『眉かくしの霊』について



 鏡花の『眉かくしの霊』という小説のテクストに、こんな奇異な箇所があります。

そのまま熟(じっ)と覗いていると、薄黒く、ごそごそと雪を踏んで行く、伊作の袖の傍を、ふわりと巴の提灯が点いて行く。おお今、窓下では提灯を持ってはいなかったようだ。――それに、もうやがて、庭を横ぎって、濡縁か、戸口に入りそうだ、と思うまで距った。遠いまで小さく見える、としばらくして、ふとあとへ戻るような、やや大きくなって、あの土間廊下の外の、萱屋根のつま下をすれずれに、段々此方へ引返す、引返すのが、気のせいだか、いつの間にか、中へ入って、土間の暗がりを点れて来る。……橋がかり、一方が洗面所、突当たりが湯殿……ハテナとぎょっとするまで気がついたのは、その点れて来る提灯を、座敷へ振り返らずに、逆に窓から庭の方に乗り出しつつ見ている事であった。

 窓から前の庭の方を見ていて、怪訝な提灯の行方を眼で追っていたら、いつのまにかそれが自分の背後に近づきつつあるのを見てしまったというのです。それも「座敷へ振り返らずに」それが見えたという……。SFではないので時空が捻じ曲がったわけではありません。なんだかわけが分からないけれど不気味です。よい読者は深く追求することなく、ただその不気味さをじっくり味わっておけばよいでしょう。

 しかし悪い読者としては、主人公の「境」という男がロクロ首になったか、幽体離脱をしたか、まあ、いろいろ思いを巡らせることになります。とにかくそんなふうに「境」という存在が延び広がって、その輪郭が曖昧になるというようなことをイメージします。そうすると小説の中のものごとの境界もまた曖昧になって、庭を行く提灯がなにやら浮遊する魂のように見えてきたりもします。引用した部分のすぐ後で「境」は女の霊を見るわけですが、女の口にひき銜えられ、窓を越えて空高く跳ね上げられる「魚」に変じてしまいます。

 これは結局、夢なのだそうですが、しかし「さかい」から「さかな」へのテクスト的な変容に比べれば、そんなことはどうでもよいのです。

 けれども、ここにいるもっと悪い読者は、窓から自分の背後の風景を見るという「境」の異様な体験に、「鏡」の中を覗き込むあのごく平凡な経験を重ね合わせてみようではないかと提案します。窓の外側の世界が、鏡という、厚みを欠いた境(境界)によって区切られているのであれば、「境」という登場人物がいくぶん「鏡」に似てしまうということもありうるのです。前が後ろであるような矛盾も、だからここではいともたやすく成立してしまいます。

 境がこの場で遭遇したことは、結局は夢なのだそうですが、「境」から「鏡」へのテクスト的な変容にくらべたら、そんなことはどうでもよいことなのです。

 さて、鏡という言葉が出てきました。『眉かくしの霊』は、ある意味で「鏡」をキーワードとする小説であるといえるでしょう。桔梗ケ池の奥様と呼ばれる妖女は真っ青な池の上で鏡台に向って化粧をします。いっぽう、この小説のヒロインともいえるお艶は、桔梗ケ池の妖女を模倣して眉を剃り落とします。もちろん鏡台に向って、です。眉を剃るのは既婚女性であることを示すしるしです。彼女が鏡の中に見るのは自分の顔ですが、同時に桔梗ケ池の妖女の顔でもあるでしょう。鏡という厚みを欠いた境界を間に挟んで、ふたりの女が向かい合っているわけです。この時ふたりの間に「分身」という関係が成立します。

「私(てまい)が来ます、私とおなじ男が来ます。や、並んで、お艶様が。」

 『眉かくしの霊』というと、きまって引用されるのがこの伊作の分身の出現場面です。しかし、それ以上に興味深いのが、お艶と奥様というふたりの女の分身関係です。妾(めかけ)という存在のお艶は、「美人」でもあり「妻」でもある桔梗ケ池の奥様への意地と憧れから眉を剃り、ある夜、その奥様とまちがえられて、「川」のそばで射殺されます。桔梗ケ池の水は凝って鏡台になり、その鏡像関係にある鏡台がお艶の宿の座敷に鎮座しています。さらにまた、それら鏡台がふたたび融けて、お艶の射殺現場を流れる「川」の水になる……、そう読むことも可能ではないでしょうか。

 ともあれ、桔梗ケ池の女もまた、鏡に向って化粧をするというポーズをその典型としてとっていました。彼女が鏡の中に見るのは自分自身の顔ですが、同時に彼女と同じ無名の誰かの顔、意地と憧れをふたつながらぶつけたい、誰でもない誰かの顔であるのかもしれません。恐らくその誰かの鏡にも別の誰かの誰でもない顔が……。

 とりあえずの結論。『眉かくしの霊』は鏡がテクストを侵蝕する小説である。




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