ペトロ岐部 of Historical Sight of Christianity

「キベヘイトロはコロヒ不申候、ツルシ殺され候、是ハ其時分迄ハ不功者にて同宿二人キベと一ツ穴ニツルシ申候故、同宿共勧、キベを殺し申候由、キベ相果候てより後、両人の同宿共コロヒ申候ニ付、ツルシ場より上ケ籠屋江遣シ、久敷在命ニ而罷在候。」(『契利斯督記』)

 1587(天正十五)年、奇しくも大友宗麟死去の年に岐部城主・ロマノ岐部と波多マリアの間に生まれたペトロ岐部は、やがて長崎・有馬セミナリオでラテン語、音楽などを修め同宿となり、禁教令後の1614(慶長十九)年にはマカオに渡ってイエズス会コレジオに学ぶ。しかし日本人への差別によって司祭への道が閉ざされたことにより、陸路ローマへの旅を決意。インドからアラビア、パレスティナを経てローマに至り、初めてエルサレム、そしてローマを訪れた日本人として記憶されることになる。
 1620(元和六)年ローマにて司祭に叙階。その後1630(寛永七)年にはフィリピン・ルパング島より座礁しながらも再び日本へ帰国。迫害下に九州より東北まで移動しながら信徒を励まし続けた。しかし1639(寛永十六)年には仙台藩・水沢領内でポルロ神父、式見神父などとともに捕縛され、江戸小伝馬町牢屋敷にて穴吊刑によって殺害された。殉教に至るまでその信仰を捨てなかったことが記録されており、2008年、江戸時代の他の187名の殉教者とともに福者に列せられた。



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ペトロ岐部の育ったと言われる岐部城跡からは姫島を臨む海が近くに見える。やがて彼はこの海をはるかに越えて、日本のキリシタンたちのために世界を巡る神父となっていった。LinkIconカトリック中央協議会によるペトロ岐部の紹介

IMGP5103.jpg舟越保武氏による司祭服に身を包むペトロ岐部のブロンズ像。その視線はローマの方角を見すえる。

IMGP5098.jpg整備されたペトロ・カスイ岐部神父記念公園。敷地内には記念聖堂が建ち、毎年10月には顕彰のための岐部祭が開催される。
IMGP5130.jpg記念公園の背後は岐部一族の居城であった岐部城跡。城山から城下を見渡すことができる。
IMGP5100.jpgパウロ・ファローニ師による像は、1639年の大目付・井上筑後守政重の尋問の様子を表現している。LinkIcon尋問がされた井上の下屋敷
LinkIcon殉教地である十思公園(製作中)

<引用・参考文献>
五野井隆史(2008)「ペトロ岐部カスイ」教文館
関谷他(2008)「ペトロ岐部と187殉教者」ドン・ボスコ社

所在地
大分県国東市国見町岐部536
交通
JR宇佐駅より大分交通バスにて伊美経由国東方面「国見」下車
(乗り継ぎが非常に悪いためダイヤをよくご確認ください)
備考
ペトロ・カスイ岐部神父記念公園
ペトロ・カスイ岐部記念聖堂(要連絡)

※ 定休日・入場料はHPにてご確認ください。

IMGP5090.jpg国見ふるさと展示館


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