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1960年代の牧阿佐美バレエ団定期公演の思い出   (2009.12.05)
日本の少女達の「お稽古ごと」の人気は、バレエがピアノを抜き、トップになったそうです。また、大人になってバレエを始める女性達が増えているとのことです。西洋で生まれたバレエが、今や日本にも根付いてきたということでしょう。また、ローザンヌ・・・での、日本人の若手ダンサーの活躍も、目を見張るものがあります。
 
でも、つい半世紀前の1960年代頃は、バレエは、日本では、一部の人たちだけが楽しむ贅沢品で、一般的ではありませんでした。 それでも、マーゴ・フォンティーン主演ポールツィンナー制作の映画「ロイヤルバレエ」が公開されたり、ロイヤルバレエの日本公演が行われたりして、徐々に、バレエは、一般に知られるようになりました。
 
そんな中、1960年半ば頃から、牧阿佐美バレエ団は、ティーンエイジャーバレエ団の愛称で親しまれていました。 プリマバレリーナの牧阿佐美を筆頭に、大原永子、斉藤弘子、そして、当時まだ10代の森下洋子、靫啓子、川口ゆり子、武者小路由紀子といった若きホープが続いていました。 中でも大原永子、森下洋子は、少女雑誌のグラビアの常連で、バレエを志す少女達の憧れの的でした。
東京オリンピックの頃から、牧阿佐美バレエ団は、旧大手町サンケイホールで、隔月ベースで定期公演を行うようになりました。これには、日本にバレエをもともっと広めたいという、亡き橘秋子さんの思いがあったのだと思います。でも、お客を集めるのはとても大変で、バレリーナ自身にも切符を割り当てられ、自ら売りさばきに走り回ったそうです。 バレエの鑑賞の会員になると安く観られるということで、私も牧阿佐美バレエ団の学生会員になって、毎回500円で見に行きました。 当時でも数千円が相場でしたので、これはバレエ団としても、かなりの出血サービスだったに違いありません。でも、こうまでしても定期公演を絶やすまいという橘秋子さんの努力が実って、バレエ愛好家が増加し、今日のバレエブームが 到来したのだと思います。
 旧大手町サンケイホールの舞台
牧阿佐美バレエ団の定期公演の1960年代の思い出の舞台を挙げて見ます。
 ヤング4人による連夜の「白鳥の湖」の思い出
 武者小路有紀子さんのコッペリアの思い出
 斉藤弘子さんの「くるみ割り人形」
 森下洋子さんのペザント・パドドゥの思い出
 牧阿佐美さんの「眠りの森の美女」
 牧阿佐美バレエ「オーロラ姫の結婚」
 
1971(昭和46)年より、亡くなった橘秋子さんの後を受けて、牧阿佐美と次いで三谷恭三が総監督になったのですが、 これ以降、私は、牧阿佐美バレエ団を見に行く回数が減り、興味は、東京バレエ、小林紀子バレエシアター、井上バレエ団等に移っていきました。理由は、牧阿佐美バレエ団は、橘秋子さんが指揮いていた頃のような輝きがなくなって、コールドバレエも不揃いがちになり、バレエ団としての魅力が薄れてしまったと思えたからです。停滞状況を証拠付けるかのように、バレエ団員の退団者が相次ぎました。 まず、最初に、森下洋子が清水哲太郎との結婚を機に松山バレエ団に去って行きました。 次いで、大原永子は英国スコティッシュバレエに移り、川口ゆり子はシャンブルウェストを組織て退団、 将来のプリマと見られていた佐々木想美が理由はわかりませんが突如退団、上野水香は突然東京バレエ団へ移ってしまいました。 靫啓子は、「ゆうきみほ」と改名、テレビドラマ赤い靴で主役を務めましたが、やはり退団してしまいました。 牧阿佐美バレエ団時代、上野水香はイジメにあって悩んでいたとのうわさもあるほどですから、 これほど主役級のダンサーが退団する背景には、牧阿佐美バレエ団には、若い優秀なダンサーが居づらくなってしまう 雰囲気があるのかもしれません。 ただ一人、主のように残っていた草刈民代も年齢には勝てず引退、スターダンサー不在のバレエ団になってしまいました。

私は、60年代は牧阿佐美バレエ団が好きで良く見に行きましたが、次第に魅力を感じなくなり、70年以降、牧阿佐美バレエ団を 見に行った回数はかなり減ってしまいました。でも、1980年以降も、川口ゆり子の金平糖、草刈民代のオーロラ姫、上野水香の金平糖など、 魅力あるダンサーの踊りに接することはできました。最近では、伊藤友季子さんのような若手も育ってきているようです。 こんな若手が伸び伸びと活躍できる場を提供し、レベルが落ちた?と思われるコールドバレエを立て直して、牧阿佐美バレエ団が以前のように輝きのあるバレエ団に戻るよう、願ってやみません。

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