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(2004/1/1 - 2004/6/30)

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アーカイヴ (2002/8-12) / (2003/1-6) / (2003/7-12)



 


1月1日。賀正。

あけましておめでとうございます。

ことしもまたよい一年になりますように。


 


1月14日。年が明けてから何をしていたか。

1)親知らずに虫歯ができていたのでお正月のご馳走は食べなかった。痛くはなかったが、痛くなるのではないかという不安で年末年始の歯医者の休み10日間ほどの間を戦々恐々として過ごした。大晦日に薬局で念のために今治水と痛み止めを買ったらお兄さんに「この時期たいへんですねえ」と同情してもらった。

2)いい加減疲れ果てた挙句に休み明けの歯医者に飛び込んだら、その場で医者に「これどうせ抜かなあかんしすぐ抜けるし、今、抜こか?」と軽く言われる。
「・・・えー・・・っ・・・」
「・・・」
「・・・」
「・・・ほな今度にしとこか?」
「今度で」

3)そんなこんなで冬休みは歯のことばかりで過ぎた。

4)読んだ本は、まともな本としては『未来は長く続く』『監督小津安二郎増補版』、それから椹木野衣『ヘルタースケルター』という、これもながいこと積読だったものを読んだ。映画論にせよ美術論?にせよ、読んで面白い(し、目が離せない)のは、社会学が「普通」の現象を扱うのに対して映画論や美術論その他は作品をめぐって「限界的な何か」を提示するからだと思う。

5)映画、というかTVとビデオだけれど、見たのは、『男はつらいよ』を3本(甥っ子と後藤久美子の恋愛を中心に据えて寅さんが背景に引っ込んだ時期のもの)。バブル期の作品では、あのタコ社長の会社までが「人不足だ」と言っている。それと、『メリーに首ったけ』。お下劣でグロテスクだがまあ楽しめた。『親指タイタニック』『親指スターウォーズ』はまあ、どうでもよかった。まぁ、アイディアが全部、という感じで、長々と見るものでもなかった。『妹の恋人』。メアリー・スチュアート・マスターソンが出るといえば、このタイトルだし、楽しく見れるラブコメかと思ったら、えーと、そうでもなかった。『御法度』。大島渚の最後の長編かもしれないのにいいのか、という感じのオカシな作品。もう少し殺伐と血で血を洗う感じを期待したのにねえ。松田龍平君が美少年というのは無理なのでは、とか、なんかショットごとに太ったりやせたりしてるんじゃないか、とか、思った。
で、いちばんよかったのは、まぁ反則ですが『生活の設計』(エルンスト・ルビッチ)。お正月でめでたいし、虫歯のことばかりでさえなかったんでなにか一つぐらい幸福な感じにならねばね、と思って、未見の積んどくのビデオの山から取り出して、見た。まぁ、さすがにルビッチでゲーリー・クーパーで、これ以上はないわけで、素晴らしかった。

6)じつは去年もそうだったのだが、お正月にものを食べられなくなって今年も、吉田健一の食味随筆を読んだ。
去年より今年の方がしっくりきた。しっくりきすぎて困っている。自分の現状との距離が感じられて、という意味で。困った。

7)年明けから結構いそがしいのである。
これまた、私がいそがしいなどといっていると罰が当たるので、他の皆さんはもっともっとやってはるのだが、私は私なりでいえばいっぱいいっぱいになっている。小人物、といえよう。
まぁ、いい。がんばらねば。


 


1月25日。本年度の授業期間が終わった。ひとつひとつ解決。

秋学期のあれやこれやの忙しさから、徐々に回復していく局面にはいったようだ。さしあたり今年度の最終授業がだいたい終わって、いっこ解決である。まだたいへんはたいへんなのだが、しかし、今年はあらかじめ用心して、この時期に論文を例年2本書くのを1本しか書かないことにしておいたし、うまく何事もなければ、なんとかしのぎ切れそうな見通しがついてきた。

このところさすがに冬らしく寒い日が続く。風邪に気をつけること。
とはいえ、この秋冬はいまのところ、風邪らしい風邪をひいていない。気が張っているせいだと思う。あと、5月から夏にかけて咳をしていたときに読んだ、ここでも紹介した野口晴哉『風邪の効用』(ちくま文庫)がやはり精神的なアレになっているようである。なんか、呼吸法によって気の流れをどうこうして風邪を通過させる、みたいな話だったんだが、くわしい呼吸法をいちいち覚えてはいないのだが、要するにアレだろ気合だろ?病は気から、ってやつだろ?という程度にアバウトに把握した上で、少し風邪っぽくなったときにも慌てず騒がず薬ものまず、ウイスキー入りの生姜湯を作って飲んで首元にタオルを巻いて暖かくして深呼吸して寝ちゃうと、朝にはそれなりにすっきり治っている。まあ要するに、病は気から、を実行しているのである。
ただし、某役員の任期が切れる4月末が過ぎた瞬間に、たぶん自分の身体はヴァルドマール氏よろしく溶けてしまうと思う。


 


1月28日。京都慕情。

最近は通勤用のMDとして、れいによってひょんなことから、中古で買い集めたパフィーさんの昔のアルバムを編集したのを聴いている。それで、今まで持っていなかった『Fever Fever』というアルバムを近所の中古店で1000円で売っていたのをご冗談でしょうとスルーして別の店で95円で購入。それで、なんとなく地味な時期のアルバムだと思って見逃していたのだけれど、どうしたものか、「労働」がテーマな曲がちらほらあったりパフィーさんにしては妙に切迫した世界が、音的にはビートルズやオールディーズやフォーク(拓郎?)や関西ブルースや昭和歌謡(ザ・ピーナッツとか?)やGSやその他その他の音楽的記憶のパスティッシュでできあがっている、突出したシングル曲がないぶんトータルなまとまりをもった、なんか名盤だった。
以前、インターネットで見かけたニュースで「パフィー、曲はパクリで歌詞は意味不明…米紙がツアーを酷評」(SANSPO.COM 2002/7/24)というのがあって、

22日付のワシントン・ポスト紙は、北米ツアー中の日本の女性2人組歌手、PUFFY(パフィー)=写真=のワシントン公演について「作詞・作曲はプロデューサー任せで、演奏できる楽器もハーモニカのみ」などと酷評。「日本ではマドンナ並みの人気バンドも、米国では通用しないだろう」と評した。
 共同電によると、PUFFYは、初の北米ツアーでニューヨークやロサンゼルスなど全米とカナダの11都市で計13公演を行う予定で、ワシントンでは19日に公演を行った。各会場は満席となるなど上々の人気を集めている。
 記事はPUFFYの曲がビートルズに酷似していると指摘。日本やアジアで大ヒットした「アジアの純真」や「これが私の生きる道」の英訳の歌詞を「意味不明」と切り捨てた。それにしてもPUFFYファンが知ったら怒るだろうねえ。


というのだが、このワシントン・ポスト紙の評者は黒澤のせがれなみにスクエアで、やっぱりこういうアルバムがそれなりに大量に売れたあげくに『古本市場』で250円で投げ売られているというのはやはり、面白いことだと思うし、日本の一時期のマスカルチャーの日本風ポストモダンっぷりというのはやはりたいしたものだと思うし、まぁ世代的なものもありこういうのが好きなんだから仕方ないわけで、こういうアルバムがまだあるのなら、自分の音楽生活に当分のところ21世紀が訪れなくてもいいとさえ、日和ったことを思ってしまうわけである。1999年の作品。

で、通勤で繰り返し聴きながら、その中で使われている元ネタの一つ、渚ゆう子「京都慕情」というのを欲しくなってきた。で、大学の近くのレコ屋ではみつからず、近所のレンタル店では昭和歌謡のオムニバスで見つかった。HMVでネット注文するという手もあって、これだと『渚ゆう子ベスト30』みたいなアルバムになる。まさか買わないだろう、と思いつつ、買うかもしれない。黒澤のせがれには悪いが、パスティッシュの出来がいいと元ネタを買いに走るということもあながち嘘でなくおこるのである。
小さい頃に、たぶん母親が家でいつも流していたラジオでよく流れていた曲なのだと思う。非常に懐かしくツボにはまってしまって、このフレーズをはなうたで歌いながら歩いているのである。小さい頃、というのはつまり、自分が京都に住む現在などかげもかたちもなかった頃に聞いていて、それを今、思い出しているのが不思議な気持ちだ。
30年以上たっている。この時間というのはなんなのだろうか。


 


2月3日。お蕎麦屋さんのカレー / アンテナ。

学生さんのレポート〆切と試験期間が終われば、採点が始まる。この秋学期は、非常勤先のクラスの学生数もひさびさに多かったし、一般教養のほうで持っている授業のクラスも300人くらいで、ちょっと骨だったが、なるべくどんどん済ませるようにして、まあなんとかだいたい終わった。試験の採点というのは、自分の授業がどのように学生さんに伝わっていたか、伝わってなかったか、確認する作業であるので、まぁ、ばあいによってはかなりへこむ作業になるのですけれど。まぁ、しかし今年もまぁ、だいたいのところいつもどおり、あるいはクラスによっては「今年は結構いけてるじゃん?」みたいのもありつついけたのでまぁあれですよ? よかったのでは?
ていうかなにより、採点というのは自宅でやる仕事なので、ひきこもりの自分にはもってこいである。

さいきん研究しているのは、「お蕎麦屋さんのカレー」の作り方である。といっても、外食苦手主義者なのでお蕎麦屋さんに入ってカレーを食べたことなど実際にはないのだが、しかし、例によって東海林さだおの『丸かじり』を読み返していたら、なんかとてもおいしそうに書いてあったので、自分で作りたくなってきたという次第なのだ。
細かいレシピはわからないが、とにかく丼モノのアタマを作るような要領で、あっさりさーっと作ってしまう、というのをコンセプトに、そばつゆをベースに薄切りのたまねぎの食感が残ってるくらいに全体を5分くらいでさーっとやっちゃう、仕上げにネギの斜め切り、という線でさしあたり試行錯誤している。

もうひとつ、「アンテナ」というのに手を出し始めている。去年ぐらいから見かけるようになったインターネット上の無料サービスで、登録をすると誰でもすぐに自分の「アンテナ」のページというのを持つことができる。
で、これ、なにをするかというと一種の動的なリンク集で、自分がふだん見るあちこちのHPをそこにリストアップしておくと、新しく更新された順に、更新内容とともにどんどんリストの上位に新しい情報が積みあがる形で表示される仕掛けになっている。
自分だけで使うのならば、今現在つかっている更新チェック巡回ソフト「WWWC」というのだけで十分役に立ってる(おまけにフリーソフトで、こちらで無料でダウンロードでける)のだが、「アンテナ」だと、自分のHPのコンテンツの一部として、最新情報リンク集みたいなものができるので、うまくいけばとても便利になるはずだ。
そういうわけでとりあえずアンテナを設置してみた。とりあえず、天理大学関係の情報と生涯教育関係の情報、それから、社会学関係の情報に網を張ろうと思っているのだが、はてさてどうなることか。これまた試行錯誤である。

前回の訂正と追記。
先日、パフィーさんの昔のアルバム『FEVER FEVER』を中古で250円で買った、と書いたのは間違いで、95円が正解。いやはや、なんか法外に安かったんだけどなぁ、250円より安かった気がするんだけどまさかなぁ、と薄々思いながら、レシートが見あたらなかったので(まぁ、たかがHPに書く気晴らしの作文のために本気で探すほどでもないわけなので)記憶と常識の落ち合った250円という線で納得してここに書いたのだが、さっきひょっこり出てきたレシートをあらためて見てみたらやはり法外だった。95円というと、缶ジュースも正規の自販機では買えない、何か特別に「安売り」とか書いてある特殊な自販機でサンガリアとかじゃないと買えないぐらいの値段である。それで、しかしもういちど念を押すが、なかなかの名盤なのである。


 


2月14日。春らしい天気になってきた。

つい一週間前には池に氷が張っていたり雪が降ったりしていたのだが、ここ何日か、暖かく春らしい天気でとても気持ちがよろしい。年度末の成績つけや卒論口頭試問・卒論発表会・追い出しコンパといったイベントが済み、一般入試も前期が済んで、まずは一段落、とはいえまぁあれやこれやで毎日学校には顔を出すのだが、夕方には家路につけるわけで、気がつけば、夕方でもまだ陽があって風も暖かい。まぁどうせ、このまま春になるわけではないだろうし、地方TVの天気予報の人が早春賦だとか三寒四温だとかなんとかきいたふうなことを得々と説明するのにきまっているのだけれど、それでも、春というのはこういうふうだったなあ、と、まぁ予告編とか、試食品のようなもので、陽に当たりながら歩いていると、いよいよ春が楽しみになってくるという仕組みである。

さてしかし、例年ならこの時期、春休みということで、「文豪生活」と称し、集中して論文を2本ばかりまとめるのだが、今年度は某役員の当たっていることを考慮に入れて、1本だけ書くことにしている。その1本も、なんだかあわただしい毎日なので、集中できないのだから、なんだか大変だと思う。やれやれ。2月末までに、研究室紀要向けに、軽いものを1本。

書こうと考えているネタについては、材料はそれなりにあるはずで、オチもだいたい見当がついているのだが、軽いめにまとめるという完成図のイメージがまだおもいあたらない。内容的には、オーネット・コールマンの「Dancing In Your Head」の演奏みたいなものについて書きたいのだが、あれは飄々と演奏している割に意外と長い曲なので、短い論文のお手本にはならない気がする。あれを聴きながら書いていると、書くのがどんどん気持ちよくなってきて論文が長くなってきてしまうと思う。
オーネットの「ハーモロディックス理論」なるものについて詳しく知っているわけではないのだが、「Dancing In Your Head」がその成果だ、というのであれば、なるほどそれは面白そうだ、と思う。集団即興演奏で、みんながぐだぐだしている中になんとなく協調性が浮かび上がっていて、その中でオーネットが即興で飄々としたロングソロを吹く、という。DCPRGの菊地成孔が以前、自分たちの演奏とハーモロディクス理論の見分けがつかないやつがおると書いていたが、混同したくなる気持ちもわかるし、一緒にするなといいたくなる気持ちもわかるが、どっちがかっこいいかというとやはりオーネット・コールマンの方がかっこええと思う。DCPRGの『構造と力』(の、ポリリズムのファンク)で踊っている人より、「Dancing In Your Head」でヒョイヒョイ踊っている人のほうが(もしいたら)しゃれていると思う。
いやまぁ、それはそれ。別に、音楽について書こうとしているわけではなくて、生涯教育のジャンルでエスノメソドロジーみたいな話がうまく応用できないかなあ、ということで、その取っ掛かりみたいな短い論文を書こうというつもり。


 


2月20日。『寅さん』を見ていたらP.ルコントを下敷きにしていた。

ヒッチコックを見るといいのではないか、という気がしてビデオテープを取り出し、その前に入っている『男はつらいよ・寅次郎の青春』をとりあえず、というか楽しみに見はじめる。甥っこの光男と後藤久美子がメインになっている時期、92年の作品で、「バブル崩壊」などという言葉が寅さんの口上の中に織り込まれたりしている。旅先でひょんなことから出会った女に「髪、切ってかない?」と導かれ、次のカットが理髪店の椅子の上にいる寅。で、明るい日が差している中、女にゆっくりと髪を洗われ、剃刀を当てられるシーンを見て、「?」と思ってすぐインターネットをつないで調べてみると、やはり、というより、なんと、というはなしなのだけれど、『髪結いの亭主』(パトリス・ルコント、90年)を参照したとほんとに山田洋次が言っているらしい。普通に見ていて気付くくらいなので、たぶんカット割りとか店のセットの感じとか光の感じとか、ある程度そっくりに再現しているのだろう。そういえば風吹ジュンの白衣が薄いピンク色なのとか、髪がふわふわとカールしたところとか、寅の顔に剃刀を当てるときに大きく覆いかぶさるようにするところとか、それっぽいところはたくさんありそうだ。椅子を倒されて蒸しタオルをはずされて妙につやつやとした寅の顔を、たっぷりと明るい光の中で真上から写すカットなんていうのは、いわゆる「寅さん」の画面ではなくて、しっかり「フランス映画してる」感じだし、だいいち、あんなに無防備に静かに目を閉じて落ち着いた様子は、ほとんど寅さんではない、渥美清そのままという感じで、ハッとする。女のそばで寅さんはいつも、小さい目に力を込めてはっしと開いている印象なのに。

外出したら、スーパーの店内でふと、喉に来たかな?という気がして、それで帰宅したらすぐうがいをして、今も首にタオルを巻いているのだが、さあ、どうなるか。


 


3月7日。一月は行く、二月は逃げるとはよく言ったもので、

気が付けば三月もすでに1週間目がおわりである。月日のたつのは早い。お日様とお月様は今朝早くに発たれました。なるほど月日の発つのは早いものだな。雷様はどうなされますか。私は夕だちにしよう。という小噺があった。一人暮らしだとこういうくだらないことを思い出したときにそのやりばに窮するのだが、こういうところに作文を書く場所があって大助かりである。

年末来の腰痛は一進一退しながらなかなか抜けない。論文は書き上げはしたものの釈然としない。あまりぱっとしないところではある。まあしかし、照る日もあれば降る日もあるわけやからねえ、と、学生さん相手に言うことを自分で反芻しながら日々を暮らす。そのうち本格的に春になれば、書き上げた論文は印刷が仕上がってくるだろうし、花見でもしながら暖かいなか散歩などこまめにやっていれば、腰痛も抜けてくれるだろう。新入生を迎える頃には、にこにことしていられればよいのだが。

『ユリイカ 特集・論文作法 お役に立ちます!』というのを買ってきて、ああ、東京で一流の書き手をやっている皆さんはたいへんやなあ、と思いながら読んだ。なんだか、これを読んで「お役に立ちます!」というのはちょっとないなあ、と思いながら、まあ、昔から「詩と批評」の雑誌なわけなので、『ユリイカ』で「お役にたちます!」な「論文作法」が読めるとは読者は最初から思っていないはずなので、いっこうにかまわない。それで、じゃあ何が書いてあるかというと、なんか仲間内のあてこすりみたいなことをみんなで書きあっている。それが、「カルスタやポスコロは構築主義だから相対主義でいけない」みたいな、なんかそりゃ嘘でしょうみたいな、絶妙にズレた詩的な悪口の応酬なんで、なんだか青土社の近所の文壇バーで足の引っ張り合いをしている人たちのやりとりを聞かされてしまったような、なんかへんなかんじなのだ。まぁなぁ、いつもながら相変わらずの執筆陣が、ひとつの雑誌の中でごちゃごちゃやっていたら、そらまぁ愛憎嫉妬渦巻くの図になるやろからねえ。たぶん、上野千鶴子東大教授の本あたりで勉強しつつ業を煮やしつつ、特定の幾人かの顔を想定しながら、洒落たあてこすりを書いてやろうとお互い秘術を尽くしてはるんやろね。おおこわ。

ありがたいことに、地方で四流Z級の書き手をやらせていただいている − というか、あんまり書いてないしたまに書いてもいつも釈然としてないのでやれやれなんやけれど − 自分としては、まぁ、のんきに来年度の卒論指導のことでもぼんやりと楽しみに考えているところ。そうそう、卒論指導担当の学生の面子も決まって、さぁ、どういう方向で書けていくのかなあ、とぼんやりと思っているというのはなかなか楽しいものである。まぁこれが、実際に始まってみると、なかなか思うように論文が進まないので我慢の日々が続きもすることに今年もたぶんなるわけなのだろうが、それでもやはり卒論指導、というのは楽しい。なにより、学生さんの顔見ながら、うまくコミュニケーションをとりながら、学生さんのやりたいことが、うまく深まってうまく実現できたときというのは、やはり楽しい。今年は、担任クラスの学年である。最後の一年間、楽しくやっていけるとええなぁ。とかね。ぼんやりと。春やし。


 


3月19日。散歩をしてブックオフで阿部薫のCDを買ったりする日々。

某日。散歩に出かけて、近所のブックオフに入り、模様替えをしたCDコーナーを見たら、ジャズの棚に、阿部薫というのが、なんか「vol.1.」「vol.3.」という中途半端な2枚、並んでいて、それが1枚750円。で、伝説の、ということで名前だけは知っているけれど、まぁ、60年代末に彗星のごとく登場して、唇から血を流しながら凄絶なフリーソロを吹きながら、睡眠薬の多量服用であっというまに死んじゃったアルトサックス奏者で、でもってその演奏の実況録音のカセットテープが死後にどんどん出てきてリリースされて、とか、そういう人なんで、まぁ、音は想像できるしなぁ、と思って今まで気になりつつ聴いてはいなかったのだが、1枚750円。微妙に心が動きながら、とりあえずCDコーナーを離れて2Fの古本コーナーに行ったら『阿部薫1949-1978』(文遊社、1994)という本が目に留まり、これはもう仕方ないかねえ、と、本とCDとを買って帰った。

で、まぁ聴いてみれば、やはり想像してたような音なわけで、本のほうにも、当時の彼を知る人たちの寄せた文章が並んでいるけれどまぁ、想像したようなエピソードが並んでいる。バーでずいぶん飲んでいて、酔い覚ましに阿部と二人でビルの屋上に上がったら、阿部が、持っていたサックスを吹き始めて、最初は凄い凄いと聴いていたのだが、酔いもさめたしそろそろ戻ろうとしたら出口のカギが閉まっているのに気付き、つまりビルの屋上に阿部と二人で締め出されてしまったわけで、寒いしすっかり酔いは醒めるし、そうなると阿部はまたケースからサックスを取り出して吹き始めるし、で、都合6時間ぶっつづけで阿部のフリーソロを、ビルの屋上で一人で聴くことになって「あれは地獄やった」、みたいなエピソードですね。

こういう音やこういうエピソードというのは、まぁ、懐かしいというか、まぁべつに自分の学生時代がそうだったということは全然ない引きこもり体質ではあれ、まぁ、懐かしい。まぁ、学校の授業も春休みだし、そうやって懐かしがっていてもいいかな、とは思いながら、しかしまあ、タイエイ的ではある。だいいち、今年は結構会議だのなんだので春休みを退嬰的に過ごすどころではないというのもある。

で、たとえばその本の中に、中上健次(もずいぶん前に亡くなってる人なわけですが、こういうジャズを論じる的な本だとよく顔を出していたわけですが)の文章が収められていて、83年の『朝日ジャーナル』(もずいぶん前になくなってしまっているわけですね、懐かしいですね)が初出の、坂本龍一を持ち上げるための文章らしいのが、行きがかり上矢沢永吉や阿部薫に言及している。なにしろ、阿部薫が読んでいたというジャック・デリダ『声と現象』を中上はあるとき手に入れたらしい。で、その本には阿部が引いたのだかわからないけれど線が引いてあって、たとえば、イデア性という形式における現前性の形而上学である現象学は同時に一種の「生の哲学」でもあるのだ!、というくだり(印象的なくだりなので私でも覚えている。序論の中で、線を引きたくなる決め台詞のところだと思う)を中上は、引いて、それを矢沢の歌に結び付けて、「つまり彼において、先に引用した阿部薫が傍線を引いたジャック・デリダの用語(イデア性)が立ち消え、〈声〉だけが、声(音)の法則に乗って動いていく瞬間が、逸脱としてあらわれるのだ。/音楽というイデア性が立ち消え、分節化された音が一瞬の受苦の恍惚のように顕われる。これは阿部薫がやろうとした事であり、アイラーがやろうとした事だった。」と、書く。それはたぶん、どっちかというとデリダの言ってることを逆に理解していて、というか、デリダが逆転させようとした当の通念をデリダに逆らってそのまんま繰り返しているんであって、ごていねいにほかならぬデリダを読んで引用する瞬間にそのように書いてしまうあたりが症候的だとしかいえないと思うのだけれど、そうした症候は実際のところ、うんざりするくらいありがちなことではある。でも、そういう「生の声」をめぐる神秘主義、みたいなところがフリー・ジャズ(の、特にアイラーとか)にあるというのは、たぶんその通りだし、まぁその神秘主義っぷりが凄いわけでそこを聴くわけだけれど、たしかにデリダとか言い始めたら、批判の側に回らなければ理屈に合わないことになる。たとえば、同じ本の中で、DCPRG周辺の人として名前を知ることになった大友良英が、流通、ということをキーワードに、阿部薫はすごいけれど、70年代・80年代とはことなる状況の中で自分がやらなければならないことは彼をサンプリングの対象とすることだ、と書いている。これが10年前に書かれた文章なので、さらに10年たった現在、ということを、やはり考えることになるわけだろう。

とかいいつつ、例によってHMVのサイトでさっそく阿部薫のCDを注文してしまった。いやぁ、いいじゃないですか、春ですし、退嬰的に。
電気ギターとのデュオでインプロビゼーションをやっている盤らしい。HMVのサイト内の「お客様レビュー」を読むと、「鉄の扉を引きずりながらチェーンソーで斬り刻むというか、全校生徒がいっせいにガラス戸を爪を立ててかきむしるというか、凄いです。決して人には薦められませんが気になる存在です、阿部薫。」と書いてある。いやぁ、想像ついちゃうなあ。ま、いいじゃないですか、春ですし。


 


3月23日。集団投射(承前) / 「レディメイドな/スポンテニアスな」。

そういうわけで、阿部薫・高柳昌行『集団投射 Mass Projection』というCDをインターネット通販で入手して、予想にたがわない酷い音を存分に堪能する。HMVのサイトで通販で買おうとすると、在庫がある場合には「24時間以内に発送」してくれる。いつも在庫のあるものとないものをいっしょくたにまとめ買いをしていたので気がつかなかったのだが、在庫のあるものだけをピックアップして注文すれば、すぐに配達されるのだった。それだけ、すぐに聴きたかったということであり、それで聴いてみて、やはり想像通りの音がして、よかった。想像通りなら聴くまでもないだろう、などと思ってはいかんのであって、つまり、おいしい食べ物を食べるのを想像することと実際に食べるのが違うくらいには違うので、やはり実際に食べたり聴いたりする方がいい。どうしようもない酷いノイズを50分間聴き続けて神経を逆撫でされ続けるというのは、やはり実際に経験してこそたまらない気分がわかるというものだ。いい意味で。

研究室で出している紀要が、刷り上った。そういうわけで、業績リストに新しい論文「生涯教育場面に導入される「ゲーム」について −「空気」の協働的管理 −」『天理大学生涯教育研究』no.8.pp.23-35.天理大学人間学部人間関係学科生涯教育専攻研究室(2004/3/22)を追加。

その中で、「レディメイドな/スポンテニアスな」という二分法を使っている。それで、後から気付いたのだが、これは日本語の文章の中では特に、あまり耳慣れない言い方なのかもしれない。自分としてはけっこうしっくりくる言い回しなのだが、それは、「レディメイド」のほうは、マルセル・デュシャンの関係のものを読んでいて馴染んだ言い方(まぁ、デュシャンというのはダダイストなんで、レディメイドなものを作品化する(作品なるものをレディメイド化する、というほうがいいのか?)というところに独特の意味合いを込める(意味(の可能性)を蒸発させる、というほうがいいのか?)わけだけれど)で、いっぽう、「スポンテニアスな」というほうは、ジャズの関係のものを読んでいて馴染んだ言い回しなのだった。念のためにGoogleで検索をかけてもそのような傾向はありそうなので、「レディメイドな」のほうは、デュシャン関係とあとピチカートファイブのアルバム名、それから「well-made」という形容との混用らしきものが若干、検索結果の上位に並び、「スポンテニアスな」のほうでは、音楽、とくにジャズ関係のものが多く上位に含まれるようだ。
今回書いた論文が、それではデュシャンとジャズを総合するような前衛的な内容か、というと、全然そんな事はないわけで、まぁ、オーネット・コールマンみたいなことを書こうと一度は思った、ということはあるにせよ、やはり、まぁなるべく、というかいままででいちばん「ごく普通の生涯教育の論文」を書いたつもりだ。それでも、あれやこれやで書き殴りで書いてしまったので、ついついいつもの手癖で、自分の馴染んだ言い回しを使ってしまった。
で、結局のところ、他人はともかくとして自分で後から読み返して面白いのは、そういうところで、そういうところを手がかりにして先に進むということがあるような気がする。


 


4月4日。新年度が始まった。

はやいもので、今年もはや4分の1が終わり、新年度が始まった。久しぶりに学校に学生さんが集まり、一学年ずつ進級してそれらしい顔になっていたりして、とくに自分の担任クラスはとうとう4回生になってしまって、なかなか感慨深い。つい先日、卒業生を送り出した余韻もさめないまま、新一年生を迎えた。毎年のことだが、めのまわるはなしだ。

去年の5月からの某役員の任期があと1ヶ月を切った。こちらのほうは今が年度末でさいごのたいへんなところだが、先が見えたというのは心強い。見通しを持って最後のところをしっかりとやろう。かの吉田兼好法師も書き残しているように、遠足はおうちへ帰るまでが遠足ですである。

今年度の見通しとして、夏終わりの〆切りで論文を2本、というのがひとつの大仕事になりそうだ。どちらも入門書の一部を書かせていただける、ということで、こわいことに、同じ出版社で同じ編集の方で同じ〆切り(一方には、「9月30日」と書いてありもう一方には「9月末日」と書いてあるがたぶん同じ日のことだと思う)である。一方は家族論で80枚ってところ、これは以前から話をいただいていたものがようやく本格始動した感じ、で、もうひとつは、つい先日、話をいただいたもので、まぁ学校問題とかそのへんになるもよう。
今年は、某役員の仕事があったために春に1本しか書かなかったので、まぁちょうどいいといえなくもない。まぁ、例年、春には2本をほぼ同時にまとめているわけだからそのペースでやればいい、と考えることにしよう。


 


4月17日。週末で空が晴れていると気持ちがいい。

この週末は土日がちゃんと休みだし、天気がいいのがなによりだ。午前中に洗濯をすませてしまったし、午後から散歩にでも行こうかしらん。
授業がはじまるとやはりたいへんなのだが、うまく疲れが抜けてくれるといいのだけれど。

洗濯機を回しながら読み上げたのは酒井順子『負け犬の遠吠え』で、夏休みに書く論文にベッカーの「負け犬」論文を参照できるかな、と思いつつ、まぁ負け犬つながりって事で通勤途中に購入、帰りの電車と、就寝前と、洗濯機を回しながら読んだ。で、感想は、というと、この本は、文章を読んで理解して感想を抱く、という種類の本ではないはずなので − つまり、負け犬の遠吠え、という本である以上、定義上、何を言っても相手にされない、というところが決定的なはずなので、つまりここに書かれている文章は、一見どれだけ正気で書かれているように見えようが、理路整然と説得力があるように見えようが、その根っこのところで、取り返しのつかない負け犬になってしまった者の、無意味なウワゴトとか叫びとか自己説得とか虚勢とか、そういうものとして受け取られるべきであるはずなので(そういう受け取り方をしろ、というのがこの文章に仕掛けられた「悪意」であるはずなのだから) − まぁ、感想は書かないというのが正解なのやと思う。ウワゴトのはしばしを文章として額面通りに理解して、いちいち「これは卓見だ」だとか「ここには著者の優越感が逆説的に表現されている」だとか、すばらしいだとかけしからんだとかよくぞここまで書いただとか面白いだとか論評したって意味がないんで、これは負け犬の遠吠えなんだからウワゴトくらい好きに言わせておくことが礼儀、というものではないかしらん。ただ、この酒井という人が自分と同年齢で、それが感慨深い。ついでにいうと、やはり同年齢のライターの人で、笠原真澄という人がいて、『サエない女は犯罪である』という本を出していたのが、ちょうど私が就職した年だから7年くらい前? 30歳のとき? で、その笠原さんのプライヴェートがどうなっているか知らないけれど、当時、『サエない女は犯罪である』を同世代の著者の書き物として楽しく読んだ自分が、今、『負け犬の遠吠え』をやはり同世代の著者の書き物として読んでいるというのは、感慨深い。たぶん、「サエない女」はむしろ「勝ち犬」に対応しているわけで、その捩れと脱力が、あはれ、このあっというまの年月に対応しているわけだ。

さて、これまた負け犬感あふれる岡村靖幸の最新の声を求めて、尾崎豊のトリビュートアルバム『blue』を購入。これまた同世代なんだけれど、まぁ、バイクを盗んだりガラスを割ったりしては「先生あなたはどうのこうの」とか甘えた口をたたく、それはダサいんじゃない?『真剣10代しゃべり場』にでも出れば?的なウザい人だと思っていたので、さすがに世界が全然違うわけでまさか自分が尾崎に関連するCDなど買うとは思っても見なかった。でも、岡村が生前の尾崎と友達で、このトリビュートアルバムでバラード曲「太陽の破片」を歌っているのを聴いたら、やはり迫り来るものがあった。宇多田ヒカルの歌う「I Love You」が、まぁ巷ではいちばんよく流れているわけで、たしかに優秀な歌唱みたいなんだけれど、その曲が終わった次の曲で岡村が歌い始めるバラードのが、だんぜん、来るわけである。原曲は聴いたことないので、岡村がかなりアレンジしているのかもしれない。
ライナーノーツには、プロデューサーの思い入れたっぷりの作文が各曲ごとに書いてあって、アーティスト本人の言葉が書かれていないのが残念なのだけれど、その中で言えば、Coccoさんのところがとてもよかった:「尾崎豊のことはあまり知らないと明言した上で参加を決めた理由は僕の言葉だったと告げられた。小一時間ほど話ができた。もし自分も死んで、一番の理解者がまわりのアーティストにトリビュートへの参加を呼びかけていたら、私は天国から「参加してあげて」と呼びかけると思うから、だから私は須藤さんのために歌うといい、そしてやさしく握手してくれた」
いい人だなあ。


 


4月29日。メノン。

昨年度から「教育思潮」という授業を担当していたのだが、学年指定の関係で今年、本格的に始動しはじめた。哲学系のテキストを学生諸君といっしょに読んだり、そのへんの講義をしたりできるというのは、結構、たのしみなものがある。

よく考えたら、最初に大学の教壇に立ったのが10年前で、佛教大学さんの通信制の夏季スクーリングの非常勤講師として3日間だけの「先生」だった。佛教大学さんにはその仕事で4年間、お世話になったのだが、さすがに初年度はもう、緊張して何をやったかも覚えていないようなていたらくなのだが、何年目かに、社会学の講読の授業ということで、テキストとして、プラトン『メノン』、デカルト『方法序説』、デュルケーム『社会学的方法の規準』をそれぞれ、冒頭部のところを1日ずつかけて読んでいく、ということをやった。社会学のテキストとしてプラトンやデカルトというのは、学生さんからすれば不思議だったかもしれないが、対話法からイデア論に進むプラトンの議論や、方法的懐疑から神の存在証明に進むデカルトの議論を辿りながら、それに重ね合わせる形でデュルケームの社会的事実の定義を読んでいく、という趣向で、わりかし好評だったと思った。通信制の授業なので、若い学生さんのほかにも、定年退職された男性とか、主婦の方とか、いろいろいてはって、それが面白かった。
プラトンの対話篇を、学生さんに役割を振り当てて読んでもらう、というのは、なかなかに楽しい経験だった − えー、今日読んでいただこうと思っているのは、哲学のテキストです。皆さん、ふだんはお仕事とかであわただしくしておられたりと思いますが、今日は、大学の授業ですし、とくに哲学のテキストですから、時間を切り替えないといけません。外は暑くて慌しいですが、このテキストに登場する人たちは、ひとつの問題をいっしょに考えるために、少しずつ少しずつ対話を進めていっています。それを、ゆっくり、ゆーっくり、読んでいくことにしましょう・・・
3つのテキストは、それぞれのやりかたで、「自分の外側にあるもの」、他者、を指し示している。それを、イデア、と呼んだり、神、と呼んだり、社会、と呼んだりしている。テキストをゆっくりと辿りながら、その「他者」の感触にふれる瞬間をもつことができれば、3日間の社会学講読の授業としては、まずは成功、と考えた。キリスト教の、シスターの格好でいらしていたかたがあって、試験の答案の中で、授業の中で、他者なるものに言及したときに、神のことを思って感動した、と書いてくださった。それはとてもうれしいことだ。

そういうわけで、「教育思潮」の授業でも、まずプラトンをとりあげた。教育とは、「生きる力」の教育として生まれたのではなく、ギリシャ時代に、逆に「死の練習」として始まった。これはとても大きなことであるはずなのに、たぶんそのことが忘れられてしまっている。大学教育の内部にいる学生や教師として、また、生涯教育を学んでいくものとして、このことを経由してでなければ、きちんとものを考えることはできないのではないかしら。メノンはソクラテスに、「徳は教えられうるか」という問いを提起する。この問いが、まさに問いとして対話の中でねばりづよく練り上げられていくのを辿ることは、まぁその行程に仕掛けられた精巧な罠を意識することも含めて、とても貴重な経験だと思う。少なくとも、「徳育」などということをいかにも簡単に強調することよりは、貴重だと思う。

しかしなにより、これはいつも学生さんに言っている貧乏自慢の繰り返しなのだが、プラトンの対話篇は、私がお金がなかったオーバードクター時代に、古本屋のカゴ売りの80円くらいの文庫本を買っては、鴨川ばたの芝生の上で読んでいたりした本なのだ。ちょうどいまごろの季節、ゴールデンウイークとか世間では呼ばれているころ、明るい日差しとさわやかな風に吹かれて川辺で本を読むのは気持ちがいい。これはなんど思い出しても繰り返し楽しい思い出だとおもう。


 


5月5日。草の上の読書/正当なことと快適なこと/夜になっても遊び続けろ。

何年ぶりかにゴールデン感のある連休を過ごした。5連休は、おおむね晴天に恵まれ、毎日散歩に出かけた。近所に読書のできる川辺の公園を見つけ、特に今までなんとなく歩かなかった道へ少し入ってみたら思いがけずきれいな川と川辺の芝生が広がっていて、これはなんというかとても嬉しい発見だった。ベンチに座って2時間ばかり『エミール』を読み始め、それから下宿に帰って読んで3分冊をまずはおさらいできたことがこの連休のさしあたりの収穫だろう。あと、去年買って以来、なかなか聴く体制になっていなくて最近ようやく聴き始めたモンクの15枚組『コンプリート・リヴァーサイド・レコーディングス』を順々に最後まで聴いたこと(Disk-14,15の、今まで聴いたことのなかったライブ音源で、思いがけず快調な演奏を聴けたことは収穫だった)。少し前にインターネット注文していたCDがまとめて届き、少し聴けたこと。連休に観るぞと決めて買っていたDVD『クレヨンしんちゃん・嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』を観たこと。年初いらいの腰痛と足痛がずいぶんおさまってきたこと。等々。

CDが届いたのは連休の2日目で、HMVのサイトから注文して宅配されたもの。ここでも以前書いた、阿部薫とかそのへん。連休中なので届かないと思っていたら、届いた。配達してくれたおじさんは、先日から新しい人になっていて、物腰がとてもきちんとした銀髪の紳士である。しかるべき会社の管理職という感じで、ちょうしがくるうのである。定年退職後に再就職しはったのやろうか。それで、自分のようなフーテンのような者の部屋に意味不明なCDを配達するというのは、どういう気持ちなのだろうか。下宿の玄関先で、芸もなく突っ立った私の足元にしゃがみこんで代金引換のお金のお釣りをウエストポーチから取り出し数えながらおじさんは、ていねいな口調で「お休みですか?」と言い、自分は言葉に詰まって、「ええ、このたびはやすませてもらってます」としか答えられない。

このまえここに書いたことの続き。以前からずっと教育学のようなことやそれ以外のことを授業やそれ以外で学生さんと話していて、あるいはこのHPの掲示板でやりとりしていて、奇妙にすれ違うことがあり、途方に暮れたり脱力したりしていたのだが、そうしてだんだんわかってきたことは、自分の物事の捉え方が、学生さんたちの物事の捉え方と比べて、違うところがあって、それが決定的なのではないか、ということである。
なんのことはない、自分が物事を捉えるときに、「正当であるか/不当であるか」という軸が必ず入ってくるように思う。それが、「快/不快」という軸としばしば齟齬をきたしながら、なんとか日々を暮らしているのだが、そのとき自分の心の支えにしようとしているのは、「正当であるか/不当であるか」という軸のほうだと思われる。その感覚が、学生さんたちの感覚とずれているのではないか、と思い至っているのである。いそいで確認するなら、べつに、学生さんたちがただ「快/不快」だけに従って日々を暮らしているのだ、とまでいうつもりもない。しかし、「正当であるか/不当であるか」という軸と「快/不快」という軸とがきっちり分離されているのか、分離されたうえでその矛盾がきっちり引き受けられているのか、というと、やはり心もとないのではないかという気がする。
ソクラテス=プラトンの、「死の練習」としての哲学、とは、快感原則から身を離した倫理性の追求、ということだろう。生を支えているのは「快」だけではなく、「正当さ」こそが自分の生を(すくなくとも、「善いもの」として)支えてくれる、という感覚は、あたりまえのものではないのかもしれない。「正当な快」を享受するためには、「正当な不快」も受け入れ、「不当な快」は退けないといけない、そうしないと、「不当な不快」を退ける手がかりをなくしてしまう、というような感覚を、自分は、何も考えずにごく当たり前のものとして持っていたのだが、例えばのはなし、教育について喋っていても、「生きる力の教育」「常識を教える教育」などという言葉のやりとりの中で、知らない間にすれ違いが起こってしまう気がする。「正当さ」こそが生を支えるのであれば、「何が正当であるか」を知るために快感原則から身を引き離して(また、同時に逆に、ニーチェが「良心の疚しさ」と呼んだものからも身を引き離しながら)、論理的な脈絡だけを正確に辿ることができなければいけないだろう。もしそうだとすれば、それを導く役割を抜きにして「教育」は考えられないのではないか。その上での「生きる力」というのは、しかし、もしあるとすればの話、どのようなものなのだろうか? 以前、ウェーバーの『職業(天命Beruf)としての学問』について考えたり論文を書いたりしたことについて、「教育思潮」という授業をきっかけに、またいろいろ考えてみたくなる。

連休が5日もあれば、そのうち4日目の1日だけ雨が降る、ということこそが、連休の理想を完成させることになる。散歩の誘惑もなく、下宿でゆっくり『エミール』の下巻を読了し(ジェンダー論の格好の素材になるようなテキストではありましたな。ただまあそれはそれだけの話ではあるのだけれど。ともあれ、ルソーの妄想炸裂のソフィーという女子キャラクターとエミール君とのロマンスのくだりは、なかなか気恥ずかしくも楽しくて少女マンガというよりご都合主義的少年マンガ、というか以前学生に薦められて読んだ、少年誌に掲載だったはずのジュブナイル小説、村山由佳『おいしいコーヒーの入れ方』シリーズ、よりかよほど上出来である)、モンクのCDの15枚目を楽しく聴き終わり、それからDVD『クレヨンしんちゃん・嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』も観る事ができた。
まぎれもない傑作という評判で、特に、子どもを映画館に連れて行った30代の親を狙い打ちにした、30代にしかわからない映画、ということで観た。で、たしかにその通りだった。それで、十分に楽しんだのだけれど、ただ、これはまさに「親」の立場である人がターゲットになっていて、30代独身子なしの負け犬の人は、お話の中では、悪の組織「イエスタデイ・ワンスモア」のボス、ケンとチャコに感情移入したまま気持ちの行き場を失ってしまうことになる。作品の性格上そういうオチにならざるをえないのだが、21世紀が子どもとその家族のためにあるのだとすれば、それはそれで結構、こちらは、「20世紀博」の永遠の夕暮れの中で、金井美恵子の本の題じゃないが、「夜になっても遊び続けろ」だ。

連休最終日はふたたび晴天、落ち着いて散歩、書店で軽めの本を3冊ばかり購入、そのうち1冊を読了。小中千昭『ホラー映画の魅力 ファンダメンタル・ホラー宣言』(岩波アクティブ新書、2003年)は、黒沢清の本とかで幾度も言及された「小中理論」が明らかにされている本。ホラーというのはほとんど観ないのだが、映画の原理主義というものをわかってもらうために学生さんにすすめる本としていいかもしれないと思い、買って読んでみて、やはり悪くないと思った。


 


5月16日。雨の日曜日。

連休が終わってしまうと、5、6月は学校の方が通常営業になり、そうすると授業以外のあれやこれやも増えてきて、週末がつぶれていくことになる。昨日の土曜日は研究室のソフトボール大会だった。誰の行いがよかったのか晴天に恵まれた。今年は担任クラスが4回生で最後ということもあったし、プレイに参加した。一度、近くに飛んできたライナーを取れたのでよしとしよう。それまでに3度か4度ばかりトンネルをしたのだけれど。

で、誰の行いのせいだか日曜は雨である。しかしまあ洗濯機を回したり碁を見たりしながらぼんやりと日が暮れる。足腰痛がぶり返したのはあまりよろしくない。まぁ、雨ふりなので大人しく静かに過ごすまでである。

昨年度おおせつかっていた某役員の任期が先月で終わったので、時間に余裕ができる理屈である。そういう理屈はぜひとも大事にしたいものである。それで、なにか始めたいという気持ちもある。たとえば、現在やっている研究会と平行してもうひとつぐらい、軽めの読書会的なものをまわしていく、とかそういう種類の。
ただ、それはそれなりにコンセプトをしっかりかためていかないとうまくいかなそうだし、参加メンバーを募ってやるということになるとなかなか簡単にはできない。また、こういうことはすべてすべて、企画をぼんやりと思い描いているときがいちばん楽しい、ということもある。
そういうわけで、さしあたりは、大げさなことはくわだてずに、さしあたりこの場所にあれやこれや書く頻度をもう少し上げようかしらん、とも思っている。好き勝手なことを自分ひとりでできる場というのを確保してつまらないことをぼやぼやと書いているうちに、なにかリハビリ的なことになってくれるやもしれない。


 


5月22日。岡村靖幸の新譜が届く。

19日が発売日だったのだが、売ってそうな店まで買いに行くタイミングがないので、またしても通販で注文。それで、昨晩、帰宅したら宅配の「ご不在連絡票」というのが入っていた。岡村靖幸の新譜がもうすぐ届くのである。

この場所に何か書く頻度をもう少し上げようか、などと書いた割には、時間に余裕ができず、大学にいながらの空き(待ち)時間はあるのだが、引きこもり体質なので大学ではなにもできないし、夜、下宿に帰るといっきょにくたびれて寝てしまうので、結局、こういうところに作文するという時間はなかなかできないものである。まぁそれならそれでかまぁしない。

近況的なことをふりかえってみれば、今週は哲学系?のヒットがいくつかあった。
非常勤に行き、そこの図書館でいつものように文芸誌をぱらぱらと漁っていて、いつものように丹生谷貴志の新しい文章を見つけて読んだ、とか。『ユリイカ』最新号の「特集・鬱」という中に「Accidia あるいはアパシー」という文章を寄せていて、これがいつもながらの丹生谷節で、キリスト教的語彙の中から「Accidia」という言葉をとっかかりにして、そこからさも怪しげな「語源学(!)」を披露しながら(「私は素人だから間違いは避けられない」・・・)、いつもながらフーコー最晩年の未完の著『肉の告白』だとか吉田健一だとかブランショ、ボルヘス、等々が浮かんでは消える泡のようにとりとめもなく言及されながら、いかにも無気力らしく文章が進み(「わたしは締めきり寸前の「鬱」の中でこれを書いている!」・・・)、いつもながらに「魂の干からび」などという言葉など登場して、やれやれと思っているうちに適当な枚数にまでたどり着いたのだか、「突然だが、」といいながらカフカのこれまた薄気味の悪い断章を引用して終わる。心地よいなぁ。『ユリイカ』もそろそろ詩の雑誌であることをあきらめて丹生谷の文章を毎号載せてくれればいいのに(どうせ詩のページなんか誰も読んでないので)(もっとも、『ユリイカ 特集・鬱』なんてのを読んでいる読者像というのは、想像するだになんとなく、お仲間に入りたくなさそうな気もするんで私は丹生谷以外のページは読んでないのだが、そうなれば、丹生谷の文章は別の雑誌に載っているほうがいいのかしらん? でも別の文芸誌でも似たようなものだし・・・それになにしろ、『ユリイカ』にはページが余ってるはずなのだ・・・どうせ詩のページなんか誰も読んでないので)。
あとは、平凡社新書の八木雄二『古代哲学への招待 パルメニデスとソクラテスから始めよう』が面白かった。新書版のギリシャ哲学の教科書、としてとても読みやすくわかりやすいのでは、と思った。同じ平凡社新書の同じ著者の『中世哲学への招待 「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために』を続けて読もうというところ。楽しみ。
あとは、大学主催のある食事会?で、いつもお世話になっている宗教学・哲学の先生と隣りになって、ずっと話し込んでいて面白かった。トマス・アクィナスとか、ウェーバー『職業としての学問』の話とか、うかがえて面白かった。人間学部でやっている研究会をそろそろ再開させる相談にもなったし、収穫である。

もうひとつだったのは、米沢嘉博『戦後野球マンガ史―手塚治虫のいない風景』(平凡社新書)で、いろいろと知らない野球マンガが紹介されていたのは面白かったのだが、いまひとつ分析というのが迫力なかったかなぁ、という気がした。漫画史の分析だと、大塚英志のほうが、無責任にわかりやすい図式があって、面白い気がする。

さて、今日は午後から学生さんの実習があるのでそろそろ行って参ります。


 


5月28日。岡村靖幸の新曲が快調なのが嬉しい / 可能性と現実

先週末に宅配された岡村靖幸の新曲「モン・シロ」とライブDVDがともに快調で、この一週間はそれを繰り返し聴きながらとても嬉しく過ごしたというわけだ。ライブDVDにカップリングされているCDが、ライブで即興された弾き語りを4テイク集めたものなのだが、これが(DVDの中に収録されたテイクと、マキシシングルCDにカップリングされたセッションのテイクも含め)とても素晴らしい。以前TVのインタビューで、歌詞がうまくいかなくて曲ができない、と言っていたのだが、その言葉が、とても鮮やかなんである。MCがわりの弾き語りみたいなもので、「大阪ベイベー、久しぶりだぜー、」とか「名古屋のベイベー、淋しがり屋のベイベー、」とかそういうかんじの歌なんだけれど、すごく笑って同時にすごくぞくぞくする、会場女子全員ひざがガクガクになってしまう、どうしてそうなってしまうのかは、ぜひ実際に聴いて確かめていただきたいものです。
そして新曲の「モン・シロ」。シンプルでかっこいい曲なんだが、「超高層ビルディング」という言葉がどうやって1拍半ほどの中に乗っかっているのかさっぱりわからない。マジックのような歌が戻ってきているのだ。

教育社会学の授業が、学歴社会論にさしかかった。で、過熱とか冷却とかいう話をするときに、学歴社会システムは構造的に失敗者を産出する仕組みになっている、ということを言ったのだが、このへんをうまく説明できるといいと思う。で、授業が終わった帰り道に考えていたのは、「人間には無限の可能性がある」みたいな言葉をとっかかりにするのはどうか、ということだ。とても嫌いな言葉だが、教育という文脈ではしきりに語られる。そこで、「教育システムは「可能性」を供給する装置であり、そこで過剰供給された大量の「可能性」から一個の「現実」を精製するのが選抜システムである」という言い方をすれば、言わんとすることが一発で言えるのではないか、と考えてみる。

大学教育にせよ、生涯教育にせよ、「可能性」の供給にとどまっていてはいかんわけで、それではどうすれば「現実」を産出できるか、と考えてみる。それはまた、社会学の研究でもおんなじことで、これも嫌いな言葉なのだが、「変革の可能性を示唆する」みたいなことをそればかりいくら言ったって現実に対する有効な批判にならない、というのと同じだと思う。どうすれば、社会学やら大学教育やら生涯教育やらを通じて「現実」を産出することができるだろうか、みたいなふうに考える。

というつながりで、というわけでもないのだが、『古代哲学への招待』に続けて読んだ『中世哲学への招待』(八木雄二、平凡社新書)も面白かった。前の本は教科書風だったのに対して、こっちは特にドゥンス・スコトゥスの神学に焦点を当てた本なので、学生に薦めるには前の本のほうだが、こっちも面白かった。で、その中でも、そういえば可能性と現実ということについて、アリストテレスとドゥンス・スコトゥスの扱いの違いを紹介していた。


 


6月11日。永井均を読み返して学生さんに薦めている。「ライ麦畑」みたいだが。

「教育思潮」という授業が、いつになってもルソーにまで辿りつかずに、学生さんのひとりがデカルトが好きだなどといっていたなあ、などと思いつつデカルトと近代的自我の話などをしていたら、ちょうどその日に、事件、が起きて、うーむと思い、次の週でもういちどデカルトのネタをひっぱって、「独我論」(「他我問題」「心身問題」「間主観性の問題」といった系列)の話で、どうやったら「独我論」を哲学的に抜け出せるか、考えてみて頂戴、と小レポートを書いてもらったら、皆さん頭をひねっていろいろ考えてた。

私が見ているこの世界は、実は自分の意識の中にしか存在しないのかもしれない。自分だけが存在して、ほかの人たちは皆、私の夢の中の登場人物にすぎないのかもしれない。目が覚めたらどうせみんな消えてしまうのかもしれない。
みたいな感覚というのは、ほら、あの感覚、と言えば誰もが思い当たるもので、だから、プラトンのイデア論の話をするときより、デカルトの「我思う、ゆえに我在り」みたいな話をするときのほうが、直感的に通じやすい。逆にいうと、事件などを起こした犯人が、「僕は透明な存在だ」的なことを言ったり「なぜ人を殺してはいけないんですか」的なことを言ったりやったりすると、誰でも二の句がつげなくなってしまいそうになる。

そのときに必要なのは、「独我論」的な構えを、きちんと 哲 学 的 に 抜け出すこと、だと思う。
「教育思潮」という授業は、教育と人権、みたいなサブタイトルがついていて、それでルソーをとりあげようと思っていたのだが、しかし、そのまえに、例えばデカルトあたりに批判的にこだわりながら、「独我論」を自力で抜け出そうとじたばたすることのほうがいいような気がしてきた。逆に、その努力をしたことのないやつらに「人権」とか語られたくないよな、という気分も、あるのだ。

・・・ぼくは国語の時間に、この問題を、いくつかの解決案(世界はぼくのために上演されている芝居であるとか、そういった)といっしょに、作文に書いた。「深く考えることも大切だが、もっとすなおにものごとを見ることも大切だと思う」といった感想をつけて、その作文は返された。若くはつらつとした感じのいい先生だったが、このひとことを書きつけたというだけで、くだらないやつだったという思いは今も消えない。それは、ぼくが生まれてはじめてほんとうにすなおに書いた作文だったからだ。
永井均『〈子ども〉のための哲学』(講談社現代新書、1996)


みたいな本を読み返して、授業のたびに学生さんに薦めている。哲学の入門としては、もう少しオーソドックスな哲学史の書いてある本のほうが好きだし、ニーチェやウィトゲンシュタインの紹介の仕方が、いかにも著者じしんの問題にひきつけすぎな感じがして、それが気に食わなかったんだが、いまこのタイミングで言うとすごく学生さんに薦めたい気分である。なんか「ライ麦畑」みたいで、いい年をして、ではあるのだが。


 


6月20日。気がつけば6月も下旬だ。

4月の始め、春学期が始まるなり、「早く夏休みがこないかな」などとちゃらっぽこを言っていたのだが、気がつけば6月も下旬、冗談でもなくもう春学期の終わりが見えてきつつあるのだ。目がまわる。目がまわる。
学期中はなんだかんだと大変で、日々が飛ぶように過ぎ、学生さんと「一週間がたつのが早すぎますよう!!」「そうそう!!」と言い合いつつ過ごしている。大変なのは大変なのだが、夏休みが早く来るのなら願ってもないことである。あと、帰宅すると缶ビール1本でくたくたと寝てしまうことが増えて、酒量が減ってダイエットの方向性に進みそうなのはありがたい。

この一週間はといえば、このまえここに『ライ麦畑』と書いたことで不意に読み返したくなって学生時代に読んだ白水Uブックス版を探すも見当たらず、さしあたり村上・柴田『サリンジャー戦記』(文春新書)を読み返し、それから学校帰りに新本で定価で村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を買って読み、2、3日間ほど青春っぽい気分になったりしたり、また、今の大学に就職した頃TVドラマで小泉今日子とか小林薫とかの出ていた東芝日曜劇場(大好きで見ていた)の挿入歌の、玉置浩二「メロディ」とか、これまた学生時代にTVで流れていた(たしか「ビデオジャム」のテーマ曲でしたね、懐かしいですね)The Boomの「星のラブレター」「君はTVっ子」とか、ユニコーンの「雪が降る町」を聴きたくて中古CDを買って聴いたりとか、これも学生時代に読んでいたテクスト分析関連の本を引っ張り出して読み返していたり、まぁ、後ろ向きに過ごしていた。
そうそう、就職した年と次の年に卒論指導担当した卒業生が、久々に大学を訪れてくれたということもあった。また、ちょうどその日、帰宅する電車で、もう少しあとに卒業した別の卒業生とばったり出くわした、ということもあった。卒業生の子たちのそれぞれちゃんと成長して充実した笑顔を見るというのは、悪くない気分である。

まぁ、要するに、気持ちは後ろ向きになっているうちに客観的時間は刻々と進行していて気がつくとあっというほど月日がたっている、という近況である。浦島太郎のように思われなくもないが、まぁ、この年齢になれば、そんなものかもしれない。
それはそれとして、The Boomというバンドは全般的にいうとニセモノだと思うし好きではないのだが「星のラブレター」はいい曲だ。いや、このたびあらためて聴きなおして、The Boomというバンドは最初から一貫してニセモノっぽい曲しか歌っていなかったのだと認識を改めはしたのだが、それはそれとして、自分が若いときに聴いていいなあと思っていた「星のラブレター」という曲は、やはり今聴いてもいいなあと思うし、きっと今懐かしく思い返す若い頃の自分自身が安っぽかったんだからそれはたぶんそういうもんなのだ。

あ、現在っぽい話を思い出した。
このところ、堂本剛くんがソロで歌っている曲がTVでよく流れて、剛くんが自分で作ったという曲が、2曲ともよくて、あぶなくCDを買いに行きそうなのだ。とりあえず、いまさらながらそれがエンディングテーマに使われている「ホームドラマ」というドラマを見てみたりして、悪くないと思っているところ。


 


6月30日。あっというまに今年も半分終了はやいはやい。 / 中島義道『時間論』

時間がたつのが早すぎる。どうしたものか。もう今年も半分終わってしまった。見てみれば、去年はここに、「ようやく半分」というふうに書いていた。今は「あっというまに前半終了」という感じ。

だからというわけではさらさらないのだが、共時性の導くところにより、中島義道『時間論』(ちくま学芸文庫)などを、通勤電車の中で読んでいる。あまり好きな書き手ではなかったのだが、学校で空きゴマができたときに、売店でなんとなしに買って読んでみたらけっこう悪くない。というか、哲学の本なのでむつかしいところは読み飛ばして雰囲気だけ面白く読んでいる。時間、というものを問い直すというのは、経験というものそのものを問い直すことになる。「いまここ」こそが生き生きとした経験の直接的な起点である、その「いま」という極小の瞬間が連続的に流れ去り積み重なって「過去」ができあがっていく、というふうに、私たちは普通に感じているわけで、でもそれは違うのだ、というような話。そこで、例えばデリダだと、「いまここ」で現前するいきいきとした印象が、その根っこのところで現在とのズレ、差延、に支えられて初めてイデア的同一性を保つ、つまり、いま=非いまという根源的なズレが根っこのところにあるのだ、的な、パラドックス的なことを言っているのだが、この本で中島は、そもそも「いま」なんかに注目するからいかんのであって私たちは「現在中心主義」を破壊して「過去中心主義」に立たねばならん、と言っているのである。「過去」の想起ということがまず基本にあって、そこがむしろ起点であって、「いまここ」が成立するのは「過去」との対比によってにすぎない、ということらしい。たぶんね:

・・・一つの「知覚している時」としての〈いま〉を切り出すことは、じつは「想起している時」としての〈いま〉を切り出すことにほかならない。・・・適当に切り出した一つの〈いま〉において、その一つ(あるいは二つあるいはずっと)前の〈いま〉を想起するのである。・・・〈いま〉を「通勤の時」として切り出すと、一つ前の〈いま〉は「家にいた時」である。電車の吊り革にもたれながら「家にいた時」を想起することができる。〈いま〉を「電車に乗っている時」として切り出すと、一つ前の〈いま〉は「駅まで歩いていた時」である。同様に吊り革にもたれながら、「駅まで歩いていた時」を想起できる。〈いま〉を「A駅とB駅との中間の時」として切り出すと、同様に吊り革にもたれながら「A駅停車の時」を思い出すことができる。こうして、〈いま〉の切り出し方に応じて、一つ前の〈いま〉を切り出していくのである。・・・ここに重要なことは、この操作においては、けっして極小の〈いま〉を切り出せないということである。刻々と過ぎ去る車窓の風景を見ながら「いま・いま・いま・・・」と呟きつづけることはできよう。しかし、この呟きによって、〈いま〉を切り出したわけではない。極小の〈いま〉が次々に交代していくわけではない。なぜなら、ここには一つ前の〈いま〉が端的な想起に支えられて登場していないからである。・・・

みたいなくだりを読みながら、電車の中でふと目をあげて、窓の外を見て頭がくらくらしてきたりする。
まぁ、フッサールやベルグソンを批判的に参照しつつカントを手がかりにしながら進んで行く哲学的な議論を、本気で追っかける義理も気力もないのだけれど、いろいろと興味深い読み物ではあるのだ。例えば、「過去と自由」と題された章は、エスノメソドロジーの議論に重なってくるような気もする。少なくともなんかの手がかりにはなりそうだ。
もう一冊、同じ著者で『哲学者とは何か』(ちくま文庫)というのも、『時間論』を半分くらい読んだところで買い、こちらはエッセイ集なので気楽に読みあげた。そもそもこの中島という人の本は、以前、『カントの人間学』(講談社現代新書)というのを読んで、アダルトチルドレン的なカント像に胸を詰まらせながら、嫌な著者だ、と思ったものなのだが、そのカント論のエッセイがこの本の中にも含まれていて、やはりグッと来る。あと、初めて知ったのだがこの人、大森荘蔵の弟子ということらしく、その追悼文(これがまた泣かせる)と、それから師弟の対談が2本、載っている。そのテーマが時間論で、つまり、『時間論』という本は、大森の晩年の思索の中心テーマだった時間論を批判的に中島が展開させた、というようなものらしいのだ。
ところがその大森の時間論というのは、どうも、鋭いんだか頼りないんだかよくわからない。やはり時間のリニアーな流れ・積み重なりというものを否定しているらしいのだが、なんか、現実を夢と同じように捉えて議論を進めているようなものであるらしい。夢は無時間的ですからね。しかし、人生の晩年に差し掛かって、時間の流れを問い直し、現実を夢と同じように捉えるような思索を哲学的に探求するというのは、なんか、いろいろと考えさせられてしまう。なんだか、明晰な頭脳を持つ人が、死の接近を感じつつ、むりやり理詰めで「呆け」の哲学を開示しようとしているようではないですか。不穏だ。
で、中島の『時間論』を、わからないなりに面白く読んでいるというのも、そういう不穏な雰囲気がこの本にも充満しているから、というのもある。