右は今週日曜に撮った「束の間の雪だるま」です。その夜、部屋の電気を消すと、いつもなら真っ暗なのですが、その日は積もった雪に月の光や星の光が反射して、障子を通してほのかに光が差していました。とても幻想的な明るさです。「蛍の光、窓の雪」とはこのことか、と感じ入った次第です。
 写真左と中央は、近所で咲いていた梅の花です。この白梅はもう満開で、近寄るとほのかに甘い香りが漂っています。雪の降りしきった日、ふとこの白梅を見ると、何と数羽の鶯がやって来てしきりに蜜を吸っていました。雪に梅に鶯とは何とまた風雅な取り合わせでしょうか。年に一、二回の雪の日には、非日常的な発見がいろいろとあります。

 

        
紅梅はまだ咲き始め              白梅はもう満開                束の間の雪だるま

 

4月6日(水)快晴

 日一日と春の日差しが感じられるようになりました。コブシの白い花が青空に映えています。

 東北関東大震災で被災された方に心からお見舞いを申し上げます。政治の指導力が問われるこの局面、復興が当面何年間かの最優先課題になることは間違いありません。しかし我が国の財政状況を考えれば、安易に国債増発に依存してはいけません。まずは、民主党の4大ばらまき愚策である「子ども手当」「高速道路無料化」「高校無償化」「農家の個別所得補償」は完全に中止すべきです。それらの財源をすべて復興に充ててもまだ足りないと見る識者が多いのです。民主党の心ある政治家なら、むしろ愚策を止める良い機会だと捉えるべきでしょう。

 菅直人首相の震災対応は、残念ながら、彼の政治的指導者としての資質の欠如を改めて証明するものとしか小生には見えません。このことは、山内昌之東大教授が的確に指摘しておられます(「日本経済新聞」3月23日付経済教室)。曰く「脱官僚の信念に呪縛され、手足として働くべき官僚機構の連携がとれず、首相に連なる指揮命令系統が機能不全に陥った」「菅首相に問われるのは、政策的総合力と全体的判断力であり、いかに重要であっても個別の事象にのめり込んで他の重要な課題を忘れてはならない」「この期に及んで市民運動家めいた細々としたパフォーマンスは必要ないのだ」「真の政治主導とは、責任は大臣に、賞賛は現場に、であろう」そもそも無責任な学生運動や市民運動しか人生経験のない人物に「政策の総合力」や「全体的判断力」などあるはずもないと小生は考えます。


 

6月12日(日)曇りのち小雨

 梅雨時らしい天気が続きますが、路傍には右のような凛とした美しい草花も咲いていて、目を慰めてくれます。

 さて、最近、フランスと日本の経済学者たちが共同執筆した「脱グローバリズム宣言」(2002年、藤原書店刊)を拾い読みしました。ロベール・ボワイエ氏と青木昌彦氏が中心になったこの本は、アメリカ型経済モデルに世界が収束するというこの当時流行った経済思想に真っ向から異を唱えています。経済諸制度(ルール、慣習)が多様だからこそ世界は経済発展するのだというメッセージを伝えつつも、彼らはフランス的、日本的といった特殊性を称揚しているのではありません。むしろ各国の特性は、企業の組織形態や国民的な経済制度に関する一般的な類型学の内に取り込み得るのだ、というのが彼らが強調しているところです。つまり、世界は画一的なアメリカ型経済になるのではなく、各国の制度は国際化や技術変化に対して過去の経路に依存して適応するのであり、経路依存的適応の中でこそ多様性を深めてゆくべきなのです。

 小生は青木昌彦氏の比較経済制度論が大好きです。青木氏の経済理論は、かつての梅棹忠夫氏の文明の生態史観を彷彿とさせてくれます。日本は、近代しか持たない特殊な履歴のアメリカよりも、フランスなど古代以来の歴史の重みを持ち、過去の経路に依存して経済体制を構築するという日本と同じ立場にある欧州諸国をもっと参照すべきだと思います。


 

7月11日(月)晴れ

 梅雨の長雨が終わるか終わらないかの内に6月末から暑い日が続きますね。この夏は猛暑続きなのでしょうか。こんな夏らしい雲を見ると、子どもの頃、夏休みに毎日プールに泳ぎに行くのを心待ちしていたわくわくした気分を思い出します。

 さて、さる土曜日に久しぶりにお能を観賞しました。ふだんあまり使わない「感性」を司る脳が活性化し、精神的なカタルシスも味わえる素晴らしい演能でした。詳しくは、ドラマと歌舞音曲と−心に残る「羽衣」をご覧下さい。


 

9月10日(土)晴れ

 季節はめぐり、朝夕めっきり涼しくなってきました。空の色が深くなり、雲も入道雲から鰯雲やうろこ雲に替わりました(写真左。これを7月11日のこの欄の空の写真と比べて見てください!)。森の中を歩いていると、ドングリが落ちていました。まだ葉も実も青々としていますが、秋の訪れを感じさせてくれます(写真中)。

 さて、だいぶ前のことになりますが、7月31日に佐渡島の本間家能舞台での大会に府中宝生会のメンバー7名で出演しました(写真右)。本間家は江戸期から続く宝生流能楽師の家柄で、この能舞台も由緒あるものです。ここで朝から夕刻まで、地元佐渡の方々を中心に、八戸宝生会や我々府中宝生会のほか、お茶の水女子大の狂言研究会の面々も登場して、能や舞囃子や狂言や仕舞や謡が次々に披露されるのです。小生も仕舞「鶴亀」を舞わせていただき、佐渡出身のMさんがシテを謡った素謡「羽衣」の地謡も務めました。屋外での舞台経験は初めてでしたが、オニヤンマが飛んできたりヒグラシが鳴く中で舞い謡うのはとても爽快です。我々が「羽衣」を謡っている時にはウグイスの鳴き声も聞こえました。写真の通り、見所(観客席)も開放的かつ自由で、飲み食いしたり居眠りしたりしながら地元の人たちが楽しんで見ていました。これはまさに能楽がまだ「猿楽」と呼ばれた原初のあり方だと体感しました。

 さて、野田佳彦氏が首相になり新しい政権がスタートしました。「中間層の厚みが増す日本を作る」との就任時の抱負は、「友愛」を説いた鳩山由紀夫元首相や「最小不幸社会」を唱えた菅直人前首相よりもはるかにましなものです。野田首相は、自らの信念を持ちそれをきちんと語るという政治家として当たり前のことをしているに過ぎないのですが、鳩山元首相の荒唐無稽な言動や菅前首相の他者を指弾するばかりで自ら責任を引き受けない姿勢があまりにひどかったので、野田首相の発言が真っ当に感じられるのです。鳩山、菅両氏のように、学生運動や市民運動にうつつを抜かした「社会の寄生虫」の如き輩には、国家に対する責任感も歴史を担う自覚もなく、政治家として何らの信念もありません。従って、リーダーの資質もありません。野田氏には真っ当な保守政治家としてぜひ頑張ってほしいものです。

 さて、安く買えるからというだけで韓国政府の文化輸出戦略の片棒を担いで韓流ドラマばかり流すプライドのかけらも無くしたフジテレビは論外ですが、広告主が減って衰退産業化しつつある既存メディア(テレビ、新聞)全体が著しい機能不全に陥っているように小生には思えます。最近のテレビや新聞を見ていると、物事を歴史を踏まえて大局的に捉える視座や真っ当な批評精神が感じられません。事象に対するとらえ方が「反射神経」的なのです。デフレや円高は「悪」、少子高齢化は「衰退」、消費税は「不公平」、国民番号登録制は「国家によるプライバシー侵害」、高校野球は「爽やか」等々、まるで「パブロフの犬」のような反応を示します。
 デフレは単なる物価下落のことであり、賃金以上に一般物価が下落するならば国民生活に何の弊害もありません。「デフレ=悪」と報ずるメディアはデフレと景気悪化を混同しています。物価が下落しても経済成長率がプラスの経済はいくらでもあります。
 「円高=悪」も条件反射的ステレオタイプとなっています。小生は円高による世界的インフレ傾向の抑制効果を日本にとって貴重な経済カードだと思っています。円高を抑止するためのマクロ経済的政策は必要ないと小生は考えます。唯一円高の問題点は、日本の宝とも言うべきハイテク型の中小製造業が苦境に陥ることですが、国益の観点から守るべき企業セクターには、個別に、円高助成金を遠慮無く支給すればいいのです。間違っても中小製造業の海外進出など支援してはいけません。技術はあっても経営資源の乏しい中小企業にとって海外生産など博打に等しいと知るべきです。小生には、中国に出て技術だけ簒奪されてさんざんに痛めつけられる技術型中小企業の人の良い社長さんの痛ましい姿が想像されるばかりです。
 少子高齢化も「衰退」ではなく、なぜ新たなビジネス・チャンスだと捉えないのでしょうか。人口構成の変化も変化であり、変化はチャンスでもあるのです。先日、かつての勤務先の上司、同僚と3人で新宿の居酒屋に行きました。夕方5時過ぎという早めの時間に行ったのですが、50席くらいあると思われる店内はほぼ満席でした。客はほとんど団塊世代より上と思しき中高年の男女。この世代は時間とお金があり、しかも群れるのが好きなので、早い時間から飲み会をするのです。彼らは7時には引けて、7時以降は若者たちが入れ替わりに入ってきます。居酒屋にとっては、3時半から開店することで従来よりも1回転多く客を確保できるのですからビッグ・チャンスです。これに気づいて早い時間から店を開くかどうかで勝負は決まります。
 消費税増税は、世論調査ではもはや賛成が半数を大きく上回っています。この民意を汲まずに政治家やメディアは何を恐れているのでしょうか。将来世代に負担を残してはいけないとの世代間道徳を日本人の多くは敏感に感じ取っています。そもそも消費税は所得税などよりはるかに「公平」だというのが小生の偏見です。富裕層は所得隠しを必死でしますが、高額商品の消費を止めることは出来ない人種です。所得税を一切払わない宗教法人も消費税は負担します。消費税のどこが不公平なのでしょうか。そして課税逃れを一網打尽に取り締まる決定的手段が国民番号登録制です。これをプライバシーを理由に反対する人というのは余程ひどい課税逃れをしているに違いありません。国際的なリスク回避先として円が買われているのは、日本がやがて消費税を上げて国債残高を減らすだろうと、市場が国債と国内貯蓄との相殺を信じているからです。
 高校野球が爽やかだということを小生も全面的には否定しませんが、出場校の顔ぶれを見ると、私立学校の営業戦略としての側面が年を追う毎に強くなっていることも感じざるを得ません。
 以上のように、メディアは安上がりの「条件反射的報道」は止めて、自分の頭と足を使ってきちんとした見識を示さないと、衰退の速度が益々速まると思います。

 ついでに、最近の政治報道で気になる点を指摘します。民主党が政策調査会や税制調査会を党内に作ったり、グループ(分派)が党内に出来つつあることに対して、メディアが「自民党に似てきた」と批判する記事が目に付きます。これも条件反射的で表層しか見ない報道の典型です。政党内の合意形成や意思決定の仕組みは、議院内閣制の枠組みの中で、英国、カナダ、スウェーデン、日本等々、国によって様々なヴァリエーションがあります。日本の政党が英国型にならないのは当たり前なのです。自民党の総務会、政務調査会、税制調査会、国会対策委員会といった党内組織や派閥の役割については、佐藤誠三郎・松崎哲久の名著「自民党政権」が既に1980年代に体系的に記述しています。こうした党内組織、派閥によって自民党は長期政権を維持したのです。これが日本の政党政治の組織運営の普遍的形態であったとしても何ら不思議ではないのです。自民党と言えば何でも「悪」と思いこみ、英国型二大政党政治に世界が収斂するというような幻想を今だに抱いている政治記者が多いのでしょう。もちろん自民党的政党組織の負の側面(族議員の特定利害との行き過ぎた結びつき等)について国民としてモニタリングを怠らないことは大切ですが、全面的に否定するのではなく、議院内閣制の下での政党制度は国による多様性を維持し続けると考える方が小生は好きです。文化、制度の多様性こそ人類を進歩させるのであり、特定のパターンに収斂させようとするのは人類の衰退を招くと小生は信じています。
 民主党の問題点は、組織のあり方などではなく、政党としての綱領がないことです。一定の政策群を実現するために政治家が集まるのが政党であり、党の綱領は憲法のようなもので政党の基本要件です。綱領がないということは、民主党の政治家に共通の理念や政策群が存在しないということです。これでは「政党」というより「選挙互助会」だと揶揄されても反論できますまい。自民党、民主党を足した上で、理念、信条、政策によって政界が再編されることを小生は強く期待します。

    
すっかり深い色になった空に浮かぶ秋雲       まだドングリは青々としています       佐渡の本間家能舞台にて(7月31日)

 

11月27日(日)快晴

 朝夕めっきり冷え込むようになりました。今日の大阪ダブル選挙では大阪維新の会が勝利を収めました。小生はあまり大阪の事情を知らないのですが、今日の勝利の記者会見を見る限り、橋下新大阪市長と松井新大阪府知事との間には、人格、志、カリスマ性に隨分大きな落差があるのを感じました。松井氏の発言は主語と述語がいつまでもつながらず、だらだらとしゃべるので、何を言いたいのかさっぱりわからず、いらいらしました。一方、橋下氏の会見には彼のやりたいことが明確に示され、政治家として先を読んで行動しているのがわかります。今後、大阪都構想を進めるには、橋下氏を支え得るもっと有能な人材が必要かも知れません。

 さて、さる10月22日、府中の森芸術劇場で、府中市謡曲連盟の発表会があり、小生も仕舞「羽衣キリ」を舞わせていただきました(右写真)。今回の羽衣には多少の自信を持って臨んだのですが、やはり腹が据わらず緊張し、扇を持つ手が震えていたと後で指摘されました。まだまだ人間修養が足りません。仕舞の出来はともかく、女性五人から成る地謡が素晴らしく朗々と響く声で謡ってくれたので、楽しく舞わせていただきました。我々宝生流からは、他に、仕舞「高砂」、素謡「土蜘」「玉葛」「蘆刈」が出ました。


 

 

平成24(2012)年1月29日(日)快晴

 

20120124 きょうの東京多摩地方は乾いた北風が吹き付ける寒い日でした。先週は久々の積雪で、あちこちの道路や通路が凍りついて何度も滑って転びそうになりました。左写真は一橋大学の兼松講堂前にこさえられていた雪だるまです。雪の降った日にここを通った時には無かったのですが翌朝にはしっかり出来上がっていました。

 

 さて、2000年から2006年頃は、世界的に景気回復と資産価格上昇が見られた時期です。世界同時の信用膨張期において、各国の金融規制・監督当局は、様々な異なる対応をとり、結果として、ある国では資産バブル発生を未然に食い止め、別の国ではバブル膨張を抑制できず、その崩壊による金融システム不安定化を招来しました。この世界同時の信用膨張期に各国がどのようなプルーデンス政策(信用秩序維持政策)をとったかについて、成功事例、失敗事例を比較することは歴史的教訓として重要です。

 

 2006年前後の日本のケースでは、金融庁が証券化商品について不動産業者や銀行に相当厳しくチェックをかけ、結果としてバブルを拡大させないことに成功し、その後リーマン・ショックが伝播して生じた信用収縮が金融システムに与える影響も最小限に食い止めました。また、一部のREITや新興不動産業者の倒産があったものの、REIT市場全体としてはその後も正常に取引が行われ、不動産ファンドの規模も横這いで推移しており、深刻な不動産不況を喚起するような作為過誤も生じませんでした。結果としては、80年代バブルを抑制できなかった大蔵省の教訓から学んだ金融庁の踏み込んだ対応は「なすべき作為をなした」ことになります。同時期の米国の住宅バブル膨張に対するFRBの対応(不作為過誤)と比較すればこのことは明らかです。なお、カナダも米国の隣国で影響を受けやすい国であるにもかかわらず、不動産バブルを未然に防ぎ金融システムが揺らぐことはありませんでした。

 

 さて一方の米国です。2006年当時、米国の住宅市場は既に陰りが見えていました。しかし、最近公開された2006年のFOMCの会議の議事録を分析したニューヨーク・タイムズの記事によれば、当局者たちは2006年を通じて「重要課題は景気過熱によるインフレの恐れである」と論じ続け、住宅市場が経済を揺るがす可能性についてほとんど注意を払っていませんでした。彼らは住宅業者が何とか住宅を売ろうともがく様子をジョークのネタにしていました。FRBの理事らが住宅市場の重要性を認識しなかったのは、第一に、住宅市場が金融市場と密接に関係していることに対する認識が足りなかったこと、第二に、金融技術によってリスクが広く分散されることによって金融システムが強化されていると信じ込んでいたことが原因である、と分析されています。

 

 

3月17日(土)雨

 ようやく梅が咲き誇るようになりました。この写真のように白梅が青空に映えた時の清冽さが小生は大好きです。

 さて、小生は、放送大学でご指導いただいた御厨貴先生のお弟子さんたちと一緒に、以前から「政権交代研究会」というのをやっています。今般、そのメンバー12人で分担執筆した御厨貴(編)「政治主導の教訓」という本が勁草書房から刊行され、小生も第9章を書いております。もしよかったら見てみてください。アマゾンでも案内していただいています。 御厨貴(編)「政治主導」の教訓: 政権交代は何をもたらしたのか

 小生の書いた第9章「世論応答と専門知の相克」は、最近Aoneさんが掲示板(読者の広場)に書き込んで 下さったのと同じ問題意識です。要は、亀井静香氏のようなポピュリスト政治家が金融担当大臣を担うと、資本主義の規律が失われ、企業も個人も国にもたれかかるようになる、これがどうにも小生には我慢がならなかった次第です。財政の問題も同様ですが、ばら撒きを良しとする政治家はもう願い下げにしたいものです。富の再配分も重要ですが、健全な起業家精神と競争による切磋琢磨が途絶えてしまうと富の源泉を失うことになり、日本には未来はありません。外国からの借金が返せないことを恥とも思わないギリシア国民のようにはなりたくありません。世界から尊敬を集めて生きるのと侮蔑の目で見られながら生きるのと、どちらを選びたいのか、21世紀は各国国民の覚悟が問われているのだと思います。

 東日本大震災から一年が過ぎました。この震災の後の地元信用金庫の苦悩と使命感を描いたドキュメンタリー番組について記しました。既にフェイスブックで公開していますが、今回 東日本大震災と金融機関として掲載しましたので、こちらも是非ご覧下さい。

 

 

平成25(2013)年3月23日(日)薄曇り

 ここ東京多摩地域も今年の冬は寒かったですが、三月中旬から急に暖かくなり、国立(くにたち)の大学通りの桜も満開に近い咲き方で、入学式ではなく卒業式に間に合わせたかのようです(下写真)。この一年は研究生活が佳境に入り、ホームページの更新もままならず、年賀状も欠礼してしまう有様でした。年賀状をいただいた皆様にはお詫び申し上げます。来年三月までは時間に追われる日々となりそうです。

 先週は久しぶりに水道橋の宝生能楽堂へ出向き、小生と縁ある藪克徳さんがシテを務められた能「志賀」を拝見しました。六歌仙のひとり、大伴黒主が詠んだ桜の和歌をモチーフに、山の神となった黒主が夜神楽を奏して舞います。颯爽とした舞姿が春らしい風情を醸し出していました。旧知のS氏とも久しぶりにお会いしてお話できました。S氏も新しい自分の道を切り開こうとしておられ、励まされました。

 さて、昨年五月に母校の愛知県立岡崎高校からのご依頼で、全校生徒の前で「進路講演会」の講師を務めました。高校生約千人向けの講演は思いのほか自然体で話せました。質問もいくつか出て楽しかったです。今触れてみると、高校生はずいぶん幼く感じますが、自分もあんなだったのだろうな、と感慨深いものがありました。今般、その内容が同校機関誌「學友」第五十六号に掲載されました。「學友」ご担当の先生のお許しをいただいて掲載しますので、よろしければご覧下さい。タイトルは自由をよりよく生きるためにです。

    

 

 

平成26(2014)年3月27日(木)晴れ

 ぼちぼち四国、九州あたりからソメイヨシノの開花が聞かれる頃になりました。愛知県豊田市の我が実家の玄関先には水仙の黄色の花が可憐に咲いています(左写真)。この一年は論文書きに追われ、ホームページを更新する暇もなかったのですが、ようやく一段落しました。追い追いホームページも復活させてゆこうと思います。

 さて、3月22日(土)に紀尾井ホールで神戸市室内合奏団と同混声合唱団によるミヒャエル・ハイドンのレクイエム・ハ短調をメイン・プログラムとする演奏会がありました。この曲は20年後にモーツァルトの遺作のレクイエムのモデルとなった名作ですが、演奏される機会は多くありません。小生も実演で聞いたのは初めてです。随所にモーツァルトの面影を宿し、人間的な悲しみを敬虔な音楽に昇華させて聞く人の心を捉えて離しません。ミヒャエル・ハイドンのレクイエムの他には、モーツァルトの「セレナータ・ノットゥルナ」ニ長調K239が思いのほか楽しめました。ティンパ二を含む弦楽合奏に乗せてミニ弦楽アンサンブルがソロを奏でる変わった編成の曲ですが、モーツァルトの才気があふれていました。ソロ・ヴァイオリンを弾いたコンサート・マスターの白井圭さんもあちこちに即興のアレンジを入れて楽しそうでした。

 ミヒャエル・ハイドンの名作を聞くにつけ、モーツァルトの音楽に最も大きな影響を与えたのはヨーゼフとミヒャエルのハイドン兄弟、それに大バッハの末息子ヨハン・クリスティアン・バッハだとつくづく思いました。小生が演奏会を企画できるなら、「モーツァルトを形成した人々」と題して、前半にミヒャエル・ハイドンの交響曲ハ長調(P31.MH478)とクリスティアン・バッハのピアノ協奏曲変ホ長調(作品17−5)それに前半のアンコールにモーツァルトのジュノム協奏曲の第二楽章を持ってきます。そして後半はヨーゼフ・ハイドンの交響曲101番ニ長調「時計」の後、アンコールにモーツァルトの「ジュピター」交響曲の終楽章を入れたいですね。三つの交響曲の共通項は対位法であり、二つのピアノ協奏曲の共通項は深い悲しみを宿した中間楽章です。こうして並べて聞けば、モーツァルトがいかにハイドン兄弟とクリスティアン・バッハに負っているかが耳で納得できるはずです。どなたかこのプログラムを採用してくれる演奏家の方はいらっしゃらないでしょうか?めったに演奏されない曲だけでなくポピュラーな曲も含めてありますので観客も動員できると思いますが…(^^;。


 

平成26(2014)年3月29日(土)薄曇り

 実家近くの公園や少年野球で賑わっているグラウンドを散歩していると、下の写真の通り、桜のピンクや柳の緑が目に飛び込んできました。facebookの友人たちからも日本各地の桜便りが次々に届く季節になりました。海外で仕事に従事する友人たちからは、日本の春が懐かしいとか羨ましいといったお便りも届いています。

 

 さて、青木昌彦スタンフォード大学名誉教授のおそらく初めての日本語の新書本「青木昌彦の経済学入門」(ちくま新書)を読みました。この本は、青木昌彦の「経済学入門」ではなく、「青木昌彦の経済学」入門、です。つまり、青木先生が経済学一般の入門書を書いたのではなく、「青木経済学」「青木比較制度論」の入門書として書かれたものです。尤も、書き下ろしは第4章の一部だけで、あとは過去10年ほどの既出の文章をテーマに応じてまとめたものです。制度論や比較制度論は、社会科学の一つの山脈を形成しており、経済学だけではなく政治学や社会学にも跨っています。小生は、和辻哲郎の「風土」や梅棹忠夫の「文明の生態史観」も比較制度論の先祖だと思います。早くから西洋文明と対峙し折り合いを付けようと苦労してきた近代日本が、西洋をモデルとするだけの歴史観に対抗して、西洋以外のアジアやイスラム世界も包含して説明できるようにと作り上げてきた「公平な」歴史モデルだと思います。

 この新書の最後に掲載されている「先進都市化と卓越したチーム力を競おう」という文章は、今年正月の日経新聞の「経済教室」に寄せられたエッセイですが、バブル崩壊後の日本を「失われた20年」と位置付ける誤った認識を批判しつつ、制度の過渡期としての現代日本の可能性を都市経営とエリート・スポーツを例にして論じたものです。その視点は公正で冷静でしかも示唆に富んでいます。

 小生にとって思いのほか面白かったのは、2000年に行われた青木先生とミルトン・フリードマンの対談です。フリードマンの世界や日本についての議論は、とても88歳とは思えない澄み切って骨太な洞察から発しており、ちょっとやそっとの反論ではびくともしないような堂々たる自由主義的人間観に小生は感服しました。例えば、1997年〜98年のアジア通貨危機について、為替相場を市場に任せて変動させた日本に危機は無くタイや韓国が通貨危機に陥ったのは、IMFの指導でドル・ペッグ制を採用したためであると喝破し、「IMFは加盟国の税金を使っているが、我々納税者はIMFに何も注文することができない。民主的な政治構造を持たない国際機関が我々の将来を向上させるのに役立つはずがありません」と述べています。確かに国際機関に対するガバナンスは大きな問題で、フリードマンはIMFや世界銀行は20年ほど前に廃止されるべきだった、ときっぱり言い切っています。

 また青木先生が、ソ連崩壊後のロシアがアングロ・サクソン流の法制や経済システムを一気に移入しようとして、歴史的経緯との適合性を無視したことが改革失敗の原因だと指摘したのに対し、フリードマンは、ハンガリー、ポーランドや香港において法の支配のもとで自由な民間市場が定着した例を挙げ「私は、問題がアングロ・サクソン流のシステムの移入にあったとは思わない」と反論し、全く動じません。さらに、日本の「失われた20年」についても「私は日本の資本主義に誤りがあったとは思わないし、アメリカなどの資本主義と比べて違いがあるとも考えていません」とした上で、ただし財政政策に依存したのと通貨供給を増やす金融緩和をもっと大胆に行わなかったことが誤りだと指摘しています。当時の財政出動の負の遺産とも言うべき現在の日本の巨額の国債残高と黒田日銀の遅れてきた大胆な金融緩和の一応の成功という現実を見ると、この2000年におけるフリードマンの骨太の指摘は的を射ていたと言わざるを得ません。

 最後にフリードマンは「今日のアメリカ経済の繁栄は日本のおかげなのですよ。80年代に日本の自動車や電気製品と競争するため、アメリカ企業は大きな変革を迫られました。GMやフォードなども、日本企業との競争が無ければ、今日のような低コストで自動車を生産することはできなかったでしょう。有効な刺激を与えてくれたという意味で、アメリカは日本に大きな借りがあります」と述べています。フリードマンの透徹した自由競争への信頼は、アメリカ企業を甘やかしたりはしないのです。その意味で彼の自由主義は公平だと感じました。

     

 

平成27(2015)年1月22日(木)雨

 寒い日が続きますが、お変わりないでしょうか。さて、小生は現在、コンサル業をやりながら一橋大学の博士後期課程に在学して研究生活をしていますが、最近二年間は、愛知県の私立大学の非常勤講師も務めてきました。最初の一年は「金融論」と「証券市場」を担当し、二年目はこれらに加えて「金融機関の業務と機能」「生活金融」という科目も担当しました。来る四月からは他の大学で正規の職に就くことになり、この大学での小生の授業も今週で終わって、来週の後期試験を残すのみとなりました。自分の職業人生活での経験も活かしつつ、黒田日銀の量的質的金融緩和やビットコインといった現在進行形のトピックスも取り入れながら、金融経済学的思考方法を体得してもらい、最終的には学生自身で考える力を養うことを目標に授業をしてきました。学生たちは当初予想していたよりはるかに熱心に聞いてくれました。最後の授業の後で、少し進路相談に乗ってあげた学生は「一年間ありがとうございました」とお礼に来てくれましたし、毎回最前列で熱心に聞いてくれた学生は「先生は来年は来られないのですか」と残念がってくれました。またいつも質問に来てくれた社会人学生は「この授業はいつも楽しみにしていました」と言ってくれました。教師という仕事の面白さを少しばかり味わわせてもらった二年間でした。写真は大学での授業風景です。

 今週発生した「イスラム国」による邦人二名の殺害予告については、池内恵(さとし)先生のコメント「イスラーム国」による日本人人質殺害予告について:メディアの皆様へを銘記すべきだと思います。テロリストを刺激するな、といった日本のメディアがしがちな議論は、暴力から逃げ回ることしか考えない虚弱な精神の反映です。そうしたメディア報道がまかり通るような国は、テロリストが最も標的にしやすいということを理解すべきです。闘うべき相手とは断固として戦うという精神を失ったら、人間も国家も卑屈な四流人物、五流国家になって、周囲から侮蔑されるだけです。経済的に豊かであっても、尊敬に値しない虚弱な精神の持ち主には小生は決してなりたくありません。池内先生は、小生の敬愛するイスラム圏の専門家です。このウェブサイトの「日本を映す鏡としてのイスラム世界」もご参照ください。


 

平成27(2015)年2月16日(月)晴れ

 三寒四温というのでしょうか、昨日はここ東海地方も北風が吹いて空気の冷たい日でしたが、今日は風もなく穏やかな日差しが心地よく感じられます。先週ようやく一橋大学に博士論文の最終稿を提出しました。あとは3月13日の結果発表を待つばかりです。ちょうど大学構内の梅の巨木も咲き初めて、つぼみも今にも開きそうに膨らんでいました(左写真)。

 さて、フランスの経済学者、トマ・ピケティ氏の「21世紀の資本」がベストセラーになり、「成長と格差」について論じられることが多くなりました。小生の見た限り、「成長と格差」の議論で有益だったのが2月11日付日本経済新聞「経済教室」の森口千晶一橋大学教授の論説です。第一に、森口氏はピケティ氏の功績を「税務統計と国民所得計算から所得占有率という格差の指標を推計する方法を編み出し、自らフランスの歴史統計を駆使して新たな事実を明らかにした」ことであると明快に位置付けています。つまり、ピケティ氏の功績は、資本主義への懐疑などといった曖昧な思想的議論ではなく、経済成長と格差の関係についての実証方法の確立にあるわけです。彼の本を「21世紀の資本論」扱いするのは全く的外れと言えるでしょう。第二に、森口氏は自身も関与した日本の分析結果を米国などと比較し、日本は戦前と戦後とでは高額所得者の所得占有率が全く異なること、1990年代以降の日米の所得占有率は異なる軌道を描いており、米国が明確に格差拡大を示しているのに対し、「日本の上位所得シェアは歴史的にも国際的にも依然として低い水準にあり、ピケティ氏が警告する『富裕層のさらなる富裕化』が起こっているようには見えない」と述べています。小生はこの森口氏の実証結果に大いに納得します。日本経済にとってより重要な問題は「分配」ではなく「成長」であると小生は考えます。


 

平成27(2015)年2月23日(月)曇り

 旧暦の新年も過ぎました。今日は特に暖かな春の空気を感じる一日でした。歩いていると、春を感じさせる草木にもよく出くわすようになりました。左の写真は愛知県豊田市の実家の庭に咲き初めた福寿草です。ふだん何気なく踏みつけているような所から、ある朝気づくと黄色の花が顔を出していて驚きました。まるで「私たちのことを忘れないでください」と訴えているかのようです。右の写真は、名鉄三河線「若林」駅から徒歩5分ほどの所にある逢妻男川の岸辺に咲いた紅梅です。鮮やかな色合いは目を引きます。

 豊田市内を南流する逢妻男川と逢妻女川が、豊田市と知立市の市境付近で合流し逢妻川となって衣浦湾へ注いでいます。逢妻男川は名鉄三河線に沿って流れているので、小生の子どもの頃から青春時代にかけての生活の風景のひとつでした。でも昔は生活用水や工場の排水も流れ込んだどぶ川でした。今でも同じような状態かと思って川をのぞいて見ると、意外にきれいなのにも驚きました。流域の子どもたちやボランティアによってかなり清掃活動が行われるようになり、魚たちも棲息しているようです。工業都市に住む人たちも自然環境を大切にする時代になったのだと実感した次第です。

     

 

平成27(2015)年8月15日(土)晴れ

 戦後70年に際して、安倍晋三首相の談話が昨日発表されました。19世紀の西洋列強のアジア進出から説き起こし、近代日本の世界史上の役割とその限界を指摘・自覚しつつ、戦後70年の歴史を誇らしく振り返っています。適切でオーソドックスな日本近現代史回顧だと感じます。 また、第二次大戦直後の日本の困窮に戦勝国が手を差しのべたことへの感謝を述べているのは、これまでの日本の政治指導者が触れなかった点ではないでしょうか。このくだりもよくできていると思います。 さらに、戦後我が国が自由と民主政治を守ってきたことを強調することは、中国の政治体制や近年の独善的国際行動への「批判」「あてつけ」にもなっており、これもよくできていると感じました。韓国と中国だけがこだわるキーワードがいくつ入っているとか入っていないといったくだらない詮索をせず、素直に読めば、よくできた談話だと思います。全文を通して読むことをお勧めします。

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