2.三高略史 |
|
1869(明治2年) |
5月 |
大坂に日本最初の理化学校、舎密局が幕府を引き継いだ明治政府の方針ででき、1日開講す。教頭はハラタマ(写真資料室参照)。明治26年6月この日を三高創立記念日とすることを文部省認可。 前年12月同じく大坂府に仮病院(医学校)開校。ハラタマが校頭を代行したが、1869年1月ボードウィンが校頭に着任した。 |
9月 |
英学を基礎に、洋学一般を教授する洋学校が、何 禮之助(写真資料室参照)の建議により大阪府の手で22日発足。洋学校は舎密局が教育以外に分析なども手がけようとしたのに比べると学校としての体制は整っていた。12月民部省所管になる。 |
1870(明治3年) |
5月 |
舎密局でははじめオランダ語が、後、ドイツ語が基礎外国語とされた。この月、学制が整ったとの理由で理学校と改称、造幣寮の管轄となる。 |
10月 |
洋学校は大坂開成所となる。同時に理学校は大坂開成所分局となる。 |
1871(明治4年) |
6月 |
理学校敷地内に開成所新校舎落成。 |
7月 |
洋学校(大坂開成所)・理学校(大坂開成所分局)実質的にも合併。大坂開成所開校の式挙行。文部省(それまで大学といった。もとの江戸幕府 昌平黌が明治2年6月大学校になり開成所・医学所の2校がこれに属した。同年12月大学校は大学と改称した。明治4年7月に大学は廃止され文部省が創設されたのである)に管轄移管。大坂開成所は東京の開成所と全国を二分する我が国洋学教育の最先端校。 この頃に我が国のそれ以後の学制の基礎が創設された。 |
1872(明治5年) |
8月 |
文部省の示達により第四大学区第一番中学校と改称。第四大学区は翌明治6年、第三大学区と改称。 明治5年7月学制が公布された。特徴的なことは大中小学区制度の導入であった。大学区は全国で8,各1区に1校の大学校が置かれることになっていたが、当時実際に存在した最高学府は大学区第一番中学校であった。しかも、東京の南校、大阪の開成所、長崎の広運館がそれぞれ第一・第三・第六大学区第一番中学校になったのみで、全国でわずかに三校であった。舎密局以来密接な関係があった大阪府仮病院は明治2年大阪府医学校病院となっていたが、9月医学校・病院共に廃止され、校舎・解剖場・医学用機械等を第三大学区第一中学校が引き継ぐことになった。 |
1873(明治6年) |
4月 |
大学区の変更と共に、文部省から外国語学校教則に従うようにとの通達があったが、学長 奥山 政敬は異議を唱え開明学校としたい旨上申し、開明学校と改称することを認められた。 |
1874(明治7年) |
2月 |
舎密局以来の機材図書を東京に移送、東京大学創設の資材とした。 |
4月 |
大坂外国語学校と改称。当時は7大学区であったが、それら各大学区の中核として1校ずつの外国語学校が置かれたのに伴う。外国語学校は大坂の他愛知・広島・新潟・宮城にも設置されたが、いずれも外国語を教えるのを目的とせず、外国語で諸学を教授する学校であった。外国語としては主として英語が用いられた。 |
12月 |
大坂英語学校と改称。東京外国語学校は本格的な外国語学校となったが、大坂・長崎・新潟の外国語学校は実態と合わせ英語学校と改称された。 |
1879(明治12年) |
4月 |
大坂専門学校と改称され、理学科・医学科の二つの専門科と予科が置かれた。当初は学校長を綜理といったが、東京大学予備門主幹兼東京大学法理文学部綜理 服部 一三が本校綜理になった。普通教育機関から専門教育機関に転換し、授業も国語で行われるようになった。四年制(明治13年9月三年に改正)の予科は専門科へ進むための階梯であった。 |
1880(明治13年) |
5月 |
綜理を校長と改称。折田 彦市、校長に就任。1885年12月まで5年8ヶ月在任。着任後まもなく理学科廃止の通達を受け、医学教育に傾くようになった。 |
12月 |
改正教育令が公布され、制度の再編が行われた。学制の大変革でそれまでの生徒は東京大学に転学した。大阪中学校と改称。内容は後年の七年制高等学校に近い。 |
1881(明治14年) |
8月 |
中学校教則大綱が発布された。内容は後年の七年制高等学校に近い。新しい学校の内容充実に折田校長の苦労があった。 |
1885(明治18年) |
7月より以前に |
「関西大学創立次第概見」が大阪中学校から文部省に上申された。大阪中学校を関西の大学にして東京大学に相対させようとするものであった。本科と予科を置き、予科の教授内容は東京大学予備門第二級以下と同じにし、本科の第一年は高等の普通学科、その後の三年は法・理・文のうち一学科を専修させるという提案であった。 |
7月 |
「関西大学創立次第概見」に対し、文部省は大阪にも大学設置を決意した。その前段階として、大阪中学校をば大学分校と改称し、理学・文学の本科と予備科を置くことになったが、予備科だけが開かれた。 |
12月 |
折田 彦市 文部権大書記官に転出(翌年文部省学務局長となり、新教育令の制定に尽力)。 |
1886(明治19年) |
4月 |
この年3月、帝国大学令が公布され、以下ピラミッド型の国家主義的学校令が整備される。4月、中学校令が公布され、高等中学校に於いては実業に就こうとするものあるいはより高等の学校に進もうとするものに必要な教育を行うものとされた。内容は後の三高の授業課程に近いものであった。高等中学校は全国5区のそれぞれに1校設置された(他に山口高等中学校・鹿児島高等中学造士館)。大学分校は、第三高等中学校と改称された。実際にこの時点で開校したのは第一高等中学校と第三高等中学校のみであった。第二高等中学校・第四高等中学校・第五高等中学校の3校は約1年後に開校した。 |
11月 |
高等中学校の設置区域が定められた。第三区は京都・大阪の二府の他近畿・中国・四国の十五県を包含し、学校の位置は京都と定められた。京都に定められたのは京都が教育の地にふさわしいという折田の気持ちと京都府が誘致に熱心で創立費として10万円を文部省に拠出したこと、文部大臣森有礼の賛同もあった。移転が完成するのは1889年(明治22年)年8月であった。 |
1887(明治20年) |
4月 |
折田 彦市、再度、校長に就任。以後1910年11月辞任するまで、前後通算約30年校長を勤めた。 |
8月 |
全国五カ所に医学部を置き、高等中学校の一分科とすることを文部省が告示。第三高等中学校医学部として岡山県立医学校を併せることとなった。 |
9月 |
本科(一部・二部)開設。 |
1888(明治21年) |
4月 |
医学部開部式。医学部はそれ自体で完結した医学教育を行った。明治34年まで第三高等中学校医学部は存在した。 |
9月 |
------------------------------------------------------------------------------------
| |