井上ひさし『一週間』の一部抜粋と4書評紹介

 

最後にして最高の長編小説への宮地コメント

レーニン批判の切り口、抑留者小松の闘争の語り口

 

(宮地作成・編集)

 〔目次〕

   1、本文の一部抜粋・転載と宮地コメント

     〔抜粋・転載1〕、レーニンの若き日の手紙内容全文→レーニンの裏切りと革命の堕落

     〔抜粋・転載2〕、レーニンの手紙を武器にした抑留者小松のシベリア抑留への闘争・主張

     〔宮地コメント〕、井上ひさしによるレーニン批判、ソ連共産党・シベリア抑留批判の切り口

       1、井上ひさしによるレーニン批判と二重の切り口

       2、小説におけるソ連共産党批判・シベリア抑留批判の強烈さ

       3、レーニンの手紙を武器にした抑留者小松のシベリア抑留との闘争とその語り口

       4、「日本新聞」社を舞台にした意図→書かれざるもう一つの犯罪を示唆?

       5、『一週間』にも貫かれた井上ひさしのモットー

テキスト ボックス:     2、新潮社−大江健三郎の書評

   3、朝日−[評者]江上剛(作家)

   4、読売−評・松山巖(評論家・作家)

   5、中日・東京−[評者]永井愛(劇作家)

   6、井上ひさしプロフィール

 

 〔関連ファイル〕       健一MENUに戻る

    『「異国の丘」とソ連・日本共産党』ソ連・日本共産党の犯罪

    『野坂参三「NKVD工作員」事実と「民主化運動提案」事実』

      抑留者60万人にたいする民主化運動提案者→『アカハタ』と『日本新聞』関係?

    ソルジェニーツィン『収容所群島』第3章「審理」32種類の拷問

    アン・アプルボーム『クラーグ−ソ連集中収容所の歴史』端緒をひらいたボリシェヴィキー

    英文リンク集『ソ連の強制収容所』ポスター、写真、論文など多数

 

 1、本文の一部抜粋・転載と宮地コメント

 

 私のコメントは、小説全体にたいする書評でない。書評は、大江健三郎と朝日・読売・中日などの4編で紹介する。ここでは、小説本文の重要な事項を2つ抜粋・転載する。書評4編には、字数の制約もあり、その全文が書かれていない。それら2つとは、()レーニンの若き日の手紙内容全文と、()レーニンの手紙を武器にした抑留者小松によるシベリア抑留の不当性・誤りにたいする闘争・主張内容である。いずれも、小説の背景をなす根幹テーマである。

 

 それら2つを抜粋・転載し、それらにたいする私のコメントを付ける。抜粋頁は全文で省略をしていない。レーニンの手紙全文だけは、私の判断で太字にした。ただ、抜粋箇所は、524頁中ごく一部の12頁分なので、出版社の了解を得ていない。以下の一部抜粋・転載内容と4書評を読むことによって、『一週間』を購読される人が増えれば幸いである。

 

 〔小目次〕

   〔抜粋・転載1〕、レーニンの若き日の手紙内容全文→レーニンの裏切りと革命の堕落

   〔抜粋・転載2〕、レーニンの手紙を武器にした抑留者小松のシベリア抑留への闘争・主張

   〔宮地コメント〕、井上ひさしによるレーニン批判、ソ連共産党・シベリア抑留批判の切り口

 

 〔抜粋・転載1〕、レーニンの若き日の手紙内容全文→レーニンの裏切りと革命の堕落

 

 小説は月曜日から日曜日までの一週間である。以下の抜粋箇所は、「火曜日−6、痒みの原因」中、2箇所(P.240〜241)(P.246〜247)である。

 

 (抜粋、P.240〜241)

 「バクー駅の外れの寝台車住宅のなかで聞いた、エラスト・ステパーノヴィチ・ヴォドーヴォノフの話が衝撃的だったんです」

「だれですか、その長くて言いにくい名前の持主は……」

「ワーレンカの祖父ですよ。一八七〇年生まれで今年七十六歳の、その老人の歯の抜けた口を通して語られたのは、からだに震えがくるような、とてつもない事実だったんです」

 

 軍医は机ごしにからだを乗り出すと、わたしをひたと見すえた。

「地獄のようなシベリアの捕虜収容所を天国にするために戻ってきたのだと、わたしはそう云いましたね。それからこうも云ったはずです、わたしは故意に捕まったのだと」

 

 はげしい気合いに圧されてうなずくと、軍医はいっそう顔を近づけてきた。

「そうなんですよ、小松さん。わたしは、エラスト・ステパーノヴィチの、つまりワーレンカのおじいさんの話を聞いたからこそ、シベリアへくる決心をしたんです。……レーニンという名をご存じでしょうな」

 

 軍医はやっと聞こえるか聞こえないほどの小さな声で云った。見張りの若い衛兵には日本語がわからない。そのことは軍医も知っているが、それでもひそひそ声になったのは、話の中身がよほど(あぶない)ものだからにちがいない。

「レーニンって、あのレーニンですか。ロシア革命の指導者のあの……?」

「そう、ロシア人にとっては神にもひとしい、あの神聖なるレーニンです」

「だれでも知ってますよ」

「では、そのレーニンが混血だったことは知っていますか」

 

 わたしは絶句し、軍医はつづけた。

「レーニンのからだには、ユダヤ人やドイツ人の血が流れているんだそうです。とりわけ、彼の父親はカザン大学を出てから教鞭をとり、シンビルスク州というところの初等教育長官にまで成り上がり、最後は世襲貴族に取り立てられていますが、しかし、じつは彼はカルムイク人の、それも底辺の出身です」

 

 わたしはまだなにも云えずにいた。

 「前にも云いましたが、わたしたちが放りこまれていたミチュリンスクの日本人捕虜収容所は、市の図書館の分館でした。当たり前のことですが、ロシア語の書物が山のようにあった。それでレーニンの伝記をたくさん読みました。レーニンの伝記を読んでいると、所長(ナチャーリニク)の機嫌がいいので、十冊以上も読んだでしょうか。しかし、レーニンの出所や出自については、どの本もじつにあっけなくあっさりと扱っている。もちろん、レーニンが混血だったなんてことは、これっぽっちもふれられていない。ということは……」

 

 「ソ連邦の中央指導部はそれを隠している……?」

 「そう、ひた隠しに隠している」

 「しかし、彼らがレーニンの出自を秘密にしなければならない理由はどこにあるのでしょうか。

 たとえレーニンが混血であろうとなかろうと、革命の値打ちは上がりも下がりもしないでしょうに」

 

 「同じ疑問を、わたしも抱きました。そして、いまの小松さんと同じ質問をワーレンカのおじいさんに呈したわけです」

 「それで、その答えは……?」

 「ひとことで云えば、革命の堕落、だそうです」

 

 入江さんの必死の表情に後押しされて、わたしはいつの間にか鉛筆を拾いあげていた。

 

 (抜粋、P.246〜247)

 老人は汚れた繃帯(ほうたい)の下から一通の手紙を取り出して、入江さんに手渡した。褐色に変色した封書である。

「読んでごらん。そこには若いころのレーニンの、美しい理想が書いてある」

薄い二枚の便箋(びんせん)に、いまにも破けそうなほど強い筆圧で消したり書き入れたりした勢いのいい筆跡でこう書いてあった。

 

 ごぶさたいたしました。さっそくですが、わたしはこの数日中にも、スイスへ発つことになりました。国内そして国外で、ばらばらに活動しているマルキストを、社会民主主義労働党という、ただ一つの党にまとめあげるために、スイスに亡命中のプレハーノフ先生のところで、準備会議をすることになり、わたしはペテルブルグのマルキストの代表に選ばれて参加いたします。

 

 このごろになって、ようやくあなたの考えが理解できるようになりました。労働者たちも劣悪(れつあく)な状況のもとで生活しておりますが、少数民族はもっと悲惨な環境で生きて行くことを余儀なくされている。そして労働者や少数民族の境遇を引き上げるには、経済闘争では限界があります。そう、大切なのは政治闘争です。

 

 率直に告白すると、じつはわたしの母方にはユダヤ人やドイツ人の血が流れており、さらに父親はカルムイクの出身です。カルムイクに行くというあなたを引き止めていたときのわたしの感情は複雑でした。わたしにはたくさんの少数民族の血が流れている。とりわけカルムイクの血が濃い。わたしにはそのことに対する劣等感があった。その劣等感を隠すために反対していたのではないか。あるいはなにかの拍子(ひょうし)にあなたが父の出自を突き止めるかもしれない、それをおそれていたのかもしれない。

 

 口では社会改革を唱えながら、こころの底には世襲貴族に出世した父親を誇る気持が潜んでいた。なんと情けない! なんという欺瞞(ぎまん)! わたしは自分の至らなかったことをあなたの前で痛烈に反省し、少数民族のしあわせをいつも念頭において政治闘争を行なう活動家になることを誓います。帰国したらまた書きます。

   一八九五年四月二十日  ウラジーミル・イリイチ

 

 しばらくの間、入江さんは便箋を持ったまま、震えていた。

「だが、レーニンは自分を裏切った。この手紙を書いてから二十三年後の一九一八年の一月、彼はなんと云ったか」

 

 老人も震えていた。

「社会主義の利益は、諸民族の利益にまさると、そう言い切ったのだよ。これを言い直せば、少数民族の利益よりは社会主義の大義のほうが大事だということになる。そう、革命は、堕落したのだよ」

「待ってください、エラスト・ステパーノヴィチ。そう言い切るためには、自分が少数民族の出であることを伏()せておかなくてはなりませんね」

「そういうことになるな」

 

 「なるほど。それで、あなたの右肩の古傷は、このレーニンの手紙と関係がありますか」

「……もちろん、あるとも」

 そう云ったあと、ヒマワリの実を噛()みながら、老人は長いことなにか考え込んでいた。

 

 〔抜粋・転載2〕、レーニンの手紙を武器にした抑留者小松のシベリア抑留への闘争・主張

 

 抑留者小松の闘争は、この小説全編を貫いている。その一部だけを抜粋する。小説は月曜日から日曜日までの一週間である。以下の抜粋箇所は、「木曜日−2、鏡の架かった壁」中、1箇所(P.376〜383)である。

 

 (抜粋、P.376〜383)

 「説明しましょう。一九一七年の十月革命によって、あなたがたは、一つの強力な思想を世界中に弘めた。その思想さえあれば、政治の、経済の、そして文化の、すべての問題に解決を与えてくれるということだった。わたしは若く、希望に燃えていた。当然、その思想に憧れました。そしてやがて憧れが昂じて自分たちの国にもその思想を導き入れようとしました。しかしそのことはわたしたちに苛酷(かこく)な地下活動を要求したのです。なにしろあなたがたの思想は、そのころの日本では国禁でしたからね。たちまち警察との壮絶な追い駆けっこが始まりました。それで、その追い駆けっこにさんざん鍛えられて、あなたが云うところの(凄腕)の活動家になったというわけですな」

 

「それで、今はどうなの。やはりその思想を信じているんでしょう」

「わたしたちを棄民同様の扱いにしている祖国と、そのわたしたちを牛馬よろしく扱()き使っているあなたがたのお国を等しく信じていない。つまり今のところ、思想というものは一切信じていません」

 

 そのときドアが開いて、ツリコフ中佐が入ってきた。

「無政府主義者め。賭けてもいいが、きみはトロツキストだ」

「愛郷主義者とでも云ってください。これでも故郷を愛していますからね。毎夜、故郷の夢を見るぐらいです」

 

 つづいて入ってきたコワレンコ編集長が切りつけるような口調でいいながら、入口の電灯のスイッチを切った。

「偏狭な地域主義者め」

「とにかくわたしは日本へ帰りたい。生活の場にしっかりと足を据えて万事につけてまともに生きて行きたい。まともで静かな日常からはきっと、それにふさわしい新し考え方が生まれてくるはずです。思想の話はそのときまでお預けにしましょうよ」

 

 「ちっぽけな市民主義者め」

「なんと云われようが、かまわない。わたしはこんなバカバカしい日常につくづく飽きがきているんです。戦前の日本での毎日もセッパつまったものでしたし、戦中の満洲での日々もキミョウキテレツなものでした。しかし今のシベリアでの一日一日は、これは悪夢としか名付けようがない。こんな悪いい夢とは、いっときも早くおさらばしたい…‥」

 

「悪夢とは、また思い切って云ってくれたものだな。わが連邦は、日本軍捕虜収容所のほかにも、ドイツ軍捕虜収容所やイタリア軍捕虜収容所を抱えているが、われらが偉大なるモスクワ政府は、あらゆる収容所の捕虜諸君全員に、横七センチ、縦八センチ、厚さ三センチの黒パン一〇〇グラムを、日に二回、きちんと渡しているのだ。黒パン二〇〇グラム、これはソ連の人民の配給量と同じなんだよ。それがどうして悪夢なのだね」

 

 ツリコフ中佐は、美人法務中尉からノートと鉛筆を取り上げると、数字を二つ書きつけた。その数字は、四と二十七だった。

「数字はいずれも百分率、パーセンテージだ。今次大戦においてドイツやイタリアの捕虜になった米英軍人の死亡率は四パーセント、そして大日本帝国の捕虜になった米英軍人の死亡率はなんと、二十七パーセントだった。日本の捕虜になった米英軍人は、四人に一人の割合で、主に食料不足で死んでいる。その日本の収容所とここシベリアの収容所を比べてみたまえ。日本の収容所こそが悪夢なのだよ」

 

「日本新聞社の統計によると、去年、一九四五年の秋十月から今年の春三月まで、日本軍捕虜の死者は五万人を超えています。そうでしたね、コワレンコ編集長」

 編集長はこちらに背を向けて、窓から大通りを眺めていたが、少し前かがみになった巨(おお)きな背中がびくびく動いているところを見ると、わたしの一言一句に神経を集めているにちがいない。

 

「シベリアの日本軍捕虜は六十万人といわれていますが、一冬でその八パーセントが亡くなってしまうなんて、やはり異常です。たしかに日本の収容所も異常だったかもしれないが、シベリアもまた異常です。もちろん、死者の九十八パーセントまでが兵隊であるという事実からは、収容所に旧軍秩序を持ち込んだ日本軍将校たちの責任も問われるべきでしょう。しかし、この悲惨な大状況を作っているのはモスクワ政府であり、あなたがたでもあります。やがて、あなたがたはこの責任を問われることになる……」

 

「小松大人(ガスパジーン・コマツ)、あんたのその強気は、いったいどこから来ているのだろうね」

 外光を背にしたコワレンコ編集長は黒々とした影のように見える。

「レーニンの手紙が自分の強気を支えているのですよと云いたいのだろうが、しかし……」

「しかし、なんですか。奥歯にモノが挟(はさ)まったような言い方ですな」

 

「そんな手紙は、じつは実在しないのではないかとも考えられるのだ。つまり、あんたはわたしたちにブラフをかけているのではないか」

「……ブラフ?」

「ポーカーのときに使う手だよ」

 賭博狂のツリコフ中佐が注釈をつけた。

「よくない手札のとき、いかにも強い手のふりをして、相手をゲームから棄権させる手だよ」

 

「あんたのいたコムソモリスクの収容所、日本新聞社であんたが使っていた机と寝台、新聞社であんたが立ち入ったと思われる便所や食堂や製版工場、昨日あんたが連行されたハバロフスクの収容所の独房と便所、われわれはあらゆるところを探し回ったのだが、ついにレーニンの手紙は発見できなかった」

 

「こつちからも補足しておきましょうかな」

 入口近くの壁に架けておいた自分の雑嚢と古外套を指してから、わたしは云った。

「雑嚢の中身と古外套は、今朝わたしを浴場に追い払っておいてからお調べくださったんでしょう。また、昨夜は、陸軍軍医少佐のクララ・ミハイロヴナが栄養剤をくださったが、あの中には脳を深く眠らせる薬が入っていた。つまり、あなたがたは、わたしが眠っているあいだに、わたしの休もお調べになったんですね。お尻の穴を懐中電灯で照らし出してくださったわけだ」

「もちろん、われわれはあんたの友人諸公にも注意を払った」

 

 編集長は咽喉の奥で声をおし殺し、凄味をつけていった。

「日本新聞社翻訳室の酒井忠志主任に柳沢賢三室員。食堂の賄い主任のハル・ステゴヴナ・ノーソワ。製版工場長の村方一太郎に主任の小笠原恵三。そして旧満洲国皇帝溥儀の付き人武蔵太郎……あんたと接触のあった人間はすべて調べ上げた。一人の洩れもない。そのことにわれわれは自信を持っている」

 

 ソフィア・イワーノヴナ・ノーソワ、あのソーニヤの名はなかった。ソーニヤとは食堂や新聞社の階段の踊り場で立ち話をしただけだったから、編集長たちの探索リストに載らなかったのは当然といえば当然だが、しかし、レーニンの手紙の在りかを知っているのはリーニヤだけなのだ。

わたしはしばらく胸の底から沸き上がってくる笑いを抑えるのに必死になっていた。

 

「もちろん、あんたにレーニンの手紙を渡した脱走軍医、あの入江一郎については徹底して調べ上げた。しかし、云うことがさっぱり要領を得ないので、昨日、極地オホーツク市の特別重罪収容所へ出発してもらったよ」

「特別重罪収容所?」

「夜はかならず凍傷にかかるという寒い寒い土地にある収容所で、入江中尉はソ連国内の重罪人といっしょに重労働をすることになります」と法務将校がいった。「でも、死刑よりはましですよ」

 

「まあ、そういうことだ。いまも云ったように、われわれはこういう仕事に自信を持っている。

その自信は、これまでの実績から培われたものだが、そのわれわれがレーニンの手紙なるものを発見できないということは、ひょっとしたらその手紙は実在しないのではないか……」

「実在しますよ、編集長」わたしはきっぱりいった。「その文面もちゃんと覚えているぐらいです」

 

「どんなことが書いてあったのかね。聞かせてもらえればありがたいが」

「ええ、よろこんで」

「あんたの云っていることが本当かどうか、つまりレーニンの手紙がデッチアゲられたものかどうか、それはあんたの話を聞けば分かるだろうからね」

 

「では、できるだけ正確に。まず、レーニンから手紙を受け取ったのは、もとバクー大学法学部長のエラスト・ステパーノヴィチ・ヴオォドーヴォノフ氏。今年七十六歳の法律学者で、生まれはチェチェン共和国の首都グロズヌイです。若いころ、ペテルブルグ大学法科を卒業したヴォドーヴォノフ氏は、市内のヴォルケンシュタイン法律事務所に勤めることになりましたが、その事務所で、ウラジーミル・イリイチという若者、すなわち、のちのレーニンと知り合って、夜のサークルを結成、いっしょに社会運動を勉強し始めました。その後、二人は別々の生き方をすることになりますが、しかし文通を欠かすことはありませんでした」

 

 法務将校がノートに鉛筆を走らせている。ツリコフ中佐と編集長はわたしの前に腰を下ろして、ともに目をつぶって耳を澄ませていた。

 編集長たちが手紙を見つけていないのなら、少しは冒険ができるだろう。冒険−そう、内容を少し誇張して、手紙にもっと重みをつけることができる。その重みが、これからの交渉を有利にするはずだ。

 

「今から五十一年前の一八九五年四月、社会民主主義労働党の結成準備のため、レーニンはスイスに亡命中のプレハーノフ先生を訪ねることになりますが、出発の直前に、そのころ、カルムイクの首府エリスタの法律学校で教師をしていたヴォドーヴォノフ氏に、党結成にあたっての決意を書き記した手紙を送りました。その手紙をわたしが持っているわけです……」

「だから、それはどこにあるんだ!」

 編集長が卓を叩いた。

 

「内容はこれから申します。しかし、手紙の在りかについては、今はいえません。さて、その内容ですが、ヴォドーヴォノフ氏に、レーニンは、自分が少数民族の出身であると打ち明けています。母方にはユダヤ人やドイツ人の血が流れていること、また父親は少数民族のカルムイクの出だという事実も告白しています。それで、レーニンは、これからは少数民族のしあわせを念頭においた政治闘争を展開しなければならないという決意を披露しているのですが、のちにレーニンは、正確には革命直後、自分自身を裏切ることになります。

 

たとえば、手紙を書いてから二十三年後の一九一八年一月、レーニンは、ある講演で次のように云っています。少数民族の利益より社会主義の大義のほうが大事である、と。レーニンのこの考えは、その後のソ連邦の基本方針となった。たとえば、チェチェンの場合を見てみましょうか」

 とたんに三人は冬のシベリアの戸外に一晩、放置した雪ダルマのように凍りついた。

 

「今次大戦中の一九四三年、チェチェン人はナチスドイツに協力的だったという理由で、モスクワ政府によって、民族ごと根こそぎ中央アジアのカザフスタンに追放されました。キルギスタンやここシベリアに強制移住させられたチェチェン人もいました。その追放や強制移住によって五十万人のチェチェン人が亡くなったともいいます。チェチェン人がナチスドイツを解放軍として歓迎したのは、モスクワ政府による農業の集団化や宗教の取り締まりに反発したからだった。ご存じでしょうが、チェチェン人のほとんどが熱心なイスラム教徒です。モスクワ政府は彼らの生活の基礎である農業と宗教を踏みにじってしまった。そして中央の方針に対して反乱をおこすと、民族ごとそっくり他郷へ移住させるというムチャをやってしまった。いったいどこに革命の大義があるのでしょうか」

「……そんなことまで書いてあるのか」

 

「まさか。一八九五年の手紙ですから、一九四三年のチェチェン人追放は書いてありませんよ。ただ、法学者ヴォドーヴォノフの覚書が付いています」

 覚書などというものはない。入江軍医からのまた聞きを並べているだけだが、しかし、これが重みという名の誇張、つまり水増しだった。

 

「レーニンの手紙とヴォドーヴォノフの覚書、この二つの重要文書が国外に流れでもしたら、貧しき者の天国であり労働者の楽園でもあるソ連邦の名に傷がつきますが、どうなさいますか。わたしをソ連検察団の通訳の一人として日本へ送ってくださるというのなら、その二つは、さっそくお渡しいたします。もちろん、日本に帰ってからも、この二つの文書のことは絶対に口外いたしません」

 三人はいっそう堅く凍りつき、金槌で叩けば粉々に砕けてしまいそうだった。

 

 〔宮地コメント〕、井上ひさしによるレーニン批判、ソ連共産党・シベリア抑留批判の切り口

 

 コメントとして次の5点を書く。

 〔小目次〕

   1、井上ひさしによるレーニン批判と二重の切り口

   2、小説におけるソ連共産党批判・シベリア抑留批判の強烈さ

   3、レーニンの手紙を武器にした抑留者小松のシベリア抑留との闘争とその語り口

   4、「日本新聞」を舞台にした意図→書かれざるもう一つの犯罪を示唆?

   5、『一週間』にも貫かれた井上ひさしのモットー

 

 1、井上ひさしによるレーニン批判と二重の切り口

 

 ソ連崩壊後、レーニン批判の研究文献は、「レーニン秘密資料」やアルヒーフ(公文書)に基づいて、数多く出版されている。ニコラ・ヴェルト、ヴォルコゴーノフ、リチャード・パイプス、カレール・ダンコース、梶川伸一などである。それらのほとんどを私のHPに転載してきた。

 

 それら研究文献にたいし、これは、1991年ソ連崩壊後に発表された日本で唯一の強烈なレーニン批判小説となった。世界的にも、このようなレベルのレーニン批判小説は出版されていない。ソルジェニーツィンによる『イワン・デニソーヴィチの一日』を初めとする彼の強制収容所小説多数は、ソ連崩壊であり、レーニン批判というよりも、スターリン批判小説だった。

 

 しかも、その批判テーマはユニークで、二重の切り口を含んでいる。

 

 〔切り口1〕、レーニンの出自とソ連共産党による隠蔽手口

 

 抜粋に載せたように、レーニンの出自は混血だった。彼の母方にはユダヤ人やドイツ人の血が流れており、さらに父親はカルムイクの出身だった。このデータは、ソ連崩壊後に証明された真実である。1917年10月、レーニン・トロツキーらは、臨時政権力とソヴィエト権力という二重権力にたいし、第2回ソヴィエト大会前日に、単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターを決行した。その性質は、社会主義革命でなく、ボリシェヴィキによる単独クーデターだった。そして、意図的に、党独裁・党治国家を暴力で創り上げた

 

 レーニンは、10月後、その出自に沈黙した。ソ連共産党も必死で隠蔽しぬいた。その必死さは、「レーニンの手紙」をめぐるソ連共産党の狼狽ぶり。争奪工作・手口に現れている。ただ、彼の出自はソ連崩壊後に証明された真実だが、「レーニンの手紙」の存否については、著者の創作と思われる。

 

 〔切り口2〕、レーニンによる少数民族問題での裏切り、革命の堕落

 

 彼が、単独権力奪取クーデター前、革命を通して、彼の出自である少数民族の利益を向上させようと考え、主張したことも事実だった。しかし、著者が小説中で繰り返し強調しているように、クーデター社会主義の大儀を優先させ、少数民族の利益を軽視・無視した言動事実である。彼の行為は、裏切りであり、革命の堕落だった。

 

 これら「レーニンの手紙」を通じての二重の切り口はきわめてユニークである。スターリンによる少数民族への弾圧・強制移住問題については、ソ連崩壊前、ロイ・メドヴェージェフが『共産主義とは何か』において、詳細なデータで論証した。

 また。山内昌之は『スルタンガリエフの夢−イスラム世界とロシア革命』(岩波現代文庫、2009年)において、理論的にレーニンによるイスラム少数民族にたいする裏切り革命の堕落史を詳述した。また、山内は、レーニン個人の腐敗ぶり人格的堕落の有様について、鋭い考察をしている。

 

    山内昌之『革命家と政治家との間』レーニンの死によせて

 

 ただし、インターネットの他書評において、次のような『一週間』批判も載っていた。それは、井上ひさしの2つの切り口にたいする批判である。〔切り口1〕にたいし、レーニンの出自については、はるか以前から分かっていた。いまさら驚く事実ではない、とする。しかし、ソ連崩壊としてあっても、明白な証拠はなかった。証明されたのは、ソ連崩壊後である。

 

 〔切り口2〕にたいし、レーニンにおける少数民族問題と社会主義の大儀との位置づけの転換事実は認める。ただし、彼の言動の転換を、レーニンの裏切りとか、革命の堕落規定するのは、大げさすぎる。これに関する批評については、見解が分かれるかもしれない。私としては、井上ひさしの規定は、レーニン→スターリンが少数民族にたいし採った犯罪的行動事実から見て、適していると考える。

 

 私もHPにおいて、レーニン批判ファイルレーニン批判文献転載ファイルを多数載せてきた。ただ、その切り口は、井上ひさしと異なる。私は、中心テーマを、()レーニン・トロツキーらが決行した行動は、革命でなく、10月クーデターだったという実態の立証、()レーニンによるロシア革命・ソヴィエト勢力である労働者・農民・兵士数十万人大量殺人犯罪データの収集・公表、()レーニンのウソ詭弁を7つの基本テーマで検証し、彼は天才的なウソ詭弁家であることの立証に置いてきた。

 

    『レーニン批判ファイル・転載ファイル−レーニン神話と真実1〜6』多数

    『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書

    『ウソ・詭弁で国内外の左翼を欺いたレーニン』基本テーマに関するウソ・詭弁7つ

 

 私のテーマと異なるが、井上ひさしの二重の切り口はきわめて新鮮で、刺激的だった。

 

 、小説におけるソ連共産党批判・シベリア抑留批判の強烈さ

 

 批判の強烈さといっても、彼のモットーのように、「むずかしいことを、わかりやすく。おもしろく」が貫かれている。その軽妙なタッチは、『吉里吉里人』(読売文学賞、日本SF大賞)、『東京セブンローズ』(菊池寛賞)の流れを受け継いでいる。

 

 ソ連共産党幹部たちの堕落・腐敗ぶり、滑稽なまでの強圧的スタイルの描写などは、上記抜粋文にも十分現れている。

 それとともに、シベリア抑留の実態とその批判も綿密で鋭い。ソ連共産党・スターリンの国際法違反犯罪、軍事捕虜にたいするドイツ政府と日本政府との違い=日本政府によるシベリア抑留者棄民的政策誤り暴露と告発も全編に溢れている。

 

    『「異国の丘」とソ連・日本共産党(第1部)シベリア抑留の実態

 

 なかでも、抜粋をしなかったが、日本将校たちに殴り殺された抑留哲学者大橋吾郎の黒い表紙の手帳に書かれた「ソ連政府と日本政府にたいする追求点4項目」内容(P.336〜340)は、もっとも鋭い告発メモになっている。これも著者のフィクションと思われるが、井上ひさしの憤りが伝わってくる。

 

 3、レーニンの手紙を武器にした抑留者小松のシベリア抑留との闘争とその語り口

 

 「レーニンの手紙」は、抑留者小松にとって、シベリア抑留の不当性・犯罪にたいする強力な武器になった。彼は、武器の効用を生かし、ソ連共産党幹部たちと巧妙な闘争を繰り広げる。そり語り口は、井上ひさしの戯曲・小説と同じく、パロディとユーモアに溢れ、冒険小説のように面白い。

 

 シベリア抑留という地獄の中で、小松という一人で戦う日本人像を創りだした。哲学者大橋吾郎入江軍医賄いの日本人母娘による抵抗群像を合わせたシーンは、胸を打つ。彼の闘争は、巧妙で、さまざまな創意と機転で、硬直し腐敗したソ連共産党幹部を振り回す。この活気溢れる人間像は、ソルジェニーツィンによる強制収容所囚人イワン・デニソーヴィチの人間像に匹敵する。大江健三郎は、下記書評において、兵士シュベイクの人間像と比べている。

 

 4、「日本新聞」社を舞台にした意図→書かれざるもう一つの犯罪を示唆?

 

 劇作家の著者は、小説の中心舞台を、ハバロフスクの日本新聞社設定した。そこは、シベリア抑留における他の一般収容所でない。それは、シベリア抑留における唯一の特殊な場所である。ソ連共産党幹部の中心登場人物を、日本新聞社のソ連側トップであるコワレンコ編集長にした。彼は実在の編集長だった。日本新聞社で働かされる日本人抑留者の名前数人も、本名の可能性もある。日本新聞社の機構・内部配置も詳しく書いている。

 

 日本新聞とは何か。それは、一週間「参戦」による人的戦利品=軍事捕虜60万人()有効な奴隷的労働力に改造する武器だった。かつ、()民主化運動の最大の武器だった。それは、レーニンの誤った犯罪的な前衛党理論に基づいていた。レーニンの外部注入論といううぬぼれた犯罪理論による宣伝・扇動・組織者の役割を期待され、十分に果たした。

 

 たしかに、()民主化運動は2つの側面を持っている。一つは、日本軍将校の横暴・収奪にたいする抑留兵士による民主的運動であり、肯定的行動だった。もう一つの側面は、ソ連共産党が意図的に遂行した軍事捕虜思想改造=日本共産党支援活動だった。

 

 問題は、その「日本新聞」日本共産党「アカハタ」ソ連共産党NKVD工作員野坂参三との直接的な関係である。そもそも、コミンテルン執行委員だった野坂参三は、中国から日本に帰国するディミトロフ指令により、秘密に1カ月半もモスクワに立ち寄らされた。彼は、モスクワにおいて、軍事捕虜=日本国民60万人にたいする民主化運動の提案者だった事実も判明した。

 

 さらに、野坂参三を先頭とした徳田球一・宮本顕治ら日本共産党ぐるみのシベリア抑留事後承認→実質的支持活動の隠された実態がある。帰国抑留者による国会証言で判明したように、「日本新聞」の2・4頁全面は、毎号ほとんど同時期の「アカハタ」記事が全面転載されていた。

 

    『日本共産党による機関紙「アカハタ」の「日本新聞」への連日・即時送付事実』

 

 NKVD工作員野坂参三がその連携に関与していた疑惑が強い。その事実は、日本共産党ぐるみでシベリア抑留を支持し、別ファイルで検証したように、108億円以上もの資金援助を、見返り給付として党本部が受領した事実からも判定できる。ただし、不破・志位は、そのデータが、ソ連崩壊に暴露されても、党本部が受領していないとのウソ詭弁をついている。

 

 野坂参三と日本共産党こそ、シベリア抑留60万人にたいする反国民的行動政党ではなかったのか。シベリア抑留期間は、1945年から1956年までの11年間である。そのシベリア抑留問題に関する限り、日本共産党とは、反国民的な犯罪政党でなかったのか。

 

    『野坂参三「NKVD工作員」事実と「民主化運動提案」事実』

    『抑留期間中、ソ連共産党から日本共産党への108億円以上の資金援助問題』

 

 小説は、その疑惑にたいし、なんの暗示もしてはいない。たしかに、小説は、抑留期間11年間中の戦後日本共産党について何も触れていない。ただ、主人公の抑留者小松を一般の兵士ではなく、戦前日本共産党の地下活動者で、逮捕され、転向した共産党員と設定した。そして、彼は、スパイMと行動したことがあり、満州→シベリア抑留地においても、スパイMの追跡者と位置づけ、執念に満ちた追跡行動も具体的に描いた。

 

 しかも、ハバロフスクの日本新聞社という特殊な機関中心舞台に設定し、レーニンの裏切り、革命の堕落小説形式で、ユーモアとパロディを交えつつ、描いた背景には、「日本新聞」2・4頁の紙面構成「アカハタ」記事全面転載との直接的連携事実にたいし、何らかの歴史知識・取材資料があったとも推定される。

 

 それは、小説巻末に載った膨大な「主要参考文献」リストからも推測される。文献の一つに、朝日新聞社編『復刻・日本新聞1、2、3』も挙げている。その『復刻版』を読めば、「アカハタ」との関係は一目で分かってしまう。が、「日本新聞」毎号に載るよう「アカハタ」を、いかなるルートで日本から送っていたのか。著者がその疑惑に気付かないはずはない。ただ、そこまで著者の筆が広がると、小説は、レーニン批判、ソ連共産党批判、シベリア抑留批判に留まらず、全面的な日本共産党批判にもなってしまう。

 

 5、『一週間』にも貫かれた井上ひさしのモットー

 

 井上ひさしの有名なモットーがある。むずかしいことをやさしく やさしいことをふかく ふかいことをゆかいに ゆかいなことをまじめに。私が『吉里吉里人』『東京セブンローズ』を読んだとき、このとおりに書かれていると思った。映画『父と暮らせば』を観たときもそうだった。『一週間』のテーマは、さらにむずかしいし、重い

 

 そもそも、レーニン批判、ソ連共産党批判、シベリア抑留批判、レーニンの手紙を武器にした抑留者小松の闘争などの題材そのものがむずかしいし、ふかいテーマである。しかも、それをのノンフィクションでなく、それらをすべて含め、小説化し、やさしく、ゆかいに、まじめに書くことは至難の業となる。

 

 私もHPにおいて、レーニン批判、シベリア抑留批判、それに関与した野坂参三ら日本共産党の加担犯罪のファイルを多数のせてきた。しかし、彼のモットーのように書くことはとてもむずかしい。

 

 2つの切り口に基づくレーニン批判小説は、日本だけでなく、世界でも初めての出版と思われる。シベリア抑留の記録や抑留記は無数に出されている。しかし、シベリア抑留実態とそこでの抑留者の闘争を、ゆかいに、まじめに小説化したのも日本で初めてである。このレベルの小説が、敗戦=シベリア抑留開始65年後、ソ連崩壊20年後に出版されたことに感慨を覚える。

 

 

 2、新潮社−大江健三郎の書評

 

 新潮社−井上ひさし小説『一週間』の帯文

 

 最後の長編小説。昭和21年、ハバロフスクの収容所。ある日本人捕虜の、いちばん長い一週間。『吉里吉里人』に比肩する面白さ!

 

 昭和21年早春、満洲の黒河で極東赤軍の捕虜となった小松修吉は、ハバロフスクの捕虜収容所に移送される。脱走に失敗した元軍医・入江一郎の手記をまとめるよう命じられた小松は、若き日のレーニンの手紙を入江から秘かに手に入れる。それは、レーニンの裏切りと革命の堕落を明らかにする、爆弾のような手紙だった……。

 ISBN:978-4-10-302330-2 発売日:2010/06/30

 

 大江健三郎の書評−『波2010年7月号』に掲載

   井上ひさし『一週間』刊行記念]−小説家井上ひさし最後の傑作

 

    大江健三郎『井上ひさし「一週間」書評』全文リンクここには転載をしない

 

 

 3、朝日−[評者]江上剛(作家)[掲載]201081

 

    江上剛の書評リンク『井上ひさし「一週間」書評』全文−下記に同文を転載

 

無名の抑留兵士、権力と闘う勇気

 主人公の小松修吉は、貧乏な農家の生まれだが、篤志家の支援で東京外語と京都帝大でロシア語と経済学を学んだ。その後、共産党員として非合法活動に従事し、逮捕される。牢(ろう)内で転向し、ある男を捜して満州各地を転々とする。捕虜となり、ソ連のシベリア捕虜収容所に。彼はハバロフスクに移され、日本人軍医から脱走の顛末(てんまつ)を聞いて、その記録をまとめるように命じられる。小松は、軍医からレーニンの手紙を預かる。ソ連革命を根底から崩すレーニンの秘密が書かれていた。ソ連軍将校たちはあらゆる手を使い、手紙を取り戻そうとする。だが、小松はこれを利用して捕虜たちの待遇改善を勝ち取ろうと闘いを始める。

 シベリア抑留、非合法活動などと書くと、「どこの国の話?」と言われ、暗い話は嫌だと敬遠されるかもしれない。でも最近、まれにみる、わくわくする小説だ。

 まずは、スリリングな冒険小説として楽しんで欲しい。小松は、絶対に脱出不可能という収容所から自由を得るために知恵を絞る。赤軍将校のずるがしこく、残虐な策略が次々と小松を危機に陥れる。それらを切り抜けたかと思うと、スイカを二つ並べたほどもある乳房を揺らすソ連軍女性将校の誘惑が襲う。

 圧巻は、手紙を渡さなければ、仲間の日本兵捕虜が6人も銃殺刑になってしまう場面だ。小松の決断に彼らの命がかかっている。果たして、一週間の間に小松はソ連軍将校との闘いに勝ち、収容所からの脱出に成功できるのか。もうノンストップで読むしかない。

 次は、シベリア抑留者のノンフィクションとして読むべきだ。小松ら名もなき兵たちはシベリアに置き去りにされ、多くは死に追いやられた。一方、関東軍高級軍人たちはぬくぬくと過ごし、生き残った。しかし真実は、依然、歴史の闇の向こうに隠されたままだ。本当はノンフィクションとして書きたかったのだが、小説の形式を借りざるを得なかったのではないか。関東軍の高級参謀たちを実名で登場させていることにも、その思いを強く感じる。これはエリート軍人に象徴される日本の権力を告発する怒りの書なのだ。

 私は、数ある井上ひさし作品の中でも「父と暮(くら)せば」に、特に感動した。原爆投下後の廃虚の中で孤独な娘、美津江が亡霊の父親と会話を交わす。非日常的な状況での、あまりにも日常的なやりとりが庶民の悲しみ、怒りを浮き彫りにしていた。しかし小松は美津江とは違い、果敢に権力に闘いを挑む。黙っていない。ソ連軍女性将校が、日本人はいつもそのときそのときの風向きを気にしながら生きているのに「あんたは、例の〈日本人の風向きの原則〉に適(かな)わない」と言い、「わたしが初めて出会った新しい型の日本人だわ」と感嘆する。

 井上ひさしさんは、日本人は小松のようにたった一人でも無慈悲な権力と闘う強さを持たねばならないと訴えたかったに違いない。

    ◇

 いのうえ・ひさし 作家、劇作家。1934〜2010年。『手鎖心中』で直木賞。『道元の冒険』で岸田国士戯曲賞。『国語元年』『吉里吉里人』『不忠臣蔵』『東京セブンローズ』『ムサシ』など。4月9日に死去。

 

 

 4、読売−松山巖(評論家・作家)(2010720)

 

    松山巖の書評リンク『井上ひさし「一週間」書評』全文−下記に同文を転載

 

 余韻響く遺作の達成点

 

 井上ひさし最後の長篇(ちょうへん)は彼の小説の見事な達成点である。急逝した故人に配慮した評ではない。まずは他の長篇にはない強い緊迫感。

 舞台は昭和二十一年四月初めのハバロフスク。主人公小松修吉は山形の小作農に生まれたが、東京外語大と京大に学び、卒業後、左翼の地下活動に入り、機関紙『赤旗(せっき)』に関係。しかし党は弾圧され、小松も刑務所に入り転向。その後満州を転々とし敗戦直前に召集。すぐソ連軍に逮捕されシベリア送り。それがなぜか、日本人捕虜に配布される「日本新聞」編集部へ。

 収容所の悲惨な状況は知られる。しかし小松とソ連将校の応答で明らかになるのは、収容所内でも旧日本軍組織は残り、将校は兵卒の食糧の上前をはね、労働を押し付け、背く者を虐殺する事実。日本政府は国際法に無知なため捕虜の正当な権利を主張せず、本土が荒廃したため帰国船も出さず捕虜を棄民し、一方、ソ連は中立条約を廃棄し、開発のため捕虜確保政策をとった。小松は国家への激しい憤りを抱く。

 本編は小松の一週間を描くが、以上の粗筋でもまだ最初の月曜日。いかに緊迫感のある展開か。しかし井上らしく笑いを忘れない。ユーモアは両国人の言葉やしぐさのズレから生まれる。早春のロシア人の習慣。料理。衣服。文学と歌。歴史上の人物を登場させる可笑(おか)しさ。国境を越える恋愛。日本語に精通したソ連将校たちが話す方言やベランメイ調の日本語。これらの機知、そして奇想。ソ連の恥部に触れるレーニンの古い手紙を小松が手に入れ、物語は少数民族の弾圧問題を孕(はら)み、彼が捕虜の待遇改善、自らの帰国を要求するなど急展開する。

 作者年来のテーマがちりばめられ、集大成の趣もあるが、余韻が響くのは結末。井上作品には珍しくメデタシで終わらない。が、主人公の悲劇は反転する。彼の意思と行動に共鳴する日本人がなお続くはずだと、未来へのメッセージを託し、遺作は井上作品の達成点となった。

 ◇いのうえ・ひさし=1934年生まれ。作家、劇作家。82年『吉里吉里人』で読売文学賞。2010年4月、死去。

 新潮社 1900円

 評・松山巖(評論家・作家)

 (2010720  読売新聞)

 

 

 5、中日・東京−[評者]永井愛(劇作家)(2010815)

 

    永井愛の書評リンク『井上ひさし「一週間」書評』全文−下記に同文を転載

 

 ■『抑留』の重さ軽妙に語る

 

 「シベリア抑留」をこれほど喜劇的に描いた作品があっただろうか。もちろんこれは著者得意の趣向であって、軽妙な語り口から引き出される史実はずっしりと重い。

 時は一九四六年、シベリアの捕虜収容所に抑留されていた小松修吉は、日本人捕虜の脱走防止のため、ある日本人軍医の過酷な脱走体験を聞き書きするよう命じられる。だが、当の軍医から、小松は意外なものを預かってしまう。それは、若きレーニンが親友に宛(あ)てた手紙で、ソ連政府が決して公表してほしくない、革命への初期の理想が記されていた。小松はこの手紙を元にソ連当局との取引を企てる。

 その一週間の攻防の中で、徹底的におちょくられるのはロシア革命の堕落と帝国日本の頽廃(たいはい)だ。国際法に無知だった関東軍司令部は、捕虜に保障されるべき待遇を全く要求しなかった。これ幸いとソ連政府は、日本人捕虜を過酷な労働に従事させた。その上、関東軍の将校、下士官クラスの捕虜たちは、部下の食料をくすね、過酷な労働に耐える体力さえ奪った。ドイツ軍の捕虜は家族との手紙のやりとりが許され、慰問小包さえ受け取っていたというのに。六万人以上の死者を出したこの悲劇は、日ソ指導部の「合作だった」と著者は繰り返し訴える。

 奇想天外な展開が上滑りしないのは、丹念な資料調べによって、生活の細部までもが具体的に迫ってくるからだろう。少数民族の誇り、ロシア料理のおいしさ、シベリアの春の喜び、満州国皇帝溥儀の編んだ民謡集、スパイMについて等々、著者はありとあらゆる事柄に蘊蓄(うんちく)を傾ける。

 この小説を読んだ人は、井上ひさしの「知」への情熱に打たれるだろう。知る、考える、伝えることに生涯をかけた著者は、「既成事実に容易に屈服」し、「事実そのものを突き詰めて考えることを避けてしまう」日本人に渾身(こんしん)のメッセージを残した。

 

 いのうえ・ひさし 1934〜2010年。劇作家・作家。著書に『吉里吉里人』『國語元年』『東京セブンローズ』など。

 

 

 6、井上ひさしプロフィール

 

 1934-2010)山形県生れ。上智大学文学部卒業。浅草フランス座で文芸部進行係を務めた後に「ひょっこりひょうたん島」の台本の共同執筆など放送作家としてスタートする。

 

 以後『道元の冒険』(岸田戯曲賞、芸術選奨新人賞)、『手鎖心中』(直木賞)、『吉里吉里人』(読売文学賞、日本SF大賞)、『腹鼓記』、『不忠臣蔵』(吉川英治文学賞)、『シャンハイムーン』(谷崎潤一郎賞)、『東京セブンローズ』(菊池寛賞)、『太鼓たたいて笛ふいて』(毎日芸術賞、鶴屋南北戯曲賞)など戯曲、小説、エッセイ等に幅広く活躍した。

 

 2004(平成16)年に文化功労者、2009年には日本芸術院賞恩賜賞を受賞した。1984年に劇団「こまつ座」を結成し、座付き作者として自作の上演活動を行った。

 

以上  健一MENUに戻る

 〔関連ファイル〕

    『「異国の丘」とソ連・日本共産党』ソ連・日本共産党の犯罪

    『野坂参三「NKVD工作員」事実と「民主化運動提案」事実』

      抑留者60万人にたいする民主化運動提案者→『アカハタ』と『日本新聞』関係?

    ソルジェニーツィン『収容所群島』第3章「審理」32種類の拷問

    アン・アプルボーム『クラーグ−ソ連集中収容所の歴史』端緒をひらいたボリシェヴィキー

    英文リンク集『ソ連の強制収容所』ポスター、写真、論文など多数