42号                                                           2001年3月

 

 

書店員はスリップの夢を見るか?

 ふと思い立ち、出版社の従業員の数を調べてみた。情報源は『日本の出版社 1998』(出版ニュース社)。ただし、97年9月のデータなので、今現在はおそらく若干違うはず(増えてるところはまずなかろうと思うが)。ちなみにこれはあくまで正社員で、バイトその他は入ってないと思われる。

パロル舎    3名
未知谷     3名
出版芸術社  6名
本の雑誌社  10名
評論社     10名
久保書店    12名
晶文社     13名
みすず書房   24名
東京創元社   29名
幻冬舎      29名
新人物往来社 50名
早川書房    101名
文芸春秋    397名
新潮社     500名
講談社     1160名

 こうしてみると、小さい出版社は本当に少人数でやってらっしゃるというのがよく分かる。名前的にはけっこうメジャーなところでも、実はびっくりするくらいの少ない人数だったり。でも、注文の電話をしてみると、案外そういうところほど親切だったりする。前に、某社に「○○の本はいつ出るのですか?」と電話で問い合わせたら、「えっと、じゃあ編集者のケータイ番号教えますからそこにかけて下さい」と言われてびっくりしたこともある(笑)。まあそれは特異な例だが、おそらくアットホームな雰囲気で本を作ってらっしゃるのではないだろうか。しかし、全部自分たちでやらなきゃいけないってのは、きっとものすごく大変だろうなあ。頭が下がります。

 

今月の乱読めった斬り!

『リセット』☆☆☆☆ 北村薫(新潮社、01.1月刊)

 北村薫の〈時と人〉3部作のラスト。新潮社のPR誌である「波」2001年1月号で宮部みゆきが言ってるとおり、これは単なる恋愛物語ではなくて、もっと大きい、「親から子へ、子から子へと伝えられる命の物語」なのだと私も感じた。そう、ここにあるのは、時間の中に流れる大きな命のうねり。

 1章の主人公、水原真澄は太平洋戦争末期の女学生。ちょうど、私の母の伯母と同じ世代だ。ああ、きっと大伯母はまさにこんな青春時代を過ごしていたのだろうなあ、と思いつつ読んだ。この本を大伯母に読ませたら、いったいなんと言うだろうか。

 この戦中あたりの女学生の心情を書くのに、北村薫の文体はぴったりだ。現代の若い女性達からは、残念ながら消滅してしまった上品さ、清らかさ。そういうものが実にうまく書けている。なるほど、彼の理想の女性像は、ひと昔前の女性だと考えればぴったりくる。考えてみれば、「私」シリーズの主人公だって、現代にはちょっといなさそうな子だった。ちょっと昔なら、ああいう子はけっこう普通だったのかもしれない。

 真澄だけでなく、出てくる人々すべてのちょっとしたことに、今の日本人の失ってしまった何かがにじみ出ている。今でもお年寄りと話をしていると出てくる何か。なんといったらいいのだろう、慎み?奥ゆかしさ?思いやり?自己犠牲?少なくとも、現代にはびこる「ジコチュー」とは180度違うところにあるものだ。こういう昔のひとがもつ美しさに出会うと、私なんぞただのワガママな子供なのではないか、と時々恥じいってしまう。

 2章から登場するもうひとりの主人公、村上和彦。これは年代からして北村薫自身だろう、きっと。40代くらいの方が読んだら、懐かしさ炸裂ではないだろうか。そして、ここに真澄の人生が交差する…。

 恋愛物語に関しては、ありがちな設定。『ライオンハート』(恩田陸、新潮社)と一ヶ月しか発売がずれてないというのも、ちょっともったいなかった気がする。物語のダイナミックさという点においては、恩田陸にかなわない。ただ、そこはむしろどうでもよくて、先ほど書いた「あの時代に生きていた人々の美しい心」と、「あの時代のことや死んだ人のことを生きている人が覚えている限り、その命は今も心の中で生きてて、ちゃんと受け継がれているのだ」ということ。その2つに深い感銘を受けた。

 そう、命は「心から心へ」受け継がれていくものなのだ。大いなる時間の中で。あなたの命も私の命も。

『夜聖の少年』☆☆☆1/2 浅暮三文(徳間デュアル文庫、00年12月刊)

 なんだなんだ、実はグレさんてSFのひとだったんですね!これがあの『ダブ(エ)ストン街道』『カニスの血を嗣ぐ』と同じ作家の作品とはとても思えない(笑)。この方、ひょっとして恩田陸ばりにたくさんの引き出しを持った作家かもしれないぞ。これで、このひとにしか書けない「何か」さえ明瞭に出てれば文句ナシ(今のところ、私には彼の「何か」は発見できてない)。とにかく、少年の成長冒険小説として、非常に楽しめる一冊。わかりやすく、よい出来のエンターテイメントだと思う。

 おとなになる直前に、戦いの本能を抑制する遺伝子を強制的に移植される世界。それを拒んだ少年少女たちは、「土竜」と呼ばれ、地下で飢えと死の恐怖におびえて隠れ暮らしていた。彼らは社会の秩序を乱した者として、炎人から発見され次第殺されるという過酷な運命にあったのだ。

 これは、その「土竜」であるひとりの少年、カオルの物語である。他の粗野な少年たちとは一風変わっていた彼の出生に秘められた過去とは…?

 どことなく、「銀河鉄道999」を彷彿とさせる話、といったら突飛すぎるだろうか。なんてことないひとりの少年が、とある冒険にまきこまれ、それを経て成長し、やがて大人の作った管理社会に疑問を持ち、立ち上がる。そして、こういうストーリーはやっぱり読んでて「面白い」のだ。読後感も爽快そのもの。

 現在少年(少女)の方も、かつてそうだった方も、一緒になって楽しめる本(たとえば目黒さんなんかが読んでも全然オッケーでしょう)。読者層を問わず、広くオススメできる一冊。

『そして粛清の扉を』☆☆☆☆ 黒武洋(新潮社、01年1月刊)

 第1回ホラーサスペンス大賞受賞作。設定を読んだ限りでは『バトル・ロワイアル』のパクリかと思っていたが(確かに著者もこの話を書くにあたり、ある程度意識してはいるだろうが)目指す方向が全く違っていた。180度違うといっても過言ではないだろう。結論からいってしまうと、たいそう面白く読めた。小さな不満はいくつかあれ、これだけ書けていればじゅうぶん及第点であろう。

 ひとことで言ってしまうと、娘を暴走族に殺された女教師のリベンジもの。荒廃しきった自分のクラスの高校生たちを人質にとり、彼らの隠された恐るべき罪をあばきつつ、どんどん処刑してゆく話。生徒達がガンガン殺されていくのだが、『バトル・ロワイアル』と全く違うのは、この話が「殺す側」から書かれていることだ(『バトル・ロワイアル』は、なんの罪もない子供達が単に大人のゲームのコマとして殺されていく。その子供達側、「殺される側」から書かれた物語だった)。

 著者はあえて子供達を徹底した「悪」としてのみ描いている。女教師が次々とその「悪」を裁いていく姿は、不快でも恐怖でもなく、むしろ爽快。彼女は愉快犯ではなく、全てを承知していて、彼女なりの「社会への復讐」という理屈があってやっていることだから。そしてこの殺人をして読者に「爽快」と思わせてしまうところが、この本が問題点と呼ばれる所以である。つまり、「正義ゆえの殺人は許されるのか?」という点である。このテーマは宮部みゆきの『クロスファイア』に近い。

 そして著者は、弦間がつぶやくセリフによって読者に大きな問題を投げかける。

「…間違っていたのは誰だ?……社会か?……法律か?……加害者か?……遺族か?……一番間違っているのは誰だ?……」

 甘ったれて自分の快楽しか考えず、他人の痛みならず命までも踏みつけて平気で生きている子供達。彼らへの怒りはいったいどこにぶつければいいのか?著者は、決してこの女教師の行為が正しいとは書いていない。その答えは、上記の独白によって、読者にゆだねているのだ。

 なるほど、「人間がいちばん怖い」(by宮部みゆき)ということか。これがホラーサスペンス大賞を受賞するというのは、なんとも空恐ろしい世の中である。非常にブラックなエンターテイメント。

『ぶらんこ乗り』☆☆☆1/2 いしいしんじ(理論社、00.12月刊)

 本の雑誌2001年3月号の「新刊めったくたガイド」で、吉田伸子さんに絶賛されていた一冊。その熱さに惹かれて読んでみた。うむ、これ、まこりんさんは言うまでもなく、ヒラノマドカさんあたりがツボなのでは。私の第一の感想は、「この作家の小説をもっと読んでみたい」である。とりあえず、要チェックの作家のひとりにランクイン。

 なんとも不思議な物語だ。最初から最後まで、淡い夢のよう。そして、全編を通して、底辺に透明な悲しみが流れている。地下水のように静かに。

 物語には、ストーリーによって読者をひっぱるものと、『ノスタルギガンテス』のように、ストーリーはあってなきがごとしだが、それ以外の「何か」が書かれてるものの2種類があると思う。そしてこの本は間違いなく後者である。

 4歳の頃から物語を書くことができた天才少年と、その3歳上の姉。今は高校生になった姉が、弟の書いた昔のノートを読みつつ彼を回想する。ぶらんこに魅せられ、その事故でひどい声になってしまったため、一切しゃべるのをやめ、庭のぶらんこの木の上で暮らすようになった弟。周りの同年齢の子供から明らかに浮いている彼の、繊細な心から生まれる物語の数々。それは彼の心象風景をそのまま描いていて、ユーモラスだがどこかさみしい。なんだか胸がつんとする。そんな弟を優しく包み込むように見守る姉。

  この本に書かれている「何か」というのは、「水彩画のように、輪郭のぼやけた悲しみ」だと思う。くっきりと強烈な線でひとの胸を激しく打ち、涙をぼろぼろ流させる、という物語とは一味違う。ただただ、読み進むうち、胸の奥がしんと静かになり、悲しみがひたひたと打ち寄せ、いつか満ち潮になっている、そんな感じ。

 心が透明な水色に染まったような感触。なんとも切ない余韻を残す一冊。

 

特集 DASACON5レポート

  3月24日(土)〜25日(日)にかけて、箱根温泉のますとみ旅館において、DASACON5(読書系ネット者のオフ会)が開催されました。恒例の企画はいっさいなく、温泉にゆっくり入ってただひたすらしゃべり倒すのが目的という、実に慰安旅行テイストのオフでした。話がネタ切れになったりしないかな?と思ったのは全くの杞憂。とぎれることなく、いろんなネタが出るわ出るわ!(笑)実にまったりと楽しいひとときでした。

 夕方6時スタート。まず大広間にて、テーマソングをBGMに(笑)真赤なシャツでガオレッド仕様(風邪で来れなかったうちの娘対策)の総統の挨拶&乾杯。夕食を食べていると、いきなりステージでひとりずつ自己紹介&抜き打ち企画「今日持ってきた本の紹介」の指令が。これには一同びっくり。が、この企画、けっこう面白かったです。意外なひとが意外な本を読んでいたり。人気があったのはハヤカワ文庫の新刊『星界の戦旗3』。驚いたのは、(オークションをやるわけでもないのに)ひとりで何冊も本を持ってきてる方が多かったことです。さすがは本読みオフ。でもなぜに?ああ、お買い物帰りの方がいらしたのね。秋葉原に寄ってからいらした方とか。

 ちなみに私が行きの電車で読んでて紹介した本は、もちろん『遠い約束』(光原百合、創元推理文庫)です。野間美由紀の表紙に驚いてる方がけっこういらして、「どこのレーベルなんですか?」「えっ、ホントに創元推理文庫なの?」「背表紙見せてください!」…黄色の背表紙を見せたら、「おお〜っ」と納得の声が。ステージから帰る途中に、湯川さんに嶽本野ばらちゃんの切抜きをいただく。ヘアスタイルが野ばらちゃんそっくりのπRさんからは『それいぬ』ハードカバーを。ありがとうございます!(しかし、私=野ばらちゃんという図式はいつの間に?^^)

 あとはひたすら歓談タイム。お風呂に行くひとは行ったり。女性陣は宿についてからすぐ入り、夜もう一度入りました。小さいけど、露天風呂もあり。は〜、極楽。無色無臭のいいお湯でした。実にたくさんの効用がある温泉らしいです。食事の片づけをしてもらってから、大広間の後ろ側を使って、ディーラーズの店開き。机移動中にらじさんと少しお話。おお、光原百合さんとお知り合いなんですか!のむのむさんからは『谷山浩子童話館』を100円で譲っていただく。ありがとうございます!しかし、なぜ浴衣の袂から本が?(笑)

 MZTさん総統、πRさんたちと、昔のSF話など。総統は相変わらず、本の内容説明がむちゃくちゃでオカシイ(笑)。MZTさんが大ウケしてました。そのMZTさんには、ダイジマンからの預かり本を渡して、大いに喜ばれました。久保書店SFはコンプリートだそうで、おめでとうございます。

 ワタクシ的に最もださこんらしい盛り上がりを見せたな、と思ったのは『かめくん』談義。のむのむさんが、まず「ヒガさんとミギタさんがぐちょぬちょになっちゃう、あれは何?意味があるのかないのか?」と納得いかない旨を述べ始めたあたりからスタート。おおたさんヒラノさんあたりが中心になって、あちこちからさまざまな意見が。

 結局のところ、のむのむさんの疑問を突き詰めてみると、「あのエアコンとかあれやこれやのネタはハードSFのネタとして書いてるのか?だったらなぜきっちり説明しない?」というのが、わかる人にはどうも気になってしまうらしい。私は「ん?ここ、何かあるな?」というのはもやもや〜んとはわかったが、あれがハードSFネタだとは全然気がつかなかったクチ。おおまかにいって、あの本の捉え方はのむのむさんのようなハードSF読みの人と、私のような薄い人ではかなり違う、というのが判明。けっこう目ウロコなご意見だったので、非常に興味深かったです。

 同じく北野勇作の『昔、火星があった場所』『クラゲの海に浮かぶ舟』と比較した話がヒラノさん、おおたさんからいろいろと出てましたが、聞いててもやっぱり読んでないことには何もわからず、残念。デュアル文庫がもうひと足早く出てればよかったなあ。私が知りたかったのは、この2冊も、『かめくん』みたいに何かネタをふってはあるけど説明せずにそのまま雰囲気だけぼや〜んと出しているのか、つまりあれは北野勇作のスタイルなのか、ということだったのだけど。まあ、5月の文庫化を待ってからだな。

 あの表紙&挿絵はどうか、という疑問も出て、いろいろ意見が出てました。私はあれでいいと思う派。あれが平台に載ってたらどうだ?とか、皆かなり真摯に「いかにしたらもっと売れるか?」という話をしていたのがすごい。「もっともっと売りたい!」という、あの熱意はどこから来るのだろう。

 あとの印象的なテーマは「ガオレンジャー&仮面ライダークウガ」談義(笑)。これは総統、向井さん森山さん七沢くんなどが中心に話を盛り上げてました。もう、観客みな爆笑につぐ爆笑!そ、そんなに「やおい」系&むちゃくちゃな話だったとは!いやー、それにしてもみんなよく覚えてるよなあ、細かいとこまで。総統はともかく、森山さんが妙に詳しいのがおかしかったです。向井さんもすごかった。総統と互角に話してたからなあ。

 森山さんとは、リアル書店&オンライン書店の話などなど。「そういえば、オンライン書店って万引きがないのはいいですよね」とか。森山さんは本当に熱血書店員である。いつもいつでも、もっとお客様を増やすにはどうしたらいいか?と考えてらっしゃる、実に前向きな方。こちらも気持ちが引き締まる思い。ううむ、何かいいアイデアがあればいいんですが。しかし、リアルにしろオンラインにしろ、儲けを出すのが非常に難しい仕事ですね、書店業って。

 湯川さんは予告どおり、ちゃんとビデオデッキを持参しており、男性側のひと部屋を使ってビデオ上映会が催されていました。ついつい話に夢中になって、「キャプテン・フューチャー」を見にいかれず、すみませんでした。けっこう盛り上がったご様子。

 明け方、パソコン関係の話になったあたりで睡魔に負け、2時間ほど就寝。

 翌朝9時にまた大広間に集まり、エンディング。ウサ耳をつけた総統がご挨拶。「ひと晩、ひたすらしゃべり倒す」という志は遂げられたようで何より。

 しかし箱根にも、ださこん徹夜明け御用達喫茶「ルノアール」があったのには驚き!(笑)ここで朝食をとりつつ、10人くらいでまたわいわい話し、各自帰宅&元気な方は引き続き観光&遊びに。私はロマンスカーで爆睡しつつ帰宅。森山さんいわく、「実にヘルシーなオフだった」(笑)。


 いろんな話が聞けて、公私共に勉強になりました。充実したひとときでした。でもやっぱりひとつくらいは企画があったほうが全員で盛り上がれるのでは(と思ってたら次のDASACON6はまた企画立ててゲストも呼んで東京で、って話らしいです)。皆様、お疲れさまでした&ありがとうございました。スタッフの皆様、いつもご苦労様です。また次のださこんでお会いしましょう!


 

ダイジマンのSF出たトコ勝負!

 いやはや正直驚いた。あのTVアニメ版『キャプテンフューチャー』が、20年以上の沈黙を破り、初の再放送だと言うからムリもない。

 でも実を言うと、1978年から79年に渡ってNHKにて放映されたこのアニメシリーズについて、ぼくが語れることはなんにも無い。確かに観てはいた。でも毎回欠かさず…なんてありえないし、記憶の欠片が数パーツしか無いのだから。まして主題歌など、なおさらサッパリという始末である。

 しかし、初めて買った文庫本が『挑戦!嵐の海底都市』(ハヤカワ文庫SF)であるぼくにとっては、《キャプテン・フューチャー》というものが、実に、実に大きな存在なことも、紛れもない事実なのだ。アニメ版にだって、マイ・ファースト・チャリンコ(補助輪着脱可)が《キャプテンフューチャー》ものだったという程度には、馴染みが無いワケでもない。

 今回は衛星波ということで残念ながら視聴できる環境にないが、いやナニ、いずれ楽しむ機会も有るでしょう。これまで余りに待たされ続けたファンの間を、様々な憶測と情報の断片が錯綜したものだが、ぼく自身も「マスターテープの消失」という最悪のシナリオを半ば信じていたので、まずは一安心。喜びをもって迎えたい。

 そういう次第なので、代わりに『SFロマン キャプテンフューチャー』(原作/E・ハミルトン、構成/辻真先、朝日ソノラマ1979年)を取り出し、思いを馳せてみよう。

キャプテンフューチャー1 キャプテンフューチャー2 キャプテンフューチャー3

 ご覧の通り、アニメ版のノヴェライゼーション。でも、このシリーズは3冊しか出ていないようである。辻真先脚本のエピソードを、自らノヴェライズまで手掛けたものであるが、かと言って辻真先担当パートはまだ残ってるし、他の脚本家のストーリーはどうするつもりだったのかな? そもそも3冊以上出す予定が立っていたのかどうかも、現物からは読み取れない。

 第1巻「恐怖の宇宙帝王」、第2巻「時のロストワールド/謎の宇宙船強奪団」、第3巻「暗黒星大接近」の刊行時期を奥付で見ると、それぞれ79年1月30日、3月10日、7月10日であり、年末まで続いた本放送がまだまだ放送半ばだったことから、ファンとしてはなにやらモッタイナイ気がしてしまう。

 四六判ハードカバーにアニメのカラー口絵がふんだんに盛り込まれ(各巻共計32ページ!)、随分と楽しい造りに仕上がっている。ソノラマ文庫を既に有していた朝日ソノラマだが、ヴィジュアル指向であえて上製本としたのだろう。

 1巻に「『キャプテン・フューチャー』シリーズの出発」、2巻には「四十年前の原作と現代」と題した、野田昌宏の短い解説、というかエッセイも付いている。

 ここで野田昌宏が、「ただひとつ、なんとしてもさびしいのは、コメット号が涙滴型ではなく、まるで『ニ〇〇一年……』のディスカバリー号風であることだ。」と言わずにいられなかった様に、原作からの設定変更は映像化の常として、もちろんある。しかし、実際に読んで感じたのが、これほどまでに制約の中で原作の持ち味を活用し、再現しようとしていたのか、ということである。ノヴェライゼーションだけで判断するのが早計とは承知しているが、(おそらく)美化されているに違いない《キャプテン・フューチャー》というストーリーの記憶を、些かも矮小化させること無く、ぼくは大いに楽しんでいたのだ。こりゃ、映像も観なきゃ!って気にさせられますワ。

 原作者エドモンド・ハミルトンがオンエアの前年に亡くなってしまわれ、日本のクリエーター達が立派にアニメ化したことを伝えられなかったことは、やはり残念でならない。けれども、その業績は世紀を超えてカムバックを遂げたのだ。時代に流されない魅力を、再確認させた復活劇であった。

 さすがにアニメやコミックまで手を出そうとは思わないぼくだけど、ハミルトンに関する本は全部欲しい今日この頃(笑)。ま、ボチボチやって行きましょうか!

 

あとがき

 春は出会いと別れの季節。私の周りもいろいろあって、ちょっと切ない今日この頃です。現在の人間関係というのは、時間という大きな川の流れの中での一瞬のすれ違いであって、永続的なものでは決してないのだと改めて思い知らされています。明日も、今日と同じ人たちに会えるとは限らない。どんなありふれた日でも、2度と戻らない、まさにかけがえのない時なのですね。(安田ママ)


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