共産主義「幻想」と1921年危機
現物税の理念と現実
梶川伸一
(注)、これは、奥田央編『20世紀ロシア農民史』(社会評論社、2006年、716頁)から、第2部「コルホーズ以前の農民」10論文のうち、第5論文である上記著者・題名の全文(P.219〜252)を転載したものである。注は膨大で55箇所あり、かなりロシア語があるが、そこに書かれた文の出典を示しているのですべて転載した。文中の注記号はリンクされているので、そこをクリックすれば注に行く。転載については、梶川伸一金沢大学教授と社会評論社の了解を得ている。
〔目次〕
第1章、現物税の理念的基盤
1、問題の所在
2、共産主義「幻想」
第2章、21年危機の現実とそれへの対応
1、21年危機の出現
2、第10回党大会
第3章、現物税構想の変容
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梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1917、1918年貧農委員会
『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』クロンシュタット反乱の背景
食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、
レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討
『幻想の革命』十月革命からネップへ これまでのネップ「神話」を解体する
『レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか』十月革命は軍事クーデター
『十月革命の問題点』2006年4月16日講演会レジュメ全文
『レーニン体制の評価について』1921年〜1922年飢饉から見えるもの
191918年5月、9000万農民への内戦開始・内戦第2原因形成
『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』
『見直し「レーニンがしたこと」−レーニン神話と真実1917年10月〜1922年』ファイル多数
第1章 現物税の理念的基盤
1、問題の所在
一般には191921年3月に開かれた第10回ロシア共産党大会[以下断りがなければ、党とはロシア共産党を指す]において採択された決議『割当徴発から現物税への交替』によって、従来の戦時共産主義政策から新経済政策(ネップ)への転換が行われたと解釈されている。ソ連崩壊から十月革命やレーニンの評価などに様々な再検討が加えられ新たなロシア革命像が構築されている現在でも、この解釈は基本的な点で連綿と踏襲されている[i]。この解釈はまた過酷な戦時共産主義期から適正な社会主義路線への軌道修正が共産党によって自覚的に実施されたことをも意味する。当時の食糧人民委員部参与ア・スヴィヂェルスキーが小冊子『なぜ食糧税が導入されるのか』で、食糧税導入の原因を列挙して、「ソヴェト権力は共和国の状況の変化に関連して農民との関係を再検討しなければならない」と指摘するように、その本質は「労農同盟」の再編であると説明される[ii]。
したがって、ソ連晩年のペレストロイカ期に、ソ連型社会主義の理念型としてネップが再評価されたのは偶然ではない。その意味で、1960年代に出版されたこのテーマに関する基本文献の一つでポリャコーフによる、「191921年に共産党によって実現された偉大なる転換、戦時共産主義から新経済政策への転換は常に歴史家の関心を引きつけている」との指摘は、今日でも有効である。また、溪内譲がその遺作の中で、「革命直後の内戦体制は、既成事実化した内乱と外国の反革命への支援とにより崩壊の危機に瀕した革命権力が自己防衛のためにとった窮余の策であった」[iii]と述べているように、戦時共産主義政策がいかに過酷であったとしても、それは7年に及ぶ帝国主義戦争から内戦という余儀なくされた外因によって免罪することができたからであり、そのためこれらの外因が除去された時期に発生したネップへの移行問題はボリシェヴィキ権力の政策理念が反映される事例として、われわれは重大な関心を抱くのである。本稿では現物税への移行問題を通して、ボリシェヴィキ権力の政策理念を再検討するのを目的としている。
現物税を周知させる目的で党大会後間もなく出された小冊子『食糧税について』の中でレーニン自身は次のように述べている。「食糧税は極端な窮乏、崩壊、戦争によって余儀なくされた独特の「戦時共産主義」から適正な社会主義的生産物交換への移行の形態の一つである」[強調は引用者]、「戦時共産主義」は戦争と崩壊によって余儀なくされた[iv]。
通常は、ここで述べられている食糧税とはレーニンが1921年2月8日に党中央委政治局会議で執筆した以下の内容の『予備的草稿』に基づくと考えられている。1. 割当徴発から穀物現物税に交替するという無党派農民の願いを充たす、2. 昨年度の割当徴発に比べてこの税を縮小する、3.農耕者の勤勉に応じての税率を引き下げる、「4. 速やかで完全に税が納付される条件で税を超える農耕民の余剰を彼が利用する自由を拡大する」[v]。
研究者は一致してこの文書を、現物税布告の基礎、ネップ原理の最初の表明と評価するが、果たしてそれは適切であろうか。
この執筆直前の2月2日に開催されたモスクワ拡大金属工協議会で食糧問題が審議された際に、この日からモスクワで実施される配給券の縮小への労働者の不満を背景に、ボリシェヴィキを弾劾する演説が次々と行われた[vi]。これを受け、同協議会は、1.割当徴発によって農民から生産物を受け取る現行の形態を合目的的でないとして、2.割当徴発を一定の現物税に替える旨の決議を採択した。レーニンは代議員に請われて、協議会最終日の2月4日に演説し、労働者がもっとも辛酸を味わい、農民はこの間に土地を受け取り、穀物を手に入れることができたとしても、彼らはこの冬に窮乏し、彼らの不満は理解できるとして、彼はこの窮状からの解決策を次のように提示した。
播種キャンペーンを再検討せよとの声があるが、すべてに播種しなければわれわれは滅亡する、と播種キャンペーンの重要性を指摘し、「現在われわれは13県で割当徴発を完全に停止しようとしている」ことを表明した[vii]。これが割当徴発の停止に関してボリシェヴィキ指導部から出された最初の公式な声明である。一見すれば、2月4日に割当徴発の停止が予告され、2月8日にそれに替わる現物税草稿が執筆され、続いて現物税案が党内で審議され、最終的に同決議が3月中旬の党大会に上程されるとの手続きは、時系列的に妥当に思える。だが、ここで殆どの研究者はレーニンの関心が当面の播種キャンペーンに向けられていたという事実を看過しており、さらに以下の具体的状況を勘案すれば従来の解釈にはいくつかの疑問が生ずる。
第一に、割当徴発の停止を公式に表明してからようやくそれに替わる食糧調達方法として現物税を模索するのは、当時のロシア全土で認められる食糧危機と政治危機を視野に入れるなら、きわめて非現実的である。前年8月にタムボフ県で始まったアントーノフ蜂起、続いてウクライナのマフノー蜂起が徐々に勢力を拡大し、1月末にはそれに西シベリアで勃発した農民蜂起が加わり、さらに、両首都の政治情勢も緊迫し、間もなくペトログラードでは、食糧配給の増加と防寒用の衣服と靴を要求して3月1日までのストが宣言され、その後市内はストとデモで明け暮れるというまったく騒然とした状況が生まれつつあった[viii]。食糧調達はまさに焦眉の政治問題であった。
第二に、実際にはレーニンが草稿を執筆する以前にすでに割当徴発は一連の地域で停止していた。2月4または5日づけでバシキリア食糧人民委員部、シムビリスク、ウファー、サマラ、サラトフ、ポクロフスク県食糧委宛てにその停止命令が発せられた。タムボフ県食糧コミッサールは、レーニンが政治局会議で上記の現物税草稿を執筆していたその日、2月8日に割当徴発停止に関する命令書を受け取った。そして最後に、2月2日の凶作罹災地方での政治状況に配慮することを食糧人民委員部に委ねる旨の政治局決議を受け、2月10日に食糧人民委員部は、当時凶作県と認定されていたリャザニ、トゥーラ、カルーガ、オリョール、ツァーリツィン県に対して、2月15日から8月1日まであらゆる割当徴発の遂行を免除する命令書を送った[ix]。割当徴発の停止は完全に既成事実となっていた。
第三に、割当徴発から現物税への交替の要求はエスエルやメンシェヴィキから提起され、後にカーメネフが上記の金属工協議会を「非プロレタリア的」と評したように、このような要求は党指導部によって無条件に拒否されていた。この種の議論は1920年末の第8回全ロシア・ソヴェト大会で公然と展開された(この大会はボリシェヴィキ独裁下で反対派諸政党が参加した唯一の大会となった)。大会の席上で食糧人民委員代理エヌ・オシンスキーはこのような税の要求に応えて、もし食糧税を実施するなら、税完納後の「自由な残余は生産者の判断にまかされる、すなわち、生産者によって自由に取り引きできる」ようになるが、「われわれには商品フォンドがないので」、余剰は商品交換ではなく私的商人に流れ、「いかなる国家調達も増えないであろう。[・・・]自由商業のこの扉を開く者は、わが食糧政策を崩壊へ、わが国民経済を破滅へ導くであろう」と、自由商業を伴う税を断固として退けた[x]。これは当時の殆どのボリシェヴィキが持つ共通認識であった。
このような当時の雰囲気の中で、レーニンによって提起される現物税案は党内で厳しい批判に晒されることが充分に予想された(当時は労働組合を巡りレーニンはトロツキーとの厳しい党内闘争を展開していたことを想起しても)。したがって、レーニンの現物税構想はエスエルやメンシェヴィキとは異なる文脈から導き出されなければならず、それは割当徴発の停止以前に着想されたはずである。この源泉を辿るのが次の課題である。
2、共産主義「幻想」
内戦期とも戦時共産主義期とも呼ばれるネップに先行する時期は、内外の反革命勢力との内戦によって厳しい戦時政策を強いられ、この状況が除去されたことで、本来の政策としてのネップが実施されたとされる。内戦は基本的には1918年5月下旬に勃発したチェコ軍団の反乱から始まり、1920年11月のヴラーンゲリ軍の壊滅によって終了した。しかし、この「戦時」体制を解除する客観的状況が生じたとしても(実際にはこの時期に軍事体制への傾斜が強められるが)、「共産主義」体制は放棄されることなく継続され、逆にこれ以後、平和的建設の中で戦時共産主義構想は絶頂を迎えるのである。11月21日にモスクワ県党協議会に登壇したレーニンは国民経済の復興と共産主義について語り、「共産主義とはソヴェト権力プラス全国の電化である」との有名なテーゼが示されたのがこの時である[xi]。また、次のように言い換えることもできる。戦争状態からの解放は、「余儀なくされた」戦時共産主義政策を停止するための要因ではなく、この時の政策理念を支えた共産主義政策を実現するための阻碍要因が除去されたと理解されたのである。こうして、これ以後ボリシェヴィキの「共産主義」幻想の昂揚とともに、民衆の悲劇は深まった。
1918年夏に左翼エスエルが中央政権から離脱した後に特に農業・農民政策の分野で、ロシアの実状を何ら反映しない荒唐無稽ともいうべき「共産主義政策」が次々と打ち出された。まず、「農村における階級闘争」を遂行しようと組織された貧農委員会がある。このため多数の都市労働者が農村に派遣されたが、殆どすべての地方で共同体農民はこのような強圧的組織を受け入れることなく、農村に混乱と憤怒を持ち込んだこの試みは僅か半年足らずで撤退を余儀なくされた[xii]。次いで、大規模農業経営の構築がある。1919年3月に執筆された『党綱領』草案でレーニンが、「ソフホーズ、すなわち、大規模な社会主義農場」を社会主義的農業経営の根幹と見なしたように、特にソフホーズは重要な役割を果たすはずであった。
この構想の基本にあるのは、「穀物工場」としてのソフホーズの位置づけであり、この時出された『社会主義的土地整理法』では、この種の経営に土地利用の最優先順位が付けられ、原則として工場労働者が採用され、そこでの労働時間は8時間を超えないとして、工場企業に倣った管理運営が提唱された[xiii]。だが、これら経営の基本的構成員は農具も資金も持たない貧農や食糧難のため都会から逃れてきた労働者やインテリなどであり、それら殆どの経済的基盤はきわめて脆弱であった。1919年の第8回党大会でこれまで「社会主義的農業の最高形態」として理解されてきたコミューンから「穀物工場」としてのソフホーズ優先政策への転換が表明されたが、そこではペンザ県代表によって、ソフホーズには中農もクラークもおらず、何の持ち合わせのない貧農だけが加入し、彼らは穀物も農具も馬も持たず、餓死を運命づけられていると報告された[xiv]。
このような状況下で1920年秋以後農業の再建を巡り、社会主義路線を堅持しようとするエヌ・ボグダーノフと、その見直しを図ろうとするオシンスキーとの間で論戦が展開されたことはよく知られている[xv]。トゥーラ県での経験を持つ後者の主張は当時の実状を反映し、この論戦に勝利するのは当然であった。サラトフ県農業部は、ソフホーズとコルホーズを通してわれわれが農業建設の最終目標に到達できないのが明らかとなった、オシンスキーが『プラヴダ』紙上で、ソフホーズを強化して農村を再建しようとするのはユートピアの道を進むことを意味すると述べたのはまったく正しい、と彼の主張を擁護した。こうして、カバーノフが指摘するように、1920年末までユートピア的農業政策は続いた[xvi]。
後の出来事に関連して、この論争の帰結は以下の結果を招いた。第一に、農民農業経営の強化と発展のために種子割当徴発を含めた強制播種の方針が確定されたことであり、第二に、安定的共同体的土地利用による個人農経営の強化が目指され、この方針は1921年の勤労農民経営奨励策によってさらに促進された(1922年12月に発効する『土地法典』は、ネップ体制の産物というより同ソヴェト大会の方針の延長にある)。そして、この路線の提唱者であるオシンスキーへのレーニンの信頼は篤く、第8回ソヴェト大会党フラク会議で集団化路線を批判したオシンスキーを、レーニンは「まったく正しい」と評価し、「コルホーズの問題は当面の問題ではない。それらはまだ構築されず、養老院の名に値するような悲惨な状態にある。[・・・]ソフホーズの状態は現在大部分で平均以下である。個人農に頼ることが必要であり、それは近い将来も変わりようがなく、社会主義と集団化への移行を夢想してはならない」と述べ、この幻想からの決別を宣告した[xvii]。こうして当時最大の課題である強制播種キャンペーンの指導者としてオシンスキーは食糧人民委員代理から農業人民委員代理へと転出した。
すでに引用した小冊子の中でレーニンは、現物税を農産物の調達手段としてではなく、「適正な社会主義的生産物交換」への移行と位置づけている。これはいったい何を意味するのか。
ボリシェヴィキ指導者は来るべき社会主義または共産主義社会のスキームを明示することはなかったとしても、それでもマルクス理論に基づき革命直後からその基本的条件として無貨幣交換への移行に拘り続け、当然にも共産主義「幻想」はそこに集約的に表出された。そこでは大戦下で始まるハイパー・インフレーションを含むあらゆる経済的崩壊と革命後には法的制度によって通常の経済取引が解体され、自然発生的な物々交換(彼らの用語に従えば商品交換であるが)が全国的規模で展開され、彼らの眼には過渡的経済形態が実現されつつあると映ったことがこの幻想を加速させた。そこでは調達=分配制度を一元的に支配した食糧人民委員部が重要な役割を果たし、割当徴発制度を通してコミューン型国家の構築が目指された[xviii]。
この移行措置で重要なのは商品交換の組織化であった。早くも1918年4月にユ・ラーリンは最高国民経済会議で次のように指摘する。「われわれはできるだけ紙幣なしでやって、貨幣が単なる決済単位でしかないような状況に至るよう、国内で新しい原理により生産物の商品交換を確立しようとする構想に達した」。すでに1918年初頭から食糧人民委員部は全国的規模での商品交換の実施計画を策定し、その構想は3月7日づけ党中央委機関紙『プラヴダ』に掲載され、3月26日の布告によって商品交換が全国的に実施されることとなった。
だが、7月の第5回全ロシア・ソヴェト大会で食糧人民委員ア・デ・ツュルーパが、この春の商品交換キャンペーンは失敗に終わったと報告したように、当時はこの実施を保証する制度も機関も完全に未組織であった。しかし、この時の失敗は商品交換構想の放棄をまったく意味しなかった。逆にそれは徐々に穀物調達制度に組み込まれ、義務的商品交換制度は1918年8月づけで穀物生産諸県に、1919年8月からは全国的規模で実施されることが決定された。ドミトレーンコが指摘するように、戦時共産主義期には1918年春と比べて商品交換の役割は著しく高まった[xix]。
こうして商品交換構想は割当徴発制度の中に組み込まれることになった。割当徴発は戦時共産主義の評価と同様に、過酷で暴力的な農産物徴収として否定的に、まさに暴力的ボリシェヴィキ政策の象徴として解釈されているが、原理的には未来の無貨幣交換への過渡的措置として位置づけられていたのである[xx]。1920年8月に出された20/1921年度割当徴発規程では、制度的に割当徴発に商品交換が組み込まれ、農産物割当量の供出に対する村団の連帯責任を定めるとともに、その反対給付として村団への工業製品の集団的商品交換が制度化された。こうしてソヴェト国家は割当徴発を通して工業製品と農産物との、都市と農村との無貨幣交換への移行を目指したのであった[xxi]。
もちろん、当時のロシアの破滅的経済条件はこの構想の実現を許さなかった。レーニンを含めて当時のボリシェヴィキ指導者は異口同音に、ソヴェト権力は農民から穀物を掛けで取り上げ、工業の復興にともない農民は割当徴発を通して工業製品を受け取るであろうとの主張を繰り返した。これは単なる方便ではなく、来るべき未来社会での割当徴発の理念型であり、その実施過程での個々の逸脱行為とその理念的意義とは明確に区別されていた。1920年10月にレーニンは郡・郷・村執行委モスクワ県大会で内戦後の平和的建設について報告した際に、割当徴発が法外に重いとの出席者の非難の嵐に抗して、負担の緩和を提言したものの、この制度を廃止する可能性を完全に否定した。こうして、平和的建設構想の中でも割当徴発は生き残ったのである。11月27日『プラヴダ』論文では、割当徴発の行き過ぎに対する農民の不満を認めながらも、その原則自体は完全に支持された[xxii]。
サフォーノフが「食糧割当徴発の構想は共産主義への移行を展望する、唯一ではないとしても非常に重要なレーニン的イメージの構成要素である」と指摘するように、割当徴発には相矛盾する要素、賦課(過去の属性)と商品交換(未来の属性)が含まれていた。スヴィヂェルスキーはこのことについて、「一定の条件下で、食糧割当徴発は共産主義の直接の導入の手段になりえたが、これら条件が欠けていたので、内戦の終了とともにそれは別の方策にその地位を譲らなければならなかった」と、この1年後に回顧した[xxiii]。
調達危機が顕著になった1920年秋の調達キャンペーンでも、商品交換と割当徴発の結合の方針は堅持され、11月19日にレーニンと食糧人民委員代理エヌ・ペ・ブリュハーノフの連名で出された軍事命令書に、戦時共産主義期末に特徴的な、政治的には軍事体制の強化と経済的には生産物交換への傾斜がもっとも明白に表現された。この文書の中で、県食糧会議と食糧組織に、割当徴発を遂行する際に臨戦態勢と動員を徹底させ、革命裁判所巡回法廷を間断なく機能させて司法懲罰機関を発動させることを命ずると同時に、「計画的に生産物交換を実施して、商品の引渡しを調達の進展と厳密に調和させることを義務づけ」た[xxiv]。要するに、内戦の終了は共産主義「幻想」を放擲する要因とはならず、この時から共産主義体制への傾斜はいっそう深まった。
この流れは貨幣交換を一気に廃止しようとの構想を脹らませ、カーメネフの発言によれば、「貨幣が終わりを告げ、間もなくわれわれは貨幣を必要としないであろうと思われた」[xxv]、共産主義「幻想」をその頂点にまで高めた。
この構想は貨幣税廃止でまず実現されようとしていた。この問題は1920年11月の人民委員会議で審議され、11月3日の会議で、財務人民委員代理エス・エ・チューツカエフを議長とする特別委が設置され、30日の会議では、地方貨幣税を廃止する可能性についてと、「貨幣税の廃止と食糧割当徴発から現物税への転換を同時に準備し実施する」問題を詳細に検討するよう特別委に付託するレーニンの提案が採択された。レーニンにとって、1919年5月の演説に見られるように、貨幣とは搾取の名残であり、その廃止には多くの障碍が存在し、かなりの長期間存続すると想定されていたが、その好機が眼前に迫っていると判断された。
貨幣税廃止の検討を委ねたその日に特別委議長チューツカエフへ、レーニンは過渡期における貨幣廃止が持つ意義を次のように書き送った。
「貨幣から貨幣なし生産物交換への移行は議論の余地はない。
この移行をうまく完成するために、生産物交換(商品交換ではない)を実現しなければならない。
われわれが商品交換を実現する、すなわち農民に工業生産物を与える力がないうちは、その時は農民は商品(したがって、貨幣)流通の痕跡の下に、その代用品の下に留まるのを余儀なくされる」[強調は原文]と、貨幣経済から未来の生産物交換へ、つまり資本主義的経済体制から共産主義的体制への移行を定式化した。この移行を実現するための措置が貨幣税の廃止、すなわち現物税の実施であった[xxvi]。
この方針に基づく貨幣税廃止に関する特別委の以下のような政令草案が、12月18日の人民委員会議で決議された。「現存している様々な貨幣税は、ロシア共和国で大ブルジョワジーを清算するため、今日まで私的個人経営で生活している農民と営業都市住民の中間層によって支払われている。だが住民のこれらグループは、ソヴェト権力により実施されている勤労賦課の実施によりソヴェト経済建設に自分の労働力を部分的に提供し、農業から受け取った生産物の一部を国家的割当徴発に引き渡すことで、ソヴェト国家の維持に寄与している。農民個人経営と国家間での貨幣なし生産物交換の中に、社会主義建設に向けて税制の存在の必要性を排除する直接的移行を認める」として、現時点で存在するあらゆる国家的、地方的直接税(貨幣税)の徴収を廃止し、地方的需要を充たす地方特別税のみを残すことなどを決定した。
つまり、小ブル農民により勤労賦課と割当徴発が遂行されている状況が、貨幣の廃止、すなわち、レーニンの定式化によれば商品交換を経て無貨幣交換を実現する可能性を創り出した、と想定されたのである[xxvii]。この法案作成作業は、割当徴発から穀物税への交替に関する法案の最終編纂が承認された1921年3月7日の中央委総会会議で貨幣税廃止に関する報告が行われたように、第10回党大会終了日まで、すなわち3月16日にレーニンの政治局への提案によって貨幣税廃止草案が撤回されるまで続いた[xxviii]。レーニンの現物税構想はこの流れで生じ、第10回党大会後の諸般の政治情勢の中で法制化された現物税法令とはまったく異なる原理に基づいていた。
1920年秋以後ロシア全土で徐々に忍び寄るボリシェヴィキ体制の危機的状況、いうまでもなく、すでにタムボフ県で始まったアントーノフ蜂起は周辺諸県にも拡大し、ウクライナのマフノー運動は衰える気配を見せず、それだけでなく各地で割当徴発への不満が高まり、その遂行率は軍事力を強めても改善の気配を見せず、例えば、タムボフ県では11月半ばで30%以下であり、蜂起が猖獗する郡では20%程度しかなく、ロシア全土で翌年の凶作を予告するように播種面積は著しく縮小し、いくつかの農業諸県では旱魃の被害がすでに認められていた、にもかかわらず、この時期のボリシェヴィキ指導者には将来への楽観的展望が漲っていた[xxix]。
その理由を合理的に説明することはきわめて困難であるが、この傾向が明瞭に認められたのが1920年末に開催された第8回全ロシア・ソヴェト大会であった。党中央委機関紙『貧農』はその雰囲気を次のように報じている。「最高国民経済会議議長ルィコフはソヴェト大会で、現在はわが工業の昂揚が始まったと説明した。月ごとに週ごとに、徐々に新たな工業企業が開かれ、新たな工場の煙突から煙が出始めている・・・・・」[xxx]。
本大会会議では出席した反対派諸政党から次々にボリシェヴィキの政策、特に割当徴発に非難が浴びせられ、割当徴発から税への交替の要求も提起された。興味深いのは、これら税を求める声にレーニンは一度も反対を表明しなかったことである。だがそれは、すでにこの時期にレーニンが割当徴発から税への方針転換を受け入れていたからではなく、まったく別の文脈からレーニン自身が現物税構想を抱いていたからにほかならない。この論難に応えたのは、自由取引を招くとして税案を完全に退けたオシンスキーであったことはすでに述べた。この時レーニンが抱くのは無貨幣交換への移行措置としての税構想であり、それはエスエルやメンシェヴィキの要求とはまったくの対極にあった。
レーニンは大会期間中に地方からの農民代議員と会談を重ね、この会談の多くは割当徴発への非難に終始し、このような意見聴取の結果は12月末に執筆された『経済建設の任務に関する覚書』として纏められた。その中で彼は、「農民への対応:税+プレミア」と書いた後で、「税=割当徴発」と書き加えている。この文言を敷衍すれば、播種面積を拡大するために農民に税を実施し播種の拡大に応じてプレミアを交付しなければならないとの意味であるが、この税が大会で反対政党によって提起されたものと同一視される誤解を避けるために、ここでの税は割当徴発と本質的には同じであること、換言すれば、12月18日づけの貨幣税廃止草案で含意されている現物税でなければならないことを明記したのであった。この点で、「レーニンが1920年末に食糧政策の抜本的修正が必要であるとの結論に至ったと考えるいかなる根拠もない・・・・・この「税」はネップといかなる関係がないだけでなく、第8回ソヴェト大会決議に比べて戦時共産主義の展開でより大きな前進となった」とは、パヴリュチェーンコフの正鵠を射た指摘である[xxxi]。
第2章、21年危機の現実とそれへの対応
1、21年危機の出現
これから間もなく、この楽観的雰囲気は急変する。1921年の冬は非常に寒く、民衆はいっそう窮乏化した。特にペトログラードでは燃料不足のために暖房用燃料を求めて木造家屋が壊されたり企業閉鎖が相次いだりし、2月11日に始まった労働者のストは急速に拡大し、市内は4年前の二月革命を彷彿させる異常な緊張状態に包まれ、2月25日に戒厳令が布告された。そしてボリシェヴィキ権力の保塁であったクロンシュタット海軍基地でも叛乱が始まろうとしていた。燃料危機は輸送危機を招き(鉄道輸送だけでなく薪調達に駆り出されたために荷橇輸送も)、豪雪のために各地で食糧列車は立ち往生し、こうしてもっとも厳しい食糧危機が訪れた。
ペトログラード県委書記から、「守備隊の食糧事情は危機的で、非常に頻繁に赤軍兵士は家々を回って施しを請い、最近は管区の部隊で衰弱による大量の失神が確認されている」との厳しい現実が報告された。食糧配給が最優先の赤軍でさえこの有様であった[xxxii]。3月にタムボフ県ウスマニ郡から、飢餓と全般的崩壊のために住民の間にはソヴェト権力への敵意が広がっている、「郡では過剰な飢餓が感じられ、住民大衆は「パンをよこせ」と歩き回っているが、郡はもちろんそれを提供することができず、そこで彼らはソヴェト権力を裏切り者と見なしている」と報じられたように、各地で食糧危機は政治危機に転化していた[xxxiii]。
地方では燎原の火のごとく農民蜂起が広まっていた。アントーノフ蜂起は隣接のサラトフ、ペンザ、ヴォロネジ県へと浸透し、サラトフの東に隣接するウラリスク県からも匪賊活動の拡大が伝えられたように、連鎖反応的に農民蜂起を随所で勃発させていた。1920年末にタムボフ県キルサノフ郡の責任ある党活動家が、われわれはタムボフ領内で猛威を振るっている匪賊運動のために一切ならず自分の生命を大きな危険に晒し、「匪賊によって、何頭かの家畜、農具、家庭着、履物、寝具、下着といったすべての資産が徹底的に掠奪され、同志の妻は殺害され」、「匪賊からの絶え間のない脅威のために家族経営を新たに再建することは不可能である」ことを理由に挙げ、ここでの政治活動を解除しシベリアへの移住の認可を求めたように、現地での党活動は完全に崩壊していた[xxxiv]。
さらに、西シベリアのチュメニ県イシム郡で発生した農民蜂起は2月以降急速な展開を見せ、この時期最大規模の反ボリシェヴィキ運動となりつつあった[xxxv]。ウクライナではマフノー匪賊がその攻勢をますます強め、きわめて危機的な政治状況が表出していたが、これらに対する中央権力の対応はきわめて緩慢であった。動員を含めた赤軍の戦闘能力はこの時期になると物理的にも精神的にも限界に達していた。
ようやく1921年1月12日の党中央委で、農民の気分に関する問題が審議され、全ロ・ソヴェト中央執行委議長カリーニンを議長として凶作罹災諸県で農民の状態を速やかに緩和する措置を審議する特別委と、ヴェ・チェ・カ議長ヂェルジンスキーを議長とする匪賊行為の根絶を早急に準備する特別委が設置されたが、現地からは悲鳴にも似た軍事要請が幾度も打電されていたにもかかわらず、それでも中央からの本格的な介入は著しく遅れた[xxxvi]。
具体的措置として、2月2日の政治局会議はブハーリンの報告を聴き、凶作を蒙り食糧に困窮する地方での政治状況と農民蜂起に重大な関心を払うよう食糧人民委員ツュルーパに指示し、これら諸県で農民の食糧状態を緩和するための一連の措置を執るよう食糧人民委員部に委ねた。これにより、すでに述べたように凶作認定諸県に2月10日づけ割当徴発停止命令が出される一方で、農民蜂起との闘争への政治的指導と支援のためタムボフに特別委と活動家を緊急派遣することが決議された[xxxvii]。
だが、党中央が当時もっとも重大な関心を寄せていたのは、大幅に縮小した穀物作物の播種面積への対策であった。このため、第8回ソヴェト大会で強制播種をともなう個人農経営の強化路線が採択されたことはすでに触れた。この時から強制播種キャンペーンは大々的に喧伝され、中央紙の紙面の多くがその関連記事で埋め尽くされた。
強制播種とは、定められた播種計画に不足する種子を国家が供給するための種子強制調達を含む種子の再配分、この計画を現地で指導するための村農民委員会(セリコム)組織化、セリコムを通しての強制力による完全播種を骨子としていた。
ほとんどの地方で穀物割当徴発が完遂されていない中で、農民にとってこのような種子調達は追加割当徴発と同義であった。オリョール県の村では、一つの割当徴発を取り上げて、今や別の割当徴発が課せられるようになった、との農民の不満が聞かれた。この声は、『二つの割当徴発』の見出しを付けて県執行委機関紙に掲載された。このように調達された種子材をほかの村団のために再配分することへの農民の抵抗は強く、2月に同県エレツ郡の村で、群衆が郷執行委に押しかけ、保管庫をこじ開け、集められた種子材を奪い取った。この直接行動は村ソヴェトによって組織され、懲罰部隊によってようやく鎮圧された。
度重なる余剰を超える割当徴発の遂行の結果、農民経営に残された種子材は僅かで、割当徴発のこれ以上の遂行は播種キャンペーンを頓挫させるおそれがあった。こうして、割当徴発は一時的中断を余儀なくされたのである(現物税構想とはまったく関わりなく)。
それでも播種キャンペーンには様々な障碍が待ち受け、遅々として進捗しなかった。割当徴発が完遂された地区で、真っ先に種子調達が開始されることへの不満があった。サマラ県では1月15日から国家割当徴発を100%完遂した地区で、種子調達キャンペーンが開始された。このため、国家賦課を誠実に遂行した勤労農民にまず負担を強いたが、種子割当徴発の遂行の際にも、その後の現物税の徴収の際にもボリシェヴィキ権力によってこのことはまったく斟酌されなかった。オムスクから5月にシベリア・ヴェ・チェ・カ議長は次のように報告した。「農民の気分は、熱狂的な播種キャンペーンにもかかわらず武器の威嚇で逮捕と賦課の遂行を要求する食糧部隊の行動のために尖鋭化している。[・・・]誠実に割当徴発を遂行した農民は穀物と種子なしに残され、畑は播種されていない」[xxxviii]。
食糧人民委員部参与スヴィヂェルスキーが、播種キャンペーンと結びついている末端組織細胞はセリコムであり、これは任務を遂行するための軍事組織であると説明したように、この実施の際には強制的措置が多数適用された。多くの農民にとってセリコムは、農村に「階級闘争」を持ち込んだ貧農委の再来であり、このような組織に農民は頑強に抵抗し、その選出を拒否した。そのため空前の活動家と都市労働者が農村に動員され、強制力や恫喝はそれらの組織化にとって常套手段であった。キャンペーンの遂行が幹部の力量不足と拙劣なやり方のために農民の不満を招いて、多くの地方でセリコム選出が拒否され、大きな力と発意は発揮されなかったと、農業人民委員部報告書は後にこの間の事情を総括した。ヴェ・チェ・カの播種キャンペーンに関する報告書はいっそう辛辣に、「特に春のキャンペーンで食糧人民委員部による種子調達には多くの失策があった」と結論づけ、種子の配分の際に県食糧委の命令で多くの種子が食糧用に転用され、ヴィテブスク県では春蒔き種子の半分が食糧に利用されたような数々の不備の実例を指摘した[xxxix]。
このキャンペーンは軍事的色彩が強かったとしても、第8回ソヴェト大会での農業政策の転換を受け新しい要素も含まれていた。それは個人的プレミアである。これは播種計画の実施で優れた成果を挙げた勤労経営に、恩典として割当徴発の軽減と商品給付の増量を与えることを内容としていた。レーニンは個人的プレミアを強く主張したが、それは割当徴発の際の村団に対する連帯保証制と矛盾するため、この条項への一般コムニストの反対は強く、第8回ソヴェト大会でこの問題が検討された12月25日の党フラク会議は本条項の削除を決定した。だが、翌日開かれた党中央委総会はこの決定の差し戻しを党フラクに命じ、集団経営を優先するとの但し書きを付けてこの条項が決議草案に盛り込まれた[xl]。これがレーニンの『覚書』に書かれた「農民への対応:税+プレミア」の内実である。
2、第10回党大会
党大会を目前にし、レーニンは最大の課題である播種キャンペーンでの成果を確実にする必要があった。1921年危機の中で顕在化する国内工業の破滅的状態はプレミアとしての商品フォンドの獲得を不可能にし、レーニンが拘り続けた個人的プレミアはまったく機能していなかった。このような状況下で執筆されたのが、2月8日づけの『予備的草稿』である。農民に播種面積を拡大させるよう生産意欲を高めさせることを目的とした内容であることはすでに述べた。しかし、これを第10回党大会後に確定される路線と同一視するのは早計である。なぜなら、この段階ではボリシェヴィキ指導者がもっとも恐れていた資本主義の復活、自由取引の容認は極力制限されているからである。未来社会を展望する税構想と、播種拡大のために農民にプレミアとしての生産への刺戟を与えるための限定的自由取引が、レーニンの最大の妥協点であり、このような幻想と現実のアマルガムが『予備的草稿』であった。この時の自由取引はあくまでも播種キャンペーンの枠内でのプレミアとして設定されていた。
この草稿に基づく党大会草案を作成するため、2月8日の党中央委決定により設置された特別委で作業が開始された。党中央委での報告やレーニンの加筆修正などがあり、第3改定案が最終的に党大会の決議案として上程された。この審議過程で次のことが特徴的である。まず、自由交換は村団内でのみ認められ、村団外では食糧組織による商品交換のみが容認され市場取引は禁止され(党大会決議では「交換は地方的経済取引の範囲内で認められる」と曖昧な表現に改められた)、税規模は村団ごとに算定されるという、戦時共産主義政策が色濃く反映されていた[xli]。
農民蜂起やクロンシュタット叛乱で「自由商業」や「取引の自由」がスローガンとして掲げられている状況下で、ここでの自由取引はレーニンをもっとも悩ませた問題であった。党大会の開会当日になっても党指導部にはこれに関する合意は形成されなかった。
本大会はほぼ1週間前に始まったクロンシュタット叛乱の鎮圧に多数の代議員が割かれ、ジノヴィエフやトロツキーなどの報告者が不在となったため議事日程が変更されるという、まったく異常な環境の中で開かれた。
大会初日の3月8日にレーニンは中央委報告の中で、「農民に地方的取引である程度自由に振る舞う可能性を与え、割当徴発を現物税に替えなければならない」と、この問題に簡単に触れたが、食糧税の審議が行われたのは大会終了前日の3月15日朝会議で、レーニンが主報告に立った。ロシアのような国で社会主義革命が最終的成功を収めるためには、先進国の社会主義革命による支持の下で、国家権力を掌握するプロレタリアートと農村住民の大多数との協調によって可能であり、そのために以前よりずっと中農になった農民を満足させなければならない。中農を満足させるためには、「第一に、取引の一定の自由、私的経営にとっての自由が必要であり、第二に、商品と生産物を供給しなければならない」と述べ、「われわれは商業と工業の国有化の道を、地方取引の禁止の道をあまりにも先に進みすぎた」、これは疑いもなく誤りであった、とレーニンは主報告の中で従来の路線からの転換に触れた。
主報告に続き、基本的に主報告に同意するが、すでに13県で割当徴発は停止されたとしてもロシア全土での停止はありえないことを、ツュルーパは副報告で強調し、討論が始まった。そこでの最初の発言者は経済理論家エ・ア・プレオブラジェンスキーであった。その後に登壇する発言者はこぞって穀物専売や自由取引に関する言及に終始したのに対し、彼は現物税導入の際の重要問題として紙幣制度に聴衆の関心を促した。彼の問題提起は通常の解釈ではいかにも違和感がある[xlii]。
しかしながら、割当徴発または現物税を貨幣制度廃止の過渡的措置であるとの構想を共有する彼にとって、これは避けて通ることのできない問題であった。中央委案に賛成して彼は次のようにいう。ソヴェト国家の財源は、割当徴発と紙幣発行であった。前者は年々増加し、「食糧割当徴発が不動のままであり続けたなら、われわれは1922年に紙幣の印刷を停止することができ、必要な総額を割当徴発によって取り上げることができたであろう。だが、このようにはならなかった」。割当徴発に替わる現物税の導入により、生産物の一部しか収用できず、貨幣の廃止が当面の任務とならない以上、賃金の目減りを防ぎ、農民による取引のためにも、通貨の安定が必要となる。こうして、現物税の導入により直接貨幣税を廃止しようとする構想は見送られ、この翌日にレーニンは政治局に貨幣税廃止草案の撤回を申し入れたのである
第3章、現物税構想の変容
党大会で現物税決議を採択するまでの手続きは、春の播種作業に間に合わせようと、きわめて性急であった。この時期に展開されていた播種キャンペーンと比較すればそれは如実である。後者については、1920年10月28日に食糧人民委員部参与会会議で決定された全体方針が農業人民委員部に付託され、全ロ・ソヴェト中央執行委幹部会、人民委員会議、食糧人民委員部参与会などでの討議と修正を重ねて、最終的に12月11日の人民委員会議でレーニンの修正を受け、ソヴェト中央執行委の承認に回されるという、きわめて周到な階梯を経て、ソヴェト大会での審議と採択がなされた。さらに、この法案はソヴェト大会で承認されるまで法的効力はないが、農民への議論と周知のために『プラヴダ』と『イズヴェスチャ』で公示され、本大会でも徹底した討論が繰り広げられ、その後も中央紙でも地方紙でも大々的キャンペーンが展開された[xliii]。
これとは対照的に、現物税に関する党大会決議は入念な準備に欠けていたとの印象は拭えない。第10回党大会でデ・ベ・リャザーノフの、割当徴発から税への交替は不意打ちであるとの非難に対しレーニンは、『プラヴダ』に税に関する論文が掲載されたが、誰も応えなかったのだと反論した。だが、これはまったくの詭弁であり、これらの論文はベタ記事でしかなく、決して耳目を集めるような扱いではなかった。播種キャンペーンと比べれば、その差は一目瞭然である。大会決議草案の作成の際に、第2改訂案では、春の播種前に税の公表を定めたが、レーニンはこれに反対し、注意書きで党大会後の発表を要求したように、一般コムニストへのこの転換に関する周知徹底は極力避けられていた。このような対応の理由を明示する資料はないが、以下を推測することは可能である。第一は、この措置は12月18日づけ法案の延長に位置づけられ、第8回ソヴェト大会での農業強化に関する決議の補完にすぎず、本質的に問題の重要性を帯びていなかったとの解釈である。
第二は、ボリシェヴィキ指導部内での税への強い反対が党大会に混乱を持ち込むとの懸念である。例えば、ウクライナ食糧人民委員エム・カ・ヴラヂーミロフは3月2日のトロツキー宛の機密暗号電報で、ウクライナにとって税は受け入れがたいことを伝えたのに対し、レーニンは「ウクライナのコムニストは間違っている。事実に基づく正しい結論は、税に反対するのではなく、マフノーなどを完全に撲滅するための軍事的措置に賛成することだ」との返事を書き送ったが、税の必要性については何も触れなかった[xliv]。
第三の理由は、レーニンにとって税に付随する取引の問題が依然として未解決のまま残されていたことである。党大会直前に執筆された『割当徴発から税への交替に関する演説プラン』によれば、基本的問題は、「(α)取引の自由、商業の自由(=資本主義の自由)、(β)このために商品を手に入れること」であり、これにより「経済的に中農を満足させることができる」と考えられた。これが生産拡大への刺戟である。しかし、ここでの「取引の自由」とは一般的な自由取引を意味するのではない。「生産を強化し、取引を押し進め、息継ぎを与え、小ブルジョワジーを強くするが、それ以上に大生産とプロレタリアートを確固たるものにする。小ブルジョワジーと、その取引をある程度まで活発にすることなしに、大生産、工場、プロレタリアートを確固としたものにすることはできない」[強調は原文]と言及しているように、小ブル農民に「取引の自由」を認めることで、工業の復興が目指されたのである。
党大会後に執筆された『食糧税について』で彼が、「農民が商売をやる以上、われわれも商売をやらなければならない」との労働者の小ブル的心理を厳しく非難したように、きわめて限定された取引の自由が想定されていた。3月15日の党大会での議論でも、全国的規模での自由市場の出現は殆どの登壇者に想定されず、具体性に乏しい発言に終始した。この時期の反ボリシェヴィキ運動の中で公然と自由商業の要求が掲げられ、第8回ソヴェト大会より以上に自由商業への警戒心が党内に漲っていた。したがって、レーニンは資本主義一般とプレミアとしての農民取引とをいっそう慎重に区別しなければならなかった。「プロレタリアートの政治権力の根底を損なうことなしに、商業の自由、資本主義の自由を小農民のためにある程度復活させることができるだろうか。[・・・]できる。問題はその程度にある。[・・・]地方的取引の自由から飛び出してはならない」[強調は引用者]。重要なことは、地方的取引に限定して、「小農民が経営を拡大し、播種面積を増やすように、多くの刺戟を与える」ことであった[xlv]。
党大会の最終日の3月16日にソヴェト中央執行委幹部会は、農産物を農民が自由に処分することで農民経営を強化し生産性を向上させるため、割当徴発を税に交替する旨の大会決議を承認し、彼らに播種に取りかかるよう訴えるとともに、専門委員会に執行委会期内での承認のため法令の基本条項を3月20日までに作成するよう委ねた。何度も繰り返すように、この時点で現物税決議は『農民農業経営の強化と発展』法令の延長上に位置づけられていた。党大会決議は、翌17日の新聞で大々的に公表された。
党大会決議は「原則的方針を定め、スローガンを提起するだけ」で、その細目規程は各種委員会に作成が委ねられた。こうして、現物税関連法案の策定作業で、特に取引の問題は党大会で原則的方針に関する議論さえも不充分で曖昧さを残していたために、専門特別委での審議は決定的意味を持った。これらの過程で、次の三点が特徴的である。第一に、現物税に関する具体的規程は、すでに始まりつつある春の畑作業に間に合わせるため、非常に切迫した日程で策定が急がれ、原則的問題に多くの時間を割くことができなかった。第二に、これら議論はこの法案の持つ農民経営の強化という原則的枠組みを超えて展開され、その流れの中で、現物税構想に含まれる共産主義「幻想」を堅持しようとする食糧人民委員部と、危機的現実に対応しようとする特別委との乖離は徐々に広まった。レーニンの立場は、両者の間を揺れ動いていた。第三に、次第に深刻化する1921年危機への対応策としてこの新たな方針が次第に軌道修正を余儀なくされたことである。
3月18日の党中央委政治局会議は、特別委に現物税に関する政令案作成の際の指示を与えるとともに、食糧人民委員部に農産物の自由取引についての草案を人民委員会議に提出するよう命じた。この特別委によって中央執行委会期の最終日に間に合わせるように、3月20日にソヴェト中央執行委に提出された政令案は、翌21日に同幹部会で修正なしで承認され、3月23日に政令として公表された。そこでは割当徴発より軽減される農産物税が実施されること、それらの個々の税指標と規模は個別の税法令によって別途定めるとの基本方針が述べられた。この政令でも取引の範囲は明示されなかった。取引の問題は政治局決議を受け3月24日の食糧人民委員部参与会会議で具体的に審議されたが、そこでは当然にもきわめて限定的な取引が規定された。地方市場での現物交換と国家機関と協同組合を通しての商品交換のみが、ここで容認された取引形態であった[xlvi]。
3月25日の政治局会議は既出の特別委に替わりカーメネフを議長とする新たな特別委を指名し、それに自由取引の問題を委ねた。同特別委は3月27日の会議で、自由商業の範囲が検討され、そこでは税完納後に残る農産物余剰の完全な自由交換が認められ、ここで策定された方針に基づき、翌28日の政治局会議で農産物の自由交換についての布告草案はレーニンの署名を付けて採択された。この中では経済的取引の範囲はまったく言及されず、闇食糧取締部隊は廃止され、党大会決議にあった「地方的経済取引」の制限は完全に撤廃された。
この布告は農民の自由取引を認可しただけでなく、その後の政策転換にとって決定的意味を持った。第一は、税完納後ではなく、割当徴発を完了した諸県に自由交換が適用されたこと、すなわち、準備段階なしに直ちに自由取引が合法化され、第二に、さらに重要なことは、これまでは小ブル農民だけが自由取引の対象であったが、この範囲も事実上無制限に、都市住民にも拡大された(仲介業さえ容認された)ことである。こうして、ロシア全土で担ぎ屋の波が溢れだした[xlvii]。
だが、3月28日布告はそれでも、戦時共産主義政策からの断絶と新経済政策の開始を意味しなかった。党大会直後に食糧税政令とともに出された『共和国農民への檄』の中で、「わが工業が建設されるに応じて、わが原料と引換えに外国商品の輸入が拡大するに応じて、農民に課せられる現物税の割合は縮小するであろう。未来の社会主義建設の中で、[・・・]ソヴェト国家は、農民に必要な等価の商品を穀物に対して提供するようになろう」と明言されたように、商品交換体制と現物税は密接に結びつけられていた。税は最小限にまで縮小され、基本的農産物余剰は、商品交換によって収用されるとの構想は存続した。
それだからこそ、4月に行われた食糧税に関する報告でレーニンは、「食糧税とは、われわれが過去からの属性と、未来からの属性を、その中に見るような措置である」と述べた。「過去からの属性」とは賦課であり、「未来からの属性」とは社会主義的生産物交換であり、その過渡的措置がこの時構築されようとしていた「現物税=商品交換体制」にほかならなかった。小冊子『食糧税について』ではより直截に、「食糧税は「戦時共産主義」から適正な社会主義的生産物交換への移行の形態の一つである」と位置づけられた[xlviii]。
カーメネフが12月の第11回党協議会の報告で、この新政策は農民への譲歩であることを繰り返し強調したように、これがネップ導入の動機であると一般には解釈されている。確かに、大会決議でも中央執行委政令でも播種拡大への生産的刺戟を農民に付与するために現物税が実施されることが明記されていたが、それ以後の税法令ではこのことにはまったく言及されなかった。強制播種をともなう1921年と1922年春の播種キャンペーンは完全に失敗し、この政策は放棄されたが、元々はその奨励策として制定された現物税が生き残ったのは、現物税の持つ意義が完全に変質したことを物語っている。
この変質をもたらした最大の要因は農民と地方的枠を超える自由取引の容認であり、そこでは上述したように3月28日づけ布告が重要な役割を果たし、この法案策定の過程で自由商業を強く推進したのは、カーメネフとヴェ・ペ・ミリューチンであった。彼らは都市労働者の窮乏からの救済を最優先課題とし、国家的配給制度が瓦解した以上、労働者が自力で食糧を獲得できなければ工業の全面的崩壊が間近に迫っているとの認識があり、これを回避し国民経済を復興するため、緊急に都市と農村との自由交換を容認する必要に迫られていた[xlix]。
タムボフ県での穀物総収穫は、13年の5557万4400プードから減少し続け、17年には4345万6635プード、1920年には1495万4159プードにまで激減した。同県には19/1920年度の割当徴発として、県食糧委の算出による2600万プードに替わる3110万プードが課せられたが、最終期限までに納付されたのは1225万プードにすぎなかった。食糧部隊によって一切合切取り上げられ、播種する穀物にも不足するとの農民からの訴えがなされた調達の結果がこれであった。20/1921年度の割当徴発は1150万プードが課せられ、凶作のために総収穫の激減が確認され、すでにアントーノフ蜂起が全県で展開されていたにもかかわらず、10月の食糧人民委員部参与会で、このような調達の停滞は「われわれはまだいかなる英雄的措置を執っていない」ことが原因とされ、いっそう過酷な徴収が指示された[l]。
こうした割当徴発の不履行は不断に工場労働者の生活を圧迫し始め、1921年に入ると危機的状態にまでなった。タムボフ県繊維労働者組合と羅紗工場理事会から、ラスカゾヴォ労働者の破滅的状況が次のように国防会議に報告された。「[1920年]11月になると、パンの交付は完全に停止され、12月と1月は計画された配給を受け取らなかった。この間われわれの工場では無断欠勤が大幅に増え、労働者は担ぎ屋行為に専念し、計画的交付で受け取った履物、織物などを穀物との交換に差し出すのを余儀なくされた。だが、地区防衛のために司令部側が執った厳格な措置との関連で、通行証なしでラスカゾヴォから出るのは禁止され、周辺村との交通は断たれ、この自給の最後の手段も不可能になり、労働者は完全にパンを奪われた」[li]。配給制度が機能しない以上、労働者の生存を保障する唯一の手段が都市住民にも自由交換を即座に容認する3月28日づけ布告であった。
中央権力はこの事態を打開するために、現地の県食糧委に県内の食糧資源を再分配するよう命じたが、凶作に襲われた多くの地域ですでに食糧資源は枯渇し、内部再分配はまったく機能していなかった。3月15日のタムボフ県テムニコフ郡委・執行委幹部会・食糧コミッサールは内部再分配に関する県執行委と県食糧委の電報を聴き、「電報で想定され議論されている余剰から飢餓住民に多少なりとも計画的に供給するのは完全に不可能である。というのは、郡にはそのような残余はもうないので。郡の住民は大部分が50%以上に団栗を混ぜた代用食の摂取に移り、いくつかの村落ではそれらもすでになくなり、住民は食用のための馬の屠畜と澱粉工場などの廃棄物の摂取に移った。飢餓住民は徐々に増加している」との決議を採択した。
地方権力には現地の資源で住民を養う余力はすでになく、いくつかの地方では中央に運搬中の穀物貨物列車を奪い取るしか食糧獲得の手段は残されていなかった。ペルミ県党委議長と県執行委議長は党中央委宛ての3月24日づけ至急電報で、「食糧直通列車のうち25輌の連結を外すことを余儀なくされ、そうしなければ工場は停止し軍隊への供給が停止するおそれがあった。県の播種キャンペーンの発展への責任を自覚して、県内での種子材の巨大な不足にもかかわらず、自由販売、すなわち組織的担ぎ屋行為を認可した」との厳しい実情を訴えた[lii]。食糧資源を持たず国家的配給制度が完全に崩壊している状況の中で、ボリシェヴィキ権力はコミューン型分配制度を放棄し、個々人が自由取引によって食糧を獲得する手段を選択する以外、この危機を克服する可能性を持たなかった。厳しい現実の前に未来の幻想は葬られたのであった。
現物税の導入が「労農同盟」の強化をその目的としなかった以上、いくつかの「ネップ神話」の再評価に迫られるが、これについて詳述する余裕はなく、ここではこの措置により民衆の生活条件は改善されたとする通常の解釈への批判だけに留めよう。
ネップへの移行後、国家的配給を断たれ交換財を持たない労働者の状況はさらに悪化した。例えば、4月半ばにヴャトカ県執行委議長はこの危機的現実を党中央委に次のように訴えた。「県の北部で食糧資源は最後に至るまで消尽し、北部鉄道の地区に置かれた一連の都市で(グラゾフ、ヴャトカ、スロボドスコイ、コテリニチ、ヤランスク)、3月はじめから市民への(すなわち、軍需企業の労働者を除く全労働者)パンの交付を完全に停止しなければならなかった(1日半[フント]の基準で交付されていた)。住民の大多数からの食糧の剥奪は、食糧人民委員部が約束した4月の10万プードの受取りまでの一時的で短期的措置と見なされた。現在は北部本線に4月に穀物を供給することが食糧人民委員部によって拒否されたことに関連し、危機が一面を覆っている」。
ブリャンスク県では4月には突撃企業の労働者さえもパンを受け取れず、一連の工場でストが始まった。1921年夏の現状についてヴェ・エム・モロトフは党中央委への公表不要の秘密回状で、「鉄道従業員への食糧、履物、衣服のきわめて乏しい供給は、生産性の急激な低落、所によっては60%に達する出勤拒否、修理工場での作業の低下、疾病の急激な増加を引き起こしている」との現状を指摘し、支援を求めた。ネップへの成功裡の移行を強調するために殆どの文献で大都市の経済復興と繁栄が描かれてきたが、その背後には無数の悲劇が隠されている[liii]。
それに、農民の本当の悲劇は序曲が始まったにすぎない。割当徴発は法的にも実質的にも殆どの地方で2月半ばまでに停止した。だがそれは穀物割当徴発の停止を意味するだけで、それが種子割当徴発に転換されたにすぎず、農民の窮乏化はさらに深まった。また凶作地方では罹災者への食糧フォンドを現地で形成するための内部再分配は殆ど実施できなかった。この窮状は前年まで割当徴発を誠実に履行した地方ほど深刻であったが、権力は容赦しなかった。「穀物割当徴発を完全に遂行した郡の食糧事情は春の訪れとともに一連の村落や郷でも破滅的になり、春蒔き穀物の播種にともない食糧用の穀物はまったく残されていない。
同じく種子材の著しい不足も明らかとなり、毎日郷から郡執行委に種子と食糧物資の要請を持った農民代理人が来ている。郡の需要のために国家集荷所の管轄にあるすべての食糧・種子材を残すようにとの郡執行委と郡執行委の請願にもかかわらず、すべて搬出された」と、4月にヴャトカ県ウルジューム郡執行委はその惨状を訴えた。県執行委は搬出命令を執行したが、中央から食糧援助をことごとく拒否されたその悲惨な結果を次のように指摘する。「県の食糧事情は恐ろしいことを強調する。県内には農民に食べるものがまったくない一連の地区がある。[・・・]郡から頻繁に何百もの経営の完全な崩壊、家畜の絶滅、農具や建物さえもの投げ売り、よその土地への県からの脱出などについての情報が入っている。いくつかの地域では自分の馬を執行委に連れて行き、柱に括りつけ、置き去りにしている」[liv]。農民への強圧的政策はそれでも止むことなく、例年より早い春が厳しい旱魃とともに訪れ、1921年の悲劇がネップへの移行の中で始まろうとしていた。
[i] ロシア革命像の新たな解釈への筆者の見解については拙稿「ロシア革命の再検討」(社会経済史学会編『社会経済史学の課題と展望』、有斐閣、2002年所収)、「レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか」(上島武、村岡到編『レーニン 革命ロシアの光と影』、社会評論社、2005年所収)を参照のこと。
[ii] Свидерский А. Почему вводится продналог.М.,1921.С.9.
[iii] Поляков
Ю.А. Переход к нэпу и советское крестьянство.М.,1967.С.3; 溪内譲『上からの革命』、岩波書店、2004年、49頁。
[iv] Ленин В.И. Полн.собр.соч.Т.43.С.219,220.結論からいえば、この時期はまだ割当徴発から現物税(食糧税)への交替にともなう政策は概念化されず、この新しい路線を大会直後の論文でスヴィヂェルスキーは「新食糧政策новая
продовольственная политика」と呼び(Свидерский А.Народое хозяйство.1921.bR.С.11.)、同年5月に開催された第11回臨時党協議会でレーニンは新経済政策новая экономическая политикаという言葉を用いて現物税にともなう新路線を表現したが、同時に新政策новая
политикаという用語も併用している(Протоколы десятой всероссийской
конференции РКП (б).М.,1933. С. 59.)。そのほか新経済政策Новая хозяйственная
политикаと呼称した例もあり、この新路線が「新経済政策」として定着するのはさらに後のことである。因みにネップнэпという術語は22年3月23日づけの『モロトフへの書簡』の中でレーニンは最初に用いて、「ネップはボリシェヴィズムの「戦術」ではなく「進化」である」と書いた(Ленин В.И. Полн.собр.соч.Т.45.С.60.)。
[v] РГАСПИ.Ф.17,Оп.3,Д.131,Л.1; Ленин В.И. Полн.собр.соч.Т.42.С.333.
[vi] 21年末に開催された第11回党協議会の報告でカーメネフは、モスクワ金属工は農村ともっとも深い関係を持ち、同協議会で農民の気分が支配的であることがはっきりと露呈され、農民の言葉で農業の荒廃、耐え難い窮状、農村の崩壊について語られた。「零落した農村の気分がプロレタリアートの政治的、階級的意識に勝った」とこの協議会を位置づけた(Всероссийская
конференция РКП (б).бюл.bP.1921.С.9.)。
[vii] Генкина Э.Б. Государственная деятельность
В.И.Ленина 1921-1923
гг.М.,1969. С.69-70; Ленин В.И.
Полн.собр.соч.Т.42. С.308.
[viii] РГАСПИ.Ф.17,Оп.84,Д.272,Л.100.
[ix] Там же.Оп.65,Д.664,Л.261-269; ГАРФ.Ф.130,Оп.5,Д.644,Л.4; РГАЭ.Ф.1943, Оп.2,Д.1300,Л.25.
[x] Восьмой Всероссийский
съезд советов:стеногр.отчет.М.,1921.С.146.
[xi] Ленин В.И. Полн.собр.соч.Т.42.С.30.
[xii] この問題については拙著『飢餓の革命』、名古屋大学出版会、1997年を参照のこと。
[xiii] Ленин В.И. Полн.собр.соч.Т.38.С.123; Аграрная политика Советской власти (1917-1918 гг.): Документы
и материалы.М.,1954.С.418-422.
[xiv] Восьмой съезд РКП (б) :Протоколы.М.,1959.С.230-239,244,429-432.
[xv] この論争について、後者は強制播種のような農業生産への国家規制を目指し、前者はこのような介入を否定するのが争点であったと通常は解釈されている(см; Генкина Э.Б. Указ соч.С.47-48)。
[xvi] РГАЭ.Ф.478,Оп.6,Д.2010,Л.62-63; Кабанов В.В. Крестьянское хозяйство
в условиях « военного коммунизма ».М., 1988.С.112.
[xvii] РГАСПИ.Ф.94,Оп.2,Д.16,Л.172; Ленин В.И. Полн.сбор.соч.T.42.С.180-181.
[xviii] この問題に関しては拙著『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』、ミネルヴァ書房、1998年を参照のこと。
[xix] Бюл. Высшего Совета Народного Хозяйства.1918.bP.С.30; Пятый Всероссийский съезд
Советов:стеногр.отчет.М.,1918.С.142; Дмитренко В.П. Советская экономическая
политика в первые годы пролетарской диктаруры. М.,1986.С.116.
[xx] ドミトレーンコは、20年2月にツュルーパが、割当徴発は戦争と崩壊で余儀なくされた一時的措置であり、経済が復興するにつれ、国家はそれを徐々に縮小し、収用の必要最小限な規模にまで限定することができ、農民経営の余剰は商品交換に基づき国家に出されなければならないと言及したことを援用して、戦時共産主義期のシステムを、「割当徴発(税)+商品交換+専売」と規定するのはこの意味である(там же.С.197,202.)。
[xxi] Беднота.1919. 28 нояб.,
17 дек.; 1920. 25 июля; 17 сент.
и т.д.この問題の詳細は拙著『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』を参照のこと。
[xxii] Бюл.Наркомпрода.29 окт. 1919; Беднота.10 наяб. 1920; Ленин В.И. Полн.собр. соч.Т.39.С.316; Т.41. С.363-364; Правда.1920.27 нояб.
[xxiii] Сафонов Д.А. Великая крестьянская война
1920-1921 гг. и южный урал. Оренбург,1999.С.37; Свидерский
А. Из истории продовольственного дела.-В Кн.: Четрые года продовольственной работы: Статьи и отчетные материалы.М.,1922. С.19.
[xxiv] ГАРФ.Ф.130,Оп.4,Д.546,Л.158; Бюл.Наркомпрода.1920.25 дек.
[xxv] Девятый Всероссийский
съезд советов:стеногр.отчет.М.,1922. С.60.
[xxvi] Ленин В.И. Полн.собр.соч.Т.38.С.352-353; Т.42, С.51.
[xxvii] ドミトレーンコは触れていないが、これは戦時共産主義システムの理念型「割当徴発(税)+商品交換+専売」の実現を目指した措置と解釈できる。
[xxviii] Ленин В.И. Полн.собр.соч.Т.38.С.353;Т.51.С.351; ГАРФ.Ф.130,Оп.4, Д.208, Л.506 ; РГАСПИ.Ф.17, Оп.2,Д.61,Л.1.3月16日にレーニンは、「(現物税の導入と銀ヴァリュータの準備のために)[貨幣税廃止に関する草案を]破棄するよう」中央委政治局に書き送った(Ленин В.И. Полн.собр.соч.Т.54.С.439.)。
[xxix] Изв.Тамбов.губ.исполкома.1920. 21 нояб.事実上割当徴発が終了した21年2月で穀物割当徴発の遂行は全体として60%を超えず、特に穀物調達の主力であったシベリアと北カフカースは40%程度の遂行率であった(Прод.газета.1921. 17 марта.)。また、播種面積について、農業人民委員部の報告書は、ヨーロッパ=ロシア全体で20年には16年に比べ67%に減少し、一連のもっとも貴重な作物が、まさにそれら主産地でもっとも大きく縮小した事実を指摘し、その原因として、肥料の低下をもたらす家畜の減少、鉱物肥料の不足、農具の不足と摩耗を挙げた(Отчет Народного Комиссариата
Земледелия IX Всероссийскому съезду советов за 1921 год.М.,1922.С.9,16.)。20年にもいくつかの地方から旱魃の被害が報告され、そのため割当徴発の縮小の請願が多くの地方から送られていたが、ようやく9月21日の人民委員会議で、リャザニ、カルーガ、トゥーラ、ブリャンスク、オリョールの5県が凶作県に認定され、食糧人民委員部に罹災地区の調査が命じられた結果、11月2日の人民委員会議は、もっとも凶作県にツァーリツィン県を追加した(ГАРФ.Ф.130,Оп.4,Д.207,Л.113,116,161.)。だが、実際には認定県以外からも罹災の報告は多数寄せられたが、凶作認定県に対してすら割当徴発の免除や軽減はまったく認められなかった(詳細は拙著『幻想の革命』、京都大学学術出版会、2004年を参照のこと)。
[xxx] Беднота.1920. 25 дек.寒気の訪れとともにすでに各地から燃料の不足が報じられ、20年11月にドンバス炭田を訪れたトロツキーはその悲惨な状況を、「ドンバスの状況はきわめてひどい。労働者は飢え、衣服はない。大衆の革命的気分にもかかわらず、ストがあちこちで勃発している」(The Trotsky Papers:1920-1922.vol.ii.edited
and annotated by J.M.Mejer.Mouton, 1971,p.360.)とモスクワに報告したように、21年危機の根幹をなす燃料不足はすでに現れ始めていた。
[xxxi] Восьмой Всероссийский
съезд советов.С.41-49; Ленин В.И. Полн.собр.соч.Т.42. С.387; Павлюченков С.А. Крестьянский Брест, или предыстория большевистского НЭПа.М.,1996.С.240.
[xxxii] Кронштадт 1921.Документы о событиях в Кронштадте весной 1921 г.М.,1997. С.7-8; РГАСПИ.Ф.17,Оп.84,Д.198,Л.1.内戦期は赤軍の輝かしい戦歴が賞賛されていたが、その留守家族の経営は労働力を失った分だけ悲惨であり、20年6月のオロネツ県ヴィテグラ郡執行委は、赤軍兵士家族の殆どすべては零落し、割当徴発の支払免除の布告が完全に失念されているため、赤軍兵士とその家族の間には権力への憎悪が芽生えていることを機密電報で中央に訴えた(там
же.Оп.65,Д.434,Л.37.)。このような悲惨な現状は家族から兵士に書簡などで伝えられ、兵士の不満を形成する一因となった。
[xxxiii] ГАРФ.Ф.393,Оп.28,Д.268,Л.193.
[xxxiv] Изв.Тамбов.губ.исполкома.1921.5 марта;
РГАСПИ.Ф.17,Оп.13,Д.1185, Л.50об.;Оп.84,Д.230,Л.8; Оп.65,Д.610,Л.17.
[xxxv] 1月31日に不当な割当徴発を遂行しようとする食糧部隊と農民との衝突を原因としてチュメニ県イシム郡で勃発したこの時期最大の農民蜂起については、Москвин В.В. Восстание крестьян в Западной
Сибири в 1921 году//Вопр.ист.1998.bU.を参照。
[xxxvi] РГАСПИ.Ф.17,Оп.2,Д.55,Л.4;
ГАРФ.Ф.130,Оп.5,Д.712,Л.7-10.
[xxxvii] РГАСПИ.Ф.17,Оп.3,Д.128,Л.1; Д.120,Л.6. 2月16日に特別委議長ヴェ・ア・アントーノフ=オフセーエンコは現地に到着し、タムボフ県執行委議長などから構成される、「匪賊運動の根絶に関する全権特別委」を承認するよう党中央委に要請し、3月3日の党中央委組織局会議は、全権特別委を承認するとともに、革命軍事評議会を設置することを認め、タムボフ県に活動家を派遣するようヴェ・チェ・カに提案することを決定した(Изв.Тамбов.губ.исполкома.1921. 26 фев.; РГАСПИ.Ф.17,Оп.112, Д.132, Л.118,4.)。
[xxxviii] Изв.Орлов.губ. и гор.исполкома.1921. 4 ,16 марта ; Коммуна (Самара.).1921. 27 фев.;РГАЭ.Ф.478,Оп.3,Д.1297,Л.43-43об.; Ф.1943,Оп.1,Д.1017,Л.113.
[xxxix] Прод.газета.1921. 14 янв.; Беднота.1921. 22 фев.;3 марта;5 апр.; Отчет Народного Коммисариата Земледелия IX Всероссийскому съезду советов. С.34 ;РГАЭ.Ф.1943,Оп.7,Д.916,Л.4-4об.
[xl] РГАСПИ.Ф.94,Оп.2,Д.16, Л.380,381,385; Ф.17,Оп.2,Д.49,Л.1,6; Ленин В.И. Полн.собр.соч.T.42.С.199.
[xli] 草案の審議過程については、Ленинский сборник.Т.xx.С. 57-62; Декреты Советской
власти.T.xiii.С.204-205; 荒田洋「食糧税への移行」(門脇彰・荒田洋編『過渡期経済の研究』日本評論社、1975年)、参照。
[xlii] 例えば、ПоляковとГенкинаの前掲書では、彼の発言にはまったく触れていない。
[xliii] この問題の詳細は、拙著『幻想の革命』を参照。
[xliv] The Trotsky Papers.vol.ii,p.388-90,394.
[xlv] Десятый съезд РКП (б).С.113,33-34,78,413; Ленин В.И. Полн.собр.соч. Т.43. С.371-373,218.
[xlvi] Десятый съезд РКП (б).С.608-09; Декреты Советской власти.T.xiii.С. 245-247; ГАРФ.Ф.130,Оп.5,Д.644,Л.9,11,12oб.-15.
[xlvii] РГАСПИ.Ф.17,Оп.3,Д.141,Л.1; Протоколы десятой всероссийской конференции РКП (б).С.17; РГАСПИ.Ф.17,Оп.163,Д.125,Л.9; Декреты Советской власти. T.xiii.С.283-284.
[xlviii] Там же.С.250-253; Ленин В.И. Полн.собр.соч. Т.43. С.149,243.付言すれば、ここで目指されていた将来構想は、ドミトレーンコが戦時共産主義の理念型と規定する「割当徴発(税)+商品交換+専売」である。
[xlix] Всероссийская конференция
РКП (б).бюл.bP.С.8-9; РГАСПИ.Ф.17,Оп.3,Д.141, Л.1; Протоколы десятой всероссийской конференции
РКП (б).С.17.
[l] РГАЭ. Ф.478,Оп.2,Д.237,Л.13-14; Ф.1943,Оп.4,Д.299,Л.3; Д.201,Л.193; Оп.1, Д.681,Л.101-102; Беднота.1920. 14 сент.; Бюл.Наркомпрода.1920.13 авг.
[li] РГАЭ.Ф.1943,Оп.7,Д.2334,Л.37.
[lii] ГАРФ.Ф.393,Оп.28,Д.267,Л.27; РГАСПИ.Ф.17,Оп.65,Д.597,Л.172.同じ頃タムボフ県でも食糧列車を切り離して県内の食糧を確保していた(РГАЭ.Ф.1943,Оп.7,Д.2334, Л.177.)。
[liii] РГАСПИ.Ф.17,Оп.65,Д.568,Л.207; Д.663,Л.190; Д.538,Л.612.
[liv] Там же.Ф.17,Оп.65,Д.538,Л.612 .ここで触れることのできない21年飢饉の原因と実状に関しては、拙著『幻想の革命』を参照。
人名一覧(50音順)
Антонов А.С.
Антонов-Овсеенко В.А.
Осинский Н.
Владимиров М.К.
Кабанов В.В.
Каменев Л.Б.
Калинин М.И.
Генкина Э.Б.
Сафонов Д.А.
Зиновьев Г.Е.
Дзержинский Ф.Э.
Свидерский А.И.
Чуцкаев С.Е.
Цюрупа А.Д.
Дмитренко В.П.
Троцкий Л.Д.
Павлюченков С.А.
Бухарин Н.И.
Преображенский Е.А.
Брюханов Н.П
Богданов Н..
Поляков Ю.А.
Махно Н.И.
Милютин В.П.
Ларин Ю.
Рязанов Д.Б.
Рыков А.И.
Ленин В.И.
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『レーニン体制の評価について』21年〜22年飢饉から見えるもの
1918年5月、9000万農民への内戦開始・内戦第2原因形成
『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』
『見直し「レーニンがしたこと」−レーニン神話と真実1917年10月〜22年』ファイル多数