『ジョナサンと宇宙クジラ』☆☆☆☆ロバート・F・ヤング ハヤカワ文庫(77.6月刊)

 SF者の方々にはあまりにも有名なので解説する必要はないだろうが、ロバート・F・ヤングは、「たんぽぽ娘」などの甘くロマンティックなSFで知られる作家である。私は先日読んだ「たんぽぽ娘」にしびれてしまい、他の作品も読んでみようと、解説にあった紹介文を元に、本書を手にとったわけである。結果は、大満足!まさに、珠玉の作品集であった。

 10の短篇のどれもが、やさしく暖かく、どこかノスタルジックでセンチメンタル。少女趣味と言えば言えるかもしれない。が、いいものはいいのだ!まるで現代のおとぎ話のよう。「魔法の窓」あたりなどは、かなりファンタジー路線である。これは私の好きな話のひとつ。

 ノスタルジックなのは当たり前。なぜなら、これ、書かれたのがとても古いのだ。日本に初めて発表されたのが1966年というのだから、遥か30年前である。だから、「九月は三十日あった」などは、セピア色の古い外国の家族の写真に、同じくセピア色のロボットが一緒に写っているような、そんな感触を受ける。昔の話なのに、ロボットという未来的なものが違和感なく一緒にいるのだ。この感覚がとても不思議。

 「ジョナサンと宇宙クジラ」や「ジャングル・ドクター」あたりは正統派のSF。この著者は、SFという形式を使って、愛というものを実にストレートに照れもなく描いている。そう、カジシンとテイストが似てるかな。カジシンはSF的手法で、いつの時代も変わらぬ“恋”というものを描いているが、ヤングはこれがもっと広くて大きな“愛”なのだ。どれも話の締めがお約束に過ぎるかもしれないが、いいのだ。やはり、おとぎ話の結末は「めでたしめでたし」がいい。私はね。すとんと、落ちつくべきところに落ちつくところが、なんとも心地よいのだ。

 優しく、あったかい気持ちになれるSF。SF読みでない、普通の方にもぜひ読んで頂きたい1冊。

〔乱読トップへ〕


『カニスの血を嗣ぐ』☆☆☆1/2 浅暮三文 講談社ノベルス(99.8月刊)

 これは、とびっきり奇妙なミステリである。なんたって、主人公の設定が度肝を抜いている。彼はとある病気のため、嗅覚が異常に発達してしまっている。で、事件に巻き込まれた彼は、その嗅覚だけを使って謎を解決してしまうのだから!“カニス、ラテン語で犬。”(裏表紙より)。まさに、主人公は犬の血を継いでいるとしか思えない嗅覚と、人間から失われつつある野生の本能を持っているのだ。でも、この話、主人公の特質以外はまったくの現実世界である。だからこそ、彼の存在が異様に際立っているのだ。

 片目が義眼ということもあり、主人公は外の世界を判断するのに、視力よりむしろほとんど嗅覚を使用している。というか、いやがおうでもそうなってしまっている。ゆえに、この本の描写は、ほとんどすべてが“匂い”による表現である。これがまあ、すっさまじい!満員電車の描写なんかアナタ、これ読んだらもう電車乗るのコワクなりますよ、ってくらいのエグさ!とにかく全篇、あらゆる匂いのオンパレード。こういう形で世界を表現する手段があったとは。まいりました。

 主人公は、かつて華々しく広告業をしていたが現在は落ちぶれた生活を送っている男。ふとしたことから一夜を共にして別れた女が、翌日山中で死亡していたことから、謎の事件に巻き込まれる。彼女の死亡後、彼の家の前に置いてあった、殺された子犬。が、この犬から、なんと死んだ女の匂いがするではないか。彼女は死んではいないのか?主人公は、自分の嗅覚のみを頼りに、その謎を解くべく動き始めるが…。

 ちょっと都合が良過ぎるかな、という箇所もなくはないが、話の展開は実に面白い。この描写の濃さとストーリーの濃さ(こちらもすさまじいです、はい。ネタバレするともったいないでナイショ)を存分に楽しんで頂きたい。私達が失いつつある、“嗅覚”という野生の本能を思い出させてくれる、実にユニークな視点からのミステリというかエンターテイメント。

 (追記:これ、食いしんぼさんが読むとまた別の意味で面白いかも(^^)ダイエット中の方、ご注意)

〔乱読トップへ〕


『沙羅は和子の名を呼ぶ』☆☆☆1/2 加納朋子 集英社(未刊、今秋予定)

 10の短篇から成る、ちょっとミステリアスな小品集。どの話も、現実と非現実を行き来する物語である。その非現実とは、幽霊であったり、あいまいな子供の頃の記憶であったり、商店街にあるはずのない森であったり、いるはずのない自分の子供などである。いや、非現実というより、もうひとつの世界といったほうがいいだろうか。もしかしたら、あの分かれ道で右でなく左を選んでいたら存在したかもしれない、もうひとつの現実。それが、主人公たちの前に、ふうっと姿を現すのである。この小品集をひとことで言うなら、こんな具合だろうか。本文から引用させていただく。

“本当に不思議なことは、日常のすぐ隣で起きる―そう思わないかい?”

 どの話も、著者独特の暖かく心温まるお話だが、甘いだけでなく、すこうしブラックな味も入ってたりして、なかなかのしゃれた味わいである。

 私が好みなのは、「フリージング・サマー」(これは泣ける!ああ、書きたいけどネタばれになるので何も書けない!)、「海を見に行く日」(母親が娘に語るという形式の話。何てことない語りに、母の愛情があぶり出されてていい)、「商店街の夜」(商店街の古ぼけたシャッターに、ある日、ある男が森の絵を書く。それはまるで本物のように素晴らしい絵だった…。ファンタジックで素敵なお話。)あたり。表題作が一番長く、これはミステリタッチで話の仕掛けが実に面白い。主人公は、学生時代の恋人を捨てて、会社の令嬢と結婚したのだが、もしも以前の恋人と結婚していたら…といった、パラレル・ワールド的なお話。

 「もしも…だったら?」。あなたのすぐ隣にもあるかもしれない、もうひとつの世界にちょっと足を踏み入れてみませんか?慣れた日常がくらっとひっくり返る感覚が快感ですよ。

〔乱読トップへ〕


『キリンヤガ』☆☆☆☆ マイク・レズニック ハヤカワ文庫SF(99.5月刊)

 帯の謳い文句がすごい。「SF史上最多の栄誉を受け」とある。つまり、SF関係の賞を総なめ!15個もだもんね。しかも周りの読んだ人々ほぼすべてが絶賛となれば、もうチャレンジするしかないでしょう。なるほど、噂にたがわずとてもいい本だった。含蓄があって、うーむと考えさせられる。人の心に、深く静かに問いかけるような物話である。確かに、これ、SF方面の方しか手に取らないのはもったいない。『アルジャーノンに花束を』のように、SFという枠を外して万人に読んでほしい本である。実際、私の感触ではあまりSFという感じはしなかったし。変に構えずに、ひとつの「物語」として読んでほしい本である。そう、これは「理想郷を夢見て、それに破れたひとりの老人の物語」である。

 ヨーロッパの文化に染まったケニアを捨て、アフリカのキクユ族の昔からの暮らしを取り戻し、そのユートピアを作るべく、コリバは小惑星キリンヤガへ民を連れて移住した。その新しい地で、コリバは祈祷師として村を守り、人々を導く役目を日々実行する。が、彼がどんなに防波堤となって文明から民を守ろうとしても、堤防の隙間から少しずつ水は洩れてきてしまい、やがて彼ひとりでは防ぎきれなくなってゆく…。

 かたくななまでに文明を拒否して昔の慣習どおりの暮しや教えを守りつづけ、それを村中に強要して、自らの夢見るユートピアを作ろうとするコリバ。それに対する村人や子供達(「空にふれた少女」の章で文字を学びたがったカマリ、「ささやかな知識」の章であらゆる他からの情報を知りたがったンデミなど)との確執に、「果たして人間の最も大事なものって何なのだろう?」と考えさせられる。人間の尊厳とは?文化とは?民族とは?知識欲とは?それぞれのエピソードが、深く静かに胸を刺す。そして、コリバと村人たちのどちらが正しかったのか?答えは読者ひとりひとりにゆだねられる。

 私の解答としては、コリバの気持ちもわからないではないが、結局人間ひとりの力では時計の逆回しはできなかったというところだろうか。水は上から下へ流れるものである。自然の摂理に逆らって無理をすれば、結局うまくいかない。コリバは自己中心的で、傲慢でわがままで、そしてとても哀れな老人だと思う。

 この物語そのものが、まるで大きなひとつの寓話のようである。「こういうお話がありますよ、さあ、あなたはこれを読んで何をどう考えますか?」と、何か哲学的な問題を差し出されたような気持ちになる1冊。 

〔乱読トップへ〕


『パワー・オフ』☆☆☆1/2 井上夢人 集英社文庫(99.7月刊)

 コンピュータの中に宿る生命。まあ、ネットやってらっしゃる方に説明は不要でしょう。つまり人工知能、人工生命ものSF。読み始めてすぐに、去年読んでとても面白かった『エドガー@サイプラス』が連想された。『エドガー〜』は、人工知能であるエドガーが、ネットからどんどんあちこちのシステムに侵入していくさまを、電子メールという形式で小説にした大変面白い話だった。が、こちらの人工生命“A‐LIFE”はもっとすごい。なんたって、ネットを使って、世界中のコンピュータに子供を産みつけて繁殖してしまうんだから!

 事の発端は、ささいなことだった。あるケチなソフト会社の男が、パソコンおたくぎみの青年をだましてちょっとしたコンピュータウィルスとそのワクチンを作らせ、ウィルスをわざとばらまいてから、そのワクチンであるソフトを売って儲けよう、なんていうせこい考えだったのだ。が、これがとある会社で研究中の人工生命(遺伝子を持ち、どんどん自分の複製、つまり子供を作って進化して行くコンピュータプログラム)とふとしたきっかけで結びついた時、事態はとんでもない方向に転がり出した。

 話の運びがとてもスリリング。まさに一滴の水が波紋を広げて行くように、小さな事件がじわじわと、とてつもなく大きく広がって行くさまが実に面白い。このあたりの筆の運びは、やはりうまいな、この著者。 

 ラストの方で、世界がグワッと広がる感覚には、センス・オブ・ワンダーを感じてしまった。凝り固まった既成観念が、ぐるっとひっくり返される感触。ああ、この一瞬がたまらない快感なのよねえ!なるほど、人間は、コンピュータを作ったことにより、新しい世界をひとつ作ってしまったのかもしれない。

 これは井上夢人にしては珍しく、書かれた当初よりも、今読んだ方がリアル感が増してて面白い話。なぜなら、この作品が発表された96年よりも、今のほうが遥かにパソコン普及率が高いから。コンピュータで世界中が繋がってる現在、いつ起きても不思議はない事件である。と思うとぞっとする。現代では、世界征服なんてカンタンかも。コンピュータを乗っ取ってしまえばいいんだものね。

 ひとつだけ気になったのは、『青猫の街』を読んだ時も思ったのだが、この小説の面白さを、コンピュータをよく知らない人間がどのくらい理解できるかな、ということ。著者は専門知識をこれ以上は書けないほど丁寧に噛み砕いて説明してくれているのだが(これは大変な作業だったと思う。著者の努力に敬意を表したい)。実際ネットやパソコンをやってない方にお聞きしてみたいところである。もちろん、わかる方だけがわかってくださればそれで充分なのだが。ああ、もちろん、今これをお読みになってるあなたなら、絶対楽しめること請け合いですよ!

〔乱読トップへ〕


『笑わない数学者』☆☆☆☆ 森博嗣 講談社文庫(99.7月刊)

 森博嗣の作品は、1作また1作と読み進むうちにどんどん面白くなっていく。これは、彼の筆力がぐんぐん上がっているせいか、もしくは彼の一種独特な世界に自分がなじんでしまったせいか、はたまたその両方なのか。どちらにしろ、彼の作品が1作ごとに魅力を増していっているのは確かなようだ。

 これは、例の犀川助教授と西之園萌絵のコンビシリーズ、第3弾。舞台は偉大なる数学者、天王寺博士のクリスマスパーティが行われた「三ツ星館」。ここに、縁あって萌絵が招待され、犀川もそれについていくことになる。ここには昔、庭に立つ大きなオリオン像を博士が消してみせたという謎があった。このパーティでも、博士はそれをやってみせる。皆が驚いたその明け方、2つの死体が発見される…。

 いつも彼の作品には、数学の問題のように、謎がきっちり提示される。今回も、疑問は山のようにたくさんある。そして、ラストにこれが全部すっきり解けた時の爽快感ときたら!ちなみに、今回は、私は半分くらい当たってたのでうれしかったな。

 あとは文章の歯切れの良さ(人間も文体もどろどろしてなくて、非常にかっきりしてる。余計な無駄が一切ないといおうか。松本清張なんかと比べると実に対照的)、キャラのうまさ(う〜む、犀川先生にホレてしまいそう)、設定(オリオン座をイメージしたこの館がまた素敵なんだわ!プラネタリウムが屋敷のまん中にあるし!ちょっと、綾辻行人の館シリーズを連想させる。この館、マジでどこかのお金持ちの人、作ってくれないかしら)の魅力、などだろうか。私はミステリ通では全然ないので、あまり深く切りこんだ評が書けなくて申し訳ないのだが、これぞミステリのお約束!というところをきっちり踏まえた作品だと思う。やはり、尻の座りの悪いミステリはどうも後味が悪くていけない。この点、この作品は安心して読める。

 早く先が読みたいのだが、もっとこの世界に浸っていたい、という幸福な矛盾に苦しんでしまう、独特のシャープな感触がたまらないミステリ。満足の1冊。

〔乱読トップへ〕


『幼な子われらに生まれ』☆☆☆1/2 重松清 幻冬舎文庫(99.8月刊)

 重松清がすごいと思うのは、どんなに照れくさく気恥ずかしいようなテーマでも、堂々と真っ正面からそれに挑むところだ。いつでも直球勝負。気持ちのいいくらい、まっすぐな球をずばんと読者に投げる。『ナイフ』しかり、『エイジ』しかり。そして、この小説では、家族をテーマに、それぞれの心の葛藤をストレートに描いている。といっても、ほのぼのした家族小説なんかではない。痛すぎる、あまりに痛すぎる家族小説である。

 ここに登場するのは、普通の家庭ではない。バツイチ同士で一緒になった、母親方の娘がふたりいる家庭である。主人公である父親だけがその家の中で他人であるという、かりそめの家庭である。が、そこに新しく子供が生まれてくることになった。父に、母に、娘たちに波紋が広がる。その波紋は上の娘の父への反抗を始めとして、やがてじわじわと、平和だった家庭を内側から侵食していく。

 重松清がまたすごいと思うのは、彼が、主人公の父親の気持ちだけでなく、ひとりひとりの気持ちをくっきり描いているところだ。そして、それが実にまっとうなのである。まっとうという意味がおわかりいただけるだろうか。例えば読者がこの反抗する娘の立場に立ってみる。そうすると、彼女の気持ち、行動が実にすんなり納得できるのだ。私が彼女の立場であったらさもありなん、ということを著者はそのまんま素直に描いているのだ。

 だから、この小説は痛いのだ。誰の気持ちもわかってしまうから。皆、誰かを傷つけたくはないし自分も傷つきたくないのに、結果的に傷つけ合ってしまっているから。そして、それが誰にもどうしようもないというのが、いやというほどわかってしまうから。

 皆つらいのだが、最も苦しんでいるのは、あらゆるものから板ばさみになっている父親だ。むしろ、これは父親小説ともいえよう。父親という立場が、こんなにつらいものだとは知らなかった。彼の、「私たちは、ほんとうに家族なのか?」という問いが胸に重くのしかかる。

 著者はこの葛藤にとってつけたような決着をつけて終らせたりしない。まだまだこの家族に問題は山のように残ってる。これからも彼らは悩みながら、苦しみながら、それでもなんとか進んでゆくのだろう。新しい生命とともに。それが生きるということではないのか。

 家族とは、父親とは、生きるとはいったい何なのだろう。この小説は、この問いへの重松清からの一つの解答である。

〔乱読トップへ〕


『神様のボート』☆☆☆1/2 江國香織 新潮社(99.7月刊)

 ちょっと変わった恋愛小説である。なぜなら、ほとんど全篇、「彼女」によって語られていて、「彼」の方は出てこないから。彼女というのは、主人公である葉子。この物語は、「神様のボート」に乗って旅をしている、彼女と娘の物語である。

 葉子は、大学卒業と同時に、ピアノを教えてくれていた大学教授と結婚した。が、彼女の産んだ娘は、大恋愛をした別の男との子供である。まだ娘が1歳にも満たない時、彼女は離婚した。以来、彼女の前から姿を消した恋人に再会するため、娘とふたりで放浪の旅を続けている。

 彼女と娘のふたりきりの、静かでやさしくどこかさみしい生活が、ふたりの目から交互に語られる。それは、まるで夢の中のような現実感のない、ふわふわした暮しである。そして、ふたりはパパの話をする。小学生の草子は、会ったことさえないというのに。ママ(葉子)はパパがいかに素敵な人だったかを語り、草子はあれこれ想像を楽しむ。

 つまりふたりは、いない人を心のよりどころにして生きているのだ。葉子は絶対的な自信をもって彼を愛し続け、彼との再会の約束を信じて疑わない。この盲目的な恋は、もはや狂信的でさえある。それは現実的に見て、かなう可能性がほとんどゼロに等しい約束なのだから。でも、私には彼女の気持ちが理解出来る。女って、恋を心のよりどころにして生きていくことができる生き物なのだ。たとえ、それが過去のものであっても。思い出の中だけにしか存在しなくとも。一見弱そうだが、実は男なんかよりずっと芯の強い生き物なのだ。彼女と娘は、そうやってたったふたりだけ、誰にも頼らず生きてきたのだ。が、それを支えるものはあまりにはかない。ふたりのけなげさが愛おしく、痛々しい。

 が、やがて、娘は成長するにつれて、現実に目覚めてゆく。どこの土地にもなじまず、引っ越しを繰り返す日々。それは、現実から逃げ続けているだけだと気がつくのだ。ずっとよりそってきたふたりだったが、娘はボートを降りる決意をする。そして葉子も。

 ここまでだったらよかったのだが、ラスト2ページは違和感を感じた。『スプートニクの恋人』のラスト4ページのように。結局、著者はボートを岸に着けたのだが、果たしてあれでよかったのか。あの先がどうなったのか、読者の想像に任せるということだろうか。私はないほうが良かった気がするが。

 一見、静かで穏やかな物語だが、実は狂信的な恋の物語であった。どこかやるせなくてさみしい気持ちになる1冊。

〔乱読トップへ〕


ホーム ボタン